Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-03-25

桜さくらサクラ、現実と想像の違和、白い雷魚が空に浮かぶ


 山種美術館「桜さくらサクラ2009展」(二〇〇九年三月七日〜五月十七日)に行く。毎年、収蔵品の中から、桜にまつわるものを桜の時期に展示して今年で十一回目。今秋に広尾のほうに美術館が移転してしまうので、桜の名所でもある、千鳥が淵近くのこの場所では今回で終わり。副題も「─さよなら千鳥が淵─」とあるが、さくらの展覧会は今後どうなるのかは不明。
 東京では、開花宣言が三月二十一日に出た。開花宣言の基準木がある靖国神社は、千鳥が淵の向かいにあるので、このあたりは個体差はあれ、ほぼおなじ咲き方をする。出かけたのは二十三日の月曜日。月曜は本来定休日なのだが桜の開花時期だけ、無休になるとのこと、例年桜の開花時期は混むのだが、本来なら休みだし、しかも開花間もないので、もしかすると…と期待していったのだった。
 半蔵門駅からも行けるが、九段下のほうが千鳥が淵沿いを歩いてゆけるので、こちらから。駅に近い北の丸公園付近では、何校かの大学の卒業式をやっているようで、人が多い。遊歩道にロープを張り誘導整理をしている。通りの向こうの靖国神社の方を見る。わずかに桜が咲いている。昔は卒業式ではなく、入学式の頃に桜が咲いていたのではなかったろうか、小学生の頃はそうだったなとふっと思う。卒業生などで、その近辺だけ混んでいたが、あとはほとんどひとけがない。ひとけがないことが信じられなかった。わたしにとって、現実はいつも思っているよりも悪いのだから。桜は木によってはまったく咲いていない。そしてぽつぽつと一分咲きぐらいだろうか、こちらでも、そして濠のむこうにもうっすらと色づいているのがわかる。濠沿いの緑道で、携帯電話のカメラや、デジカメで写真を撮る人がちらほらみえる。植え込みの隅に咲いているタンポポを懸命に撮っている人もいる。以前はこうした光景をどうとも思わなかったが、彼らは同じものを同じ時間に見ているのだ、そして写真を撮っているということは、なにかしら、眼の前のものたちに心が動いたからだろうと親近感がわく。鴨だろうか。生態にくわしくないのだが、あきらかに遊んでいるように、二羽で、ものすごいスピードで着水することを繰り返している。着水するたびに、石投げのように、小さな穴が点々と水に空く。そして飛沫。羽ばたきながら水面ぎりぎりにいるのも違和として映る。彼らは水の生き物のようだったから、空を飛ぶという行為が、うまくわたしのなかで結び合わず、そのことがおかしい。歩道の真ん中の植え込みには、ヒメシャガが咲いている。小さい頃から、家の庭にあった花だ。こちらはたしか五月の頭ぐらいに咲いていた花ではなかったか…。ことしは梅が咲くのもずいぶんと早かった。温暖化のせいなのだろうか。数十年の間の変化に少し、こちらも違和がある。ものごとたちは、わたしが思っているよりも、結びつきがもろいのかもしれない。
 桜はまだほとんど咲いていなかったが(だから毎年恒例の、突然咲いたという印象がこちらでは薄かった)、そのことは思ったよりも気にならなかった。現実と想像は違うのだ。想像よりもいい現実だってあるのだ。このことは、もっと自分にむけて記憶にとどめておいたほうがいい。桜がまだあまり咲いていないということが気にならなかったのは、まだこれから咲くということに対する期待に似た何かを桜に感じているからだろう。同じ桜の花の量でも、葉桜はさびしい。あれは終わり行くものだから。これらの桜は、まだはじまったばかりだ。
 さて美術館の中へ。こちらも思っていたよりも空いている。ここに来るのは多分四回目だ。桜にまつわる収蔵品展なので、毎年変えていたとしても、必然的に前見たものが多くなる。そのことも不安になる。だからたいして感銘をうけないのではないか、などと。だが、現実と想像は、違和があるのだ。たぶん、いつだって。
 前に見たものでは、奥村土牛《吉野》(一九七七年)は山にけぶるように咲く桜。霧のようなそれはほとんど水彩だ。このにじんだ空間が好きだったのかもしれない。にじむことで境界があいまいになりそうな気がするからかもしれない。同じ作者の《醍醐》(一九七二年)は白い土塀に、一本のしだれ桜の巨木。幹が幽玄なまま、しっかり根をおろしている、そんな光景にひかれたのかもしれない。土と土塀がほとんど同じ色合い(白と黄)で、そのことが呼び合っているように見えたのかもしれない。なぜか土牛の絵には眼をとめてしまうのだった。いつも。

奥村土牛《吉野》


 多分初めてなのが、堂本印象《桜》(一九三五〜一九四四年頃)。道端の一本の若い桜、枝に籠がぶら下がっている。木の小さな柵、しばった薪、春先の黄緑がやわらかい草の上に、赤白斑の犬が体を休めるように座っている。霞がかった青空なのだろう、白地にひとはけ、空色が塗られている。どこかでみたような空と犬とか細い桜、春の息吹。懐かしいとすら思ったが、これはわたしたちの日常にあるものだ。注意すればそこここにありうるものなのだ。懐かしさは、芸術と日常のかけはしの丁度間くらいで橋渡しをしてくれているものに対する親密さかもしれない。わたしたちが日々眼にすることができる、そんな光景から、美ははじまるのだと、絵が後押ししてくれるようだったのかもしれない。
 そして何度も見ている、というかここで知って、わたしにとって大切な画家となった速水御舟。《春の宵》(一九三四年)。細い幹、枝を持つ桜が左端から斜めに生え、宵闇に花びらを散らしている。画面右端に細い三日月。ほとんどモノクロに見える。この細すぎる枝に、幻想を感じたものだった。枝がわたしを彼にひきあわせてくれたのだ。彼の世界に枝が手招きしてくれたのだ。今日見て、この散っている花びらにも心が誘われた。散るという終わりの瞬間を画面がひらいて、わたしたちを手招いている。終わりを見せてくれているのだ。これとまた違った、写実的な《夜桜》(一九二八年)にも、なぜか眼をうばわれたのだった。花のたくさんついた一枝の桜。背景はセピアで、昼の明るさはないが、少なくとも夜ではないと一見思う。だが、これを夜桜ということで、夜のなかでぼうっと浮かび上がる桜の妖しさがあふれ出すのだった。闇をつれて、桜が明るくせまってくるのだった。

速水御舟《春の宵》


 そしてまた多分はじめて(多分、というのは覚えがないだけで、もしかすると以前ここで見たかもしれないから。数年のあいだでわたしの目がすこし変化したのかもしれない。あるいは変わらないのかもしれない)の小林古径《清姫のうち 入相桜》(一九三〇年)。横長の画に、一本の桜の大木。満開で、静かに花を散らし始めている。道明寺に伝わる安珍・清姫伝説では、思いを寄せた僧・安珍に裏切られた清姫が激怒のあまり蛇身に変化し、鐘ごと安珍を焼き殺したあと、自らは入水。その後に建てた比翼塚の上にいつとはなく生えたのが入相桜だという。こうしたことを知らなくとも、いい絵ならばそれだけで力があると思っていた。だが知ってしまうと、この桜の持つ静けさに凄みが出てくる。そこに描かれたのは、圧倒的な、すさまじいまでの静謐なのだ。蛇となった清姫が恐ろしい形相で鐘に巻きつく姿がよぎる。どこかで見たそれは蛇というより龍だった…。こうした動を秘めての静なのだ、満開のそれは静の字が清の字にみえてくるまで(それは清姫の清であり、清真の清でもある)、桜はただただ、そこにあり、見るものを圧倒させるのだった。
 入相桜というのは、エドヒガンのことで、現在も三代目の子孫(歌舞伎の『娘道成寺』が流行った江戸時代、十八世紀中頃から数えてだろう)が残って、毎年花を咲かせている。画題としてもよく取り上げられるものらしく、この展覧会でも、速水御舟の写生《道明寺入相桜》が二点出品されていた。ただこちらは入相桜というより、桜のスケッチといった気がしたが(だが同じ写生でも、《花寺西行桜》《月輪寺時雨桜》《祇園桜》などは、《春の宵》の幻想を、かぼそいようなふれあいを湛えて、一環した彼の視線の怪しさを見出せて、見入ってしまったのだが)。入相桜の写真をネットで見る。カタチは似ているのだが、あの壮絶なまでの静けさがそこからは窺えない。だが《清姫のうち入相桜》も、おそらく道成寺の二代目位の桜のはずなのだ。なのに、九二八年(延長六年)(と、道成寺のHPの年譜に記載されていたのが奇妙だった。年譜に書くだけで、リアリティをほのかに持ってみえるのだ)の事件のあとに、生えた桜を描いたもののように受け取ってしまう。現実と想像の違和、もろさというのは、こんな風に、時には混交をもって、時をまたぐのだろうか。

小林古径《清姫のうち 入相桜》

 ほかでは、これも以前に見た稗田一穂《朧春》(一九七六年)。水辺に桜が植わっている。水面には満月が映っている。まるで水が空であるかのように。空は見えない。この水に浮かぶ月、という転倒が好きだった。それは殆どルネ・マグリットに通じる(彼は枝のこちら側に浮かぶ月を描いている)。現実と想像のあいだの違和、そしてもろさ。月は柔らかく浮かんでいる。波紋がほとんど雲のようだ。
 そして数ヶ月前、同じ作者が《豹のいる風景》(世田谷美術館所蔵)を描いていると知ったことを思い出した。その絵はルソーのような、平面的な描き方だが、意志をもって、歩んでいるのが窺えるもの。豹という動物が好きなのもあって、その絵にひかれたのだが、今日初めて、《朧春》と同じ作者だと気づいた。どこかで名前をみたとは思っていたが、ここだったのか。こうした合致はうれしい。興味を持った二枚の絵を通じて、名前のまわりでなにかが肉をつけてゆく。御舟や土牛のように。

稗田一穂《朧春》

 会場を出て、また千鳥が淵の緑道へ。絵を見た後と前では、いつも桜たち、花たちを見る目が変わる。今出合った絵たちが流れ出したようなのだ。現実と想像の境が濠に沈むようでもある。濠の向こう岸のまだ咲かない桜たちが、奥村土牛の《吉野》をそっと思わせる。こちら側の咲いた一枝が、速水御舟の《夜桜》を思わせる。また濠に向かって地面が斜めになっているせいなのだろう、多くの桜の枝が傾いているのだが、その姿がやはり御舟の《春の宵》を思わせるのだった。特に、向こう岸の、つぼみたちのはなつ色でにじんだ桜の斜めの姿が、絵と語り合い、御舟の世界へ誘うようなのだった。日々と想像、創造たち。柵の上に点々とライトが取り付けられている。もうすぐこの辺りは人であふれるだろう。ライトアップ、そして《春の宵》の桜だけの灯り方。さくら祭りがもうすぐはじまるからだろう、テントを建てている。その裏のほうの桜がよく咲いていそうだったので、回り込んでみる。水を背景に、月はないが《朧春》のような光景が見られるだろう。想像と現実はちがう。思ったよりも、咲いていなかったし、水に映えることはなかった。だが違っていいのだ。同じなら、それはそれでつまらないものだろう。女性がわたしのように、テントのうらにまわりこみ、携帯で写真を撮っている。どうもわたしは現実と想像のちがいに、おののきすぎてしまうようだ。小学校にあがった頃から、現実よりもひどいことを想像しておくことを覚えた。想像したよりも現実は楽だったと思えるからだ。反面、現実は生きにくいものだったので、絵を描き、空想することを覚えた。なかなか癖がぬけない。また現実と想像がちがうことを、悪いことか何かのように思ったこともある。それは空想に逃げているのではと。卒業生たちはもういない。菜の花、そして紫大根が咲いている。形態はふたつともよく似ている。黄色か紫かの違いだけだ。年配の女性の二人連れが「今日きてよかったわ、満開の頃はこんなに余裕をもって見て歩けないから」といい、片方がうなづいている脇を通り過ぎる。そのとおりだと思う。ふと空を見上げると、魚そっくりの小さな雲がいた。口をあけた雷魚かなにかのようだった。写真に撮ろうと思ったが、あの小ささでは、うまく写らないだろうとやめて見る。あれは現実の魚ではない、だが魚だと想像してみていいのだ。幹から花が直接咲いている。幹も枝だということか。幹から花ではなく葉が突き出ているものもある。こうした発見は実際に目でみないとわからないものだ。白い雷魚の雲が浮かぶ。これらの桜はまだはじまったばかりだ。もうすぐ、あの思いがけなさがやってくるだろう。それは想像の枠からも現実の枠からもいくぶんか離れることなのだ、多分。


山種美術館HP
http://www.yamatane-museum.or.jp/exh_current.html
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2009-03-20

おもいがけなさ(サクラ、モクレン)


 春分の日。家にいた。原稿を投函しにポストに行く。野川の岸辺に桜が一本だけ咲いているのを見かけた。川沿いは遊歩道になっているので見に行く(ここは橋から見かけるたびに、いつか通ってみようと思っていたところだ)。まだ開花宣言も出ていないのに三分咲き位だろうか。見上げる。どうもまだ信じられない。桜が咲くということは、わたしにとっていつも突然すぎて、見ているものと、桜が咲くという現象が、ぴったりとつかないような、妙な感覚なのだ。岸辺の桜は、公園に生えているものなので、公園のほうに足を踏み入れる。もう一本咲いているものがあった。また見上げる、あたりを見回す。芝生になっているので、ここもあと一週間もすると、花見などでにぎわうのだろうか、と思う。また見上げる。まだ信じられない。だが、桜だ、と思う。桜の花だと。こうしてかみしめるうちに、信じられるようになるのかもしれない。かみしめるたびに、去年やかつて桜をみたときの思いがよぎる。桜だ。花びらだ。
 岸辺の遊歩道に戻る。鴨がいる。タンポポが咲いている。これも今年初めてみたものだと思う。こちらは信じられる。だが、去年やかつてのタンポポの記憶が、見ていることと重なるのがわかる。家に戻る途中、行きに気づかなかったのだが、木蓮に出会う。遠めにでは桃かなにかだと思った。近づいたら木蓮だったのだ。白木蓮などはよく見ていたと思うが、赤紫色の花のこちらはずいぶん久方ぶりに会った気がする。思いがけなかった。だが信じられた。そして思いがけなさには、かつて、たぶんずいぶん前に見たときの自分と再会したようなうれしさがあった。厚みのある花びらがなつかしいような姿で、ほぼ満開に咲き誇っていた。そうではない。咲き温もっていた、といいたいほど穏やかだった。地面にはまたタンポポ。通りの向こうには、桃が咲いている。明日は東京の桜の開花宣言が出されるという。
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2009-03-15

ピロスマニ、のどにひっかけられた黒と白のひっかかり



 「青春のロシア・アヴァンギャルド展」に行く。埼玉県立近代美術館。完全にニコ・ピロスマニに会いにだけのために。これは巡回展で、去年のBunkamuraザ・ミュージアム(渋谷)が皮切りだった。こちらで二回見たので今回で三回目。さて会場。ピロスマニの十点の絵。同じ作品なので、さすがにもはや衝撃はない。だが絵を前にして、衝撃がないことにおどろきを覚えている。わたしはどこまで期待していたのだろう。絵の並べかた、順番が違う。Bunkamuraは《宴にようこそ》、居酒屋の看板が最初だった。そのあとも人物が続き、最後に動物たち。埼玉近美はいきなり《ひよこを連れた雌鳥と雄鶏》《雌鹿》《小熊を連れた母白熊》と動物が先で、その後に人物。これは一般的に最初に見たものをよく思ってしまうというからそのせいだろうが(翻訳本などでもそういうことがある。あまりにひどい訳は別だけれど、最初に出会った訳がなんとなくしっくりする)、《宴にようこそ》が最初のほうが、まるでこれからピロスマニの世界にようこそと誘われているようで、入り口にあるのがふさわしい気がしてしまう。
 ともあれ、こちらもほぼ一コーナーを使って、彼だけの小部屋といった面持ちで、十点の作品が展示されている。
 衝撃はなかったが、可能な限りの時間を当てて、そこにずいぶんといた。画集で見たときも思ったが、元々、酒場などにむき出しのまま飾られていたものなので、絵がだいぶ痛んでいる。金属板は錆び、厚紙はやぶけている。それは痛々しいようだが、当時という時間というか、彼が描いた、居た空間をしのばせるのだった。《タンバリンを持つグルジア女性》《イースターエッグを持つ女性》《ソザシヴィリの肖像》《コサックのレスラー、イヴァン・ボドゥーブニー》《ロバにまたがる町の人》…、そして動物たち。衝撃はなかったが、見ているうちにやはり悲しくなってくる。第一、そこに行っても同じ絵しか見れないとわかっているのに、何回も観に来たことがあったか、これまでに? 先日も、一期一会だから基本的に同じものは一回しか観ないと書かなかったか。
 画集『ニコ・ピロスマニ』によると、彼は白を、無垢なもの、やさしさ、静謐などとして捉えていたという。そして黒を下塗りしてから絵を描く。このほうが絵具が早く乾くからという実際的な理由もあったらしいが、「白は愛の色である、黒い牛は闘い、そしてうなる」とピロスマニ自身がいっていることからも、二元論的なものをそこに差し込みたくなってしまう。《イースターエッグを持つ女性》は、白いヴェール、白い服だ。《小熊を連れた母白熊》は、森の中の熊がなぜ白いのか、「不自然な住環境である」と、図録にはあるが、それは多分絶対白でなければならなかったのだ。やさしさ、愛情。この森には切り株がある。切り株は灰色だが太い輪郭や年輪は白い。切り株までもが白いのだ。
 そして《雌鹿》。雌鹿の飲む水が白い。そして茶色い鹿の輪郭線も白いのだ。《ロバにまたがる町の人》、ロバは黒い。だが腹はとても白い。
 「A 幼児性という言葉には始原的無垢というニュアンスがありますね。始原的無垢というニュアンスは、色で表わせば白色ということになりますが、これは先程の黒=白とどういう関係になるでしょうかね。
 B 無垢が白というのは、かなりヨーロッパ的概念で、それも十九世紀に発達したものかもしれません。」このあと、黒が死と再生のシンボリズムだと述べられている(『仕掛けとしての文化』山口昌男、ちくま文庫)。ピロスマニの絵に幼年も感じたのだが、それは始原的無垢といった箇所からの風としてもつたわってきたのかもしれない。あるいは子供の持つ、新鮮な驚きをこめた共時性。
 《祝宴》。長いテーブル(白いクロス)に前方を向いた四人の男、左に真横を向いて杯を持って立っている男、右に剣を差して杯を掲げて立つ男。テーブルの上に魚や鳥料理、ワイン、テーブルの下に、ワインの入った袋、弦楽器タール、タンバリンのダイラ。ここでも帽子が白、衣裳が黒(あるいは帽子が黒、衣裳が白)など、黒と白も目につくが、それよりも、彼らの視線が気になった。四人は前を向いているといったが、前といってもてんでばらばらなのだ。横向きの二人を除いて、左から、ほぼ真正面、幾分左、右、そして真正面。文章にしただけではわかりにくいと思うけれど、左のほうの人は、本来なら視線を右向きにしなければ、中心を見ていないことになる。そして、真横を向いて立っている人々も、片方は空のほうを眺め、片方は焦点があってないようだ。こうした絵は、肖像画として描かれているので、人々はおそらく画家のほうを見ていたはずなのだが。家に帰って画集を見てみる。彼はこうした「風俗画的集団肖像画」をたくさん描いているが、やはり殆どどれも視線はばらばらだ。彼が動物に自分を重ね合わせて描いたそうだが、この視線のばらばらさも、そうした重ね合わせが可能なのかもしれない。つまり彼が集団にいなかったということだ。あるいは、だれといても、どこにいても、わたしたちはばらばらの視線をもっているということ。あちこちで絵を描きながら、そこにいながら、ひとりで、家も家族も持たずにあちこちで眠る画家。最後は、物置小屋の地下室を棲み家としたらしいが。わたしがどちらかというと、彼の動物画のほうに一層ひかれるのは、そんなこともあるだろうか。
 一頭でたたずむ鹿。そして豚の親子、熊の親子、牛の親子…。親子には小津を思い出した。ちがうかもしれない。家族を撮りながら、独身だった小津と、親子を描きながら、家族を持たなかったピロスマニと。ちがうかもしれない。「映画と人生が違うのがもう当たり前なので、突然スクリーンに─何か本当のもの─何か現実のものを見ると、息をのみ身震いしてしまう。」(ヴィム・ヴェンダース監督『東京画』)だが、そこには、ピロスマニの動物には、なにかしらの“本当のもの”としての表情があった。
 展覧会の前に、ビデオを貸してくださる方があったので、伝記映画『ピロスマニ』を観た。今は入手困難なものなので、ありがたいことだ。(グルジアフィルム・一九六九年製作 監督、脚本=ゲオルギー・シェンゲラーヤ 音楽=ワフタング・クヒアニーゼ 美術、主演=アフタンジル・ワラジ 出演=アッラ・ミンチン、ニーノ・セトゥリーゼ、マリャ・グワラマーゼ、ボリス・ツィプリヤ、ダヴィッド・アバシーゼ、ズラブ・カピアニーゼ、テモ・ペリーゼほか [VIDEO・DVDなど] VIDEO=IVCB-7014 DVD=IVCF-25 アイ・ヴィー・シー)
 最初と最後がピロスマニの絵。題名がわからないが、グルジアの風景を描いたものだ。映画には、ピロスマニの絵がふんだんに出てくる。そして彼が描いたであろう、動物たち、風景、テーブルに座って乾杯する集団の人物。映画の映像と、絵とが、からみあい、本当のものを差し出してくる。たとえば、こんなシーンをメモしてある。「ニコラ(ニコ)が道を歩いている。白い乳牛の絵、そのあと白い牛とニコラ、茶色の牛たち 牛舎に白い牛が帰ってくる。」
 わたしたちはピロスマニの絵の世界を見ているのか、ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督の映像を観ているのか、いやその両方を見ているのだが、映像が、画とぶれて、ゆれうごく。こうした錯綜にここちよいめまいを覚えてしまう。この両者に横たわり、橋わたしをしあうのがグルジアであり、ピロスマニを敬愛する、監督の賛美であり、彼らの創造力だろう。美術が主演のピロスマニ役であるアフタンジル・ワラジ(画家、建築家、グラフィックデザイナーでもあるという)というのも、こうしたつなぎのめまいに拍車をかける。彼が描いているのか、彼が見ているのか、誰が…。
 ピロスマニは一時期友人と食料品店を開く。だが商売に向かず、というより、映画ではお金のないものに商品を売らないということが、嫌になってたたんでしまい、その後、些細なお金で看板などを描いて歩く画家を専業とする。日々と折り合いをつけるのが難しい、ということ。集団肖像画を描きながら、人々のあいだにいながら、彼は一人だ。「世の中に歩調を合わせるんだ。うまく折り合いをつけるのさ」友人がいう。「わかってはいるが おれにはそれができん 人生がおれを飲み損なって のどに引っ掛けてしまったのさ。」彼のこの態度は、人生をはすに構えているのではない。映画では無垢さゆえのように描かれている。実際はどうだったかわからない。たぶんそうかもしれない。それは動物たちの白さだ。無垢さだ。
 映画でも、そういえば白と黒がずいぶんとある。食料品店の情景のメモ。「白い壁、黒い入り口。入り口をはさんだ両壁にそれぞれ白い牛に黒い背景、黒い牛に白い背景の二枚の絵をニコラがかざろうとしている」「白い道。黒い衣服の老婆が壷をかかえて店にやってくる」「一人で店番をするニコラ、黒いセーター、白いエプロン」。あるいは白。見合いの席でも、ニコラは、白いスーツだった。だが、これは姉夫婦がお膳立てしたのだが、「義兄に粉を投げ売りされた 縁談にかこつけて 初めから悪事を…」という事態に怒り、怒って抜け出してしまう。白は、そうしたことすら許さないという色なのだ。店をたたむときに外壁の壁から二枚の白牛、黒牛の絵をはずしていると、それを売らないかと通りがかった人から言われる。「いいとも」「いくらだ?」「いくらでも」、そして白い外壁のアップ。ここで、絵が売れるということ、店から去ることで、放浪することを暗示しているのだろうが、その壁がとても白かったのだ。ぽつんと、決意のように。また、フランスから来た踊り子のショーを釘付けになってみているニコラがある(それだけなのだが、あとで友人の説明により、ニコラは恋をしていたと映画ではわかる)。その踊り子の衣裳も、白く、タイツまでもが真っ白だった。そしてビデオのジャケットをみると、ここでも座っている男(ピロスマニ)が黒いスーツ、そしてテーブルクロスが白と、黒と白になっている。このシーンは、独りで飲むニコラに、向こうの席の男たちが、一緒に飲まないかと誘うところだ。「仲間に入らんかね(中略) 独りじゃつらかろう」、彼は酒を掲げて祝福したのち去ってゆく。「あなたがたのために」
 わたしはさきほど、彼は集団にいなかったと書いた。それは映画のなかのこんな台詞にも現れている。飲み屋のあるじである友人が「世の中に歩調を合わせるんだ。うまく折り合いをつけるのさ」という。それを受けて。「わかってはいるがおれにはそれができん 人生がおれを飲み損なって のどに引っ掛けてしまったのさ」この独りであることは、後にロシアから招聘され、サロンで演説をするときにも思った。サロン(画壇の象徴)で、彼はあきらかに浮いている。作品紹介が終わった後、収集することなどについて意見を求められて。「そう皆さん 町の真ん中に 大きな木の家を建てましょう 集まってサモワールを囲み 茶を飲み 芸術を語りましょう」周りにあわせることができない、だが彼は彼らをいつくしんでいるのだ。木の家に集まって、茶を飲みながら、芸術を語りたいのだ。日々と芸術が彼のなかでは区別がない。描き、食べものをもらう、描くことで彼らと接する。どうしても一線を引きながらも。「彼はあらゆる意味で周縁性を選びとった画家であったということができる。(中略)彼は、自らにとって親しい空間から自らを疎外することによって、自らを外部性によって補強していったと言える」(画集『ニコ・ピロスマニ』文遊社、山口昌男)補強した、という意識はなかっただろうと思う、だが、なにかがそうせざるをさせなかった。映画では、この後、美術界、新聞批評などで、さんざん叩かれ、友人たちもその評をまにうけ、冷たくなり、ほとんど失意のうちに死ぬ。
 だが、ロシアからグルジアに帰る途中の描写が、彼の幼年(八歳で両親を亡くしているのだが、父母たちが出てくる)、そして彼の絵の世界(ロバや牛)と、交錯しあうのが美しかった。芸術が人生なのだと。
 そして穴倉のような場所にいる彼を探しあててたずねてきた画家のラド(最初に彼を見出したフランス人)へのことばが印象的だった。「お互い画家として 好きな絵を描くだけ なぜ足を引っ張り合うのか 私は朝の太陽が好きだ 月の光は悲しすぎて… だめだ 私には彼らは理解できん 言葉が通じないんだ」ピロスマニにとって、ことばは絵ではないから。描くことがことばなのだ。
 実は、埼玉近美にいったのも、『ピロスマニ』を見たのも、三週間ほど前のことだ。この文章は、その間、ほかのものを書いたりで、ほとんど途中でやめてしまっていた。書く気がおきなかったのだ。まもなく「青春のロシア・アヴァンギャルド展」も終わる。たぶん、これでピロスマニの絵としばらく逢えなくなるだろう。ほかの日本で人気のある画家のようには、作品は日本に来ないだろう。あるいはほかの画家なら、今度いつ逢えるか未定でもそれほどはショックではないだろう。それほど、彼の絵と別れるのがさびしいのだ。画集はある。だが、生でもっと、彼の作品を見たいのだ。彼の世界に触れていたいのだ。この文章を書かなかったのも、こうした別れを引き伸ばしていたかったからなのだとようやく気づく。
 はじめて見たときの衝撃。今、そのときの日記を読んでみた。当時の感動の体験が文章からつたわってくる。ことばはこんなふうに、今のわたしに思い起こさせてくれもすると思いつつ(ことばでスケッチすること、彼にとって絵がそうであったように)、はじめて観たときは、無論まったくの予備知識もなく、ただ衝撃をうけたこと、それが、少しでも彼の人となりをしるうちに、最初の印象たちに、わたしの琴線にふれる“幼年”そして“ひとり”(わたしは他者や生活に疎外感をいまだに感じている。人生ののどにひっかけられているのだ)だったことも重なって、ますます大事な画家となってゆくこともまた不思議だった。絵からそれらがにじみ出ていたというのか。
 今、『抽象絵画への招待』(大岡信、岩波新書)を読んでいる。ここにピカソの言葉として、「芸術は、本能や知性が、規範とは関係なしに感知することのできるものだ。(中略)大切なのは、芸術家のつくったものではなく、芸術家の人間なのだ。セザンヌの不安(中略)、ゴッホの苦悩、それはまさしく人間のドラマだ」という箇所を見つけた。ピロスマニの絵を通して、わたしは人間に接しているのだろうか。あるいは“本当のもの”に。
 昨日、街中で三センチくらいの小さな鹿とヒツジの置物を見つけた。《天使の舞う復活祭の祭壇と子羊》《雄羊》《小鹿のいる風景》《雌鹿》…。彼らはピロスマニを思い出させてくれるものだったので、二匹連れて帰った。いなくなってしまった猫のベベのように、多分ピロスマニもこんな風にわたしの中にもはやひっかかったままでいるのだと思った。動物を描いたほかの画家の絵にひかれるようになったのも、彼のおかげだ。鹿とヒツジを机に飾った。こんな風に、彼の絵がなくても、わたしはまた彼の絵のまわりで、彼らしいなにかと接することができるだろう。机の周りに《雌鹿》《小熊を連れた母白熊》《宴へようこそ》などの絵ハガキたち。ちいさな鹿とヒツジたちのおかげで、別れを惜しんで手を付けられなかったこの文章に、ようやく向かうことができたのだった。





上から、《雌鹿》《小熊を連れた母白熊》《小鹿のいる風景》《天使の舞う復活祭の祭壇と子羊》(部分)
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2009-03-09

詩脳ライブ、メモ

 三月五日、詩脳ライブ(シアター代官山)に行く。以下、メモ的に(もっと自分の感想をいれて、ちゃんと書こうと思ったのだが、少し忙しくなってしまったので…)。

 全体の構成。1「朗読パフォーマンス」岩切正一郎、川口晴美、城戸朱理、2「藤井貞和に聞く  〜詩はいつから脳に入り込んだか〜」藤井貞和(聞き手:野村喜和夫)、3「コラボレーション機很鄲軸醢舵廖▲灰鵐僖縫◆Ε丱譟次Ε侫薀瓮鵐魁Ε┘襦Ε后璽襦■粥◆屮灰薀椒譟璽轡腑鶚供廛筌鵝Ε蹇璽譽鵐后田中庸介、5「シンポジウム 〜詩的脳/脳的詩の可能性〜」ヤン・ローレンス、岩切正一郎、川口晴美、司会:城戸朱理、通訳:遠藤朋之(総合ディレクター:野村喜和夫)。

 ヤン・ローレンス氏(ベルギーの詩人、神経科学者)と田中庸介氏とのコラボ。田氏の細胞生物学者としての仕事、論文(「ネイチャー」誌に載せた学術論文、英語)と細胞の写真を、プロジェクターで映し出したものを説明する。ロ氏「わけがわからないけれど、ことばがかたちをもっているようにみえる」「ここはこんなおとでなんだかいいね」。この後で、この論文と田中氏とのメールなどに触発されて書いたという詩を、英語と日本語で朗読。英語でよむとき、ロ氏「ことば、わからなくても、音からカタチがみえてくるでしょ」。次にロ氏「あたまがないへび」を日本語で朗読。
 わさわさとしたもの、しゃかしゃかしたもの、ゆっくりとうごくものが、かたちとして出てくる。
 そうなのだ。小さい頃、ことばをおぼえたての頃、ことばたちはリアルにかたちを持っていた。かたちをもって、わたしにやってきたものだった。そうだ、今でもかたちはあるのだった。「こんなおとでなんだかいいね」。

 シンポジウム。見ることと知ること、見ることと詩を書くことについて。
 城戸朱理氏「オイディプス王の語源、オイコスは、見る、知るという意味。見ることと詩を書くことは似ている。」
 ロ氏「「I see.」、分かった、は眼が見えない人でも使う。」
 「詩は不思議なパターンをさがす。散歩で不思議なものを見る。不思議をみると何の意味だろう? リズムをさがす。未知のものをみる。新しいことばでさがす。」
 川口晴美氏「脳にとって記憶はあいまいにしている。完璧にしてしまうと、同じ人に別の日にあったとき、横顔だったか、服装がちがったか、そうした違いで、同じ人だと認識できない。詩のことばをもっていると、見るということをひきのばすことができる。脳の中にちがうところが働いている。」
 岩切正一郎氏「遠視。山の稜線の木々の一本までみえてしまう。眼がみえすぎるとつかれる。あまりはっきりしない、今のような老眼のほうが、あいまいでちょうどいい。」
 「ヴァレリーが、はじめてみるように見る、生まれたばかりの赤ちゃんのように、といった。」
 ロ氏「盲目の人が見えるようになると、色の洪水としてしかみえない。さわって、かたちを確かめる。そのあとでは、色はかたちにおさまっていく。」
 城氏「ヴァレリーの赤ちゃんですが、実際は、文節化されていない意味のない連なりとしてしか見えない。」
 ロ氏「見ることと、ことばは習得して使う。習ったパターンとは違うことばをさがすのが詩人」
 城氏「ロ氏の「あたまがないへび」ですが、「それはしですか」の“し”は詩、死を、「それはちですか」の“ち”は血、地を、連想してしまう。そして「それはかですか」の“か”は蚊ですが、本人に聞いたところ、疑問の“か?”も含んでいるとのこと。」
 ことばの可能性。おとが、ちがうものたちを、であわせてくれる。
 ロ氏。「見ることは旅に似ている。はっきりとした見え方。親指に焦点をあわせてみると、そこしかはっきりみえない。あとはぼんやりしている。」
 城氏「見ることは選ぶこと。自分がどこにいるかを確認すること。対象を見るだけではない。」
 川氏「大学生は、ちょうどことばでラベルをはりたがるようになった年頃。これは机、これはコップ、そこでおわってしまう。だが認識のスピードは速い。これをゆっくりにすると、たとえば机の細部がみえてくる。」
 岩氏「遠視が老眼になってきて、見えなくなってくることが楽になってくる。眼をとじると匂いや音に敏感になる。輪郭を消すことで他のものがあらわれる。
 アリストテレスの頃は、みる、聞くが上等で、触る、味わうが下等だった。」
 (ロ氏の「一点から一点のあわい、移動している時間は、なにもみていない。旅をしている」をうけて。)
 岩氏「一秒間に、旅をしながらみている。旅をしているあいだに、見ている対象に夢(自分の内面)が混ざってゆく。自分の厚みが入ってゆく。」
 ロ氏「眼は動く時間はなにもみえない。動くときに自分の考えが入る。」
 ロ氏「ぼうっとしている時は、眼は動かない。動いているときに、ぼうっとしているのはむずかしい
 ぼうっとしている(ものをみていない)時間に詩を書く。「あたまのないへびのあたまのことしかかんがえられないじょうたい」、ないもののことしか考えられない状態。」
 城氏「ぼうっとしているというのは、日常的な規範から離れた状態で詩を書くということ。ことばとことばの極端な緊張のなかで、詩はつくられるから。」
 規範から離れた新鮮さ。思い出すこと。見ることを書きとめたことを。書いたら見ることが広がったことを。ことばのかたち。

 私はこの手の催しものの感想を書くことがほとんどない。それは、たくさんの人たちに会うことになる、こうした場が実はとても苦手だから。たいていは苦手を気取られまいと、会話をしているうちに、とても疲れ、緊張してしまい、そのことで頭がいっぱいになってしまい、せっかく見たうつくしいものたちとの交接がうしなわれてしまうからなのだった。それが、なぜ今回? その緊張よりもなによりも、ことばのかたちの新鮮さを思い出させてくれたこと、見ることと知ること、書くことの関係性の可能性のひろがりを照らしてくれたこと、こうしたこととの出会いに対する喜びが大きかったからかもしれない。このこともうれしい。そして感想(メモだが、メモすら取れないのだ、いつもなら)を書くことができたことも。ともあれ、詩脳ライブに感謝しつつ。
17:19:28 - umikyon - No comments

2009-03-05

追憶の羅馬展、フェルメールの白い光、色を飲む



 追憶の羅馬展をまた見に行った(大倉集古館、二〇〇九年一月二日〜三月十五日)。たいていの展覧会は、基本的に一回しか行かない。そこで出会う絵とは、一期一会だと思っているから。今回二回行ったのは、前回行ったのが前期だったが、出品リストを見ると、二月十日からの後期とは、展示作品がだいぶ入れ替わるとあったからだ。
 横山大観《瀟湘八景》(漁村返照)。前回も書いたが、今度は同じシリーズでも違うものが展示されている。こちらも、やはり小舟が空へ漕ぎ出しているように見えてしまう、いや見たくなってしまう。水平線のほうが湾になっていて、半島の山と夕日が見える。山にうかんだ雲のような水。あるいは空と水が、この絵のなかでは近しいのかもしれない。夕方という時間もまた、このあわいにふさわしい。夜と昼のあいだ、どちらでもない、どちらでもある、空と水。
 《瀟湘八景》(平沙落雁)も水辺と空と大地が不鮮明。というか、これは約束としては干潟らしいが、干潟自体が、そもそも水と土の境界があいまいな場所ではなかったか。そのなかを数多の雁が降り立とうとしている。あるいは飛び立とうとしてもみえる。すべてが境界の上をたゆたっている。雁たちはとてもちいさく描かれている。だが、雁の瞬間が空と大地とをつなげていると思った。このあやうい境界に、はっと息をとめてしまいたくなる。
 後日、「瀟湘八景」をウィキペディアで調べてみた。
「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)は中国で伝統的に画題になってきた八つの名所。湖南省洞庭湖付近で、瀟水と湘江の合流するあたりの景色である。
 瀟湘八景が登場する最も早期の例は北宋時代の沈括による随筆集『夢溪筆談』の書画の巻であり、湘江流域の八つの名勝を指して瀟湘八景と呼んでいる。
 東アジア各地に伝えられて、それぞれに地域での八景が瀟湘八景になぞらえて描かれることとなった。 また、瀟湘八景そのものも画題としてさまざまな絵師によって描かれ続けている。」とあった。
 大観の《瀟湘八景》は、どこのものかわからない。だが、画題を共有することで、名前と場所までもが境界をにじんでいるのだと思った。題名という名前が、景色をつなぐ。場所はそれぞれの地域であり、そしてどこかに湘江流域をもっているのだ。
 この展示が一階。そして二階展示室へ。前回、猿がいたところに猫がいた。橋本関雪《猿猴図》から《暖日》へ展示替えがされていたのだ。白い長毛種の猫が寝そべってこちらを見ている。そのくつろいだ表情、姿から、“暖日”のやわらかいような陽だまりの暖かさ、南の風をもふくんだ空気が感じられる。
 竹内栖鳳《蹴合》。これは前も見たが、軍鶏の腹のあたりの毛、茶色と黒のまだらが、べべにそっくりだと気づく。前回、意識しなかったのは、べべがこんな風にわたしのなかに棲んでいたことに長らく気づかないままだったからだろう。わたしは自分のなかの彼女を、閉じ込めていたのだ。失った悲しみとともに。それが二十五日の日記に書いたとおり、彼女が在りし日のままの姿で夢に出てきたことで、その枷がはずれた。彼女はいない。それは残念ながら本当だ。だが彼女はやはりいたのだ。だから軍鶏たちを見ているときにも、そこからうかびあがってくれるのだ。それはここまでついてきてくれている、ということだ。(べべ=五年前までいた猫。十九歳)
 庭園に白と赤の梅が一本ずつ咲いている。前回来たのはもうひとつきほど前で、まだ一月だった。そのときは花芽はあったかもしれないが、色彩がなかったから気づかなかったのだ。白と赤、今はほぼ満開。


 帰りに本屋で『週刊 西洋絵画の巨匠4 フェルメール』(小学館)を買う。高階秀爾の文章。「フェルメールが描く人物の目には、かならず白い点(ハイライト)が入ってい」るという。これは「不自然で人為的な」光だ。自然にさしこまれた不自然が、リアリティを持つこと。「白い点として描かれた光が瞳に生き生きとした輝きを与え、その瞳の輝きに、見る者は心奪われ立ちすくむ」詩的リアリティについて。このページの写真は《真珠の首飾りの少女》の部分だった。真珠の眼。


 別の日。休日。家の近くの空き地に、ホトケノザが咲いているのを見つけた。
 いつからだろう。この花の赤紫と、オオイヌノフグリの空色が、とてもやさしいものとして眼に映るようになった。もしかすると、思春期の頃からだ。どちらも早春の頃から地面近くに咲く。特にその年、最初に、この日のように、見つけた場合、水を飲み干すように、それらを見つめてしまう。そうして春を焦がれていた自分に気づくのだ。ブログに乗せるために携帯で写真を撮った。そのためでなければ撮らない。こうしたことは、わたしの場合、ことばで記憶に残すほうが性に合っているから。ともかくカメラを向ける。バスを待っている間のことだった。だが気がついたらバスが行ってしまった。このバスを乗り過ごしたら、約束の時間に間に合わない。しまった。だが、こうした出会いは必要だ。バスはもう行ってしまったのだし。よく晴れた《暖日》だった。喉がうるおう。(ちなみに次のバスでもなんとか間に合った)


 そしてまた別の日。あちこちで梅が満開だ。大倉集古館の、先月の花芽だけだったころの、枯れたような姿を思い浮かべる。バスに乗っていた。車窓から、今度は桜の木が何本か並んでいるのが見える。枯れたような姿。その桜たちは大木だったが、花をつけるであろう枝たちは細いということに、ほとんどはじめてのように気づいた。太い幹から、細い枝たちが、やわらかな網目のようにひろがっている。こんなにも繊細だったのか。梅たちが咲く前の姿を見つめることを教えてくれたので、見ることができた。そして、梅たちは、逆に、花が咲いている姿をも想起せよ、と甘やかな匂いで、ささやいてくれたので、わたしは桜の、満開の姿を思い浮かべてみる。だが、まだだめだ、いつも桜は信じられない満開としてやってくる。それは突然、どっしりと腰をおろし、これ以降は《暖日》なのだ、いつまでも、とでも言わんばかりに、春を告げているのだった。バスに乗っていた。今日はまだ寒い。雪まじりだ。梅がまばゆい。
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