Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-09-25

オルセー美術館展(世田谷美術館)、背中あわせの渡し舟



 世田谷美術館に、《オルセー美術館展 パリのアール・ヌーヴォー ─十九世紀末の華麗な技と工芸》(二〇〇九年九月十二日─十一月二十九日)に出かける。
 家から数キロしか離れていないので、自転車で出かけることにする。美術館に自転車で行くことは、ここ十年ほどないことだった。たいていは電車、あるいはここはいつも車で来ていた。つまり乗り物は美の世界に行くための、儀式、渡し舟のようなものだった。それは私が運転するものではなかった。乗るのは私の意志だが、私は車の免許も持っていないので、美の世界に行くのは、誰かしら運んでくれるものが必要だったということだ。それがこのように自転車という乗り物、つまり自分が運転し、自分が漕ぐというもので来れることが奇妙だった。運んでくれる者、船頭さんがいない。ペダルを漕ぐ。カゴには地図が入っている。自分一人で行かなければいけないのだ。美術館は砧公園という、緑の中にある。公園へサイクリングに行くようでもある。まずはいつも駅にむかう道だ。右に折れる。ツタヤ、薬屋、もうすこしまっすぐいくとスーパーだ。帰りはそこで買い物をしてもいいと思う。この前から書いていることだが、特に電車での移動ではないことが、日常がさらに美と離れていないように思える。これは奇妙というより、こそばゆい。そして心地よい。美はそれほど構えなくてもそばにあるのだ。
 就職がようやく決まったので、土曜日に出かけた。私は日常がどうしてか苦手だ。美は美としてわけて考えてきた。それも隔たりを産むことになるだろう。だが、分けることはある程度は必要だと思う。美は幻想ではないが、例えば幻想と現実は背中合わせの関係にあるか、らせん状に触れ合っているが、それは分けられていることで関係を保っている。両者が分けられなくなれば、混沌と化してしまうだろう。そういうことだ。私は今まで現実を幾分ないがしろにしてきた。だが、もっと密接なのだ、それを見つめよう、捉え直そうとしているような気もする。
 庭で、路地で、道端で、彼岸花が咲いている。昔のようだと思う。昔というのは、私が経験した過去のことというばかりではなく、秋の今時分になると、昔から、あちこちで彼岸花が見かけられたのだろうということに対する、感慨のようなものだ。行く途中の砧公園の縁に、特に彼岸花が密集しているところがあった。父と娘であろうか、向こうから自転車二台でやってくる。すれ違いざまに「あー、赤い花がいっぱい咲いてる」「彼岸花だねえ、もうそんな時期になったんだね」と声が聞こえた。


 公園の中に入る。入口は後で気づいたが、美術館の裏側に近いところだった。ここにも彼岸花が咲いている。椅子の上にカゴが乗っており、中に展覧会の割引券が入っている。緑に囲まれていることで、栗でももらったような気持ちで一枚もらう。ここにくる途中、そういえばザクロが熟していた。
 事前に確かめたとおり、美術館の入口近くに駐輪スペースがある。停めるときに、公園に来たようだとまた思う。美術館に来たことと、自転車との間にまだ違和があるのだった。建物脇には、池が作ってある。渡り廊下からよく見えるだろう。前もあったのに気づかなかった。気づいたことが、なにかやさしい飛沫となる。


 展覧会は、七部構成、一・サロン、二・ダイニングルーム、三・書斎、五・貴婦人の部屋と、十九世紀末のフランスの室内をイメージして展示してある。おまけに入口すぐに、当時の家、当時の室内を映したビデオ上映が玄関のように出迎えてくれる。私たちは、十九世紀の邸宅に入ってゆくのだ。
 まずはサロン。これは客間ということになるだろうか。演奏会や朗読も行われる。文化的芸術的交流の場。今となっては、それに外国のことだし、なかなか想像がつきにくい。知識としては解るが(例えば、プルーストの『失われた時を求めて』のなかで沢山出て来る)、そうした社交の場を懐古的に思うことはない。憧れることもない(私は人が集う場は基本的に苦手なので)。だが、そこに展示されていた家具には、めずらしく惹かれた。例えば、作者不詳の《フロア・スタンド 葦と蜻蛉の装飾》(一九〇〇年頃)。古色加工した金属で葉や葦、蜻蛉を造って細長い筒状の茎に装飾し、天辺に鍛鉄製のランプの花が咲かせている。鉄と植物の出会いが、新鮮だった。あるいはこれら葦や蜻蛉はジャポニズムの影響もあるだろう。当時は竹や籐製品も存在を知られていたということなので、茎や葉のカーブを見る限り、そうした影響もあっただろう。葉の曲がり方は、籐家具そっくりだ。だがそれよりも生活に自然が可能なかぎり融合してあることにひきつけられた。

作者不詳《フロア・スタンド 葦と蜻蛉の装飾》

 そして、エミール・ガレの《ゲーム・テーブル》(一九〇二─一九〇四年頃)。胡桃材の象嵌細工のテーブル。天板が折りたたみ式になっており、開いたときは大きなマロニエの葉の象嵌に、トランプの四つの絵柄(スペード、クラブ、ハート、ダイヤ)が落ち葉か光のように散っており、閉じたときにはマグノリアが象嵌され、つぼみのような姿で満開に花開く。木の家具ということだけで、自然に近しいのだが、さらに花を織り込み、生活に植物を散らしていることに感動を覚える。ここに入る前に見た彼岸花、ミズヒキ、オシロイバナ、夏から咲いている百日紅(次々と花が咲き、三ヶ月ぐらい花期があるので、この名がある)、八月を越すとどこか咲いていることに違和を感じてしまう朝顔の花。こうした花たちと目の前の家具の花たちがどこかで繋がる。ダイニングのコーナーにあった《花台》は、花を飾るためにあるのに、それだけでは不十分だとでもいうように、木の足や側面に、金メッキされた胴の花をふんだんに這わせていた。生活と花が結びつく。生活と美が結びつく。ここにある家具たちは、自然と生活が最後に共有できた何かのようだ。彼らはなぜだろう、このあと、決別を果たしてゆく。アール・ヌーヴォーの終焉により、家具は曲線的な装飾華美から、機能的なそれに変わってゆく。生活と美は、おそらく今でもこんな花たちとの関係のように繋がっている。自然と生活は別のかたちで手をつないでいるだろう。だが、アール・ヌーヴォーにおける装飾過多ともいうべきスタイルは存在しない。そのことに対する、寂しさをも私は感じていただろう。こうした植物や虫たち、あるいはエキゾチックなものとの融合は、もはや見られないのだから。

エミール・ガレ《ゲーム・テーブル》

 とはいっても、私自身もまた、アール・ヌーヴォー的なものは、そこまで好きではなかったはずだが。三の書斎にあった、《テーブル・ランプ“睡蓮”》(一九〇二─一九〇四年)は、睡蓮の花であるガラスがドーム兄弟で、それ以外がルイ・マジョレル作。睡蓮にしては、茎が長すぎるが、すっくとたちあがった姿が、意志のようで目をひく。そして薄桃色の花びらに浮かぶ葉脈の生々しさ。花が生きていることを温かく照らして咲くようだ。

ルイ・マジョレル、ドーム兄弟《テーブル・ランプ “睡蓮”》

 そしてラウル・ラルシュ《シャンデリア》(一九〇〇年頃)。下がばら色の雲といった半円のアラバスターのドームで、その上をブロンズに金メッキの蝶の羽の天使といった二人の子ども達が飛んでいる。夕景にかがやくばら色と金の空。家の天井に空があることにやはり自然を感じている。不思議なことだ。さっきからわたしは家のなかに自然を感じては喜んでいる。次の四のコーナーは建築家、デザイナーのエクトル・ギマールの作品。チラシやポスターにもなった、《天井灯》(一九〇九─一九一一年)は、蓋状の丸い銅と真鍮から、連なったビーズや細い筒状の白色のガラス、ぶら下がって円筒を作っている。二箇所、金の枠に青い着色ガラスがかかっている。写真でみた印象よりもずっと小さい。高さ四十一センチ、直径十九・八センチ。だが、写真でみるよりもガラスの青に惹かれた。それは海のようだった。まわりをとりかこむ白いビーズや筒状のガラスは、波頭や波飛沫のようである。つまり、今度は天井に海を見出したのだ。


ラウル・ラルシュ《シャンデリア》


エクトル・ギマール《天井灯》

 次が貴婦人の部屋。ここで、では私の部屋は書斎と貴婦人の部屋(無論貴婦人ではないが)の二つの要素を含んでいるのだろうとふと思う。それは書くための場所であり、装うための場所だから。エミール・ガレの《婦人用机 “オンベリュル”》(一九〇〇年の万国博覧会に出品されたモデル)が目に付く。こちらも象嵌の花や、足や縁に葉や花の装飾が施された豪華なもの。足に渡してある板に、蛙が五匹並んでいるのがどこかユーモラスだ。オンベリュルとは、小さい花が集まってできた花の総称のことで、ここでは机の天板や引き出しなどにセリ科の花ウドが象嵌であしらわれている。この机は何に使われるのだろうか。ドレッサーというわけではない。おそらくここで書き物もしたはずだ。ではやはり私の書斎と通じるだろうと、ちらっと思う。また花たち。このコーナーでは、当時の香水に近いものとして、ゲランの香水がどうにかして香るようになっていた。うっすらと花と板の匂いがする。展覧会のパンフなどには、書斎が男性的だとしたら、こちらは女性的で…とあるのもどこか面白い。

エミール・ガレ《婦人用机 “オンベリュル”》

 貴婦人の部屋に、ラリックが何点か展示されていたのは不意打ちだった。ガレの花ウドが、今度は髪飾りとなって、そこにあった。《髪留め“花うど”一対》(一九〇二─一九〇三年)。薄い桃色の角に彫刻し、花びらを作っている。小さなダイヤモンドが点在して置かれ、太陽の下でか、露のように輝いてみえる。それは自然との融合ではない、自然との対峙だった。花と別離しながら、花を愛するのだ。つまり分離しながら、その範囲内で花を求めるのだった。そして、この間、ルネ・ラリック展でも見られた《飾りピン“芥子”》(一八九七年)。じつはこの展覧会、二ヶ月ほど前に出かけているのだが、珍しくここの日記にそのことを書いていない。数は多いが、展示が無造作で、あまり愛情が感じられなかったり、不満が多かったのだ。それはおいておき、今回のようにこまやかな配慮が感じられる展示のなかで、この作品に出会えることは嬉しかった。七宝の花びらが細部にわたって、生き生きと繊細な輝きで力をみせつけている。めしべのダイヤが、ダイヤとしてではなく、めしべとして存在を放つ。それはか細いふりをした、強烈な個性だ。それは美の持つ生だった。それは本当に生きたものとして、そこに置かれてあるのだった。

ルネ・ラリック《飾りピン “芥子”》

 次の部屋が、六・サラ・ベルナール(一八四四─一九二三年)だった。ミュシャを見出した大女優だ。ラリックの宝飾品を身につけ、ワイルドから《サロメ》を捧げられ、プルーストの小説のモデル(ラ・ベルマ)にもなった。私は彼女が大好きだ。サラの部屋という案内を見たのと、ミュシャの絵を見たのは同時だった。ミュシャの《ジスモンダ》(一八九四年)が飛び込んできた。これはサラが次の舞台の為に急遽、印刷所にポスターを発注したおり、デザイナーが全員休暇を取っていて、残っていたのは、無名の新人デザイナー、ミュシャ一人だったという事情から彼に飛び込んできた大役だったらしい。このポスターが評判を呼び、サラはミュシャと六年間の専属契約を結ぶ。上目がちな女性の顔は、写真などでみるサラによく似ている。棕櫚を片手に、ビザンティン風の衣装を着た女性、モザイクが施されたようなタイトルは、どれも緊張感さえ見出すことができる、均衡をはなって力強い。急遽描かれたものだとはとても思えない。ミュシャの個性とサラの個性がぶつかりあい、見事な均衡を引き出しているのだから。ここには、サラが使っていたであろうという《肘掛け椅子“昼と夜”》(一九〇〇─一九〇六年頃)という、寄せ木象嵌で木のある風景を作った背もたれと足や肘当て辺りに中国風の彫刻が凝らしてある華美な椅子などが展示されていた。そして、サラ主演のサイレント・フィルム『椿姫』が数分、流れていた。一九一二年というから、サラは六十八歳だ。小さい画像だし、全身像だけなので、よくわからないが、とても美しい。彼女は大仰に(これはサイレント映画の特徴だ。声がないから身振りで表わすのだ)倒れていった。

ミュシャ《ジスモンダ》


サラ・ベルナール肖像写真 フェリックス・ナダール 1859年撮影(部分) (十代の写真)


ジョルジュ・レイ(推定)《肘掛け椅子 “昼と夜”》

 企画展を後に、カタログやグッズを買ったあと、二階にある収蔵品展へ。駒井哲郎が影響を受けたとして、メリヨンの銅版画に会えた事も嬉しかったが(彼の版画は、幻想と現実の境について真摯に視線を向けている)、稗田一穂の《豹のいる風景》(一九五二年)をはじめて直に見えたことも不意をついて嬉しかった。存在だけしっていて、ルソーに似た描写に惹かれていたのだが、生で見るそれは、思ったよりも豹に透明感があった。それが幻想すれすれだとでもいうように、豹の黄色い肌が透けて見えるのだった。日々と現実はこんな風に均衡を保っている。かつつながっている。
 自転車に乗って帰路へ。近道をしようとして道を間違える。地図を開く。コスモスが咲いている。知らない横道を走っていたと思ったら、いきなり知っている道に出たので驚く。驚きもまた、通路だ。背中合わせになった渡し舟だ。すぐ裏が湧水池になっているスーパーへ向かう。池を囲む茂みに彼岸花が咲いている。

展覧会HP http://www.orsay2009-10.jp/index.html
世田谷美術館HP http://www.setagayaartmuseum.or.jp/
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2009-09-15

うみのいろ うみのかたち(ブリヂストン美術館)。の間を往還する。


 日本橋界隈に出かけた。そこでいくつかの用をすませ、地下鉄に乗ろうとしたら、ブリヂストン美術館を指し示す矢印がある。馬喰町、日本橋、京橋、東京駅、銀座。駅でいうと数駅あったり、路線も変わるので、距離がありそうだが、この辺りはとても近接している。日本橋をほんの少し歩いたと思ったら、もう京橋に来ていた。大きなキリンの像がある。そこを曲がれば東京駅。そしてもう少し歩けば銀座だ。地名からくる距離感と、実際の距離の短さとの隔たりに、すこしめまいのようなものを覚える。この感覚はわるくない。歩くことで、地名と実際の場所の間を往還しているような気がするからだろうか。言葉と言葉の指し示しているであろうものの間を、絵と実際のものの間を(こういうとき、わたしはマグリットの絵を想起してしまう)。
 それは現実と創造の間のようでもある。その間をふっと思いがけずに往還するのだ。この日の大元の用事は実は面接だった。それが済んで、気が付いたらブリヂストン美術館が近かったのだ。元々ここのコレクションが好きだった。しかも、たしか今は海に関するテーマ展示のはずだ。海好きのわたしとしてはぜひ行かなければならない。キリンの巨大なオブジェ(建物2階建て分ぐらい、六メートル以上)を曲がらずに中央通りの交差点を渡る。ちなみにキリンは八重洲通りと中央通りの交差点にあるツムラビルというところにいる。鍛金彫刻家安藤泉氏の作品。一九九三年からキリンは住んでいるらしいが、ずいぶん前からここにいる感じがする。だが、この辺りにはわたしは中学の頃から来ているが、確かにその頃にはいなかったと思う。ではいつから(というのはわたしの記憶に登場するのは、という意味だが)いるのだろう…。彼もまたわたしの思い出と現在の間を往還するものであるようだ。
 さてブリヂストン美術館。ここはブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏の収集した美術品を展示している。展示作品は、モネ、ルノワールなどの印象派の絵を中心にマチス、ヨーロッパ近代絵画、ロダン、ブランクーシの彫刻、日本洋画、エジプトやギリシャの古代美術など。
 交差点を渡ろうとするときに、もう海の色をしたポスターが見える。「うみのいろ うみのかたち─モネ、シスレー、青木繁、藤島武二など」(二〇〇九年七月十一日〜十月二十五日)。美術館に海があるのだ。
 展示は七月から始まっていたのに、そして海が好きだというのに、なぜ九月まで来なかったかというと、ここではコレクションから、約三十点を一室にまとめてテーマ展示するのだが、それ以外は入れ替えはあるがほぼ常設といった感じで(約一五〇点展示)、あまり代わり映えがしない。それにテーマ展示も、何点かは見たことがあるものだろう。ここは好きなので、もう何回も来ている。新しいものに出会うことが少ないだろうという思いがあったので、なんとなく来そびれてしまっていたのだった。
 テーマ展示は、「かたち」「いろ」「モティーフ」「イメージ」の四部構成。紹介HPから概観を抜粋してみる。「海には本来定まった色も形もありません。しかし画家たちは、彼方に広がる水平線や波、それらに反射する光と色彩によって、あるいは航海や海水浴などをおこなう場所として、海を描き出しました。またシュルレアリスム絵画や抽象絵画の中にも、深海を泳ぐ海洋生物を思わせる象徴的なイメージが、空間を浮遊するように描き込まれることがあります。/ 天地創造、生命誕生などの舞台として聖書や神話、物語に登場する海は、時には畏怖を、時には憧れを抱かせる存在であり、多くの画家たちにとって風景画というジャンルを越えてインスピレーションの源となっていました。(…)「海」というテーマを通して当館のコレクションの一側面をお楽しみいただければ幸いです。」
 「かたち」というのは、ひとことでいえば質感ということかもしれない。ここでは画家によって様々に海というかたちが描き分けられていた。だが、そんなテーマをよそに、やはり、クロード・モネ《雨のベリール》(一八八六年)。空から斜め線となって雨が降り注ぐのが見える。それに呼応して、波飛沫が立ち、荒れている。あたりまえのことなのだが、天と地が連動しているのだと、ぐいぐいとつきつけてくるようだ。天と地は思ったよりも離れていないのだ。あるいは、天と地の間を水が往還すると。またその水は、わたしがかつてどこかでみた雨の海にも飛沫をもたらす。横殴りにたたきつける雨と波、あれは伊豆だった…。道路すら川のようだった。あの雨水は口に含めば潮の香りすらしそうだった。モネの絵が行く、そして戻る。
(ちなみにこんな風に、雨を描くことは、当時としては新しいことだったらしい。これはそれまでは伝統として風景を室内で描いていたのだが、印象派(外光派ともいう)の彼らが、積極的に戸外で描きはじめたことによる)。

クロード・モネ《雨のベリール》

 次が「いろ」。「太陽の光を受け、空の色を反映させた海は、カンヴァス上で色面としてさまざまな効果をもたらします。」とのことで、「いろ」や「色面」にこだわった展示。ここでは、ピエール・ボナールの《海岸》(一九二〇年)に魅かれた。埠頭のような場所、夕景の海。空はまだ青さが残っている。海は、まるで夕景になるのにためらいがあるかのようなくすんだ空色。そして、それらよりも、手前の道が夕焼けのサーモンピンクなので、道のほうに目を惹きつけられてしまうのかもしれない。ここがいちばん夕方を濃くしているのだ。埠頭の右脇に白黒斑の犬が歩いている。わたしはボナールにはこれまであまり興味をもったことがなかった。かなり何点か見ているはずだが、それまで心に止まった出会いがなかったのだ。だが《海岸》はちがった。ボナールかどうか、名前を見る前に、その「いろ」に引き込まれた。最初、何が起こったのかわからなかった。だがそれはほぼ悲しみだった。悲しみの共有というべきか。よくわからないが、彼の悲しみとわたしの悲しみの間を往還する何かがあったように思う。ともかく、とても悲しくなった。そして同時にわたしは自分がこんなにも夕景が好きだったのだと頷いてしまう、頷かされてしまうのだった。いつからだったろう? だからこの感覚には郷愁がある。あるいは過去と彼らの色、彼らが感じた色の間を行き来する思いたち。

ピエール・ボナール《海岸》

 そしてすぐ近くに、またモネだが《黄昏、ヴェネツィア》(一九〇八年頃)があった。こちらもタイトルの通り夕焼けの海。オレンジ色に染まった空、建物(サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂)、そして海(大運河)、まさにその「いろ」がやはり悲しみとして伝わってきた。すべてがオレンジ色になり、そのことで共鳴しあっている。空は静かに刻々と色を変えてゆくだろう。水は波打ちながら、やはり色を染めてゆくだろう。建物はほぼ不動のままそこにありつづけるだろう。その間を、色たちがつなぎとめるように輝いている。それは調和のようだった。悲しみは不思議なことに調和からやってきたのだった。わたしはこの絵の背景を知らなかった。ボナールの絵のように、ただ悲しいとだけ思った。家に帰って画集などをあたってみると、これは最愛の妻アリスとの最後の旅行の時に描かれたものであるという。彼女はその三年後に亡くなるが、この頃から体調が悪かったらしい。彼自身もこの頃から視力障害などの兆候が現れている。だがそのことは、誤解をまねく言い方だが、絵から受けた悲しみとは関係がない。絵こそが悲しみを伝えているのだから。わたしは事情がわかった、だから悲しいのだと、わかったような言い方を絶対にしたくないのだ。それはそこでおわってしまうものだから。それは間を遮断する答えだから。ともかくボナールの《海岸》と、モネの《黄昏、ヴェネツィア》が悲しみを通じて、私にやってきた。間をつたわる「いろ」があった。それだけでいい。それは遮断ではなく、往還だから。何度もわたり、そしてわからないままではあっても、どこか奥底からの風を伝えてくれるものだから。

クロード・モネ《黄昏、ヴェネツィア》

 実は、モネのこの二点の作品は、ここでだったか、他でだったか、もう何回も見ているはずだ。だが、そのことはすぐ後で書く。三部の「モティーフ」には、惹かれる作品がなかったが、展示の第四部の「イメージ」に、パウル・クレー《島》(一九三八年)があった。オレンジや黄色の点描のような背景に、一筆書きのような太い線が交錯したりしつつ、島の輪郭を作っている。そう、この作品もおそらくここで見たことがあるはずだ。だが、海というテーマによって、べつの視点が与えられたとでもいうのか、はじめてみるような驚きがあった。それもまた、既知と未知の間をわたる思いだ。もっともクレーに関しては、ほんの最近、気になりだした画家だ。ここで見たのは、それ以前だったので、つい素通りしていたのだろう(彼もまた、マグリットのように、見るものを考えさせる。だが、それはぱっと見ただけで伝わらないことがあるのだ)。この《島》の、やはりオレンジの色彩にひかれた。うっすらと緑がまざっている。オレンジも緑色も、島の輪郭の中と外にある。これも島と空と海の共鳴だ。そしてとくに緑は、島の緑、木々や野原であるだろう。どこにもそんな輪郭はない。だが、彼の色により、そうした島がイメージできるのだ。夕景にそまった山たちが。色に対する切実な思いが伝わる。そしてこの色により、またボナールやモネに対して感じたような悲しみが渡るのだった。


パウル・クレー《島》

 テーマ展示では、今回はこの三つだけが心に残った。コレクション展示は、多分わたしの状態が、絵に開かれていなかったのだ。あるいは間を渡ることにこの日は適していなかったのかもしれない。気がつくと、気を抜くと現実が食い込んできてしまう。あまり熱心に見れなかった。ああ、セザンヌがあるな、モローがあるな、ゴーギャンは、タヒチを描いたわけではないのにゴーギャンのタッチだなと漠然と思う(《ポン=タヴェン付近の風景》《干草》の二点)。そしてアンリ・ルソー。ここに来ると、そうだ、ルソーがあるのだと友人に再会したようなうれしい思いがいつもわきあがるのだった。《イヴリー河岸》、そして《牧場》(一九一〇年)。幹の低すぎる大木、そして手前にいるはずの人物の手が、奥にいるはずの牛の足の裏に置かれている。これらのことで、位置が垂直にも水平にも宙ぶらりんになっている。だがこうしたことに、ルソーらしさを見つける。大きい木に対する愛情、牛に対するわくわくとした驚きが絵から伝わってくるようだ。そして? やはりどこか悲しい。というか寂しい。寂しさが間を渡るのだ。

アンリ・ルソー《牧場》

 このことも絵とはもしかすると関係がないのか。わからない。ルソーは図鑑や植物園をもとに南国を描いた。現実と創造の間を、往還しつつ、彼の絵はどこまでももぐっていった。遠くへ、そして近くへ。
 このあと、わたしはまた現実に戻っていった。具体的にはハローワークに出かけた。家に帰ったのは夕方だった。海のいろ、ではなく黄昏のいろ。ずいぶんと日が暮れるのが早くなった。サーモンピンク、オレンジ。それでも何かが往還する。
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2009-09-05

ベルギー幻想美術館、日々と幻と想うこと


 『ベルギー幻想美術館展─クノップフからデルヴォー、マグリットまで 姫路市立美術館所蔵』(九月三日─十月二十五日)に出かけてきた。
 前回の日記で書いたクノップフに惹かれて(日記に書いたのはほぼ偶然だが、こうした符牒のようなつながりは結構多い)、あるいは副題にあるようなマグリットに惹かれて、展覧会開催前から楽しみにしていたものだった。
 金曜日、四日に行った。私はあまり日常のことを書かないようにしているので、詳細は省くが、渋谷に後述の用があったので、そのついでに出かけたのだ。
 渋谷、東急のBunkamura、午後二時。思ったより人が多い。彼らはどうしてこんな時間にいるのだろう。私は職業安定所の帰りだ。安定所にいる人は、殆どが失業中で、おそらく求職とか、手当てをもらうためとかで来ているのだろう。窓口もそれによって分かれているので、理由の見当がおおよそつく。だが平日の午後に美術館にいる人は、理由は絵が見たいからが殆どだろうが、何をしているひとなのかわからない。そこにいることに曖昧さが残る。画学生のような人、株主優待券をもらった主婦とおぼしき人(おしゃべりでうるさい婦人たち)、年金生活であろう老夫婦、出品リストに一生懸命メモをとっている中年の男性(これは独断だが、私はこういうひとは大好きだ)、あるいは親子ほど歳が離れた若い娘のお尻をさわったり、肩を愛撫しながら観覧している白髪の男性…。そして私のように失業中の人物。絵を見るという行為に、それらの各自の状況は関係ない。だが、どうしたって日常はついてまわるということを、ふっと彼らを見て考えたのだった。
 さて展覧会。今回は出品作家全ての紹介などはせず、好きな画家だけを書くことに専念させてもらうことにする。というのは展覧会の副題にある、クノップフとマグリット、私はこの二人しか好きではないからだ。だが一応展覧会の概略だけ、BunkamuraのHPから抜粋しておく。
「近代ヨーロッパの美術界の中で、ベルギーにおいては19世紀後半から20世紀にかけて、心の奥の世界を描き出した象徴主義、夢や無意識の世界を描き出したシュルレアリスムの優れた画家たちが登場し、幻想美術と呼ぶべき系譜を生み出しました。本展覧会は、姫路市立美術館が所蔵する、日本最大級の質と規模のベルギー美術コレクションから、19世紀末のフェルナン・クノップフ、ジャン・デルヴィル、ジェームズ・アンソールらから20世紀のポール・デルヴォー、ルネ・マグリットまでの油彩、素描、版画などにより構成され、まれにみる濃密な展開を示したベルギー近代美術のハイライトを紹介します。」(http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/shosai_09_belgium.html)
 会場入口は、白いファイバーだろうか。無数の糸でしつらえた暖簾のようなものが、カーテンをつくり、ある種のパーテンションとなっているのだが、チラシなどで背景として使われてもいる紫色の光があてられ、幻想的な入口をかもしだしていた。ここから先は、空間がちがうのだと。
 展覧会では、最初が象徴主義。会場の構成は、ほぼ年代順に並んでいるらしい。ならばすぐにクノップフに出会えるだろう…。まもなく会うときまって、なんだか初恋のひとに久しぶりにあうような、ためらいとはじらいがある。いや、そこにはもっと瑣末な、あるいは本質的な思念もまじっているだろう。さきほど、日常はついてまわるといった。この頃のわたしは失業という事態にかかずらいすぎている。そんなわたしが彼の幻想にであって、拒否されたりすることはないだろうか。そう、クノップフは、日々にいながら、幻想を描いていた。そしてそれこそがおそらく現実なのだ。彼にとって、そして私にとって。うまくいえないが、現実に幻想が色濃く影を落としている、少なくともそれらふたつがないと生きてゆけない人々がいる。わたしはそんな人々にだけは好かれたいと思う。好かれなくとも、せめて笑いかけてほしいと思う。クノップフは笑いかけてくれるだろうか。そんなおそれが、展覧会場でよぎったのだ。彼の笑いは、とても淋しいものではあるが。
 そして、展覧会のポスター(デルヴォー版もあるが)や、チケットにもなっているクノップフの《ヴェネツィアの思い出》(一九〇一年頃)。長方形のパステルと鉛筆で描かれた、金髪の女性の上半身像。なかば横向きの顔だが、目はまっすぐこちらを向いている。なかば横向きというのが、日常と幻想の境にふさわしい角度なのかもしれない、と後で思う。だが、ポスターなどで見ていたはずなのに、いざ実物を目のまえにすると、まったく印象がちがう。というか、せまってくるものが違うのだ。絵は思ったよりもとても小さい。十七・五×九・四センチだ。そう、最初に小さいなと頭の隅のほうで思ったのは憶えている。その直後、出会う直前まで感じていたなにもかもが一蹴されるほどに、ただただ悲しくなった。この頃、こういうことがある。美しさを前にしての感動が、悲しみというかたちで押し寄せてくるということが。目が悲しかったのか。淋しさをたたえつつ、意志をもってこちらを見つめる目。どうとでもいえるだろう。その目がわたしのある琴線に触れたのだとか、パステルで描かれた金髪が、夕景に金色に染まる雲のようで、それがやはり夢幻への窓口のようにやわらかく手招きしていたから、だとか、白い唇が死と生の極限を語るようだ、とか。それらすべてかもしれないし、そうでないのかもしれない。絵を前にして、ただただ悲しかった。人目を気にしてしまったので、そうはしなかったが、おそらく誰もいなければ、わんわん泣いていただろう。それはわたしの独断で言うと、おそらくなにかを共有したことによる悲しみだったのだ。

クノップフ《ヴェネツィアの思い出》1901年頃

 クノップフは四枚出品されていた。あとの二枚(《裸体習作》《女性習作》)もそれぞれはじめてみるものだったし惹かれたが(絵ハガキもクリアファイルも買った)、習作だったせいか、前述のそれと、今からあげる作品よりは感動がうすかったので割愛する。そう、《ブリュージュにて 聖ヨハネ施療院》(一九〇四年)。こちらもパステルや木炭。運河か何か沿いに建てられた聖ヨハネ施療院が、ほぼそのままの姿で水に反映している。鏡に映ったようだ、幻想と現実のようだ。そして空がまったくないことが異様といえば異様だが、空のなさで建物の二重性にのみ焦点をあてているのだ。わたしは以前、これとはちがうブリュージュを描いた彼の絵を見て、その絵のなかに旅したような共有を感じるといったことがある。それは実際に旅行にいったよりも、おそらくは彼の場と共有するものが多いだろう、といった意味合いが多かったはずだ。ではなぜ、実際の旅行よりも、絵を前にしたほうが、人と近しいと感じることがあるのだろう? わたしはそのことをもっと掘り下げたほうがいい(と、かつてのわたしに諭すようだ)。ともかっく絵を前にしての引き込まれ方は、彼の淋しい目を共有したような感じがするから、ということもいえる。やはりそれは旅よりも近しいものだ。なぜなら、旅は素通りするものだから。わたしの解釈が間違えているかもしれない。だが、水の反映が幻想のように思えたのだ。それはもろい。だが、たしかに映っている。人の気配がない。わたしの撮る写真のようだと、後で思う。
「何か怨みでもあるように、フェルナン・クノップフは、幼いころ過ごしたブリュージュを、人っ子一人いない死に絶えた町のように描いている。どの風景画を見ても、ほんとうに人影一つ見えない。(…)この町が商業都市として盛えていたころに比べれば、クノップフの目に映ったブリュージュは寂しかったに違いない。でも、こんなに胸が冷たくなるくらい影が薄く、空の色がやりきれなく重く、民家の煉瓦造りの壁が墓石みたいにくすんでいるのはどうしてなのだろう。クノップフは、ブリュージュの町へ行くのをとても嫌がり、どうしても通らなくてはならないときには、濃い色眼鏡をかけて車の中で俯いていたというが、それにしてはずいぶんの数の風景画を遺している。いくら寂れたとはいっても、春には春の日溜りがあったろう。夏の日の木陰には、日傘をすぼめた娘たちが笑ってもいただろう。それなのにクノップフは、視界からそういう暖かなものをみんな消してしまう。(…)クノップフの胸の奥底には、何か大きな不幸が沈んでいたのだろうか。」これは前回紹介した『聖なる春』の一節だ。明確には言い得ないが、濃い色眼鏡をして、なるべく避けていた、というのはなんとなくわかる気がする。何故と問われれば、それは聖域であり、境目だから、としか答えようがないのだが。
 境目の水は冷たい。その冷たさが、だがわたしにやってくるので、かすかなぬくもりとなる。寂しさが共有されるのだ。

クノップフ《ブリュージュにて 聖ヨハネ施療院》1904年頃

 ほかの画家の作品も、わたしは一生懸命に観ただろうか? いつもより注意力が散漫になっていたので、あまり自信がない。多分触れ合おうと、出会おうとしたと思うが、ともかくとりたてて出会いはなかった。だが、そしてルネ・マグリット。版画集(十二葉、『マグリットの捨て子たち』)を含めて、二十六点もある。第四章「超現実の戯れ ルネ・マグリット」として、一区画まるごとマグリットだ。これはうれしい。《ジョルジェット》(一九三五年)は、油彩。タイルばりの部屋、窓からは海が見える。蝋燭の火のうえに、妻であるジョルジェットの顔というか首が二つ浮かび上がっている。火の明るさが妻であるかのような。そう書くと、家庭愛にみちたほほえましいもののようだが、その要素もたしかに含みつつ、彼の絵は切実だ。蝋燭の火の明るさが妻である、というのは幻想だ。それは追い求めなければならない永久の夢だ。クノップフのブリュージュが、それでも彼が追っていた夢であったように。
 マグリットは、《光の帝国》の夜と昼の混在を描いた作品は別として、大好きではあるが、基本的に、たとえば先のクノップフで感じたような、泣くという感情をゆさぶる感動は受けない。そのかわり、わたしをぐいぐいと思索の渦にまきこんでゆく。そうしてわたしを思考させることで、彼の思考と交錯し、そのことが共有という感動を呼び起こす、そんな回路を持っていると思う。感情が揺さぶられるのと、思考を揺さぶるのと、どちらがいいというのではない。ただ感動への道順がちがうだけなのだ。
 《ジョルジェット》に戻ると、絵には、妻と蝋燭と海のほかに、日常の大切なアイテムとして、卵、葉、鍵、手紙などが浮いたり、置かれたりしている。卵や葉は生命かもしれない。鍵や手紙はどちらも空間の間にあるものだ。出口であり入口である扉をあけるもの、思い出を開く鍵と、人と人のあいだを往還する、日記(文字通り日常を記すということ)と他者に向けられたという点で、作品的な要素をも含んだ手紙。これらにより、絵はやはり日々と幻想を描いている。和解させようとしているのかもしれない。だが、ともかくそんなことを思い、だからわたしは好きなのだと、どこかで考えをぐるぐるとさせながらうなずいた。

ルネ・マグリット《ジョルジェット》1935年

 マグリットの《観光案内人》は、ピルボケ(西洋剣玉)でできた灰色の人物なのだが、土管と大砲を合体させたようでもある。彼が手に観光名所である建物を持ち、口から火を吹いている。原題は“キケロ”で、おしゃべりな人をそう呼ぶらしい。観光案内はおしゃべりだということか。名所は、蜀台のような三個の受け皿の上に載せられており、灰色のピルボケ人はマントのような赤い布をまとっている、以前(二〇〇七年に埼玉県立近代美術館で開かれた『シュルレアリズム展』)、同じモティーフだったか同じ絵を見たときは特にどうと思わなかったが、今回はこの絵もまた、何事かを語りかけてくることになった。語ることが火を噴いている。建物が均衡をとるように蜀台のうえで整然としている。ピルボケ人は三人。てんでばらばらな方をむいている。手前だけ火を吹いている。ちいさな目が愛らしいが、どこか孤独がただよう。語っているが相手はいないからだろうか。だがことばは火のような熱さを持つのだ。

ルネ・マグリット《観光案内人》1947年頃

 マグリットは、先にちょっとふれた版画集《マグリットの捨て子たち》(一九六八年)についても触れたいのだが、こちらも割愛。だがこのなかの5枚目のリトグラフは、一枚に二つの絵があり、左半分は、葉でできた鳥、右半分が大好きな《光の帝国》とかなり似ているので、うれしかった。空が晴天の真昼。家は夜だ。こんなふうに幻想と日々もまた同時に存在している。
 同時に存在しているといえば、《九月十六日》(一九六八年頃)、エッチング。一本の木が夜の薄明かりのなかに立っている、その木の真ん中に、見えないはずの三日月がくっきりと浮かび上がっている。光と影が同時に存在しているように。ではやはり、幻想と日々は混在しているのだ。日々のなかに幻想は、満ちているのだ。それは逃げではない。それは表裏一体をなすものなのだ。幻想は、想像ということでもある。あるいは想像は創造でもある。

ルネ・マグリット《9月16日》1968年頃

 前日、殆ど寝ていなかったので、マグリットを見ているとき、寝そうになった。ソファに座ったり、次のコーナーのデルヴォーを見に行って、また戻ってきたりして、眠さを払う。だが眠さもまた、心地よいものといえば心地よいものだった、それもまた現実と眠りの狭間だから。
 ミュージアムショップなどで、どこかわくわくと売り物たちを見る。絵画の絵ハガキ、ボッスやロートレックの猫、クリムトの《接吻》、モディリアニの首の長い女性たちが小さなオブジェとなって、あちこちに置かれていて立体的に見える絵、ドールハウスで使うような小さな碇、面舵、丸窓、帆船が額に入っている、異国の香り漂うスーベニールといった代物、祈祷書を模した小さなノート、そして本物の祈祷書の一枚が額装されて売られている…これらを前にしたわくわくは、ほぼ子どもの頃、おもちゃを目にしたときの気持ちに似ている。こうした気持ちを通じて、思い出もまた現在、現実にやってくるのだ。
 ならば? 冒頭で、日常はついてまわるといった。だがこうもいえるのだ。幻想もまたついてまわるのだと。
 日々の出来事に追われて、詩や創造に関しての比率が少なくなると、いつも足許がおぼつかないような、不安な気持ちになってしまう。なげやりさも湧いてくる。このまま現実にのまれてしまえばいい。だが、創造もまたついてまわるだろう。そしてそれこそをわたしは求めているのだ。クノップフの女性の口が、マグリットの火を吐く口がそうつぶやいている。


(以下、写真のみ。触れなかったが惹かれたものたち)


クノップフ《女性習作》1900年頃


ルネ・マグリット《宝石》1966-67年


ウイリアム・ドゥグーヴ=ド=ヌンク《夜の中庭 あるいは陰謀》1895年
11:48:55 - umikyon - No comments