Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2008-07-25

混ざる記憶の景




▲上から《受難 一》、《受難 十九―“二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道”》、《秋の終わり 供

 『ルオー大回顧展』(六月一四日―八月一七日、出光美術館)に行く。ジョルジュ・ルオー(一八七一―一九五八年)はフランスを代表する宗教画家。出光美術館は、連作銅版画《ミセレーレ》をはじめとし、世界有数のルオー・コレクションがあるという。
 以前(調べてみたら、一九九八年冬だった)、今の損保ジャパン東郷青児美術館(その頃は安田火災)で、ルオー展を見たことがある。その時は、多分ここに出品されている作品でいうと、たとえば《受難 一》(一九三五年)のような作品に興味をもったと記憶する。キリストの顔だけが、屋根のついた観音開きの箱のなかから浮かび上がっているのだが(こうした箱の形態にはおそらく意味があるのだろうが、わたしにはわからない)、そのキリストの表情のもたらす、かなしい柔らかさというか、悲しみを湛えた優しさなどに当時のわたしは心ひかれたのだった。それは今でも家に何点か飾ってあるのだが、イコンを前にしたときの気持ちに似ている。わたしはキリスト教徒ではないけれど、多分、その表情を前にして、敬虔さとまではいかないが、人間に接したような、胸にしみるような気持ちになったのだろう。あるいはその厚塗りで浮き上がった顔に、輪郭線の太さに、たとえばステンドグラスをみるような気持ちになったのかもしれない。実際、彼はステンドグラスや、ステンドグラスを陶器に置き換えたような七宝も造っている(ここには一九四九年の《十字架のキリスト》が出展されていた)。ともあれ、ガラスを通して、なにか見えないものが通過してくる。あたかも陽光のような柔らかさをもって、心が通いあうような気がしたのだろうと、かつてのわたしにすこしだけ思いを馳せながら、会場内を歩いていた。
 今回は回顧展ということもあり、宗教的な作品の他に、《サルタンバンク》の石版画シリーズなどの道化師やサーカスを描いたもの、《悪の華》の連作銅版画なども多く出品されており、それまで宗教画家としてのみ見ていた彼のイメージに、なにか広がりが生じていくようで、心地よい静かな驚きがあった。《小さな女曲馬師》(一九二五年)は油彩画。馬に乗った少女が横向きに描かれている。馬も少女も、目は四角く黒く塗りつぶしただけで、その輪郭線はいつものルオーのようにくっきりと太い。賑やかな場面のはずなのに、まるで輪郭線が、喧噪を断ち切っているように、静けさを湛えている。少女の顔は、四角い目しかなく、横向きのこけしのようで、ほとんど表情がうかがえないのだが、静けさがたちこめているからだろうか、なにか悲しげな雰囲気が漂っている。あるいは背景の暗緑色、暗い赤のマットなどが、やはり賑やかさを遠ざけているようなのだが、そうしたすべてを馬と少女は一身に引き受け、その姿から放っているようなのだった。ルオーは盛り上げた油彩のイメージが強かったが、それは後期になってからのことで、この絵の頃、中期あたりでは、いったん塗ったあと、絵の具をこそげおとし(スクレイパーという技法だという)、透明感をだすことを得意としていたとあった。透明感といっても、水彩画のそれとはちがって、磁器にかかった釉薬に似たなめらかさといった体なのだが、そうした質感も新鮮だった。こそげおとしたあと、みずみずしいような、てかりが、画面からあふれだす。《正面を向いた道化師(半身像)》(一九三九年)は、厚塗り。正面を向いたとあるが、キリストのまっすぐさにくらべ、いくぶん視線を横にしている。女曲馬師もそうだが、これらの人々の表情は、深い憂いをたたえている。笑いが悲しみとつながっているような。踊りが静止につながっているような。それはキリストの表情にも通じるだろう。彼の絵は、国や信仰の違いを超えて、世界中で受け入れられるものであるという。うまくいえないが、それはこうした表情のもつ無言の語りかけによるのかもしれない。淋しさでもなく、悲しみでもなく、叫びでもなく、祈りでもない、だがそれらすべてである、といったような。それは日々つむがれた生の一端であり、螺旋上につらなる生のすべての凝縮のようでもある。《「悪の華」のための十四枚の銅版画》の連作(一九二六年)では、九の《骸骨》にひかれた。それはムンクの描く髑髏のように、死の舞踏により、生を照らすようだった。だからだろうか、この絵はなぜか、モノクロームなのに明るさを特に放っているように見えた。ちなみに「悪の華」とは別に、《回想録─ボードレール》(一九二六年)として、ボードレールを描いた石版画も出展されていた。このボードレールは、先日「芸術都市パリの100年展」でみた、ロダンのボードレール像(《ボードレールの肖像》一八九二年頃、ブロンズ)よりも顔の表情が柔らかい。それがいいとかわるいとかではない。ただ、こちらのボードレールはルオーらしいといえばいいのだろうか、無言の語りかけをとおして、ルオーとボードレールが出会っている、それゆえのオマージュをこめた柔らかさがあふれでているといった風で、そのことももまた心に残った。
 ここにきて、かつてのわたしはほとんどいないことに、さっきから思い出していなかったことに気づく。気づいたのは、こんな風景画たちによる。《受難 十九―“二つの宮殿に沿うこの荒涼とした道”》(一九三五年)は、題名のとおり、朱色を貴重とした二つの宮殿、同じ朱色の道が伸び、絵の中央で一点遠近法により小さくなっている。夜で空には丸い月がかかっており明るい。この《受難》シリーズは、実はほかのものにはさほどひかれなかったので、物語として見ることなく過ぎていっったのだが、作品リストと照らし合わせると、この道を通って、キリストは総督ピラトの官邸へ行く。それは戻ることのない道で、といったことらしい。だから月明かりが悲しげで優しいのだろうか。それはともかく、先ほどの《受難 一》よりも、この風景を見て、より深く、ああ、前のルオー展でも、こんな景色を見たことがあると思った。この時、わたしはまたかつてのわたしを深く思い出したのだった。黒い輪郭線の確かさ、血の色をひめた、ぶきみにうごめくような壁と道、やさしい夜の月明かり、これらの景色が、ただ景色としてだけ(物語をもつ絵としてではなく)しみこんでくる。《受難 一》の顔をみたときは、以前のわたしは、こういったものにひかれたのだろうな、といった距離感があった。今のわたしはそれほどはこうした表情にひかれていなかったから。逆に《受難 十九》は、以前のわたしはさして気に留めなかったような気がする。ただ見覚えだけはあった。けれどもこちらのほうが今のわたしにしみこんでくる。絵に対して距離がないのだ。だから感慨をこめて感じたのだろう。「この光景を確かに以前、見たことがある」と。それは既視感のようでもある。《秋の終わり 供奸憤豢絽淨麈)は、後期のぼってりとした厚塗りの風景。田園地帯だろうか。収穫の終わった田畑や池(田圃かもしれない)が両脇にある太い土の道を、顔のない小さな人物が三人(真ん中の白い服を着た人物がキリストらしい)、足元に濃い影をおとして、こちらにむかって歩いてくる。夕暮れなのだろう。田畑や道と色の区別のつかない、緑と黄色の空の上に、太陽が月のようにぽっかりと浮かんでいる。こちらは、似た作品も見た記憶がなかった。太い輪郭線や絵の具のぬりかた、そして、やわらかい、淋しい感触が、ルオーらしさを湛えているというのに、なにかはじめてみる光景のようだった。いや、そうではない。ルオーの絵としては、はじめての感触をひきおこした、というべきなのか。その感触は、風景のはなつ、共有の感触かもしれない。これまで形成してきたであろう、わたしのなかの秋の終わりの夕暮れと、色をさざめきあわせていたのだった。
 会場を出ると、展望休憩コーナーがあった。窓に向かって並んだソファーに座ると、眼前に皇居周辺の景観がひろがる。こうしたときのくせで、つい水を探してしまう。つまりお堀に目を走らせるのだった。堀は、暑さのなか、柔らかく、すさまじく息づいた藻の緑が、木々の緑と呼応しながら、生をつむいでいた。堀に黒い影が動いた。鯉だったかもしれない。それは《秋の終わり 供佞埜た田圃か池の深い緑だった。多分こうして、わたしの風景も、また、すこしづつ混ざってゆくのだ。今みている風景には、だからかつてのなにかが混ざってもいるのだ、わたしの見たそれであれ、そうでないものであれ。水にまた黒い影が映った。《秋の終わり 供奸∋或佑凌擁の落とした影。
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2008-07-15

花の場所にて、出会う


▲速水御舟《牡丹花(墨牡丹)》

 山種美術館に、「日本画満開―牡丹・菖蒲・紫陽花・芥子―」を観に行った(六月十四日〜七月二七日)。千鳥ガ淵近くのここは、桜の時期の恒例「桜さくらサクラ」展でとりどりの桜の絵を観た数年前から、数回訪れているところだ。企画展はほぼ収蔵品展なのだろうが、その度に新しい発見がある、知らない作品と出会うのだった。蛾が火の上で舞っている、速水御舟の《炎舞》があるのもここだ。今回は招待券をもらった。チラシなどで事前に催し内容を調べることがなかったが、また何か出会うことがあるだろうと思ってのことだった。
 九段下駅から来ると、お堀に沿った緑道を通ってこれるので、対岸に茂る木々、草草、こちらの桜並木(葉ばかりだが)、暗緑色の水など、たどりつくまでの景色もいい。だが半蔵門駅からきたので、住宅地をぬけ、ビルをぬけ、堀がみえるのは少しの間だったのが、物足りない。少しだけかいま見た深い緑、一面の浮き草かと思えるほどの、黄ばんだ緑の水、新緑をとっくにすぎ、熟れたような木々や草草の緑は、蒸し暑い空の下で、ねっとりと息をしているようだ。花は見えない。だがそうだ、もうすぐ展覧会場で花たちに会えるのだ。緑に気づかされたような感触があった。
 ほどよくひんやりとした館内に入る。罌粟と芥子(題名が違った)、紫陽花、菖蒲などが目に入る。あまり感慨がない。咲いているなとは思う。植物園で、さして何とも思わずに通り過ぎてゆくような感覚にも似ている。だが何か予感のようなものがあった。もうすぐだ、もうすぐ花と心底会えるのだと。予感は《花菖蒲》(一九三九年)と《罌粟》(一九三六年)のことだったかもしれない。両方とも奥村土牛(一八八九―一九九〇)だ。以前ここで彼の桜(《吉野》《醍醐》など)を観て後、彼を気に入っている。ただ、二点のなかでも温度差はある。《花菖蒲》はすっくと立つ花の量感、その淡いような柔らかさに、土牛を感じてうれしくなる程度のものだった。また会えたような安心感。もう一点の《罌粟》の印象が特に強かった。ここで描かれた二輪の罌粟の花は、赤黒い。それは血を塗りつけたような不吉な色だった。魔の力が孔のように誘っているようだった。それは弱々しい茎をもつ、はかなげな花のもうひとつの顔、阿片を生む花の一面をあますところなく差し出してくるものだっただろう。花に比べ、茎や葉はもろそうで、折れそうなほどにやさしい色合いだったから。
 これらは壁に掛かっていたのだが、次に展示室内におかれた長細いガラスケースを見てみる。ここにはたいてい絵巻物が展示されており、経験上、それらに心ひかれたことがなぜかなかったので、今回も名前も見ずに、さして期待もせずに眺めた。写生画巻で、横に長いスケッチブックの上に、鉛筆でスケッチした上に、ところどころ水彩で淡く色をのせたような牡丹の花たち(正確には日本画だから紙本・彩色だが)。地は淡いクリームかアイボリーで、彩色された牡丹の花びらは、白い輪郭で、そのなかに桃色が淡くぬられている。花びらの色は均一ではなく、まだらになったり、筋のはいった桃色で、あたかも桃の果肉のような生々しさがあった。この絵は塗られていない花もあるし、黒い輪郭も残っている。完成作ではないのだが、そこからみなぎる生のあでやかさはすさまじいものがあった。呆然としながら、ようやく作者の名前を見ると速水御舟(一八九四―一九三五)だ。彼の作品ともここで出会い、とても気に入っている画家なのだった。そうだ、彼もいたのだ、どうして忘れていたのだろう、と以前みたほかの作品たちを頭のなかによぎらせてゆく。《炎舞》、《夜桜》、《春の宵》、《翠苔緑芝》など。すこし先に、御舟の《牡丹》(一九三四年)と《牡丹花(墨牡丹)》(一九三四年)が並んで展示されている。前者は赤い花がこちらは先の土牛の《罌粟》のそれと違う、血のイメージだ。朱色の《牡丹》は、魔的なものというよりも、血潮のもつ、生のどちらかといえば明るいイメージを内包して咲いているのだった。左端に、小さく白い蕾(なぜか赤ではなく白なのだ)が描かれてあるが、その繊細な、まるみをおびた姿が、女性の肌のように見えたことにもよるだろう。そして《牡丹花(墨牡丹)》。牡丹に黒色があるわけではなく、墨絵というのでもない。茎や花芯は色が使われているが、ただ花びらだけ墨絵彩色がほどこされている。あでやかな色彩を取り去ることで、逆にあでやかさを増したのだろうか。黒をつかった花びらが、滲んだようなその姿が、とてもやわらかく、大輪の花をわたしたちにめいいっぱい開いてくる。すべての牡丹が恐縮されてそこにゆれているようだった。わたしは一瞬、ほんとうの花に出会ったと思った。いままでに牡丹園で出会ったように? そこですぐに違うと思い返す。牡丹に限らず、花に出会った時の感動を一カ所に集めてみる。あるいは、すべての感動をそこに集めてみる。その場所が、《牡丹花(墨牡丹)》もまた咲く場所なのだ。そいいったほうが近い。それがほんとうの花に出会った、ということなのだ。あるいはわたしの花と御舟の花が出会った場所、まるで理想郷のようなその場所なのだった。
 御舟の作品はこの他《豆花》(一九三一年)があり、計四点の出展だった。赤紫の豆科の花(スイートピーを小さくしたような花)、その蔓のありかたに、あいづちをうった。ここでは暗黙の了解のようなうなずきだったが、それも御舟だった。御舟の花が、花の場所でまた出会ったのだった。
 展示の最後のほうで、また奥村土牛《蓮》にひきつけられる。こんもりとした、山のような葉を背景に、薄桃色の蓮が咲いている。茎は下に伸び、すぐに暗緑色の水に姿を隠す。葉と水の色がぬめりをもつような、どちらかといえば汚さをたたえている。泥土をとおって花を咲かす蓮の、その美しさとのコントラストの力におどろく。《罌粟》のそれのような、清濁の極致のもたらす均衡の静けさに。そして来るときに見た、堀のにぶい色を思った、重ねた。あるいはそうして、場所をまた彩ったのかもしれない。理想郷のような、空中楼閣のようなその場所を、すこしでも堅固なものにしようとするかのように。
 入り口のミュージアムショップで、御舟、土牛の絵はがきと冊子形式の展覧会カタログ「百花繚乱」を買う。また何かたちと出会った、その記念に、場所を保存しようとするために(それはこわれやすいものだから)。場所をつなぎとめておくために。
 外をでると、あいかわらず、湿気の多い夏の始まり特有の粘りけのある空気が感じられた。行きには気づかなかった紫陽花の花群が目をひいた。ねっとりとした空気のなかで、それはぎりぎりの鮮やかさで咲いていた。ぎりぎりといったのは、枯れる直前のもろさがあったからだ。紫陽花の均衡もまた、場所にさしいれる。花の出会う場所にて。


▲奥村土牛《蓮》
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2008-07-05

青い土地─どこでもない、どこにもある場所



 このところ、カズオ・イシグロを読んでいる。一九五四年、長崎生まれ、五歳で渡英。日本人の両親を持つが彼自身は英国籍で、日本語は母国語としては習得していない(だからわたしは翻訳されたテキストを読んでいる)。そうした事情のせいだろうか。文章から、特にその場所に関する辺りから、不思議な色合いが流れてくる。『日の名残り』は、老執事の物語で、舞台もイギリスだったから、それほどは感じなかった。わたしがイギリスという場所を知らないからだろう。『遠い山なみの光』『浮世の画家』はどちらも舞台が日本、長崎あたりなのだが、そこにわたしが知っているであろう日本(どちらも戦後まもなくの頃なので、時間的にずれがあるが)と、小説のなかのそれに、微妙な温度差のようなものを感じたのだった。
「わたしはいまでも週に三日か四日、夕方になると坂道を下って川のほとりに出る。そして、戦前からここに住んでいる人々が相変わらず〈ためらい橋〉と呼んでいる小さな木橋を渡ることにしている。橋にそんな名がついたのは、つい近年まで、それを渡るとわれわれがよく飲みに行った歓楽街に出たので、(人々のうわさでは)気の小さい男たちがよくこの橋の上で、夜の楽しみにふけるか、それとも妻の待つ家に帰るか、心を決めかねてうろうろしていたからだという」「わが家まで坂道が通じている丘のふもとまでやってきて、〈ためらい橋〉で立ち止まり、あの昔なつかしい歓楽街のほうを振り返れば、まだ夕日が沈みきっていないかぎり、古い(まだ電線がつながっていない)電柱の列が、いま来た道の暗がりのなかに姿を消そうとしているのが見えるはずだ。もしかすると、黒い鳥たちの群が電柱のてっぺんに、窮屈な恰好で――彼らがかつて空中にゆったり並ぶことを可能にしてくれた、あの電線を待ちあぐねているかのように――止まっているのも見えるかもしれない」(『浮世の画家』)。
 ためらい橋とあるのは、おそらく思案橋のことだろう(今でも、飲み屋や小料理店がひしめきあい、昭和の雰囲気を色濃く残しているところだ)。こうして抜き出しただけでは伝わらないかもしれないが、現実の思案橋とためらい橋のあいだで、奇妙なぶれがあるように感じられるのだ。解説でも「日本家屋や歓楽街の緻密な描写にもかかわらず、『浮世の画家』の世界は、あまり「日本」に似ているようには思えない。(中略)日本、イギリス、上海などを描きながら、それらとはまったく異なる、あるひとつの「場所」に似ているように思える」と、小野正嗣が書いている。それは『蝶々夫人』で描かれた、一方的な異国情緒の醸す違和ではない。あるいは『ラストサムライ』で描かれた、明治初年の日本から離れ、どこかリアリティを失った場所というのでもない。その場所でありながら、普遍性をもった別の場所であるようなのだ。日本でありながら、リアリティをもちながら、読む人々各自に通じる場所として、そこに現れてくるのだった。『わたしたちが孤児だった頃』では一九三〇年代位の上海が主な舞台だが、それもまた『上海特急』のようなオリエンタリズム漂う場所ではなく、アジアと西洋が出会う場所として、普遍的な意味をもって立ち現れてくる。もしかすると、それは故郷のようなものであるだろう。どこにもありながら、どこにもない場所。へその緒のように現実とつながりながら、浮遊する場所。作者は、そうしたところで書くことを意識しているだろう。場所がぶれてみえるのは、そういうことかもしれなかった。作者の描く場所、わたしたちの想起する場所のぶれの総体が、故郷としてそこに在るのだった。
 わたしはそうした場所のことを、明確に意識してきたとはとてもいえない。だが、これまで場所について描くとき、なるべく固有名詞を使うのを控えてきた。それは、読む各自の場所と響きながら、ちいさな場所、どこにもない場所を出現させたかったからなのだ。わたしの場所と、各自の場所が重なりあった、共有の場所。だがたとえば、『遠い山なみの光』の長崎、稲佐山の描写のように、その地を描きながら、浮遊させ、ぶれたつながりを持つ場所を現出させることも可能なのだと知らされる。あるいは特定の場所を微細に描くことで、読むという行為のなかで、思い描きやすいこと、想像しやすくなることもあるだろう。それはその場所にいったことがあるとかそういうことではない。場所、地名の持つリアリティのことだ。そこにいったことがなくとも、それによって、読むわたしたちのなかに場所が生まれるのだ。「稲佐は長崎の港を見おろす、景色が美しいので有名な丘陵地帯である。(中略)ともかくその頃のわたしはどこか行楽にでかけることなどめったになかったので、稲佐行きは大旅行のような気がしたのだった。(中略)フェリーで稲佐に渡った。ガンガンというハンマーの音、機械の唸り、ときどき鳴りひびく船の太い汽笛──港のさまざまな騒音が、海面を追いかけてきた。けれどもそのころの長崎では、こうした騒音もやかましい感じはしなかった。それはむしろ復興の槌音で、まだ何となく気持ちを昂揚させてくれたのである」。
 ラベンダーを見に、埼玉県菖蒲町に出かけた。ここでは「あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバル」というイベントが毎年行われている。菖蒲町という花の名にちなんでということで、この町には、花菖蒲園がいくつかある。目当てのラベンダーの栽培は、おそらく後から盛んになったものだろう。ここは去年、その存在を知り、初めて訪れた。その時は富良野のような一面のラベンダー畑を想像していたので、実物を見てすこしだけ失望したものだった。町庁舎前の庭から元荒川の土手にかけて、ラベンダーがおよそ三万株ほど咲いているのだが、小道があったり、空き地があったりで、点在しているように見えたのだ。だが、今年は違った。一年の間に、わたしの頭のなかの菖蒲町のラベンダー畑は、一面ではなかったということを念頭に置きつつ、その面積をさらに小さくしてしまっていったらしい。今回、実物と対峙した時は、想像していたよりもずっと花が多く見えたので驚いた。紫というよりも、ブルーフェスティバルのブルーに近い色たちが、土手の上を細長く覆っている。それはどこまでも青く伸びてみえた。その日は薄曇りだったが、空の色と呼応しあうようにして、柔らかな青い空間を作り出しているのだった。ラベンダー独特の、華やかさをひそかにしのばせつつ、凛とした清々しさのある香りを、そこかしこにくゆらせながら。だが、この香りについても、一年のうちに変化が起きていた。ラベンダーの匂いが好きで、クリーム、お香など、日々ラベンダーを使っているのだが、そのことで、匂いに対する印象がふくらんでしまっていたらしい。ラベンダーは、むせそうな芳香をあたりから放っているだろうと思っていたのだが、実際のそれは、ひそかに、奥ゆかしげに感じられるものだった。だがこちらには失望はなかった。逆になにか現実から、さわやかなものをうけとったようで心地よかった。
 同じ場所なのに、わたしの思い描いていたそれと、現実のその場所では誤差がある。知らなかった頃の想像で描いていたそれとはもちろんだが、訪れた後でも、一年のうちに誤差が生じた。香りは、そんな誤差の修正してくれたのかもしれない。修正して、実際の場所と、わたしの描いていたそれとのあいだに、つなぐような、どこでもあってどこにもない場所を描いてくれたのかもしれなかった。
 会場では、ラベンダー畑をぬって作られたテント下で、ラベンダーの鉢植え、ポプリ、お香、ラベンダー・アイス、ラベンダー大福などのほか、野菜や果物などの農産物の販売もされていた。菖蒲町で作った小麦粉を使ったうどんもあり、終了間近です、売り切れになりましたなどと、スピーカーを通して声が流れてくる。普段なら、もしかするとこれもうるさく思うところかもしれない。誤差の場所にて。だが声はやわらかなにぎわいとして心地よかった。それは耳をくすぐるようにして、ラベンダーを見て回っているわたしに静かに降りてくるのだった。帰りぎわにテントをのぞいてまわる。お香や、葉が茂り土まみれになった大根などを買った。こちらは新聞紙でくるんでくれた。そのことも新鮮な出来事として心がさわぐ。テント内のラベンダーのポプリや香水の匂いと、ラベンダー畑の花の匂いとぶれながら重なる。あるいはわたしの手元のお香や花束と、青い土地の匂いが重なる。重なりは、また剥がれてゆくであろう。だが、剥がれながらもつながっているのだ。その場に訪れたという記憶によって。名前を持つ場所として。
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