Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2007-04-25

距離のある再会



 「渋澤龍彦―幻想美術館」展に行く(四月七日―五月二十日、埼玉県立近代美術館)。渋澤龍彦本人は、わたしにとって微妙な作家だ。最初は、はまって読み漁った。熱がさめて、一冊を除きほとんどすべてを売ってしまった。たとえは気に入らないが、それは恋人と別れたようなものだった。そうではないかもしれない。どこか彼と似たところがあって、認めたくないのかもしれない。それは私の影の部分だ。図星を前にしたような気詰まりがある。だから、ずっと無視してきた。だが今回、何故いったかというと、その出品作家たちにひかれたから。桐田真輔さんが言っていたが(というより、気づかされたが)、美そして文学の紹介者としての彼の功績は大きい。それは否定しようのない事実だ。あるいは彼の交流。展覧会は、サド侯爵(自筆手紙)、ブリューゲル、アルチンボルド、モロー、ルドン、マグリット、エルンスト、伊藤若冲、河鍋暁斎、瀧口修造、横尾忠則など、八〇名以上、二五〇点以上の出品、資料五〇点と充実した内容となっている。ともかく作品たちと、出会いがあるかと思ったのだった。
 出会いはあった。だが、ここで出会っていいのだろうか、のような居心地の悪さが始終、ついて回った。このたとえも気に入らないけれど、昔の男の前で、他の男と親しげに接しているような。たとえばルドンの《ペガサスにのるミューズ》(一九〇七年、写真上)の、にじんだ背景のあざやかさが、内外を現出させていた。それは、隣りにあった《XII オアンネス:私は混沌のなかで最初の意識として物質を固まらせた形をきめるために深淵から現れた(「聖アントワーヌの誘惑 第3集」より)》(一九八六年)の黒一色のリトグラフ作品と同じ色彩だった。つまり、黒が赤、黄、青をまぜた色であることを、この空とぶ馬は花開くように教えてくれたのだった。そしてその境界は、リトグラフのように混沌にひらいている、あるいは扉として、ルドンの描く花にも開いている。このペガサスたちの行く背景は、ルドンの他の花たちに何と似ているのだろう…。アルチンボルトの《ウェイター》(一五七四年、写真下)のマニエリスム。壷たちでできた顔、樽の胴体、蛇口の手。これは若冲の《付喪神図》にどこか通じる、物たちの生だ。生きていないものたちの生きざまだ(この若冲にも、自分でもおどろくほど、ひかれた)。小津安二郎は、「お早う」のなかで、挨拶は大事な無駄だといっている。それは人との接点だから。これらは遊びのはなつ大事な接点だ。ここから見出されるものたちが、つながりがある。あるいは混合物のはなつ生。エルンストの《博物誌》シリーズ(一九二六年)のフロッタージュによる作品群、瀧口修造の《デカルコマニー》(一九六四年)。フロッタージュは葉や岩をなぞったもの、デカルコマニーは絵の具を塗り、はがすことで生まれる形。これらもまた混合物だ。葉そのものが、エルンストの作品と混合している。たとえば葉の模様でできた鳥たち。瀧口修造の《デカルコマニー》は、偶然との混合だ。そしてまたマグリット。《大鳥たちは宝島の鳥で…(『魅せられた領域より』)》(一九六八年)。二枚一組といった絵で、左側にエルンストの鳥と通じて、フロッタージュではないが葉の胴体を持つ鳥の住む島、その島の輪郭が右の絵に辛うじて侵食しているが、右は《光の帝国》のような、空が真昼で、家と家の周りが夜の一枚。それは植物と鳥の、昼と夜の、混合というよりすべての一致の瞬間だった。左の鳥の島と、右の光の帝国すら、騙し絵のような島の侵入により、繋がっているのだった。それは昼と夜と鳥と島と葉の生のざわめきすべてだった…。
 そうして、マグリットの絵の前で、特にここにいることの気まずさを感じた。それほどに恋しさに似た感触、衝撃が交じっていたのだ。それを澁澤龍彦の展覧会で感じることに疎外感のようなものがあった。この展覧会とは関係がなかった。わたしとマグリットだけの共振だったのだ。どこかでひっかかりながら、最後の部屋、第VII室 高丘親王の航海に入る。『高丘親王航海記』は遺作となった小説。咽に珠を飲んでしまった親王と、作者の喉頭癌が、混合し、結晶化している、壮絶な美しさをはなつ作品だ。これはわたしが売らなかったたった一冊の本でもある。この本だけは、大事にとってあるのだった…。
 本の原稿、晩年の写真、そして澁澤へのオマージュ作品たち。奈良橋一高の《スターレクイエム―シブサワ》(一九九三/九五年)シリーズ。流星のなか、メガネがある。別の一枚には羽ペンがある(サド侯爵のそれだろう)。このメガネは、澁澤のしていたメガネのカタチだ。そう思ったら、途端に悲しくなった。悲しいのとも違うかもしれない。ここで澁澤展に違和を感じなくなった。はじめて疎外感がうすれた。入ってゆけたと思った。澁澤の部屋にあった頭蓋骨(レプリカだが)があった。これは以前から知っていた。中西夏之の《コンパクト・オブジェ》(一九六八年)があった。これは卵のかたちをした琥珀のような樹脂のなか、オブジェたちが羊水のなかのように、あるいは生死に触れているような作品だが、これも彼の部屋にあったのを写真で観たことがある。そして、アンモナイト、貝殻、わたしも渋澤を真似てかつて部屋に、頭蓋骨までも飾っていたものだった。なぜこの展覧会に、違和を感じなくなったのか。たぶん彼に対してか、彼と共通のなにかをもちつつ、作品たちに接することができたのだろう。マグリット、エルンストの作品へのそれは、わたしと彼らとしかほとんどいなかったが、ようやく、最後の部屋で、作品をとおして、渋澤と共振することができたのだ。死を悼む気持ち、そして懐かしさに包まれた。それはかつて読み漁ったわたしをとおして、みつめることのできた澁澤だった。四谷シモンの《天使―澁澤龍彦に捧ぐ》(一九八八年)。これは四谷シモンの人形に固有のエロティシズムがほとんど感じられなかった。昇華されたうつくしい歌だった。ほんとうにほんとうに捧げているのだと思った。
 会場を出て、ミュージアム・ショップに行く。和解できたと思ったにもかかわらず、カタログをめくったが、どうしても触手が動かなかった。作品たちが、ではない。その背後にある、渋澤の影、渋澤のことばたち、に、違和をおぼえてしまうからだった。だが、展覧会の一室で見かけた、澁澤のこんな言葉にひかれている。「ノスタルジアこそあらゆる芸術の源泉なのである。もしかしたら、あらゆる芸術が過去を向いているのである」。けれどもひかれつつ、反発を。なぜ芸術が過去を向いているのか、ここには断言があるだけで、説明がない…。やはりわたしには微妙な距離と温度をもった、別れた男、なのだろうか。

●埼玉県立近代美術館
 http://www.momas.jp/
 (写真もここから転載しました)
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2007-04-15

枝橋─桜2


 「桜さくらサクラ・2007―花ひらく春―」に出かけた(三月十日〜四月十五日、山種美術館)。去年も行った。美術館の周りは千鳥が淵など、桜の名所になっている。去年は葉桜の頃だった。今年は満開の時に出かけた。去年から、満開に来ようと思っていた。性懲りもなく(というのは、前回書いたように、過去のわたしはもはや離れているから)そう思った去年のわたしと今年のわたしと、願望と実現と、想像と現実と、再会と再会と、外と内と、マグリットのいう絵と現実との距離のなかに、狭間に、桜をちりばめたかったのかもしれない。散りばめることで、埋めたかった、浸りたかった、触れたかった、距離を縮めたかった。絵と現実のあいだの距離に、謎がつまっていることで、やじろべえのようにつながっている、マグリットたち。
 願望、想像と実現、実際の間には、良くも悪くも落差があった。あるいは落差があるからこそ、偶然があるからこそ、距離を縮めたいのだろう。距離がなければ謎もない。悪いほうは、満開の時期、外の桜は見るどころではなくなる、という点。満開の人の群れ。警官の誘導の元、堀に沿って、五列になって、立ち止まらずに桜を見る。わたしは堀に近い側の列ではなかったので、水すら見えない。葉桜の時は、人気がほとんどなく、水に映った桜、落ちた花びら、まだ木によっては花が残っている桜、さくらたちに囲まれ、菜の花の鮮やかな黄色も手伝い、境界に、謎のなかにいたのだったが。良いほうは、展覧会が桜にまつわる収蔵品を出すということで、たぶん毎年殆ど同じなのだろうと思っていたし、同じような感想を抱くかもしれないと思っていた、そのぼんやりと抱いていた予想が、外れたこと。こちらの落差は、偶然のように思いがけない。そして偶然こそが、じつは謎の兄弟であり、つなぐものなのだ。
 去年は、満開の桜たちや、夜の桜たち、奥村土牛の霧のようなにじんだ桜、おおむね花びら、桜の色たちに惹かれた記憶がある。だが今年は特に枝に惹かれた。横山大観の枝、速水御舟の枝。横山大観《山桜》(一九三四年)は斜めに傾いだ二本の桜だ。色遣いが全体に地味だ。花も一歩さがっているように、目立たずに開花している。これらはすべて、枝を際立たせたかったのではと思われるほどだった。そうして、枝の静かな生の、鼓動が聞こえてくるように感じられた。枝の生は水鳥の水面下の泳ぎのように、見えにくい生だ。四季のなかで、それは眼につく変化が見られない。だが静かにたぎる生を、わたしに教えてくれたのだった。
 枝をあたまに置きながら、速水御舟の絵の前に来る。《夜桜》(一九二八年、写真)と、《道成寺入相桜》(一九二九年)の写生のシリーズ。これらは一枝、二枝の桜たちだ。《夜桜》は大観の《山桜》のようにおさえた色彩だが、夜とは思えない。だが、そして枝。右端に幹がヘビのようにうねっている。なめらかで、濃淡だけで枝が描かれているので、ごつごつとした感触はない。そして花の端にある。だが、それでも息づいているのがたしかに伝わってくるようなのだ。その呼吸が細い枝を伝わり、葉たちに、花たちにつながっているのがわかる。このつながっている感触が夜にぼうっと灯っているのか。だから夜桜なのか、と、どこかで思う。そして冬の枝を、幹を、絵たちから教えてもらったのだった。公園の桜の木、たちの冬の枝の情景が、まざまざとわたしにあらわれてきた。かれらの生が。
 速水御舟は、去年は《春の宵》(一九三四年)のほうに惹かれた。今回も展示されているが、こちらは、幽玄な、なにか夜に溶け入りそうな(だが決して溶けない、そのすれすれで止まっている)かそけき、か細い一本の夜桜から、花びらが散っている。三日月の細さすらかぼそい、異界に通じるような一枚だと、そんなことをたぶん去年は思った。だが、もういちど、枝たちにうながされてみてみる。その柳のようにかぼそい幹から花びらにむかって、つたえている生、それこそが、幽玄なのではなかったか。夜のなかで息づくことが。枝たちがやはりしずかに、とてもしずかにだったが、ささやいてくれたのだった。ささやきが、桜をまた照射してくれて、明るくしてくれたのだった。去年のわたし、いまのわたし、このへだたりに灯った謎。このはざまは縮まらない。距離のなかで、溝のなかへ、花びらが散っている。
 外に出て、咲いている満開の桜たちにまた会った。花はもとより、枝たちが生々しかった。絵と実際のそれとの間に、距離のなかで、それでもわたされた感触だった。生だった。
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2007-04-05

とおまわり─桜


 また桜たちがやってきた。今年は、ぼんやりと、どこか遠いところで心をしずかにさわがせて、開花を待っていたような気がする。三月十八日、テレビで東京の開花宣言の基準木が一輪咲いたといっている。今年は焦がれるほどに待ち遠しくない。五、六輪咲かないと、開花宣言は出ないとも続けていっている。あるいはまだ咲くことが信じられないのか。家は区内だが、都心よりも数日、開花が遅れる。それだけ周りに熱を発する建物が少ないのだ。家の近くの小さな公園に二本の桜の木がある。まだ蕾だ。これは家の基準木だ。三月二十日、東京で開花宣言がだされる。まだ公園の桜は蕾だ。だから桜は遠いし、咲くことが実感としてうかんでこない。あたまがぼんやりとしている。二十二日、勤め先近くの新宿の基準木をみる(去年の日記に書いた。元酒屋さんの庭、今は駐車場となっているところに生えている大木だ)。五、六輪確かに咲いている。だがまだ実感がない。わたしはなにを望んでいるのだろう。二十三日、両方の基準木を見る。遠いところで、よばわる感触があった。あるいはすこしだが近づいてきたのだろうか。いや、わたしは桜に近づきたかったのだ。二箇所の基準木のどちらもわずかだが平常から遠回りしてみにゆく。みあげる。遠回りすることはだからすこしの儀式となる。あたまがじんじんとしている。まだ他人事のようだ。去年おそらく感じたようには、桜たちはやってきてくれない。そんな思いがしずかにふきだまっている。あるいは、そんな思いが、桜とわたしとのあいだを霧のようにさえぎっている。毎日、朝晩、遠回りをする。二四日の土曜日は、新宿の基準木近くの公園に赴いた。まだ寒い。コヒガンザクラが満開だった。ソメイヨシノは、せいぜい二分咲き、日向では三分咲き位だったろうか。寒さのなか、桜との距離をぼんやりとみつめていた。二六日月曜から、また朝晩ふたつの基準木にあいにゆく。遠回りして。ぼんやりと、憑かれたように? その意識はなかった。だが好かれたいと思っていたような気がする。二七日、ようやく、家の近くのほうの基準木が、三分咲き位になる。見上げる。遠い。空よりはだが近い。新宿は六分咲き位。桜をみると、そこに過去の桜がいつも近しくやってきてくれる、と感じていたものだった。過去の、その桜をみた私をひきつれて。だが、今年は、その過去が遠い。そこにわたしはほとんどいない。それがぼんやりとして、遠さとして、桜を隔てているのだろうか。わたしは去年からも遠い。憑かれたように? 新宿の桜はほぼ満開だ。あの、毎年の風をはらんで、花びらたちがみつめてくれているようにも、感じるようになってはいる。水が少しずつ布をひたすように。だが布のどこかが、今年はやけにかわいている。そのかわきが、距離なのだ。好かれたいと思っていた。遠回りして近づくこと。三一日、四月一日、休みに東京の桜たちにあいにゆく。どこもほぼ満開だ。過去はもはやいない。河に映っている桜もみた。いないことがかわきをくるむようだった。つまり、過去のなさに気づくことが、そのままの、その桜をうけいれることのように。河に映った桜に、花びらが散っている。かわきが過去たちから離れ、みつめている。そこで見つめたものは、もしかすると、過去を食べたわたしの姿だったかもしれない。だから過去はいないのだ。養分の澱となって、わたしに沈んでいる。河の桜。憑かれたように花をみる。ぼんやりと、桜の色に、そのうっすらとほのかに明るい灯火のいろに、ぼんやりとした霧がまじりあってゆく。時間たちが一瞬。それが近づいたということなのか。二日、三日の雨でだいぶ花が散った。四日朝、地面にしきつめられたような花びらを踏む。やわらかくなった土の音がひびいている。しずかにさわいだどこかつぼのような場所で。わたしは桜にとうに再会していたのだった。遠回りして。

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