Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2009-10-25

エッシャー展、幼年が自在に境界をまたぎ、わたしたちを…


 「迷宮への招待 エッシャー展」(二〇〇九年十月十日─十一月十六日、そごう美術館)に出かけた。横浜駅、横浜そごうの中にある。十年ほど前から何回かきている。中華街やみなとみらいへ行く海上バス(シーバス)の発着場も隣接している。つまり海が近いのだ。屋上からは海が見える。といっても、水平線のかなたまで見渡せるといった広がりはない。埋め立てられた、ビルに囲まれたほそい運河のような海なのだが。それでもわたしはここに来るのが好きだった。海が好きだから、それでも海に近いということにやさしさやなつかしさをもらったような気持ちになるのだ。
 デパートの美術館はその多くがここ十年ぐらいの間に閉鎖されてしまっている。西武、東武、小田急、伊勢丹…。そんななかで先日の高島屋(「クリムト、シーレ ウイーン世紀末展」)とここのそごうの美術館は貴重な存在である。
 エッシャーはおくればせだ。この夏に「奇想の王国 だまし絵展」(Bunkamura ザ・ミュージアム、七月十五日の日記)で観て、気に入ったのがきっかけだ。それまでも彼の絵を知っていたが、なんとなく素通りしていた。わたしにはそんな画家がいくつかある。クレーや北斎もそうだった。おくればせでも、気づかないよりはいいのかもしれないが、気づかないまま、終わってしまうこともあるかもしれない。エッシャーはまだこんなふうに単独での展覧会をわりとしょっちゅうやっているようなのでいいが(そごう美術館で二〇〇五年、Bunkamuraでも数年前にやっていたはずだ)、きっと触れ合うことなく通り過ぎてしまうものたちは多いのかもしれない。気づかなければ、わからないままだからどうということないのかもしれない。だが、そんなふうに大切な出会いがないまま、というのはなにか置き忘れてきたまま歩いてしまうような気がする。ふりかえると、ぽっかりなにかが抜け落ちている。そこにはおおむね、人肌のようなやさしい気配ばかりが漂っている…。そしてわたしはついここでもピロスマニを思い浮かべてしまうのだ。彼の作品が去年から今年、日本で紹介されたのは、二十年ぶりだ。彼の単独の展覧会ではなかったから、気づかないままでいる確率のほうが高かった。出会えなかったことを思うと、抜け落ちているというより、奈落の底に自分が落ちてしまったような孤独が吹きすさんでくる。
 さて、エッシャーに戻ろう。ピロスマニのことは、あとでもう一度書くかもしれない。まず、簡単な略歴を。マウリッツ・コルネリス・エッシャー(Maurits Cornelis Escher、一八九八─一九七二)は板目木版、リトグラフ、メゾティントなどの版画製作をよくしたオランダの画家。作品は不可能な構造物、建築物やメビウスの輪的なもの、無限を扱ったもの、平面を次々と変化するパターンで埋め尽くした平面の正則分割のものなど。二十一歳で建築装飾美術学校に進学、後に版画科へ。二十二年、二十四歳で卒業するまでにイタリアや、スペインなどの風景を版画にし、特に二十二年九月に訪れたグラナダのアルハンブラ宮殿の幾何学模様建築は後の彼の作品に多大な影響を及ぼす(三四年に再訪)。イタリアの風景を好み、そこに住んでいたが、第二次大戦のために移住を余儀なくされてからは、それまでの風景や静物から幾何学的なものや心象風景的なものへと作風が変化していった。三十年代後半〜六十年代の作品が彼の真骨頂といった感があるが、六十年代後半から癌の手術を十回も受けるなど、徐々に健康を損ない、七十二年に芸術家のための養老院で死去。
 今回の展覧会は、ハウステンボス美術館のコレクションの中から、オリジナルの版木やエッシャー家ゆかりの資料類、そして同時代作家作品もあわせ、百二十点あまりの作品の出展だそうだ。わたしは十年ほど前に一度ハウステンボスに行ったことがあるのに、ハウステンボス美術館に気づかないですぎてしまっていた。敷地内はオランダの町並みのなかに、いくつかのアトラクションなどもあったので、トリックアート館かなにかだと思って、素通りしてしまったような記憶がある。だがあのときに仮に美術館に入り、彼の絵に出会ったとしてよさがわかっただろうか。今となってはもはやわからないが、なんとなくまだ出会うべきときではなかったと思う。もしかすると時宜に会った出会いというものもあるのかもしれない。
 展覧会は、ほぼ年代別に構成されている。最初のほうはイタリアの建築物(こちらも、密集した建物を描いたもの、迷路のような階段などに、後年の複雑な独自の遠近法、不可能な建物たちを想起させるものが多く、興味深いのだが)を描いたもののほか動物が多い。板目木版の《ウサギ》(一九二〇年)、《小鳥に説法する聖フランシス》(一九二二年)のオウムやフクロウほか、様々な鳥たち、『二十四の寓意画』(一九三一年)という板目木版集に出て来る、孔雀、魚、リス…、『スコラ哲学者の恐怖の冒険』の挿絵(一九三一年、十五ページ)の板目木版は夜の森で、左端に大きな樹の幹があり、その枝からフクロウと猫が、地面のあたりを見下ろしているが、そこには木々の枝の影の映るなか、猫や鼠、蛙、犬、枝にまきつく蛇がいる。ここにもやはり、後年の彼を見るのは可能かもしれない。木々の影は波のようだし、蛇は枝の一部のようだ。後年のというのは、たとえばそうした共存であり、連なりであり、平面と立体の握手だ。後年の彼の作品には後で触れるとして、ともかくほかにも精密な昆虫(《バッタ》(一九三五年)や《コガネムシ》(一九三五年))など、動物が多いのだ。会場のキャプションに彼は小さい頃から動物を描くのが好きだったとある。わたしはそこに動物をよく描いていたピロスマニを感じただろう。そして、小さい頃から、ということで彼の幼児性を感じた。つまり「それでもあなたにはまだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか」(リルケ)、「もはや子供でなくなったとしたら、すでに死んでいるのです」(ブランクーシ)、「天才とは自在に取り戻された幼年である」(ボードレール)、こうした子供だ。それはわたしにとってとても大切な幼児性だ。この大切さを言葉にするのは難しいが(こうしたものは作品としてにじみでてくるものだろうから)、たとえば、それは新鮮な驚きにみちた世界との和解だ。わたしは二歳半ぐらいから記憶がある。当時の世界とのかかわり方についても覚えている。それは鏡像段階だったからだろう、見たものすべて、感じたものすべてが、自身と一体化してゆくような合致の抱擁もあった。わたしは境界をなんなくまたぐことができた。これはけっして忘れてはならない。わたしにはまだ幼年がある。
 そう、彼にひかれたのは、この幼年を強く感じたからでもあるだろう。いや、それがほとんどだ。『二十四の寓意画』の四枚目にある凧に描かれているのは顔なのだが道化師のようである。これは子供の見たサーカスだ。『スコラ哲学者の恐怖の冒険』の挿絵(十一ページ)のホウキに乗った老婆の魔女が夜空を飛んでいる姿も、子供が夢みた架空という、まさに橋渡しだ。同じものの二十一ページも半魚人や、半分トカゲで半分人間、裸でホウキにまたがる男や女(尻尾がついている)で、架空をわたる力強さがあった。ここからわたしたちがすむ世界に、なだれをうってやってくる。空想が現実になるのだ。それは現実が空想と近しいということでもある。彼は境界をまたぐ子供を確かに知っている、身のうちに持っているのだ。そしてそれは後年に至るまでそうなのだ。自在に取り出して。
 チラシやポスターになっている《写像球体を持つ手》(一九三五年、リトグラフ)は、後年の彼の志向を如実に語りかけてくる作品だ。あるいは後年の始まりだ。手にもった水晶のような球体のなかで、鏡のように手が触れ合いながら、書斎にいるであろうエッシャー自身が映っている。それを手のひらで、球体だけではなく、球体に凝縮されたすべての世界をも含んで、支えている。まるでギリシャ神話でアトラスが地球を支えているように。あるいは二つの世界のやはり和解だと思った。球体のなかから伸ばされた手と、手のひらがたしかに触れ合っているのだから。これはわたしにとってほとんど赦しだった。

《昼と夜》

 そして、平面の正則分割を三次元に持ち込んだ最初の作品が、以前ここで描いた《昼と夜》(一九三八年)だという。
 「わたしがマグリットに出会い、圧倒的に惹かれた最初の一枚は《光の帝国》(一九五六年)だった。一枚の絵のなかで夜と昼が混在している。そのあり得ないものの一致の放つ、静謐な融合に心引かれたのだ。この部屋が詩の場所だと思った。なぜ、今こんなことを書いているかというと、今、昼と夜の混在を描いた別の作家の作品に出会ったからだ。M・C・エッシャー、《昼と夜》(一九三八年)。田園風景を俯瞰するものだが、田んぼの上部の四角い枠線が、鳥になってゆく。さらに鳥たちは画面右上で、夜の背景に右向きの白い鳥、左上で、昼の背景に左向きの黒い鳥となっており、それぞれがあたかも夜に昼をつれてきた白い鳥、昼に夜をひきずっている黒い鳥のように見え、農地と鳥、鳥と空、そして時間までもが取替え可能なものとして、あるいは融合できうるものとしての可能性をひめて存在している。このことにやさしい共鳴を感じたのだった。」(七月十五日の日記より)。
 この詩の場所というのは、取り戻された幼年、死んでいない(だが半ば死んでいる)子供の場でもあるだろう。

《空と水機

 同じ年に描かれた《空と水機佞蓮画面上が白い背景に黒っぽい鳥の群れ、画面下が黒っぽい背景に白い魚の群れ。画面中央では、黒い鳥が鳥のまま魚の背景となり、魚とぴったり接している。それは逆の側にとってもそうで、白い魚でありつつ鳥の白い背景でもあり、黒い鳥と白い魚、白い背景と黒い背景、異種、異空間の境界を表わしている。それは超えられるものなのだ。空と水が交換可能なだけではない、そこに生きる動物たちと空、水も境界をまたぐことができるのだと語りかけてくるようだった。かれらは同じ方向を向いている。魚たちのやさしい目、鳥たちの真剣な羽さばきにもひかれる。
 エッシャーは、こうした異種たちの出会い、板のパズルのように魚と鳥が重ねられた《二つの交わる平面》(一九五二年)、あるいは《馬と鳥》(一九四九年)など、動物たちが白と黒で接しあったり、白い鳥と黒い鳥で、朝と夜をも表わした《太陽と月》(一九四八年)など、を描いた作品が多い。彼らはとても接しあっている。合体すれすれの境界をまたぐ意志が懐かしいほどに食い込んでくる。

《出会い》

 《出会い》(一九四四年、リトグラフ)は、地面にひかれた輪のうえを、右回りに白い裸の人物たち、左回りに黒い鼻の高い裸の人物が、それぞれ約八名ずつ歩いていて、画面手前中央でであった白い人物と黒い人物が握手を交わしている。円の中央と、円の奥には、鏡のように、あるいは影のように無数の彼らが映っている。先の《空と水機佞里茲Δ法影のような彼ら、あるいは円の奥では、白い人物が黒い人物の影であったり、黒い人物が白い人物の影であったりする。キャプションによると「両者が“黒の悲観論者”と“白の楽観論者”として出会い、前景で握手するという考え」の表現であるという。これら白と黒の者たちが出会う場所が、わたしたちの心象風景であるだろうと思った。握手し、分かちがたくある、複雑な思考を、わたしたちはそれぞれ組み合わせて生きているはずだ。

《爬虫類》

 《爬虫類》(一九四三年、リトグラフ)は、机だろうか、下に置かれたノートに黒、白、灰色のトカゲが、例の鳥と魚のようにびっしり描かれているのだが、右端からそのトカゲが紙から頭を出し、立体的になり、本や三角定規などの上を歩き、左端の紙にたどりついたとき、また紙に戻ってゆく。二次元から三次元へ、つまり現実と想像が交流している。本やメモ、定規があるというのも、彼の創作と結びついていることからのまたがれた境界なのだから。あるいはトカゲこそが自在に取り出された幼年であるといえるだろうか。わたしは芸術の可能性にわくわくする。このわくわくが幼年ではなかったか。


《滝》

《版画画廊》

 この連続は、「奇想の王国 だまし絵展」で観た《滝》(一九六一年)の、建物を落下あるいは上昇する永久機関的な滝に通じるだろう。わたしはあの時に書いている。「『ファウスト』でメフェストフェレスがいったことばだ。「上りなされ、下りなされ。同じことじゃよ。」わたしはこのことばが好きだ。関係性がこわれたなかで、融合しているとおもったからか。ともかくこの絵では、上下の関係がこわれている。こわれながらも建物は崩壊せずに、そして水は流れつづけている。ある規則があるのだ。区切りがあるのだ。区切りがありつつ、関係をまたぐものが、たしかに存在していること、そこを流れる水たちの清冽さに心がふるえた。」この連続性に、芸術の往還する可能性を見たのだ。今回のエッシャー展では、《上下と下降》(一九六〇年、リトグラフ)として、建物に作られた階段を永久に登っている、あるいは下っている人たちも描かれていた。あるいは、《版画画廊》(一九五六年、リトグラフ)。画廊で絵を観ているはずの人物が、メビウスの輪のようにねじれた建物のなかで、いつしか現実の建物を見ている、あるいは建物の向こうから誰かに見られている。観ているはずの人物が、実は絵であるかもしれない。つまりわたしたちもまた絵であるのかもしれない。現実が想像であるのかもしれない、想像が現実であるのかもしれない。こうした連続、連関にとても惹かれる。それはわたしがルネ・マグリットに惹かれる理由でもある(《光の帝国》の昼と夜の混在と、《昼と夜》の接点)。あるいは動物たちに、ピロスマニの辺縁性(自在に境界をまたぐ客観性)、幼年を見るだろう。こうしてわたしのなかで彼らはまた接点をもってもゆく。《出会い》のように握手し、メビウスの輪のなかでダンスしながら、現実と想像の輪を複雑にからめて、わたしに差し出してくれるのだ。

《露滴》

 エッシャーの絵を観て、もう一人想起した人物がある。《露滴》(一九四八年、メゾティント)の、一枚の葉の中央にたまった大きな水滴。それがレンズのようになっていて、葉脈を拡大して見せながら、日差しや空をも内包してもいる。さきの《写像球体を持つ手》の珠にも通じるが、露を通して違う世界たちが握手しているのだ、繋がっているのだ。だが、まだここでは想起しない。次に《水たまり》(一九五二年、板目木版)を観た。森だろうか。轍や靴の跡の見えるぬかるんだ土にたまった水溜り。水のなかに木々や月が映っている。水に映る空、そして木々。月あかりが心底、空を照らし、水を照らしている。その月明かりは、わたしにも届いた。わたしの中を照らすのだ。そこにはモネがいた。モネの水に映った光、水に映った空、反映を想起させた。彼の場合は水を通した光の瞬間かもしれない。だが、おそらくわたしのなかでは、彼らは握手をしているものたちなのだ。《水たまり》は、そんな思いだけでなく、わたしを釘付けにした。そこには、小さい頃から好んで、水たまりを池や川に見立てて、喜んでいたわたしの姿もあった。水たまりに映っていたのはわたしの幼年でもあったのだ。もう一枚、この系統の作品で、《三つの世界》(一九五五年、リトグラフ)というのがあった。こちらは池か沼が一面に描かれている。巨大な魚が水の中を泳いでいる。水面には敷き詰められたような落ち葉たち、そして影として、葉を落とした三本の樹が映っている。水を通して、空と大地が出会っている。大地と魚が出会っている。水のなかの魚は、空をも泳いでいるのだ。魚のびっくりしたような目でありつつ、悠然と構えた目にも親しみを覚えた。それは玩具のような優しさに満ちた魚だった。ところで、わたしは空と水と土で、三つの世界なのかと思ったが、家に帰って図録(展覧会の図録はなく、ハウステンボス美術館のエッシャー・コレクションをまとめたもの)を開いて解説を読むと「透明、反射、不透明」の三つのことだとある。それも含めて、世界は存在しているのか、とも思う。

《水たまり》


《三つの世界》

 展覧会には、「《蛇》の習作」(一九六九年、板目木版)という作品があった。蛇の鱗でもあり、ゴムチューブでもあるようなものたちが、絡み合い、繋ぎあわされている。体調をくずしていたエッシャーの最後の木版作品だとある。最後にまた動物に戻るのかと痛く思う。彼のことばがキャプションに書いてある。「これが傑作になろうとは思いません。(…)この仕事を五十年以上も続けてきました。この不思議で、恐ろしい世界のものほど、私には楽しいものはないようです。人間にとってこれ以上望むものはあるでしょうか?」。彼の幼年が絡んで、観るわたしは、その重なる線を観ていると、とても心が痛くなる。「それでもあなたにはまだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか」(リルケ)」。幼年が世界を彼らをわたしにつなぎとめてくれている。

 パソコンの通信環境が修理中、工事待ちなどで、このところネットがあまり見れずにいて、少し気づくのが遅れたのだが、エッシャー展に行ったあと、桐田真輔さんの吸殻山日記、九月十三日のところで葉の上にふるえる水滴の写真を見た。輝く風が水の中に閉じ込められている。そして《露滴》を思い出すのだった。こんな風に、わたしの現実も、どこかで接点を持ってくれるのだ。


(桐田真輔さんの写真 http://www.haizara.net/~kirita/nikki/s09-3.html)

エッシャー展HP
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/09/1010_escher/index.html


エッシャー 《物見の塔》
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2009-10-15

速水御舟展、生と対をなす死


 「速水御舟─日本画への挑戦─」(二〇〇九年十月一日〜十一月二十九日)に行った。これは東京・千鳥が淵近くにあった山種美術館が東京・広尾に移転、開館記念特別展として催されたもの。山種美術館には、速水御舟(一八九四─一九三五年)のコレクションが数多い。一九七六年に、旧安宅産業のコレクションを一〇五点買うことになり、それまでに持っていた作品とあわせて御舟コレクションが充実したとある。安宅コレクションの購入は、偶然のような幸運だったらしい。だが、ひとえに初代館長と息子である二代目館長が、御舟作品を敬愛していたことから、線がつながったのだろう。安宅コレクションももともとは御舟作品を敬愛していたから、はじまったものだろうから。絵がなにかを結ぶのだ。呼ぶのだ。たぶんそういう不思議、えにしはあるだろう。
 わたしは移転前から山種に足を運んでおり、そのなかで御舟を知った。衝撃を受けた。そのあたりのことはここでも何度も書いている。山種美術館以外でも、彼の作品に会うと、おもいがけなさにうれしくなったものだ。それは初恋の人にあったような気恥ずかしさがともなう。
 さて、あたらしい山種。恵比寿駅から歩いて十分ほど。十年ほど前まで、このあたりに住んでいた。住所は広尾ではなかったが、もより駅は広尾駅だった。だから恵比寿駅に降りると、いつもすこしだけ感慨がある。ここから日比谷線にのれば、すぐに広尾だ。ヒロオ…。なんだか男の名前のようでもある。もうすぐヒロオに会える。物価は高く、空気も悪く、住みにくい町だったけれど、住めば愛着もわく。恵比寿駅からしばらく歩き、このあたりも、以前は自転車で買い物に来たなと思う。だが、どうもいつまでたってもたどりつかない。連れに地図を見せると、反対方向にどんどんきていたことが判明。自分の方向音痴にあきれたが、それとともに十年の歳月をつきつけられたような感慨もあった。わたしはもう、この土地から離れてしまったのだ。
 山種美術館も堀の近くから、ここに越してきた。美術館はどっしりとしているが、まだその新しさが風景になじんでいない感じがする。それをいったら、このあたりのビルたちはどれも新しく、どこかしらそぐわないことに、懸命にたちむかっている感じもする。いつか、それぞれ、この街の住民としてなじむのだろう。
 さて展覧会。実は、思ったよりも感動がうすかった。だが、これはほぼわたしのせいだ。わたしはこれまで山種美術館で、あるいは他で(他に貸し出していたもの)、もう何回も、ちょこちょこだが彼の作品を観すぎていたらしい。今回の展覧会は、つまり小出しに見ていたものたちの集大成といった感じで、かなりの作品が一度は観たことがあるものばかりだったからだ。これは、こちらの心持の問題だ。はなから、いちど観たことがあるものばかりだろうなと思っていくと、おもいがけないささやかな感動が生じる。だがあたらしいものと出会えるだろうと思って、既知のものだと、その失望のほうが大きく、べつの視点、感動に気づかずにとおりすぎてしまうのだ。
 だがそれでもさすがに、大好きな速水御舟だ。彼はハヤミギョシュウと読む。だが、わたしは親しみをこめておフネさんと呼んでいる。さすがはおフネさんだ。やっぱりおフネさんだ。観てまわるうち、静かな感動がわきおこってくるのだった。
 《炎舞》(一九二五年)は、観た作品だ。これについてエッセイも書いたことがある。色とりどりの蛾たちが、焚き火のような炎の上で舞っている。わたしはそこに死をみたはずだ。死と生の瞬間を、その複雑(あるいは単純な)な関係を見ていたはずだ。それはおもに蛾に向けられたものだった。だが今日は違った。炎のほとんど豪華絢爛とすらいっていい輝きにひかれた。うねうねと波のように、生き物のようにのたうつ火。火のまわりでは火の粉と煙が混在してオーラのように浮かび上がり、闇に明るさを放つのにさらに一役買っている。それは不思議なことに、生きているものだった。生々しいとかではなく、生きた火のふるまいだった。そしてこれは様式化されつつも、火そのものの姿と見事に融合しているものだと思った。想像と現実が合致しているのだ。

《炎舞》

 近くに《昆虫二題のうち 粧蛾舞戯》(一九二六年)があった。こちらは名前だけでも何となく想像がつくかもしれないが、やはり《炎舞》のように蛾たちが舞っている。ただし、こちらは中心に朱色の光があり、そこに求心的に集まる蛾が描かれている。それは天上に向かうようでもある。蛾の戯れるように舞う姿。それは生きるためなのだろうか(蛾たちは、光により自分の位置を確かめている)。だが天に登っていくようにもみえるので、やはり死に向かっているようなのだ。たぶんそのどちらでもある。隣に《昆虫二題のうち 葉陰魔手》(一九二六年)がある。こちらはヤツデの緑の葉の中央に、蜘蛛の巣が絹のように白く輝き、その中央に黄色い大きな蜘蛛が描かれている。蜘蛛にとっては蜘蛛の巣を張るのは生きることだ。蜘蛛の巣にかかる側にとっては死ぬことだ。ここにも生と死がある。そして中央の白い輝きの円が、“粧蛾舞戯”の朱色の光の円と対になってもいる。

《昆虫二題のうち 粧蛾舞戯》

 対になっているといえば、双幅の《あけぼの・春の宵 のうち春の宵》(一九三四年)と《あけぼの・春の宵 のうちあけぼの》(一九三四年)。“春の宵”のほうは、幽霊のような細い枝の桜が三日月夜に花を散らしている。この壮絶な静寂に惹かれたものだった。桜が魔であることを、静かにかたりかけてくる。多分この絵との出会いが御舟好きになったきっかけだったかもしれない。だが“あけぼの”のほうは今回はじめてみた。下のほうが薄い紺の空、次に桃色、上がほとんど白い空で、あけぼのといわれなければ夕景と思ってしまうかもしれない。わたしは夕景が好きだから。ともかくその空の真ん中に細い枝の柳がやはり幽霊のように枝をたわめている。枝に鴉が二羽、小さくシルエットを浮かべている。こちらもやはり圧倒的な静寂だった。鴉が息をつくほどに傷だった。そして春の宵とあけぼのという、時間の差による対であることのほかに、柳と桜という、ちがう樹たちの枝の細さによる対ということも、対であることに奥行きをもたせていると思った。夕景だと思ったと書いたが、だからこれはどうしたって朝焼けなのだ。そうしてわたしは思い出す。朝焼けをどこかしら不吉なものに感じていたということを。きっかけはささいなことだったかもしれない。夕焼けだと明日は晴れ、朝焼けになると天気が悪くなる。小さい頃に聞いたそんな話からだけだったような気がする。だが、なにか朝焼けには不安にするものを感じてしまう。それは桜に感じる魔に近しいかもしれない。“あけぼの”は、静かな狂いのようにわたしをその絵にひきこんでゆく。柳のたわんだ姿が恐れのように揺れてみえる。


《あけぼの・春の宵 のうち春の宵》《あけぼの・春の宵 のうちあけぼの》

 ほかで、感想といったら《碧苔緑芝》(屏風、一九二八年)の苔の上に座る小さな黒い猫の眼、《朝鮮牛図》(一九二六年)のオレンジ色のやせた牛の眼、《秋天清高》(一九二八年)の馬の眼、《鶴》(一九三二年)の鶴の眼、そして《百舌巣》(一九二五年)の鳥の眼、これらが当たり前かもしれないが、みんな同じ目をしていることになぜか引き寄せられた。それは総じて力強い目だ。生きようとしている目だ。《百舌巣》は、鳥の巣に二匹の雛が足を乗せ、えさをはこんでくれる親を待っているようでもあるが、その目が精悍なので、一瞬親鳥が雛を守るための姿なのかと思ってしまう。雛もまた強い目なのだ。それが生ということなのだ。この絵では、巣にちりばめられた白い羽の輝きにも引かれる。それはこの強さから感じた優しさだったからかもしれない。

《百舌巣》

 彼の絵には、力と優しさがある。生と死がある。つまり生きている。日本画と油彩画もあるらしい。つまり日本画に油彩的な要素をとりいれたということだ。想像と現実がある。様式美と模写からなる混合がある。花ですら力強く、そしてもろさをひめて満開だ。わたしは彼の花や柿の生き生きとした存在感が好きだったとこの展覧会であらためて思う。そしてその生には、どこかしら死の影を宿していることも。あるいはそれこそが生なのか。
 久しぶりに近所の公園の脇を通る。公園には田んぼがある。水だけの頃から稲の行方を見守っていたが、行かないうちにもう稲刈りが終わり、刈られて干してあった。金色だった。おフネさんを思い出した。干してある姿に、生そして生を終えて継がれるサイクルを見たのかもしれない。《百舌巣》の白い羽の軽さ、《昆虫二題のうち 葉陰魔手》の柔らかな蜘蛛の巣の輝き。刈られた稲はどこに行くのだろうか。木々はまだ緑だ。だが夏よりももっと暗く鮮やかな緑の輝きをもっている。もうすぐ色を染めるだろう。
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2009-10-05

「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」の金の色の天気雨


 「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」(九月十六日〜十月十二日、日本橋高島屋八階ホール)に行ってきた。九月五日の日記のブリヂストン美術館は、実はこの前売りを買うために寄った高島屋から地下鉄乗り場に向かう地下道で案内表示を見て出かけたのだった。今回はここに来るためだけが目的だったので、その地下道を歩く。ここはミュシャ展などもやっており、何回か来たことがあるが、なぜだろう? 地下鉄入口と直結していることにいつも軽い驚きがある。伊勢丹、三越ほか、おそらくこうした出入り口と直結したデパートは多い。今までもさんざん見てきているはずなのに、ここだけは少し違和があるのだ。おそらく他は、デパートに入るにあたってか、入ってのち、階段をさらに降りたり登ったりと、地下道とワンクッションあるからかもしれない。高島屋は、階段がほとんどない。まさに直結といった感じでデパート内に入る。入って数歩で、左壁横に売り場案内、ここに段差が少しだけある。右に洋菓子などの売り場が広がる。地下道とデパートの境目が希薄に思えるのだろうか。突然、デパートに入ったことに、この頃感じているような境目についてのかるいめまいがおとずれるのだろう。これはすこしここちよい。境目は思ったよりはないのだから。
 会場は八階なので、エレベーターで行く。降りると、北海道の物産展をやっている。その向こう、奥の壁際で『大ラリック展』が開催されていた。九月二十五日から二十八日の三日間限り、百五十周年記念の新作コレクションなどを展示、おそらく即売できるようにしてある。展覧会ではないので、無料だしチラシもない。物産展の喧騒、イカやウニやチーズの匂い、試食コーナーの賑わいなどのすぐ脇に、壁で仕切られた黒で統一された静かな長方形の空間がある。その長方形の端のほうで、ウィーン世紀末展入口を示すパネルが見える。こちらは、エスカレーター付近にポスターで紹介されていたので、もちろん行こうと思っていた。だが、たらこ、干物、チーズケーキ、生キャラメル、カニ、ジャガイモたちばかりだ(それはそれで楽しそうなのだが)、ラリックに会えるのだろうかと少々不安になっていたら、やはりこちらも突然現れたので驚いた。賑わいと静けさとが薄い壁で仕切られた細い通路で、区切られてあることが、何か天気雨のように思えたのだ。それも道をはさんでこちらは晴れている、あちらは雨、その境目を目撃しているような。

 クリムトに会いにきたのに、ラリックを先に見る。この境目のなさもうれしい。まるで先週の続きのようではないか。先週、オルセー美術館展で思いがけずラリックを見た。私はいつも、十日前と今日では違う人間になってしまっているような感覚もある。あの時はなんとか日記やら散文、そして詩が書けた、だが今日はどうだろう、あの時と違うからもう書けないのではないか、そんなふうに思ってしまうのだ。実際そんなことはないのだろうが、この頃は勤めはじめた会社の仕事にまだ慣れないこともあって、そちらにだいぶ頭や体がかかずらってしまっているので、特に断絶を感じてしまう。その断絶に橋渡しをする柔らかな光の手のように、ラリックがいてくれた。そんな想いもある。彼の作品自体が、日常と芸術の境を天気雨のように降り注ぐべきものだから。灰皿、カーマスコット、花瓶、大皿、香水瓶、ペーパーウェイト、ランプ、グラス。これら日々をいろどる様々なものたちが、ラリックの手により、雨のようなきらめきをまきちらす。オパールセングラスたち。

(ラリック展より)


(《バコーントゥ》(バッカスの巫女たち)、1927年、伊豆ガラスの美術館)

 ただラリック展は、どうしたことか、というよりも何となく予測はついたが、あまり感動しなかった。ルネ・ラリックが実際に携った時代の作品が何点か並んでいる。アンティークのような扱いだ。新作というか、ラリック社の現在の作品たちが、並んでいる。オパールセングラスの大皿、花瓶(ただ、照明をあまり考えていないらしく、七色の変化が感ぜられず、少し離れてようやくオパールセングラスだとわかったものが殆どだったが)。そして、それ以外、会場の大半を占めるのがルネ・ラリックのデザインしたものを現在のガラスで複製したもの、といった感じだ。ラリック・ノワールとして、それを黒でつくったものもある。なぜだろう、同じデザインのはずなのに、当時のラリック製品に見られる繊細な輝きがない。年月による、ガラスのくすみ加減とかだろうか。だが、例えばバコーントゥ(写真はオリジナル、伊豆で撮ったもの)は、当時のものはオパールセングラスだったが、現在のはクリスタルとブラックガラスだ。これが創意工夫なのだろうか。だがあのバッカスにささげられた女性たちのきらめきがない。なまめかしい肌のあかるさがない。それは冷たい、複製だ。カーマスコットがペーパーウェイトとして売られている。オリエント急行の装飾ガラスが額に入って売られている。その質感の違いは年月からくるだけのものか。そうではないだろう。なまじ、ラリックに忠実だから、違和があるのだろうか。そこに発展があまり感じられない。この「「変奏曲=賛辞」は、複数の出会いである。すなわち、二人の作家の出会いであり、また、二つの世紀の出会いでもある。」これはディドロの小説を劇作するにあたって、クンデラが『ジャックとその主人』の冒頭で書いた言葉だが、そうした出会いに現代のほうが押されているゆえの、感動のなさかもしれない。だがそれでも、ラリックの作品に連なるものに、現代も出会えることを良しとする。
 会場を出て、いよいよ「ウィーン世紀末展」へ。こちらはラリック展と会場も近いので、天気雨ではない、霧雨の夜にむかって開かれたようだ。奥もまた暗いから。
 ここで、展覧会の概要をHPから。
「ウィーンの黄金時代を彩った画家たち。十九世紀末ウィーンー保守的な芸術を脱し、アカデミズムに訣別を告げた「ウィーン分離派」を中心に、絵画、建築、デザインなどの分野を超えて表現者たちが交流し、彼らの独創的な表現がウィーンを彩りました。本展では、ウィーン・ミュージアム(旧ウィーン市立歴史博物館)のコレクションの中から、クリムト、シーレをはじめ、マカルト、モル、モーザー、オッペンハイマー、ココシュカらの選りすぐりの絵画約一二〇点を公開いたします。」
 ただ、私はクリムトとシーレ目当てだった。そしてネットなどで少し調べると二人の作品は出品数が少ないので、二人展だと思って行くとがっかりするなどとあったので、あまり期待していなかった。ただ《パラス・アテナ》が来るという、それだけが観れればいいと思った。
 だから、ほかの作家、作品や構成についてはここでは割愛する。全体を見て、やはりクリムトにしか惹かれなかったので、図録を買わなかったし、出品リストを手に入れなかったので、詳細がわからないのだ。調べればわかるかもしれないが、ほとんど興味を覚えなかったものの詳細を調べるのもいささか面倒だ。さて展覧会。クリムトは《寓話》(一八八三年)がまず最初だ。一八六二年生まれなので、まだ二十一歳の作品。アカデミックなもので、イソップ寓話を描いている。こんな時代もあったのだ、となんだかうれしくなる。こんなふうに絵を学んできたのだ、と彼の一端に触れられたことに。次が《牧歌》(一八八四年)。アラベスク模様の枠が描かれる中を男性二人が描かれ、さらに彼らが中央の丸い枠を持っている。丸枠のなかに女性と子供。『寓意と象徴』という本に掲載された絵の原画だそうで、彼らに何か意味があるのだろう。全ての人物が裸体だ。だが、そのことよりも装飾の凝った枠に、後年の彼の凝った装飾を見ることができ、やはりうれしくなった。だんだんクリムトになってゆく。ちなみに彼は十四歳のときにウィーンのオーストリア工芸・産業付属の工芸美術学校に入学、建築装飾に必要な技法と様式を学び、八十三年に卒業している。

グスタフ・クリムト《牧歌》

 そして、『寓意と象徴』の最終素描であるという、《「彫刻」のアレゴリー》(一八九六年)は、牧歌の一年後のものだが、もはや後年のクリムトの描く女性のメランコリックななまめかしさと、毅然とした姿の混在を、あますところなく描いてある。鉛筆と水彩の素描だが、裸の女性の後ろに頭像の彫刻たちが置かれ、やはり建築装飾から発展していった、様式美が確立されている。これは後で知ったが、父と弟を亡くした時期の頃の作品だそうだ。悲しみなのだろうか、会場ではわからなかったが、ただ、クノップフの描く女性と近いものがあると思った。クノップフの女性は、孤独者だから。孤独なファム・ファタールだ。謎をひめた運命の女性。だが、それは男性の手に負えないばかりではなく、女性も誰の傍にもいれないということを含んでいる。独りが呼び合う雨がある。

グスタフ・クリムト《「彫刻」のアレゴリー》


グスタフ・クリムト《愛》
 そして《愛》(一八九五年)。彼の独特のスタイルを表わし始めた過渡期の作品。枠ではなく黄色い帯(つまり枠のように上下がない)にはさまれて、夜のような暗がりのなかで、横向きの男女が抱擁しあっている。女は顎は上向きだが、目を閉じているか、伏し目がちだ。男は女を見つめている。画面上部には、若い女性の顔、子供の顔、老婆の顔が悪夢のように浮遊している。夜を妖しく想いつつもどうしようもなくいざなわれてゆく、あのベルギーの象徴派的な夢幻が描かれてあるようだ。黄色い帯にも、黄金を多用した黄金時代の出現を垣間見ることができるだろう。だが彼らの夜に惹かれた。そうだった、《接吻》に惹かれたのも、崖というぎりぎりの場所での男女のぎりぎりなまでの接合に、究極の愛を見たのだが、それも周りの夜のような背景のためであったかもしれない。《愛》は、夜に見えそうで見えない奥行きを秘めていた。それは謎のまま私たちを誘う。
 わたしは実はこの絵を見るのははじめてだったが、十年ほど前だっただろうか、確か島根県立美術館(宍道湖のほとりにある)のミュージアム・ショップでこの作品の栞を買ったことがあった。黄色い帯はなく、中央だけ。輸入品で、裏にGustav Klimt、としか書いてなかったはずだ。長らく大事に机からすぐ見れる場所に飾ってあったのだが、去年の冬の引越しでどこかにやってしまった。今、それを少し寂しく思っているが、それはともかく、展覧会で見たときに、名前がわかった驚きと、いつも見慣れた絵との接点と分離に、驚いたものだった。わたしのそれは小さな栞だった。題名もわからずに買ったものだったが、何かしら惹かれるものがあったのだろう。展覧会で観たから、記念に買うとかではなく、そうしたものを買うのは私にとって珍しいことだった。それは飾ってあることで、慣れ親しんだものとなっていった。会場で観たことで、《愛》(Liebe)というのだと名前がわかる。そして栞でも惹かれたのだが、会場のそれに、似ていながらも違う感動を覚えたものだった。生で観ることに衝撃を受けていた。それは寂しいような悲しみにも似ていた。なぜだろう、この頃、絵を観ると悲しくなる。美しい詩行に出会うと悲しくなるように。栞からうけたそれとは似ていながら違う感動があったというのはそういうことだ。それは凝縮と離反だった。私の日常で見慣れていたはずの小さな絵との結合、私の十年間の想い、そうしたものの、夢幻の出会いと別れだった。《愛》の女性は伏し目がちだ、彼女は閉じることで何事かを見ているのだ。

 そして、次が《パラス・アテナ》(一八九八年)。こちらは多分《接吻》と共に、その昔、今はない池袋のセゾン美術館で観たことがあると思う(「ウィーン世紀末」一九八九年)。とても若い頃だったので、まだ今よりも絵に対して、注意が散漫だったからだろう、その時の印象はほとんどない。ほぼ新しい作品に出会う感じだ。画集などではもちろん知っていた、本日のお目当てのもの。これは保守的な団体から分離し、一八九七年に新しくまさに「分離派」を結成し、三十五歳で初代会長となったクリムトの第一回分離派展出品作。パラス・アテナは学問と芸術、戦いのギリシャ神話の女神で、後に分離派の守護神的存在となった。黄金の甲冑に頭から胸まで身体を包み、真正面を見つめる青ざめた女神。胸には、その目を見たものを石に変えてしまうメデューサの首がつけていて、舌をだしているところがユーモラスでもあり挑発的でもある。左手には金の槍を持ち、右手には腕を肩の高さまで広げた小さい女性を支えている。こちらは天秤秤かなにかのようでもある。

グスタフ・クリムト《パラス・アテナ》

 なぜだろう、そういえばクリムトには絶大な信頼がある。心配性なので、普段は割と悪いほうに考えることが多い。だからたいして期待しないでおくのだが(そのほうが思いがけない感動などもある)、こちらは最初から期待してきた。もしかすると、その昔に見た記憶が、どこかで残っていたのかもしれないが。期待していると、たいていは期待の大きさの前で現実は萎縮してしまうものだ。だが、《パラス・アテナ》は違う。期待とかを粉々にし、それをあの金の色に溶け込ませ、新たな物質を作って眼前に現れたようだった。青ざめた顔と見開いた目が、入口となってやはり背景の暗さに誘う。背景はギリシャの壁画のような女性と、パラス・アテナの鳥、フクロウが夜に飲まれるように描かれている。金は絢爛というよりも、なにか寂しいきらめきのように画面ではうっすらと明るい。それは薄曇りの空に現れた夕方の明かりだ。あるいは天気雨の最中だ。明るくて暗いのだ。アテナもまた、知恵と戦いの神らしく、雄雄しくもあるが、どこか妖艶さが漂うように。私はもはやお目当てだとかも忘れて、《愛》同様に、この絵の前に釘付けになっていた。この雨のような金の色に。こう書くとき、わたしはクリムトの《ダナエ》(一九〇七/八年)も想起している。アルゴスの王女ダナエは、父王を滅ぼす子供を身ごもるだろうとのお告げから、父により塔に閉じ込められていた。そこにゼウスが金の雨となって、窓からダナエに降り注ぎ、結ばれたという神話。ダナエは裸で胎児のように眠っている…。金の雨が精液のようで心底エロティックだ。

 次がエゴン・シーレ(一八九〇─一九一八年)のコーナーだった。クリムトの若き大切な友人。一九〇七年、十七歳で四十四歳のクリムトと出会い、互いに影響を受けあう。一九一八年、クリムトの死(二月六日)の八ヶ月後(十月三十一日)、スペイン風邪で逝去。
 私は彼の描く、グロテスクなまでになまなましい人物たちに惹かれるが、今回はクリムトの雨にぼうっとしていて、もしかするとあまり観ることに熱がはいらなかったのかもしれない。シーレのほうが自画像などを含めて出品作が多いのだが。ただ、そのなかでは《ひまわり》(一九〇九年)に心が動いた。長細い画面に、一輪の大輪のひまわり。だがその花ももはや枯れている。立ちながら枯れたひまわり。まるで彼の描く人物のように死をはらんで生々しい。彼にとっては人物も花も死ぬべき存在として、等しいのだ。こんなに痛ましいひまわりを見るのははじめてですらあったかもしれない。自然界のそれは、黒く枯れた花に、種を見ることができる。それはひまわりにとっては死かもしれないが、つがれてゆくものだ。だが、このひまわりの花の黒は、髑髏の眼窩のようで、種が感じられない。それはぽっかりあけた死だ。わずかに画面下に描かれた無数の花が、生をつむいではあるのだが。

エゴン・シーレ《ひまわり》

 会場を出て、クリムトの絵ハガキ、パラス・アテナのキャンディー缶などを買う。いなくなってしまった《愛》、名前のわかった栞の代わりに、絵ハガキとマグネットを買う。彼らがまた金の雨を降らしてくれるだろうか。外は晴れている。これを書いている机の近くに、様々なクリムトが飾られている。《ダナエ》のマウスパットもある。ラリックも香水瓶などを飾っている。これらがまた天気雨の境目となってくれるだろう。

グスタフ・クリムト《ダナエ》

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