Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-12-25

異郷(あるいは冬の木漏れ陽)


 変わらず気力がない。この重たさが、なぜかルソーの絵により近づけてくれているような気がぼんやりと、頭のどこかとおくのほうでささやいているのがきこえる。彼の絵に感じる重たさがひきつけてくるのだろうか。あるいは穴のような。
 異文化への憧憬ではないエキゾティズムがある。「世界が私とは無縁に」存在すること。それは「いま在る世界を異郷ととらえる感覚である。その意味でのエキゾティズムは、やがてノスタルジーのむしろ背面となる。(…そこでは)私には身のおきどころがない。(…)ノスタルジーは、ここでむしろ、けっして与えられなかったもの、あらかじめ失われているものへの郷愁である」「にもかかわらず、われわれは世界内に内在している」。
 過去が美しく感じられるのは、この異郷、この隔たりが、現在よりも顕著なので、距離に比例してノスタルジーを感じるのだろう。あるいは距離によって側面から、いま在ることを照らしてくれるのだ。そして「芸術がなりたつのは、世界からのこの隔たりのゆえである。芸術は、あたえられた世界をひとつの「異郷」として手わたす。(…)芸術は、その意味でおしなべて「異邦的(エキゾティック)」であり、異郷としての世界をこそあらわにするものである。芸術によって開示された世界のまえで感じられるものは、この世界そのものが異邦であることにほかならない」(「 」内『レヴィナス入門』熊野純彦、ちくま新書) 。過去へのノスタルジーと芸術へのノスタルジーはここで結びつくのだった。憧憬ではない、あらわさとして、世界をさらけだし、さしだしてくるものたち。「それらがあらわしているものは、物質があるということ、世界が存在するということそのものだ」。レヴィナスについては、この後「強いて単純にいえば、世界が私とはなんのかかわりもなく、たんに存在する」ことについて詳細に描かれるが、今回は気力の関係で立ち入ることができない。ただ芸術がさしだす世界は、あるいは過去にたいする思いは、隔たりとのふれあいなのだと、薄日がさすように思ったのだった。
 ルソー《マルヌ河畔の風景》(一八九八年)は、河畔から伸びた道が森の奥深く細く消えてゆく。《散歩(ビュット=ショーモン)》(一九〇八年)も、糸杉のなかに向かう道に、小さな穴がある。《ピエーヴル川の谷間の春》(一九〇四年頃)では前景の巨大な樹々の、木漏れ陽かとみまごうしろい四本の道が、奥へ伸びている。先は小さな人影にさえぎられ、わからない。この奥へ、入り口(あるいは絵からの出口)へ誘うような絵たちにひかれるのだった。三枚とも暗い色調だ。だから《ピエーヴル…》で陽光だと感じたのは、まちがえではないのかもしれない。あの先へつうじること、郷愁はぼんやりと照らし出されなければならないと思った。誘ってくるのは、隔たりへの想いたちが共鳴しているからなのだ。
 ルソーは旅をほとんどしなかった。公園、図鑑、絵本、郊外、身近な人物が、彼の描くほとんどすべてのものだった。旅もまた過去とおなじように、隔たりを如実にしめすものだろう。それは角度をかえてみることで、本来の存在をあきらかに見せつけることなのだ。ルソーは旅をしなかった。彼のくずれた遠近法からは少し奇異な気がしたが、人物を描くとき、彼は「鼻と口と耳と額と全身をはかり」、縮図器を用い、煉瓦職人のように「一センチずつ積み上げるように」正確さをもとめ、入念にしあげたという。彼はすべてを写実的に描いていた。「写実的な表現に対する配慮ともみえるような方法は、じつは、絵によってこの世界を所有しようとするルソーの深い願望から発しているのである」(新潮美術文庫『ルソー』)。彼の、隔たりが近しいものとしてやってくる。
 彼にとって、人物と背景は、あるいは猿と南国の植物は、つまり風景も人も、おそらくすべて同じ比重を持っていた、おなじ隔たりをささやいていた。だから、どうしても遠近法からこぼれてしまうのだろう。遠近法は「人間の肉眼を主体とする点で、それは人間と自然とを対立させ、しかも優位に置く、人間中心主義的な方法」だから。また隔たりが畏怖としておとずれることもあっただろう。植物たちが大きすぎて、人物が小さすぎるのだった(こうした作品たちの一枚に、奇しくも《エグゾティックな風景》という題名のものがある)。隔たりに近づきたいと、想う分だけ、大きくなる、たとえば牛(十一月十五日日記、《牛のいる風景―パリ近郊の眺め、バニュー村》)。彼は旅をしなかったのは、旅をするまでもなく、世界がそこここに異邦として眼前にあったからだろう。穴をとおして所有の瞬間にさわれるのだ、きっと。と、どこかとおくで、ちかくで、冬の木漏れ陽を感じている。

(写真:《ピエーヴル川の谷間の春》)
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2006-12-15

植物生


 冬の日射しはにぶく弱い。そのことが欝を引き起こす一因にもなると、数年前、鬱病の治療で通っていた心療内科で言われたことがある。紫外線の量が関係しているとのこと、冬期鬱病というものもあるらしい。届かない日射しが、届かないそのことで重くのしかかってくる。
 はじめてその話を聞いたとき、日光の光が作用するなんて植物みたいだ(日陰の痩せた向日葵、行き場を失うトケイソウの花)、こんなところでも自然と繋がっているんだと、うれしくもなったが、当時は鬱病の真っ最中だったので、ちょうど、あの遠い太陽のように、ぼんやりとどこかでぼんやりそう思っただけで、うれしさもなえてしまうのだった。冬の太陽を見上げる。サングラスなしでも、なんとかまぶしくなく見つめられる。これが弱いということなのだ。弱さが静かに降り積もる。
 今は鬱病のほうはほとんど治ったのだが、十二月を過ぎた頃になると、冬期鬱病なのだろうか、毎年気落ちが始まるようになった。やる気が起きず、何もかもおっくうになる。人前に出れなくなる、等々。重さがとりまくなか、ああ、去年も一昨年もそうだったと、状態をつうじて、感触がよみがえってくる。まるで春、桜が咲いたのを見ているうち、去年、一昨年、十年前、桜を前にしたすべての想いが、その春にたなびいているのを感じるように、それらがたちあらわれてくるように。この重さが、季節をつげる冬の風物詩になってゆくのだろうか、とにぶい日射しを感じながら思う。たぶん、桜よりも少し前、梅が咲く頃までこの重さはつづくだろう。ホトケノザ、オオイヌノフグリ、サギゴケが出てくるころかもしれない。植物のようだ、とここでも思う。春になるとゆっくりと眠りからさめるのだ、頭をもたげるのだ。明るさが届かない重さをゆっくりとかきわける。フキノトウ、ツクシ、木の芽たち。

 「ポエームTAMA」33号(池田實氏)御礼から。
 「砂の円錐の美学」。「この砂山は意思のある生物ではない/自然の予定調和を意思と見られる無機物である」のに、生きているように見えることから、詩の場がみちびくようにはじまる。「限りなく自己コピーを重ね情報が増殖していく」ことで、遺伝子や情報化社会をもはらみ、砂の円錐が、まるでヴィジョンとなって、一粒一粒を投影しているように、詩の行から現前してくるのだった。「砂を落とす指先は創造への案内人である」、こうした接点としての場所に詩が存在することが、痛みでもある。「円錐は危うく存在し続けなければならない」。
 この詩を読む寸前まで、梅崎春生『風宴』を読んでいた。「生命は蛋白質だから、生命は蛋白質の配列によって決まるのだから」と主人公の友人が言う。それは隣室で若い女性が臨終する場面で、ぽつんとささやかれる。だから悲しむ必要はない、と。物語では、友人はその女性が好きだったのではないか…と続くが、この文章が、ちょうど「砂の円錐の美学」と重なり、共鳴のように響き合ってくるのだった。「生命は蛋白質の配列によって決まるのだから」…、「…無機物である」「生物の生殖のように」「限りなく自己コピーを重ね情報が増殖していく」…(「砂の円錐の美学」)。隣室からすすり泣きが聞こえてくる。「そして荒涼たる夜気をはらんで、風が号泣の間を縫った」(『風宴』)。この風とともにまた砂が聞こえてくるのだった。無機物の配列、有機物の砂山。あるいは植物のような生たちが共鳴して。

月刊個人詩誌「詩と批評 ポエームTAMA」HPアドレス
http://www.hinocatv.ne.jp/~planet/

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2006-12-05

空中楼閣


▲マグリット《誘惑者》(1953年)
 マグリットの絵は、間隙をとおってやってくるのだろうか。彼の絵を語るのはとても難しい。それは直感を語る難しさに似ている。彼の絵にひかれていることは、絵を前にして即座にわかる。だが、それがどうしてなのか語ることが難しいのだ。「わたしにはそれをはっきりと説明することができない。(そもそもわたしは何を感じるにしても、信じられないほどの後知恵しか持ち合わせがない。(…)数時間後にやってくる感動もあれば、一年後、二年後、(…)三十年後になってやってくる感動もある。オデュッセウスが(中略…トロイア戦争に赴く前)膝に受けた傷が今頃うずきはじめるくらいだから。)」(パスカル・キニャール『音楽への憎しみ』青土社)。
 目に見えるものは、見えたことによって隠すという。「マグリットの目的は常に、目に見えるものの裏側に隠されたものを明示することだった」「目に見えるものは、覆い隠し、はぎ取り、内部にあるものを保護し、同時に隠されたものを見てみたいという欲望を引き起こす。さらに目に見えるものは、肉体を切り刻む。なぜなら、むき出しの部分と隠された部分を分離させるからだ」(『ルネ・マグリット』マルセル・パケ、TASCHEN社)。たとえば《永遠の明証性》(一九三〇年)という五枚一組の絵がある。それぞれ女性の顔、胸、下腹部、膝、足が描かれているが、大きさもまちまちで連続した一枚、身体にはならない。あるいはこの間隙に、マグリットはいるのだった。《危険な関係》(一九二六年)は、裸の女性が鏡を胸に抱えている。その鏡に映るのは、女性自身の背中である(鏡には、鏡を見るもの、たとえば私たちが映っていなければいけないのだが)。この鏡と女性の間隙で。「鏡の外の肉体と鏡の中の肉体にずれが生じたのは、その裏に、絵画そのものに由来するもう一つのずれが存在するからだ。目に見える現象と想像したイメージのあいだに横たわる間隙を埋めるものが絵であることをマグリットは示している」(前掲書)。
 この間隙、このずれは、イメージと実在によこたわる距離でもあるのだ。ということに気付いたとき、ようやく言葉との類似性にわたしは気づくのだった。つまり、シニフィアンとシニフィエ。たとえば馬という言葉(シニフィアン)と実際の馬(シニフィエ)のあいだの距離。《イメージの裏切り》(一九二八―二九年)にはパイプと「これはパイプではない」と文字が書かれている。このパイプを使うことはできないから。絵と言葉に共通した関係(距離をもつ関係)が、ここでもわたしにささやいてくるのだった。「絵画とは本質的に(…)現実から切り離された状態にある」ものだ。この距離には無力さもある。だが「モデルとそれを描いた絵のあいだに横たわる距離を、目に見えるものとして提示する力でもある」。これはますます言葉の話ではなかったか。そう、そんなわたしを後押しするように、あの小さな本には、こう書かれてあった。「言葉と事物のあいだには、イメージとその対象物のあいだと同じように、定義できない秘密の間隙がある」「ここでも、言葉は事物に対して無能であるともいえるのだが、言葉には「事実とは正反対のことを示す能力がある」「「私は月の上にいる」という嘘八百も、言葉は平然と言ってのける。詩を喚起させるこのような言語の力にマグリットは早くから注目し」…。そして「マグリットは、言葉と事物のあいだの間隙と、イメージとその対象物のあいだの間隙」の共通性に気づいただけではなかったのだった。今度は言葉とイメージ(絵)の間の間隙をも捉え、入れ子細工の間隙を、空中楼閣をそこに作り出したのだった。「つまり言葉とイメージのあいだに隔たりを作り出す」…。たとえば、《夢の鍵》(一九三〇年)には、六つの仕切りの中に卵、靴、帽子、蝋燭、コップ、金槌が描かれているが、それを示す文字として卵にはアカシア、靴は月、以下それぞれ、雪、天井、雷雨、砂漠と書かれてある。このことから、《イメージの裏切り》で、パイプをパイプではない、と書いてあったのも、二重の意味でそうであったことに気づくのだった。言葉は事物に対してだけでなく、絵に対しても、パイプと言えなかったのだ。だが、その距離が、自在な、神秘な謎に通じる穴、入り口、だが自由な家への扉なのだ。空中楼閣、というイメージがそこに建ちはじめる。また“赤いモデル”“世界大戦”(女性の顔が花束で隠されている)“永遠の明証性”“夢の鍵”、こうした題名と絵の関係にも間隙があるだろう。マグリットは「絵の題名は説明ではなく、絵は題名の図解ではない。題名と絵の関係は詩的である。つまり、この関係によって、二つの相反するものに共通する側面が表現されなければならない。だがそのような側面はたいてい意識に上ることがない。それでも理性によってまだ解明されていない特別な出来事が起こった場合、この関係は予感されえる」と言っている。詩的な関係とは、間隙に立った、空中楼閣の謎なのだ。「彼は内側の言葉と、外側の事物とに向かって口をあけた間隙を利用して、一つの神秘を作り出した。それは人を覚醒させる明晰な夢であり、触れることのできない不可思議な異動で」あったのだから。だがその楼閣には、居続けることが、住みつづけることができないからか、郷愁めいた美しさ、痛みをだが、わたしたちはどこかで感じてしまうのかもしれなかった。《人間の条件》(一九三五年)では、キャンバスに描かれた空と海と砂が、現実の空と海と砂と境界をほとんど感じさせることなく(キャンバスの端が空と海の境目のように、見えているが)、流通しあっている。写実と現実の混合、とキャプションにはある。この絵を、わたしはたんに美しい、懐かしいとだけ感じたのだった。あのオデュッセウスの古傷のように? だが、ともあれこの混合こそが、楼閣のなかでの眠り、空隙で心底望まれた「明晰な夢」であったのだ。
 彼の絵について口にするのが難しい、と思ったのは、おそらくこの間隙にまつわるいくぶん悲しい謎にもよったのかもしれない。
「言葉と実在の狭間に位置する涙は汲み尽くすことができない。それはガンジス川だ。」(パスカル・キニャール『舌の先まで出かかった名前』青土社)

▲マグリット《人間の条件》
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