Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-08-25

アポトーシス、『聖なる春』の手前で、死と生が、均衡を。


フェルナン・クノップフ《見すてられた町》一九〇四年

 今回こそ、ここを休もうと思っていた。身辺が忙しく、書く時間は締め切りのあるものに当てるだけで、ほかを手につける余裕がほぼなかったので。だがどうも五の日が近づくと(つまり、この日記の更新日が近づくと)、休むことに罪悪感を感じて落ち着かなくなってしまう。誰に罪悪感を感じるのだろう? 私にだが、それも何か私のなかの詩人的な人物に対して感じてしまうのだった。ここに書いているのは、日記と称しているが、厳密には日記ではない。そしてもちろん詩でもない。たぶんその間のものだ。そしてそれがなくなると、バランスがくずれてしまうもの。それは日常と創作の間で均衡をとるものでもある。ここを休むことに、おそらくこの均衡がとれなくなるような恐怖感がある。
 これは日記ではない、だから心情吐露はご法度だ。怒りによる感情的なものも。それが狭間にならない限りは。
 だが少しだけ。狭間に引き寄せながら(なんとか、狭間のほうへ)。まったくの善意、あるいは考えなしの挨拶程度なのだろうが、子供はつくらないのか、といわれることがある。子孫を残すことは人類の義務だとまで言われたことがある。この傲岸な言葉には怒りよりもあきれた。それに義務ということばも枷のようで苦手だ。ともかく、その度ににこにこしながら裏でかなり不愉快になっている。なぜだろうか。図式的な質問に思えるからかもしれない。特に詩などに携わっている人からのこの手の質問にはうんざりする。女性だから子供を生むというのは、短絡的すぎるような気がする。もっとつきつめて考えてほしい、あるいは尊重して、放っておいてほしい。
 前回も、シャネルの「作品が私の子どもだから」という言葉にシンパシーを感じていること、そしてそれこそが私が子どもを持たないことの理由になるのだ、といったようなことを書いた。だが多分、それだけが理由ではないだろう。そのことを突き詰めて考えると、何か自分のなかの禁忌にさわってしまうような恐怖もある。子どもは作らないだろうとは思春期の頃から予感していたことだった。元々母性本能が希薄だということもあるかもしれない。むきになって、意地を張って、作らないと決めたわけではない(思春期の頃は幾分かはそうだったかもしれないが)。何故なのだろう…。どうも禁忌がやはりその先にありそうだ。わからないなりに、どこかでそこに触れるなと声がしている。
 先日、子どもを持たない人が、自分は自殺細胞だからといっているのをコミックで発見した。自殺細胞、つまりアポトーシス。ウィキペディアによると、「アポトーシス (apoptosis) とは、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のこと」とあった。子どもを産まない人がそれであるかは少し意味が違うと思ったが、この細胞はとても興味深い。オタマジャクシの尾がなくなるのも、アポトーシスによるとある。そして胎児の時に、一つであった指たちが五本にはがれるのも、指の間の細胞が死ぬからであり、癌細胞をとりこんで心中のように死んでゆくことも自殺細胞の特徴であるらしい(このために、多くの腫瘍の成長は未然に防がれている)。つまり、生きるのに良い状態を保つために死ぬ細胞である、ということ。これは生きるために死ぬ細胞ということだ。生きることと死ぬことが補完しあっている、バランスをとっている、ということでもある。ここにも狭間での均衡があったのだ…。
 『一九三四年冬─乱歩』が割と面白かったので、久世光彦の『聖なる春』(新潮文庫)を読んでいる途中だ。蔵の中に住んで(この設定がなんとなく『人でなしの恋』の乱歩っぽいと思ってしまう。彼は蔵の中で、こっそり人形を愛している)、クリムトの贋作をしている五十幾つの男が主人公。キキという、かつて画学生だった若い娘とつきあっているといえばいえる。あるいは二人で来ない春を待っている。そして、ここでは、生と死が同時に存在しているということもライトモティーフになっている。キキは、老人ばかり描く。というよりも、若い人物を描いても、末期近くの姿になってしまう。新鮮な果物ですら、腐った静物画に変わってしまう。「キキは美しい筋肉を持った男友達のずっと向うに、老いさらばえて苦しみ喘ぐ姿を見る。(…)キキの目には、桃や林檎や葡萄や──新鮮な果実たちが、西の空の落日に合わせて腐爛していくのが見える。」そう、生のなかに死を見ているといえるかもしれない。ここでも生と死が混在しているのだ。また、主人公の男(名前がない)には顔に火傷の痕がある。だから他者の痣などに彼はどうしようもなく惹かれてしまう。Qという知人の痣についての描写。「Qの痣には、変にいい香りがあった。何かが死んでいくような、それでなければ、何かが生まれてくるような、激しく弾けて飛ぶような香りがあった。」ひかれるものが、生と死の均衡なのだ。さらに、こんな生と死があった。「ほんとうに美しいものや、びっくりするくらい醜いものは、みんなそんな風に、隠れているものだ。たとえば軒が傾き、壁が崩れた廃屋の中、破れた屋根から滴り落ちた雨水がつくった水辺に、世界でいちばん美しい瀕死の蝶が翅を休めていたり、──昔の詩人が歌ったように、満開の桜の樹の下に、非道の盗賊の腐りかけた屍体が埋まっていたりするものなのだ。」
 生と死たちの奏でる、春がすみ寸前の人々。それは芽吹く寸前の、枯れたような根の刹那の詩だ。
 そう、これらの描写にとても惹かれてしまう。言葉に詩があると、痛切に思ってしまう。そして? どこかが呼び合うのだろうか。ここにはクリムトやら、引用に出て来る“昔の詩人”の梶井基次郎やら、私が好きな人物の名前ばかり、これでもかこれでもかと出て来る。『一九三四年冬─乱歩』を読んだときに、そういう予感があったような気もする。どこかしら、惹かれるものが似ているのだ。『聖なる春』の男は最初、ミレイの《オフィーリア》なども模写していた。キキは、ディートリッヒの『間諜27』を涙ながらに思い出す。キキの名前の由来の一部となった、モンパルナスのキキ、特にマン・レイの撮ったキキの背中(=コントラバス)の写真…。
 毎日、少しずつしか読んでいないのだが、その都度、散文詩のような文章、そして好きな名前に出会う。ディートリッヒは映画だけでなく、歌もでてきた。「望みは何と訊かれたら」。そして今日呼んだ文章、ベッドに眠る裸のキキの描写がまず詩だと思った、惹かれた。さらにその詩が…。「キキの体が、陽炎の向うに揺れて広がる一つの町のように見えて、ふと戸惑うことがある。なだらかな丘陵地帯に、横に長く伸びるその町は、春の風景にしては静かすぎてどこか空々しく、淡すぎて変によそよそしく、それなのに懐かしすぎて声を上げたくなる。(…)あの春の町は、クノップフが百年ほど前に描いたブリュージュの町だ。フランドルの詩人ローデンバックが〈死都〉と呼んだ、ブリュージュの風景だ。」ここからブリュージュを、死に絶えた墓のような町として描くクノップフと、死の間際を描くキキとの類似性が語られるのだが(以降も、心底ひかれる描写だ)、大好きなクノップフの名前がでてきて驚いた。まるで私のために書かれた書物のようだなどと、あのいにしえの歌人のように思ってしまう。なぜ私の大切な人々が毎日、ここに出てくるのか。何故私の大切にしている言葉たちを思い出させてくれるのか。「月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」(大江千里)
 クノップフ、そう、あの街たちを私も絵で見たことがある。それはひとはだのようにやさしい、そして心底さびしいものとして、私をまねく街だった。では私もまた、あの死が生にからみついた景を願っているのだろうか。同じ音がどこかで響いているのだろうか。「私とキキの間にあるのは、ブリュージュの町のあちこちに見かけられる運河のようなものだ。」そこを橋がそれでも渡されている。橋が均衡をたもっているのだ。「あの橋を渡りかけてはためらい、この橋の途中から引き返し、残照のフランドルの寺院の影の中に棒立ちになって溜息を洩らす、私は情けなく草臥れた、春の夕暮れの迷子である。」
 そういえば、クノップフも私のように子どもがいない。そして彼は晩婚だった…いや、それはどうでもいいことだ。
 そう、私もまた『聖なる春』の男のように思い出すのだった。思い出すことで、彼らとの間に橋が渡されるかもしれない。だが渡ることの手前で立ち止まってしまうだろう、迷子になってしまうだろう。それでも確かに橋がかかっているのだ。ディートリッヒ、ミレイ、クリムト、ジーン・セバーグ。あるいは《ブリュージュの思い出─ペギーヌ会修道院入口》。この絵では淋しい灰色が基調の運河に、睡蓮が昔の写真のように、ほぼそこだけがあざやかに緑色の葉を浮かべている。古い写真、モノクロームのアクトレスにただ一箇所着色された口紅のような鮮烈さ。それは死のなかに最後の均衡のように浮かんだ生だったのだと、やはり橋を思ってしまう。渡されたのかもしれなかった。
 今年は蝉の声を多く聞いたと先日書いた。そして蝉の亡骸も数多く見た。集合ポストの上に、渡り廊下に、玄関前に。生と死が均衡を保っているのだ。秋の虫の音が、日暮れとともににぎやかになってきた。わが身ひとつの秋にはあらねど。


フェルナン・クノップフ《ブリュージュの思い出─ペギーヌ会修道院入口》一九〇四年
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2009-08-15

ココ・シャネル、創造が風になびく


 映画『ココ・シャネル』を観てきた。
 場所はまた渋谷Bunkamura。ここにある美術館には、ずいぶんときているが、映画館(ル・シネマ)に訪れるのは初めて。知らないガラス扉を通って、奥のエレベーターで六階へ昇る。地下に降りてゆく美術館とは勝手が違い、よく来ている場所のはずなのに、初めての経験が混ざる。その混在がおもしろい。
 私はブランドとしてのシャネルには、食わず嫌いかもしれないが全く興味がない。そもそもブランド品などの服飾関係にお金をかけることに興味がないし、偏見もある。だから、私のその方面の審美眼はあやふやだろう。また好みの問題もあるだろうから、ここではそうした面には触れないでおく。
 だが昔、仕事でシャネルの歴史を凝縮したような本の製作に携わったことがある。シャネルは、一八八三年生まれ。今日これから話そうとしている映画は、生誕百二十五周年記念だというので(二〇〇八年制作)、あるいはこの本というのは、生誕百十年とか百十五年に関わるものかもしれない。手許に残念ながらないので、細かいところは憶えていないのだが、図版カタログか小さな画集のようにシャネルの宝飾品、香水、洋服などの写真とともに、彼女の略歴や言動などもかなりしっかりとした記述があるものだった。私がその文章を入力し、組み立てたので、なんとなく覚えている。
 いや、その前に古い映画が好きだった中学生の私の話をしよう。当時、マリリン・モンローは大好きというほどではなかったが、気になる女優だった。だからモンローが、シャネルのNo・5だけつけて寝るとインタビューで答えていたことを知っていた。その私はシャネルのNo・5が、裸の王様がつける衣服のように思えたものだった。それは本当に、見えないながらも香りがヴェールとなって包み込むもの、分かる人しか分からない代物のようだった。あるいは銀幕ということばと、こうしたイメージ、つまりNo・5のつくるヴェールが交じり合ったものとなっていったのかもしれない。まだ香りも知らないその香水の名は、条件反射のように古い映画の香りを想起させるものとなっていった。
 映画は、一九五四年、十五年の沈黙を経て復帰コレクションを開く七十一歳のシャネルから始まる。それは失敗に終わり、「失敗は何度でも味わっているわ」と、こんな失敗なんてたいしたことじゃないと、過去を回想して、若いシャネルと現在のシャネルを交互に見せてゆくのだが、そのコレクションに来ていた祝辞のひとつが、私の大好きなマレーネ・ディートリッヒからだったこと、不評を聞いて、ビジネス・パートナーのマルクから、香水の名声だけで余生を過ごせば良かったんだという趣旨のことを言われたときに、ふっと個人的な中学生の記憶が浮かび上がり、興味深かった。ここでも映画と香水が結びついていたのだ。
 この頃、頭が散漫になっているのかもしれない。話が寄り道ばかりしてしまい、しかも寄り道した先が、殆ど島のように孤立してしまい、本道に戻るのが難しくなっているようだ。ともかく、話を元に戻そう。
 そう、ブランド品としてのシャネルに興味はない。ならば何故、映画を観にいったのか。それは前述の仕事で彼女の略歴を知って、その人となりの一部に触れたことで、彼女に長らく尊敬の念を感じていたからだ。そして、特に彼女が言ったという言葉に、救いを求めていたところがあるからだ。それはこんな言葉だ。「作品が私の子供だから」。彼女は子供がいない。ロマンスは多かったが、結婚もしなかった。この言葉を知ったとき、私はまだとても若かったが、こうしたことに自身と共通点を感じていた。特に、たぶん私もこの先、子供は産まないだろうということに。同時に、作品が子供だと言えるほどの態度で、常に創作をしてゆかねばならないと彼女の言葉は、その時から現在まで、痛く後押ししてくれるものとなったのだった。
 シャネルの略歴をここで書いても、短いものとなるので、あまり伝わらないだろう。だからといって長く書くのも性に合っていない。では書かないでおくべきか。だがそれだと話が進まないので、映画と関係するところだけ簡単に。
 一八八三年、フランスで生まれる。本名・ガブリエル・シャネル。ココは愛称。孤児院で育ち、ムーランでお針子に。この頃、歌手などもしていたらしい。騎兵隊の将校エチエンヌ・バルサンに出会い、彼の屋敷で同棲。ここで貴族的な作法を身に着ける。一九〇九年、エチエンヌの友人のイギリスの青年実業家ボウイ・カペルに出会い、後に恋人に。この彼に、ビジネスのことを教わる。カペルの出資で最初に帽子店、次に服飾店を。一九二〇年くらいから、ディアギレフのバレエ団、コクトーやピカソの舞台美術などを手がけ、彼らとも交友を深める。一九二一年、シャネルのNo・5発売。映画では一九二〇年から復帰の五四年までの間のことは殆ど触れられていないが、映画衣装契約を数多くこなし、宝飾に力も入れ、一九三五年に最盛期を迎える。一九三九年に、香水とアクセサリー店などを残し、すべて閉鎖。ここから一九五四年まで十五年の空白期間がある。精力的な彼女が、何故?と思うが、第二次世界大戦中、対独協力者とみなされ、隠遁生活を余儀なくされたからだとカタログにはある。別の資料ではドイツの将校と愛人関係にあったからとある。そして復帰後は、また映画衣装も制作、一九七〇年シャネルのNo・19発表、一九七一年、住居としていたホテル・リッツ(中断はあるが、一九三四年から住んでいる)で死去。享年八七歳。
 映画では、五四年の回想と、エチエンヌとボーイ、二人との恋を主軸に語られる。この恋愛の話もとてもよく出来ている。特にボーイとのそれに惹かれ、恋愛映画としても優れていると思ったが、そのほかで気づいたこと。シャネルの当時の新しさ、斬新な発想について、映像や台詞などで改めてわくわくしながら思い知らされたことだ。映画では、乗馬の際に、スカートが不具合だと思い、召使のズボンを着用する(これは当時では誰もが思いがけないことだろう)。上流社会で屋外で被られていた帽子に、麦わらの素材が労働者階級のものだということで存在しなかったのに、自ら作り、それを被ってポロの試合だったかに赴き、デモンストレーションする。第一次大戦の頃には、避暑地ドーヴィルで店を出していたのだが、戦時下の女性のために、動きやすい服や寝巻きのまま逃げれるような服を考案したこと、召使がいなくても独りで着易い服を考案したこと、また先の麦わらのように、労働者階級か肌着でしか使わなかったジャージー素材を用いて服を作り、やはり自らの服を着て、歳の近い姉のような叔母アドリエンヌ(彼女との親密な交流は一九五四年でも見られた)と海岸通りを練り歩いたことなど。
 私はこういう既成観念にとらわれない創造が好きだ。そして、それは社会のニーズに応えている。映画では、「戦争中でも女は服を着るわよ」と言っていた。こうした発想の豊かさに触れると、わくわくとする。
 ちなみに、他で知ったのだが、シャネルバッグは皮とチェーン両方のヒモがついているが、あれは万が一を考え、どちらか一方が切れてもいいようにとのことで、ファッションに機能性を持たせているのだそうだ。
 彼女の発想の斬新さは、一九五四年でも揺るぎがない。姪がパーティに出かけようとしているとき、それじゃだめだと、窓にかかっていた白いカーテンをストールのようにかぶせてやる。「伯母様、それはカーテンだわ」と姪がいう。「いいえ、これはシャネルよ」。
 そして、当時の社会との関係といえば、女性は男性に依存してゆくものだった。身分ある男性の庇護を受けたり結婚したりすることだ。だが生まれた階級から逃れることは難しかった。歴然とした身分差があったのだ。シャネルは孤児だった。映画では、彼女の愛称の“ココ”は、酒場で歌った“ココ”という歌にちなんでつけられたものとしているが、“ココット”、つまり高級娼婦から来ているとの説もある。エチエンヌやボーイと結婚しなかったのも、身分違いの問題も絡んでいる(映画ではその後の恋に関しては触れられていないが、やはり身分差で成就しなかったものも数多い)。大使夫人からも、囲われ者のくせに、男を食い物にする教養のないお針子、などと様々な機会に意地悪をされる。こうしたことに、無論傷つくが、それにしなやかに立ち向かってゆく姿にも惹かれる。彼女の着る服は、そうした境遇を目立たせないように、地味なものも多かったという。それが後のシャネル・スーツに生かされてゆく。またシャネルは、他のデザイナーや紳士から、「工場で働く女と、上流階級の婦人が、同じ服を着ることになるのかね」と揶揄されたように、かなりその服装において、身分の垣根を取り払ったといえる。また、映画ではこんな台詞もあった。「女は男のためでなく、自分たちのために装うべきだ」。
 あるいは、私のこの頃の関心に引き寄せるなら、社会や日常が、創造に関わっているともいえるだろう。一九二六年に、「リトル・ブラック・スーツ」を発表する。それまで喪服としてしか扱われなかった黒が、ファッションとして登場した画期的なものだったらしい。このことは、映画では一九五四年、失敗したコレクションの後で、二回目のコレクションを準備するシャネルと、負債を考え、それを阻止しようとして、ほぼ仲違い状態まで陥ってしまうビジネス・パートナーのマルクに向かって、しみじみと語られる。あれは私にとって、喪服だったと。映画に関してはネタバレになってしまうが、ボーイが一九一九年に亡くなる。“小さな黒い服”は、その死を悼んで作った創造が発端だったのだ。
 自分の関心に引き寄せて、考えると、映画では、ボーイは、上流階級に属する人物だが、母がユダヤ人で、父ともなさぬ仲だったらしい。イギリス人だが、イギリスには居場所がない、故郷がないと思っている。シャネルもそうだ。フランスで生まれたが、母を早い頃に亡くし、父はアメリカに渡ったきり、帰ってこなかった。彼女も故郷がないと思っている。周縁で、創造する人々。創造の場こそが、故郷なのだ。
 そう、先ほどボーイとの恋の描写に惹かれるといった。彼らはいろんなことがあったにせよ、共通するものが多かった。ところで、映画では、彼との思い出があるホテル、初めて結ばれた場所が、ホテル・リッツだった。ホテル・リッツは、後のシャネルが住居としていた場所だ。五四年、マルクと仲直りする場所も、ホテル・リッツ内のカフェだった。ここは大切な場所だと、シャネルは言っていた。
 こうした符丁めいた映画の作りも、映画ならではと、うれしくなる。小説などでももちろんできるが、映像ならではの作り方がある。ボーイが亡くなったとき、シャネルがあげた白いマフラーが傍らでゆれていた。そのマフラーは、後年、自分の姪にかぶせた白いカーテンとも重なる。ホテル・リッツのカフェにも、白いカーテンがぶら下がっていた。 そして、構成でいえば、映画冒頭は五四年の一回目のコレクション、それから二回目のコレクションを開くまでの間に、シャネルの回想がはさまれてゆくのだが、一回目と二回目が、同じ場所(カンボン通りの店)、殆ど同じ背景で行われ、モデルも同じ、モデルがもっている紙切れにかかれた番号も7番から始まっているところも同じである。つまり回想が五四年のコレクションに円状に囲まれている。よくある手法で、親しみを覚えた。もちろん、そこからはみ出すところが多々あるのが、またいい。二回目のコレクションでは、マルクもにこにこしている。シャネルも生き生きしている。ミラーハウスのように鏡がならべられ、そこにシャネルの服を着たモデルたちが幾重にも映る。たしか、冒頭では万華鏡のようなこの映像はなかったはずだ。その多重になった服装の色彩が華やかで、観客たちの賞賛の賑わいとさらに重なる。一度目とは似ても似つかない成功の場面を、よく演出していた。
 映画で、気持ちよく見れたのは久しぶりだ。映画館を出たとき、晩年のシャネルのようにすこし猫背になっていた。いい映画を観たあとの特徴だ。ブラウスが風になびく。この風になびく感触が、映画のなかのあの白いカーテンや、ジャージー素材のスカートがはためく映像と重なった。

『ココ・シャネル』(COCO CHANEL)/監督・クリスチャン・デュゲイ/出演・シャーリー・マクレーン(一九五四年のシャネル)、バルボラ・ボブローヴァ(回想シーンのシャネル)、マルコム・マクダウェル(マルク)/二〇〇八年/イタリア・フランス・アメリカ/一三八分/配給:ピックス

ル・シネマ
http://www.bunkamura.co.jp/cinema/index.html

ココ・シャネル 公式ページ
http://coco-chanel-movie.jp/index.html
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2009-08-05

蜩、虫愛ずる夏。裂け目を水平に声が。




ルネ・ラリック《セミ(小箱)》1902年、箱根ラリック美術館

 こちらに越してきてはじめての夏。気がついたことは、東京だというのに、虫が多いこと。マンションに住んでいる。日々、渡り廊下のある階段を通る。カナブンやカミキリムシが止まっている。自転車置き場ではバッタがはねる。カマキリが自転車のカゴに乗っている。ミンミンゼミがやけに近いところで鳴いていると思ったら、一階の垣根をかねた樹木に止まっている。生きている彼らだけではない。死んでいる彼らを眼にすることも多い。ほぼ毎日、マンションの入口から、自宅扉を開けるまでの間に、死んだ彼らを見かける。名前がわからないものもある。コガネムシ、蛾、そしてまたセミ。どちらかというと、こうした死を見かけることで、虫が多いと感じていることが妙だった。
 わたしは基本的に虫はきらいではないかもしれない。どうしてもだめな、ここで名前を出すだけで確実に気持ちが悪くなる虫も一つだけあるが(だから名前を出さない)、ほかの虫たちには、なにかしらシンパシーを感じるのだった。それには懐かしさとかも混じっているかもしれない。団子虫をころがして遊んだ。バッタを追う、トンボを追う。芋虫を飼って蝶になるのを待ったこともある(蝶になったら逃がしてやった)。アメンボ、ゲンゴロウを川で見る。ナナフシやカマキリの細い肢体にもなぜか惹かれた。冬だったか、カマキリの卵が枝に張り付いているのを目撃したこともなぜか印象に残っている。小学生の頃は、割と林の近くに住んでいた。夏の夜、光を求めて網戸にさまざまな虫がやってきた。カナブン、蛾、そしてごくたまにクワガタ。わたしはある程度虫愛ずる者、だったかもしれない。そして虫に対するシンパシーには、日常と非日常との関係でいえば、どちらかといえば非日常の側にいるものとして捉えていることも混じっている。休みなどに、海や山にいく。すると日頃お目にかかれない虫に出会う。夏の蛍はその代表だろうが、セミの声も町よりは多い。民宿かどこかで大きなムカデが壁をつたっていたこともあった。わたしにとって虫たちは、祭りの雰囲気を持っているものでもあるのだ。蚊柱すら、陽炎のようでものめずらしく、異和をもたらすものとして映るだろう。
 今住んでいるこの場所あたりに虫が多いのは、土が多いこと、そして近くに公園などがあり、木々が多いことによるのだろう。ほんの少し遠回りをして、朝、駅に向かう途中、公園脇の遊歩道のようなところを通る。このあたりは田畑が多かったらしく、そこには野川からひいていた用水路を何百メートルか復元し、それを利用して田んぼを作っていて、今の時期は緑の葉を茂らせた稲が植わっている。今日は虫の話をしようと思っていたが、すこしそれる。用水路は、冬から春にかけては比較的水が澄んでいた。五月末だったか、それまでレンゲ畑だった田んぼに水が張られ、稲が植えられる。…ここで、また、さらにそれる。小学生から高校生まで住んでいた場所に、田んぼがあった。小さい頃から水が好きだったわたしはこの田んぼに水を張っただけの状態を見るのが楽しみだった。それはたくさんの池のようで、畦を経てそれらが広がることで、さらに大きな池、つぎに湖、最後に海を想像させた。そのあたりは一万五千年前まで海だったと、学校で教えられたことも頭のどこかにひっかかっている。田んぼに囲まれた道を通るたびに、これらの水の連なりにわくわくとしたものだった。あるいは眼前に通常とは違う、未知の風景を表わしてくれることに対する感動だったのかもしれない。異質な日常はこんな風にやってきてくれるのだ。


 そう、話を一つもとにもどそう。田んぼに稲を植える。すると用水路がにごる。泥水になるのだ。これは今いっている公園脇だけではなかったので(ラベンダーを見に行った菖蒲町の見沼代用水などの用水路もそうだった)、一般的なことなのかもしれない。おそらく田んぼの土が水路に流入することによるのだろう。
 それは雨が降ったあとの川のようだった。水好きの私は、それをみて最初、すこしだけ淋しく思ったが、稲が生きている証拠なのだと思いなおす。あるいは日々、そこにいないと見えない変化なのだ、それをこうして感じているのだと、日常をつうじて彼らとふれあうことにぬくもりのようなやさしさを感じた。用水路はゆっくりと泥をおとし、元の流れになってゆく。まばらに植わっていただけの稲も日々伸び、近頃は腰の高さぐらいまであるだろうか。今では水はなく、固い土がひびわれている。最初は水草のような稲のまわりの水にアメンボが泳いでいるのが見られたのだが。
 そしてようやく虫に帰ってくる。夏の今、このあたりはセミが多い。今朝もセミの声が窓の外から響いていた。家の付近、公園ではミンミンゼミ、アブラゼミ。まれにツクツクボウシ(これはまだ時期が早いことによる)。セミの場合、見かけて多いと感じるのではないことに気づく。そう、鳴き声でそれを感じるのだ。あげた順に、ミーンミーン、ジジジジジ、オーシーツクツク…。
 もともと夏が好きだった。じりじりと肌を太陽が焼く。あの熱気が太陽と近しいことを実感させてくれるようだったから。夏の木漏れ陽も好きだった。葉の模様が海の水の波紋のようで、さらに暑さにより噴出す汗が、海と成分が似ていることからか、よけいに水を感じさせてくれたから。もちろん葉も、わたしの肌に限りなく張り付いてみえるのもうれしい。ここにはいつもセミがいた。目撃者のように鳴いていた。
 今はそれほど夏は好きではないが、セミは条件反射のように、それらの記憶を思い出させてくれるのかもしれない。太陽と海と葉に近づいた折の記録係のようにセミが鳴く。
 セミに特に惹かれるのは、どちらの理由が先かわからない。今触れた理由からか、彼らの地上での生活の短さを知ったゆえか。小学生の時に、彼らの生態を知った。地下での幼虫時は七年(今、少し調べたが、種類によって違うらしい。三年から十七年)、成虫になって七日(これも現在は一ヶ月が定説らしい)。それは夭折にたいするある痛みのように、セミたちを痛みをもってみつめる契機となる。
 ともあれ空蝉が、源氏で語られると知る以前から、セミの抜け殻が宝物のように輝いてみえた。それは化石のように、彼らが生きた証だった。夏が来るたびに、セミの声がやさしい。ほそれは、わたしのなかで歳時記となっている。ほかの虫たちにもシンパシーがあるが、セミは鳴き声として、音を介して伝えてくるので、姿から訪れてくる彼らとはすこしちがう。セミのそれは大切な音楽である。
 田んぼのある公園をもう少し駅のほうへ向かう。ここで以前書いた、坂になっている、湧き水のある緑地にでる。きつい勾配のてっぺんに、ミレーやルノワールが描いたような、小道のある林が広がる。カブトムシがくるらしい。幼虫のためにえさになるというクヌギの落ち葉を集めていると、看板が立っている。桜の季節も美しかった。竹林もある。筍の成長の早さにふれられ、おどろいたこともあった。一日でぐんぐん伸びる。紫陽花が垣根のように咲いている箇所もあった。ホタルブクロ、カンゾウも咲いていた。こちらも、こうして通るたびにわたしになにかを与えてくれ、好きな場所になりつつある。いや、もうなっている。
 この緑地では、先にあげたセミのほかに、カナカナが鳴いている。ヒグラシ。漢字で書くと蜩、茅蜩、日暮など。彼らの声が今はとても好きだ。カナカナカナ…。古来、高めのその声は、悲しい美しいものとして捉えられていたようだ。朝や夕方の少しばかり暗い時に鳴く(曇りのとき、薄暗い林のなかでは真昼も鳴く)。その悲しげな声が、「日を暮れさせるもの」として“日暮し”とつけられたという。
 今はとても好きだといった。なぜかというと、ふしぎなことに虫愛ずる盛りだった小学生の頃、あまり聞いたおぼえがないからだ。音楽にたいする関心のようなものだろうか。大人になって、響いてくる音がある。たとえばバッハやヴィヴァルディ。これは小学生のときにきいても良さがわからなかった。それと似るのだろうか。そしてカナカナ。いつから好きになったのかわからない。二十歳を過ぎていた。気がついたら声をいとしく思っていた。海をみるたびに、切ないような気持ちになる。それと似て、カナカナの声を聞くたびに切なくなる。どこか深い裂け目(それは垂直ではない、水平だ)をとおって、声はさってゆく。
 なぜ好きになったのだろう。懐かしさでもない。どちらかといえば異質さのためだろうが、それだけでは語りつくせない何かが彼らにはある。裂け目から非日常がつたわってくる。それは日常とのかけはしであることを、悲しいと思えるその声でふるわせてくれるからだろうか。いや、もっと…。
 理由は複雑にからみあっているだろう。彼らは好きだが、残念なことに、あまり鳴き声を聞いたことがない。広葉樹林や杉、ヒノキにいるというから、わたしがこれまでいたあたりにそれらが生えていなかったのかもしれない。もしかすると、小学生の頃にもまわりにあまりいなかったのかもしれない。そして思い出す。あの頃は、どちらかというとツクツクボウシを悲しいものと感じていたと。たしかあれは八月の半ばぐらいから鳴く。夏休みも後半になってのころだ。学校が苦手だったから、もうまもなく休みがなくなるのが悲しかった。そんな折に鳴くそれが、季節を教えつつ伴奏してくれるもののようでどこか物悲しく思ったものだった。


 なぜ今日は話がそれるのだろう。カナカナはあまり、鳴き声を聞くことがない。だから好きな現在、それを聞くと釘付けになってしまう。めったに聞けないからこそ、非日常からの使者の演奏と感じられるのだろうか。ほとんどそう思っていた。
 ともかく、先ほど話しかけてやめた高台の緑地にまた帰ってこよう。駅に向かうには結構な坂を登らなければいけない。最初はきつかったが、なれるものだ。それに両脇を木が覆っているので、暑さが薄らいでいる。緑地に接したあたりは、どこか郊外にサイクリングに来たような錯覚も生じるぐらいに緑が深い。道からみえる頂上には桜が咲いていたこともあった。今は百日紅が咲いている。百日紅はまだ咲いているが、そんな風に眺めていたのが十日ぐらい前だ。セミは鳴いていたが、アブラゼミやミンミンゼミだった。そして七日前、五日前ぐらいだったろうか。朝、突然カナカナの声を聞いた。信じられなかった。そして同時にやはりと思った。信じられないというのは、駅に向かうという日常の行為のなかで、非日常の声を聞いたからだ。そしてやはりと思ったのは、このあたりで今まで見てきた、虫の多さによる。こんなに様々な虫がいるのだから、カナカナもきっといるはずだ…わたしはどこかでそう思っていたのだ。この山には湧き水だってあるのだ、それにカブトムシもやってくるんだ、ならばカナカナだって、いて当然だ、そんな風に。
 そう、この緑地はわたしにとって、日増しに大事なものになりつつある、信頼すべきものになっているのだ。日々のなかに、新鮮な親しみを通して非日々的なものを差し出してくれる。好きな水が湧いている、好きな絵の世界を想起させてくれる、そして桜や様々な…。好きなものばかり、渡してくれる、ここでカナカナを聞くのはとくに相応しいことのように思えたのだった。
 カナカナの声を坂の途中で聞いたその朝、熱に浮かされるようにして、ぼんやりしながら、わたしは駅に向かう道をそれて、そのまま緑地に入っていった。日々の裂け目を水平に縫うようにして、つきぬける高い声がある。いや、それは往還する声だ、こちらになにかを伝えてくる…。聞けることがこんなにもうれしい。このうれしさには、この緑地に対する信頼もあった。おそらくここなら、“わが身ひとつのセミにはあらねど”だが、しばらくは毎日聞かせてくれるだろうという奇妙な安心があったのだ。
 以来、朝夕ここを通るのだが、その都度、信頼に答えてくれるように、カナカナの声を聞かせてくれる。めったに聞かない貴重な声が、この短い期間ではあるが、日常的に響いているのだ。そのことでわたしは慣れてしまうだろうか? 慣れて磨耗して、声をとおして裂け目を感じなくなってしまうだろうか? そんなことはまったくなかった。期間が短いと知っているからかもしれない。いや、彼らは多分、わたしにとって海のようにゆるぎなくも境目にあるものになっていたのだ。境目というのは、日々と非日々の境目ということだ。あるいは日々と創作。わたしは海の傍にはいない。だがおそらく海辺で暮らしたとしたら、彼らにあきることは決してないだろう。断言できる。それはちょうど、今のように川の近くに住んでいることに喜びを感じていることとも似ている。このことに飽きることはない。川は日々、ちがう表情をみせてくれる。
 緑地のカナカナは、あたりまえだが、日によって、鳴く個体数に差がある。ほとんど数匹の声のときもあれば、合唱のように緑地全体から響いていることもある。合唱はめったにない。だが、はじめてこれを聞いたときには驚いた。寂しい声と思っていたものが大合唱されることで、寂しくなくなるだろうか? あるいは寂しさが増長されるだろうか。どちらでもなかった。それは不似合いな賑やかさかもしれないが、わたしが最初から感じられる寂しさのまま、裂け目をふるわせていた。なんといえばいいのだろうか。わたしが好きな画家があるとする。彼にひかれるその根底は変わらない。だが、今見ているそれがたまたま大画面であった、そんなことと似ているかもしれない。そう、緑の画面いっぱいにカナカナが鳴り響いている。わたしはこのなかにだいぶ長いこといた。絵を前にするように。彼らからなにかを受け取りたかったのだ。そして? 日常はこんなふうにいつでもどこでもほころびをみせているのだ。
 今朝、住んでいるマンションの渡り廊下で、カナブンがまた死んでいた。野川ではカルガモが親子で隊列を組んでいた。そして緑地では? 杉の木を発見した。ここにカナカナはくるのだろうかと思う。今日は緑地のなかでも特に声が遠い。一匹だけかもしれない。明日もだがまた鳴いているだろう。高台から一箇所、下から湧く水が見える場所がある。白い流れ。春、竹の子供だったものは、もはや親と区別がつかない。クヌギを集めています。カブトムシがやってくる。湧き水のほうで、カナカナが鳴いたようだ。よかった、今日もまた聞くことができた。この寂しさは謎なのだ。それは寂しいまま、わからないまま手渡しを…。季節が水平に周っている。
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