Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-06-25

ふわっとつながる、肉のかたまり

 実はこのところ日常が忙しく、今回は日記を休もうと思っていた。そう、この文章は日常ではない。あるいは日常と想像のあいだをつなぐものだ。つなぐのはそれだけではない、日常と幻想かもしれない。フィクションとノンフィクション。つなぐために書かれたそれは、彼らとわたしが出会う糸口となるだろう。そしてつなぐのは、さらにわたしと詩(これはわたしが創作するものとしての詩、という意味だ)をむすぶためのものとなる。
 机に向かう(この意味は、詩を書こうとする、ということだ)。日常の渦のなかから、突如、机にむかって、詩を書こうとしてもだめだ。何か距離感がある。そこに行くためには、何かしら迂回しないといけない。それが日常で体験した、何かであるとしたら、それはおおむね、わたしがどこかしらふわっとそこからはなれたと感じたときのことだ。そこからはなれ、だれかと(それは人間でなくてもいい、川や花であることが多々ある)であうこと。そのあとでないとだめだ。机に向かう。詩のことばが、すこしみつかる。
 ふわっとすることは、だから絵をみると、かならずといっていいほど起こる現象だ。わたしはふわっと、何かと出会うために絵をみにいっているのだ。たましいがこがれるのだ、でかけてしまうのだ。
 あるいは以前は、具体的に言うと会社から帰ってくると、かならずしばらく読書をした。その後で机に向かった。読書は小説が多かった。詩集を読むのなら、小説の前だった。詩集は、影響力が強すぎるから。その詩のことばに引きずられてしまうのだ。だからかならず小説を読んでから机に向かう。会社は日常だった。小説はつなぐものだった。そこでふわっとする。今は、日記を書き、そのあとで机に向かうのかもしれない。読むことから書くことに移行しただけだ。読むこともするが、それは机に向かう直前でなくなった。
 その日記も、今回はほとんど書く暇がなかった。いいわけをすると、日常の忙しさのほかに、散文の仕事の締め切りがはいっていた。今日もまだ近日締め切りの散文原稿はある。だから、無理だと思った。
 だがそれをしたら、いけないとどこかで思った。何がいけないのかわからない。ただ、わたしは自分を責めるだろうと思った。責めておちこむだろうと。わたしは何のために生きているのか。ほぼ詩を書くためだ。ならば日記はいいではないか。だが、その日記は、つなぐために、ふわっとしたことを書きとめるためのものだ。詩のために生きているといった。日記は、日常と接しながら、詩と近接した領域で書かれるものだ。それは媒介者だ。わたしは詩をあがめている。詩のまわりのすべてのものは、大切に、丁寧に扱いたい。それは儀式だ。媒介者が執り行う儀式。日記を休むことは、わたしのなかで、儀式をおこたることだ。それは詩をおこたることでもある…。だろうか。そこまで考えているのか。だが、何かしら罪悪感があった。
 だから、結局こうして、堂々巡りのようなものを書いているのだが。そう、日常があれこれと、用をいいつけ、のしかかり(本当はここから何かを探さなければいけないのだろうが、いまだにわたしはこれらとうまくつきあえないのだ)、では、ここに何を書いたらいいのかといわれても、よくわからない。けれども先日、とある座談会に出席した。そのときにレジュメとして書いたものがある。座談会の模様は、後日雑誌に掲載されるだろうから、座談会の内容とあまり重ならない、わたし個人に限ったことに関してのみ、そのなかからここに乗せることにする。わたし個人に限れば、それはほとんど、ここで書いている日記と近しいものとなるだろう、それもまたつながることだろうから。ふわっとすることになるかもしれない。詩のまわりで祭壇ができるかもしれない。媒介者がわらっている。

 古い話になるが、サントリーのワイン、レゼルブのCMで、ナスターシャ・キンスキーが葡萄の房を持って、道の真ん中に立っているというものがあった。ネットなどで調べても、あまり詳しいことはわからない。彼女の主演映画『テス』が一九七九年公開(日本は翌年?)で、その宣伝で来日した頃のもののようだ。かざりっけのないワンピース、短髪。何も喋らず、片手に持った葡萄の房を頬に当てたり、見つめたりする。無言であることで、色気だけが、ぞくぞくするほど画面からあふれだす。そのバックに、与謝野晶子の「やわ肌の熱き血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」が歌となって流れている(作曲・五輪真弓、歌・中本マリ)。わたしはようやく思春期、様々な目覚めがあった頃だった。映画や書物、性という概念に丁度目覚めた頃だった。ナスターシャ・キンスキー、『今のままでいて』『テス』、映画はまだ観てなかったが、買い始めた『スクリーン』『ロードショー』という映画雑誌に、彼女の写真が載っていた。長い髪。バーグマンの再来といわれていた。きれいだと思った。顔立ちが、ではなく個性がにじんでいた。CMは、それもあって、強烈だったのかもしれない。そして長い髪で知っていたキンスキーが、CMでは髪をばっさり切ってあることも衝撃だった。にも関わらず色っぽい。それまで抱いていた、髪が短いイコールボーイッシュなイメージを、そこで見事に崩壊させてくれた。歌ではなく、はじめにナスターシャ、ありきだったかもしれない。そして、次に与謝野晶子のもつことばのすごさが来たというのかもしれない。そして、わたしはまだ古文とかもよくわからない子供だったかから、多分、意味よりさきに、ことばを歌詞として覚えたままだっただろう。暗記は得意だった。その後で、ある日、ふっと意味がわかった。「やわ肌」と「ふれも見で」。ものすごく生々しい性をひめた誘いだった。白い肌が眼前に、どうよ、どうよとせまってくるような。こうしたものにふれないで、それでいいの? うわっつらじゃない? 今、わたしが翻訳したことばでは、うすっぺらいものになってしまう。それは置いておいて、肉のない言説ということを、肉のある言葉として、たしかに与謝野晶子はそこで教えてくれたのだ。生々しく。そうなるとナスターシャ・キンスキーは衝撃ではなくなる。次であっても、はじめにことば、ありき、なのだ。
 その歌の意味がわかったわたしは、ともかく圧倒された。この衝撃は、ちがうかもしれないが、『みだれ髪』が発表された明治三十五年当時の人々が感じた衝撃に通じるものがあるかもしれない。それはほぼわたしにとって初めての歌との出会いだった。それが肉をもって、わたしに性の世界、大人の世界をさしだしてくる。
 ほぼはじめての短歌との出会いといったが、はじめてなのは、小学生の頃、漫画にでてきたもので、百人一首「明けぬれば暮るるものとはしりながらなほうらめしき朝ぼらけかな(藤原道信朝臣)」だった。それが短歌との出会いだった。こちらは意訳がついていた。朝ふたりでいるということ、そのことの意味がちょうどわかった頃だった。意訳をとおしてだったが、「なほうらめしき朝ぼらけかな」から、別れの朝をつらく思うその姿がほとんど官能的なまでの姿をともなってせまってくる。それはことばのもつリアリティだったかもしれない。こうしたこともまた、特に与謝野晶子の「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす」から思い出した。朝にみだれた髪、朝ぼらけ、そこには男女の生々しい情交がある。ことばから肉が、情景がたちあらわれてくる。「やわ肌の…」と「明けぬれば…」から、こうした体験を洗礼のように受けたのだった。
 新井豊美『女性詩史再考』(詩の森文庫E11、思潮社)に、この「やわ肌の…」が挙げられている。「晶子の詩はその大いなる実感から発しており」とある。肉から発せられたことばが肉としてつたわっているのだ。
 わたしは、この本を読むまで、与謝野晶子の歌はもちろん鮮明に覚えていたけれど、自分の詩作などとはさして関係がないだろうと思っていた。だが、『女性詩史再考』の最後のほうに、こんな記述があった。「人と人との関係を身体の感覚をよりどころに、より精妙に言語化する海埜今日子の女性性を意識した言葉」。わたしの名前が突如そこに出てきたことに驚いたが、この文章から、「やわ肌の…」がフラッシュバックのように、わたしのなかで浮かび上がり、ぐるぐるした。ふわっとしたどころではない。この「身体の感覚」というのは与謝野晶子の実感、あの肉と通じないだろうか。わたしはずっと「やわ肌」を求めていたのではなかったか。人の「やわ肌」とのつながりをもとめていたのではなかったかと。与謝野晶子は知らずとわたしに影響をあたえていたのだ。
 また、『女性詩史再考』には、「『みだれ髪』の美学は混交の美学である」とあり、ミュシャの絵との関係や、「ラファエル前派の絵画を髣髴とさせるイメージの氾濫」などと、その影響、関係について語られているが、わたし自身も、こうした文学と美術の枠をこえた関係に(あるいはつながり)に、関心を寄せているので、こうしたこともしらずと影響をうけていたのかもしれないとおもった。
 つながりもまた連鎖する。ナスターシャ・キンスキーのナスターシャは、ドフトエフスキーの『白痴』の登場人物から名づけられたそうだ。ドフトエフスキーのなかで、何が好きといわれたら、わたしは『白痴』を挙げるだろう。そしてナスターシャ・キンスキーからヴィム・ヴェンダースへ、彼が監督し、彼女の主演(もしくは出演)する『パリ・テキサス』『都会のアリス』。どれもわたしの好きなものばかりだ。ふわっとつながって。
 朝日新聞だったと思うが、『一九三四年冬─乱歩』(久世光彦、新潮文庫)という本が紹介されていたので、少しずつ読んでいる。これは四十歳の乱歩の日々の物語に、彼が描いている途中の『梔子姫』という小説が、作中作(乱歩にはそうした小説は存在しない)として、交互に差し込まれる。読んでいる途中だが、日常と想像、フィクションとノンフィクション、乱歩という人物と、久世光彦という人物、これらのつなぎ目を、つなわたりのようにたゆたって、おもしろい。『梔子姫』自体がフィクションなのだから、これらの話は総じてフィクションとしてしまえばそれまでだが、乱歩のいた時代、時間の描写が克明に組み立てられており、おまけに描かれた乱歩が、多分そういう人だったのだろうと思わせる書き方なので、ノンフィクションだと思ってしまう。あるいは背景がしっかりしている、ということは、それだけでフィクションをノンフィクションに近しいものとしてしまうのだろう。
 そして乱歩がスランプのなかで、沸き立つように書いたという『梔子姫』。これは乱歩っぽいといえばそうだが、匂いがちがうかなといえば、そうだろう。こちらのほうがもうすこし上品なのだ。作者がちがうのだからあたりまえだが。そのことは、あまり問わないとして、このなかで、乱歩に些細な事件が起こる。あるいは乱歩が誰かの話を聞く。それが『梔子姫』のエピソードとして、噛み砕かれ、現れる。たとえば、ホテルのドアから飛び出し、走り抜ける「火炎の珠」のような影を目撃したインド人の話を聞いたそのあとで、『梔子姫』の本文が挿入される。「私」は土蔵を覗く(『人でなしの恋』のように)。すると、やはり火のような「緋色の塊が腰を抜かした私の上にふわりと覆いかぶさってくる」…、そして、乱歩がホテルでポーの詩、「アナベル・リー」を曲として聞いている。乱歩は『梔子姫』にも伴奏のように曲をいれようと思う。実際、次に差し込まれた作中作では、子守唄が重要なアイテムとして披露される…。
 日常と想像のつなぎ目といったらいいか、日常と想像がここでは相互補完しながら、密接に息づいているのがわかる。どちらかだけでも存在しない。日常があるからこそ、想像があるのであり、想像があるからこそ、日常が生き生きとしてくるのだ。創作と日々のあいだの明確な関係を、ほとんどうれしげにさしだしている。
 それは、丁度じぶんにあてて解釈してしまったことによるのだが、そのつなぎ目にまきこまれるような感覚に、好感をもって、ゆだねてしまう。これらがきってもきれない間柄だということが、ひしひしとつたわってくるのだった。
 そういえば乱歩。わたしは彼の影響もうけていないはずだ。だが、小学生の頃だったか、乱歩というか、明智小五郎シリーズをテレビドラマ化したもの、天知茂主演のものを、何作か見た記憶がある。圧巻は『パノラマ島奇譚』。嘘くさいセットで、子供が見てもドラマ自体はいただけないものだったが、話はインパクトがあった。パノラマ島、この世に楽園を作るためだけに生きる主人公(そういうと、ユイスマンスの『さかしま』を思わせるが、上述の『一九三四年冬─乱歩』でも、殆ど崇拝している作品として掲げられていた)。これだけじゃ生きていけないだろう、と思う。楽園だけでは。案の定、この世の楽園、血の上に作られたユートピアに、明智小五郎が現実の使者としてやってくる。現実はついてまわるのだ。だが、子供のわたしは(今だって、幾分かはついそう思ってしまう)、明智小五郎が憎かった。ユートピアはそのままにしておいたらいいじゃないか、と。だが、そういいながら、仕方ないのだろうなと次に思う。いつでも。現実と想像は、密接なつながりをもっているものなのだ。その法則を忘れたら、残念ながら、パノラマ島はほろぶしかないのだ。
 そう、乱歩は、影響を受けていないはずだった。子供の頃、それらをこっそり見て(たしか子供が見るには色っぽすぎたから、親の目を盗んでみたような記憶がある)、そうして忘れていった。だが、後年、テレビの『パノラマ島奇譚』を見たという男と盛り上がって話をした。尊敬できる男だった。それから何年かして、ようやく乱歩全集をよみあさった。その男とも、どこかでつながったのだ・。あるいは、この読むという行為にも、わたしの思い出や、その男との関係が、そそぎこまれることになったのだ。では乱歩もまた、複雑にわたしとからみあった存在だったのか…。
 わたしは、日々のあいだで、こうしてつかのまふわっとする。この頃は、花壇などで、アガパンサスが咲いているのをみかける。この花を教えてくれたのはモネだ。彼の絵のなかで咲いていた。つながること。ふわっと。
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2009-06-15

北斎。通い路をつないだものとかたちが


《冨嶽三十六景 甲州岩渕沢》(天保二年/一八三一年頃)

(たとえばこの絵も、かたちたちが接しあい、たしかな現実をつくっている。足場と海が幻想をまじえて、蜜月をかわしあっていたのだった)

 リレーはまだ続く。前回、「クレー 東洋の祈り」展でみた北斎にどうもひかれるものがあった。千葉市美術館のミュージアムショップでは書籍の販売もしていたが、北斎はなかった。『月刊展覧会ガイド』(生活ガイド社、三百円)という小冊子を買って帰る。これは首都圏の美術館、庭園のスケジュール、場所、いくつかの紹介をしているもので、新聞やネットよりも、情報が詳しいか、わかりやすい。帰りがけに本屋を覗くが、北斎はいい画集がなかった。『週刊アーティストジャパン 葛飾北斎 第1号』(デアゴスティーニ社)と『新潮美術文庫 十七 葛飾北斎』(新潮社)をネットで注文する(あとクレーも)。二冊とも、ネットにしてはめずらしく、十日ほどたったが手許に届かない。多分『週刊…』のほうに手間取っているのだろう。これは二年半前に出た週刊誌で、創刊特別価格二九〇円と、売れ行きもよさそうだし、古いもので、多くの書店でもはや売っていない類のものだったから。
 『月刊展覧会ガイド』は、毎日、息抜きのようにぱらぱらめくっていた。みるでもなく、地図をみたり、記事を斜め読みしたりしていた。買ってから一週間したとき、ふっと目にとまった展覧会があった。〈うらわ美術館「広重と北斎の東海道五十三次と浮世絵名品展」四月二五日〜六月十四日〉。もう展覧会は終わり間近のものだから記事はなかった。会期終了前に気づいたのもなにかの縁だ。ぜひ行かなくてはと土曜日に行くことにする。そしてこれはどうしたことか。縁が続いたように、金曜の夜、つまり展覧会に行くことにしていた前日に、頼んでいた北斎の本が届く。予習ができるのだ。
 写真の数と、年表の詳細さは、新潮社のもののほうがよかったが、『週刊…』のほうが、作風の解説は親切、浮世絵の背景、時代背景などがわかりやすいものとなっていた。
 本やネットから葛飾北斎(宝暦十年九月二三日?〈一七六〇年十月三一日?〉─嘉永二年四月十八日〈一八四九年五月十日〉)の略歴を簡単に。宝暦十年(一七六〇)、江戸本所割下水に生まれる。安永七年(一七七八)、十九歳で役者絵の名人勝川春草に入門。翌年から勝川春朗の号で役者絵を発表。黄表紙、洒落本の挿絵を手がけ、さらに狂歌本、摺物も多く描く。寛政四年(一七九二)に師春草が没すると兄弟子と不仲になり、後に破門される。狩野派、土佐派、琳派、司馬江漢の影響を受け、洋風技法を学ぶなど(だが、中途半端だったようで、それが独自の遠近法となったようだ)、流派を超越して画技の研鑚に励む。享和一年(一八〇一年)、洋風技法により『くだんうしがふち』などの「ひらがながき」(ローマ字にみたてたサインがある)の洋風版画を作る。文化二年(一八〇五)、葛飾北斎の号を用いる。文化十一年(一八一四)『北斎漫画』を出し始める(嘉永二年(一八四九)まで)。天保二年(一八三一)、七二歳のとき代表作「冨嶽三十六景」を出版。天保五年(一八三四)、『冨嶽百景』を描き始める(完結せず)。嘉永二年(一八四九)、浅草聖天遍照院境内の仮宅にて九〇歳で逝去。作品は三万枚を超える。版画のほか肉筆画もよく描いた。
 ウィキペディアなどで調べるとかなり詳細な情報を画付きで得られる(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%97%E6%96%8E)。
 実は十五年ほど前に、人から借りて杉浦日向子『百日紅』を読んだことがある。北斎とその娘のお栄(葛飾応為という画号を持つ浮世絵師でもある)、内弟子の目を通して北斎の人となりや江戸の風物を描いたもの。そこでの知識だっただろうか。画号を何度も変えていたこと(三〇回)、転居を繰り返したこと(九三回)は知っていた。ウィキペディアによると号は、名前をお金で譲っていたとの説もあり、転居のほうは、画業に専念するあまり、散らかったら掃除をせずに出てゆく、を繰り返したからという説もあるそうだ。
 それはともかく、なぜ以前、『百日紅』を見たとき、北斎の絵に興味を持たなかったのだろうか。たしか、結構気に入って読んだ記憶があるというのに。あの頃のわたしは、その人の人生と絵を結びつけることをあまりしなかったからかもしれない。
 これは違う小説で読んだのだが(題名がどうしても思い出せない)、北斎が赤坂に住んでいた、その頃の赤坂は深山渓谷のような場所だったという記述に出会ったことがある。溜池交差点、溜池山王駅などの名前に残る溜池は、本当に水が溜っていて、一種の人造湖で、飲料用でもある、きれいな水だった…。それを読んだとき、丁度わたしはその近辺に住んでいたので、毎日赤坂を自転車で通っていた。溜池交差点の名前を見ると、北斎が住んでいた…というよりも、ここに池があったのだ。この坂はきっと山で、そしてこちらは谷になっていて、木々が色鮮やかだったのだろう、などといつも思っていた。思うことで、溜池交差点という名に、古い意味を重ねていたのだ。水の溜まりを。
 今調べても、小説の題名も、本当に北斎がそこに住んでいたのかもわからなかったが、北斎の絵としては、《「諸国瀧廻り」のうち 東都葵ヶ岡の滝》として、天保三〜四(一八三二〜三年)があったのを発見。この滝は、赤坂と溜池の東端を流れていたものらしい。

《「諸国瀧廻り」のうち 東都葵ヶ岡の滝》(天保三〜四年/一八三二〜三年)

 これは小さな滝であったらしい。だが、描かれたそれは短いが幅が大きい。ほぼ真っ白の糸と珠でできた滝。落ちたところが池になっており、これが海のように藍に白で、波紋とは呼べない、海のような波頭が立っている。滝の隣は縁に木々が植樹のように植わっているが、みょうなねじれ方をしている。下に屋根だけ見えている家と、そのすぐ隣、滝つぼの海の前に立っている人物との関係もおかしい。人物は足まで見えているのに、隣は屋根しかないのだから。滝の上も奇妙に平面すぎる青、つまり一面の池。よく見るとおかしい(よく見なくても、かもしれない)。だが、この滝の点描画のような繊細な白さにひかれてしまう。違う絵についてだが、『週刊…』のほうの解説を引用しておく。「北斎作品の本質的な特色のひとつに、現実にはあり得ない「かたち」を北斎の魔術によって組み合わせることにより、かえって生々しい存在感を表出する手法があり、(…)まさに、あり得ない絵空事であるためにかえって現実味があるという、日本絵画史の底流を流れる伝統的な絵画観の発露である」。ありえなさによって、リアリティを獲得するというのは、すべての芸術につながる話ではないだろうか(といいつつ、つい詩にあてはめてしまうのだが)。

 実は展覧会の北斎の「東海道五十三次」(文化一年/一八〇四年)は、小判シリーズ、絵はがき大の大きさで、わたしとしてはあまり引かれるものがなかった。小さいからというより、やはり相変わらず苦手な人物画(美人図)が多く、景色もあのありえなさが薄らいでいるからだ。薄らいでいるというより、これらは北斎にしてはまだ若書きの類だからだろう(この頃、四十五歳、例えば先の滝や『冨嶽三十六景』は七十三歳頃)。かたちがほぼそのまますぎて、ありえすぎてリアリティがないのだ(これもおかしな話だが)。そして広重の「東海道五拾三次」及び縦版の「五十三次名所図絵」、北斎のものの三図と、明治初期のその場所の写真、計4点ずつ、江戸から大阪まで、順番に同時に展示されているので、せめて広重だけでも、なんとか触れよう、感じようと一生懸命見たのだが、広重、なぜかしっくりこない。わたしには響いてくるものがないのだ。これは困ったことになったと失望の色がたちこめはじめる。これらの東海道たちがほぼメインの展示だというのに、ほとんどひびくものがないのだ。
 これらの展示のあと、役者絵、美人画、風景画、そして「幕末バラエティー(異国趣味、江戸の劇画・妖怪絵、寄せ絵 江戸人のシャレ、横浜絵)」に移った。役者も美人もやはり苦手なので、いよいよ暗澹としたものがたちこめはじめる。北斎に対してせっかく芽生えた親密な新鮮さ、リアリティまでが、うしなわれてしまうのではないかと(勝手な言い分だ。展覧会の役者絵、美人画のなかには、北斎の名前は見当たらないというのに)。
 だが風景画のなかで、《冨嶽三十六景 尾州不二見原》(天保二年/一八三一年頃)に出会った。大きな桶を作る桶職人。その桶の向こうに富士が小さく見える。“冨嶽三十六景”というのに、富士は小さすぎるほどだ。富士は小さくてもなんでもいいのだ。これは既成観念にとらわれないということだろう。そして桶が望遠鏡か窓のようで、こうした遊びにもわくわくする。あるいは桶職人。仕事と日々、日々と芸術(それは桶を作る行為でもあるし、芸術的な形を作る富士でもあるし、無論北斎その人の日々の重なりでもある)が、絵のなかでからみあい、均衡をとっている。これはありえないかたち、というよりかたちそのものがはなつ精密な美だった。

《冨嶽三十六景 尾州不二見原》(天保二年/一八三一年頃)

 そして《冨嶽三十六景 武州玉川》(天保二年/一八三一年頃)。画面は斜めに渡した三層の帯で分けられている。手前に土坡、中央に川の流れ、奥に霞のむこうに青い富士。川面は手前が白(色をのせない空摺というらしい)、奥は藍に波頭が白く、細かな網のように、レースのように施されている。この繊細な波にひかれる。こんなに波がたつわけがない。そして川を渡る舟の角度のおかしさにひきつけられる。ひきつけられるということはもはやわたしにとってまぎれもない現実だということだ。
 玉川とは今の東京、神奈川の境を流れる多摩川のこと。当時橋はほとんどかかっておらず、絵は調布・狛江付近(駅でいうと小田急線「和泉多摩川」)らしい。ちなみに武州玉川は調布玉川とも言われ、歌枕としてよく詠まれる六玉川の一つであるとのこと。
 そしてこれは先の溜池と通じる話だが、わたしが今現在住んでいるところは、多摩堤通り沿い、この道を数キロ行くと調布玉川よりもうすこし下流になるが多摩川に出るということもこの絵にかぶさるのだった。そして桜の時期は、まさに和泉多摩川のあたりで花見をしたこともある。それだから、という親近感に似たものもあるが、それよりも、わたしは昔から多摩川が大好きなのだ。日本で一番好きな川は?と聞かれたら迷わず多摩川と答えるだろう。何故か。日本で一番好きな歴史上の人物が、土方歳三なのだが(残念ながら詳細はここでは省く)、彼を描いた本などを見ていると生まれ育った武州日野の付近の多摩川がよく出てくる。わたしが小学校高学年から中学生になる頃だった。水がそれ以前から好きだったわたしには、以後多摩川は大事な名前となったのだ。今でも、あちこちの多摩川を見かけるたびに、なにか懐かしいようないとしいような複雑な気持ちになる…。
 その多摩川が、ここにある。北斎が多摩川を描いている。わたしは多摩川の流れをみて思ったものだった。土方歳三もこの川を見ていたのだろうか。そして絵を前にして、また思う。北斎も多摩川を見ていたのだろうか。《冨嶽三十六景 武州玉川》が、現実味をおびて、わたしと土方歳三と北斎のあいだにも糸をさしだしてくれたのだ。あの白い波頭の繊細な白い流れの糸で。

《冨嶽三十六景 武州玉川》(天保二年/一八三一年頃)

 展覧会は「江戸のバラエティー」に移る。こちらの妖怪絵のコーナーに北斎があった。これが最後だ。《百物語 笑いはんにゃ》(天保二年/一八三一年頃)。「百物語」(一話ごとに蝋燭を消してゆき、百話の怪談を話し終わったとき、魔物が現れるという例のものだ)とあるが、実際刊行されたのは、五点限り(ほかに「さらやしき」「お岩さん」「こはだ小兵二」「しうねん」(執念の意味、蛇が描かれている)だったそうだ。角と牙を生やした鬼女(笑般若=長崎の妖怪らしい)が右手で子どもの生首をつかんで笑顔を浮かべている。手にした子供の首はザクロの実のようで、つぶつぶと赤い果肉、果実がこぼれそうだ。これは鬼子母神伝説もふまえているのかもしれない。子どもの肉を食べるかわりにザクロを与えられた鬼子母神。だが北斎のそれは子どもであり、同時にザクロであることが何事かであると思う。恐ろしい行為であるはずなのに、その笑みをうかべた表情からは、どこかユーモアがにじみ出ている。それは善と悪の限りなく接近した狭間の絵であるようにも感じられた。

《百物語 笑いはんにゃ》(天保二年/一八三一年頃)

 展覧会は以上だが、『週刊アーティストジャパン葛飾北斎』から数点。百物語が出てきたので、もう一点、《百物語 さらやしき》(天保二年/一八三一年頃)。「「さらやしき」は主人の皿を割ったため惨殺されたお菊が古井戸に捨てられ、夜ごと幽霊になって出てくる話」。井戸から緑色の幾何学模様の皿で出来た首のお菊が横顔を出している。顔は首と同じ色、死相というか緑色。首の皿には髪がからみつき、模様や色から、蛇のように見えてしまう。目は垂れ目でこちらもユーモアがただよう。それと、小さな赤い唇から、霊気を吐き出しているのだが、それが煙管で一服しているようにみえてしまう。霊気のつくりだすかたちが、別のかたちを呼び寄せるということ。そして、特にこの皿の首。惨殺されるきっかけとなった皿が首であるということ、理由と肉が結びついている、この発想の斬新さ。ありえないかたちであるというよりも、ありえないものでできた生々しい首、ありえない結びつきが、別のありえない生き物、つまり蛇をともなって、ぬらぬらとあらたなリアリティを獲得しているのだった。

《百物語 さらやしき》(天保二年/一八三一年頃)

 この本では、先に「あり得ない「かたち」を組み合わせ現実化すること」について触れていたが、「北斎作品のもうひとつの重要な特質として、もの(原文傍点)に対する凝視から生まれるイリュージョンを表現していることを忘れてはならない」とある。「日常の平凡なもの(原文傍点)が北斎の幻想によって生命を与えられ怪奇なものへと変容した」…これは《恋夢●(舟片に孟)》(ゆめのうきはし)という絵で、腰紐が蛇のように(また蛇だ)蠢いている姿などを例にとっているが、先の「さらやしき」の皿の蛇、「笑うはんにゃ」のざくろ(の首)にもいえるだろう。現実のものが幻想をひきこんでいるのだ。それは現実と幻想の通い路でもあるだろう。
 そして、これは新潮社版のほうの絵だが《芥子》(天保二年/一八三一年頃)。風にたわんだ、というよりもほとんど暴力的にまでねじれた芥子の葉と花。わたしはこの荒々しさにまずひかれた。説明には、「およそ日本の花鳥図は、平穏な四季の推移を寿ぎつつ空間を装飾するか、季節感を表出しつつ季節の変化に感じ入り謳い上げるのが常であったが」…とあり、北斎のそうではない非凡さに言及している。つまり、このねじれが「純粋造形」を作り上げていると。芥子というかたち(モノ)が、ほとんど幻想的なまでな空間をかもしている。あるいは風というかたちをそこに眼前させているのだ。

《芥子》(天保二年/一八三一年頃)

 また『週刊…』に戻る。最後に触れておきたい一点《雪中虎図》(嘉永二年/一八四九年)。これは最晩年、死の三ヶ月前の肉筆画だそうだ。まるで幻想そのものであるような静かな派手さ、淡雪が降る中、四肢から伸びた爪がやけにリアルな虎が、駆けるのではなく、翔けている。幻想のなかに虎という現実(わたしは北斎が虎をみたことがあるかどうかしらない。だがその爪がとてつもなく現実なのだ)が入り込んでいる。あるいはふたつが絵のなかで和解しあっている。虎の模様もなにか、かたちが集まって模様をつくっているようで、その奇妙さ、おかしさに、やはりひかれてしまう。模様は甲冑のようでもある。あるいは尾っぽがまたもや蛇のようでもある。まるでスフィンクスのようだ。スフィンクスの体は獅子、尾は蛇なのだから。彼は現実を凝視することで、幻想を凝視していたのかもしれない。幻想を凝視することで、現実感がにじみ出ていたのかもしれない。そして上をむいた、どこかユーモラスな虎の眼。わらいと夢幻が共存している。それは北斎の辞世の句ともつながるだろう。「人魂で 行く気散じや 夏野原」。ひとだまのような虎が行く。

《雪中虎図》(嘉永二年/一八四九年)

 そして多摩川のように、こんどはこの絵に、わたしのすきな詩を思い浮かべたのだった。そうすることで、さらなる幻想をたたえた現実がわたしにやってきてくれるだろうと。わたしの現実が、北斎の虎と対話しあい、そうすることで、いつか夢幻を共有することができるかもしれない。夢幻から現実にむかってひらかれた扉に、現実が積み重ねられてゆく。土方歳三、赤坂、多摩川、さらなる夢幻をあたためること。リレーは続く。


  結びめというむすびめに
  虎のおもいでがまぶしい。
  虎の時間は虎に食われて
  まだゆれている和毛(にこげ)を
  虎のひとみの底に沈める。
  この熱い塩にしずんで
  それでも泳ぎつづけたい
  虎がわらえば浮かぶだろう
  対岸のながめは
  笑うおとこの口のなかだ。
  ことばと木の葉がもつれて
  言葉でその色どりを言いつくせない
  あたらしい旋回のゆくえだ。
  虎といっしょにまわるだろう
  振りかえりたくても
  とおい水仙畑は焦げている。

(支倉隆子『詩集 音楽』(一九七五年、黄土社)より「夢の虎」部分)
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2009-06-05

パウル・クレー 東洋の夢、題名が名前として、わたしたちに作用をおよぼす。


 「パウル・クレー 東洋の夢展」(二〇〇九年五月十六日〜六月二十一日、千葉市美術館、http://www.ccma-net.jp/exhibition_01.html)に行ってきた。ここは最近出かけた「ルオーの祈り展」で、チラシを見かけて、はじめて気づいたのだった。そして、クレーは「20世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代展」(Bunkamura)で見て、かなり気になる画家になっていた…。こんなふうに絵をとおして、わたしにとっての輪が広がる。絵たちがバトンタッチをしてくれるのだ。
 たしかこの美術館は海が近くにあると思った。それもひそかな楽しみだった。千葉駅着。ずいぶん前だが、駅近くの千葉そごうでやっていた展覧会にも来た事がある。ひさしぶりだ。駅構内で千葉の特産品などを売っている。ワカメ、海苔、アサリを煮た物。海が近いのだ。そして八街産の落花生。香りもよく、実が凝縮されているかんじで、とてもおいしいのだが、隣だというのに東京ではあまり買えない。帰りはもしかするとこの駅を利用しないかもしれないので、一袋買っておく。
 駅を出ると、千葉市美術館を案内する標識があちこちで出ているので、道に迷わないですむ。だが、国道を曲がったとき、ふと振り向いたら、いま来た駅の方角、つまりまるきり反対側が海だと標識がある。ポートタワー、千葉港まであと三・五キロ。引っ越したのだろうかと、そのことが残念だった。海はいないのだ(後で知ったが、わたしが行ったことがあるのは「千葉県立美術館」で、千葉市美術館とは違うものだった。千葉県立美術館は、今も海の近く、千葉みなとにある)。
 少しの残念さを感じつつ、美術館へ。ここは区役所との複合施設で、講堂や図書館も併設されている。一階が、元川崎銀行千葉支店の建物とのことで、それをさやのように覆う形で建てられている。つまり入れ子細工に。入口を入ると、突然古い建物がそこから現れたので驚く。昭和二年に建てられた建物だそうだ。アール・デコ。わたしはこの時代の建物はすきだ。ラリックに通じる、日々に美をさしだしてくれようとする高らかな意思のようなものがたゆたっている。市の職員のような方がなかにいたので、ことわりをいれて携帯で写真を撮る。入れ子細工、マトリョーシカ。この建物のなかに、またなにかが隠れているのだろうか。


 さて、展覧会会場へ。HPには「クレーは個人コレクターや出版物を介して浮世絵を知る機会をもったようですが、最初期にはフランス印象派、後期印象派の影響を強く受けており、浮世絵の構図を援用したゴッホの作品などからも間接的に日本美術を学んだといわれています。線描による造形を探究していた初期のクレーにとって、北斎漫画の巧みなスケッチが格好の手本となったことは容易に想像されます。 20世紀初頭のヨーロッパでは日本や中国の美術を紹介する書籍が相次いで出版されており、後年クレーの書架にも中国文化関連の書籍が並んでいたといいます。またクレーが、漢詩の世界に強く惹かれていたことも広く知られています」とある。こうしたことに焦点を当てた展覧会。
 そして、カタログや解説などによると、一九〇二年に、二十二歳のクレーはフィレンツェで川上音二郎一座の舞台を観て、主演の貞奴に強い印象を受けたらしい。クレーの日記にも、その感動が書かれている。「原始的ながら、ものごとを意識的にとらえる姿勢が演目、演技、あらゆるものを貫いている。(…)彼女の衣装の襞のひとつひとつまでが必然」。襞を彼が描く線と重ねてみるのも興味深い。彼の線も必然だから。HPによると、これが「「日本」と直接的に触れた最初の機会と推測」され、「続く一九〇五年〜八年頃には、北斎漫画をはじめとする浮世絵をモデルにした作画上の試みを数点手掛けてい」るという。
 最初は、『北斎漫画』と、クレーのデッサンの比較。《片足で踊る三人の裸像》(一九〇五年、ZPK(パウル・クレー・センター、ベルン)蔵)は、グロテスクなまでに、むきだしの裸の人々が横向きにうごめいている。それの参考になった作品として、『北斎漫画』の、ふんどし一丁で踊る人々。たしかにポーズなどは似ているが、クレーのもつ生々しさは、わたしの主観でいうと、エゴン・シーレのそれのほうが似ていると思った。もっとも、一九〇五年に、シーレはまだ子どもだから(一八九〇年生まれ)、彼の影響を受けたわけではもちろんないが。ただ、ロートレックが《ジャヌ・アヴリル》のポスターで、彼女が片足をあげて踊る姿を、『北斎漫画』から想起を得て一八九三年に描いているが、クレーはこちらのほうが似ていると思った。ここで似ていると称される北斎のほうには、もっとユーモラスな面がある。クレーはここではまだ後年のユーモアがない。懸命さはうかがえるが、まだかりかりしてみえるのだ。だが、なまなましい息吹はあった。

《片足で踊る三人の裸像》(1905年、ZPK蔵)


葛飾北斎『北斎漫画』八篇より(1818年、浦上蒼穹堂蔵)

 このほかにも、東大寺法華堂の執金剛神像の頭部に似ているというデッサン《猛獣の歯をした顰め面》(一九〇五年、ZPK蔵)や、釣り針にささった魚を描いた《迂回のみ》(一九三四年、ZPK蔵)と北斎漫画の比較などがあるが、個人的には、そこまで影響はうけなかったのではないか、と思ったりした。《迂回のみ》は、画面左と上に魚がいるが、右下は余白だ。もしかすると日本的な空白なのかもしれないが、顔のユーモラスな表情と、釣り針が刺さっているという、死への言及は、後期の彼ならではの筆致ではなかったか。そして、これは出品作ではなく、会場内のビデオ上映で見た、《R.Mi(艦隊)》(一九一七年)。ばらばらになった船とRの文字、波間に女性らしい姿、そして右上におおきな海坊主という絵。これが歌川国芳『東海道五十三対、桑名』の海坊主、波にのまれそうな船の絵とを比較してあったが、こちらは影響というより、もはや気に入ったモティーフの拝借だったといえるのではなかったかと思った。船はばらばらといったが、絵自体がもともと縦長の紙に描いてあったのを、船が描かれたあたりの、半分に切って、横にならべているのだ。結果、波のまにまにいた女性も下から左へ、海坊主も上にあらわれていたのが、左に位置することになる。もはや海坊主と女性、船は、通常の意味の相関性から解き放たれ、あらたに真の関係をつくりあげているようだ。線は必然として、きられたことで生き生きとしている。死をもたずさえて(海坊主は、無残に殺されて、成仏できないものでもあるという)。
 第一次大戦前、クレーは母国ドイツを含む列強の植民地支配などを批判しており、列強を「文明諸国」として、「「文明化」された人間の救いの無さ」と言っていたとある。その関係で、日清日露戦争に勝った日本を、もはや「文明諸国」の仲間入りをしたとみなし、彼の関心は中国に移っていったとある。「未だ時代に取り残された、未開の、文明化されていない国」として。この未開は、彼にとっては、もちろんいい意味で使われている。続いて、漢詩をモティーフにしたもの(これも、ビデオ上映だったが)、中国的なものの展示へと移る。《中国人とともに》(一九二〇年、ドイツ銀行蔵)、《中国風の絵》(一九二三年、愛知県美術館蔵)など、中国の名のあるもの。この二枚の絵は、どちらも色彩が暗い。特に《中国風の絵》は、黒地に茶色の人物や、旗、月、帽子、ほか階段かもしれないものが、浮かぶように配されている。この茶色っぽい暗さに吸い込まれるように眺める。帽子は三角の円錐のようなかたちで、その上に球体が載っているようだ。バランスをとって? サンゴやアメーバのようなかたちをしたものもある。踊っているようでもある。かたちをなしそうでなさないものたち、細めた眼のひげのあるひとりの男とともに、謎が、わたしたちを絵をとおして、どこかに誘うようだった。

《中国風の絵》(1923年、愛知県美術館蔵)

 だが、東洋に影響をうけたかどうかは、やはりわたしにはあまり関心がわかない。ただ、そういうことと関係なく、今回の展覧会でクレーをまとまってみれてよかったと思う。《女性ダンサーの再構築、試み》(一九三九年、ZPK蔵)は、タイトルでそういわれなければ、女性ダンサーがいるのかどうかわからない。太い線で区切られたなかに赤、青、灰たち、そして肌色の女性らしき塊。足も手もわからないし、顔もあるのだが、どれが眼なのか眼がよっつあるのか、判然としない。それは全体的にユーモラスでもあるのだが、なぜだろう、見ているうちに、肌色のかたまりがひどくエロティックに見えてくる。この笑いと性がわけもわからずにかたまりとしてくっついていることに、とてもひかれてしまうのだった。
 《女の館》(一九二一年、愛知県美術館蔵)も、題名をみても、それが女の館なのかどうかわからない。黒地に、丸に長方形の木だろう、三角に長方形の家が並んでいるようにもみえる。いきなり中央にカーテンがひかれているようにもみえる。カーテンが人の頭でできているようにもみえる。こちらのほうがますますわからない。だが、黒地のせいだろうか、女の暗いさけびがそこに秘められているような気がしてくる。あるいは夜のなかで、押し殺した声が聞こえてくるような気がしてくるのだ。

《女の館》(1921年、愛知県美術館蔵)

 そして、チラシやポスターになった《蛾の踊り》(一九二三年、愛知県美術館蔵)。不思議なことに、チラシをみてもさして、いやほとんど感慨がわかなかった。会場で実物をみて、最初は、ああ、これがチラシの…となんとなく思っただけだった。黒い枠のなかに、青を基調としたグラデーションのかかったマスメがあり、その真ん中に黒で、長方形のもの、下向きになった矢印たちなどで形作られた蛾が描かれている。これもタイトルがなければわからない。だが、そうと知ってしまったら、つまり名前がわかってしまったら、名前のもとに、彼らはその生を生き生きとわたしに伝え始める。ああチラシの…、何気なさから、堰を切ってあふれてくるものがある。蛾が圧倒的にわたしに食い込んできた。それは下向きの矢印のせいだろうか、地上に悲しいほどに近いものとして映った。それだけではない、飛翔を苦しんでいるかどうかはわからないが、おおむね重たげなものとして映った。あるいはまた速水御水の《炎舞》の、火に踊る蛾を思い浮かべたのかもしれない。ともかく何かたちが蛾に重なり合い、それが痛みとして見るわたしに刺さったのだった。題名が名前として、わたしたちに作用をおよぼす。

《蛾の踊り》(1923年、愛知県美術館蔵)

 最後のほうの展示で、カリグラフィーとして集められたコーナーがあった。それの説明としては「東洋の書の他に、イスラムのカリグラフィーや、古代エジプトの象形文字、カルナック(ブルターニュ)の巨石に刻まれた文様、ルーネ文字、(…)それらをいわば統合し彼自身の絵画言語に置き換えたといえる」とカタログにあった。ナスカの地上絵を思わせるものもある。本当にアルファベットを並べただけのものもある。そして、《木の表情1》《木の表情2》(一九三七、ZPK蔵)。紙に糊絵具とあるが、見た目は半紙に墨のように見える。太い黒い線で、うねうねと描かれる。わたしの見方は間違えているかもしれない。だが、真っ先に幹を描いたものだと思った。幹はさまざまな模様をみせる。あるいは家具でもなんでもいい、木目の表情。わたしは思い出した。これら木の表情に、小さなわたしは、さまざまな予兆、物語、モノたちを見ていたことを。それは、時にこわいものですらあったことを。天井の板。今日に限って人の顔にみえる。口をあけて叫んでいるようにみえる。怖い、眠れない…。ここにある《木の表情》は、もしかすると、林かなにかの木を一本、二本描いただけかもしれない。だが、どうしてもわたしには木目のたたえた表情にみえてしまう。どこかで、それでもいいのだと、語りかけてくるようだった。そんな風にみてもいいのだ。それにより絵にちかづくこと。表情の呼吸をあび、自身も呼吸すること。

《木の表情 2》(1937年、ZPK蔵)

 もう一枚、《別れを告げて》(一九三八年頃、ZPK)。こちらも半紙に墨のような糊絵具の太い黒い線で、漫画のような、うつむいた人物が描かれている。目は丸が二つ、鼻と口は逆Tの字。顔は半円、胴体は一本の線、上の方が肩として、わずかに丸みをおびただけ。顔が若干うつむいて見えるからだろうか。丸と逆Tの字だけなのに、やはり寂しげに映ってしまう。それは白い紙に描かれた黒い線のみ、というところからもくるのかもしれない。白い紙は、顔にも、体にも、そして背景にもなる。余白、空白をたずさえて。空白であることで、拡がりをもって、あるいは単純化された線だからこそ、凝縮をもって、わたしたちに重さをつげていた、さびしいほどの別れを。だが、これもまた、題名のせいもあるのかもしれない。別れはいつだって、何事かの痛みだから。そして、ここにはクレーの晩年の作品ということもかぶさるのだった(クレーは一九四〇年の夏に世を去っている)。

《別れを告げて》(1938年、ZPK(パウル・クレー・センター、ベルン)蔵)

 常設、いや所蔵品展示なのだろうか、同時開催として「江戸浮世絵巻」展を開催していた。実はこちらは、クレー会場から逃げるように駆け込んだのだ。クレーを途中まで見ていたら、小学校の授業なのだろう、ボランティアの引率に引き連れられた児童たちが次次と入ってきた。十人ぐらいの子どもたちに、一人の引率といった感じで、五分置き位に。子どもたちは静かだったが、ボランティアの解釈、解説、説明がうんざりするほど、気に障った。彼らはたいそうなことをしゃべっており、いいことをしているつもりなのだ。だから声を大きくしてもいいと思い込んでいる。ほかに見ている人のことなどおかまいなしだ。「いいかい、こんどはこっちの顔を見てごらあん」。不愉快きわまりないので、とりあえず会場を出る。退出したら、もう再入場が出来ないか不安だったが、本日中であれば、仮に外にでたとしてもかまわないとのことで、安心して、逃げたのだ(出たとき、「〇〇小学校、使用中」と入口に出されていた。これが、もっと早くから出ていたら、最初から、時間をつぶすなりして、はちあわせしないようにしたのに)。わたしは浮世絵はあまり好きではない。食わず嫌い? それは半分は当たっている。だが、どうも、わたしは和洋ともに(というか関わらず)、人物を描いたものが苦手だということに今更ながら気づく。そう、肖像画は前から苦手だとわかっていた。そして浮世絵は人物を描いたものが多い、だから好きではなかったのだと。そして? ここでもそうではなく、鳥や植物を描いたものたちには、なんとなく心がざわめき、そのことがまず新鮮な驚きだった。このことは、いつかちゃんと書くかもしれない。そして葛飾北斎の「富嶽三十六景」などの有名なシリーズ。デザイン化された山の稜線、波のうねりが凝縮のように平面から力をみなぎらせている。彼についても、いつか書くことがあるかもしれない。手に入るのが、しばらく先になってしまうのだが、北斎の本を数冊注文したから。
 ここで、北斎、ほかにもかなりにも惹かれたものはあったが、今回は《千絵の海 総州銚子》(横中判錦絵 /天保四(一八三三)年頃)だけあげておく。信じられないくらいの荒波、そのあわだつ波頭と、細長い、かぼそい舟。波の意匠化された線の単純な線、線、線にまぎれもない海があった。ちからづよく、容赦がない海だった。この海のまえでは、舟、わたしたちは無力だ。だが、なんとか立ち向かおうとしている…、それはクレーの《蛾の踊り》にもつうじる、意志力だった。

葛飾北斎《千絵の海 総州銚子》横中判錦絵 /天保四(一八三三)年頃

 北斎の海に出会って、そこに入るまでの不愉快な気分は一掃されていた。それどころかほとんど幸せだった。うねる力強さが、わたしにリズムをつたえてきていた。そうして、またクレーに戻る。それは中国的影響云々に移る直前だった。だからまた日本の、『北斎漫画』たちを見る。これらも直前に見た北斎のおかげで、題名をもったように生々しくわたしに語りかけてきてくれる。そしてこんなふうに、絵たちは橋渡ししてくれるのだ。クレーから北斎へ。
 美術館から出る。千葉の海はみれなかった。だが北斎の海を見たからいいと思った。絵で景色をみたことで、充分すぎるほどだと思うこと、これを初めて感じたのは、クノップフの風景画を見たときだったと思い出す。思い出すことで、画家たちがわたしのなかで出会ってゆく。つながってゆく。それは名前を構築してくれることでもあるだろう。名前を裏から照射してくれること。
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