Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-07-25

ゴーギャン展、逃げ去る作品


 ゴーギャン展(二〇〇九年七月三日─九月二十三日、東京国立近代美術館)に行ってきた。皇居、北の丸公園内、お堀のすぐ脇。地下鉄の竹橋駅の出入り口から地上に出ると、すぐに夏のねっとりとよどんだ水が眼につく。間違えても飛び込みたくないなと思いつつ、なぜか飛び込むことを思い浮かべる。灰緑のそれは、水よりももっと粘度があり、粥のように体にまといつき、口から、鼻からはいってきそうだ。おぼれるというよりも、そうしたねばつきのなかで、息ができなくなってしまう…。
 この堀のなかの閉塞感は、ゴーギャンが感じたものに通じるだろうか。彼はそこから逃れるようにタヒチへ向かったのではなかったか(だが、タヒチもまた、彼が思ったよりは安楽の場所ではなかったのだ…)。そこまで暗い水を眺めながら思ったわけではなかったが、感じたように思う。堀の水をながめ、ゴーギャンの絵にむかう。それは儀式のようで、なにかふさわしいことのようにねばつく汗のなかで感じていた。タヒチの水、海。
 ポール・ゴーギャン(一八四八年〜一九〇三年)。私は例によって、あまり彼の略歴を知らないでいたのだが、父がフランス人、母がペルーの貴族の血をひく運動家で、幼少期をペルーで過ごしたらしい。以下、ものすごく簡単な略歴。若い頃の船員体験とともに、このことはタヒチ行きにどこかで影をのこしたはずだろう。パリで株式仲介商として成功後、三五歳で、職を辞して画家に。パナマ、マルチーク島に滞在。どちらかといえば、生まれた場所よりのこれらの地で、タヒチを強く意識したらしい。そしてゴッホとの仲違いを経て、四十三歳〜四十五歳、最初のタヒチ滞在。四十九歳〜五十三歳、二度目のタヒチ、五十三歳から没年の五十四歳までタヒチにほどちかいマルキーズ島で過ごし、心臓発作で逝去。
 ゴーギャンはおそらく私好みの生き方をしたのだろうと思う。ここにいることにつねに違和を感じる、そんなタイプの人間として。「どこに暮らしてもゴーギャンはここではない彼方を夢見続け、それがまた足許の現実との違和を増大させる。」(カタログ、中村和雄「ゴーギャンへの試論」より)。私はそんな彼らに対していつもシンパシーを感じてしまうのだった。それは私自身がどこかしら浮遊しているからなのだが。私はどこでもうわべはとりつくろっている。それは臆病だからだが、違和を感じていることで、彼らに嫌われたくないからだ。彼らとはだれだろう? まわりをとりまく人々だ。だがどうしても違和を感じてしまう。これを説明するのは難しい。思春期の頃から、磁石の同極どうしのような抵抗を、肌をとおして感じている。そして、ここにいることで、無理にあわせている感じがいつもしてしまう…。抵抗を感じていないふりをしてしまうのだ。けど、ゴーギャンと違うのは、彼方を夢見ながら、ここに留まり続けることだ。それはなぜだろう。たぶんどこにいても同じく抵抗を感じるにちがいないとしっているからだ。
 だが、いつもこうしたことで絵が好きになるのではない。これらと絵はまったく繋がりがないわけではないし、どこかで本質的に関わっているのだろうが(私が詩を書くことと違和感のように、おそらく根っこでは連なっているはずだ)、それらを第一において作品に向き合うわけではないのだ。では? 理由はほかにもあるだろう。この頃よく考えている、実人生と、芸術のあいだに横たわる何か、それらを渡すものとして、とか、あるいは作品と向き合うとき、彼らと触れ合いたいのだ、とか。おそらく彼らの作品(絵に限らない、芸術全般だ)と向き合うことは、こうした理由すべてを含みながら、それらで言い表しつくせないすべてであるのだろう。逃げさる作品。だからこそ、それを追いかけるのだ。そして、他のことばで言い表わすこと(詩も無論だ)、置き換え不可能だからこそ、芸術なのだ。
 そうか、ゴーギャンは逃げていたのではない。違和のなかで、芸術を追っていたのだ、とふっとここで気づいたりする。堀のよどみ、羊水のような、忘却の河。わたしもまたここに留まっているわけではないのだ。追っているのだ。
 ところで、突然河がでてきたのには、理由がある。今回のゴーギャン展で、ぜひとも見たかった、《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》(一八九七─九八年)ここで、あるいはほかの絵のなかでも、死のイメージとして、白くよどんだ水がくりかえし出てくるからだ。
 だが、そのことはあとで、触れられたら触れてみたい。そう《我々は…》。左端に、赤子とそれを取り囲む女性(見守る風ではない、傍らにいるだけ)、中央にイヴのように果実(知恵の実)をとる女性、そして左端に膝を抱え込み、両手に頬を当てる老婆(そして死の河)…。生まれ、様々な苦悩を経て、死に行く…。わたしがこれを印刷物で見たのは、二十代前半だった。一枚の絵のなかに、人生のすべてが描きつくされてある。それは凝縮そのものであったが、それよりも、この凝縮が信じられなかった。当時の私、若者にとって、人生は未知の長いものだった。得体のしれない未来があった。それが一枚で収まっているのだ。一枚のなかに、もちろん尽きせぬ謎はつまっているだろう。だが、未知のものが、未知のままであるにせよ、一枚にあることに圧倒された。タイムマシンか何かを使ったようだ。タイムマシンで百年を辿るには、結局百年かけなくてはならないという。だが、それでも霧がかかった未来ではない。そこに辿れるものとして存在する。謎だらけだが、絵のなかに一生はおさまっているのだ。
 絵のなかに女神像がある。老婆、つまり死の近くだ。これはゴーギャン自身が偶像化したものだが(島には女神の似姿を作る習慣がない)、土着の月の神ヒナで、月の満ち欠けに関連した女性原理を表わす。つまり、誕生と死と再生を司る神であるらしい。当時見た印刷物では、不可思議な女神像としか紹介されていなかったが、ここではそんな風に解説されている。ますます人生だ。それを俯瞰するものとして、ふさわしいものだと気づかされる…。

《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》

 その二十いくつかの頃から、本物を見るのは、ひそかな願いであっただろう。きっとものすごい感動がおしよせるだろう、何の疑いもなくそう信じていた。今までだってそうだった。画集でみたものと本物とはちがう。生の筆による訴えが、いつだって、印刷物を押し倒してきた。だから…。前置きが長い。ということは? つまり思ったより感動しなかったのだ。
 私にとって、ゴーギャンに限っていえば印刷物を見ての感動は、衝撃だった。くわえて長い年月を経るうちに、それは私のなかで、もはや一人歩きしていったのかもしれない。印刷物ですらこんなに感動したのだ、実物はきっと、もっと人生がつまっているだろう、もっと衝撃をうけるはずだと、本物に多大な期待を寄せていったのだ。
 つまり、最初にみた印刷物の感動が、わたしにとっては本物だった。いいかたが難しいが、たとえば、モネの《睡蓮》。これは上野の国立西洋美術館で見たそれがはじめての出会いだった。何回も書いているが、その折の感動はすさまじいものだった。この美術館には、それからも何回も赴いているが、その都度《睡蓮》を見るようにしている。最初の感動はむろんない。今回のゴーギャンの絵を前にしての感動の希薄さもそのことと似ている。《睡蓮》はだが、二度目、三度目、最初にみた感動はいつかうせてしまうとわかっているから、違和感はなかった。それでも行くたびに《睡蓮》に出会えることは喜びだった。感動をさせてくれた、長い間の、親しい友人に会いに行く。もはやそんな感じだった。そして?《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》…わたしはもうすでに印刷物で、感動を終えてしまっていたのだ。しらないうちに、彼の絵は、熱狂的な愛人から、友人になっていたのだ。
 では今までだってと先ほど書かなかったか。いや、これまで印刷物を見て衝撃的な感動をしたものはほとんどなかったと振り返る。いいなと思ったことはある。だが、衝撃を印刷物から受けたことはほとんどなかったではなかったか。ゴーギャンだけがその意味では特別だったのだ。
 と、展覧会に戻ろう。《我々は…》に関しては、不思議な失望があったかもしれないが、新しい小さな発見による感動たちは多々あったのだった。
 たとえば、《純潔の喪失》(一八九〇─九一年)ルソーをおもわせるような平べったさで、海の見える草原に横たわる女性、そして頭のほうで「邪なるものの象徴」とゴーギャン自身がいったという、にも関わらず寂しげでかわいらしささえたたえた狐。彼女の手はその狐をなでている。もう片方の手は、手向けられたように花を持つ。これはタヒチに旅立つ直前に描かれたものだそうだ。南国のあざやかさはない。憧憬やら楽園というイメージもない。だが、旅立つ直前に描かれたというのが、なぜかうなずける切望が感じられる絵だ。狐は死の使いででもあるようだ。狐の足は、女性の胸元、心臓ちかくにちょこんと乗せられている。それは、逃亡ではなく、追い求めるための願いをこめて静かだった。邪だとしたら、それは純潔と対になるからだ。正邪は一対になっていなければならないから。あるいは白い裸体と、赤い大地。

《純潔の喪失》

 《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》も晩年近い作品だが、一九〇三年の没年間近に描かれた二枚の作品にも心ひかれた。《浅瀬(遁走)》(一九〇一年)と《女性と白馬》(一九〇三年)だ。前者は白い馬にのった裸体の女性、そのあとに黒い馬に乗ったおそらく死の使いの男性。ふたりは青い水、浅瀬を渡ろうとしている。この浅瀬が、三途の川であるだろうと、《我々は…》の老婆の水と同じものを感じたのだが、それはともかく、夕暮れなのだろう、あたりはサーモンピンクで、さんざめくほど明るい。そして夕暮は、死と生が混在するにふさわしい。
 後者はやはり白い馬に乗った女性ひとりと、立っている二人の女性、山のふもとの草原にいる。桃色の木、オレンジも木、青い山、そのあざやかな色合いに驚かされる。山の中腹に、白い十字架の墓がぽつねんとひとつ。これは彼が葬られることになる墓であるという。そして彼は具合がもはやとても悪かった…。これらに死の影を認めることは後付けとしてできるかもしれない。あるいは、特にこちらは、今までのゴーギャンよりもタッチが弱弱しいともいえるだろう。水彩画のそれのように、油絵で描いたごつごつとした生命力がない。
 だが、わたしはこの二枚のにぎやかな色彩に心ひかれた。そうだ、死はこんなにもあざやかなのだ、さんざめくものなのだ…。絵をまえにして、また別の話を思い出す。

《浅瀬(遁走)》


《女性と白馬》

 司馬遼太郎の『燃えよ剣』は、土方歳三の生涯を描いたフィクション。中学生の頃にこれを読んだ。私の土方歳三好きは、この本にも一役追うところが多い。それはさておき、ここで歳三が夕日について、にぎやかだと語るシーンがある。聞いていた女は、夕日といえば淋しいものではないか、変だなと思う。だが、そのにぎやかな夕日というのは、彼自身の最期とも重なり、妙に納得してしまうのだった。歳三があざやかに死んでゆく姿に、淋しさをまじえた夕日が映える。
 これも微妙で、うまくいえないが、死があざやかだというのではない。だが、夕日のようにさんざめくこと、そのことに奇妙な肯定を感じたといえばいいか。『黄昏』という老夫婦を描いた映画がある。あの黄金色に光る湖は、最期にふさわしいきらめきだった。たとえばそういうにぎやかというだけではたりない、静寂をもこめたざわめきがある。そうしたにぎやかさが、死に近しいといったらいいか。
 ともかく《浅瀬(遁走)》と《女性と白馬》に、そんな死を感じたのだった。よどんだ水に《我々は…》の老婆の脇を流れる水を感じながら。
 家に帰ってきて、家にある印刷物、はじめて《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》を見たものを開く。『週刊グレート・アーティスト 9 ゴーギャン』(同朋舎出版)だ。不思議なことに(同じ絵なのに)、こちらのほうが、当時の感動がつまっているようだった。開いたとたん、まるで残り香のようにかつての衝撃の破片が立ち現れてくるのだった。
 そのことと、あまり関係ないが、画面左上、老婆の側に、題名が書かれていることに触れている。「この題名が問いかける意味──タヒチ語ではなくフランス語で書かれている──は答えのないまま、また答えることのできないまま残されている。」一枚の絵の謎についての言及だが、タヒチ語ではないことに、私は彼の感じた違和をまた嗅いでしまうのだった。そして、「ゴーギャンの夢見た汚れなき楽園は、しかしながら彼が一八九一年に首都パペーテに到着する以前に消滅してしまっていた」とあること。つまりタヒチは彼が思ったよりもフランス化されていたのだ。だからさらに奥地へ、フランス化していないマルキーズ島を終焉の地として選ぶことになったのだが、そのことに彼の違和をやはり痛く思ってしまう。
 展覧会では、版画集『ノア・ノア』の展示もかなりあった。はじめてみるものばかりだが、闇のように、光のようにひきこむ力に染まっている。そのなかの一枚、《ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)》(一八九三─九四年)。イブ(エヴァ)とタヒチの女性が一体化している。蛇もまた、タヒチで見られるトカゲに姿を変えている。融合、そしてかぐわしい、彼方の地。楽園と現実の地の抱擁。それは橋渡ししたもの、それら全てを含んで逃げさる作品だが、それでも彼が作ったものだ。彼方はここにあったのだと痛みを通して伝わるものがある。そうだ、そしてイブの足許にも河が流れていた。白くねっとりとよどんだ、静謐。

《ナヴェ・ナヴェ・フェヌア(かぐわしき大地)》


ゴーギャン展HP
http://www.gauguin2009.jp/
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2009-07-15

奇想の王国 だまし絵展、区切りは案外もろいものだ



 『奇想の王国 だまし絵展』(二〇〇九年六月十三日─八月十六日)に出かけてきた。場所は渋谷のBunkamuraザ・ミュージアム。今、昼間は渋谷の近くにいるし、ここは十九時までやっているのだから(二十四日から連日二十一時までだそうだ)、夜にでも寄れそうなものなのだが(実際、そう思っていた)、前回もちょっと触れたように、頭が疲れていて、なかなか来ることができなかった。あるいは頭の切り替えが難かしかったといえる。わたしのなかでは、いや、たいていの人はそうかもしれないが、現実(会社に行くとか学校に行くとか、会合があるとかそういうこと)と、展覧会に行くことはどこかで区切りが引かれている。そしてこの区切りのなかでは、展覧会と創作は親しい間柄となっている。区切りがあったとしても、とても薄いものだ。ともかく現実によって疲れた頭(夢のなかにまで、数式が出て来る)は、この区切りを飛び越えることができないのだ。
 出かけたときは、いつもより一時間だけ早く現実から抜けることができる予定だったので、当初からこの日に行こうと決めていた。この時はまた、早く終わったことにより、頭の疲れもいつもほどではなかったのかもしれない。それに次の日は休みだ。休みも現実だろうが、創作したりするからか、どちらかといえば現実のなかでも区切りのむこうに近い。ともかく電車で美術館に向かう途中、気分が良かった。
 だがこの気持ちの良さは、ほかの理由もある。それはこの頃、かかずらっている苦手な数式などが、すこしだけ理解できたことによる。初級レベルでの話しだが、自力で解けたことにささやかな達成感があった。これは少しだけ一篇の詩を書き終えた後の感覚に似ていると思う。そう思ったとたん、詩を書くこと、こうして日記を書くこととの類似点をひそかに探し始めていた。一概には言えないが、創作には、何かを理解するために書いている、という面もあると思う。こうした文章もそうだ。整理して、何かたちを関係づける。そのことを理解するために。そのつど、ささやかな達成感があるかもしれない。それと似ているのだ。これは大事なことだ。この頃やはりかかずらっている、現実と創作の間、区切りを取り除くことはできないにせよ(それはそれで必要だから)、彼らが思ったよりも親密かもしれないということだから。
 そんなことを考えながら、会場に向かっていたので、もはや切り替えはできていた。それはまたぐでもなく、自然にできた行為だった。
 さて展覧会会場。これから見るひともいるだろうから、詳しい紹介、詳細は省く。今日いく、だまし絵の類は、桐田真輔さんがブログ(http://www.haizara.net/~kirita//ivent.html)でおっしゃっていたように、事前に予備知識などを知らないほうが楽しめそうだから。だから、以下は個人的な感想をのべるにとどめておく。
 西欧では、だまし絵の歴史は古い。カタログによると、1世紀のプリニウスの『博物誌』に、もはや、それに類する記述は見られるという。ただし、だまし絵ということば自体は、一八〇〇年のパリのサロンで用いられたトロンプ・ルイユから来ているらしい。
 古いということは、当然といえば、当然なような気もする。長らく真実の模写であるとされていた絵画には、だまし絵の特性のひとつである、迫真性を持った描写、本物そっくりであるという側面が、付随していたであろうから。それはいとこかなにかのようで、血のつながりを持ちつつ、さらに近しい間柄だったはずだ。つまり区切りの内部の話として。
 これらに関連して、カタログで谷川渥が書いていた言葉がおもしろかった。「だまし絵を見るとは、たんに描かれた対象の迫真性に打たれることではない。そうではなくて、その迫真性が画家のレトリカルな技法の産物であることを享受することなのである。端的にいえば、だまし絵は人をだましおおすからだだまし絵なのではない。(…)だますふりをして結局だまされないからだまし絵なのである。この逆説の上に、だまし絵は成り立っている。」
 このレトリックとは、「空間的文脈のなかに置かれ、そのことによって迫真性を迫真性をもってひっくり返すというか、屈折させる」ものである。「「本物そっくり」をめぐるレトリカルな戯れ。──「本物そっくり」という表現そのもののうちにすでに介在する、「だます」ことと「だまされない」こととの微妙な距離こそが、レトリカルな戯れを可能にするといってもいい。」
 会場では、そうしたレトリカルな戯れにひたっていたと思う。その戯れ=遊びは、自分が空間に対して描いていた固定観念をひっくり返すことでもあった。目を疑うこと、五感すら疑うこと。それは理解することにもつながるだろう。
 チラシに「だまし絵展と聞いただけで、なにかおもしろい体験ができるのではないかと期待しないだろうか」とある。まさに、そのとおり、出展作品を見て、わくわくしている自分に気づく。これは通常の美術展とはちがうことだ。そこには深い共鳴、しずかな肯定は、少ないような気がする。だが、戯れのなかで違いを確認することで、なにかを理解するための足跡をつくっているからだろうか。いつもと違い、胸を突くような感動がなくとも、つい足をとめて見てしまうものが多かった。見ることのうちで、心が楽しいと踊っている(広義において、そのわくわくも感動なのだろうが)。だまされるために、もとの形がわかっていないといけないものもある。理解を強いる。そのうえで、だまされることと、だますことの違いをはじめて痛感できるものもあった。
 こちらのわくわくについては、だが置いておこう。それを語るには、展示の詳細を語らないといけないかもしれない。あるいはそれだけが理由ではないのかもしれないが。区切りにあてはめていえば、このわくわくは、どちらかというと、現実に近いものと認識しているからかもしれない。そう、多分、わたしは美術展では、基本的には、現実の区切りのこちらがわ、そして共鳴について語りたいのだ。
 まず、日本のだまし絵のコーナー。解説によると「日本美術には「描表装」という趣向がある。本来織物などの裂地を貼って仕上げるはずの掛軸の表具を、あえて手描によって画面と同じ本紙上に模したものである。古くは鎌倉時代…」とある。おおざっぱにたとえれば、この展覧会のチラシなどで見かける、ペレ・ポレル・デル・カソの《非難を逃れて》が、額に手や足をかけ、今にも逃げ出そうとしているのがあるが、その額にあたる表具を紙に描いているということだ。ともかくその技法で描かれた、河鍋暁斎の《幽霊図》(一八三一年頃)に、まずひかれた。それはわくわくとした楽しさから暗転して、のような驚きの放つ共鳴だった。

河鍋暁斎《幽霊図》

 白装束、乱れた髪、やせ細った青白い、凄みのある幽霊。感動とは別に、少しだけ、背筋が寒くなるような恐怖を感じた。それには懐かしさも混じっている。それが幼い頃からの記憶と重なるものであるかもしれないからだ(同時に、日本人なのだなあとつくづく思った)。だが、それを抜きにしても(別に無理に引き剥がさなくてもいいが)、幽霊の表情から、エゴン・シーレの描く人物、ビアズリーの描く人物の生々しさを感じた。幽霊だから生々しいというのは違うかもしれないが、実在でないままに、実在の世界を跳び越して、原初的な感情を引きつれてやってきたのだ。
 順番が前後してしまった。これはその「描表装」で描かれている。まず、肩より上が本紙から抜け出し、表具にかかっている。そしてないはずの足。足は吐く息の白さ、あるいは魂のように、やはり紙から抜け出ている。絵の説明として、「幽霊は異界の存在がこの世に現れたものであり、虚を実と思わせる描表装の手法とは実に相性が良い画題といえるだろう」とある。
 あの世とこの世が、こんなふうに行き来している。あるいは空想と現実が。あの世が空想という意味ではない。そこでわたしはあの区切りのことを思ったのだ。区切りはこんな風に、またぐ意識もなくぬけでることができるのだと。
 この日本のだまし絵のコーナーでは、歌川国芳の戯画「寄せ絵」も興味深かった。こちらも、チラシなどで使われたアルチンボルトの果物などで出来た《ルドルフ二世》と類似点があるといえばあり、「小さきものが寄り集まって、別の大きなイメージを作り出すもの」である。会期中、展示替えがあるらしいが、わたしが行ったときは《としよりのよふな若い人だ》(一八四七─四八年)が展示されていた。猪口を持った女性、顔と手が裸の男たち、髪と着物部分が衣服をまとった人物たちで出来ている。
 題名も、人たちの輪郭線が、皺のように見えることでつけたのだが、その発想も奇抜だと思う。皺のことなど、みるこちらは気にするまもなく、うごめく肢体にくぎづけになってしまっているからだ。二人の後頭部が目、足が鼻、そして猪口をおさえる指が尻、持つ手が足の裏というのも、風刺のようで、肉体について、肌について、あるいは他者との関係についてあれこれ考えさせられる。絵の背景に文字が描かれているのだが、そこには、こう書かれているのだから。「いろいろな人がよつてわたしのかほをたてゝおくれで誠にうれしいよ 人さまのおかげでよふよふ人らしいかほになりました」

歌川国芳《としよりのようなわかいひとだ》

 この作品や、やはり歌川国芳らの「影絵」(当時は写し絵といったとある)と呼ばれる、作品群も興味深かった。影と実体の落差を楽しむ遊びを、絵の世界にもってきたことで、さらに、ありえないほどに肢体をくねらせたり、実在しないものが使えることになったりするので(影は金魚なのだが、実体は尾がたぬき、そして金魚の体のほうが、大きなふぐりと人間で出来ている)、現実と実体の関係よりも自在に落差を楽しむことができるようになっている。これらの作品群は、戯画というジャンルに分類されるそうで、国芳はこの一人者だったそうだ。戯れること、遊ぶことが、先ほどの幽霊のように、影と実体の関係のもろさを露呈する。そう、区切りは案外…。うやむやになった区切りのなかで、それらは往還を可能にする。

 実は、この展覧会にきた目的のひとつに、ルネ・マグリットがあった。チラシに紹介されていたし、ポスターもあったので、何点かはきっとくるだろうと。案の定、ほぼマグリット一色のコーナーが設置されていて、そこには七点出展されていた。
 今これを書いていて気づいたのだが、歌川国芳や河鍋暁斎で感じた、関係のもろさの表出を、さらに突き詰めたのがマグリットではなかったか。
 パイプを描いているのに、下の文字は「これはパイプではない」と描かれている《イメージの裏切り》(一九二九年)は、ことばと実体の関係のもろさを表わす代表的な作品だが、マグリットはそればかりではなく、見た目と実体の関係、空想と現実の関係、さまざまな関係たちを突き詰めるように描いているという面が確かにある。だから好きなのだが。
 この展覧会出品作では、たとえば《囚われの美女》(一九三一年)。イーゼルの絵の風景が、あたりの風景と連なっている、同質化している。キャンバスは一枚の小さなガラスのようなのだ。現実の家と現実の木の半分は絵の外にあり、あとの半分はキャンバスの中にある。現実と絵の関係が溶け出しているかのような、奇妙な融合にひかれる(こうした画中画を、彼はよく描いているが、これははじめて描いた作品らしい)。カタログでも「絵によって隠されるはずの背後の風景が絵のなかに描き込まれ、物とその背後の物との日常的な関係が危ういものとなる。(…)マグリットにおいては、次元の異なる2つのイメージが相互に交換可能であることが分かる」とあるのが、心地よい。そして、この《囚われの美女》という、絵とほぼ関係がないような命名、まさに《イメージの裏切り》により、さらに交換可能なもの、関係のもろさを組み立て、からみあったもろさを立証してゆくようで、構築の迷路にめまいがする。

マグリット《囚われの美女》

 出展されていたマグリットは全部あげたいところだが、後一点のみにしておく。《落日》(一九六四年)。窓が正面から描かれている。緑の丘の作る水平線、そして夕暮れ間近の空と赤い太陽。だが窓は割れていて、部屋のこちら側に落ちている破片たちに、これらの風景が断片となって残像のように残っているのだ。とくに二つの破片にばらばらに映る、赤い太陽が目をひく。これもまた、目で見えたものや、イメージ、そして実際の風景との関係のあやうさを端的にあらわし、見るものの眼を、窓のあたりで浮遊させ、そのことで思考をうながしてくるのだが、今度は題名が、関係のないものではなく、二重に関係のあるものとして、媒介者のように存在する。つまり《落日》。原題は「落ちる夕暮れ」で、これは風景と、割れて落ちたガラス窓にもかかってくる。交換可能であることは、こうした地口のような二重性のなかでも、立証されるのだ。つまり区切りがあやふやになるということは。

マグリット《落日》

 わたしがマグリットに出会い、圧倒的に惹かれた最初の一枚は、《光の帝国》(一九五六年)だった。一枚の絵のなかで夜と昼が混在している。そのあり得ないものの一致の放つ、静謐な融合に心引かれたのだ。昼の空、夜の湖。湖畔の家は明かりが灯っている。この部屋が詩の場所だと思った。なぜ、今こんなことを書いているかというと、この展覧会で、昼と夜の混在を描いた別の作家の作品に出会ったからだ。M・C・エッシャー、《昼と夜》(一九三八年)。木版画で、田園風景を俯瞰するものだが、田んぼの上部の四角い枠線が、鳥になってゆく。さらに鳥たちは画面右上で、夜の背景に右向きの白い鳥、左上で、昼の背景に左向きの黒い鳥となっており、それぞれがあたかも夜に昼をつれてきた白い鳥、昼に夜をひきずっている黒い鳥のように見え、農地と鳥、鳥と空、そして時間までもが取替え可能なものとして、あるいは融合できうるものとしての可能性をひめて、存在している。このことにやさしい共鳴を感じたのだった。

エッシャー《昼と夜》

 そして、同じくエッシャーの《滝》(一九六一年)。こちらは建物に作られた水路を通り、三階にあたる部分から滝が流れているが、水路が錯覚を駆使して描かれており、なぜか滝つぼのある二階から、三階へ水が登ってゆくように見え、水が永久機関のなかで動いているようになっている。わたしはつい思い出してしまう。『ファウスト』でメフェストフェレスがいったことばだ。「上りなされ、下りなされ。同じことじゃよ。」わたしはこのことばが好きだ。関係性がこわれたなかで、融合しているとおもったからか。ともかくこの絵では、上下の関係がこわれている。かつこわれながらも建物は崩壊せずに、そして水は流れつづけている。ある規則があるのだ。区切りがあるのだ。区切りがありつつ、関係をまたぐものが、たしかに存在していること、そこを流れる水たちの清冽さに心がふるえた。

エッシャー《滝》。

 展覧会は、あとは現代作家のものたちとなる。こちらも現実と空想、立体と平面、虚構と実体、これらを考えさせてくれる不思議なおかしさが息づいていた。ほかにも何点か足をとめたものがあったが、区切りといえば、本城直季の「smalll planet」シリーズ(二〇〇六年)、写真作品にうなずいた。俯瞰された街の様子が、ミニチュアの模型のようで、てっきり作り物だと思ったのだが、それは作り物にわざと似せた本物の街の写真だという。現実と創作は見まごう程に近しいのだ。区切りは、それが真摯なものでありさえすれば、レトリカルにダンスをするのだ。
 最後のほうでビデオ上映がされていた。「虚像と現実は紙一重だ」と言っていたのが痛切にこころに響いた。区切りはある。だが、それらは呼応しあっているのだ。

 まだ『一九三四年冬─乱歩』(久世光彦)を読んでいるのだが、乱歩が主人公だから、ここには乱歩の有名なことば「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」がしょっちゅう出て来る。それは、悪夢を見たあとで「嫌な夢だった。《夜の夢こそまこと》だったら大変である。」「夢の中にしか法悦境はないなどと上等ぶって言ってはみても、本当の嬉しさ、愉しさはやっぱり生身のもの」ではないかと思ったり、どちらかというと懐疑的である。だが、「心にかかっていることがあると、それがちゃんと夢に現れるから不思議である。」「そのとき書いている小説にからんだものが必ず夢に出てくるのは、仕事に関していい加減に見えて、実は存外くそ真面目だからだと自分で思う。」ともある。後者のほうは、「こういう夢なら、見ない方がいい。目が覚めたとき、ぐったり疲れきっている」と、また否定的な面ものぞいているが。現実と夢がひびきあっているということでもある。つまり、区切りはある。エッシャーの建物のように、マグリットのイーゼルのように、窓のように。だが、そのなかで、彼らは互いにゆきかうのだ。この箇所たちを読んだのは、展覧会に行く前だったろうか、後だったろうか。忘れてしまった。区切りは案外もろいものだ。
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2009-07-05

一面の紫が、想像と現実の間で、まだらに鮮やかになってゆく



 気がついたら、ラベンダーが咲く季節になっていた。だから今年もラベンダーを見に出かけた。行こうかどうしようか迷うまでもない。見に行くことが知らないうちに決まりとなっている。わたしには、こうした個人的な年中行事がいくつかある。梅、ラベンダー、彼岸花。どれもなぜか埼玉県だ(梅は越生梅林、彼岸花は巾着田、そしてラベンダーは菖蒲町)。そうだ桜もあった。だがこちらは桜に会えさえすれば、むせそうになるほどの出会いさえありすれば、どこでもかまわない。ついでに年中行事といえば、秋刀魚を食べる、松茸づくしを食べることもあげられる。


 埼玉県菖蒲町。満開だった。ここは紹介されている写真などで眺めると、いつも一面のラベンダー畑のように見えてしまうのだが、実際はそんなことがない。写真を自分で撮っても、そういうふうに自分で撮っているということもあるが、写されたものは一面の紫で、やはり一面のラベンダーのように見えてしまう。だが、町役場のまわりに、用水路(江戸時代に作られた見沼代用水)や調整池があるのだが、その堤に沿っていくばくか、そして小道の両端に植えられているにすぎない(会場から離れたところに、もうすこし咲いているところもあるが)。
 行き始めた当初、あるいははじめて訪れたとき、一面のラベンダーではないことに、多分失望をおぼえたはずだ。だがそれにも関わらず、毎年行くのは何故なのだろう。ひとつには、想像のほうが現実よりもゆたかであることと関わっているかもしれない。想像を前にして、現実にいくばくかの幻滅を感じてしまうこと。わたしにとって、想像のラベンダーの紫は、いつも全視界的に広がっているものだった。ラベンダーの球体にとじこめられるほどの、むせそうな香り、それが想像だった。はじめて行ったときは、なるほどそうした想像との差異を覚え、幻滅することもあっただろう。にも関わらず毎年でかけてしまうのは、一年のあいだに、忘れてしまうから、ということもあるだろう。忘れてしまううちに、想像のラベンダーの球体が跋扈しだす。かつ、写真に収めたそれらの花はかなり全視界的に一面の紫をかもしている。わたしは自分の撮った写真に毎年だまされてしまうのかもしれない。一年のあいだに、実際を忘れ、想像が幅を広げてしまうのかもしれない。あるいは訓練かもしれない。現実と想像がちがうことは、一度いけばわかるはずだ。写真に撮ったそれと、現実がちがうことに慣れていったように。これらの違いに頷かなければいけないのだと思ってもいるのかもしれない。想像と現実は違う。だが、その違いたちをなんとか結び付けようとしているのかもしれない。
 今回、行ったときも、やはり、ああ一面の紫ではないなと思った。だが、それに失望することが、薄らいでいた。そして毎年、町ではラベンダーの株を殖やしているという。そして、自分で梅雨の時期に枯らしたことがあるから、なんとなく想像できるのだが、ラベンダーは乾燥しているほうがよく育つものだから、多湿の本州では栽培が容易とまではいかないはずだ。そうしたラベンダーの花のうしろでひろげられたことも、ようやくわたしの目のうしろに入ってくるようになったのかもしれない。ラベンダーはひとりでに咲いているわけではないのだ。今年の紫は、やさしかった。

 似たようなことかもしれない、香りのこと。ラベンダーは、意外と匂いがしない。香料やアロマオイル、ハーブとしておなじみの花でもあるから、もっとラベンダーの畑からは匂いがするものだと思っていた。そしてようやく香りが漂っていると思ったら、特産品としてテントをたてて売っている、香水やポプリからの匂いだったりする。香水やポプリの香りは充分知っている(というか、うちにも沢山ある)と、これまではやはりそれを少しだけ避けていたと思う。せっかくラベンダーの畑に来たのだから、花本来の香りを嗅いでみたいと。この場合は、ラベンダー畑から漂うはずの匂いが、妙なたとえになってしまうが想像で、加工品が現実ということになる。この場ではひとまず、想像の世界だけを追求したいのだと。そして、それから、現実とくみあわせようとしたのだと。
 だが、今年はやはり、香りに対しても考えが変わった。両脇に咲いたラベンダーの花の間の小道を歩く。かすかに香りがする。おそらくテントから漂ってくる匂いもまじっているだろう。だが、そのことが少しも気にならなかった。というよりも混じったもの、それがこの会場の香りなのだと思った。ラベンダーがひとりでに咲かないこととも、このことは重なるが。
 ラベンダーのアイスクリームを食べる。紫色で、うっすらとラベンダーの香りが口のなかを伝わる。

 写真も、撮り方が今年は少し変わったかもしれない。一面であることの呪縛から少しだけ解き放たれた。そして、またピロスマニの描く動物の影響だ。ラベンダーに蜂がいた。ミツバチと、そしてもっと大きなハチ(クマンバチ?)懸命に蜜を吸うすがたにひかれ、写真に収めた。モンシロチョウや、やはり名前のわからないチョウもよってきた。多分今までも、こうした虫たちは蜜を吸いにきていたはずなのだ。だが、ほとんどここで見た記憶がない。虫たちはいつだって吸いにきていたのだ。ラベンダーに蜘蛛の巣がかかっている。



 この頃、その現実のほうで頭を使っていて、すこしばかり朦朧としていた。苦手な数学的な要素のこと、知らない考えかたを連日学んでいる。そこでの人との接し方も気を遣う。家に帰ってくると、頭が酸欠状態になっていて、よくないことのように思うが(創作に大部支障をきたしている)、多分、こうしたことが現実だというのなら、それは想像の世界ともかかわっているだろう。
 その酸欠のなかで、うっかり買い忘れていて、ようやく手にした『週刊 西洋絵画の巨匠 ムンク』(六月二十三日発売だったらしい)。
 「ムンクは、その時々の心のもちようで、人物や風景の見え方がずいぶん違うことを、絵を描きはじめた当初から気づいていたという。心が動揺していれば、夕焼け空はより赤く見えるし、風景の細部はぼやけてくる。(…)いわばムンクは、心の移ろいをカンヴァスに直接、描こうとしたのだ。(…)彼が描いた「心の風景」は、不思議なほどの現実感をもって、目と、そして心に、迫ってくるのだ。」と冒頭にあった。
 今年のラベンダーが、一面でなくとも迫ってくるものがあったのは、つまり(というかあたりまえなのだが)わたしの心の持ちようなのだ。そして、ムンクが描く作品が現実と想像のまぎれもない密着した関係性のなかにあるということに、後押しされるような力をもらった。では、わたしも書こう…。想像と現実たちが、池すらわたしに差し出してくれたのだから。

 それはどういうことかというと、一面のラベンダーにとらわれていたわたしは、ラベンダーの咲いている土手のすぐ脇に調整池があるのに今まで気づいていなかったのだ。水が好きなわたしには考えられないことだ。そう、心の持ちようなのだ。ハチ、チョウ、そしてどこかでウシガエルが鳴いていた、テントでは、ドライフラワーにしたラベンダーの茎で花を編みこんで、ポプリの代わりに使うバンドルを作っている。そのことを含んで、この場はあるのだ。



※ラベンダー・フェスティバル(7月5日まで)
http://www.town.shobu.saitama.jp/kaika/festa.html
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