Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-01-27

新日曜美術館、ピロスマニ



 一月二十五日の新日曜美術館は、ピロスマニだった。「絵筆とワイン、そして自由 グルジアの愛した画家ピロスマニ」。
 ニコ・ピロスマニ(一八六二─一九一八年)はグルジア東部の農村出身で、八歳で首都トビリシに出た後、独学で絵を始める。放浪しながら一杯のワインや絵具代とひきかえに看板や人々、動物などを描き、孤独と貧困のうちに亡くなっているが、今では国民的画家だ。絵の特徴、その平面的な要素、稚拙といわれる表現から、プリミティヴ派にくくられるが、独学の彼はどこにも所属したことはない。平面的なのは、グルジア正教のイコン画を模写していたことにもよるだろう。
 私は去年、渋谷のBunkamuraで開かれていた「青春のロシア・アヴァンギャルド展」ではじめて彼を知って、すっかりファンになってしまった。特に彼の描く動物に。この辺りのことは、日記などでも書いているので、省略する(http://www.haizara.net/~shimirin/on/umino_02/poem_hyo.php?p=1)。
 昨日、テレビを見ていて、少し思ったことは、彼は八歳で両親を亡くしているので、たとえば家族といた頃の情景が、故郷(帰れない場所という意味で)としても絵に入り込んでいるのではなかったか、ということ。それはピロスマニの幼年が、絵に含まれているのでは、ということでもある。かれの一見稚拙な絵には、なにかしら子どもに近しいものが宿っている。「もはや子供でなくなったとしたら、すでに死んでいるのです」(コンスタンティン・ブランクーシ)、「天才とは自在に取り戻された幼年である」(ボードレール)。私はこのことばが好きだった。ピロスマニにひかれるのは、そんなことにもよるのかもしれないと。もちろん、それだけではないのだが。
 新日曜美術館で、グルジアの空、自然、宴の風景が見れたのは良かった。思っていたよりも空が青かった。彼の風景は、絵具の少なさにもよるのだが黒っぽいものが多いので、もっと暗い土地かと思っていたのだ。また影響をうけたであろう、イコンを映像のなかで見れたことも貴重だった。もっと古い時代に書かれたものの模写かなにかだと勝手に思っていた。つまり、もっと二次元的な、ジョット以前に描かれたものなのだと。映像のなかのそれはピロスマニの描くものよりも、立体的だった。つまりピロスマニの描く平たさは、彼の個性そのものなのだ。また、グルジアでは人の眼をまっすぐみて話さなければならない、というのを聞いて、ピロスマニの人物たちがまっすぐこちらを見つめていることをなるほどと頷かされた。
 「青春のロシア・アヴァンギャルド展」は、巡回展として、埼玉県立近代美術館にやってくる(二月七日─三月二二日)。また彼に会いにいく。
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2009-01-25

の、あいだをつなぐものたちへ


 「セザンヌ主義」に行ったおり、横浜美術館で「追憶の羅馬展」(大倉集古館、二〇〇九年一月二日〜三月十五日)のチラシを見つけた。日本画の展覧会だ。その前に出かけた山種美術館の光景が浮かび(山種でお気に入りの速水御舟、竹内栖鳳の名前もチラシには載っている)、行ってみようと思った。山種美術館、横浜美術館、そして大倉集古館。何かリレーのようだ、手渡され、繋がってゆくようだとすこしうれしくなる。
 虎ノ門にある大倉集古館は、ホテルオークラ創始者大倉喜七郎の父、実業家大倉喜八郎が一九一七年に創立した私立美術館だそうだ。中国風の重厚な建物で、石像たちが出迎えてくれるのも、なにか身がすがすがしくひきしまる。
 さて、この「羅馬展」は通称で、正しくは「羅馬開催日本美術展」といい、一九三〇年(昭和五年)、イタリア政府主催でローマで開催された日本美術を紹介する展覧会のこと。横山大観を中心に、当時の日本画壇を代表する日本画一六八点が出品した。大倉喜七郎がこの展覧会を全面的に支援した関係で、出品された作品たち、資料などが大倉集古館にかなり残っているらしい。この「追憶の羅馬展」では、入れ替えなどはあるが、絵画作品三十一点のほか、手紙など資料、写真を展示。
 最初は横山大観の「羅馬展」展覧会ポスターで始まり、次に彼の《山四趣》《瀟湘八景》などの紙本墨画に。その墨で描かれた静かな世界たちに圧倒される。たとえば《瀟湘八景》(うち烟寺晩鐘、昭和二(一九二七)年)。霧にけぶる山と水(湖かもしれないし、大河かもしれない)。霧は雲のようだし、その霧は、水面にかかって、境界をなくしているので、一瞬、空のように思ってしまう。その感覚は、その上に描かれた山によって違うと正されるのだが、それでも霧はまだ山にかかる雲のようにみえるので、余韻のように空を感じている。だが小さな舟が浮かんでいるのにすぐ気づく。気づいてもなお、空と水の境界のなさのようなものをそこに見出し、心地よくなってしまう。わたしはこうした景色、たとえば海と空の境界線がうすれて見える曇り空とかに、とても心をひかれてしまうのだ。空と地の融合を夢見ることは、なにかしら原初の記憶への郷愁のようなものがあるのかもしれない。こうした見方は、ほんとうの姿をみないでいると、間違いを指摘されるかもしれないが、にじんだ境界、みえない境界として、確かに描かれているのをみて、やはり世界からやさしさをもらったような気持ちになるのだった。

横山大観《瀟湘八景》

 菱田春草《雨後》(明治三十四(一九〇一)年)は、羅馬展出品作ではないそうだが、こちらも水の景色で、彩色されている。小舟に乗った釣り人が釣竿を細く伸ばしているのだが、それもまた、水と対立していないといおうか。可能な限り、水と呼吸を同じうしているといおうか。境界がにじむように溶け合っているわけではないのだが、水と気持ちを接しているように見えるのだ。それはおどろくほど静謐だ。岸に多分柳だろう、緑をぼかしただけで描いてあるのが、魔的に静けさを増長する。聞こえてくるのは、おそらく枝に残った雨の雫がたれてくる音か、魚のはねる音、舟がきしむ音などだけだろう。そして柳のうえの空は、今度は水とではなく、柳の生えている地面と、色あいをひとしくさせている。ごく薄い茶色だ。空と地面が似通ってあることに壮大な出会いを思った。水とばかりではない、空は接する地平において、むすばれることもあるのだと。雨の後の、りんとした空気がつたわってくる。

菱田春草《雨後》

 そうして猿、馬、牛、鳥…この頃の癖で、また動物たちに目がいってしまうのだった。この会場では、水から動物たちへ、わたしのなかの過渡期、淡いにある絵としては田中咄哉《水鳥》(昭和四(一九二九)年)に吸い寄せられた。つまり、水と動物として。こちらは紙本墨画。背景いっぱいの水面で、右脇に葦や、草の実が描きこまれている。そして中央に鴨だろうか、水鳥が二羽。一羽はデコイのように、首を水面から持ち上げ(つまり通常よく見られる姿)で、もう一羽は、お尻をあげて潜ろうとしている。顔半分はもう水の中だ。この背景いっぱいの水面に、さきほどからの連想で、空と水の混沌ではない融合を思った。まるで空を水鳥が泳いでいると。あるいは空にしわがよっているようだと。そのひだのあいだを鳥がわたる…。このイメージにたぶん最初にひかれたのだろう。つぎに鳥の表情というか、姿かたちに。それはいくぶんデフォルメされているようにも見える。頭と首の境がないのが恐竜のようにも見える。空想の鳥が水面にいる、たくさんの面をもった鳥が。そのことは、「セザンヌ主義展」でセザンヌに感じた印象が、まだわたしのなかでくすぶっていることからくるのかもしれないが、この《水鳥》においても、作者の見た姿を特に鳥に濃厚に残しながら、再構築していると思ったからだ。特に鳥といったのは、草たちはその意味では、現実にあるままのように描かれてあるのだが、鳥だけは、実際の鳥と作者の鳥の合作なので、その種類がわからない、あるいは、そうした合作に、ほかのたくさんの生き物の要素が付着し、それもまた合成され、鳥の影をつくっているのではなかったか…。ネッシーのような鳥に、そんな感じをうけた。鳥たちのまわりだけ、ぼうっとあかるいように、白くなっている。影のまわりは明るいのだ。反映が水を照らしている。その鳥はとても心に残った。つれて帰りたい。あるいはその要素たちの合わさった姿に、空と水の合わさった景を、重ね合わせてみていたのかもしれない。もちろん、作者と鳥の関係を、鳥とわたしたちの思い描いたそれとの関係にも重ねてもいただろう。ともかく、どんどん愛着がわいてくる。顔はどちらかといえばひょうきんだ。つれて帰りたい(残念ながら、絵葉書もなく、図録のようなものにも写真がなかった。チラシの裏に小さく写真が載っているものをみて、今これを書いている)。影に影が重なり、境界がにじんでゆく。
 水鳥をつれて帰れないので、次の作品へ。境界のにじみはつづいている。小林古径《木菟図》(昭和四(一九二九)年)。背景の上部は暮れ残ったような明るい黄色で、下方へ行くにつれて暗くなってゆく。最後は焦げ茶。暮れ残ったようだと思ったら、これは夕景だと作品解説にあるのでうれしかった。そう、また不分明なにじみなのだ。下方の夜に灯ったように紅梅が咲いている枝、枝の上に一羽の木菟。枝は、花の近くはすっかり夜の領分に入っている、つまり枝が夜にとけて見えない。枝が見えなくなる寸前の場所に、そして夜と昼の真ん中に、木菟が止まっている。夜の羽の色と、昼の光を持った目で。境界の体現者のようだ。こちらを見つめているその姿に、その景ごと、暗さと明るさとして、わたしにそそいでくる。

小林古径《木菟図》昭和四(一九二九)年

 そうしてわたしのなかの過渡期も暮れてゆくか、明けてゆく。あるいは不分明さは木菟をとおして、動物のなかへ潜り込んでゆく。川合玉堂《暮るる山家》(大正七(一九一八)年)も、そう言いながらもまた夕景だが、山を背景にある家の庭に、馬が洗われている、そのほとんど馬だけに目がいった。馬を洗う桶から湯気が出ている。その湯気に吸収されてしまったのだ。馬のはりのかんじられる肉に、その目の静けさにだけ。
 むこうに鮮やかな陰影が走ったと思った。竹内栖鳳《蹴合》(昭和四(一九二九)年)。目の前に立つ。今度こそ動物だから、ひかれたのだと思った。二羽の軍鶏が羽を広げ、足を上げ、戦いをしている場面。黒、ねずみ色、茶色のまだらの羽、黄土色の足、それは少しもきれいな色合いではないのだけれど、まず、印象どおりに、色が鮮烈に感じられた。毛の一本一本が、鮮やかに、うごめきあっている、そして顔が赤い。この赤が激しかった。鳥肌のぶつぶつした質感が、怒りのように伝わってくる。動きがまざまざと感じられる。これらすべて鮮やかなのだろう。軍鶏たちは、隙をうかがって、息をつめているようでもある。それはもしかすると、静と動の接点、均衡のぎりぎりなのかもしれない。そうなると、また境界線の話なのだ。

竹内栖鳳《蹴合》

 さて目当ての速水御舟は、この日は展示されていなかった。彼が目当てだったが、さほど残念ではなかった。御舟は、後日(二月十日〜三月十五日)《鯉魚》が展示されるらしい。また観にくればいいのだ。入り口(出口)近くで、画集や絵葉書が、ひっそりと売られている。わたしは基本的には現物を見なかった作品の絵葉書を買ったりはしないのだが、彼と何人かの画家は別なので(そうして彼らの画集に、絵葉書を挟んで、画集の絵を増やすのだ)、一枚買って外に出る。
 庭園を一周した。空が晴れている。日差しのぬくもりがわずかに感じられるのは、冬の遠い太陽の下では、それはそれで心地よい。だが曇り空の日に、速水御舟を観にまた来ようと思った。あるいは夕刻に、雨の後に、鯉を観に。空に浮かぶ舟、境界を泳ぐ鳥。朝と夜のあいだをつなぐ生き物たち。鯉はどこを泳ぐのだろうか。



庭園、外観
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2009-01-15

セザンヌのリンゴたち(多面の一面)


 横浜美術館で開催されている「セザンヌ主義 〜父と呼ばれる画家への礼賛」展に出かけてきた(二〇〇八年十一月十五日〜二〇〇九年一月二十五日、以降北海道近代美術館へ巡回 二月七日〜四月十二日)。
 簡単にいってしまえば、ポール・セザンヌ(一八三九─一九〇六年)と、日本を含む彼に影響を受けた二十世紀前半の画家たちからなる展覧会。セザンヌが四十点、他の画家が百点。内訳はポール・ゴーギャン、エミール・ベルナール、モーリス・ドニ、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、アンリ・マティス、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、アメデオ・モディリアーニ、モイーズ・キスリング、マルク・シャガール、有島生馬、安井曾太郎、岸田劉生、森田恒友、佐伯祐三、黒田重太郎、中村彝、前田寛治、木村荘八、林倭衛、小野竹喬とある。
 ここにも出展されているヴラマンクが、ほとんど駆け出しの(同じく一点出展されている)佐伯祐三が持ち込んだ絵をみて、「このアカデミック!」と罵倒したことがある。一九二四年、ヴラマンク四十八歳、佐伯二十六歳の時のことだ。ヴラマンク自身は、一九一〇年頃、確かにセザンヌの、特に建物に見られる面を意識した画風を一時期髣髴とさせるものを描いたことがあったが、それはあくまで模索途中の習作のようなものだったと思う。つまり罵倒に込められた意味には、個性をということが多く含まれているのだろう。あるいは影響を咀嚼し、自分の肉とすること。ちなみにこの展覧会に出品されているヴラマンクの絵は、セザンヌの影響はもはやまったくといっていいほど見られない、ヴラマンク独自の画風となっていた。塗りたくったような水、荒々しい空(カタログを買わなかったので、残念ながら絵の題名が判らない)。
 つまり今回の展覧会の趣旨、セザンヌの影響をうけた云々というので、作品が並べられることには、あまり興味がなかった。それは概ね、習作、練習のようなものだろうと。それに、うえにあげた画家たちには、ヴラマンク、モディリアーニ以外にはもともとそれほどは興味がない。ではなぜ行ったかといったら、単純にセザンヌその人の作品に惹かれているからだ。だからといって礼賛ということばにもちょっと違和感があったが。また、この横浜美術館のミュージアムショップ、そして収蔵品にも吸い寄せられるものがあった。ルネ・マグリット、オディロン・ルドン…。
 さて展覧会。モディリアーニ、ゴーギャン、ピカソ等の作品は、ヴラマンクのように、影響の痕跡が見えにくいものだった。それほど肉となっているのだ、つまり影響との葛藤による戦い、その後としての、個性が浮き出ているのだろう(あるいは、もしかするとさほど影響を受けていないのかもしれない)。だが、なかにはうんざりするほど、というか素通りしたくなるほど、セザンヌもどきのものがあった。似非セザンヌ、ひらべったい絵画。絵画は、平面に独自の奥行きをもっているものだ。窓のように、架け橋のように、閾のように。だが、こうした平たい似非セザンヌ画はどこにも行き着かない。なかには未だ、習作、過渡期のもので、これで判断してはかわいそうなものもあるだろう。そう、わたしは影響がわるいといっているのではない。それは模写のようなものだ。模写から始まるのだ。詩や文章だってそうではないか。わたしだってずいぶんとお世話になった人がいる。だが、そこで留まっていてはいけないのだ。つまり、「このアカデミック!」だ。この言葉にからまる思い、念、そうしたものたちの対極にある、戦いがこうしたもどき画、もどき文にはない。これを、セザンヌはこうした似非セザンヌ作品を描かせてしまうほど、すごい人だったんだ、という証明としたいのなら、だまっているほかないのだが…。これらのことは、実は触れないでいるつもりだった。こうしたことに共鳴や感動は感じないから。だから以降は置いておき、出展されていたセザンヌ作品について語りたいと思う。
 といっても、セザンヌにわたしはなぜ引かれるのかわからない。彼の絵を評する言葉として、この展覧会では、堅牢ということばをたびたび眼にした。堅牢さとやわらかさの混在、堅牢に現実を再構築…。最初に人物画が並ぶ。わたしはあまり人物画が好きではないのだが、かれの人物画は、ほとんどほかの静物画とスタンスがおなじなのではないかとふと思い、興味をひいた。構成に差別がないのだ。彼の描く静物は一見いびつだ。例えば《リンゴとナプキン》(一八七九─八〇年 損保ジャパン東郷青児美術館)の傾きすぎたテーブル、ふくらみのおかしいリンゴたち。だが、それは静物を様々な角度からみる、わたしたちの通常の視線を前提にしているのだ。実際、ひとはそこにあるリンゴをそのように見ているはずなのだ。こんな風にリンゴを多角的にとらえる、リンゴを人間の視線であちこちから見つめる。つまり、そんな態度で、人物に対峙していると思ったのだ。チラシになっている《青い衣裳のセザンヌ夫人》(一八八八─九〇年、ヒューストン美術館)は、夫人が真正面を見つめているのだが、その一見しただけでは無表情にみえるところに、複雑なものがまじっているのだ。あたかもすべての表情をたたえているからこそ、無表情である、といったように。リンゴがさまざまな角度からみられているように、だ。また、顔の楕円、襟の丸み、家具の曲線と直線、ドアの直線、こうした曲線と円で、多彩な面たちをくりひろげてもいるのだった。そうすることで、対象を理解しようとしているように。圧倒的な質感と量感がそこから花ひらく。

《りんごとナプキン》

 次にセザンヌの描く裸婦たちをみて、彼にはやはり、静物画、人と植物、さらには生物と無生物のちがいすらないのだろう、差別がないのだと、また思い、心が動いた。《入浴》(一八八三─八七年、大原美術館)は、樹々にかこまれた泉のほとりに五人の裸婦。彼女たちの肌は樹から受け渡されたかのような緑色を含んでいる。ある裸婦の腕はほとんど枝のように樹に溶けようとしていたり、下草に置かれた手も、緑のなかに埋没している。緑の葉、緑の肌。それもまた、質感、量感たちのはなつ生の多角的な場面の凝縮なのだ。樹々が自然であるなら、わたしたちもまた自然なのだと、緑の息のような筆遣いが画面から伝えてくる、伝わってくるのだった。

《水浴》

 セザンヌは、印象派の世代だが、彼らの光を追い求める技法とは距離を置き(あたかも人づきあいが苦手だった彼のままに)、「むしろ絵画は、堅実で自立的な再構築がなされるべき」だといったという。そんな彼が描いた《水の反映》(愛媛県美術館)は、一八八八─九〇年であるので、遅咲きの彼としては、初期の作品となるだろう。樹々と、水門を持つ池。池に樹々が映りこんでいる。これだけ書くと、印象画のそれのようだろう。けれども、反映しているそれらは、ここでいわれるとおり堅牢なのだ。反映のなかに、直線を駆使した面が水中楼閣のように存在している。頑なといっていいほど、水らしさのぎりぎりまで、その堅さをまもろうとしているようだ。画家の、いやわたしたちの目によって、再構築された世界として、そしてそれだけが、凝縮なのだと、画面から水がうったえかけてくるようだった。

セザンヌ《水の反映》一八八八─九〇年 愛媛県美術館

 ほかには以前どこかで書いた(このHPの上海異人豹館に『隔たる“郷”─ポール・セザンヌ』として転載してある)サン=ヴィクトワール山を描いたもの(《ガルダンヌから見たサン=ヴィクトワール山》一八九二─九五年 横浜美術館)に出会えたのが懐かしいようだった。彼はこの山の近くに幼少時に住んでいたのだが、三十九歳の時にまた移り住み、以降十年間、この山を描き続けた。以前見た同じ山よりも、ずいぶんと低い。見た場所が違うからだ。それが面によって現れている。リンゴたちがたくさんの面からひとつのリンゴをなしているように、この山もたくさんの面をもっているのだ、そしてそれはリンゴよりも大きいので、その面をすべて一枚のなかに収めることができない。だからこそ、十年もの間、さまざまな場所から角度から描いたのだ…そうした主張も(もちろんそれだけではないから)成分としてありうるだろうとふと思った。台地の肌色、空のくもったような、セザンヌ夫人の衣裳のような薄い青、これらが何枚かのこの山の絵に、ほとんど共通してあることにひたりながら。多様な面を再構成して描くことで、印象派とはちがった仕方で永遠をぬりこめていたのだろうか、と。

セザンヌ《ガルダンヌから見たサン=ヴィクトワール山》

 企画展会場を出て、横浜美術館所蔵品を展示したコレクション展のほうへ。ミュージアム・ショップの絵葉書でおなじみのルネ・マグリットの《青春の泉》(一九五七─五八年)の実物をはじめてみれたのがうれしい。石でできた鳥、石でできた葉のような木(葉脈が枝のようになっている)。だが、この石は実物をみてみると、生きているようなのだ。これも面のなせるわざなのか…。夕景にそびえたつ、石の生き物たち。


 さて帰ろうとしたら、展望室があることに気づく。今まで何回も来ているのに気づかなかった。横浜のみなとみらい地区にあるここは、埋立地なので、海に近い。エレベーターで八階へ。海がきっと見えるだろう。水に焦がれる想いで東を望む窓にすすんだ。ビルの谷間に、わずかな水の青。こちらは、水の見えなさに、すこし落胆したのだが、夕暮れ間近で、満月が空にうかんでいるのが、心に響いた。それはずいぶん大きく見えた。デジカメで写真を撮る。見た目よりも大きく写らない。つまりセザンヌのリンゴなのだ。見ることでわたしたちは再構築しているのだ。暮れ残ったほとんど昼のような空に浮かんだ満月はとても大きかった。
 真後ろの西に細い通路がある。そこは展望室ではないが窓がある。連れが呼ぶのでいってみたら、こちらでは夕焼けに染まった富士山が見えた。サン=ヴィクトワール山を思い出すというより、そのときは、富士山の大きさ、そして富士山からすこし離れたあたりにまさに沈まんとする太陽の位置が気になった。こちらも見た感じだと、もっと富士山は大きいし、もっと太陽と近いのだ。人の目は、その意味ではいい加減なのだ。その場を動かなくても、目だけ動かし、角度を変えて、眼前のものを構成してしまう。セザンヌのリンゴたち、セザンヌの山たち。


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2009-01-05

出会いたちが閾をまたいで



 もう去年の話になってしまうが、暮れに「琳派から日本画へ ─宗達・抱一・御舟・観山─」(二〇〇八年十一月八日〜十二月二十五日)を観に山種美術館に行ってきた。千鳥ケ淵が近いので、堀沿いの緑道を通る。桜で有名な場所だ。花見の頃は緑道は横五列で並ばされ、花のために立ち止まることを許されず歩かされたりする。今は殆ど人通りもない。すっかり葉も落ちてしまった桜の樹々を眺めながら歩き、印象の違いを面白いと思いつつ、桜の枝ぶりに、堀の景色に、春の景色を彷彿とさせもしている。堀の対岸(というのは妙かもしれない。だが皇居などは見えず、高い土手がそこにあるだけのようなのだ)の草草が、まだ青い。まるで早春のような色をして、枯れ残っている。こちらでは、椿がちらほらまだ咲きのこっている。この時期、十二月も終わりともなれば、あたりは枯れた色ばかりだと勝手に思い込んでいたので、まだこんなに植物たちが息づいて見えることにも、新鮮な驚きを感じていた。堀を鴨たちが行く。散策路沿いに、人に慣れた猫がいる。もぐったままだった水鳥が、勢いよく音をたててようやく水面に出没する。



 さて展覧会。私は琳派については殆ど無知で、さして興味もなかった(だから秋まで上野でやっていた「大琳派展」にも行かなかった)。ただ山種美術館に行くと、必ず何かしら出会いがある。そして副題に御舟とある。ここで出会った速水御舟にすっかり惹かれてしまっていたので、彼の作品で、まだ何か出会いがあるかもしれない(チラシやポスターには、知っていたが実物を観たことがない、彼の《名樹散椿》が使われている)。そう思ってきたのだった。
 というわけで、知識が殆どないので、まずHPの紹介などを元に展覧会の趣旨を書いてみる。「「琳派」は、十七世紀の俵屋宗達、本阿弥光悦にはじまり、やがて尾形光琳や乾山へ、そして、江戸後期には酒井抱一、鈴木其一らが先達の技法を倣う「私淑」という形で受け継がれてきた。二十世紀に入って、宗達の再発見、研究が進み、一九七〇年代以降に光琳の「琳」を冠した「琳派」という名称が一般的に定着。「琳派」の作風や画法は、絢爛豪華な様式美、斬新な意匠美、おおらかな水墨画など。これは近代の画家たちに多く影響を与えている。ここで出品される下村観山《老松白藤》、速水御舟《名樹散椿》の華麗で装飾的な作風の屏風は鈴木其一《四季花鳥図》に通じ、奥村土牛《犢》に見られる水墨の「たらし込み」の技法は、琳派の画家たちが好んで使用した、宗達が創案した技法である」…。さて結論からいえば、来てよかった。新たな、大切な出会いがあった。だが、琳派としてどうとかはとてもではないが、付け焼刃の知識から語ることが憚られるので、普段どおりに出会いについて書いてみようと思う。



《彩秋》《桐雙雀》

 入ってすぐに福田平八郎(一八九二〜一九七四年)の《彩秋》(一九四三年)が眼をひく。白地で、下方に銀灰色のススキたち。つまり白地にほとんどとけたくなっているような、うすさが特徴。その上方三分の二を、対比的にうってかわって青、緑、黄色、オレンジの木の葉たちが秋の彩りをみせている。だがそれは華やかさばかりではない。灰緑、黄土色、こげ茶などがあるからか、ひとつの生の終わりを感じる。もうすぐ落ちてしまう葉の最後のさんざめき、そのどこかさびしいような瞬間が絵からにじみでていると思った。彼の絵ではもう一枚、《桐雙雀》(一九四二年)に心が残った。赤や茶褐色の桐の枝の脇に、二羽の雀が幾分単純化され描かれている。二羽寄り添うようにいるからだろうか、太っているからだろうか、絵から温かいものを感じる。


《飛雪白鷺》《菊小禽》

 酒井抱一(一七六一〜一八二八年)は五点出品。《月梅》(江戸後期)の、さびしいような、けれども凛とした梅の枝ぶり。寒さを感じさせる暗い背景、そのなかで明かりのように白い梅の花…。寒さと温かさが拮抗しあっているようだった。まずこの一枚にひかれた。次に《十二か月花鳥図》のうちの二枚、《飛雪白鷺》(一八二三─二八年)、《菊小禽》(一八二四─二九年)。前者は葦や菊の生える水面に白鷺が一羽、一本足で立っている。上には、飛来してきたのだろう、もう一羽の白鷺。細い葦の葉、茎が枯れて折れ曲がっているのが、冬の到来を予兆させて、何か哀しい。その葦に、菊に、背景とほとんど区別のつかない、水面に、輝きのような白い繊細な点、点が描かれる。雪だ。最初、ほんとうに輝いているのだと思った。枯れ行く草たちが、最後の輝きをみせているのだと。それは白鷺の白い羽とよく合っている。下にいる白鷺の眼がやさしげだと思う。季節は十二ヶ月中の十一月。個人的なことだが、わたしが十一月生まれなので、これはうれしかった。後者は、白、黄、赤の菊の枝に、小さな鳥が足を乗せている。虫か何か食べているのかもしれない。赤のほうが派手で、黄色のほうが華やかなはずだが、白い菊につい眼がいってしまう。背景が黄色(もしくはベージュ)だからか、白いほうがあでやかに、明るいものとして、うったえかけてくるのだ。他に《宇津の山》《秋草》。彼は何となく惹かれるものがあったので、後日『週刊アーティストジャパン33 酒井抱一』を購入した。それによると、姫路藩主酒井家の次男として江戸に生まれ、彼よりおよそ百年前に活躍した光琳に私淑。後年「江戸琳派」と特に呼ばれるようになる、とのこと。ページをめくっても、柿、虫、鳥たちの生々しいまでの息づかいがつたわってくるようだ。
 蛇足だが、彼は向島百花園で観梅の宴などに招かれていたそうだ。今は都立公園で、私も何度か訪れたことがある。同じ場所に足を踏み入れていたことがなにか温かい。



《四季花鳥》(春夏秋冬)

《犢》

 ほか荒木十畝(一八七二〜一九四四)の《四季花鳥》の春夏秋冬の四枚の、鳥たちにひかれた。雷鳥、そして冬のおしどりなど、動物の瞬間を気負うことなくとらえ、そこに当然のように存在させている。それは雀がそこにいるように、花がそこにあるように、わたしたちがそこにいるように、つまり当然のこととして、そっといるものの躍動なのだ。それは、先ほど解説ででてきた奥村土牛(一八八九〜一九九〇年)《犢》(一九八七年)の墨一色の牛の堂々とした体、遠い眼でもいえることだ。
 ここまで書いてきて、いや、観てきてだろう、以前よりずっと動物に眼がいくようになった自分に気づく。ニコ・ピロスマニの動物を描いた絵を観てからだろうと思う。ことばにするのは、まだ難しいのだが(なぜピロスマニに惹かれるのか、いまだに自分でもよくわからないのだ)、動物を描いた絵に多分今まで偏見を持っていたのだが、それを取り除いてくれたこともある。偏見とは、動物にではなく、その周辺のことについてだ。テレビなどで動物を扱った番組の、かわいさの押し売りのような映像に胡散臭さを感じているのだが、動物を主題にした絵画も大方その延長だろうと勝手にひとまとめにしてしまっていたのだった。もっとも押し売りに胡散臭さを感じることについては、今も否定しないが。
 さて、展覧会にもどろう。ピロスマニの動物は、画家をおそらくかなり投影しているだろう。だが、ここで観たそれらは、投影ではなく、ただ花が花であるままに、鳥が鳥であるがままに見ているような気がする。絢爛豪華になっていたとしても、それは花や鳥をそのように見たうえでの意匠なのだ。そういえば東山魁夷(一九〇八〜一九九九年)の《満ち来る潮》(一九七〇年)は、岩礁に波の打ち騒ぐ海景を描いた大作(縦約二メートル、横約九メートル)だが、波頭、波飛沫にふんだんに金が使われている。だがこの金の飛沫たちは、すこしも華美になりすぎていない。波が立つ、騒ぐ、飲み込む、凪ぐ、それらすべてを描ききるには、この金が不可欠だったかのように、圧倒的に必然性を帯びているのだった。そしてわたしは思い出す。太陽があたり、ちらめく海を。夜、船の明かりがてらす小さな面の金の波を。あとで知ったが、この海は、日本中の様々な海岸を取材はしたが、特にモデルはないそうだ(ちなみに名所旧跡を描くことの多かった日本画の伝統では、固有名詞のない場所を描くのは画期的なことだったらしい)。つまり、普遍性をおびた海として、わたしたちのだれもがしっている海として(そこにたとえば自分の故郷の、思い出の海を重ねることも自由なのだ)、金の波がそれぞれを濡らすのだった。


《満ち来る潮》(部分)

 名所を描いたものでは、目当てのひとつだった速水御舟(一八九四〜一九三五年)の《名樹散椿》(一九二九年、紙本金地・彩色・二曲一双)。解説によると「この椿は、京都市北区にある昆陽山地蔵院(俗称椿寺)の古木を描いたもの。種々の色の花を咲かせ、しかも山茶花のようにひとひらずつ散る五色八重散り椿として有名である。御舟が写生した当時、樹齢四〇〇年程の老木だったが、現在は枯れて同所に二代目の木があるが、初代の古木のような趣は無い」、とある。絵は金地に一本の椿の大木から、白、紅、桃、紅と白の二色の絞り模様、様々な椿が幻想的なまでに咲き乱れ、緑の地面に花びらが散っている。写真などで見たときは、実は彼の作品のなかでは、あまりひかれてはいなかったのだが、実物は椿たちのほっこりとした花びら、花びら、花の宴に、香りすらただよってきそうで、その幹のどっしりとしたありかたに、椿の培ってきた時間すら感じさせるものとして、せまってくるものがあった。それは今日も(というのは、前にもここで見たことがあったから)展示されていた《白芙蓉》(一九三四)年の、大輪の芙蓉のなまめかしいまでに風をつたえてくるありかたと同質のものだった。通常のように花首をおとす椿ではないというのも、想像の産物のように、心にひびいてくる。それは幻想的ではあるが、実際にあるものなのだ。また、様々な色の花たちも幻想的ではあるが、花びらの質感、葉のしげった様や、ちってゆく様が、実在だとゆれている。ましてやこれは、椿寺を描いたものなのだ。幻想と現実の閾にあるような妖しさが画面から漂ってきてやまない。このことから、現実の椿が現在二代目云々という解説は面白いと思った。現在という現実、過去という現実(御舟のみた実際)、そして《名樹散椿》という絵という実在、その幻想的なまでの…、それらまでもが複雑にからみあい、閾で散り続けて。


《名樹散椿》

 美術館を出て、また千鳥ヶ淵の緑道を通って九段下の駅に向かう。来るときにも出会った枯れ残った椿に、親近感を抱く。御舟の椿とわたしのなかで、出会っていたのだ。あるいは堀をゆっくりと泳ぐカルガモ、ベンチ下にねそべる猫。堀の水は、よどんではいるが、その色合いから潮を思い出させもした。水鳥が勢いよく音をたててまた水面に出没している。飛沫。ホトトギスの花も枯れ残ってまだ咲いていた。雀たち。まだ絵たちがついてきてくれているようだった。親近感。いや、多分わたしに絵たちはどこかでずっと、残ってくれるものなのかもしれない。ピロスマニがそうだったように。だがそれは私が忘れなければの話だ。出会いを忘れないこと。桜の枝にすっかり枯れた葉がたまに残っている。猫が起き出して、茂みの下に消えた。閾をまたいで。椿がまた咲いている。
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2009-01-01

謹賀新年



 初日の出を家のベランダから見る。西の空の下には富士山。この行動もここ数年恒例になっている。違う空たち。

 午後に近所の氏神様へ初詣に行く。太陽が早くもかたむきかけているが、とても明るい。お社を撮っては失礼かと思い、龍石を撮った。

 途中の公園。古くなった木でできた馬がなにかさびしいような愛着をさそう。
 冬の空は暗いと思っていたが明るい。だがまもなく日没だ。「われは空に絵をかこう。日びがつづくかぎり、一日に二度絵をかこう。」(『ぺガーナの神々』)二度目の空は幾分雲が多くなってきた。
 今年もよろしくお願い申しあげます。
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