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2009-11-25

西瓜の血と鶏冠の血 (北斎そして…若冲《動植綵絵》)


 すこし前の話になるが、「皇室の名宝─日本美の華展 第1期 永徳、若冲から大観、松園まで」(二〇〇九年十月六日─十一月三日)に行ってきた。ちなみに現在は「2期 正倉院宝物と書・絵巻の名品」を開催している(十一月十二日─十一月二十九日)。場所は東京上野・東京国立博物館。
 これには、その前につながる点、そして線がある。
 先ごろ発刊した詩誌『ヒマラヤ』(編集・発行人/萩原健次郎)に、私はここの日記を土台にした北斎についての散文を書いたのだが(日記は六月五日、十五日のもの)、それに対して同人であり発行人の萩原さんが感想を下さったことがあった。その折に彼自身は北斎の《西瓜図》に衝撃を受けたと書いておられた。私も実物は観たことがないが、好きな作品だった。細長い肉筆画で、画面下に真っ二つに輪切りにされた西瓜。西瓜の赤い実の上に白い布が被さり、さらにその上に包丁。画面上部には、綱状のものにぶらさがった、西瓜やほかの瓜だろうか、皮を剥いたものがぶらさがっている。それは蛇のようにうねうねとしている。そして西瓜の赤だ。まるで人肉のようだ。というよりも切断面の赤が血のようなのだ。真っ二つに斬られた西瓜の上に、冷たい金属質の包丁が乗っている、そのうえには幻のような蛇たち。「日常の平凡なものが北斎の幻想によって生命を与えられ怪奇なものへと変容した」(『週刊アーティストジャパン創刊号 葛飾北斎』ディアゴスティーニ社)。現実は平凡なのではない。そこには幻想が溢れているのだと、うっすらと滲んだ赤い汁が、毛細血管のように私にささやきかけてくれていた。
 この《西瓜図》が「皇室の名宝展」にあったと、今度はやはり『ヒマラヤ』の同人の広瀬大志さんがメールで教えて下さった。若冲の《動植綵絵》目当てで観にいったら、丁度、『ヒマラヤ』内で話題になっていたこの絵が展示されていたと。彼も時宜にかなった偶然に驚いているようだった。いっぺんで北斎ファンになったと書いてもいた。これらのやりとりが十一月の初めまでの間。《西瓜図》展示の1期を見るとしたら、もはや最終日の三日、文化の日しかない。これはもう運命の糸だ。あの西瓜の蛇のようなぶらさがったつながりだ。なんとしてでも行かなくてはと想った。そこには、なにか続きを期待する面もあった。ニュアンスがつたわりにくいかもしれないが、ヒマラヤ、北斎、そして同人たち。なにかもっとリレーが続くのではという予感があったのだ。もともとわたしにとっての北斎が、クレーの展覧会で北斎漫画を観て、ということからはじまっているのだから。
 そして三日。展覧会は1期最終日ということもあってか、長蛇の列、入場制限、入ってからもイモ洗い状態、とても混んでいたので、ほとんどゆっくり見るのをあきらめてしまった。どうせなら《唐獅子図屏風》(狩野永徳、十六世紀)もちゃんと見たかったのだが、人だかり、人、人、おばさんたちの知識をひけらかした会話たち、ありきたりの賛辞(静かにみてくれ)、そうした周辺の状況にうんざりして、こちらがもはや見る気持ちにならなかった。そして? さきに《西瓜図》にしよう。こちらは展覧の真ん中ぐらいの順番だったが、なぜかあまり混んでいなかった。だが、多分そうだろうと軽い予感のようなものもあった。きっとこんあ風に、じっくりと見れるだろうと。そう、ほとんどここに来てはじめて、前でゆっくり観れた作品となった。まったくのエアポケットというのではなかったが、印象としてはぽっかりと空いた空間だった。それは北斎が日常に穿った穴というイメージとしっくりくるものだ。日々に穿たれた穴から幻想がなだれをうってやってくる、しずかに、確実に。《西瓜図》(一八三九年)、北斎八十歳の作。画集などで観ていたので、感動が薄れるのではと想っていたが、絵を前にして、そんな心配は吹き飛んでしまった。布ににじんだ赤い果肉は、こちらにもしみいるようだった。じっとりと血だった。皮をはいだあとの細胞ににじむ血のようだった。血をすって眠っている刃がとてつもなくつめたい。そして音もなくうねうねとたれさがり、生きる皮だった。これらの均衡がはりつめた穴をつくっていた。現実から幻想がふきこんでやまない。
 先にも書いたとおり、人だらけだったので、絵を観る気持ちになっていなかった。だが細い糸が、運命の糸のように繋がれていた。それは運命の輪のつむぐ深刻なものではなかったが連なりだった。こんなにも混雑にうんざりしていたのに、やはり奇妙な予感があった。というよりも糸を信じる気持ちになってもいたのだ。つまり若冲だ。人ごみのなかから、人の頭ごしに、若冲をみた。最初は《旭日鳳凰図》(一七五五年)だった。絢爛豪華な孔雀とニワトリをたしたような鳳凰。だが、残念ながら最初の出会いはまだ、人たちに圧倒されていたので、ほぼ素通りしてしまった(惜しいことをしたと思う)。素通りしながら、ああこれが広瀬さんが目当てだといっていた若冲かと思った。同時に、以前、関係していた雑誌の仕事で若冲の特集を組んでいたことを思い出してもいた。人、人、人。そして若冲の《動植綵絵》(絹本着色、一七五七年─一七六六年頃)、全三十幅の展示。やはり最初の数枚は、ほぼ流してしまったと思う。だがどれだっただろう? 覚えていない。気が付くと人たちを通り越して、釘付けになっていった。
 伊藤若冲(一七一六(享保元)─一八〇〇(寛政十二)年)。京都錦小路の青物問屋の長男に生まれる。二三歳で家督を相続。商売に専心できず、学問も女も書も苦手、唯一の趣味は絵画だけだったという。四十歳で家業を弟に譲り、絵画制作に専心。濃彩の花鳥画と水墨画に異色の画風を作りあげる。濃彩の花鳥画の代表作に、京都相国寺に寄進した《動植綵絵》など(これがのちに皇室に献上され、現在の宮内庁、三の丸尚蔵館所蔵に至った)。水墨画の代表作に《鹿苑寺大書院障壁画》。天明の大火(1788)に遭って窮乏し、晩年は深草の石峰寺の門前に隠棲、八五歳で死去。若冲という名は、親しくしていた相国寺の禅僧、大典顕常が老子の「大盈は冲しきが如きも、其の用は窮まらず」からつけたという。満ち足りたものは空しいもの、空っぽに見えるが、その働きは尽きることがない。という意味か。“冲”は、沖の俗字だが、空をもさす。


《動植綵絵「群鶏図」》

《動植綵絵「南天雄鶏図」》

 さて、その《動植綵絵》だ。「群鶏図」の模様の微妙に違う、つまり色彩豊かな十三羽の鶏たち、その濃密さ、そして模様の違いにもかかわらず、通低奏音のような鶏冠の赤。この赤がおそらく画面の鳥たちを繋いでいるのだ。若冲は、自宅の庭に鶏を放し飼いにして、それらの写生と観察を何年も怠らなかったという。先の鳳凰も、その経験が生きているのだろう。ともかく、例えば、鶏たちの濃密な気配にだんだんとむせそうになっていったのかもしれない。あるいは「南天雄鶏図」の南天の真っ赤な実と、鶏の鶏冠の赤の、つぶつぶとした鮮やかさ。南天の枝には、縮尺のおかしい小さな鳥がいる。鶏に比べて小さすぎるのだ。これはだが、若冲は写生に長けていた、あるいはリアリズムに徹していたというから、ルソーのように関心のあるものを大きく書いてしまうということなのかもしれない。鶏はそうした関心のなか、生き生きと大きな鶏と彼に良く映える、兄弟のような南天を描く。あとで『ユリイカ』二〇〇九年十一月号の特集が若冲だったので購入したのだが、そこでは黒川創がこんなことを書いていた。「むしろ、彼は「現実の景色をわれわれはこういうふうに見てるよね?」と、絵に描いて示しているのである。視覚は無意識のうちに対象を選択し、ときに錯覚を通して、眼前の世界を把握する。」実物の写生を通じて、彼は関心(イコール錯覚)こそが現実だといっていたのか。それはこういうことだろう。私はいまだに不思議なのだが、私が見る月は、写真で撮る月よりもいつも大きい。
 ともかく、この赤に、鶏にむせたのがきっかけだったろうか。あるいは赤い「紅葉小禽図」の、画面いっぱいに描かれた、うっそうとした紅葉たち(小さな鳥、瑠璃らしいが、鳥はほぼ選択の端に置かれている)。やはり赤に圧迫されてしまう。まさに満ち足りたものたちが、尽きることなく、空っぽにしてゆくようで、たくさんの空気だった。人たちはあいかわらずだったし、多すぎて、絵の下方がよく見えないこともあったが、にもかかわらず、空っぽが満ちていった。西瓜図の血の糸がつないでくれた縁だった。糸にひっぱられて、きてよかった。糸は人ごみをかなり忘れさせてくれた。対象を選択させてくれたのだった。
 この赤に誘われてだったか。赤に導かれて、ふるえたのが今度は白だった。それもどの絵が先だったか記憶にないのだが、たとえば「雪中錦鶏図」、錦鶏(鶏ではないのだが、赤い腹が、鶏冠の赤を彷彿とさせ、やはり字のとおり、鶏を想起してしまう)が杉の枝にとまっているのだが、桃色の牡丹が見え隠れする杉の葉に、これでもかと積もった雪、雪。それは窒息しそうな激しい雪だ。真ん中に描かれた二羽の錦鶏たちが主役なのではない、「雪中錦鶏図」だというのに、雪が主役のようだった。重くべしゃりとした、あるいは粘質な白さが、観る私に張り付いて取れない。
 そして「雪中鴛鴦図」。通常の意味での出会いというのなら、これが一番惹かれたかもしれない。雪のつもった池のほとりに雄の鴛鴦、水に頭を突っ込んだ雌(つまり尾のほう、半分しか見えない)、そしてやはり縮尺の変な鳥が枝に止まっているのだが、それはともかく、枝につもった雪、雪。そこから雪が落ちているのか、あるいは降っているのか、珠となって、点在する点、点、珠、雪のなす、円、円。鴛鴦は個人的に好きな鳥だが、それよりも、雪の鮮やかさに惹きつけられた。それはさびしいぐらいにぬくもりのある雪だった。雪の粒粒が命を放っていた。おいでおいで。選択されすぎた、空っぽの満ちた雪だった。この雪は、鶏が鳳凰や錦鶏とつながりをもっているように、「桃花小禽図」での桃の花たちにも見出された。おそらく一本の木であろう桃花の満開が、数千本もあるかのような錯覚を引き出していた。それは雪のような、増殖する花びらだった。

《動植綵絵「雪中鴛鴦図」》

《動植綵絵「桃花小禽図」》

 そして、マグリットやエッシャーに感じたようなありえないものたちの合致を感じたのが「蓮池遊魚図」だった。ここでは、水面よりも枝を突き出して咲くはずの蓮の花が画面左下、左上、右上と、三方に配され、葉と共に縁取っているようである。そしてその真ん中に、水中であるはずの魚たち、鮎や山女が泳いでいるので、なにか空中を魚たちが泳いでいるように見えてしまう。空を泳ぐ魚たち、水中花のような蓮の花たち。私たちはこんなふうに魚と蓮を一緒に見てしまうのか。そうではない。だが、蓮を見た記憶と魚を見た記憶は、まざりあうだろう。現実を描きながら、幻想を…。そうではない、現実は充分幻想なのだ。わたしたちが取捨している、そのことが現実ではない、幻想なのではなかったか。夢には接続詞がないという。だから、短い時間に多用な映像を見ることができるが、接続詞がないから、起きて思い出すのに困難が生じるのだという。「蓮池遊魚図」は、接続詞のない夢のようだと思った。現実の魚たち、蓮たち。だがそれは接続詞のない夢の景なのだ。

《動植綵絵「蓮池遊魚図」》

 もしかすると、こんな風にここで観た、出会った三〇幅すべてについて何か描けるかもしれない。だが省略する。博物館のミュージアムショップで、若冲の本を何冊か買った。その中の一冊、新潮日本美術文庫『伊藤若冲』にこんな文章があった。「(動植綵絵)と似た質を他の画家が別に実現した例として、唐突に思い浮かんだものがある。すなわち、若冲より四四歳も年下で、京の都とは対照的な文化風土の江戸に活躍した、画狂人こと葛飾北斎(一七六〇─一八四九)の肉筆画、それもとくに最晩年の信州小布施で祭り屋台の天井に描いた波濤の絵や、龍および鳳凰の図がそれである。(中略)自己運動を起してでもいるような錯覚を覚えさせられるそれらの絵は、遠い時空のへだたりを超えて若冲画とほぼ等質な要素をそなえもっていることに気づかされる。」
 現実を通して、どうしても幻想を描いてしまう、呼び込んでしまう。リアリティがイリュージョンを生じさせる。こうしたことも、二人をどこかしらで重ねたくなる所以であるかもしれない。そして、だからこそ北斎に惹かれるのなら、若冲にも同じように惹かれることになるのだと結論づけてしまいたくなるのだ。西瓜の血と鶏冠の血。そういえば北斎にも《群鶏》(一八三三年)という団扇に描いた錦絵がある。密集の作り出す濃密、むせそうな鶏冠たち、赤。

葛飾北斎《群鶏》

 若冲もやはり、遅ればせに出会った画家だ。十年ほど前に、没後二百年ということで開催され、ブームのきっかけとなった展覧会のことも行かなかったが覚えている。こんな風に、大事な出会いの機会を逸してしまってきたのだろう、いいかげんにしろと自分を叱咤したくなるが、遅ればせでも出会えて良かったと思う。現在、滋賀県のMIHO MUSEUMで、「若冲ワンダーランド展」(十二月十三日まで)を開催中、そして来年二〇一〇年春には静岡県立美術館と千葉市美術館で「若冲アナザーワールド展」が開催されるという。滋賀は難しいが、このままいけば多分、また千葉での展覧会で出会うことができるだろう。
 本当は、若冲や北斎と関連づけて、鴨や鵞鳥(雁が家禽になったものが鵞鳥)のことを書こうと思っていた。北斎の《流水に鴨図》(一八四七年)、そして若冲の《動植綵絵「芦雁図」》。私は昔から鴨や雁が好きだった。今では、彼らをどこかしらで見かけると、ほとんど救いのようなものすら感じてしまう。ありがたいことに、彼ら、特に鴨とは、現在家の近くの川や池のある公園でほぼ毎日出会うことができる。鴨に出会う、たまに鴛鴦、白鷺。彼らをみると、殆ど絵を前にしたような、違和を感じる。日常にぽっかり明いた穴だ。そこから救いが生じる、痛みに似た感動が生じる。違和もまた現実なのだが。《動植綵絵「芦雁図」》は同じ題名で二枚あった。一枚は鵞鳥のような白い雁が、背景の草をくちばしで咥えている。もう一枚は雪の枝が右下端にある空をほぼ落下しているのではないかと危惧してしまう、茶褐色の雁。彼らにこんなところで出会えたこともうれしかった。これも赤い糸だと思った。小さな運命の糸が紡がれた。では紡がれて、なにができるのか。北斎の多用したベロ藍は、若冲が殆ど最初に使ったという。近くの川に、鴨たちが増えてきた。点と線。それはなにかしらスクリーンのようなものにちがいない。


《動植綵絵「芦雁図」》
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2009-11-15

総州の海、寝待月。寄せてはつなぎ…




 前回も書いたが、十一月五日は誕生日だった。この日は平日だったので、その日に近い土日に泊りがけで海に出かけた。脈絡がないかもしれないがそういうことだ。なにせ海埜なのだから。
 一泊二日なので、関東近郊の海に限られる。昔から伊豆が好きでかなり出かけていたが今回はあまり出かけたことのない千葉へ。やはりここで触れたことだが(こうして連綿と、ことばが日々をつらぬいてくれる)、この選択には、千葉市美術館で観た北斎の《千絵の海 総州銚子》がどこかに残っていたこともあった。私が彼に出会ったはじめての作品だ。つまり生でみてひきこまれた作品ということだ。波が主役の作品。舟はちいさく、波間に転覆しそうに斜めにへばりついている。波の力に圧倒された、そのうねり、その水しぶきに。もっとも宿も出かけたところも、銚子と同じ側の房総半島、つまり外房ではあったが、もっと南側だったが。
 神奈川県の川崎浮島JCTから東京湾を横断して内房の木更津に着くアクアラインで出かけた。家のある場所から川崎は住所的には隣。多摩川を下ってゆく感じで海のほうへ行く。北斎つながりでいうと《冨嶽三十六景 武州玉川》から総州へ行くのだ。北斎は連綿とわたしのなかで続くのかもしれない。彼だけではないだろうが。
 秋の晴れた一日だった。多摩川の土手沿いのススキがなびいている。猫じゃらし、エノコログサがいたいけにうつる。セイタカアワダチソウが黄色い花を空にむかってかかげている。こうした花たちのふるまいがいちいち、いつからか心に潜るようになってきた。いや、いつからかではない。おそらく段々と、なのだ。一滴、二滴、三滴…。そんなふうに徐々に染み入ってきたのだった。
 川崎浮島から海にもぐり、地上に出たところが、木更津よりの人工島の海ほたるPA。これらは名前がいい。川崎の浮島は通称“風の塔”。遠くからみると、風をうける帆のようにそそりたっている。ここから海の下に入り、出たところが人工島の“海ほたる”。海のうえでぽっと光るというイメージから公募でつけられたらしい。川崎方面からくると、とくにそれが感じられる。こちらからだと、海の下とはおもえない、トンネルをくぐっているようだ。そしてだんだん明るくなる、すると海の上だ。忽然と出現した海ほたると、房総半島へ伸びたアクアラインがいきなり現れる。だがそれよりも海だ。突然の海。なぜだろう? あまり海の色は鮮明ではない。鈍青だ。この時、空は雲が多かったが、それが理由ではないだろう。おそらく海の明度の問題だ。そのことが少し翳りをもたらす。すこしでもきれいなほうがいいから。それでもとおくに船がゆく。対岸は明るい。


 アクアラインの通行料は現在実験的に片道八〇〇円。安くなったこともあり(つい最近まで三〇〇〇円だった)、夏にもここを通ったが、その時は駐車スペースは満車、空きを待つ車が長蛇の列をなしていたので、海ほたるに寄らずじまいだったが、今回は時期的に中途半端だからだろうか。混雑はしていたがすんなり入れた。海の上のおみやげやさんといった感じではあるが、海産物や千葉特産の落花生などを買えるのがいい。そんな店の一角、海の見える窓の縁に模型のヨットが乗っていた。借景のように、窓の外の海原に浮かんでいるようにも見えた。彼らは親しげに景色を作っている。


 なぜ海を目にすると、心がざわめくのだろうか。信じられないものにであったような、新鮮な気持ちがよぎる。いや、信じるに値するものに出会ったことにたいするためらいといったほうがいいかもしれない。焦がれているものにまた会えたこと。それはふるさとのようにとおいものだ、山のあなたにちかいものに対する想いだ。なのに海だけはこんなふうにふっと郷愁をそそぎこみ、眼前に現われてくれる。それは初恋に似た唯一の近しさだ。
 特にかつうら海中公園でそれを思ったが、その前に養老渓谷、そして月の沙漠の像を見ているので、順を追うことにして、そちらに簡単に触れたい。
 養老渓谷は、内房から外房に向かう途中、外房寄りの大多喜市と市原市の間にある。海に来ているはずなのに渓谷に会う意外性が心地よい。川底の岩が模様上になっってぬれている。まだ葉は色づいていない。だが紅葉の時期は、季語でいうとまさに“山粧う”にちがいない。けれどもわずかに葉が色づいた今の状態は、もうだいぶ秋も深まってきたというのに、まだ夏をすこしだけ含んだ“山滴る”、滴った山の水が養老川に注いでいるようでもあるのだった。木々と空が川に映っている。川に注いでいる。エッシャーの《水たまり》(に映った木々と空と月)、《三つの世界》(空と木々の映る水面、水中に魚)を想起した。こうしたつながりも心地よい。



 そして海のほうに向かう。御宿の月の沙漠像。童謡『月の沙漠』の歌詞はこの砂浜をモティーフに書かれたものだという。大正時代に詩と画で人気を博した加藤まさをが、一九二三年(大正十二年)にもともと詩と挿画として雑誌に発表されたもので、後に佐々木すぐるが曲をつけたとあった。
 記念館もあったが、そちらには入らなかった。この月の沙漠のラクダの像だけ見たかったのだ。ちなみに月の沙漠のサの字が、砂ではなく沙なのは、沙には「砂浜」の意味があるからという説もあるとのこと。たしかに沙はサンズイだ。二頭のラクダに乗った王子さまとお姫さまの向こうに青いサンズイの海が見える。
 わたしはこのように砂浜に砂漠をみることにとても惹かれる。それは宮沢賢治のイギリス海岸のようなものでもあるし、アンリ・ルソーが近くの動物園、植物園でのスケッチから、南国、異国を描くようなことでもある。そこには見果てぬ幻想を引き込もう、つかもう、この場につなげようとする、大切な意志がある。



 そしてかつうら海中公園へ。このあたりはリアス式海岸になった海域が海中公園に指定されている。海上というか海の中に高さ二四・四メートル、水深八メートルの展望塔が灯台のようなかたちで建っていて、陸からそこに行くまでに橋がかかっている。なので橋も海上になるので、橋から見下ろすとあたり一面が湾のなかではあるが海となる。船の上から下をのぞく感じともちがう。船だと乗っている船の立てる水しぶきや水尾が見えるが、橋の上からはそれはない。海の上を歩いているような錯覚とともに、まわりに広がる海に包まれてあるようで、びっくりする。待ち焦がれていた海が、こんなにも近しく、親密にわたしを抱擁してくれるのだと。澄んだ波がやわらかく、しろい肌のような飛沫をはげしくたててくれる。午後二時半くらいだった。傾きかけ、水平線に近づく陽の光をあびた西の方角の海は、金属質のような色になって、海面を光らせている。東はまだ真昼のようだ、ただただ海面は青く白い。そしてあそこに激しく立っているのは北斎の波だ。モネの描いた《雨のベリール》のたてる飛沫だ。ほかにも様々な画(ボナール、クレー、マグリット、ヴラマンク)や映像(東映映画のオープニングの、岩に波が弾けるものとか)が、波を見るうちに押し寄せてきたが、この波を見ることで、彼らとなにかを共有しているのだと感じた。その意味でも包まれてあるのだと思った。その意味でもつながっているのだと。




 宿はいろんな意味でいまいちだったが、窓からそれでも海が見えた。これで充分だった。窓を閉めていても波の音がする。もう夕暮れが近い。砂浜を犬をつれて散歩する人がとおりぬけてゆく。浜に面した歩道にずっと座り込んで、海を眺めている人がある。ボードに乗って波乗りをする人たちが多い。五階から見る彼らは、浜辺の人々よりもさらにこちらから離れているのでとくに小さく、影のようにしか見えないので、鮫やイルカのようにも見える。ボードが体で、人が背びれだ。鯨に見えたわけではないのに、ふと北斎の《千絵の海 五島鯨突》を想起した。この絵は高所から捕鯨の模様を描いたもので、湾に大きな鯨がいる。浜近くに小さな船。この高所からということでの想起だったか。だがともかくもまた北斎だ。想起したことがうれしかった。波に乗っていた人々が陸にあがってくる。あちこちで灯がつきはじめた。窓からみえるのは東から南にかけて。裏側では夕焼けなのだろう。うっすらと雲が染まっている。


 夜になり、窓から景色を眺める。堤防あたりの光がにじんでいるが、どこが海だか、砂浜なのか、空と海の境もほとんどわからない。眼前にあったはずの海が遠くなったようで一抹の寂しさがある。窓をしめる。カーテンをひく。寂しさをかかえたまま、波の音を聞き、しばらく眠る。そしてふと起き出して窓の外を見る。海が浜に寄せている波の裾が白く見えるので驚いた。もう朝なのかと思う。その裾から水平線のほうに視線をずらす。光の道が出来ていて、水平線まで伸びている(実際は水平線から伸びてきているのだろうが)。だから水平線が空と区分されているのすらわかる。もう明け方ちかいのだろうか。その上に雲たち、夜の風にながれる雲たちが見える、そして月。そう、まだ明け方ではなかった。月が昇ったので外は明るかったのだ。かなしいことだが、町の灯に満ちた都市部に住んで長いので、月の夜の明るさというのは、話に聞いたり読んだりしたことしかなかった。旅先でも、たまたま機会にめぐまれなかった(曇りだったり、たしか新月だったときもある)。そしてこの明るさというのは、ぜひ見てみたいと常々思っていたことだった。思いがけなくそれがかなったことに驚く。これほどまでに明るいものだとは思わなかった。波立つ、寄せる様々なかたちが夜のなかでも区別がつく。波にうつった光の道が、銀色なのに、月自体はうっすらと金をおびている。空からこぼれる金と銀。それは昼のようなはっきりした明るさではなく、粉が降り注ぐような繊細なものだった。白い波頭がうっすら発光しているようだ。あるいは月の明かりに共鳴して、自ら発光しているようだ。浜に面した旅館やホテルたちもさきほどよりも華やいでみえる。係留されている舟も輪郭がくっきり見える。初めてみることが、どうしてこれほどにうれしいのか。それは新鮮な喜びだ。おそらく幼年につうじる世界との接し方だろう。彼らは初めてが多いから。それは知ることの新鮮な喜びも混じっているだろう。そんなことも月明かりのなかで思った。知ることでつながってゆくようでもあった。時刻は十一時ぐらいだったか、後で調べると丁度、寝待月、満月の十五日からすぎて月齢十九日あたり、その名のとおり寝た頃に上がる月だった。わたしはそして文字どおり寝て待っていたのだった。


 次の日はもう帰りだった。海やススキを車の車窓から見る。風が変わる。潮をふくんだ風がすぎる。景色がいちいち目にしみる。小さな船がゆくのが見える。アルベール・マルケの描いた漁船のようだと思う。マグリットの描いたキャンバスの海景と実際の海景がつながっている、そんな絵を思う(このシリーズは何作かあるが例えば《人間の条件》)。景色たちを見て感じるものと、絵を見て感じるもの、それがいつのまにかほとんど同質のものとなっていることに今更ながら気づいた。わたしは絵をとおして、彼らとつながりたいと思っていた。そして? 景色をとおして、やはりそれらとつながりたいと思っていたからではなかったか。あるいは日々と幻想、日々と想像、日常と非日常がつながっていて欲しかった。そうだ、わたしはつながりを感じていたかったのだ。


 この日は、鯛の浦遊覧船に乗り、道の駅でもあるローズマリー公園を散策した。サルビアの赤い花に囲まれているのは家のベランダにもあるローズマリー。こうしたことにもつながりを思う。池の鴨たち。わたしはなぜか鴨やアヒルが好きだ。だがこのことは次回に触れたい。十一月といえば花は少ない。だが観賞用の唐辛子の実が鮮やかだ。それは紅葉のように花を思わせる。海は道路をはさんで向こうにあるはずなのだが、防風林などでさえぎられているので、見えない。時折、なぜか波の音が聞こえるように思ったが、車の音かもしれない。いつの記憶だっただろう。おそらく小さい頃からずっとだ。夜中にふっと眼が覚める、あるいは眠りにはいる前に。車の音を聞く。波音のようだと思う。特に雨の日はそれが多い。わたしはつむった眼のまま錯覚する。ここは海の近くなのだ。波音を感じながら眠りにつく。こうしたことも眼前の景色は、音は思い出させてくれる。これもつながりではなかったか。



 帰りも海ほたるに立ち寄った。水平線の空と海。空と海の間に引かれた線につながりを思う。そしてまた午後の海に近づいた太陽のはなつ光の道に、昨晩の月の道を重ねた。にぶい銀。海中公園からみた光の道もそこにとけていた。たぶんこんなふうにも景色たちはわたしにたくさんのものをつなげて見せてくれるのだ。もうすぐ海中である地下にもぐる。そのうち玉川が見えるだろう。総州から武州へ。桜の葉がだいぶ色づいている。車の通りが多い。波が聞こえる。

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2009-11-05

冨嶽三十六景、パーティとびっくり箱


 「夢と追憶の江戸展」(九月十九日─十一月二十三日、三井記念美術館)に行く。前期、中期、後期とあり、わたしが赴いたのは、中期(十月十四日─十一月一日まで)。チラシには中期に葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川県沖波裏》が展示されるとあった。北斎目当てに出かけたのだ。ほかはいい。今までのとぼしい浮世絵体験を思い浮かべる。それはパーティー会場のようだ。知己を得る。あたりさわりのない会話をする。だが彼らとは知人になっただけだ。何かが違う、浅いつきあいのままおわってしまうだろう、たぶん。それではいけないと一生懸命に話をあわそうとする。だがだめなのだ、どうしたって友人にはなれない。広重はなぜ駄目なのだろう(東海道五十三次シリーズもみたが、どうも優等生すぎるような気がしてしまう)、写楽もなぜだめなのだろう(表情に、おおと思うが、わたしは人物画が基本的になじめないのだ)。ひびいてこない。浮世絵パーティを、どこかしらさびしい気持ちをかかえたまま、帰ろうとする、そうして北斎を見つけるのだ。ぐいぐいと曳き付けられる、大切な友人。そこだけほっこりとどぎつくも明るい。彼とは出会ったと心底いえる、あとの人々とは挨拶をかわすだけだった。だからそれからは、彼に会うたびに何かをもらう(それは概ね感動だ)と同時に、どこかでほっとする。彼もわたしにとって多くの人々のように、遅ればせだったが。
 さて展覧会。ここは日本橋、三井本館の中にある。「三井本館は、アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン社が設計、一九二九年に竣工されたアメリカン・ボザール・スタイル新古典主義の昭和初期の日本を代表する重厚な洋風建築として、一九九八年に国の重要文化財に指定されています。」と紹介にある。三井グループ源流の越後屋(一六七三年創業)の、最初に構えた店のほぼ跡地らしい。
 ただ地下鉄で行ったので(「三越前」。この三越も越後屋が源流、三井の越後屋が三越の由来だとあった)、建物の外観は見なかったし、入口が隣接した日本橋三井タワーという高層ビルの一階を通って行くことになるので、最初はそのことに気づかなかった。だが、奥のエレベーターがやけにクラシカルだ。階数表示が秤か時計の長針のように、半円形の上に区分された数字を差す。そして美術館の中の、ふんだんに使われた古い木々の壁、アール・デコの照明たち、暖炉。ちなみにここでも勘違いしていた。古い建物を囲うようにして高層ビルを建てたのかと思ったのだ。あるいは古い建物の外観を下の階だけ残しつつ、中央に高層ビルを。後で外に出て気づいたが、そのどちらでもなかった。中で繋がっているだけで、あくまで隣接だった。ともあれ現在を通ってゆくと、知らないうちに過去に来ていた。この感覚は、浮世絵を見る感じと重なり心地よいし、古い木々の重厚な感じも、木版画を観る気持ちと合っている。いや、そうではないかもしれない。洋画を見る気持ちとだってきっと合っているはずだ。古い洋館だからか。いや、回りにある木が落ち着くのだ。そして適度な暗がりも。
 展覧会、つまりパーティへ。なぜ広重は響かないのだろうかとここでも思う。彼の《東海道五十三次のうち箱根》は、分割された面に様々な色が置かれ、それが山を形成している。キャプションにもキュビズムのようだとあり、確かにああと頷くのだが、そこまでだ。降りてこないのかふるえない。ふるえの前段階でとまってしまう。なんとか分かり合おうとするのだが、どうしてもどこかで距離をおいてしまう。だがわたしたちは穏便だ。温厚にその場では打ち解けてもみえるかもしれない。私たちは挨拶をかわし、ほかの人のもとへおのおの去ってゆく。


 そしてお目当ての《冨嶽三十六景 神奈川県沖波裏》。他の冨嶽三十六景も観ているのだから、大体の大きさの見当はついていたはずなのに、まずその小ささに驚いた。二六×三八センチ。左の大きな波たち、座礁しそうな小さな舟、そして奥にさらに小さな富士。どこかできっと多くの人が見たことがあるだろう。わたしもそうだった。けれど不思議だ。複製などで見かけた段階では、この絵は特に印象をもたらすものではなかった。ほかの北斎の浮世絵を生で観て、はじめてわたしにせまってきたのだ。それまでは別に大きい海ではなかった。水ですらなかった。つまりパーティ会場で、よく見かけはするが、話をしたことがない部類の絵だった。だが彼と出会った、彼の人となりに魅了された(この場合、もちろん絵の人となりということだ)、すると、今まで見過ごしていた彼のすべてがわたしにせまってくるようになったのだ。ともあれその後、“神奈川県沖波裏”は、その波の迫力、うねうねとしたしぶきとして、まさにはげしい海の景をわたしにひろげてくるようになった。それはわたしにとっての海そのものだった、だからぜったいにそれは大きい絵、大海原そのものとなっていたのだった。
 会場で見たそれは、書いたように小さかった。だが凝縮された波のつぶ、つぶ、たちが、わたしを小さくし、つぶのなかにとじこめてゆくようだった。そしてそれまではぼうっと気づかなかったが、左の大きな波の手前、舟を飲み込みそうな波のかたちが、奥の富士と相似形になっている。富士の静、不動と、波の動、変化とが同じ形を持つことで、調和を保ち、関係しあっている。動と静は近しいのだ。それは表裏ということにも通じるだろうか。

《冨嶽三十六景 青山円座松》

 冨嶽三十六景では、特にこの相似形はよく観られるかもしれない。以前ここで書いた《甲州石班沢》の川面に突き出した崖と富士、《青山円座松》の青山のこんもりとした茂みと富士。《東都浅草本願寺》の巨大な屋根と小さな富士。そして、この会場では《江都駿河町三井見世略図》。建物が二軒、通りをはさんで建っており、その間から見える富士と、特に右の建物が(というのは左は切れているから)相似形をなしている。さらに両方の店の看板にしつらえられた小さな屋根も富士と似た形だ。ちなみに題名に三井とあるが、この二軒は、右が越後屋(現在の日本橋三越)、左が越後屋が併設した両替商(現在の三井住友銀行系)。一六八三年に創業時の本町から駿河町に移築した折に併設したとある。調べが不十分で申し訳ないが、移築した当時の店の場所が現在の日本橋三越とどう関係があるかが不明。ただ現在の三井本館が、先に触れたように創業時の越後屋の跡地で、日本橋三越とかなり近い場所にあるので、近い範囲内でのことではあるが。ともかく三井ゆかりの作品で、ここにあるのにふさわしい一枚だろう。ともかく相似形たちの作る構築がいい。看板の上の小さな屋根が、日常からなかば突き出ている。それは生活に絶対に必要なものではない、遊びの部類に属する(だが絶対的にわたしたちには必要なものだが)。日常を支える屋根と看板の屋根、そして富士。富士は日常だろうか。どちらでもある。彼らは日々、それでも富士を見ていただろう。江戸の頃は、富士という景色は今よりも親しいものだっただろうから。江戸に限らず関東には富士がつく地名が多い。つまり、今よりもあちこちから見えていたのだ。このどちらでもある富士と日々と遊び。これらが相似形により関係しあっている。わたしが好きなことばでいうと、日々と遊びがまたぎあっているのだ。

《冨嶽三十六景 江都駿河町三井見世略図》

 展覧会では、このあたりから北斎が続く。やはり冨嶽三十六景の《駿州江尻》は画集などで観て、ぜひ出会いたかった一枚だ。遠景に富士。だが駿州なので、江戸や神奈川よりずっと富士は近く大きい。まがりくねった道をゆく人々の衣服が風ではためき、菅笠を抑えている。瓦版か何かだろうか、無数の紙と、菅笠が右方向へ飛ばされている。強風なのだ。二本の木が右に大きくたわんでいる。ここでも富士の静と、前景の人々や木の動が緊密に関係しあい、緊張感をはらんでいるが、それよりも風だ。ほんとうに風が感じられるのだ。それは時間でもある。立体でもある。平面のなかに風が吹いているというのは、これほどまでに景色をわたしたちに近しいものにしてくれるのだろうか。風がひゅうひゅうわたしにも吹き付けてくる。時間が流れる。

《冨嶽三十六景 駿州江尻》

 そして《隠田の水車》、これも冨嶽三十六景。画面左端に水車小屋。水車から水が落ち、板で組んだ水路に注いでいる。野の向こうに富士。隠田というのは、今の原宿あたりだという。だだっぴろい原野と現在の原宿界隈とのギャップも面白いが、それよりも水車から落ちる水、水の白と藍のうねうねとした小さな線たちでできた流れ。それは生き物のようだし、《神奈川県沖波裏》の水にそそぐようだ。わたしはもしかすると、こんな水が好きで北斎に魅了されているのではないだろうかと思ってしまう。落ちる水だけがめまぐるしく動いている。そこに働くひとたちもいるが、水は彼らよりも早い動きだろう。動きに緩急の差がある。さらに動かない富士。ここでも生と動が、同一画面にあることで緊張しているかもしれない。

《冨嶽三十六景 隠田の水車》

 あと展覧会には数点北斎があったが割愛する。ミュージアムショップをのぞく。どこかで書いたかもしれないが、ミュージアムショップは、わたしにとってみやげもの屋であり、駄菓子屋であり、おもちゃ屋である。なんとなくわくわくする。たぶん今挙げたなかでは、ミュージアムショップはみやげもの屋に近いだろう。グッズ(特に絵ハガキ)を買うことは、旅先で絵ハガキを買うのとかなり似ている。
 北斎に会いにきただけだったので展覧会図録は買わなかった。そして絵ハガキやグッズもざっと見た限りでは欲しいものがない。先と話がちがうと思われるかもしれないが、わくわくすることと購入するかどうかは別なのだ。さてどうしようかと寂しく思う。せっかくの北斎、出会った記念になるものが何か欲しかった。そしてハガキ大の和紙で作った箱が立ててあるのを見つける。すぐ下に、北斎の赤富士(《凱風快晴》か《山下白雨》)の絵ハガキ。別々の商品かと思ったが、ハガキは箱の中身の見本だった。箱には「冨嶽三十六景」とある。冨嶽三十六景の作品集だったのだ。今日見たもの、そして六月に見て魅了されたものたち(《武州玉川》《甲州石班沢》)が数多入っている。第一、冨嶽三十六景すべてが見れるのだ。だが少し値が張る。三十六枚以上ハガキが入っているのだから、順当な値段ではあるのだが、このところ金銭的にいささか余裕がないので迷う。だがもうすぐ誕生日(十一月五日)だ。母と妹から服でも買いなさいと渡されたお金を使わせて頂くことにする。誕生日プレゼントだ。


 家に帰って、夜中に箱を開けてみる。宝箱か玉手箱のように。ハガキの表(こうした絵ハガキだと、裏のように思ってしまうが郵便番号などが印刷されている面)に、題名のほかに番号がふってあり、それが四十六で終わっている。三十六景ではないのかと不思議に思ったが、北斎だからこんな謎もありだろうとあまり注意を払わない。第一、三十六枚よりも十枚も多いのは得した気分だ。宝箱というよりびっくり箱だ。ちなみにそのすぐ後で謎は解けた。三十六枚を刊行した後、好評だったため追加で十枚作ったらしい。そして最初の三十六枚は表富士、後の十枚は裏富士と呼ばれていると、インターネットで図像を検索しているなかで、見つけてしまう。わかったことはいいことなのに少し残念だ。謎は謎のままであってくれたほうがいいと、ちらっと思ってしまったのだった。
 箱は楽しみに開けたが、ここで初めて見る作品は、なるべくじっくり見ないようにした。箱のなかのものは小さいものだし、浮世絵とは質感も違うだろう。じっくりみるのは、本物との出会いの時に取っておこうと考えたのだ。たぶんこの先また彼とは出会うだろうから。彼の多彩な引き出しのひとつに。大切な会話をかわすように、どこかのパーティで会えるに違いない。予感というよりも、北斎はそれでも人気があるので、この先よく見られそうな気がするし、箱には「東京国立博物館」と書いてある。上野にあるこの博物館に常設しているわけではないだろうが、所蔵はしているのだ。そのうちそこで会うこともあるだろうと思ったのだ。だが、せっかくなので解説はじっくり読んでみた。様々な画法を駆使した円熟の七十代の頃の作品群であり、風俗描写を主とした浮世絵から、初めて風景、自然だけを題材にした画期的な作品も含まれている(例えば赤い富士が特徴の《凱風快晴》《山下白雨》など)とある。そしてこんな文面があった。「「甲州三坂水面」の図では、北斎は此の地の夏を描いたのであるが、江戸の人々を始め富士山といえば頂上近くに雪をいただく姿しか思い浮かべないため、水面に写る逆富士には冬の富士の姿を描き、この山が富士山であることを示そうとしている。ために図から受ける印象は不思議なものと鳴っている」。発端はそうであるかもしれない。北斎は写実を描いた。それでは解らないからと、ニーズに合わせた。ニーズが幻想だったのだ。北斎の描いた富士が現実で、水に映った富士が、人々の現実という幻想だった。これも表裏につながるだろう。静と動が近しいように。朝日に染まる赤富士というのも、彼の発見だったという。というよりもそれも彼にとっての現実だったはずだ。既成概念にとらわれないということ。そしてわたしたちが見慣れたということは実は幻想であるということ。

《冨嶽三十六景 甲州三坂水面》

 こうしたことが理路整然とではなかったが、数秒の間にパーッとわたしのなかにあらわれ、そして、この絵を早く見ろ、見ろとせきたてた。箱のなかに入っているのだから、早く探し出せと。まるでパーティではなく、電話口で彼と話せといわれているようだ。会って話したほうが本当はいい。だが今すぐ会うことはかなわない、しかたないから電話をする…もとい箱の中をさがす。絶対あるはずなのに、あるだろうかとドキドキする。そして十九番目。あった。上の空はベロ藍と呼ばれる、濃すぎる、だが空の諧調を微妙に具現している藍の色。そこからうすい水色になり、薄いみかん色の大きな富士がそびえている。夏山なのに青ではなくみかん色だということにも驚く。そして小さな岬のように水面に足をのばす緑たち、木々。波のない水、もともとかなり白っぽい水面に、さらにうっすらと、まるで白い口紅でもさしたような富士が映っている。
 どちらも富士だ。どちらが現実でどちらが幻想か。それはこの均衡のまえで無力な問いになってしまうだろうか。
 そしてわたしが想起したのは、マグリットの《光の王国》の夜と昼の混在だった。わたしはこうした混在、境界上の出会いに、ついひきつけられてしまう。《甲州三坂水面》、夏と冬、季節の混在。小さい画面、ハガキだということもわすれ、あるいはこの小ささが入口となり、わたしを境界にさそってくれる。それは魂の共鳴だった。電話で話していたはずなのに、いつしかパーティでではなく、生身の彼と対面していた、そんな境界のあいまいさでもある。
 箱にゆっくりとしまう。これを書き始めたのは数日前だったが、今はもう誕生日。誕生日プレゼントの大切なびっくり箱。今朝、家のベランダから雪を被った富士の頭が見えた。この辺りは、以前にも書いたが《武州玉川》に近いのだが、冬の澄んだ大気でないと富士はなかなか見えない。季節はゆっくりと、だが確実に冬に向かっている。
02:06:43 - umikyon - No comments