Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-04-25

忘れえぬ明るさ、視線が出会う(国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア)



 「国立トレチャコフ美術館展 忘れえぬロシア」に行ってきた(四月四日〜六月七日、渋谷・Bunkamuraザ・ミュージアム)。
 展覧会HPから引用する。「モスクワの国立トレチャコフ美術館は、中世の美術も含め約十万点の作品を所蔵しています。なかでも十九世紀後半から二十世紀初頭にかけてのロシア美術の作品は、創始者トレチャコフが熱心に収集した同時代の傑作が揃っています。/ 本展は、所蔵作品の中からロシア美術の代表的画家、レーピンやクラムスコイ、シーシキン等、三十八作家による七十五点の名品を紹介し、このうち五十点以上が日本初出品となります。十九世紀半ばからロシア革命までの人々の生活や、壮大なロシアの自然、美しい情景を描いた作品と共に、チェーホフ、トルストイ、ツルゲーネフ等の文豪の肖像画も加えて構成し、リアリズムから印象主義に至るロシア美術の流れを追う、意欲的な試みとなる展覧会です」。
 チラシやポスターになっている(そして展覧会の題名もそれをもじっている)、《忘れえぬ女(ひと)》(クラムスコイ)の、黒衣の婦人の女性の眼差しに、なにか惹かれるものがあった。そして、五十点も初出品とのこと、きっと新たな出会いがあるだろうと。
 大雑把にまとめると、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけてのロシア美術の中心的な考えは、写実的リアリズムで、そのなかで社会矛盾を告発するジャーナリスティックなものと、生活や風土のなかの美を求める、ふたつの傾向があったらしい。展覧会は主に後者をあつめたもの。そしてこのリアリズムは、両者とも移動派と称される。名前はアカデミスムからの決別として、一八七〇年に結成された移動展協会(地方都市に展覧会を巡回させる)に由来している。
 生活や風土を描いたものたち、特に風景を描いたものは、印象派に通じるものがあった。だが、こちらは絵がもっと緻密に描きこまれている。それはリアリズムを通低奏音に置いた外光派だったからだろう。自分のみた瞬間を印象派のようにさっと描いたふうではなく、自然や人々を丹念に描きこんでいる。わたしは印象派に慣れているからか、彼らのように自分の見た印象を絵に注いであるほうが、好みではあるが。ロシアのほうは、印象をとらえた自分というものがいないわけではないが、薄いのだ。

イリヤ・レーピン《レーピン夫人と子供たち「あぜ道にて」》

 だが、イリヤ・レーピン《レーピン夫人と子供たち「あぜ道にて」》(一八七九年)は、その外光たっぷりの絵にひかれた。あぜ道までが草におおわれ、一面の野原の真ん中のその道の手前に草を摘んでいる二人の子どもたち、すぐ後ろに日傘をもってそれを見守っているレーピン夫人、さらに後方に、赤子を抱いた婦人。野原のむこうは森になっているようだ。そこからは風すら感じられるような気がした。構図はちがうが、モネの《ひなげし》に通じるものがあるような気もした。こちらは、一面のひなげしの原の、真ん中ではなく右下脇に、日傘の婦人と子どもたちが歩いている。草の香りすらたちこめてくるような、まざまざとした明るさたち。草たちが呼び合っているようでもあった。
 図録を買わなかったのだが、数日後、『世界 名画の旅1 朝日新聞日曜版』(朝日出版社)というものを、古書店で買った。これは一九八四年から新聞の日曜版の連載で、毎週一点の絵を物語や紀行文を交えて紹介していたものを収録したもの。そこに後述するが《忘れえぬ女》が載っていて、コラムとして高階秀爾が移動派について書いていた。「十九世紀の中ごろまで、ロシア絵画、特に宮廷を中心とする公的絵画は、フランスの強い影響の下にあった。それに対して、農民や働く人々の姿をありのままに描き出し、それによって農奴制や帝政社会の悪徳を鋭く告発しようとしたのが、一八七〇年に結成された移動展協会の仲間たちである」。これを読むと、印象派が日本の浮世絵の影響を受けたというのとは、まったく違うことがわかる。印象派の彼らは見知らぬ新奇なものを取り入れようとしただろう(例えばモネの《ラ・ジャポネーズ》は、着物を着て踊る姿を描いたものだが、着物の役者絵、団扇に描かれた浮世絵からも、何か新鮮な喜びにみちた想いもつたわってくるようだ)。だが、移動派の彼らは、フランスからの脱却ではないにせよ、そうしたものたちを含んだアカデミズムからの脱却だった。それでも、おそらく長年培ってきた何かだろうか、あるいは共有するような空気を吸っていたからだろうか。彼らの描く絵は、どこかしら共通点がある。いや、印象派もまた、外に出て描いたし、アカデミスムからの離別だった。こうした点でも似ていったのだろうか。チラシなどには、「パリでは印象派展が開かれ、レーピンをはじめロシアの画家たちもその動きを見聞していたのがまさにこの時代。彼らはそれを消化吸収し、祖国の新たな肖像を描き出していったのです」とあり、移動派の主要人物、レーピン、クラムスコイ、シーシキン、ポレーノフなどは、パリに(ドイツ、ロンドンなど、パリだけではないが)訪れていたともある。ともかくそこには新奇さではない、静かな同意が感じられるのだった。今名前の出てきたワシーリー・ポレーノフ《モスクワの中庭》(一八七七年)の教会の見える緑を十字に走る道、青い空に浮かぶ雲、影をひめた植栽には、やはりモネの初期、十七歳の時の作品《ルエルの眺め》(一八五八年)を想起した。こちらも構図はまったく違うが、空の色、明るさ、緻密な書き込み、樹の暗さに共通なものを感じたのだ。モネのこれは野外の光、外光に始めて開眼したときの絵だという。外に出ることに気づいたという、共通性なのか。ほかにイサーク・レヴィタン《満開の林檎の木》(一八九六年)の明るさが心に残った。梅林のように、林檎の木の林になっていて、白い花があたり一面の満開になっている。下草は、やはり光をあびているので、影が濃い。影の濃さが、まぶしいほどの光の存在を、風すらもたずさえて、そこにかもし出していた。

ワシーリー・ポレーノフ《モスクワの中庭》

イサーク・レヴィタン《満開の林檎の木》

 そしてチラシやポスターなどを飾る肖像画、クラムスコイ《忘れえぬ女》…。原題は“どこの誰ともわからない見知らぬ女”という意味で、画家はこのモデルの素性を明かしていないそうだ。だが日本で始めて公開された時から、タイトルは《忘れえぬ女》とつけられたそうだ。無蓋の馬車に座った、黒衣の婦人がこちらを見つめている。凛としつつ、どこか悲しげだ。背景は雪の朝の町だろう。けれども薄くベールをかけたようにぼかしてあるので、余計に馬車に乗った女性が目立つようになっている。こういうことはなかったか。その人にあったとたん、まわりがかすんでしまうということは? それほどまでに衝撃的な出会いなのだ、忘れられないほどの出会いなのだ、だからこそ日本では題名が若干変わってしまったのだ…。婦人の特にその眼差し、印象的な視線を感じながら、そんなことを思っていた。
 わたしは実はあまり人物を描いたものは好きではない。肖像画のイメージがあるからだろうか。それは記念写真のようで、そこに関係ある人だけのもののように感じてしまうからかもしれない。だが、この絵は違った。うまくいえないが、そうした関係から放たれて、美としての力をたたえている。その瞬間の表情、人間のはなつ真摯なものへの共有をこめて描いている画家の想いがつたわってくる…そんなことなのか。画家と眼があった、その瞬間の憂いをこめて、私たちを見つめている、そんな婦人の視線に釘付けになってしまう…。

イワン・クラムスコイ 《忘れえぬ女》

 前出の『世界 名画の旅1 朝日新聞日曜版』によると、モデルは様々言われているが、トルストイ原作の『アンナ・カレーニナ』が近いのではとある。理由はトルストイはそれまで誰にも肖像を描かせなかったのだが、クラムスコイに「あなたの死後、結局はだれかが、あなたの肖像を描くでしょう。(…)そのときこそ、適切な時期に描かれなかったことを後悔するだけです」、つまり後悔したって遅いよと言われ、彼に描かせたことで、接点があるからというのと、「『アンナ・カレーニナ』の中に登場して、アンナの肖像を描くことになる画家ミハイロフは、クラムスコイをモデルにした」といわれているからだそうだ。このミハイロフも、当時のアカデミズムを否定し、リアリズムを追求している。展覧会のチラシなどでは、ほかに『白痴』のナスターシャも挙げられている。だが、私としては、モデルは謎のままでいいような気がする。ここに描かれているのは多分当時の新しいタイプの女性だったのだろう。クラムスコイがそうであったように。「これらの文学のヒロインは、行動と生き方によっていずれも社会のモラルの慣行に挑戦した」と、会場で配られた作品リストにある。こうした女性たちを素材につくった、クラムスコイ独自の女性だっただろう。それは可塑性があるものだ。わたしたちは、そこに自分にあった女性をつい見てしまうのだが、そうしたことが、絵を通じて、作者の意図と出会うことになるのだ。
 家の近く。小学校脇の小さな矩形の公園の、その一辺に葉ばかりになった桜が何本か植わっている。その緑の鮮やかさにもひかれるが(それでもあの魔的な花の美しさが消えていることにほんのすこしの寂しさとともに、違和を感じる。この葉の茂ったさまは、健康的で、おだやかで、花の息をのむ妖しさはないのだった)、四角のちょうど中央に藤棚があり、こちらがだいぶ花を咲かせ始めている。六分咲き位か。継がれているのだと思った。桜の下には、ドウダンツツジ、別の一辺には濃桃色のツツジたち。継がれているのだ。明るい日差し。こうしたものの出会いをかたちにしたいという想いと、クラムスコイの《忘れえぬ女》の、あの表情をかたちにしたいという想いは、おそらく通じるものがあったのだろう。だから…と後日、午前の日差しのなかでふと思ったりした。まざまざとした明るさたち。

http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/shosai_09_tretyakov.html
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2009-04-15

桜という現実、(三月二十四日〜四月十日頃)


 今年の桜は、開花宣言が出たのが三月二十一日と早かったが、その後は花冷えが続いたため、例年なら一週間で見ごろとなるのに、二週間後の四月四日位が満開だった。

(〜三月末)
 桜は、私にとっていつも突然に咲くとこの前書いた。だが二週間かかっての満開というのは、あまり経験したおぼえがない。開花宣言が出てから、毎日桜を眺めていた。今日も一分咲きに満たない位だ、ここの桜にいたっては、完全につぼみのままだ…。ほとんど冬の格好をしたわたしが桜の木たちを見上げる。時折氷雨のようなつめたい雨の降る日もあった。花冷え…花は桜のことだろう。冷えていることと、つぼみであることがひとつになり、開花を見にくくさせているようでもあった。寒さとつぼみにより、暖かさと開花がまったくの圏外におしやられている。もはや突然ではなかった。それは咲くとみせかけたまま、どこかに去ってしまった花の停滞、冬の枝に逆戻りした眠れるつぼみだった。こんな状態で、わたしに突然やってくることは今年はおそらくないだろう。桜はだらだらと開花を引き伸ばされ、寒さのうち、うやむやに花を散らせてしまうことになってしまうのではないだろうか。今日もつぼみだ。この時期だと、例年桜のために遠回りしたりするのだが、そんなこともしないまま停滞のなか、あきらめのなか、幾分消沈しながら、日々を過ごす。真冬の寒さ、と天気予報もいっているが、だが三月という名前を持った季節のせいだろうか、こちらの心の持ちかたのせいだろうか、冬よりは寒さが鈍っている感じがする。厚手のセーターやコートを着なくとも、何とか過ごせる。桜だって、ほんの少しずつだが咲いているではないか。突然ではなく。
 近所の桜で、数本だけ、開花が早く、ほぼ六分咲きくらいになっているものがある。だが、それも、陽の加減なのだろう、あとの四分は、寒さにこごえて、ちょうど北を向いたほうだけがつぼみで、そのバランスの悪さも不安だった。後の四分が満開になったら、六分はもう散っているだろう。それはつぼみと開花が同居しながら、結局満開でないように、開花と散りゆくものが同居しながら、うやむやのうちに満開を終わらせてしまうだろう。開花宣言が三月二十一日だった。五日目には、もう桜を見つめることをやめていた。そのつぼみたちは、眠りのなかで緩慢だった。今年は何かが物足りない…。

(三月二十八日〜)
 ただ二十八日の土曜日には、桜が咲いていない浅草、隅田川に出かけてきた。堤防沿いの桜はほとんど咲いていない。早い花見客たちがちらほら、つぼみの木の元で、レジャーシートを敷いている。

 久しぶりに、吾妻橋から水上バスに乗る。これは終点が日の出桟橋で、およそ四〇分かけて海のほうに向かうのだが、桜の期間だけ特別に吾妻橋から少し遡り、桜橋で折り返し、墨堤公園などの桜を舟の上から鑑賞してのち、通常のルートとなる。料金は通常と同じ。桜は咲いていないが、人が多い。例年なら、開花宣言から一週間の今日あたりが満開だから、予定を組んでいたのだろう。水上バスには、バスツァーの団体も多く乗り込んでいる。一階の窓際の席へ。窓は開いている。水と風が感じられる。桜はないが、桜のためにゆっくりと舟が進むのが、不思議だった。桜は吾妻橋とこの付近がメインで、後のルートには意外だったが、桜の本数は少ない。だからつぼみの桜のことは殆ど忘れ、水に、岸辺に魅入ってゆく。十年ほど前まではよく乗っていた。浅草まで出て、水上バスで浜離宮庭園か日の出桟橋で降りて、そちらから帰る、ということをくりかえしていた。最後に乗ったのは七、八年前だった。船はいくぶん瀟洒な感じになったかもしれない。景色は? ああ水だ。船が水尾を作る、波紋を生む。桜は完全に頭から消え去り、殆ど水を見ていた。波しぶき、砂浜のような、波の白い模様。浅草あたりは、陸を歩いていると忘れがちだが、海が実は近い。発着所付近からも、潮の香りがかすかにしていたが、それがだんだん強くなってきている。海がますます近くなってきている、そのことが船のたてる波を、ますます海のものとしてわたしに見せつけてくる。波、白い網のような模様、ユリカモメが浮いたり沈んだりしている、鵜がいる。
 最初はまさか…と思ったが、多分わたしの感じ方は正しいだろう。どうも十年ほど前よりも水がきれいになっているようだ。波がたつ、白い泡がうまれる。その白さが、昔はもっと黄色、というか黄土色がかっていた。今はほとんど白だ。水の色も、暗緑から、青に変わっていたと思う。波、青い波、白っぽい波。船で伊豆七島に行ったことがある。夜出航し、朝に各島に着く。夜でもライトに照らされているので、船の起す波の、東京湾のその汚さがわかった。黄土色の波、茶色がかった白い波。わたしは悲しい思いでそれをずっと見つめていたものだった。そして多分、いつまでたっても(実際はせいぜい一時間位なものかもしれない)よどんだ波飛沫しか見えないので、船室にもどったのだった。桜がつぼみのまま咲かないように。このままずっと、変わることがないのではないか、そんな寂しさをひめて。だが、ちがう、とどこかでささやくものがあった。うながされるように、真夜中のデッキに出る。場所はどこだったか。横須賀沖はとうに過ぎていた。東京湾と相模湾と重なるあたりだったろうか。あるいはそんな湾からはなれ、太平洋にはいったあたりかもしれない。ともかく、波のコバルトブルー、青の底にひそむ透明さ、真っ白な波飛沫が、突如としてわたしにやってきたのだった。信じられなかった。こんなに海は待っていてくれたのだと思った。わたしをやさしく誘いかけるように。その清冽な青い光に、わたしは釘付けになったものだった。突然の、それは桜のふいうちのようだった。
 水上バスからの光景は、そんな沖の色を思い出させた。もちろんあれほどは水がきれいになっているわけではなかったが。佃島のあたりを通った。桜がつぼみだが、何本か大木が植わっている。ここもきっと満開になるのだろう、いつか…。

 そして、待ち望んだ海へ。レインボーブリッジ、その向こうは大海だろう。竹芝桟橋あたりも、やはり十年ほど前まではよくきていた。その頃住んでいたマンションから、自転車やバスですぐこれたのだ。このあたりでぼうっと座っているだけで満足した。だが来るたびに思ったものだった。ここは埋め立ててばかりで、ほとんど運河のようだ。拡がりがない。水平線がない。だが潮が感じられる。わたしは海がほんとうに好きだったから。そんなかつての自身の眼をも、この海景は内包して、そこにあった。ほんとうにずいぶんきていなかったのだ。それはなるほど水平線がみえない、閉ざされた水だった。だが、それでも海だった。開放感が船をゆらす。わたしは海を前にすると、今も初恋の人にあったかのような、もどかしい気持ちになる。初恋というときの、恋の感情が、ふっとよみがえる。拡がりはなかったかもしれない。だが、思っていたよりは、拡がりがあった。こういえるということは、もはや今のわたしと過去のわたしに隔たりがあるということだ。いまのわたしは、閉塞した海とは思えなかった。それはなるほど、海の水質と違ってさすがに景自体はほとんど変わらなかったが、ある程度拡がりをもって、大海を想起させるのだった。恋愛の水。


(〜四月四日)
 海とは再会した。桜に戻ろう。桜は恋だろうか。二十九日、家のとなり町の桜並木に行く。まだつぼみ。再会が果たせないまま、終わるのだろうか。寒い。今日もつぼみ、今日は雨。だが、そして、四月にはいった、あれは木曜二日だったか、金曜日だったか。ほとんど桜を見上げることをしないでいたのだが、気がつくとだいぶ桜が咲いていたのだ。あれらはそれでも突然花開くから、ずいぶん見ていなかった気がするが、それでも一、二日のうちだったろう。駅に向かう途中にある急な坂道の脇に、一本、桜が咲いているのが見える。鉄塔もあるが、坂から見えるそこは緑も多いので、山の斜面のようだ。だが坂の途中から緑の向こうに、宿舎のような集合住宅が見えるので、おそらく入れないのだろうと、今まであまり気に留めていなかった。だが、気づかないうちに咲いていた桜に呼ばれ、ふっと坂をあがったあたりから、脇にそれて、桜を見に行く。それはおどろいたことに成城三丁目緑地とあり、公園として整備されていたのだった。少しあたりを散策する。見えていたあたりには桜は二、三本しかなかったが、もう少し先にいくと、坂の中腹あたりにまた平地があって(つまりそこには階段で降りるのだが)、そこを囲うように桜が咲いているようだった。また鉄塔脇の桜辺りから、竹林が突如として拡がり、その中を山道のようにロープ伝いに降りる道があった。案内図を見ると、降りたところに、二箇所湧水があるという。また桜がどこかに消えてしまった。わたしは水が好きなのだ。湧き水があるということが、とてもうれしかった。だが時間がなかった。湧き水だ、すぐに見にこよう、水を思ってわくわくした。中学生くらいまで、坂をのぼるまでが好きだった。坂をのぼりきって、見渡すと、そこには海が広がっている。あるいは知らない川が眼下を流れている。そう想像するのが好きだったのだ。坂をのぼり、脇がにそれたら、それが本当になるのかもしれない。湧水があるのだ。
 だが、桜はもう長くは消えなかった。脇の公園から、元の道に戻る。また小学校脇の小さな公園に出る。こちらの桜が飛び込んできたのだ。知らないうちに、つぼみであることをやめていた。六分咲き位だったろう。待たせていたから、もう待ちくたびれてしまった、もはやほとんど感慨がわかないと瞬間思った。だが、その桜を目の前にして、そうした思いは薄い布のようだと気づいた。すぐにめくれてしまうのだ。あるいはそれは桜に対するこびを含んだ甘えだった。桜に文句がいうほど、親密な関係だったように。だが、まだ信じられない。桜はほんとうにつぼみであることをやめたのだろうか。現実味をおびていない。だが…とわたしは思う。この信じられなさこそが、わたしが望んだふいうちの桜と同質のものだったのではなかったか。
 用事が済んだが、湧水への道は午後五時で閉ざされるという。もう五時をまわっていたので、家の近くの桜を自転車で探検しにいくことにする。あたりには、野川のほかに仙川という川が流れている。こちらの川沿いに、桜並木があることを知っていた。引っ越してはじめての春だが、このあたりは五年ほど前からよくきていたのだ。自転車で川の桜を見に行くことが、去年や一昨年と違う。以前は、外から見に来ていたのだが、今年はこのあたりに住むものとしてあるのだ。すこしの違和が、おもしろい。六時をまわっていたが、まだほのかに明るい。桜たちが、両岸から川に向かって垂れ下がり、桜で橋を作っている。ほぼ満開に見える。人ごみというほどではないが、桜を見に来ている人たちがいる。信じられるか。わからない。わからないながらも、眼が釘付けになる。桜のアーチの脇を現実感がなくすりぬける。信じられなさの脇を、ぼうぜんと過ぎてゆく。仙川から、家に向かう途中、今度は野川がある。野川沿いに、三月二十日に書いた、一本二本早咲きだった桜がある。そちらも見に行く。満開のまま、まだそこにあった。というのは、本当に早咲きだったから、もう散っていてもおかしくないのだ。こちらも脇が公園になっているので、自転車を押して入る。ここは次太夫堀公園という。藁葺き屋根の民家などがあり、田園風景を残している区域は午後四時半で閉まってしまうが、他は二十四時間通れるようになっている。人工のものだろうか小川が流れている(野川が近いし、湧水かもしれないが)。小川の脇に桜。小川からは菖蒲の葉が伸びている。こんなところにも、そうだった、水があったのだ。だいぶ暗くなってきた。道が細い。小川の脇をゆっくりと自転車で進む。砂利道。川に落ちそうだ。木も多いから、街灯があるとはいえ、足元は暗い、落ちそうだ。だがそれがとてもうれしい。また桜を忘れた。いや、こんなふうな脱線が、桜をわたしに現実感があるものとして、差し出してくれるのだ。

(〜四月四日〜)
 四月四日は、車で野川公園に花見に行った。ここは、ほぼ家の隣の市の調布、小金井、三鷹の三市にまたがった巨大な公園。最初は都道をはさんだ野川の南側の芝生広場へ。だいぶ花見客が多いが、桜の本数がそれほど多くないためか、広場一面というほどではない。自転車置き場の近くの芝がおわりそうな場所、桜の木の下にシートを広げる。向こうに桜たち、見上げると桜たち、ほぼ満開。芝のむこうに大木、桜、桜。やはり現実感がない。まだしっくりこない。とても暖かい。この暖かさもまだ信じられなかった。桜と暖かさは、開花ということでも結託していたが、ふってわいた現実としても結託していたのだ。だが眺めているうち、去年まで住んでいた家の近くの光が丘公園を思い出した。芝生があり、桜があるその景色が似ていたのだ。わたしはあの公園の桜が好きだった。桜の時期になると、夜、会社からの帰宅後、自転車に乗って、わざわざ桜を見に行ったものだった。夜の桜並木を抜ける。あるいは、昼の広場でくつろぐ。もう、そこに住んでいないことへの郷愁が、眼前の桜に混じりこむ。だがなくしたということは、なにかをまた持ったということでもある。たとえば野川公園の桜たち。

 次に野川の北側へいった。こちらは国分寺崖線に接しており、柵で囲ったりして、かなり動植物を保護しており、自然環境を残している。桜は山桜などがあるが、さらに少なくなる。桜がまたわたしから少し忘れ去られる。だが、こんなふうに付随したことが、桜を取り囲み、現実として触感させてくれるのだろう。こちらも湧き水がある。ホタルの幼虫の主食であるカワニナを育成している。夏になるとホタル鑑賞会が行われるとある。白鷺、鴨。湧水の池は棲んでいる。印象派の絵がそこに重なった。こんなことが桜を囲ってくれるだろう。林のようになった、向こうのほうで、殆ど地面に寝転ぶようにして、写真を撮っている人がいる。鳥でもいるのかと思ったら、春蘭だった。保護されているとはいえ、こんなところに生えているとは。今ではほぼ売り物としてしか存在しない野性蘭だろうと思う。小学生の頃、わたしが住んでいた埼玉の林に、ごくまれに春蘭があった。父が採取して、家で育てた。次の年だったか、その次だったか、もう林で春蘭を見かけることはなくなった。咲かせるのが難しい蘭だったが、父は毎年よく花を咲かせていた。自然の姿のまま(厳密には違うだろうが)の姿であるのを見たのは、ずいぶん久しぶりだった。こんなことを、花を前にして、ぐるぐるとあたまのなかでかたちのまま思い出し、思っていたが、目の前にあるそれも、桜とはすこしちがうが、信じられないものとしてそこにあった。桜とちがうというのは、桜はそれでも毎年ほぼ見られる、それでも信じられないのだが、春蘭は、鉢植えはともかく、現実的にまったく数十年見たことがなかったからだ。


シュンラン

 だが、この信じられなさは、再会の喜びに変わった。あるいは、この再会を果たした後、足元を見ると、いろんな花たちが咲いていたのだが、それもまた思い出深いもの、やはり子どもの頃に見たものたちばかりだったので、これらがたばになって、現実にあるものとしてわたしに次々と差し出された結果、信じることになったというべきかもしれない。ヤブレガサ、ヒトリシズカ(この二つは自生しているのをみたわけではないが、ともに父が育てていた)、ムラサキケマン、ギンラン、ウラシマソウ、ムサシアブミ、ニリンソウ…。これは現実なのだ。思い出をともなって、現実の境界がゆらぎはじめる。現実とは自分が生きてきたものの積み重なったうえでの見方でもあるのだ。

ヤブレガサ

ギンラン

ムラサキケマン

ウラシマソウ
 帰り道、遠回りをして、車窓からだったが国立の桜並木を見る。桜ももはや信じられるものにほとんどなっていた。現実にありうべきものとして。この世のものとも思えぬほど、という形容がどこかについてまわったが。

(〜四月五日〜)
 次の日、いよいよ家の近くの湧水に会いにいく。期待をして大丈夫だろうか、思ったよりもひどいことは? また心配が頭をよぎるが、坂から見る桜が満開で、なにか肯定するように静かだった。竹林をみながら今度は下る。降りきったところに、まずは大きいほうの湧水、こちらはほぼ池になっている。鴨がいる。小さな公園に作られた人工の池といった感じだったが、なるほど湧き出す水がわかる。それが一筋の流れとなって池にそそぐ。そして驚いたのが、ここがいつもよく利用しているスーパーの道路をはさんですぐ横にあったことだった。スーパーの側面に面してだったから、今まで気づかなかったのだが、これはうれしかった。日常にはさまれた清冽な水。上からの道は五時で閉ざされるが、スーパーの脇からなら多分二十四時間行けるだろう。日々の用事をするなかで、ふっと湧き水をみることができるのだ。また斜面を斜めに少し登る感じで、もうひとつの湧き水を見に行く。こちらは生まれたての川のようで、かわいらしいと思った。草の間から水たちが少しづつ湧き、それが小さな川を作っている。家の近くに湧き水がある。家の近くに水が。歌うように、かみしめるようにしばらく眺めていた。

 そのまま斜めに上りきったところが、長細い広場になっており、子どもたちがキャッチボールや野球もどきの遊びをしている。その周囲をめぐるように桜たち。はじめてみる桜の景色。坂の上にあたるので、高台になっていて、桜ごしに町が俯瞰できる。天気がよければ富士山もみえるはずだ(後日、確認できた)。はじめてみる景色だったが、たとえば山種美術館のさくらの展覧会で、似たような景をみたことがあると思った。以前住んでいた、やはり坂の上にある公園の景色にも似ていた。それはその場所をにじませてしまうほどのやさしい衝撃だった。幾重にも現実というのは、かさなってそこにあるのだ。ふうわりとわたしをもちあげ、巨大なクッションのような現実の上に置いてくれ、底にひそむ真なものをそこから通じて、つたえてくれるようだった。いや、そのときはなにも思わなかった。だが、もはや信じられるものだが、ただただ、桜にのまれていてそこにあった。それはこわいものでもあった。満開が、なのか、現実が、なにか。畏怖ということかもしれない。桜は静かに現実だった。

 ここからは、いつも駅に向かう時の通り道だ。近くの小学校脇の小さな公園へ。ここでも桜が満開だ。不思議なことに花びらはまだ散ってないのだが、たまに花が一輪、まるごと落ちてくる。ちょうどわたしの目の前に降りてきたので、両の手のひらでうけとめる。蝶かなにかのようだ。現実の桜を手のひらをすぼめてからまたみる。動き出しそうだとうれしくなる。今度は成城学園前の桜、そして学園の脇にも流れる仙川の桜へ。前回が夕方だったが、今日は真昼だ。こちらは人が多いが、歩きながらみるのには支障がない。両岸から雲がかかるように、桜が川の上を覆っている。水に桜が映る。上と下で、桜が花の輪をつくっている。橋にたつ。写真を撮っている人が多い。桜の輪のなかで桜にまみれてむせそうになる。信じられる…。


 四月六日の月曜から、成城三丁目緑地、仙川、野川(次太夫堀公園)の桜たちをほぼ毎日見てまわる。用がなくても足をのばす。例年の桜のための遠回りだ。こうしたことをして回ることがうれしかった。桜はまたわたしにやってきてくれたのだ、という喜びと、こうした毎年の行為が現実にまた一枚積み重なることが。だが、今年はそれだけではない。ここに越してきてはじめての桜たちなので、なにか新たな場所にやってきた犬や猫が自分の縄張り内を調べ上げるようでもあるのだ。ここの寺の桜は夜になるとライトアップされる。ここのアパートにも桜がある。窓をあけると花見ができるのだろうか。この家の桜がわが家から一番近い桜の木だ(この家には梅もあったっけ)…。ついでに目がすこしだけ敏感になっていったのだろう。家の近所でフキノトウやレンゲを見つけた。マンションの駐輪場ではツクシが生えていた(ほとんどスギナになっていたが)。こんどは桜が気づかなかったなにかたちを教えてくれるのだ。桜の遠回りのため、菜の花畑にも出合うことができた。桜にみとれにゆく。すると、饐えたような甘いにおいがしてきた。どこかでかいだことがある、これはたのしい匂いのはずだ。角をまがると、一面の黄色、菜の花だった。そうだ、こんな匂いをはなつものだった。花の畑をぐるりとまわり、桜へまたもどる。小学校の校舎の窓に桜が映っている。水だけではないのだ。桜は日々、なにかをくれる。


(四月七日〜)
 だが、満開になると散るのも早い。火曜、水曜、今日もまだ咲いているだろうかと、少しの不安が混じるようになる。花がだいぶ散っている。昨日校舎で見た桜などは木曜日、葉桜になっている。花びらが舞っている。風があたたかい。しかたないのだ。花びらがあたたかな雪のように舞っている。散っている、花のこわいくらいの満開がかけてゆく。だが、散っているすがたも現実なのだ。
 仙川の桜も金曜日、十日には、かなり葉桜になっていた。川面に桜の花びらが流れている。花の輪の上の部分が、砂時計のように下におりていく。おりきったときに桜はおわるだろう。現実なのだ。
 散ることが現実なのだ。そしてまた咲くだろうことが。それでもすこしの寂しさ。まだ遠回りは続くだろう。道路脇に固まった花びらたちが茶褐色に変化している。また花びらが舞っている。


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2009-04-05

クレー、かたちの奏でる音。子どものわきをすりぬけ、線がそれる

 もう終わってしまった展覧会だが、「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代─ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館所蔵」展に行っていた(Bunkamuraザ・ミュージアム、一月二日〜三月二十二日)。こちらはドイツ・デュッセルドルフのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館が改修工事のため休館するので、コレクションを日本で紹介する機会が得たものだそうだ。ピカソ、クレーを中心に、マティス、シャガール、マグリット、エルンスト、ミロ、マックス・ベックマン、フランツ・マルク、オスカー・シュレンマーなど二十三作家、五十七点からなる展覧会。
 ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館の説明を。元々は一九六〇年代にノルトライン=ヴェストファーレン州知事が、クレー作品八十八点を購入した(州議会の反対を押し切ったらしい)ことから、美術館を建設し(当初は、イエガーホーフ城、一九八六年から現在の場所)、初代館長に任命されたヴェルナー・シュマーレンバッハが三〇年近くに渡ってコレクションを発展させ、現在は本館にK20として二十世紀の美術を、分館にK21として二十一世紀の美術を展示しているという。
 “ピカソとクレー”。わたしはどちらもあまり好きではなかったので(特にピカソはどうしてもだめだ)、当初は行かないつもりだった。だが前にここでやっていた「青春のロシア・アヴァンギャルド展」のピロスマニの《小熊を連れた母白熊》のように街のどこかで、クレーの 《リズミカルな森のラクダ》を見て、それがサブリミナル効果のように、だんだん気になってきていたのだった。とがった赤いラクダ…。これもピロスマニの動物効果(彼を知ってから、動物を描いた絵につい目がむいてしまうようになった)だろうか、とサブリミナル効果にことば(赤いラクダ、つぶらな瞳、とがった…)をすべりこませているうち、この展覧会が心にすこしだけ場所をつくるようになっていった。そうこうしているうち、ついにネットで情報を検索してみようという気持ちにまでなっていった。あるいはひとつの美術館の作品だけでピカソとクレーだけの展覧会というのは難しいのでは、だからほかの作家のものもきっと来るはずだという妙な期待もあった。検索すると、案の定マグリットやエルンストが来る。そして赤いとがったラクダ…。想像は現実とちがうのだ。きっと何かしらの出会いがある。こうして会期終了間近に、駆け込んでみたのだった。
 最初は「第1章 表現主義的傾向の展開」として、マティス、ブラック、スーチン、シャガール、マルクなど。
 アンリ・マティスの《午後の休息(サン=トロペ湾)》(一九〇四年)は、夕景の湾だろう。空が赤、黄色、浜が赤、水すら黄色をうかべている。青い木が一本(これは緑ではない、文字どおり青いのだ)。フォーヴと称された頃のものだが、とても静かだ。そして色がとても鮮やかで、鮮明すぎて、悲しくなってくる。夕景の光が休息をとおして目のなかにとびこんでくるのだ。やさしく、たとえようもなく悲しく。
 そして、フランツ・マルク《三匹の猫》(一九一三年)。略歴は、一八八〇年ミュンヘンに生まれ、一九一一年に青騎士をカンディンスキーとともに設立、一九一六年、フランスのヴェルダンで戦死、となる。左に黒白の体操でもするように足を極度に伸ばした猫、右に背中越しに顔をこちらに向ける(だが目線は下方をむいている)虎縞の猫、そして真ん中にこれら二匹よりも大きい赤い横向きの猫。猫以外の背景、草などは紫、緑、黄色、赤で、面構成され、キュビスムの様相を呈している。カタログなどの説明とはちがうが、赤い猫は、見守るもののように思った(カタログでは「赤は物質、凶暴で重苦しく」とある)。赤く、生として、母に近しいものとして、見守るもの。黒白は躍動感があり、無垢さをうちに秘めている、と。黄色い虎猫(カタログは「黄色は女性的原理、優しく朗らかで官能的」とある)は、日々にありうる猫にいちばん近い。こんな風に後ろを向かなかったか。そしてそれぞれは、猫という動物の一面ずつをあらわし、すべてで猫という動物をあらわしているのだと思った。そして三匹と背景が輪郭を保ちずつ、溶け合わんばかりなのに心が動いた。彼らはこんな風に世界と接しているのだ。関係しながら、自己を保つこと。解説によると、「マルクは、動物が世俗にまみれた不純な人間とは違う無垢な存在であるとして、この世の楽園を自然に見て、動物の魂の輝きを表現しようとした」とある。ピロスマニの動物観とある程度共通しているだろう。だが、マルクのほうがもっと意識的に、画面を構築している。それがいいとか悪いとかではない。マルクの絵は、彼らを理想として、動物と距離を置いているが、ピロスマニのそれはもっと未分化だ。

フランツ・マルク 《3匹の猫》
 マルク・シャガール《バイオリン弾き》(一九一一年)。わたしは後期のシャガールはあまり好きではない。明るい色彩に、なにか嘘くさい、胡散臭いものを感じてしまう。だが、初期の暗い色彩のものは、どこか惹かれる。赤い家と黒い土、黒い山。赤い服の流しのバイオリン弾き、傍らの黄土色の服、皮膚の少年が帽子を右手にもっている(おそらくお金を受け取るためだろう)。彼らは笑みを浮かべているのだが、くすんだ皮膚のせいか、どこか暗い。笑いと暗さのなかで、凝縮した時間が流れているようだ。絵は故郷の思い出だという。画面から音楽がきこえてくるようだ。「ユダヤ文化のなかで、とりわけバイオリンはまさに誕生から死までの人生の折々での儀式と深く結びついた、人々の喜びや悲しみを分かち合うのに欠かせない楽器であった」(カタログより)。

マルク・シャガール《バイオリン弾き》

 次は「第2章 キュビスム的傾向の展開」で、おもにピカソ。彼はやはりあまり好きになれないので、省略。だが、ここで買った大岡信『抽象絵画への招待』(岩波新書)からピカソの言葉を。「美の規範をあてはめたからといって芸術ができあがるものではない。芸術は、本能や知性が、規範とは関係なしに感知することのできるものだ。(中略)大切なのは、芸術家のつくったものではなく、芸術家の人間なのだ。セザンヌがジャック・エミール・ブランシュのように生き、考える人だったら、たとえ彼の描いたリンゴが十倍も美しくとも、彼はけっして私の関心をよび起さなかっただろう。われわれの心をひくのは、セザンヌの不安である。セザンヌのほんとうの教え、ゴッホの苦悩、それはまさしく人間のドラマだ。それ以外はうそっぱちさ」。
 このことばもそうだが、本自体も、詩人が書いたものだから、というばかりではないだろう、詩と密接に往還していることがちりばめられて、興味深い内容になっている。たとえばこんなジャン・フォートリエの、描くときを述べた言葉。「自分の中に非常に強い、深い内容をもちつづけている、そういう自覚をもっている場合に、それがアッという瞬間に出てくる。それは自分を放棄したオートマティスムでは決してない。まったく反対のものだ。自分の中の完全にめざめた鋭い緊張状態が非常な力となって集積され、それが瞬間的に発現する。自分の絵がただ存在するという以上に、非常に力強いものが噴出してくる」。これは否定もあるかもしれないが、書く行為と触れ合うものではないだろうか。
 展覧会にもどろう。「第3章 シュールレアリスム的傾向の展開」、ルネ・マグリット。《庶民的なパノラマ》(一九二六年)は、以前似たものをここで紹介したような気もするが、挙げておく。縦に三等分されたわずかの厚みをもった“地面”。上には砂浜、中央に森、下に街。どれも暗い。カタログによると、同じ年に彼はこう書いているという。「画家は、その元になっているあなたがたが賞賛しない類のものに似せたものによって、あなたがたの賞賛を獲得する」。この絵のことではないかもしれないし、いささか傲慢な言い方だが、一理あるのだ。密集した建物、森(今のわたしに即すると、街路樹とかかもしれない)、これらは日々のなかでほとんどわたしたちの気をひくものではないだろう。わたしは海がすきだから気にするが、海辺に暮らしていたとしたら、やはりそれは生活の一部になるだろう。これらを美の領域にささげること。それは画家の意思だ。ここにも画家という人間が関わっている。そして、描かれたそれは、日々を見過ごしていたわたしたちの眼を非難するかのごとく、生き生きと違和をさしはさんでくるのだった。砂浜の下に森がある。森の底に街がある。しかもこの縦におかれた別々の場面が、パノラマだというのだから。
 《とてつもない日々》(一九二八年)は、全裸の女性が、スーツ姿の男に襲われている。女性は口をあけてさけび、抗っているが、男は女の左半分の輪郭線のなかにのみ影のごとく存在しているにすぎない。だがその影にみえる男の肩に、紛れもなく女の右手が置かれ、押しとどめようとしているので、それが実体をもっていることがわかる。輪郭線のなかに実体、輪郭線のなかにしか存在しない、背景に右半身がみえない男、さらに女性はよくみると、ほとんど地面から浮いて見える…。なにが現実でなにが現実でないのか。この境界がねじれにねじれ、そしてそれこそがじつは現実なのだとつげている。わたしたちが見ているものは、一部分にすぎないのだ。あるいは嘘は嘘のまま現実にありつづける、ということ。架空が架空のままの姿で、そこにあるとき、それはもはやどうしたって現実とかかわっているのだ。

ルネ・マグリット 《とてつもない日々》

 最後の部屋は「第4章 カンディンスキーとクレーの展開」。話はそれるが、なぜ展覧会は「第○章」というふうに区分けされているのだろうか。第○室とかではなく? 章だと書物に使われることばのイメージがある。もしかするとカタログにする際のことを考えて統一、といったことかもしれないが、なにか現実と書物、立体と平面、美術と日々が「第○章」ということばにより橋渡しされているような感じもする。
 さてパウル・クレー(Paul Klee、一八七九年十二月十八日─一九四〇年六月二十九日)。ほぼ略歴と重なるので、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館がクレーコレクションを購入した経緯を、BunkmauraのHPから抜粋しておく。「スイスのベルンに生まれたパウル・クレーは、幼少の頃より音楽と絵画の才能を発揮し、芸術家としての道を歩み始めます。しかし、一九三三年アドルフ・ヒトラー率いるナチスは前衛芸術を徹底的に弾圧し、クレーを含め、芸術家たちは「退廃芸術家」という烙印を押され作品は国外に流出してしまったのです。
 戦後のドイツにおいて、クレー作品を高額の出費をしてまで取り戻すことはドイツ人が自らの負の歴史に立ち向かい、ナチス政権中に失われてしまった文化を取り戻すという政治的決断でもありました。
 作品を購入した後、ドイツ外務省とノルトライン=ヴェストファーレン州はコレクションによるクレー展を東ヨーロッパの国々に巡回させ、戦後ドイツの外交的使者の役割も担ったのです」。
 他の略歴を見ると、カンディンスキーたちと一九一〇年頃、青騎士を結成。そして一九一四年のチュニジア(北アフリカ)旅行で、色彩について感銘を受けたとある。
 丁度その頃のがここには二点飾られている。まず《赤と白の丸屋根》(一九一四年)。ややいびつだが、碁盤の目にくぎられたマス目にほどこされた黄、赤、オレンジ、青などが微妙な諧調を生んでいる。そしてマス目のなかには、さらに回教寺院の天蓋のような、簡素化された半円の丸屋根が描かれている。ほとんど抽象だが、具象をももっている。窓がちいさく見える。その具象と抽象のはざまで、色彩がほとんどやさしいまでにまぶしい。
 この旅行の四月十六日の日記で、「色彩が私をとらえる。それを追いかける必要がないのだ。それが私を永久にとらえたことを私は知っている。それがこの祝福された瞬間の意義なのだ。色彩と私はひとつである。私は画家である…」(瀧口修造訳)と書いているという。「それまで線描を得意としていたクレーが秘めていた並外れた色彩感覚を一気に開花させたのである」(カタログより)。以後、その色彩は彼に文字通りついてやまないらしい。もうひとつの特徴は、具象とも抽象のどちらともいえない、そしてどちらでもある作品を描きつづけたことだろう。
 もう一点、チェニジア旅行の時期に近い作品、《直角になろうとする、茶色の△》(一九一五年)。たくさん並んだ長方形。こちらもそれぞれ緑、青、紫、赤、ピンク、さまざまな色彩を持っている。この鮮やかさがなんとなくいい。そして中央、やや左上に題名のとおりに茶色の三角が、直角に、長方形になろうとしている(と、題名につられてみてしまう)。三角に気づいてしまうと、長方形だとおもっていたものが、じつはほそながい台形であったり、ねぎのように長方形から二股にはえてみえるものだったり、いくつかをあわせると、なんとなくつぎはぎのきいた三角形にみえてきたりする。茶色の三角形は、その三角のつぎの一片をになってみえるようだし、ほかの茶色の長方形たちは、三角のつぎの事後の姿、三角がみごと直角を獲得したあとの慈しみにもみえてくる。たとえば茶色の兄たちが、三角の弟を応援しているような。そう、全体的になんだかほのぼのとして見えてしまうのだ。やはりやさしい色彩のせいかもしれない。そのあざやかさは、かたちを覆い、みるものを手招きしてくれる。色彩とかたちのはなつ迷路にようこそ、といった風なのだ。かたちたちが生きていると、画面から語りかけてくるのだった。
 こう書いてくると、彼の絵はタッチは全く違うが、マグリットのように考えさせられる絵という面ももっているのがわかる。観るわたしたちが感じたことを考えることで、彼の絵と無言の対話をするのだ。
 そして、とうとう《リズミカルな森のラクダ》(一九二〇年)。茶褐色の三角のコブ、赤い三角の耳、赤い丸い鼻、目のラクダが、緑、赤、紫、黄色の様々な色の丸と縦線で作られた木々のなかを歩いている。そして背景のレンガのような、あるいは五線譜のような横線たち。ラクダの足は、アニメーションのように、胴体と微妙にずれている。そして胴体にも、木の丸たちが描かれ、背景に溶け込むようだ。
 丸に縦線は、音符のようであり(と、初代館長シュレーンバッハが言っている)、木であること。たぶんこの二つなのだ、あるいはもっと丸はなにかをふくんでいるだろう。なぜならラクダの眼もまた丸なのだから。これは自分に即して言うと、ひらがなの多様性に似ている。わたしの書く詩作品はこの頃、ひらかなだけで書くものが多い。それは、ちょうど、この絵のようにひとつのことばが、音符であり、木であってほしいからだ。たとえば“すいそう”と書く。“水槽”“吹奏”“水葬”“吸いそう”“水草”“酸いそう”…。前後の流れから、ある程度は制限されてしまうが、たとえば“水葬”を“吹奏”で送る、そこを“水草”がたゆたっている、そんなイメージがかなからひろがるだろう。かなをつかうことにより、ことばがある程度、日常の規範から自由になる。それは詩であることと重なるが、ともかくかなは、そうして多用な現実の一端をあらわすのに、わたしにとってはたいせつなものとして、存在するのだ。また話がそれてしまう。どうもクレーはこんな風にわたしを思案させてしまう、妙な画家らしい。

パウル・クレー 《リズミカルな森のラクダ》

 ラクダにもどろう。この絵から、たしかに何か音がきこえてくるようなのだ。リズムに乗ってラクダがあるいている。木々が音をはなっている。そしてラクダの眼もまた音符とひとしく丸いので、ラクダ自体が、音を放っている。音符と森と目が丸であることによって、また五線譜のような背景にずれた足によって、絵は、流れる音の時間すら内包してみえるのだった。ラクダの音に興じながら、わたしたちに音楽で誘いかけるようなその姿は、愛らしく、かわいいほどだ。
 カタログによると、クレーは子供の頃からヴァイオリンを習っていて、一時ベルリンの管弦楽団で、非常勤でヴァイオリンを弾いていたこともあるという。「クレーの音楽に対する深い愛情は、絵画作品の中に垣間見え、また、その造形と音楽との関わりもしばしば論じられてきた。(略)「音楽は、ぼくにとって、魔法をかけられた恋人のようなものだ」」。また、ウィキペディアによると、クレーは、「芸術は見えないものを見えるようにする」と主張していたという。これは一時期、アトリエをともにしていたカンディンスキーの「必ずしも具象的である必要のない音楽や建築のような「抽象」芸術と、詩、絵画、彫刻のような「再現」芸術とのあいだの境界をとりはずそうとして、絵画と音楽とを同一次元のものとしてとらえ、理論的に一体化しようとした」態度と重なるだろう。
 また、この絵を見ているときに、先日の詩脳ライブ(三月五日、シアター代官山で行われた朗読と座談会など詩のイベント。岩切正一郎、川口晴美、城戸朱理、藤井貞和、野村喜和夫、ヤン・ローレンス、田中庸介ほか。三月九日の欄を参照ください)での、ヤン・ローレンス氏(ベルギーの詩人、神経科学者)の言葉を思い出した。英語の学術論文を前に、「わけがわからないけれど、ことばがかたちをもっているようにみえる」、あるいは英語で詩を朗読する際に、「ことば、わからなくても、音からかたちがみえてくるでしょ」といっていたことを思い出した。またそれてしまうが、この言葉は、言葉を覚えたての頃の、幼児の感覚をわたしに思い出させてくれたものだった。その頃は、ことばとものがまだ未分化な状態であった。ことばとかたちとものの混沌から抜け出したばかりの頃。幼児の頃、言葉を覚えることは、ひとつまたひとつと混沌から抜け出したかたちを感じることだった。それはとても新鮮だった。だが、それは懐古ではない。そして、それは今もそうなのだ。それは言葉を発する前のわたしたちの思考の奥底にも通じるだろう。だが、このことばとかたちというのは、シニフィアンとシニフィエというよりも、ことばと、ことばの音がそれと関係なくもつかたちということに近い。たとえば悲しげなメロディーということがある。それはメロディーがかなしいかたちとして感じられるのだ。そう、かなしいメロディーが存在するように、わたしたちをとりまく言葉も、たしかにかたちをもって、音からかたちをつぎつぎと放ってくれているのだ。今も。言葉はかたちをもっている。効用性のなかで、それが見えにくくなっているだけなのだ。だが、それはわたしたちのどこか、意識の領域で、分化すれすれの付近までもぐって、しずかによこたわってしまったのだ。わたしがそれを思い出す、感じ取れるのは、詩を書いているときだけ…。
 クレーにもどろう。絵の前で、どうも彼はわたしに思索(詩作)させてしまう。こうしてクレーと共有できているということなのか…。
 つまり「音からかたちが見えてくる」のではなく、クレーの場合、「かたちから音が見えてくる」のだった。かたちと音、音とかたち、それらは相互に行き来しあい、かたちと音、音とかたちが、密接な関係にあることを、画面から、語りかけてくれるのだった。あるいは音にのせて、聴覚に、そしてかたちをとおして視覚に。これらの感覚に身をゆだねるのが、心地よいとともに、感覚たちが開きあい、すこしだけ研ぎ澄まされてゆくようでもあった。
 《ムッシュー・ペルレンシュヴァイン》(一九二五年)は、水彩と部分的に絵の具を吹き付けたもので、タイトルは直訳すると“真珠豚氏”だそうだが、人物像で、ひし形と正方形の目、一本線の鼻、葉っぱのような髪、そして葉っぱのような口で、全体の薄桃色の色調だけが豚をイメージさせるが、なんとなくクラウンのようにみえる。そして、やはりどこか愛らしい。《再構成》(一九二六年)は、一見すると風景画らしいのだが、右上に長方形と、小さな四角で窓を描いたビル、そのすぐ下にギリシア的な柱、画面下に階段、上部には、丸い円で、おそらく太陽、そしてそのすぐしたに一本横に線がひかれている。地平線か水平線か。子供が描いたようなビルだが、ここには時間の流れが凝縮されてあるのがわかる。ギリシアと現代。そして場所も不自然にちりばめられてあることで、凝縮してあることがわかる。あるいは、夢と現実をつないでいるようでもある。そして“再構成”ということば。それはあたりまえだが現実をもういちど自分のなかで組み立てなおすことだ。組み立てなおすことで、現実と近しくなり、かつ時間と接することではなかったか。組み立てなおすといえば、ここには《頭と手と足と心がある》(一九三〇年)という絵がある。中央に小さな赤いハート、つまり心臓。このハートを囲むように、二本線の帽子をかぶった、黒い丸の眼、縦の線の鼻、イコールのかたちをした口をもつ顔、二本線の先についた手と足、が並べられている。ばらばらになった体たちだが、なにか優しい。そして機械的にみえるのだが(組み立てられるおもちゃのようでもあるのだ)、赤いハートのせいか、全体のピンクの色調のせいか、なにか福笑いをやりかけたようだとも思ってしまう。再構築するにあたって、ばらばらにされた体。けれども心は生きている、つまり体をばらばらにしたのは、彼をもっと観察するためなのだ。福笑いが、感覚を集中させ、顔をつくりあげる遊びであるように。
 彼の絵にこんな風になんとなく感じてしまう、子供っぽさというのは、もちろん言い意味でつかっているのだが、思考の果てのあかしであるだろう。潜りに潜る努力のはてにあるもの。かたちと音がたゆたっている領域の物語。そしてここでもやはり音だ。たとえば“真珠豚氏”は正面像(といってしまうのもはばかられるのだが、正面をむいているのだろうか?)からは、彼からにじみでる、なにか、内面からのかたちが音となってこぼれてくるようだったし、《再構成》からは、街のにぎわいがふっとこぼれてくるようだった。ばらばらの体からは、ガチャガチャとした、あるいは骨がすれあう音が、ふっと耳をなでている。つまり、画面のそこかしこから音がみえかくれするのだった。
 時代はずっとくだってしまうが、《宝物》(一九三七年)。晩年であり、クレーを苦しめはじめた皮膚硬化症の最中の作品だという。だが、それはもしかすると茶褐色のくらい画面ににじんでいるのかもしれないが、あまりわからない。コの字や、クの字、Tの字の太い黒い線(この太さは晩年の特徴であるという)でくくられた、ピンクや赤、紫の枠のなかに、白いハート、月や星、ひし形、はっぱのかたちなどの模様がちりばめられるように描かれている。ここからも音が感じられるハート、月、星、はっぱ、これらは宝物として、しまわれたものたちなのだ、それをそっとあけてみる、カタカタと音がはじけるようだ、茶褐色のトーンは、時代かもしれないし、彼自身の生のつぶやきなのかもしれない。

パウル・クレー《宝物》

 また晩年だが、《赤いチョッキ》(一九三八年)。薄い茶色の地に、やはり太い線。だがこの線が区切りであることをやめ、区切りであり、かつ輪郭となり、さまざまなかたちをそこに見だせるようになっている。小さな鳥、馬(線の途中、上ではそれは赤いチョッキを着ている人物となる)、人の顔(こちらもすぐ上にキリンのような線があるので、顔はキリンの腹であるとも解釈できる)、碇、鎌…。これらがちりばめられているのが、なにか暗い色調なのに、楽しいようなのだ。暗さのなかに明るさがある。そうではないだろう。ことばに課していた効用を幾分か忘れ、ことばがもっと可能性をふくんだものであると、ことばがわたしに囁いてくれていたように、ここでは線が線であることから幾分逃れたことで、それはものたちの輪郭でもあったのだと、宣言しているようにみえたのだった。さらにものたちが、線によって、互いに接しあっているのだと低音で響かせあい(これはやはり茶色の色調のせいかもしれない、色もまた音をもつのだ。だから、クレーは色彩に魅せられたのだろうか、音と色彩の親密さによって?)、かたちからなる交響曲をつくりあげているようでもあったのだ。静かな会場で。幼児たちが、音階にならない、そしてまだ言葉ともとれない、鼻歌のようなものを口からつむぐ。そのわきで鳴るオルゴール。

パウル・クレー《赤いチョッキ》

 ウィキペディアによると、クレーは一九三四年頃、ナチス・ドイツの台頭、前衛芸術への迫害により職を終われ、生まれ故郷のスイス、ベルンに亡命している。三五年頃から皮膚病が悪化、三五年から三七年頃まで、制作点数は激減したのだが、その後、死の前年の三九年まで増加したとある。太い線は、腕があまり動かなくなったことにもよるらしい。そしてこの時期の特徴として、やはり腕のせいだろう、彼は「白い紙に黒い線を引くことにより天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返していた」。天使はここにはなかったが、白地に水彩の黒い線の《踊りの場面》(一九三八年)が一点、白地に鉛筆作品が《ベルリンのまぬけ》(一九三九年)、《山の精》(一九三九年)、《ヴィーナスは進み、また戻る》(一九三九年)、《鋭い言葉》(一九四〇年)の四点出品されていた。ここから最後にすこしだけ。
 《踊りの場面》では、中央に線で描かれた少女が、左右非対称な線の腕をあげ、踊りを踊っている。手は骸骨のように五本の線。鼻は胴体や片足と一直線になった線で描かれるばかりで、口がない。背景にはバーの横の直線とほとんど一緒になってしまった(ある踊り子はスカートと区別がつかない)ほかの踊り子たちが小さく描きこまれている。中央の少女(ほぼ線で描かれているのに、なぜ少女だとわかるのか、自分でも不思議なのだが)は、ほのぼのとしたところが薄れている。肩の位置が左右で違いすぎるその腕のアンバランスさのせいか、上げた手のかたちからは、悲鳴のようなものがきこえてきてしまう。そしてこの絵を最初にみたわたしの第一印象は、〈死の舞踏のようだ〉だった。楽しさはほとんどかき消されてしまっている。だが、とてつもない生き様がかたちから音をなして、つきたてるようにあふれだしていたのだ。あるいはカタログにあるように「ここで描かれる人物像は、意図的にナチスが推奨している芸術の人物像(古典芸術に見られるような彫塑性を備えた人物像)とは全く対象的に表現されている。ナチス体制に対する批判を含めクレーが皮肉を込めて描いた表現」なのだろうか。いや、それはおそらくクレーは線からなるかたち、音を、貫きたいだけだったのではないか。それが結果として批判になったとしても。ほかの三点は最晩年の作品でどれも「子どもが描くようなのびのびとした力強い線が特徴」だという。子どもはここにもでてくるのだ。《ベルリンのまぬけ》は、タキシードのような服をきて、かつ胸がふくらんでいる、両性具有のような人物が猫背になっている。頭に髪はなく、眼はもはや黒い丸の愛らしさはない。ただの空洞のように、いびつな楕円が描かれている。こちらもヒトラーだとする説や、「死を擬人化した表現ではないかという指摘もある」そうだ。わからない。その両方かもしれないし、それ以外のものもきっと混じっている。丸い円が、木の茂みや、音符を込めていたように。そう、そこにはクレーにさきほどから感じている、ほほえましいようなかわいらしさもまた風をきるような音とともに、まざり、もっとなにかをたたえて、ひびいてくるのだから。
 《鋭い言葉》は、「子どもが描いたようにも見える」単純な線で描かれた横顔。眼や口、首は二辺のかなり長い線で、刃物のようですらある。眼はもはや丸ではなくなったのだ。鋭利な線たち。どこかが重い。かたちのどこかがきしむような音をたてている。それは悲しみですらある。そして子どもがまた出てきたが、こうした線は、突き詰めたうえでの、研ぎ澄まされた線なのだ。そんな風にして、音とかたちの蜜月にもぐることが、どうしたって子どもに近しくなってくるのだ。多分。
 クレーは「私はある文章に沿った説明のような絵は描きません。そのために、私が絵の中に見ていないものを、いろいろな人が様々に私の絵のなかに見ることもあるでしょう」と言っている。こうした眼たちにより、絵の線はひらかれているのだ。わたしたちは、それを様々に感じていいのだ。様々な音色を聞いていいのだ。そこから音がこぼれだす、ということ。
 そしてこれはほとんど詩にも言えることだ。ここで、最後にまたそれてゆこう。それることで、線が別の線と接するように。「「言語」は眼に見えず、手にとれず、匂いもなく、重さも延長もない。その意味でまったく独特な「道具」であり「材質」なのだが、絵画が精神の流動する姿そのものをとらえようとする野心をもつことは、絵画そのものもまたこのような性質をもつ「言語」に変わろうとすることを意味するといえる」(『抽象絵画への招待』)。言葉と絵画はこんなふうに求め合っているのだ。ここでは単純化についても描かれている。「多様な価値が絵画の中に包摂されてくるにつれ、画面は逆にしばしば単純化してゆく傾向を示す(略)。この単純さは、複雑な内部構造を含む単純さなのであり、それが排除した造形的な細部は、かえって見えない圧力となって画面を緊迫させるはずである」。
 単純な線が、音を奏でながら、様々な線として姿をかえ、あるいは接して、もぐること、あるいはのぼること。
 そして? つまりクレーはわたしにとって、不思議な人となった(最初にわたしは、あまり好きではなかったと書いていなかったか)。絵を見ているときは、実はここに書いているほどは、惹かれなかったのだ。だがなにかがかたちが塊として残った。それを文章にしなければいけない、塊はわたしに告げていた。わたしが自分と向き合うようにして、あるいはクレーをことばにしようとして、そうすることで、はじめて大事な絵たちとなったのだ(それまでのわたしは、彼の絵を一瞥しただけで、真剣に見たことがなかったのだ。彼の絵は思索しながら、自分のなかで咀嚼しなければ、音を立てないのだ)。塊は塊のまま、そこにまだある。共通の球のようでもある。自分に即して、それることで、自分なりの理解を絵に投げかける、すると絵からまた確かに音が帰ってくる…。こんな画家とのふれあいは初めてだった。
 ウイキペディアによると、「ベルンのショースハルデン墓地にあるクレーの墓石には「この世では、ついに私は理解されない。なぜならいまだ生を享けていないものたちのもとに、死者のもとに、私はいるのだから」というクレーの言葉が刻まれている」のだという。わたしには、この言葉がまだぴんとこない。言葉のまわりでそれること。それながらめぐり、そうしてかたちを聞きとること。

(特に出典のないものは、カタログより引用)
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