Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2007-08-25

太陽がいっぱい


 今年の夏は暑い。そう感じるのは、去年の暑さを忘れてしまっていることもあるだろうか。あるいはもっと以前の暑さを前にした、自分の状態を。少し歩いただけで汗がふきだしてくる。こめかみが痛み、息が不規則になる。体のどこかが不均衡になるようで、そこから早くもとに戻りたいと思う、均衡をつかみたいと思う。だが、汗になってそれが流れ落ちてしまうようだ。ようやくエアコンのきいた部屋に入る。しばらくのあいだ、そこにすら慣れることができない。暑さとの違和をどこかで感じながら、とまらない汗にとまどっている。
 夏が苦手だ、と言ってしまっていいのだろうか。少なくとも、今はそういわざるを得ないのだろうか。ここに後ろめたいような逡巡を感じてしまうのは、以前は夏が好きだったからだ。
 というより太陽が好きだった。とりわけ夏は太陽をよく感じられる。じりじりとした陽射し。それは太陽が近づいているからなのだ、とうれしかった。音をたてて焼けるような暑さを感じる肌は、太陽と可能な限り触れているのだと思っていた。そうしてとめどなく吹き出す汗は、陽光のエキスのように感じられたのだった。わたしはどんなに暑くても平気だった。
 日に焼けることも好きだった。太陽が身体に徴を残してくれたのだと、思うのだった。そうして砂浜で、仰向けに日に焼かれている。「太陽に磔になっている」とつぶやき、心をざわめかせていたのだった。
 そうして、太陽というと、すぐさま、カミュを思い出す。
「太陽がいっぱいの今朝――街は暑く、女たちがあふれている。街角という街角では花を売っている。そして微笑む娘たちの顔」。
「太陽が輝くある日の午前、それに裸体。シャワーを浴びる、ついで熱気と光」。
「《(中略)太陽はいつもと同じ時刻に沈んでしまった。そのことから俺は、物事の秩序を変えたって無関係だという結論に達したのだ。》/ だが、なぜ、太陽がいつかは西から昇らぬといえるだろう?」(『太陽の讃歌 カミュの手帖―1』カミュ、新潮文庫)
 この手帖には、詩のような断片的なことばたち、メモなどに、太陽がちりばめられているのだった。あるいは夏、乾いた風と、ねっとりとする植物と。「風、世界の稀にきれいなものの一つだ」。
 そうしてやはり『異邦人』も思い出す。太陽により、殺人をおかしたムルソーを。
「太陽の光はほとんど垂直に砂のうえに降りそそぎ、海面でのきらめきは堪えられぬほどだった。(中略)私は何一つ考えられなかった。帽子なしの頭に直射する太陽のおかげで、私は半分眠ったような状態だったから」。
「空から降って来るきらめくような光の雨にうたれて、ここにじっとしていても、やっぱり堪えられぬほどの暑さだった。ここに残っていても、出掛けて行っても、結局同じことだったが、しばらくして、私は浜へと向き直り、歩き出した」。
「私は汗と太陽とをふり払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った」(『異邦人』新潮文庫)。
 太陽と死の接吻をしたのだ、と思った。私は太陽とともにカミュが好きだった。太陽を先に好きになったと思う。おそらく、あらすじを裏表紙で見て(人を殺害し、動機について「太陽のせい」と…)、興味をもったのが最初だったかもしれない。だが、もはやわたしのなかで、太陽とカミュは密接に接しているから、実際はどうだったのかわからない。丁度、ムルソー村のワインを飲んだり、見たりすると、『異邦人』の主人公の同じ名前ムルソーからくるのだが、カミュを思い出すように(そしてその白ワインは、太陽の陽射しのような、うっすらとした黄金色なのだ)。
 だがこの記憶はカミュを読む前だ。夏の木漏れ日が、海のなかにいるように、ちらめく。肌をまだらに、反映させる。葉が、風にそよぐ、波紋のように肌の上で、足元で、ちらちらとざわめく。これは太陽の海なのだ、いま、わたしは太陽のなかで、泳いでいるのだ。そう歌うようにつぶやき、踊るように歩いていた。
 そして、ばかげた行為だが、夜中、アスファルトの上で、寝転んだことがある。昼の熱を温存しているかのように、道路は温かい。背中にそれを感じている。わたしは、そこにも太陽の存在を思った。ここ、このアスファルトも、太陽から熱をうけとったのだ、うけとったものを、わたしもまたうけとってぬくもりを感じているのだ、いや、そうではない、わたしがここにいなくても、気づかなくても、太陽をアスファルトはうけとっている、太陽からの熱をうけとり、こうして温存している、そのことがうれしかったのだ。それはなにか無償の行為のように思えたのだった。わたしが寝転ばなければ、だれもこの温かさをしらなかっただろう、それはかぎりなく優しい行為だった…。
 今、わたしは夏が苦手といってしまっていいのだろうか。こめかみが痛い。ねばつく汗が、らせんをえがくようで、めまいがする。だが、もうすぐ夏がおわる。毎年、この時期になると、それをさびしく思ったものだった。今もなお。秋の虫の声が夜にするようになった。日が落ちるのが夏至にくらべ大分早くなった。そのことに、遠ざかる太陽を感じるのだった。今もなお。明日もまだ暑いだろうか。

▲写真:ルネ・マグリット《美しい世界》1962年
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2007-08-15

香りの記憶


 「ルドンの黒」展に、ボードレールの『悪の華』の挿絵群があった。そのうちの一枚、《『悪の華』II.思い出顔の古びた香水壜が時として見つかるものだ、昔の人の心が生き生きとそこに甦って》(一八九〇年)。詩篇四八「香水壜」から。台座のあるガラスのなかに、座った女性がいる。煙のように彼女をとりまいているのが、香りなのだと感じられる。まず、絵から、せきこみたくなるような、むせるものをはなっているのだ。そうしてボードレールの詩を思い出した。あるいは、香りのようなもののなかで、ルドンとボードレールがたゆたっていた。それは総じていえば古びた華の濃密な香りの残り香、といったものだ。ボードレールのそれは、死臭と表裏一体の生々しい華の香りだろう。古い恋の、不吉な疫病神の、毒のある…。「僕はお前のお棺になるぞ!/(中略)/僕を焼き焦す液体よ、わが心の生にしてまた死なる者よ!」(堀口大学訳)。だからルドンの絵の瓶の中の女性の姿がしっくりとくるのだと思った。黒い版画が、暗い淵(「毒気立ち迷う暗い淵」)からの匂いをただよわせていると思った。そうしてその絵から放たれた匂いのようなもの、香りは、わたしをまた違う場所に静かに連れてゆくのだった。
 匂いと記憶。鼻から入った匂いは、嗅細胞で香りを電気信号に変換。嗅神経を通って、脳の大脳辺縁系に。この大脳辺縁系には、海馬や偏桃核といった記憶や感情をつかさどる部分があるので、匂いを嗅ぐことで昔のことを思い出したり、気分がよくなったりするのだそうだ。
 ギリシャ神話では、黄泉の国の王ハデスの妻のベルセポネが、地下で生活するにあたり、地上の生活を思い出すよすがにするために、連れてきた妖精を、香りを放つ草、ミンテ(ミント、はっか)に変えてしまう。
 わたしはこの話が好きだった。香りは記憶を浮かび上がらせるのだ。だが、これは私に個人的な香りのエピソードがあるからではなく、もっと抽象的なそれによるのだろう。あるいは、私自身に、そうした体験がほとんどないからこそ、魔法のような親しさと遠さを感じるからかもしれない。すぐそこに香りはある。わたしはそれを活用することはできないけれど、その効用はたしかで、記憶のリアリティは、すぐそこに、手をのばせば届くところにある、という期待感があるのだ。これは、プルースト的だ、と思わずにいられない。そして、この香りと記憶の関係を、「プルースト効果」「プルースト現象」ということがあると知って、さらに驚いたのだった。匂いはどこまでゆくのだろう。『失われた時を求めて』の、マドレーヌを紅茶で浸した味が、記憶の回路をひもといた、そのことからくるのだそうだが(味であって、厳密には匂いではないし、この記憶から永遠の瞬間と時間について、考察はつづくのだが)、プルーストに、こんなところでまた会うとは思わなかったのだ。匂いはどこまでゆくのだろうか。
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2007-08-05

キマイラ(ルドンの黒)


▲オディロン・ルドン《眼をとじて》

 「ルドンの黒」展にゆく(二〇〇七年七月二八日―八月二六日、Bunkamura ザ・ミュージアム)。岐阜県美術館所蔵作品で構成されているオディロン・ルドン(一八四〇―一九一六年)の展覧会。
 「ルドンの黒」の黒というのは、版画展だからだ。黒い、茎から花ではなく顔が咲く、気球が毛まみれの眼球になっている、人面魚あるいは女性の顔をつけたゾウリムシ、リンゴのように皿に乗る顔…。類人猿が雲を見つめているのもあった。黒は豊かな色彩だと、ルドンがいった言葉が、会場内に掲げられている。そう、凝縮なのだと思った。色の三原色。青、赤、黄色をまぜると黒になる。黒はすべての色なのだ。そして、白黒映画のように、その黒には、観るわたしたちがそれぞれ色をそそぎこむことができる。青い羽を、赤い足、茶色い毛をつけてもいいのだ。緑の水中を、物語が泳いでゆく。ゴヤ、ポー、ヴェレーラン、フロベール、ボードレールらとともに(これらのリトグラフ集、版画集、挿絵なども作っている)。
 《眼をとじて》(一八九〇年)。これは、油彩画のほうを以前観たことがあるが、黒い時代の後期の作品。彼はこの頃から、色彩に移ってゆく。彼が入手したゲランの書簡集のことばがキャプションにある。「魂の内なる眼である。我々の眼がとじられたとき、我々は自然と魂の接触を確立できるのだ」。そうして、とじた眼がひらく世界が、このルドンの黒だというのは、たしかにそうだと思った。まぶたをとじて、まなうらにうつる世界、闇をスクリーンにして。だが、このとじたまぶたから、色彩がひらかれてゆく、色彩の時代がはじまる、というのもまたうなずけた。とじた世界はゆたかだから。過剰な接触。
 彼の絵の特徴の一つに、合体をイメージした、ということがあげられる。先にあげた類人猿(《永遠を前にした男》)は、ダーヴィンの進化論が挿入されているらしいし、気球と目玉(《石版画集『エドガー・ポーに』I眼は奇妙な気球のように無限に向かう》)、植物と人間(《石版画集『ゴヤ頌』II 沼の花、悲しげな人間の顔》)、顕微鏡の世界との融合(《石版画集『聖アントワーヌの誘惑』第一集Vすると魚の体に人間の頭をつけた奇妙な生き物が現れる》)、科学と芸術の混成動物、ポーやゴヤらへのオマージュを通じての彼らとのふれあい、つまり、その絵は、キマイラ、スフィンクスなのだ(彼の作品には、このキマイラ、スフィンクスを描いたものも多々ある。これは、世紀末に多く描かれたモティーフらしいが)。
 《青い花瓶の花々》(一九〇四年)は、パステル画。青い花瓶から、様々な花がこぼれるように咲いている。花瓶を乗せた台がない。背景が夕暮れのように蒼、碧、薄桃色で描かれ、花瓶が宙に浮いているようにも見える。私は実は、ルドンの後期、パステルや油彩が好きなのだ。その花は、具象で描かれているが、幻想に満ちている(ユイスマンスは、ルドンの絵のことを、「幻想的現実」といったそうだ)。いわば、現実と夢想、現実と非現実のキマイラなのだ。


▲《青い花瓶の花々》

(ルドンの黒
http://www.bunkamura.co.jp/shokai/museum/lineup/07_redon/index.html)
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