Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2008-10-25

ある連鎖─しらないことばが絵画をひたし、わたしたちをぬらす


 「ミレイ展」(八月三〇日〜十月二十六日、Bunkamuraザ・ミュージアム)に行ってきた。会期終了間近、平日の午後五時四十五分位についたのだけれど、思ったより混んでいた。入場券を買うのに並んでいたのに、まずすこし驚いた。ここには何度も訪れているが、平日の閉館近い時間に、こうしたことは初めてだったから。けれどもそれはほとんどうれしい驚きだった。共有をかんじるような、静かなざわめき。
 さて、ジョン・エヴァレット・ミレイ(一八二九─九六年)。「一八四八年秋にダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントらと 「ラファエル前派兄弟団」を結成。革新的芸術運動の中心的役割を担い、注目を浴びます。六七歳で亡くなるまで、唯美主義的作品、子供を主題とした作品、肖像画、風景画など、新たな技法を探求しながら、幅広いジャンルの作品を手がけたミレイは、当時のヨーロッパで最も人気のある画家のひとりとなりました」と、公式ホームページにはある。ともあれ、彼の《オフィーリア》(一八五一─五二年)が見たくて、やってきた。
 ハムレットのヒロイン、花を摘みにきて誤って河に落ち、溺死する狂気のオフィーリア。それは私の中では、なぜかオルペウス(オルフェ)と重なるのだった。竪琴の名手である彼は冥界に妻エウリュディケを取り戻しにいき失敗。以後、女性に見向きもしなくなったことから、女性たちに復讐され、八つ裂きにされた後、竪琴とともに川に放り投げられる。オフィーリアも歌を歌いながら川を流れてゆくが、オルペウスの首も、歌を歌いながら川を流れてゆく。彼と竪琴は、レスボス島にたどりつき、彼の竪琴は琴座となる。彼が、ギュスターヴ・モロー、ルドンほか、さまざまな画家、そして音楽家、映画などでとりあげられたように、オフィーリアもまた、私たちに、その姿を、ミレイによって、永遠のように川を通して流し続けるのだった。
 漱石の『草枕』に、このオフィーリアは重要な存在として現れると、展覧会では紹介されている。漱石はこの作品を一九〇一年に《遊歴の騎士》などとともにロンドン留学中に見ているという。若い画工を描いた『草枕』は漱石のなかでも特に好きな作品だったのだが、気づかなかった。多分、その頃のわたしはミレイを知らなかったのだ。
「余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリヤも、こう観察するとだいぶ美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、ただそのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。それで両岸にいろいろな草花をあしらって、…」「土左衛門は風流である」「オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕櫚箒で烟を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気持ちになる」。
 今、こうして立って絵を見ている。シェイクスピア、漱石、ミレイ(そこには、勝手にわたしが想起したオルペウスの要素もまじっているが)、何かまるでこうした人々のあわいを流れるようでもある。かれらの合作の要のようでもあるを。いやそうではない、人々のこれを見たときの感嘆により、わたしたちはつながっているのだといったようななか、仰向けに横たわった美しい彼女が存在するのだ。彼女によりつながる何かたち。またそれは、植物たちとの競演でもあった。ここに描かれた場所は、ロンドン南西のホッグズミル川だそうで、会場にはその写真もある。植物たちとの合作。それはそこに生きているものたちとしての競演でもあるが、ハムレットという文学的な要素がこめられているように、ここにおかれた花の花ことばたちも、絵をつくりあげる要素となっているのだった。柳が「見捨てられた愛、愛の悲しみ」、ケシが「死」、パンジー「かなわぬ恋」、ワスレナグサ「私を忘れないで」、など。だが、それを知らずとも、こうした花はたむけられたものとしても、またそこに存在するものとしても、わたしたちに語りかけてくる。花とともにある生と死としても。日々、咲き続ける花たちのなかで。それは悲劇が日常におかれてあることの謂いでもある。
 会場内でのビデオ上映によると、このオフィーリアは手をあげているのだが、それは殉教者のポーズだという。また、そのうっすらと開いた口は、ほとんど官能的とすらいえるのだが、これは生を描いているのだという。つまり絵のなかに生と死が混在していることからも、リアリティがつきあげてくるのだった。彼女の傍らを流れるヒナギク(「無邪気」)は、根っこをもたないことから、もうまもなく、生花のように生を終えるだろう。歌っている、いまだ生きているオフィーリアがまもなくそうなるように。手折られ、オフィーリアとともに朽ちてゆく花たち。

  ミレイのほかの作品でも、シェイクスピアに限らず、ことばにまつわるものが多い。バイロン、ワーズワース、トーマス・ムーア。たとえば《マリアナ》(一八五〇─五一年)は、アルフレッド・テニスンがシェイクスピアの『尺には尺を』から想を得て詠んだ詩『マリアナ』(一八三〇年)に基づくものだという。婚約者アンジェロに捨てられ、塀に囲まれた中で孤独な生活をおくるマリアナ。ステンドグラス越しに、腰に手をあてたマリアナは光をあびながら、外を見つめているのか、見つめていないのか。上体を逸らした彼女からは寂しい意志のようなものを感じる。日のあたらない陰になったところに蜀台がおかれているが、それは男性器の象徴かもしれない、とあった。それはわからないけれど、暗さからなにかがしのびよるような、それが心象風景とつながっているような、説得力が絵からこぼれていた。

 《ローリーの少年時代》(一八六九─七〇年)は、エリザベス朝の探検家ウォルター・ローリーの少年時代を描いた作品。海岸で、船乗りが海の彼方を指差しながら、身振りをまじえて語るのを、真剣になって聴いている。特にこの海と空にひかれた。それは絵のなかで、あるいはほんとうに語られたかもしれない、冒険に満ち溢れた海と空として、生き生きと波打ち、きらきらと青さを輝かせていた。絵のなかで船乗りの語る見えないことば、聞こえないことばがふるえている。あるいは少年ローリーの希望と期待に満ちた想いがふるえている。船乗りが指し示す海のかなたに、それらのことば、想いが集約されて、無言を語りつくしているのだった。ことばと想いがちりばめられた青い世界。
 たぶん、ミレイの描く人物、表情は、すぐれて表現性が高いものなのだろう。なるほど彼の描く肖像画たちは、そうしたことばをたたえていると思ったが、なぜかもともとあまり肖像画に触手がのびないので、ついそうしたことを感じずにいてしまう。ただ、彼らの表情から、行為から、景色がうかびあがる。その景色がとても鮮やかなのだ。この海のように。

《安息の谷間「疲れし者の安らぎの場」 》(一八五八年)は、教会の庭で、ひとりの尼僧が墓を掘っており、もう片方の尼僧は墓石に腰掛けている。彼女はこちらを向いているので、その美しい顔立ちはわかるのだが、眼差しはわたしたちに向けられず、中空をさまようようだ。その眼の意味はわからないが、多分という解釈はあとで知る。奇しくもあたりは夕空。生と死が交錯するにはふさわしい時間だ、とまず思った。ここでも、この夕空、プラタナスらしき影となった樹木たちに、眼がいった。それは彼女たちのように、画を心底つくりあげ、語っているのだった。こちらをむいている尼僧のちかくに、ふたつの白い花束が置かれている。これは結婚指輪のイメージだそうで、つまり神との結婚をあらわしているらしい。死をとおして、神とむすばれること。だから、尼僧の目は視線をわたしたちと結ばないのだ。尼僧の白いベールが、花嫁のそれと重なるが、あたりはもう夜の気配がたちこめはじめている。白さが生であり、墓石のならんだ夜のはじまりが死であるのは、当然なのだが、こうしたことを含め、さらにもっと、ミレイの絵は語りかけてきてやまない。夕景が心底まぶしい、そして暗い。

 最後のコーナーは、「スコットランド風景」として、風景画ばかり。だが、さきほどからその予感はあった。おそらくわたしはこうした風景にとてもひかれるのだろうと。
《露にぬれたハリエニシダ》(一八八九─九〇年)は、朝靄がたちこめるその下に、露に濡れたハリエニシダ、それらを照らす陽の光が、生気を放って誘うようだ。それは生まれたての生気であり、それは死にたての初々しさもあるかもしれない。この絵もまた、テニスンの詩集『イン・メモリアム』からタイトルを取ったとある。ことばと絵はこんなふうに蜜月をおくることができるのだ。
 《穏やかな天気》(一八九一─九二年)は、文字どおり晴れた木々の歌のような植物たちがちらめく世界だ。これもまたシェイクスピア『ヘンリー四世』と関わりを持つという。「寒さの後の小春日和を、嵐の後の凪をお待ちなさい」ことばは無言にちらめくうつくしい破片となって、絵画に塗りこめられていた。それをひきだすのは、それでも見るわたしたちなのだ。
 肖像画などは、あまり時間をかけずにいたつもりだったが、それでも全体的に知らずとゆっくり観ていたらしい。気がついたら後十分で閉館だ。ミュージアムショップに行き、ハガキなどを買う。カタログは買わなかった。だが、HPでかなり解説をしてくれているというのもあったが、ここでは入り口で出品リストとメモ用に鉛筆を貸してくれるので、リストに残したい思い、ことばをメモすることができ、カタログを買わずとも、気に入った作品については、メモするという行為により、多少近づくことができるようなのだ。こうして書いて、おぼえること。書いて、描いたものに触れること。ミレイのことばが無言でふりそそいでくる。
 「スコットランドは、雨が色の輝きを与える濡れた小石のようだ」(ミレイ)。
 《マリアナ》のステンドグラス窓の下にあるテーブルクロスをかぶった小さい机の上には、秋の葉がなぜか何枚かあった。今自分、東京でも桜の葉などは黄葉がすすんでいる。そうか、もうこんな季節なんだ。机の上の葉が、わたしにむかって、秋をささやいてくれるのだった。知らないことばの静かなざわめき。

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2008-10-15

呼び合う表情


「西洋絵画の父 ジョットとその遺産展 ジョットからルネサンス初めまでのフィレンツェ絵画」展(損保ジャパン東郷青児美術館、二〇〇八年九月十三日〜十一月九日)に行ってきた。HPの解説には、「十三〜十四世紀にイタリア全土で活躍したジョット・ディ・ボンドーネ(一二六七年頃〜一三三七年)は、西洋史上初めて繊細な感情と立体的な肉体を備えた崇高な人間像を描き、三次元的な物語空間を生み出しました。それは西洋絵画の流れを大きく変えただけでなく、自然の探求者レオナルド・ダ・ヴィンチや、感情に生きたゴッホ、色と形を追い求めた20世紀のマティスなど、後世の画家たちがそれぞれの視点から立ち戻る原点であり続けました。(中略)本展では、日本でほとんど見ることのできないジョットの作品四点を招来し、あわせて代表的な聖堂壁画を写真パネルで展示します。また、(中略)後継者たちの祭壇画など三十点も集めました。時代は庶民の信仰とペスト禍の不安が火をつけた聖母崇拝の高揚期。フランスの華麗な宮廷写本や隣町シエナの情感あふれるゴシック絵画にも影響を受けながら、次第に美しい聖母を作り上げていく初々しいルネサンスの夜明けのフィレンツェ絵画をお楽しみ下さい」とある。
 わたしは今まで、このジョットよりもすこし前の時代のゴシック絵画、ビザンティン美術などで描かれた「聖母子」にひかれていた。ロシア正教やギリシャ正教では、その時代のものを板にコピーし、金を散らしたもの(イコン画)が今でも売られているが、そうしたものを数枚持ってもいる。特に聖母(どういう理由だかわからないが幼子イエスは聖母にくらべてとても小さい)、のっぺりとした立体感のない人形のような顔、二次元にある種、簡素化されたことからくる、凝縮、やさしさをたたえているが、無表情な母の顔。
 それからすると、たしかにチラシでみるジョットは、こうした時代の聖母をたしかに継承しつつ、過渡期のもつ、新しさゆえの力がみなぎっているように思えた。それで楽しみにきたのだった。
 さて、また『美学入門』から。「(ルネサンスまでは)光は、神と光というか、ボーっと上のほうから、落ちている画ばかり描いている」が、「自分が、自然や社会を、自分の眼で見ているのだということを、自分でとっくりとわかる時があるのである」あるいは「中世の欧州の絵画のごとく、神の光ともいうべき光の下に絵画がひたされているのである。これをムーテルはソースの中を漂っている絵画という。これもまったく太陽の下で描いているのではないのである。十六世紀までの宗教画は常にこういう茶褐色の光、これは神に照らされたもののみが明るく、神より遠ざかったものは暗の中にいるという宗教的感覚が絵画をかくのごとく描いて、当り前だと思いきったのである」
 これがおおまかにいって、ジョット以前の絵画だろう。光のなかで人びとは平べったいものとして描かれる。まるでまぶしすぎて顔がよくわからないとでもいうように。そしてジョット。展覧会から。
 
 《聖母子》(一二九五年頃、サント・ステーファノ・アル・ポンテ聖堂附属美術館蔵)。まだ光は天から降り注いでいる。聖母の頭の後ろに、ルネサンス以降は見られなくなる光輪がある。だが顔の表情がちがう。それまでの聖母子は、だいたい二人とも真正面から描いたものだったが、この前のチマブエ(生年不明─一三〇二年、ジョットは彼に師事したことがある)あたりから、横向きに描かれはじめた。頬や首に落ちる影、鼻の筋、衣装の襞、それは立体感を出すための画期的な方法だ。
「ところがルネッサンス、すなわち自分がこの世界を見ているのだという新たな驚きにふれた人々は、初めて太陽の光を描いているのだということに気がついたのである。(中略)またこのことはすべての光が自分を中心に集まっているということも人々に気がつかれることとなるのである。いわゆる遠近法、すなわち(中略)自分の見ている目の永遠の焦点のはてに向って、その一点に向って全世界が集められて大体系をなしているということに気がついたのである。」(『美学入門』)
 これは、遠近法の誕生を語っているが、自分の目で見ているということは、人間に焦点をあてはじめたことでもある(古代ローマなどへの人間中心主義への回帰)。ジョットは、人間に焦点をあてはじめた画家といえるだろう。またこの絵は玉座にあたる部分が切断されており、本来はもっと奥行きのある構成だったらしい。そして聖母の表情は、もはや意志を持っている。強さと優しさをそなえたものとして、こちらを見据えている。新しい力がみなぎっている。

 《嘆きの聖母》(フレスコ画、サンタ・クローチェ聖堂附属美術館蔵)は、剥離が激しく、肩まで残った聖母、横向きの顔。構図としてはもともとは十字架の下で涙を流していたものとある。こちらも鼻の付近に影があり、立体的だ。きつい顔だと最初に思った。だが、それは厳しい顔なのだ。嘆きにより、厳しさを増した顔。それほどまでに慟哭が激しいのだ。激しさに耐えているからこそ、きつい表情になっている。それに気づくと、この怖いような聖母が、とても慈愛にみちた痛みに思えてくる。

 ステンドグラスの《殉教助祭聖人》、後ろから光が当てられているので、教会にあるべき姿を想像できる。生気をたたえた、剃髪の男、その肌が光によって、さらに生き生きとしている。そしてテンペラの《聖母子》。かなり破損していて、抱いていたはずの幼子イエスもいない、背景の玉座もない、ただ聖母だけがこちらを見据えている。一見男性的な顔。柔和さと強さをもった表情で真剣なまなざしをしている。二重のまぶたの影、口のほうれい線、目の下のクマのリアルさ。頬に幼子イエスの手だけがそっと残ってなでている。これら三点の聖母は、聖母であるよりも、母だった。そして《殉教助祭聖人》も含めて、四点、並べてみると、あたりまえだろうが、すべて違う人間の顔、ちがう人物として個性を持っている。つまりモデルに忠実に描いたのだろう。そのことに軽い驚きを覚えた。今まではモデルに似せて描くことはなかったはずだから。それは神に似せて描くという没個性だったはずだから。…と現代のわたしが、まるでその時代をしっているようにいうのは奇妙だが、それだけジョットは生き生きとしているのだ。生々しく、時代を貫きつつ飛び越して、わたしたちに新鮮さを差し出してくるのだ。それは当時の新鮮さな息吹をもたたえているだろうが、おそらく今のリアリズムから照らし合わせてみていることからもくるだろう。ジョットのそれは、黎明期の立体表現だから、今からみると、まだ生まれたばかりの感じがある。息吹にたどたどしさがまじっているのだ。それが逆に新鮮にうつるとういう面もあるだろう。それは、プリミティヴ派の持つ平たい画に、新鮮さを感じてしまうこととも通じるだろう。「彼は人体のあらゆる部分を正確に描き出して、人物をこと細かに表現しようとはしなかった。人物を最も基本的なフォルムにまで還元して、単純な形の連なりとして描いたのだが、それが意図的にではなく、内に隠された感情を物語って見せたのだ」(『週刊グレート・アーティスト、ジョット』、同朋社出版)。このことは、プリミティブ派とも共有する面がある。ともかくジョットのフォルムは人間にむけられた故の、人間の内面的な色をあぶりだして、そこにある。
 ジョットは、以上の四点。あとはジョットの工房、あるいはジョットに影響を受けたジョッテスキたちが描いた板絵や祭壇画の展示となるが、その前にパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂壁画や、アッシジのサン・フランチェスコ聖堂壁画の写真パネルが飾られている。それは物語絵となっているが、このなかでとくに《カナの婚礼》、《最後の晩餐》にひかれた。二枚は、長テーブルに座った宴ということで共通している。ここでは立体感はうすれ(もちろん、ゴシック期よりはあるが)、動きが少ない人々が座っている。まるで音もないような世界で、かれらは硬直して座っている、これらの絵をみて、ニコ・ピロスマニを思い出した。たとえば《祝宴》(一九一〇年代)の、こちらを向いた無表情の乾杯のシーンを。もともとピロスマニは、ロシア正教の信者であり、教会などでビザンティン絵画の模写をよくしていたという。『ニコ・ピロスマニ』(文遊島)には、「ピロスマニにとって、目前の現実は、より大きい実在の影のようなものであるから、彼は、むしろその影をつくり出す源のようなものを写し出そうとしたとも言える」(山口昌男)、「(彼が描くものは)、現実に存在しているそうしたものではなく、むしろその影であり、(中略)天上界にあるその原型に近い」(四方田犬彦)とある。これは、「中世期の宗教的封建国家は、プラトンで構成されたところの、上に動かざるエイドス、理想的な象徴があり、その下に無限のフェノメナ、現象が、その影のごとく、その映像をわけもちながら、不完全な形で、生まれ変わり、死に変わりする世界像を、まことに重宝としたのである」(『美学入門』)という、ヒエラルキー的世界の影と一見似ている。つまり、プラトン、アリストテレスの哲学、芸術は偉大なる影を模しているという見方に共通している。「天上界にあるその原型」としての影。だがプラトン的な影の概念が封建国家に見られる垂直的な差を生むのに対して、ピロスマニのそれは、あくまで水平軸だ。植物を一番下、次に動物を二番目、最後に上に人間を乗せたヒエラルキー(こちらの根幹はアリストテレスだが)、数百年つづいたその考えは彼にはない。彼の動物は彼と密接な関係にあるが、それは水平的なものだ。彼の天上界は、地上にある。「この祝宴の光景がこの世のものを直接写したものでなく、彼の心の奥底にある遠い世界の反映であることを意味しているかのごとくである」(『ニコ・ピロスマニ』)

 それでも、ジョットにピロスマニが似ていることがうれしかった。ジョットの工房の作品がジョットに似ているよりも、ジョッテスキが似ているよりもうれしかった。それは意識して、そうあろうとしたことからくるのではなく、ほとんど偶然の出会いをとおして、魂がよびあったようなものだから(実際、ピロスマニはジョットを知らなかった可能性もあるのだ)。六百年の歳月を隔てて、魂たちが似ているのだから。
 展覧会のほかの作品は、すこしいいなと思ったものもあったが、ジョットほどではなかった。祭壇画に屋根がついているのは、家なのだと初めて思い至った。富裕層の台頭により、ますますきらびやかになってゆく、豪奢になってゆく祭壇画。ここではジョットとその遺産だから、ジョットの立体的な描き方、表情の確かさが、各絵に連綿と流れているようだが、主流としては、ジョットの死後、ペストなどが流行ったことを神の怒りと考えたのか、またビザンティン時代へ、厳格なゴシックのほうへ戻っていったらしい。表情がかたくなる。そしていつかある時、ダ・ヴィンチなどと出会うのだろう。ゴッホやほかの誰かとと呼び合うのだろう。海を越えて、時をまたいで。
 会場を出るとまた高層ビル(四十二階)からの夜景だ。東京タワーが見えた。あの向こうに海があるのだろうが、わからなかった。

「ジョットとその遺産展」公式ホームページ
 http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index.html

参考

ベルナルド・ダッディ『携帯用三連祭壇画』1333年。ビガッロ美術館蔵。左右が折りたためる、携帯用小型祭壇画として作られた。


ロレンツォ・モナコと工房『《玉座の聖母子》ほか祭壇画』1420年頃。サンタンドレア聖堂附属美術館蔵。別々に作られた3枚のパネルをひとつにまとめた作品。

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2008-10-05

彼岸花、変化と接点



 今年もまた彼岸花を見に行ってきた。ここ三年間は毎年行っているから、日記にも毎年書いているだろう。だから重複してしまうことがあるかもしれないが、あえて前のはみないでこれを書くことにする。面倒だからというのもあるが、前のを見て、前回書いたから今回は書かないようにしなければ、という制約をあまりしきたくないからだ。そのくらいの自由はもってみたいとふと思ったのだった。
 埼玉県日高市巾着田。高麗川が蛇行し、ちょうどUの字、巾着のかたちになっていることから地名がついている。川の内側、縁の部分に彼岸花が群生している。多分、かれこれ十年くらい前から行っているが、年々観光イベントとして整備が進んでいるのではないだろうか。最初は入場料はとらず、寄付金だった。知る人ぞ知る花の名所だった。トイレの設置も少なかった。食べ物などを売っているところもほとんどなかった。それから徐々に変化していった。入場料を取るようになり、仮設トイレや駐車場の数も増えた。訪れる人が増えたからだ。観光バスのツァーも組まれ、西武線とJRで(どちらも最寄り駅がある)でも宣伝をしている。そして、埼玉で作られた野菜、蜂蜜、木の細工物、物産などとともに、食べ物も扱う仮設テントも立ち並び、年々賑わいをみせてきている。少しずつ変化していってるのだ、とそのことに今さらながら気づくと、何か物珍しいような気がしてくる。変化はなかなか見えにくいものだから。
 変化といえば、十年前には多分なかったと思うのだが、ある年から、コスモス畑が出現しだした。彼岸花が巾着の縁近くに沿ってだとすると、コスモスは巾着の袋の真ん中のあたりに、ぽつんと。ところが、どうしたことか、今年はコスモスが大量に増えている(三万三千平方メートルに種を蒔いたとのことだ)。巾着の袋のかなりの面積をしめて、ゆらゆらと咲いている。茎がほそいからか風にすぐ反応する。風をみえるものにしてくれるのだ。わたしはコスモスにはあまり思いいれはないのだが、圧巻だった。花の種類は違うが、一面の赤い雛罌粟を描いたモネの絵を思い出した。《ひなげし》(一八七三年、オルセー美術館)、こんな風に揺れていたのだろう。風と光が見える。その縁を彼岸花が縁取っている。


 そして変化に思い出をまぜてみる。ここではないが高麗川は、わたしが小学生の時の遠足や林間学校でも訪れたところだ。その頃も、もちろん清流だったが、今も驚くほど水が透んでいる。こうした変わらなさはうれしいものだ。

 彼岸花は、その名のとおり、彼岸前後に咲く。例年、そのあたりに出かけるのだが、今回は九月二十七日で、少し遅い。例年だとまだ開花していないものもあるのだが、今回は早咲き地帯はもう花が終わりかけていたが、遅咲き地帯は満開といったところ。終わりかけた花をみるのは、痛ましい気もしたが、代わりにいつもつぼみだったものが、ほとんど花開いているので、その分、赤の密度が高い感じがした。赤が凝縮してそこにあるのだ。つぼみだと、そこだけ赤い平面にあいた小さな緑の穴のように見えるのだが、その穴が今年はほとんどない。そんな風に、どちらがいいと、いちがいにいえないのかもしれない。そして多分、いえないからこそ、奥行きや趣があるのだ。彼岸花は花が終わったあと、葉を出し、そのまま次の年の五月まで葉を付け続けた後に地上部を枯らす。だから冬は葉をつけたままなのだが、巾着田のパンフレットでは、冬の彼岸花の葉も、季節の呼び物にもしていた。あたり一面枯れたところ、雪さえ降っているかもしれない、そんな場所、冬枯れの木立の下で、葉が群生しているのは、多分目をみはるものだろう。それは花の季節だけがいいとは、いえないということを十分に、広げる光景だろう。もちろん観光客を集めるための誘いでもあるだろうが。
 わたしは彼岸花に何を求めているのだろうか。彼岸花を見に来ている人は今年も多い。以前のわたしはこうした人ごみを嫌っていた。十年のうち、その気持ちもだいぶ薄れてきたようだ。嫌っているのは、それだけがすべてではないが、彼らと関係を持ちたかったというのもあるだろう。今も関係を持っているわけではないが、それを認めた分、あまり気にならなくなってきた。あるいは、こうして彼岸花を見に来ていること自体が、ひとつの関係として感じられるようになったのかもしれない。
 といっても、この赤い凝縮たち、敷き詰められた赤たち、それをひとけのない、たとえば早朝にでもみてみたいとは思った。霧とまではいかずとも、朝露をおびた、真っ赤な気配だけが横たわる静謐を感じてみたいと思った。こうして人々と花をみている、その今でも、朝の静かなたたずまいはなんとなく想像できた。それは想像のもたらす、彼岸花との出会いだった。
 『美学入門』(中井正一、朝日選書)を再読している。彼岸花よりももっと前に初めて読んだ本だ。これによると、「人間が、自然の中に、自分の自由なこころもちを感じる時、それを美というのである」と、ドイツの詩人シルレルがいっているという。自然に、接点をもとめているのだ、ともいえる。人々に対するわたしの変化も、接点ということばに近づけて語ることができるかもしれない。
 地獄花、死人花、幽霊花、墓花、血のような色と、墓地でもよく見かけることからこうした不吉な名前をつけられたという。だが、ここでみるその赤さは、ひとびとのにぎわいのなかで、見ているせいか、ほとんどまがまがしくない。血は連想させるかもしれないし、そこに幾分かの不吉なものを感じることがあるかもしれないが、それは生きているかぎりつきまとう死、としてでしかないような気がする。墓に多いのは、ネズミ、モグラ、虫などがその鱗茎の毒を嫌って避けるために、土葬の死体が掘り荒らされるのを防いだことによるという。畦に多いのも、作物が荒らされるのを防ぐためだ。死体のために、そして作物が育つために、いわば生のために。
 また鱗型は、毒を持つが、でんぷん質も多く含まれるため、水にさらし、飢饉などの非常用の食物としたそうだ。両義性をもち、混在させてあると、そのことに意味を持たせてしまいたくなる花の群れたち。ちょうど、忌み嫌われていたはずなのに、こうして人々が物見遊山的に訪れる花であることをも群生にひそませて。毒をもつ澱粉、死人花という、地下を想起させる花の別名、曼珠沙華は、法華経中の梵語で、“天上から降る赤い花”の意味を持つ。
「ルネッサンス、すなわち自分がこの世界を見ているのだという新たな驚きにふれた人々は、はじめて太陽の光を描いているのだということに気がついたのである」(『美学入門』)この光については、あとで別のところでも使いたいが、ともかく、自分がこの世界を見ている、ということはわたしにとっても、今さらながら軽い驚きだ。見ているという実感から美的な驚きがくることは、通常は忘れられがちなことだからだ。わたしが見ていることから、彼岸花と関係がうまれる。わたしたちが。
 小学生高学年から中学三年生までの数年間、亡父と自転車であちこち、花を見に行った。シュンラン、フデリンドウ、ナンバンギセル、ガマズミ、アザミ、キツネノカミソリ、アキノキリンソウ、オミナエシ。彼岸花は川原で群生しているのを見た。それは竜神伝説が残る小さな沼を基点の水源として流れる小さな川だった。傍には葦だかススキが生えていた。遅い午後だったと思う。彼岸花は近づく夕暮れの前触れのように咲いていた。それはだから夕焼けのようにやさしい、けれどもかなしげな色をしていた。竜の伝説が、もはやほとんど忘れられた彼方から、声を発している、そのことを思い出にからめながら。あるいは、おそらく父との散策は、ほとんどそのあたりで最後だった。だから、やわらかな思い出に咲く花として、彼岸花はわたしのなかにやさしい色として、花をひらいているのかもしれない。それとは別に、やはりどこかに墓場で見た印象も残っている。花自体が毒であると長らく思っていた記憶もある。また、忌み嫌われているものへの、判官びいきに似た感情もある。わたしのなかのそうした混成された花を、今見つめている彼岸花には映っている。わたしたちは、ひとりひとり、同じ花を眺めながら、べつの世界をもそこに差し入れているのだ。あるいは今見ているそれが、またわたしのなかで混成されるのだろう。
 今年の彼岸花は、どちらかというとやさしい赤を強めていた。人々がたくさんいる。そして例年、そんなことがなかったのに、今年は、何人もの二人連れに、写真を撮ってくださいとお願いされたのに驚いた。若いカップル、年配の人たち。みるわたしの表情が変化していたのだろうか。接点。わたしもまたしらずと変化しているのだろうか。そういえば、巾着の中に、馬場がある。これはいつから出現したのかしらない。あるいはずっとわたしが気づかなかったのかもしれない。ともかく今年は引き馬をして一周、小さな子供をポニーに乗せる、ロバに触る、ニンジンをやる、などの催しをしていたのだが、それは多分今まではなかったことだ。これは巾着田側の変化でもあるだろうが、わたしが動物を見るのと、彼岸花を見るのを、べつのものと捉えていたから、気づかなかったふしもある。今までは馬にあまり気に留めていなかった。彼岸花を見に来ているのだから、馬はいい、と。こうした不自由さも時には必要だろう。だが、今年はなぜかすんなり両方に入ってゆけた。馬を感じに行くことに、ためらいがなかった。思ったよりも硬い、馬の毛、体。そして瞳。
 彼岸花にわたしは何を求めているのだろうか。接点は、おそらく花を見つめるその見方にある。それは変化も含めて、映しだす、移りゆく瞬間なのだ。変化もふくめて、花たちが咲いている。


巾着田公式HP http://www.kinchakuda.com/
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