Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2007-12-25

バレエ・リュス、昼と夜のはざまで


 映画『バレエ・リュス 踊る喜び、生きる喜び』を観た(渋谷・シネマライズ)。「バレエ・リュス」とは、「ロシアバレエ団」の意味。ロシア人、ディアギレフがパリで一九〇九年に作ったバレエ団。映画は一九二九年、ディアギレフが亡くなってから二〇〇〇年の団員たちの同窓会までの「バレエ・リュス」の軌跡を追ったドキュメンタリー(バレエ団は一九六二年に解散)。
 バレエについては、門外漢なので、あまりこれといった感想がいえないのだが、映像、とくに演目を踊るシーンはまばゆく、新奇かつ懐かしく、心ひかれた。
 映画は、バレエ・リュスが二つに別れ、パリからアメリカに拠点を移し、戦争を経て、南米やオーストラリアへ興行に出かけ、振付師が何代か変わり…、とその歴史を追って行く。時代を下るなかで、戦争や、興行主との関係で、演じる舞台が、パリ、ヨーロッパ各国、アメリカ、中南米、オーストラリアと、広がってゆくこと、それと付随して、「ロシア・バレエ団」といいながら、設立当初からロシアで踊ったことがない人々(デイアギレフは亡命してきた)で始まり、次にパリにいたロシア系のバレリーナ、アメリカ人、英国人と、時代とともに団員が混合してゆくことが興味深かった。
 だが、踊りのシーンでは、たとえば「金鶏」は、ミハイル・フォーキン振付で、リャブシンスカが踊っていると、クレジットが出るが、原作はプーシキンで、舞台美術は誰で、といった演目の説明は一切ない。ただでさえ数十秒のシーンなので、こちらに伝わる情報量が少ないのが物足りなく、それが残念といえば残念だった。なかには、今では踊られることのない演目もあったらしい。この説明ももっと欲しかった。一時間五八分で、一九二九年〜二〇〇〇年までの軌跡を辿るのだから、そこまで詰め込むことは難しいのだろうが。また、バレエ・リュスには、舞台美術・衣装にピカソ、マティス、ミロ、ダリなどが、音楽にラヴェル、ストランヴィスキー、ドビュッシー他そうそうたるメンバーが関わっていたことも有名であるが、その結びつきも、クレジットが入らないことがあったりで、わかりにくいのも残念だった。貴重な舞台映像の説明よりも、舞台裏の出来事の説明に重点を置いていたといえるかもしれない。だが、ストランヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、曲が好きだったので、人形の踊りのシーンを初めてみれたことなどは、それでもうれしかった。天才ニジンスキー(ディアギレフ時代、一九〇九年に解雇された)の踊っている映像は現存しないそうだが、彼の振り付けの「牧神の午後」(このドビュッシーの曲も好きなのだが)を、ゾリッチが踊っているものを観れたのもうれしかった。またダリが「バッカナール」で、白鳥の腹が地獄の入り口のように裂けている絵などでセットを作っており、そんななか、白鳥にまたがり、あやしく誘うように踊るシーンは、バレエとも演劇とも絵画とも音楽(ワーグナー)ともいいえない、まざりあった凝縮だと思った。
 山口昌男『仕掛けとしての文化』に、「日常生活の重力装置が壊れて、中心と周縁がごっちゃまぜになってしまった時に、人は、なんでもなさそうなものの陰にかくれているものの息をのむような美しさを味わう。」と、仮面をした演技についてふれている箇所がある。ことばがなく、表情もなく、身振りだけで行われる演技は、日常に違和を引き起こす。「こうした演技の中から、絶妙な身体のリズムが紡ぎ出されて、(…)我々の精神の底の底までとらえるハーモニーを奏でて行く。」これは、踊りにもいいうることだろう。アーカイヴ・フィルムでみる、その爪先立ちの足首、その肩から腕にかけての線、反った背中、動作のひとつひとつが私たちの身体から突出して、美しくゆさぶりかけてくるのだった。
 映画は、現在(映画撮影当時、二〇〇〇年位だが)の、元団員達へのインタヴューも取り混ぜられて進行している。八十一歳になったイリナ・バロノアが思い出を語ると、「ベイビー・バレリーナ」(一三歳〜十五歳で、三人いた。ディアギレフ亡き後に、呼び物として、若いバレリーナを発掘してきたのだ)と呼ばれていた一九三二年頃の映像が映される、といった風に。
 インタヴューに出てくる人々の殆どが、八十歳代、九十歳代の今も何らかのかたちでバレエに関わっていることに、単純に感動した。バレエ団を設立、バレエの芸術監督、大学のダンス学部などで教鞭を…。公演に出かけた地であったろう、アメリカ、ヨーロッパ、ベネズエラや、オーストラリアで、あるいは世界各国を飛び回って。
 また、最後のほうのインタヴューで、アリシア・マルコワ(一九一〇〜二〇〇四)が、「報酬は僅かだったけれど、“これが踊れるのなら”、“あのデザイナーと仕事ができるのなら”と、それが財産だった。」「ね、私の人生は何てリッチなのかしら」と語っていることも心に残った。
 事件や踊りが次から次へと出てくるからだろうか、あきることなく映画の時間が経った。二時半位からの上映で、終わったのが四時半。昼近くだった辺りの景色が、暗がりから出てくるともう夕方、まもなく夜だ。ドキュメンタリーだからだろうか、映画を見終わった後の、登場人物が身体に残っているようなあの感覚はない(古いたとえだと、任侠映画を見終わって出てくる観客が、それぞれ肩をいからせて歩いしまうような)。だが、昼と夜の間にあいた穴から出てきたような感覚があった。その穴の向こうは、リッチな明るい凝縮の空間がひろがって。


▲金鶏・リャブシンスカ

▲牧神の午後・ニジンスキー

▲1941−42 公式プログラム(ダリ画)

バレエ・リュス公式HP
http://www.balletsrusses.net/
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2007-12-15

共有する光


 フェルメール―「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画―展に行った(九月二六日―十二月一七日、国立新美術館)。フェルメールが観たかった。だが彼の作品は《牛乳を注ぐ女》一点だけ。画集を持っているので、この作品は見たことがある。画集で見た限り、あまり惹かれた記憶がなかった。だからたいして期待せずに出かけたのだった。
 展覧を見る。こちらの見方が悪いのだろう。他の絵、オランダの風俗画からは全く何も受け取ることができない。スナップ写真を見ているようでもあった。《牛乳を注ぐ女》は目玉として、出展の真ん中あたりに置かれている。その前にビデオによる説明があった。遠近法を微妙にずらしたり、こわしたりして、実際よりも奥行きを出したり、手前にあるものをいびつにさせ、強調している、といっている。そうしていよいよ対面だ。一枚だけ、壁にかかっている。その前を、二本のロープで区切り、道を二つ作っている。絵の近くは立ち止まらずに進む用の道で、その後ろはじっくり見る用、と係員が声を張り上げながら誘導している。じっくり見る、といっても、ものすごい人で、段差があるわけではないので、移動する人たちの頭で、後ろからはほとんど見ることができないが。ともかくこんなふうに一枚の絵の前で誘導されるのは、初めてなので、じっくり見にくいという欠点はあるが、面白く思った。同時にこの光景を見て、つい最近テレビで見た《モナ・リザ》が日本に来た時(一九七五年位?)と重ねてみたりした。あの当時は三列で、三列とも立ち止まらずに見て、段差があったらしいが(それほど、観客が多かったのだ)。後は、上野動物園のパンダ。わたしが初めて見たのは、小学生の頃で、初代ではなく、人気も一息ついていた筈だったが、それでも立ち止まって眺めることができず、初のパンダ体験は、お尻を見ただけに過ぎなかった。などと、立ち止まらずに進むほうの列で、絵の前にくるのを待っている時に思っていた。こんな風な新たな体験によって、記憶や、誰かの体験が、わたしにまた帰ってきたり、わずかながらでも共有したりすることができるのだ、と。
 話しを元に戻す。最初は、後ろのじっくり見る用のスペースで《牛乳を注ぐ女》を見ていた。四五・四×四〇・六センチと小さいので、前列の頭と頭の間からかすめ見るというだけでなく、その分だけ遠いので、質感が伝わってこない。本物を見ている気がしない。それは画集を前にした時と同じ感覚だった。惹かれるものが少ない。画集でそうだったのだからとあまり期待していなかったので、がっかりはしなかった。だが、せっかく来たのだから、と前の列に並び直す。前の列も一列ではなく、三〜四列になっているので、少しずつ最前列に移動した。ようやく絵の前に来る。そうして…。
 《牛乳を注ぐ女》、一六五八〜五九年頃。「いかにも働き者然とした質素な身なりの女性が、牛乳を陶器の鍋に注いでいる。」「壁に打ち込まれた釘や釘穴、パンや陶器の質感、そして黄色い上着と対照的な青いエプロン」、白い頭巾、硬そうなパン、壁の下のタイル、窓からの明かり…(「 」内は小学館『週刊美術館8フェルメール』より)。
 まず、絵の具がきらきらとしているなとぼんやりと思った。次にそれが、光なのだと思った、というより感じた。壁から、白く光った女性の額から、黄色い上着から、壺やパンから、光がこぼれ、ふりそそいできた。それはそこはかとない輝きだ、だがふうわりと、観るわたしたちをも光をちりばめ、光のなかに置いてくれる、そんな輝きだった。これがフェルメールの光なのだ。この体験は圧倒的だった。光に包まれるうち、絵のなにかがわたしを招きいれた。わたしはそこ(どこ?)にいた。これは共有なのだ。この光の瞬間は…。
 「フェルメールは「物」を描いたのではなく、「光」を描いたのだ。」(同掲書)
 それは画集で見ていたイメージを瓦解するほどに燦然と輝くものだった。あるいは画集から光りをみつけることができないわたしの何かを溶かしてくれる明るさだった。部屋に漂う埃すら、窓からの光りで、見えるような気がした。漆喰やパンの匂いすら光りが運んできたような気がした。これは共有なのだ…。

 他の絵をほとんど素通りし、前述の週刊美術館と、《牛乳を注ぐ女》の絵葉書を買って、外に出る。光、光。銀杏が色づき、黄金色に光を放っている。
 本によると、当時高価な為、貴重な顔料だった青を多用し、光を際だたせた、また当時発明されたカメラの前身、カメラ・オブ・スキュラで投影した像に生じる光の白い粒、白い点々を、絵に描くことで、輝きをあらわすことをしていたとある。
 おおざっぱな言い方だが、あの光、これらの光に触れて、一九世紀までフェルメールが忘れられていたわけがわかったような気がした。光を描いた印象派の出現を待って、彼は再発見されたのだ。口にすればそんなことだが、光をとおして、あの展覧会で、絵をみて感じていた気もする。絵を前にしたあのまばゆい共有の感触は、モネの絵に感じたそれと同質のものでもあったから。
 フェルメールは現在残っている作品が三十六点と少ないので(寡作だったのと、二百年以上忘れられていたせいと、四十三歳と比較的若く亡くなっているせいらしい)、週刊美術館という薄い本でも、ほとんどの作品が見る事ができる。画集を見た折には、気づかなかった(古いものなので、印刷が今ほど鮮明ではない、ということもあるだろうが)、光が、そこかしこにちりばめられていることが、《牛乳を注ぐ女》の光りによってわかった。気づかされた。光りが他の絵たちの光りを呼び水のように、輝かせたのだ。
 もともとフェルメールについては、それほど良さをわかっていなかった。実物を見たのが今回が初めてだったから、つまり光りに触れたのが。ただ、以前にも日記で書いたが、プルーストに《デルフトの眺望》を絶賛している箇所があって、それで興味をもったのだった。プルーストがすきだったから。だから残念なことに、近年日本で公開されていた《真珠の首飾りの少女》も見に行かなかった。今、印刷物を通して少女をみる。彼女の白眼、黒眼、ぬれた唇、肩、そして真珠の耳飾りが、ちらめいているのがわかる。顔が、永遠の光りを宿しているのがわかる。内面であるとか、そういったことではなく、もっと、多様な、もっと美しい逸脱の凝縮としてふりむいているのだと、感じることができる…。共有のなかで。
 昨日、通勤路を少しそれて、公園の散策路を通った。銀杏の黄色がまぶしいのが、痛いくらいだ。この銀杏は、秋になると、青々とした緑から、黄緑色になり、黄色く黄葉する。その黄緑色は、春の小さな葉の色そのものだ。散る前に、また生まれたての色になる、ということだ。黄葉した銀杏は、春を共有しているのだ。だから、あんなに輝いているのだ…。国立新美術館で、通路ごしにみた銀杏の色をそこにさらにかぶせ、フェルメールの光りをもそこに見いだしながら、見入っていた。色づいた葉が、光の粒子をこぼしている。空は少女のターバンのように、女の青いエプロンのように影をはなつ明るさだ。

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2007-12-05

別の生の微香



▲写真下 エミール・ガレ《薔薇文ランプ》(1902−03年)
 ポーラ美術館で、系列の銀座のポーラ・ミュージアム・アネックスで「花ひらくアール・ヌーヴォー ガラス工芸と女性のよそおい」(十月五日―十一月十八日)を開催していると知ったので、出かけた。こちらは入場無料、カタログも無料。展覧会もカタログもその割に充実していて、おもいもかけずに貴重なプレゼントをもらったようだった。目当ては、エミール・ガレやドーム兄弟のガラスたちだ。もちろん彼らの作品はそこにいた。だがこうした場所では、いつも何かしらのふいうちがある。ともあれ会場に入る。まずはドームの《薔薇文花器》や《薔薇文蓋物》(一九一〇年頃)の、薄桃色のバラのやわらかな色合い、ガレの《蘭文耳付花器》(一八九六年頃)の、緑地に虫でできたような蘭(種類でいえばスズムシソウやエビネに近い)の、自然からの手招き、そうしてランプたち、その灯った色合いが、やはり闇におかれた手招きのようにやってきて、次の場所へと誘いもするのだった。
 ところで、わたしはなぜアール・ヌーヴォーにひかれるのだろうか。「アール・ヌーヴォーのルーツを探っていくと、四季折々の自然をモチーフにしてきた日本美術の存在に行きつきます」と、カタログでは一八六七年のパリ万国博覧会での日本の美術工芸品デビューに触れている。また印象派もこの博覧会により日本の影響をうけている。こうしたことは空気として、空気に混じり込んだ匂いのように、つながっているのだ。その空気の微香を感じること。十九世紀末は、「隠れて行っていた化粧が容認され」た時代でもある。「芸術を大衆化していくアール・ヌーヴォーの風潮が時代の空気を一変。美しいポスターが街を飾り、誰もがアートを気軽に日常生活の中で楽しめるようになったその時、女性たちは化粧やファッションを堂々と謳歌し始めました」とあり、化粧品や装身具の展示に移って行く。化粧品は化粧部屋を飾ること、部屋を飾ることにも、微香を送っただろう。あるいは日常に芸術が入ってくること、それ自体が、微香なのだ。電気の発明も、微香に染まる、拍車をかける。電気の明るさは新鮮だったろう。微香のするランプたち。部屋をかざる花の香り、花器たち。《花文洗面セット》(一九一〇年代)は、陶器の洗面器やピッチャーに花の絵が描かれる。洗面器がこのように優雅なものだったとは、と今みているわたしにも新鮮な驚きとなって触れてくる。そうしてふっと思い出す。もう覚えていないが、わたしとアール・ヌーヴォーのランプたちとの出会いにも、そんな新鮮な驚きがあったのではないか。それまでランプといえば電気スタンドぐらいしかしらなかった、そんな頃に、ガレやドーム兄弟が驚きとしてやってきたのではなかったか。これは、新しい電気、ジャポニズムの息吹を新鮮だと思った当時の人々の視線とも重なるものだろう。
 化粧、ファッションに現れた波は、ヘアスタイルにも及ぶ。鬘、つけ髷のほか、飾り櫛の展示があったが、銀杏、トンボ、葡萄、こちらもアール・ヌーヴォーおなじみの意匠だが、それよりも、殆ど日本製なのではないかと思えるほど、日本の櫛、簪に似ていることに驚く(それは、後で展示されていた日本製の簪をみて、具体的に類似を確かめることができた)。日本から離れ、日本を見ること。それは前回書いた旅の視線のようでもある。
 展覧は、近代日本(明治から大正)の女性化粧品に移る。明治はお歯黒、眉そり以外(この二つは外国から奇異に取られ、禁止になった)は、江戸時代の装いを色濃くしており、「大正時代になって、女性の社会進出が進むと」、「クリームなどを使う洋風の化粧が普及していった」とある。化粧が洋風だからか、容器、ラベルのデザイン、看板、鏡台も日本製なのだろうが、アール・ヌーヴォー様式だ。ただ鏡台は、椅子用ではなく、畳に座って使うものなので、脚がなく、その用途の違いの分だけ、日本古来のそれと折衷といった感じにはなっているが。アール・ヌーヴォーに日本美術が関係していた、その日本に新しいものとして、また西欧から風が入ってくるのだった。
 「祝祭の世界が終ると、いろいろな日常生活への統合の儀式があって、登場人物達は再び元の世界に適応するような枠が設けられています」(『笑いと逸脱』山口昌男)。元の世界は、本来は祝祭の前と後では、別物となったという。「そこでは或る一つの時間のパターンが死んで、まったく新しい時間が始まるという仕掛けであった」。祝祭的な空間、時間は、日々から突出した別のものではない。後と前を、死と生をつなぐ時間でもあるのだ。唐突に引用したのは、祝祭的なものが芸術がひきおこすほとんど違和といっていい時間(瞬間)と共通するのではと思ったからだ。芸術に触れた前と後では、時間は変わる。その後、なにかが再び生きはじめるのではなかったか。微香による息吹が、日常を満たしてくれる。勿論それだけがすべてではないけれども。芸術は世界と触れるための媒介でもある。芸術はそこから逃れる名づけ得ないものである。
 わたしは何故アール・ヌーヴォーにひかれるのだろうか。日本の影響を受けたそれらの様式が、また日本にいるわたしのもとにやってくる、そこに日本の側面を見ているのだろうか。新鮮な微香により、日常を、生(植物たち、動物たち、わたしたちの)を見つめ直そうとしているのだろうか。そうした面もあるかもしれない。だがこうした面だけではとらえられない混沌の豊饒、円からすらこぼれてしまうものこそが、芸術でもあるだろう。
 じつは化粧する、ということも、日々のなかで感動をおぼえることなく行っていたので(当然といえば当然だが)、その面でも、この展覧は興味深かった。香水瓶や化粧水の瓶、ガラスや陶器がはなつ繊細な輝きが、化粧をする行為からはがれ、その本来の姿を現す。化粧すら、なにか儀式的なものに思えてくるのだった。「皮膚の美を養ふ クラブの カテイフード」と、中山太陽堂の化粧水のポスターにコピーがあった。もはや別の生が微香を求める。それは世界からの赦しのような息吹だ。


▲展覧会のものではないが、ルネ・ラリックの香水セット
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