Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2008-01-25

遊びとことば


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 そしてラリックは続く。一月五日の日記に、庭園美術館の室内公開についてHさんからの賀状で知ったと書いたが、一月十二日〜十四日の三日間だけ、室内特別展示をすると知り、出かけてきた。この期間は写真撮影も可とのこと、玄関に入ってすぐのガラス扉のレリーフと、シャンデリアをラリックが手がけているので、特にそれをカメラに収めたいと思ったのだ。旧朝香宮邸宅。朝香宮殿下は一九二五年のパリ万国博覧会の折、現地でアール・デコに出会い、一九二三年の関東大震災で壊れた家を新たに作り替えるにあたって、万博に出品していたアンリ・ラパン、ラリックらに装飾を頼んだ…。ということを、二階の踊り場で、学芸員の方が説明していた。結婚祝いだという大きなオルゴールがあり、その実演を聞くにあたっての解説だった。オルゴールはだいぶ痛んでいたので、音が悪かったが、逆にそのことが八〇年ほどの時間のなかをくぐりぬけてきた音色として、室内に響きわたるのが、心地よかった。
 ラリックのガラス大扉レリーフの女性(1)については、前にここで書いたと思うが、その背筋を伸ばして立った女性の姿が、招くというよりも、入るわたしたちに軽い注意を促しているようなのだった。ここには細心の注意をして入らなければいけないとでもいうように、何故ならこれらは、細心の繊細さをもって丁寧に作られたものなのだから、と。彼女は、背中から羽根が生えているが、羽根は葉のようであり、樹木の精のようにも見えるのが、なにか自然との接点を模索しているようで、入り口(出口でもある)として、ふさわしく思うのだった。スポットライトが照らされているが、往時は室内からの電球の明かりで、立像には肌色を、羽根には陽光めいた色彩を、ちらめかせていたのだろう。
 入ってすぐの、白い大きな香水塔(4)が眼を惹く。多分これだけのためにしつらえられた部屋なのだろう。ここから香りをくゆらしていたのだ。次室の大客室の二つのシャンデリア(2)と、その次の間の大食堂の照明(3)がラリックの作品。シャンデリアは垂れ下がる花たち、客室を飾る花の役割をも果たしているようだ。食堂の照明はパイナップルと桃だろうか、果物のレリーフ。こちらはデザートの一端を繊細に引き受けているようだった。
 他の照明(たとえば、様々な色のステンドグラスを金平糖のような形にして吊り下げてあるのが、天井に万華鏡のような光を投げかけているものもあった(6))、壁紙、暖炉、飾り棚、階段の手すりの透かし彫り、鉄で花を模したラジエーターカバー、それぞれが凝っている、見るにあたって気が抜けない。浴室、トイレまでもがほとんど荘厳といっていい、異彩を放っていた。映画などで、キッチンが映る。料理をしている。そこには生活感がないといつも思うのだが、その感覚が浴室から、洗面所(5)からまざまざと押し寄せてきた。注意ぶかくここにいなければいけない、接しなければならない。室内の装飾たちが、あちこちからささやきかけてくる。そのことと訳のわからない繋がりをもって、日常について、生活するということについて、室内の様々な意匠が、ことばをかわしあっているのだった。
 ここは何回か来ているが、通常は、展覧会を開催する美術館として存在しているので、展示作品と融合して(それだけ、美術性が高いということなのだろうが)、今までそのことをあまり気にとめたことがなかった。今回のような邸宅公開ということで(これも美術性が高いからだが)、展示するものが、室内そのものになることで、装飾性が浮き彫りになるだけでなく、付随して、そこでなされていたであろう生活がたちあらわれてくるのだった。だから朝香宮の人々の、だけではなく、わたしの、というだけではなく、それらを含めた生活、生活と装飾の関係性、たちについて、ここでは知らない言語で会話がされているように感じたのだった。知らない言語、だが、もうちょっとでききとれるかわかるかもしれないことばが。
「規則の限界内での自由な反応を即座に発見し、創案せねばならぬ。そこにこそ遊びがある。…この余裕は、遊びに特有なものであって、遊びの生む楽しさをある程度説明するものだ。それはまた「遊び」という言葉の次の場合のような注目すべき、意味ぶかい使い方をも説明する。すなわち、芸術家の「演技・演奏(ジュ)」、あるいは歯車装置の「遊び(ジュ)」といった表現の中にも認められるもので、遊び(ジュ)は前者においては演技・演奏者の独自のスタイル、後者においては機械のかみ合わせのゆとりを示す。」(『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ)
 この規則の限界内での創案、独自のスタイルは、こうした室内装飾にもあてはまるだろう。ラジエーターカバー、シャンデリアという機能を果たしながら、独自の意匠を凝らすこと。また、これはゆとりとしても、わたしたちに作用してくるはずだ。装飾性が全くない家具、器具に囲まれて暮らすことは、おそらくとても窮屈で寒々しいものになるだろうから。
 装飾はこの意味で、「遊び」と呼べるだろう。そして、ラリックのガラスの大扉に告げられたような(気がした)、装飾に注意深さを持って接することというのは、「遊び」と相反するものでは決してない。それは演技・演奏を観る、聞くわたしたちの態度としてふさわしいものだから。
 こう書いていても、室内でささやかれていた家具たち、装飾たちのことばについてはまだわからない。日々のなかで、遊びと接することと、それらは照応しあっているのだと思うのだが。注意深く日々を聞くこと。
 帰り際、ラリックのガラス大扉をもう一度見た、写真を撮った。挑むような、けれども同時に優しさを全身から放ちながら、レリーフのなかの女性は、開いた玄関から外を、帰るわたしたちを見つめている。それは無言の饒舌だ。

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2008-01-15

虹の肌─オパール


▲ラリック《シュザンヌ》

 「ベル・エポックの輝き―魅惑のジュエリーからガラス工芸まで―」(二〇〇七年一二月二〇日―二〇〇八年一月六日、大丸ミュージアム)に行く。ベル・エポックとは、一八九〇―一九一五年位のフランスを、大戦直後から、懐かしむようにして、振り返り気味に「良き時代」と呼んだもの。大丸・東京は新店舗となり、その記念展として、古き良き時代を選んだのだった。あるいは「輝かしき時代」とチラシに書かれているように、現在から振り返ることを、現在から明日を見つめること置き換え、輝かしい希望をジュエリーや、ガラスの輝きに重ねて、ということか。
 小さい頃から、悪い癖がついている。期待はずれを怖れて、明日のこと、まだ起こってないことを考えるとき、いつも、悪いほうに考えてしまうのだった。そうすれば、実際起こったことは、たいてい考えていたよりも、ずっといい。辛いことであれば、思っていたほうよりも程度が少ないので耐えられる。想像力をゆがめてしまうのは、想像のほうが現実よりも美しいことをどこかで頷いているということもあるだろうか。いや、現実に、そうではないといってほしいのだ。想像していたよりも、実際は、もっといいものなのだと。私を取り巻く世界にそういってほしい、ということもあるだろう。この展覧会に即して言えば、想像というほどではなく、今まで宝飾品、ジュエリーについては殆ど興味をもったことがないので、期待をまったくしていなかった。だが、ガラス工芸というからには一八九〇年代〜という時代的にもガレやドームが何点かは見れるだろう、そう思って出かけたのだった。
 入ってすぐ、そのガレやドームの作品たちが展示されていた。香水瓶、ランプ、水差したち。これらが見れただけでも充分だと思った。ガラスが最初にもうこんなに出てしまった、あとの展示はジュエリーばかりになるのだろうと、そこにいる時から、次に起きることに期待しないでいたのだった。
 宝飾品に、なぜあまり惹かれないのだろう。宝飾品は値が高価だから、ある程度ステイタスとしての意味を付帯されてしまう。そのせいもあるだろう。高価だから美しいと短絡的に思われてしまう。宝石や金属は、貴金属というくらいに、その存在自体が貴重で、故に高価になってしまうが、それは美しさとは本来関係のないものだ。だが宝飾品には、そうしたモノのもつ貴重さ、値が張るもの、といった要素もまた付帯されて存在する。そこに不純なものが混ざるような気がするからかもしれない。そうしたものを持つ側も、高価なものを身につけることで、ステイタスとしての差別化をはかるだろう。そうした行為には美しさは存在しない。また展示をみる人々も、絵画展に比べて、総じてマナーが悪いのが眼につく。まるで宝石店に友人ときているみたいに、声をはりあげて品定めをする。
 装飾品が嫌いなわけではない。付帯されることが、悪いというのではない。石自体の持つ輝き、金属の独自のきらめき、そしてデザイン、こうしたものの混在としての宝飾品のもつ美が、見えにくいものになってしまうということだ。けれども、そこから美を見つけださねばならないのだろうが。
 遠くに、ルネ・ラリックのランプが見えた。好きなラリックがあるのだとほっとする。だがその前に、宝飾品の展示たちが始まっていた。それはラリックのものたちだった。ラリックはガラス作家になる前、五〇歳位まで、ジュエリー作家として活躍している。《踊るニンフのプラーク》(一八九八―九九年)はブローチ。プラークとはプレートのことで、小さな板状のものをいう。象牙を模した乳白色の人工素材のものに、ヴェールをまとった五人のニンフたちが浮き彫りにされている。まるでガラス素材のように、それらはラリックらしい柔らかさと硬質を、脆さをつなぎとめた凝縮の時間を、繊細な存在感をみせつけていた。《レダとハクチョウのペンダント》(一八九八年頃)は、ブルーのエナメルの湖に、金属の白鳥、裸体の長い髪のレダ、蓮が金属で立体的に現されている。その金の裸体は、陽を浴びたようだ。エナメルの湖は波紋まであり、静謐さをたたえ、神話の世界、その瞬間を、そこから、その小さな世界から見事に立ち上らせているのだった。ほかに《ガラスとエナメルのネックレス》(一九〇三年頃)は、木の実を模したガラスの玉が、金属の枝で点々と結ばれているのだが、ガラス素材のもつ輝きが、単純に心に残った。そして、後のガラス作家としての彼(年代でいうと、一九一〇年頃から)との、その素材の出会いにも思いをはせた。ガラスがジュエリー作家としての彼と、ガラス作家としての後の彼を橋渡ししているのだと。そうして、一番ひかれたのは、《オパール・リング》(一九〇〇年)。デザイン的には、ラリックらしいところが少ないかもしれない。楕円形の大きなオパールに、金に緑のエナメルで彩色したリング。まず、オパールのもつ虹色の色彩に惹かれた。話しがそれるが、私はオパールが好きなのだ。プルーストの『失われた時を求めて』に、夕暮れの湖面は、オパールのように輝いているといっていた箇所がある。その水面の色彩を、実際に、海でだったが、確かに見たことがあった。それ以来、オパールは、私にとって、水面を閉じこめた大切な石となったのだ。ともかく、こんなに大きなオパールを見たことがなかった。わたしの水面がそこにあった、と同時に、やはり、それは後期のガラス作家としてのラリックを思わせるものだった。彼は、オパルセント・ガラスという、オパールの色彩を持つ半透明の乳白色のガラスをよく使っていた。これらのガラスは、女性の肌になることが多いのだが、ルノワールの白地に様々な色を塗り込めた女性の肌のように、凝縮した個性だった。オパールの色彩と、オパルセント・ガラスの色彩が、重なり、やはり彼らを橋渡しにしているのだった。あるいは、彼のなかに連綿とやどるものを、眼で見えたようでうれしかったのかもしれない。この展覧会でも、《シュザンヌ》(一九二五年)という立像があった。水からでてきたばかりのような、水の青さをも身体にしみこませたかのような、柔らかい色彩の肌を持つシュザンヌ。
 《オパール・リング》の解説に、「オパールは不幸を運んでくるという迷信があったがラリックはそれを否定している」とあった。否定というより、彼にはそうしたことに関心がなかったのだろう。彼は「石そのものの本質的要素によって選ぶのではなく、石の持つ審美的要素で選んでいる」のだから。そうして気づく。ここにあるラリックの作品たちは、ガラス、エナメル、半貴石、人造象牙など、素材としてはどれも高価なものではないのだと。家に帰って図版を見ると、確かにその通りで、トンボの櫛などもあったが、素材は動物の角などで、当時は安価に手に入ったものらしい。ダイヤを使う場合も屑ダイヤが使われている。ラリックにあっては、「作品の価値が宝石そのものに依拠するのではなく、あくまでもデザイン力で勝負する作品が追求された」のだと。展覧されていたラリックの宝飾品たちにひかれた理由がわかったような気がした。そこには付帯するものがなかった。それは作品そのもののもつ吸引力だったのだ。宝石の価値に依拠したのではない、素材のもつ美しさとの(それはエナメルでもガラスでもいい、もちろんオパールでも)混合だったのだ。だが、こうしたラリックの作品は、高価な宝石を使ったものよりも、投資性が低いと、富裕層から見放されてしまったとある。「素材の資産価値が直接的に見られてしまう場では」、ラリックのそれは見劣りしてしまうのだと。「(にも関わらず、ラリックのジュエリーは安価ではなかった)」とあったのがなぜか面白い。絵画では素材の資産価値を云々することはあまりない。だが宝飾品はそうではない。彼は、資産価値のあるなしで素材を選んでいたわけではないので、逆に高価なダイヤなども使って宝飾品を作っている。だが、そうしたものは、ダイヤだけを抜き取られ、べつのものにリフォームされてしまって殆ど現存しないそうだ。これはラリックに限らず、ほかの宝飾品たちの場合でも同じだ。つまり、こうした場所でデザインを重視して作品を作るにはどうしたって限度があるということだ。だからこそ彼はガラス作家になったのだろう。素材の資産価値をもとめられることがない。そして素材のもつ力を引き出せる。オパールセント・グラスの虹の肌。
 展覧会場では、ラリックの宝飾品から、ラリックのガラス作品たちのコーナーになった。途中で、遠目にみたランプたちの場所だ。香水瓶、立像、灰皿、見なれたものたちが硬く優しく色を放っている。そして、いよいよ、カルティエ、ティファニーらの宝飾品のコーナーになり、展覧は終わった。変わらず、どうしても、ひかれるものがなかった。きれいだとは思うし、細工も凝っているのだが、なにかよそよそしいのだ。ただ、展覧会の目玉である、日本初公開だというココ・シャネルのティアラ(一九三〇年頃)は、少し気になった。アクアマリン、クリスタル、リュベライトなどの大粒のカラード・ストーン(色石)で、素材のもつ鮮やかさを最大に活かしたシンプルなティアラ。だが、それも、素材から美と無関係な資産価値がそこから見いだせなかったからかもしれないが。
 それでも、その段階ではもはや失望はなかった。ラリックのジュエリーはそれでもとても教えてくれた。それは宝飾品に対する私の偏見をも少しだけ脇にのけてくれもした。
 会場を出る。ラリック社の製品が置かれている売場に行ってみる。ガラスに髪が蛇になったメドゥーサの頭が浮き彫りにされているペンダント、指輪などがいつものように売られている。正月だったので、ラリック福袋も売られていた。五万円、十万円(は売り切れていた)で、ペアグラス、ペンダント、灰皿などが入っているらしい。グラス、花瓶、どれも古いラリック作品のコピーで、全体的に、もちろん往時の精細はないのだろうが、ラリックがそこに、今ここにあることを(季節行事にまで参加しているのだから)、それでもやさしいものとして受けとめたのだった。
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2008-01-05

こぼれおちてしまうもの


▲Mucha "White Star Champagne"

 暮れに、ある方(Hさんとしておく)から一九九二年発行のミュシャ展図録(一九八九年〜九二年の没後五十周年記念)を頂いた。Hさんは私よりもだいぶ歳上(祖母とまではいかないが、その手前位)なのだが、絵の志向が共通することが多いので、何かにつけ、展覧会のチラシ、案内、絵はがきなどを送っていたのだが、その御礼だとのこと。こちらはガラクタみたいなものばかり送っているので、申し訳なく思ったが、心遣いが柔らかく伝わってくる、ともかくありがたく、うれしかった。
 最近のものは持っているが、比べてみると、初めて見るものが多く驚いた。ここ数年、ミュシャ展に何回か行っているが、だいたい同じものが展覧されており、その結果、カタログも似たような図版ばかりだから、一冊あれば事が足りるのだった。十五年ほどで、少しだが、観る側の志向も変化したということだろうか。
 おおざっぱにいってしまうと、今のものは、ミュシャ前期(一八九四年位〜一九〇〇年位)のパリで活躍しているときのものが多いか、力をいれている。アメリカ時代(一九〇四年〜一九二三年、但しこの間も別荘というかたちで、ボヘミアにも住んでいる)、母国チェコに帰ってからの後期(一九二三年〜没年の一九三九年)のものもあるが、前期ほどの頁を割いていない。頂いたカタログは後記のものも充実していた。じつはこう書いている私も、後年のスラヴ叙事詩を書いていた時代よりも、パリにいる頃のほうが気に入っていた。明るさといっていいのか、新奇さといっていいのか、異邦人としての彼が吸収したものが、ポスターという新しい発表の場を得たこととの相乗効果により、生き生きと画面からこぼれ、花咲いているような気がしたからだ。芸術をとおし、スラヴ民族の団結を促す、といった理念のもとに描かれたそれらは、総じて暗い。暗さが悪いというのではないが、民族主義的なリアリズムの影をまといはじめる。パリ時代のそれは、異文化の坩堝的な要素も多かったはずだ。絵も、アカデミックになり、時代を逆行しているようでもあった。あるいは、ポスターが広告ということならば、広告としての有用性のほうに天秤を傾けて見える、ということかもしれない。パリ時代のそれは、有用性からこぼれおちるものに満ちていた…。そう思っていたのだが、このカタログを観て、その考えを幾分改めさせられた。有用性からこぼれおちるものが明るいのがパリ時代だとすれば、暗いのがチェコ時代ではなかったか、そこからこぼれるものが芸術だとすれば、それはおなじ根をもったものなのではなかったかと。こぼれおちてしまうものは、意味によって代置できるものではない。けれども、これは、とくに《スラヴ叙事詩》(一九一四年─一九二六年の連作)にいえることだが、民族の団結を促すという意味を付帯しようとしたそこからは、やはりこぼれるもの、還元できない美の表現が、薄れている、とはいえると思うが。
 ともあれ、今まであまり注意を向けていなかった、後期のものに、ひかれるものが多くあったのだった。《異教徒の彫像を持つ女》(一九二一年)は、油彩で、余白がない分だろうか、画面は暗いが、太陽のような彫像を抱え持つ女の表情が明るい。表情だけで明るさを湛えているようだ。《フラホル協会の壁画のための習作》(一九三五年頃)は、パステルと水彩なので、その分明るいが、それだけでなく、森というか木々のなかに、木の精のように描かれた半裸体の女性、その足元で祈る男性と、子どもを抱きながらうずくまる女性などが描かれているが、それは、ギリシアの神のように、風をはらんで明るいのだった。半裸の木の精の腕から、たなびくリボンが、風をつたえて輝くのだった。《月桂樹の小枝をつけた少女の顔》(一九三五年頃)は、チョークと水彩で少女の頭部が描かれている。月桂樹の冠をつくる葉が、黄色、赤、黄緑、緑、とまるで四季をかたどったように色が変わっており、あとは茶色のチョークで顔や髪の毛が描かれているだけなので、冠だけが、鮮やかに色をはなって、みるものをその色彩に、ひきいれるようだった。冠の下の少女の表情が、たとえば一八九八年に描かれた《四つの花》の連作にでてくる薔薇のそれを思わせる華やかな明るさで。
 《クオ・ヴァディス》(一九〇四年、油彩)というはじめて見る作品がある。一九八〇年まで行方不明になっていたもので、この図録時の展覧会で、修復し、はじめて公開したものとある。Hさんからの手紙には、この絵がとくに好きだとあった。ギリシア思想を体現するペトロニウスと、カーテンの向こうから使途ペテロが顔を出すという、キリスト教的なもののあいだに、髪で胸を隠し、腰巻をした裸体の女性がいる。腰巻と香炉からたちこめる煙で、裸体が覆われるだけでなく、ギリシア的なものと、キリスト教的なものが結ばれるようでもある。あるいはそのはざまで、こぼれおちるものとしての女性が、美なのだ。ペトロニウスを見上げる女性の表情が内側から輝くようだ。「クオ・ヴァディス」とは、「主よ、何処に行き給ふ」の意味。たちこめる煙のなかへ。
 図録を頂いた翌々日、新宿伊勢丹に行く。すると「甦るアールヌーヴォーの輝き―ガレ&ミュシャの輝ける時代」展をやっていた。予期せぬ催しだった。ここでまたミュシャに出会えるのは奇縁だと思った。展示即売会タイプだが、サラ・ベルナールを描いたもの、煙草“ジョブ”のポスター、モエ・エ・シャンドンのメニューなど、前期のおなじみもものが結構観られた。あかるくこぼれおちるものたち。
 ラリックの香水壜、宝飾品もあった。関連商品の販売コーナーで、海野弘著『アール・ヌーヴォーの世界』(中公文庫)、Hさんに送ろうと、レターセットなど、ミュシャ・グッズを買う。
 奇縁はつづく。Hさんから年賀状がくる。目黒の庭園美術館は、元は宮様の邸宅なのだが、ラリックが室内装飾を施している。そこが今春、今まで一般公開していなかった部屋も見せることになった、ラリックの深み、ゼイタクにまた触れることができることになる、と書いてあった。ゼイタクというのは、こぼれおちるものの謂だ。
 そして、わたしはちょうど、その時、ミュシャにポスターを描かせていたサラ・ベルナールが、ラリックの宝飾を身に着けていたことを、『アール・ヌーヴォーの世界』で知ったのだった。
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2008-01-01

謹賀新年




 ベランダから見える初の出。太陽は、見え始めると早い。どんどん姿をあらわしてきた。
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
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