Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-02-25

コルテオ、太陽の葬列が円を作る、また作る



 シルク・ドゥ・ソレイユの『コルテオ』を観にいった。太陽のサーカスの葬列。
 一九八二年、カナダのケベックで一大道芸人グループから発足。サーカスと大道芸をあわせた新しいエンターティメントをめざす。ひとことでいえば、それがシルク・ドゥ・ソレイユだろう。わたしは十五年位前の『サルティンバンコ』(直訳は“ベンチの上で飛び上がる”、大道芸というほどの意味)から、ほぼ欠かさず行っている。『アレグリア』(鳥人間)、『キダム』(孤独な通りすがりの人)、『ドラリオン』(空、水、火、土を 讃える造語)…。タイトルだけ並べても、なにごとか詩的な祭りを思わせるし、その公演では毎回、アーティストたちはもちろん、衣裳、音楽、照明、演出、あらゆるものが、演目に力をそそいでいるのが感じられる。わたしは毎回、つかれたように観に行くのだった。
 さて『コルテオ』。corteoの意味はイタリア語で葬列だという。死の床についた老クラウン(クラウン・ドリーマー)・マーロが、夢のなかで自分の葬列を見、自身の生を振り返るという演目。円形の舞台は薄いカーテンで覆われている。カーテンには教会の壁絵に描かれたような天使たちが、ベッドの天幕をもちあげている姿が描かれてある。足元になぜか首を曲げたキリンがいる。
 元々、クラウン(道化。日本ではピエロともいうが、諸外国ではイギリス語源のクラウンという呼び方が定着しつつあるそうだ)は、死と密接なかかわりを持っている。そのあたりのことは山口昌男『道化の民俗学』(新潮社)に詳しいが、例えばそこでは道化と冥界の死者ヘルメスとの係わり合いも言及されている。また、同じ作者の『道化的世界』(ちくま文庫)では、道化を項目立てて述べているので、そのなかで死に関するものだけ抜書きする。「道化は生の多様性へ人を開眼させる」「道化は、否定的要素を再統合することを助け、最大の否定である死に立ち向かって、これを手馴ずける術を人に示す」「死に直面して、日常生活の厳格にみえる価値、矛盾を拒否する思考が無力なことを自覚させ、笑い、遊戯、肉体を通じて、生の世界の根本的矛盾を克服する道を示す。」死を通して、過去を振り返りながら、わたしたちに未来を差し出す、ということ。
 開演の十分位前から、クラウン、ミュージシャン、リトルホースとリトルメア(作り物の二頭の雄雌の馬)等が、次々と客席側から舞台にむかってやってくる。時には、客に軽くちょっかいを出したり。こうした始まり(まだ始まってないが)はいい。アーティストと観客の距離がすこしだけ韜晦される、あるいはにじむ。
 今までの公演では、言葉は殆ど使われていなかった。言葉以外のもので、それを表現していたからだ。今回は言葉が少しだけ、使われている。だからといって演目の力が薄れるということは勿論ない。それは他のさまざまの仕掛け、たとえば天から降り注ぐ雨のようなライト、レクイエムや教会のミサ曲すらモチーフになった音楽のように、あるいは舞台をとりまく大切な小道具たち、そんな何かとして、ほんの少しの言葉が発せられるのだった。カーテンはまだ閉まっている。日本公演ということで、日本語で「夢を見ていた…自分が死んだ夢を。葬儀に集まった人々…だが本当にそれは夢なのだろうか…」と声がしてくる。言葉はそれだけだった。カーテンがしまったまま、中の様子が窺えるようになる。絵が薄れ、ヴェール越しに、中の様子が…絵に代わって舞台が像としてわたしたちに差し出されるのだ。クラウンが横たわるベッドにサーカスの服を着て、奇妙な帽子をかぶった友人たち、空中には青い天使たちが集まっている。そして友人たちは葬列をつくって。まるで、というかまさにパレードだ、大男、小人、団長(ロイヤル・ウィスラーというそうだ)のようなシルクハットの男、ドレスの女性。大男がとりすがろうとする、とめられ、列が過ぎてゆく。レクイエムに似た音楽が、舞台端で奏でられる。
 そして演目が始まる。ドリーマー・クラウンのマーロが眠るベッドの上空に、きらびやかなシャンデリアが三つかかっている。そこに四人の女性たち。シャンデリアにぶら下がったり、別のシャンデリアに飛び移ったりの空中アクロバット。ロウソクそっくりにちらめく明かりたちが、ゆれるたびに、はげしい動きの彼女たちの体を輝かせ、時に影をつくる。動きのなかで影と光が交錯する。女性たちは、彼のかつての恋人たち、という設定だとあとで知ったが、わたしは子供ベッドの上でくるくるまわる玩具、ベッドメリーを思い出していた。スカートのようにひろがる飾り。真上でまわる輝き。おそらくその連想は必ずしも間違いではないだろう。死と隣あわせの始まりとしての生を思い浮かべるのは。それに、次の演目の「バウンシング・ベッド」。これは二台の別のベッドを使ってパジャマ姿の六人のアーティストが、飛んだり跳ねたりするものだが、こちらは明らかに子供の時の遊びがモティーフになっていたから(もっとも六人が交差しつつ宙返りをしたり、計算された高度な技なのだが)。マーロは、それを自分のベッドから眺めている。彼のわくわくとした思いが伝わってくるようだ。それはわたしたちの思い出にも関わってくるだろう。個人的にはそうだった。わたしは家のベッドでトランポリンごっこをして遊んでいた。三歳ぐらいだっただろうか。頭から床に落ちた。額には三針縫った痕が今でもある。
 更に子供時代を思わせる出し物たちがあった。「マリオネット」は、操り人形をイメージした演目で、天からたれる六本のくくり糸をアーティストが操り、マリオネットらしい動きを、あるいはそれに対抗するような動きをし、水着姿のマーロと交流する。幼い頃の海辺の記憶、というわけだ。マリオネットはその頃の彼には、たしかに生きていたし、今も多分生きているのだ。
 そして風船(ヘリウム・バルーン)を腰につけたクラウネス(彼女は遠めには少女のように見える)が、舞台から客席へ、ふわふわと浮かびながらやってくる。彼女は非常にたのしげだ。「コンニチワ」と手をふったり、鼻歌を歌っている。わたしたちは風船がどこかに運んでくれることを夢見たことがなかっただろうか? 飛んでいってしまった風船を、さびしい気持ちで、いつまでも眺めたことは? 客席に来ると「オシテ、オシテ」と叫ぶ。体を舞台に向けて押すと、また戻ってくる。新鮮な記憶が、舞台と客席を往復することで、わたしたちは、夢を共有する。あるいは死を。
 演目の途中で、マーロのベッドが宙に浮かんだりする。まわりには天使たち。あるいは天使たちに、羽をわたされ、飛ぶ練習をしたりする。「落ちたら死んでしまう」とマーロが言う。「もう死んでいるじゃないか」地上で若い男がさけぶ。映画「ET」よろしく、羽をつけたマーロが、自転車で宙を飛びながら演目を見ている場面もあった。
 この天使たちに、最初はマーロは触ることができない。彼が触ろうとするとすっと離れてしまうのだ。また梯子を使って、天使に近づこうとする演目があった。梯子にはたてかける場所はなく、支えもない。アーティストは、ただひとりで、竹馬のようにそれをあやつり、その上で、逆立ちをしたりもする。ヤコブの梯子。イカロス。くずれないバベルの塔。梯子の上で目の前に浮く天使を抱きかかえようとすると、やはり天使は去ってしまう。だが、さらに高い梯子を上から渡したりだけはする。天使と生ある人間の間にある溝。両者の間には、触るという接点はないのだろう。もっと違う、たとえば思いのようなもの、歌のようなものが、両者をつなぐのだ。演目のなかで、水を満たしたグラスをたたき、鈴のような高い音を奏でるマーロがいた。それは、チベタン・ボールという大きなガラスの楽器、ヴァイオリン、そして口笛を全くの楽器として駆使するロイヤル・ウィスラーらの演奏と響きあっていた。こうしたものが天にのぼるのだろう。
 マーロは、天使に羽をわたされたあたりから、天使らとたぶん触れ合えるようになったのだろう。もはや天使の仲間になっているので。羽をばたつかせ、練習する姿はぎこちないが、天使とのやりとりは、違和感がない。
 他に、空中ブランコめいたもの、立方体でできた鉄棒技など、正確にその日何種目やったのかは定かではないが、パンフなどに出ている演目は合計二十種目。ジャグリングはフープ、スティックなどをお手玉のようにあやつったり、投げ合ったりするのだが、フープは銀色に輝き、シャボン玉のように飛び交っていた。あるいはたまに輪投げのように、アーティストの首に幾重にもひっかけられる。遊びたちが、真剣な技と均衡している。
 サーカスの語源は、「ラテン語で円周・回転を意味する語であるとする説と、古代ローマにおいて人間と猛獣の格闘などに使用された円形競技場(キルクス)であるとする説」(ウィキより)の二つが考えられるという。どちらも円だ。そして、今回のこの公演も、円形劇場だ。元々サーカスは円と密接な関係がある。「サーカスに行きたまえ。サーカスほど円いものはない。それは円環の形が広がる巨大な盆である。そこでは停まるものはない。すべてが繋がっている。輪が支配し、命令し、吸収する。(中略)サーカスは円環運動である。」とフェルナン・レジェは言っている。ではなぜ、彼らは、わたしたちは、その円環に惹かれるのかについて、こうも言われている。「円環は人々の眼を充足させる。それは全体性であり、全一性であり、そこにはなんらの空隙もない」(『仕掛けとしての文化』山口昌男)と。これは失われたか、はじめからないのか分からないが、わたしたちが捜し求めてやまない合一の世界なのだ。
 それと何の演目だったか忘れてしまったのだけれど、鱗粉のようなきらきらしたものが、アーティストの体からこぼれてくるものがあった。あるいはなんどか、葬列が横切るのだが、このときに、ライトの加減なのだが、かれらの身体が七色に輝くことがあった。死すべきものを悼んでいる。悲しみが輝くのだ。
 そして劇中劇のセットが、人形芝居のセットのようで、額縁めいて、凝ったつくりだった。この中で、これは『フェリーニの道化師』や山口昌男の本などでしか知らないのだけれども、古いイタリアのコメディを思わせるものがあった。ロミオとジュリエットを演じているクラウンとクラウネス。笑いと悲しみが共存しているのだ。日々の隙間に祭りが差し込まれることで、日々とそうでないものが互いに自身の存在を確かめ合うことで、共存するように。
 家に帰り、コルテオのことをネットで調べる。茂木健一郎氏のHP(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/)に、知りたいことが随分と書いてあった。茂木氏は脚本、構成、演出を手がけたダニエル・フィンジ・パスカの故郷(スイス、湖畔の街ルガーノ)に、コルテオのPR番組の取材でいったときのことを書いている。ルガーノはイタリア語圏だということ。「「悲劇」と「喜劇」を一体のものとして扱うという、イタリア的感性の伝統。」やはりそうだったのだ。そして演出家が道化としてこの街で劇団をはじめたということ。“葬列”を作った彼は道化だったのだ。また、ルガーノには演出家が子供の頃に通っていたという教会があった。コルテオの舞台をとりまくカーテンに描かれた天使たち、そして舞台で飛び交う天使たち、賛美歌。「教会の中には、壁一面に天使たちが描かれていた。」「子どもの頃、ここに座って牧師さんの話を聞いている間、天使たちがずっと自分を見ているような気がしたんだ。数えたりもした。一つ、二つ、三つ…と。そんな経験が、『コルテオ』に出てくる天使たちのイメージにつながったんだろうけれども、発想は無意識の中から生まれたと思う。構想を練っているうちに、そういえば自分が子どもの頃かよっていた教会には天使がたくさんいたなあ、と思い出したんだ。」
 そして、演出家のこんな言葉。わたし自身は頭では理解できても、どこかで言葉が停滞して、なかなか心のなかに降りてこないのだが、一応あげておく。
「自分の人生の最後に、振り返ってみれば、あんなこともあった、こんな経験もした、と様々な思いが込み上げてくるはずさ。自分の葬列を考えるということは、つまりは自分の人生をその豊かさと複雑さの全体において捉えるということを意味する。その意味では、死ぬことは確かに悲しいことだけれども、その最後を想像して、自分の人生を振り返ってみることで、一つの『癒し』(セラピー)にもなると思うんだ。」

 『コルテオ』を観た翌日の朝、夢を見た。五年前に死んだはずの猫が、うちにいるのだ。ベランダを歩き、居間を通り過ぎ、ようやく私の部屋のクッションで円くなって眠る。安心しているように見えるのは、自分の匂いがついているからだろうと夢の中のわたしは思ったが、夢を見ているわたしは「いや、これは最近買ったものだから、彼女はしらないはずでは…」と思っている。なでるとゴロゴロする。尻尾の曲がり具合まで、彼女そのものだ。幽霊なんだなとようやく思う。そして、そうだ、ずっとそばにいてくれたんだなと思う。五年前に彼女と住んでいた家ではもやはないのに、ついてきてくれていたのだと。ずっとこのまま触れればいいのに、見ることができればいいのにと夢の中の私は思う。そして夢を見ている私は、もうそろそろ目覚めなければいけないことを知っているので、今のうちに、眼にやきつけておこう、そしてもっと触って感触を覚えておこう、だが迷惑にならなければいいが…と思う。
 覚めたら、彼女の姿はもちろん見えない。だが、当たり前のことに今さらながら気づいた。私が思っている限り、彼女はいるのだと。葬列が、わたしの底に眠る死の記憶を引きあげ、差し出してくれたのだ。彼らが悼んでいる。思いが行進している。そう、わたしが思っている限り、わたしに彼女は残るのだ。それもまた円である。彼らの円の運動に、わたしの円が共鳴する。そこではさらに、彼女の円が、葬列が振動し、回転するのだ。彼らの円もまた、わたしに記憶を残すだろう。

(シルク・ドゥ・ソレイユのHPは、http://www.cirquedusoleil.com/world/ja/jp/intro/intro.asp、また今回の公演の演目などについては『コルテオ公式HP』(http://www.corteo.jp/index.html)に載っている)
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2009-02-15

メモ、ロバの耳の穴をふさぐ、ろうのパン、


 以前使っていたワープロフロッピィに入っているメモ的なもの、日記の一部をUSBメモリにコピーした(きっかけは後で述べる)。そのことのまわりで。
 二〇〇四年秋からブログを書き始めてから、メモをとったり、日記をつけることを殆どしなくなった。ブログがその代わりになったからだが、ブログとそれらの断片はすこし違う。断片たちは基本的に人に読まれることを前提としていないから、その意味では自由だ。自分だけにわかればいいから省略もできる。映画の台詞、本のひとこと、詩のメモ、そしてごくたまに(というのは、絶対に後で読みたくなくなるだろうとわかっているので)心情吐露めいた日記のようなもの。
 今は詩の一行などは、携帯電話か小さなメモ帳に書き込む。ほかのメモはほとんど取らないが、ブログなどでたぶん使っている。最後に俗に言う日記…、わたしは元々どこそこに行った的なものは書くことがなかったから、主観的な感情がのぞいてしまうもの…これが現在、見事になくなったのは、すこし妙な気がするが、ずいぶんとほっとしている。なにかがごっそりとしらないあいだにおちてくれたようなのだ。
 北村太郎『ぼくの現代詩入門』(大和書房)を再読していた。これはすごく面白いが、特に、日記にも通じることがあったので、書きとめておく(いや、日記のためばかりではない。書きとめることで、わたしは自分のためのメモ的な意味をこっそり差し込もうとしているのだ)。
 ここでは、詩作について、最初はモノでコトを書いたほうがいいとある。コトというのは、恋愛、孤独、人生観みたいなもので、詩の本体はコトだが、それを吉岡実の「静物」を引き合いに出し、まずは「オレンジとかレモン」といったモノでコトを書いた習作をという。書き始めの人だと、「恋愛、孤独、人生観といったコトがその大半のテーマになっていて、しかも、ほとんどモノを使わず、生のかたちで、せつない、さびしい、世の中けしからん、などという抽象語の羅列に終わっている」、それは思いがあふれているからなのだが、「思いが胸にあふれるのは大切ですが、そのことと詩を書くことは、まったく別なのだと。」また、こうもいっている。「たいそう悲しい事件を経験したとします。それを詩にする場合、「悲しい」「涙」「痛む胸」「うつむいて」などという単語をちりばめるのが、まず初心の人たちの通例です。自己の内心の生の慣用語句で紙の上に書きつけるわけですね。あらゆる芸術は、自己の内心を現実に物体化することによって、一種の放出感、満足感を得るものです。詩も芸術のひとつだから、どんな慣用語句だらけの文字にしても、紙に書いたことで放出感、満足感を書き手は経験することになる。例外も少しはあるでしょうが、詩の書き始めのころは、おおよそ右のような経験の積み重ねです。そのうちに、多少の反省力のある人だったら、抽象的な慣用語句を吐きだしたものなぞ、他人はいっこう面白がってくれないのだと気づくばかりでなく、自分もシラけた気分になるはずです。九九パーセントの人はここで詩作をやめてしまう。残りの一パーセントの人たちが、詩とは「作る」ものなんだなと自覚し、いろいろ工夫して自分なりの詩の道を歩いていくことになる。」
 ここでいう抽象的な慣用語句が、わたしのつける日記的なものに対しても、使うことがなくなったのだといえる。それはあふれる思いがなくなったわけではない。日記のことばは詩のことばとは違うが、ことばである以上、また書き手が同じである以上、それはどこかでつながっているはずで、だからこそ、もはやどんな場所でも、話し言葉としても、そうした抽象的な語で、吐露したものを一切使いたくなかったのだが、それがやっと出来るようになった、ということへの安堵に似た感覚。
 以前から、どこかでは思っていた。こうした心情吐露的なことばでは、本質的ななにかにはたどりつけないと。だが、それでも詩ではない、誰にも決してよませない日記だけは、ごくたまに、ロバの耳と叫ぶ穴として、取っておいたのだった。だがこの穴は、きっと詩の穴とどこかで関わっている。ロバの耳であることが、結局は伝わってしまうように。穴がふさがれてよかったと思う。
 そういえばメモに、こんなものがあった。「日記をやぶり、またむかう/かけらのまま、とざすこと」

 けれども、メモやら感想。今でも映画の台詞や、本などで印象に残った文などは、ブログに載せるものだと、書きとめるというか、入力するが、それ以外、ささいな印象などは、残すことを、ほとんどしなくなっている。これが少し残念だと思った。いや、何かを選ぶということは、何かを選ばないということなのだが。ブログを書くことで、比較的整合性は出てきたのだろうけれど、このことで何かがこぼれていってしまったようなのだ。
 やはりブログでいつか書いたが、わたしはカミュの手帖が大好きだった。あのメモたちの放つ、詩に満ちた言葉たち。カミュにはおよびもつかないが、わたしもああしたものを書いてみたいと思っていた。
 「三七年四月/もっとも危険な誘惑。それは、なにものにも似まいとすることだ。/略/狂気─すばらしい朝の見事な背景/太陽。空と骸骨。音楽。窓の一本の指。」
 「三七年五月/夕方、湾に映えるこの世界はなんと甘美な眺めだろう。─世界は日によって嘘をつき、あるいは真実を告げる。今日の夕方、世界は真実を告げている─それも執拗な悲しい美しさで。」(『太陽の讃歌 カミュの手帖─1』(新潮文庫))
 そんなことを思い出させてくれたのが、先日頂いた、支倉隆子さんの個人詩誌『南へ。』(6)。ここには詩とともに日記、手帖的な断片が載っている。それも少し前のこととして「ノートより(一九七八年頃)」、「今の私ぁ)椶里海函ヽ┐里海函廚虜廼瓩里海函◆嵶垢竜録」(この号では九四年十月)と、三つの時間が交錯して、詩のことばにからみあっているのだ。
 「闇は柔らかく/雲は柔らかく/接点で/ままごとをするおきなおうな//運河 鉄鋼をあきなう サツバツ」(〈闇雲〉)
 「十二月三日 国立科学博物館で“菌類のふしぎ”。食堂でワインとオムレツ。少し時間が余ったので法隆寺宝物館。水の庭」(今の私ぁ
 「複製 詩集/ 私は横を歩く/ 猫が横切る」(ノートより)
 「MEMO・等価篇/鶯が一本の木にたくさん泊まっている、灯っている。アパートの灯。乙女屋、津山の古い商店街と北海道・名寄の商店街で。」「壁に平成四年にこの湖で獲れたイトウの剥製。凶暴でアマゾン的である。一メートルほど。最低気温記録の地(北海道、朱鞠内湖)で猛烈にアマゾンへ行きたくなる。(アマゾンしている)」(旅の記録)。
 現実のなかに詩があり、詩のなかに日々が泳いでいる。

 たぶんこのことばたちの放つ何ごとかが、わたしにワープロのメモを思い出させたということもあるだろう。といいつつメモ自体は、たいして数はなかったのだが。
 だが小さな感想、メモ的なものは、今後はSNSなどで書けばいいのであり、これからはなるべくそうするつもりだが、そう決めてしまうと、他者の目を気にしない、なにか小さなことばの粒たちを、それでも自分だけでこっそりとっておきたいという気持ちがどこかから生じてくるのだった。それはああした幾分か公共的な場からはすこし隠れた、やはり幾分か個人的なものだ。いや、断片を好きなときに取り出して、ふっと眺める、他者の目にふれさせるもふれさせないのもわたし次第という、小さな自由がほしいのかもしれない。

 実はUSBメモリにコピーしようと思ったのには、以下のこともからまっている。つい最近、品切れになっている映画『ピロスマニ』のビデオを貸してくださる方があって、ようやく映像を見ることができた(このことについては、また後で書くつもりだけれど)。この台詞を今回書きとめたのだが、それを保存するにあたって、以前なら詩や散文とは別に日記や断片専用のメモフロッピィがあり、そこに台詞などもしまっていたのだが、ここ数年、そうした場所をもっておらず、急遽、フォルダを作った。その時に、ワープロフロッピィにほかの映画の台詞や、メモもあったな、ついでにUSBメモリーに移しておこうと思ってのことだった。ひとつのことにも思いは存外にからまっているものだ。映画、日記、メモ。
 作業が一段落し、映画の台詞の写しを久方ぶりに見る。『永遠と一日』『東京画』。映画の情景がことばから浮かんでくる。ことばを書きとめることで、まるで景色をスケッチでもしたかのように、映画がわたしにかかわりを持ってやってくるのだ。わたしは思い出した。以前、旅行に行ったときなど、まるで景色をスケッチするように、ことばであたりの情景を書きとめていたことを。山の稜線、夜の海におちる街頭、ネオンと波紋。あるいは真昼の池に、太陽がぼとんと落ちたような、丸みをおびた明るさについて。それはわたしが世界とかかわる方法だった。そんな風に映画が、ことばを書きとめたことによって(それは感想がまじらない、ほとんど台詞を聞き書きしただけに過ぎないのだが)、ことばは力をもって、わたしと映画のあいだを、なにかしらつないでくれるのだった。
 『東京画』(一九八五年、ヴィム・ヴェンダース監督)については、どこかで十年ほど前に文章にしたが(http://www.t-net.ne.jp/~kirita/umi/umi01.html)、今回見て、その時にさして重きをおかなかったことで、ひっかかるものがあった(以下、早速メモ的に)。
 小津的なものを探して(なのか…)、東京に来ているヴェンダースが食堂のショーケースの中の食品サンプルに興味を示すシーンがある。ほかでは小津映画にでてきそうなものたち(電車、酒場、鎌倉など)やそれとはなれたもの(ゴルフ場を撮り、「このゴルフ熱をすでに小津は、皮肉をこめて描いている」など)に言及しているので、映画を見た当初は、いささか唐突にすら思ったのだ。
 「ここにも、ショーケースにメニューの見本が並んでいる。現実の忠実な再現である──。この模像を製造する工房を訪ねることにした。」この後、サンプルをロウで作る過程を興味深げにカメラは撮ってゆく。なぜなのか。それはその前のシーンの、こんな言葉と密接すぎるほど、つながっているのだ。
 「自分の経験と、映画でみる映像とが、こっけいなまでにずれる事を、だれでも知っている。このずれに慣れきって、映画と人生が違うのがもう当たり前なので、突然スクリーンに─何か本当のもの─何か現実のものを見ると、息をのみ身震いしてしまう。画面を横切って飛ぶ1羽の鳥、一瞬、影を落とす雲、画面の隅にいる子供の何気ないしぐさ… 今の映画では、そんな真実の一瞬──人と物がそのままの姿で現れる──そんな瞬間は、ごくまれにしか訪れない。それがあるのが小津の特に晩年の作品のすごさだ。真実の一瞬の映画──いや、一瞬だけではない。最初から最後まで真実が途切れず、人生そのものについて語り続ける映画、そこでは人、物、街、風景が、そのままの姿で自らを啓示する。今、映画はこのように、現実を表すすべを、もう持たない。」
 食品サンプルは、映画と人生をつなぐ架け橋として映ったのだ。つくりものでありながら、本物と見まごう、人の手になるもの。真実の一瞬の、映画が現実を表すすべの、なにかの糸口のように、これらの食品サンプルは、ヴェンダースに映ったのだ。
 「ろう細工以外、サンドイッチは、本物のサンドイッチと同じ作り方」「ここに丸一日いたが、昼食時の撮影を断られたのは、残念だった。職人たちは、見本の間に座って食事をした。お昼の弁当は、ろうの見本と全く区別がつかない。間違えてろうのパンを噛まないか──余計な心配をする。」
 丸一日もいたのだ! 余計な心配が、なにか彼にともった接点への明るさのようで、うれしくなる。詩と人生が違うのがもう当たり前なので…。そうだろうか。いいかえて不安になる。食品サンプル的ななにかを、どこかに。




 最後に、拾ってきたメモから、小津について書いてあることを。

 (二〇〇二年七月二日)
 私もまた、小津の世界を求めていたのだ。
 志賀直哉を読んでいる。小津が好きだったと知ったので。
 この静けさは、今までなら分からなかっただろうと思う。
 この家族は、この、たとえば夫は、妻は。
 他の描写は、なぜか梶井を想起した。川端でもいい。
 静かにしみとおるようにやってくる。


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2009-02-05

無言の場を奏でる、雪と朝顔、照らしあいを静寂が結ぶ


ヘンリー・ムーア《糸つむぎの形(原型)》1968-69年 彫刻の森美術館


アンディ・ゴールズワージー《快晴の朝、凍った雪を板状に切り、注意深く運ぶ、棒で雪を貫通する直前まで削る、暖かくなり、解ける 和泉村 1987年12月19日》1987年 栃木県立美術館

 「十二の旅 感性と経験のイギリス美術」展(世田谷美術館、二〇〇九年一月十日〜三月一日)に行ってきた。
 これは日英修好通商条約締結一五〇年を記念事業の一環で、旅に焦点をあてながら、日英の交流を浮かび上がらせた展覧会。HP(http://www.setagayaartmuseum.or.jp/index.html)を見てみると、「本展は、十九世紀以降の十二人のイギリスの作家を取りあげ、「旅」が彼等にもたらしたものを考察しようとする試み」だとある。出品作家は、J・M・W・ターナー、ジョン・コンスタブル、チャールズ・ワーグマン、バーナード・リーチ、ヘンリー・ムーア、ベン・ニコルソン、デイヴィッド・ホックニー、ボイル・ファミリー、アンソニー・グリーン、デイヴィッド・ナッシュ、モナ・ハトゥム、アンディ・ゴールズワージー。
 ターナーやコンスタブルが目当てだった。彼らにももちろん、響くものがあったが、今回はほかの現代の作家にひかれた。こうした企画展は、思いがけない出会いを作ってくれるからいい。特に、今回は十九世紀から現在にかけてと、時間を幾分長くとっているので、思いがけなさもひとしおだ。わたしはあまり現代の作家にひかれたことがなかったから、ついすこし前の時代のものを見に行ってしまう。そうした時間をのりこえて、今と出会うことを教えてくれるのだった。
 まずはヘンリー・ムーア(一八九八─一九八六年)の彫刻。彼はたとえばストーン・ヘンジや頭蓋骨にインスパイアされて作品を作ったとあった。それは時間に思いをはせ、始源に思いをはせることだろう。《横たわる人体:骨のスカート》(一九七七年、ブロンズ、静岡県立美術館)は、横たわるというより、座っている女性らしいデフォルメされた像だが、ブロンズのひんやりしているであろう触感(もちろん触ってはいないが)が骨のかたさをうかがわせながら、丸みをおびたかたちが肉のやわらかさをもつたえてくるのだった。骨と肉が同時にからみあって、すがたをさらけだしている。あるいは衣服までもが、からみあって。その混在に原初的な記憶のようなものが謎として内包されているようだと思った。
 そして、特にアンディ・ゴールズワージー(一九五六年イギリス・チェシャー生まれ、スコットランド在住)に思いが残った。彼はその土地土地で、たとえば紅葉した葉を石に貼り付ける、竹を組む、雪をけずるなどして作った作品を写真に収めている。その自然と芸術、自然と人の手の間に新しい関係をうちたてようとしているというか、自然をうけいれようと真摯にむきあいつつ、模索している姿にひかれたのかもしれない。ともかく自然との合作、時間との合作として、そこに撮られた写真からは、美が新鮮に息づいているのだった。
 もっとも写真といっているが、彼自身は自然物、光、季節までをも素材とした作品を作り上げることから、自らを彫刻家だとしているとカタログにはあった。写真はたとえば雪がとけてしまう、葉がおちてしまう、水にながれてしまう、そうした時間による変化、失われてゆく結晶を残すものとしての意味を担ってそこにあるのだろう。それは厳密には、作品ではない。彼の作品は、本来、時間による変化をも考慮にいれているのだが、写真はそれとは別の時間をもってしまうものだから。すくなくとも写真に写った雪はとけることがない。だがともかくわたしたちが眺めるその写真からは、自然と、そして(切り取られた凝縮としての、という範囲において)時間をも含んだ、発見が差し出されてあるのだった。
 ゴールズワージーの個々のものを少しだけ見てゆく。《快晴の朝、凍った雪を板状に切り、注意深く運ぶ、棒で雪を貫通する直前まで削る、暖かくなり、解ける 和泉村 一九八七年十二月十九日》は、凍った雪に輪を描くように削り、地面に立たせているが、親指の指紋のようにも見える。《穴の周囲の楓の紅葉、黄色から赤へ、午後、曇り、暗くなる 大内山村 一九八七年十一月十四日》は、タイトルの通りだが、穴に並べられたカエデは、花びらのようで、地面から大輪のダリヤが咲いているようだ。《穴の周囲に小石を置く、曇り始める 紀伊長島町 一九八七年十二月七日》も、青く塗られた小石たちが、穴のまわりに置かれ、やはり青い花をつくっているように見える。《赤いカエデの葉を水でつける、晴れ 大内山村 一九九一年十一月十九日》は川の真ん中に置かれた石に真っ赤なカエデが一面に貼り付けられ、巨大な鉱物のように見える。この「〜のように見える」といったところが、創造の鍵となっている。自然のままではなく、けれども自然と密接に繋がりつつ、新しさが存在している。それは自然とわたしたちの間をむすびつける関係の芯となっているのだ、接点に咲く美なのだ、そんなことを思った。
 そして《カエデの葉を投げる、庚申川渓谷、足尾一九九〇年十一月三日》は、〜のように見えるではなく、題名そのままに、紅葉したカエデを投げている。この試みは、「あまりに凝縮しすぎた素材を解放」するためだと、作者は語っている。カエデがほとんど本来の姿のままそこにあること(投げなくてもカエデは散るのだから)が美しいのだと、光をあびておちこちに飛翔するありさまに思い知らされる。だがそこに強烈な印象をつきつけてくるのは、やはり作者の介在なのだ。
 そしてこの題名たち。さきほどからそうだが、たとえば《暗いうちに制作を始める、寒い、笹の葉を土で岩につけ、昇る朝日を迎える 大内山村 一九九一年十一月二十一日》。
 これは笹の葉が朝日をあびてまるで石から今生まれたばかりのように輝いているのが、影となった石と対比されてまぶしく心に問いかけてくるような写真。それはさておき、題名は、本来の彫刻としての作品の時間を、いいあらわそうとしているようなのだ。「寒い、」にそのひんやりとした空気がつたわる。「暗いうちに制作を始める」「昇る朝日を迎える」、この間にある制作の時間が流れてあるのがことばによって感じられる。《古い竹の柔らかくなった部分に穴を開け、スクリーンを組む、暗くなる、無風、暖かい、湿度が高く雨になる、蚊が出る 紀伊長島町一九八七年十一月二十七日》は、岩の多い海岸に、竹が垣根のように組まれている。それはことばではないのだが、アルファベットを想起させる、ことばのように見える。まるで《古い竹の…》という題名すべてをそこにこめつつも、ことばのない自然のなかで存在することの融合であるかのように。
 この時『生きのびろ、ことば』(小池昌代/林浩平/吉田文憲、編著、三省堂)を思い出した。これは十三人の詩人の、ことばにまつわるエッセイ集で、それ自体、色々な場面において、とても示唆にみちた書物なのだが、特にこんなことばがかたまりとしてよぎったのだ。「自然のなかには、言葉がありません。山も海も川も草木も、そこにただ、在るだけのものです。無口というのではなく、言葉がない」(小池昌代「言葉以前」)。だからこそ惹かれるのだとある。「山があるというその圧倒的な沈黙が、わたしたちの生命を、支え守り、磨いている」、あるいは朝顔が咲いているのを見つめる。「そこには何の言葉も介在しない。ダイレクトに、わたしと朝顔の命が結びついている。世界にそのように感応したとき、これはわたしの癖かもしれないが、その経験を、言葉に置き換えておきたいという欲望が生まれる。」「詩を書くことで、わたしは、言葉と言葉のない世界の、相互の感応、照らしあいを常に眺めてきたような気がする」「詩が伝わる、その過程には、言葉のない世界が大きく介在していて」…。
 だが多分、ゴールズワージー作品の題名に関してこのことばたちが想起されたわけではないだろう。いや題名が発端だったといっていいだろうが、それだけだと詩とことばの話になってしまう。そうではなく、ゴールズワージーが自然とかかわるその仕方と小池昌代の仕方に近接性を感じたのだと思う。自然はそのままである、彼らは言葉が無い。彼らはそうした伝達をもたない。だが伝えてくるものがある(わたしはなぜこうして擬人法をつかっているのか)。彼らと結んだ関係を、感応を作品とする、それがことばであるか、彫塑であるかの違いがあるにせよ、これらの行為は密接に関わりをもっているのだ。それがなければ、それらの無言の自然たちは、私たちに伝わらない。
 世田谷美術館は砧公園の一角にあるので、建物を出ると、森のように樹々がつらなる。桜が植わっている広場もある。桜の時期にきたことがないが、ここはあと数ヶ月もすると、花見客でにぎわうのだろう。はじめてきたときは秋だった。黄葉がまぶしかった。それはどのあたりだったか…。たぶん、わたしは自身の記憶や、いまいるこの場への思いに、ゴールズワージーや詩人の行為の場、カエデを渡そうとする、朝顔を渡そうとする、彼らの無言の場の力に、重ね合わせたかったのだろう。無言を共有したかったのだ。彼らのそれはあたかも音楽のようにわたしのなかで鳴り響いていた。わたしもまた、なにかを奏でたかったのだ。公園内の地図を見る。小さな梅林があるというので、行ってみる。もう花が咲いていた。冬枯れのなかで、そこだけ白くぼうっと、春が灯るようだった。「朝顔が三つ、四つ咲いているのを見ただけでも、わたしはうれしい。…朝顔というものは永遠に見つめていいといわれたら、できそうな気がする。それは生命というものが変化するから」(同掲書)。無言の場をわたしもことばで探さなければならない。「そこには、普段なにげなく目にする風景への驚くべき視覚の転換が潜んでいるのではないでしょうか」(展覧会ホームページより)。これは旅にかぎらず、しじまとしてそこここに満ちているのだから。

※今回は、展覧会にそって書くことをしなかったが、その他の作家の作品写真をここにあげておく。


ジョン・コンスタブル 《デダムの谷》 1805-17年頃 栃木県立美術館蔵


J.M.W. ターナー《風景・タンバリンをもつ女》 1840-50年頃 栃木県立美術館蔵


チャールズ・ワーグマン《富士遠望図》 1876年以降 静岡県立美術館蔵
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