Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2010-01-25

竹久夢二展、遠い青のさみしさ(としての明かりが)


《セノオ楽譜「夢見草」》(一九二一(大正十)年)

 招待券が手に入ったので「竹久夢二展─憧れの欧米への旅」(二〇一〇年一月二十日─二月一日、日本橋三越本店 新館七階ギャラリー)に行ってきた。
 展覧会チラシ、HPから。
「大正ロマンを代表する画家、竹久夢二(一八八四─一九三四)が晩年、欧米への旅に出たことは意外と知られていません。横浜港を出発した昭和六年、夢二は数え年四十八歳。父・菊蔵との死別、愛の破局、仕事の低迷など日本から逃避するように出発した夢二を待ち受けていたのは、世界的不況、ナチスの台頭など苦難の日々でした。この期間の作品は数多く残されましたが、発表される機会もなく欧米旅行の帰国から一年後、心身ともに疲れきった夢二は享年五十一歳で生涯の幕を降ろします。本展は、竹久夢二の約二年三ヶ月間の欧米旅行の「幻の帰国展」ともいうべきものです。滞在中のスケッチには現地の人々の様子がリアルに描かれ、中でも、最期の油彩作品と言われる「扇をもつ女」は、このたび日本初公開です。さらに、欧米への憧れが背景となったヨーロッパ的美人画が描かれた雑誌の挿絵や楽譜などのデザイン、そして夢二の代表作と呼ばれる大正ロマン溢れる美人肉筆画の名品もあわせて展覧いたします。」
 わたしは多分、へそ曲がりで以前は彼のことをあまりよく思っていなかった。なにか好かれすぎている、気に入られすぎているような気がしたのだ。だれに、だろうか。人々に? 中学生ぐらいの時からその傾向があった。学校で教えない人々、まわりで愛好していない人たちに惹かれるのだった。この分類は間違えているかもしれない。おかげで漱石や川端康成、志賀直哉、モネ、源氏物語、これらに会うのに随分遠回りしてしまった。だがマイノリティーは宝石のように輝いてみえるものだ。そこには隠微な香りもまじっていた。当時、本屋で『悪の華』の隣に『悪徳の栄え』が置いてあった。題名を見るだけでぞくぞくしたものだった。『虚無への供物』『さかしま』『死都ブリュージュ』『ドグラマグラ』『泥棒日記』『大股開き』…。それらは本当に宝石だった。
 夢二は、わたしのなかではなぜか遠回り組に分類されていったのだった。チラッと見ただけで、そのまま素通りしてしまううち、離れてしまっていたのだった。
 だが、たとえば鈴木清順監督の『夢二』を観て、まずチラ見ではいけないと想ったのかもしれない。いつだったか、竹久夢二美術館(東京・文京区弥生)でセノオ楽譜(西洋音楽の紹介に重点を置いて、明治四十三年から発行を始めた楽譜集。夢二は大正五年から昭和二年までの十二年間、二八〇曲の表紙絵を担当)か何かを見て、洋の世界に和を混交することで大正の人々に受け容れやすく、親しみやすくした、そのデザイン性を前にして、だんだん凝り固まった思いが瓦解していったのかもしれない。セノオ楽譜では、レタリングまで手がけたという。その字たちの持つ、アール・ヌーヴォーの香りに惹かれたのかもしれない。どこか力がぬけていながら、凛としている。群馬県伊香保に旅行した際、竹久夢二伊香保記念館に出かけたおりに、近くの伊香保温泉の町並みに、ノスタルジーを感じたことと、記念館のたたずまいがよく合っていたことと…そして、いつだっただろう、つい数年前だが、二回目か三回目に訪れた竹久夢二美術館で、展覧会のカタログを買うかわりにそれよりも安価だったので、画集を買ったこともある。その画集をひらいて、あらためて何かに感動するということはなかった。だから淡い印象のままだ。けれどもそうした淡さたちが集まって、遠回りに気づかせてくれたのかもしれない。あるいはそうしたことがある度に軌道修正していったのかもしれない。気がつくと彼の近辺にきていたのだった。まだ実感はなかったが。
 日本橋三越。わたしには珍しく初日に行った。平日の午後だったからだろうか、いや違うだろう。ともかくかなり年配の方たちが多かった。前もこんなことがあった。あれは確かプルーストの映画だ。『見出された時』。周りが年配の方たちばかりだった。まるで映画や小説の最後のシーンのようだった。集まったパーティで、気づいたら自分もまわりも年取っていた。わたしはそうした人の群れはきらいではない。なにか落ち着くし、懐かしい。この懐かしさには、人肌というよりも、家族の温もりにちかい空気が流れている。あるいはかれらが懐かしがっている、その匂いの一端を嗅いでいるということなのかもしれない。
 何度も書いているかもしれないが、わたしは画家でも小説家でももちろん詩人でも、あまりその人の実生活に関心がない。別物だと思っているというより、その人の作品がすべてだと思っているからだ。あるいはわたしが自分の実生活にあまり興味がないからかもしれないが。だから冒頭で載せた引用の部分、会場でも最初に書いてあったと記憶するが、熱をいれて読むことをせずに通り過ぎた。馬耳東風ならぬ、馬目東風だ。眼からどこかに流れていってしまった。だが「夢二は生涯の夢だった憧れの欧米への旅に出ます。だが(…)旅は失望と苦難の連続で」(カタログより)…、「苦難」と「憧れ」これらが背反しながら、ほのかにわたしのどこかで発光していたかもしれない。だがその明かりをほとんど気に留めなかったのだった。
 さて絵に映ろう。洋行という文字からイメージされる明るさがそこからはほとんど感じられなかった。《うぐいすや(伯林客中)》(一九三二(昭和七)年〜三(昭和八)年)は、梅の木の下で踊りでもしているような両手を半ばまで挙げた女性。空色の着物を着て、後ろ向きで、眼を閉じて振り返っている。画面に「うぐいすや 障子明るき 指のそり」と添えられている。これはドイツ女性がモデルだそうだが、まぎれもなく線のほそい、夢二の描く女性だった。淋しげで、どこか遠い。ただ顔の肌の色がいくばくか浅黒いだけが違いだった。初公開だという《扇を持つ女》(一九三二〜三年)という油彩画があった。胸から上のボブスタイルの女性。肌色と青みがかった肌の色、くろずんだ眼が憂いを帯びている。これもやはり夢二の描く、どこか古風で悲しげな女性だった。

《うぐいすや(伯林客中)》

《扇を持つ女》

 それに比べたら、明らかに青い眼の女性、《着物の女》(一九三一〜三年)のほうが、が、外国の女性を描いている感がある。金髪に、短髪の女性。あるいはスケッチの《女》(一九三一〜三年)。こちらはマレーネ・デートリッヒのようなカールの効いた、額を出したセミロングの髪型の女性で、やはりデートリッヒのように煙草を手に持っているのだが、これらは夢二のいつもの日本的な面はさすがに見受けられないが、ふたりともとても淋しいのだ。遠いのだ。《着物の女》は青い眼をほぼ正面にむけていながら、どこでもないところを眺めている。そして《女》は伏し目がちで、やはりわたしたちを眺めていない。そういえば《うぐいすや》もそうだ。画面をとおして視線があうことがない。そういえば夢二の描く女性は、正面を描いているものでも、ほとんど視線をわたしたちに向けていない。それは画家にとってもそうだということか。ちがうかもしれない。洋行から離れてしまうが、展覧会には、ほかにもセノオ楽譜集、肉筆画、三越所蔵の夢二が手がけた三越のPR誌の表紙絵、婦人グラフの表紙絵などがあった。これらを眺めてゆくうち、寂しさがつのってきた。彼が恋多き男だったわけがわかった気がした。それはわかったような気がしただけで、うまくいえないのだが、視線のあわなさと無関係ではない。彼は女性といてもひとりだった。これはことばにしてしまうと陳腐な表現になってしまうので、もうやめておく。こうしたことは詩のことばで書かねばならない。

《着物の女》

《女》

 ともかくイコン展を見たあとなので、特に違和を感じたのかもしれないが、セノオ楽譜の《アベマリア》(一九二〇(大正九)年)などは、体だけ正面を向いたマリアが、顔を完全に横向きにして目を閉じている。閉ざしているとすらいっていい。だがとても優しい。かなしいほどに優しい。甘いからこそ悲しい。手には林檎を持っている。

《アベマリア》

 旅は失意と苦難だけではなかったはずだ。それまでの日本での生活がそればかりではなかったように。彼は数ヶ月だが、ドイツのバウハウスの教師、ヨハネス・イッテンが経営する画塾で、日本画の講師をしていたりするのだから。そこで教材用に書かれた花、水仙やアヤメすら、りんとしながらかなしい筆致だった。ヨーロッパの風景も、枯木立だからか、雲が多いからか、人気がないからか、いても俯いているからか、おそらくそのすべてで、なにもかもが悲しかった。彼のあこがれは遠いところにあるのだ。絵たちは遠いところで明るい。だから遠さが淋しいのかもしれない。近づけそうで近づけない。
 最初アメリカに行き、そこからヨーロッパに向かったらしい。展覧会の最初のほうに、そのアメリカで描いた風景スケッチがあった。《モントレーの港町》(一九三二年)、《ピズモの牧場》(一九三二年)。どちらも人がいない。前者は港の海、岩、船。うっすらと色がついている。うすい青が淡すぎて、とおい記述のように、胸によぎる。後者は建物と柵の中に、馬が三頭。馬すら俯いている。うごきがない。ひとけのなさがよけいにそのうつむいた馬たちをうかびあがらせる。とおい国のなかで。

《モントレーの港町》

《ピズモの牧場》

 家に帰って『竹久夢二』(編著/石川佳子・谷口朋子、六曜社)という、弥生美術館で以前購入した本を開いてみた。そこにはこんな夢二の言葉が書いてあった。「─私は多くの名をもつてゐる、のが悲しい、/ ハズバンド、パパ。/ 子よ。いつそのこと、すべてに別れて私は淋しい流人になりたい、/ 日本の人々よ、我を愛したる人々よ、/ すべてに別れて。/ それから私は、ストレンジャーのよふに冷かに珍らしやかにすべてに逢ひたい。」(大正三年八月二十八日、日記より)。一九一四年、夢二、三十一歳の時だ。彼はこんな歌も残している。「さだめなく鳥やゆくらむ青山の青のさみしさかぎりなければ」。とおい国にむけられた眼、だったのか。大勢のなかにいても、だれといてもひとり。後者は展覧会にも《さためなく》(大正中期)としてあったのだが、横長の色紙の左半分にこの歌が書かれ、右半分に倒木に座った男と女の後姿。男の手は女の腰に添えられている。だがだれといてもひとりなのだ。
 夢二は一九三三年秋の帰国の翌年一月、結核のため療養所に入り、その年の九月一日に死去している。看取るものは病院関係者のみだったという。実生活には関心がないといいつつ、こんなことを書いているのは、かれの絵における態度であるひとりと、彼の絵からあふれる遠いひとりと、彼自身のひとりが、重なり合ってふっとよぎったからだ。あのわたしのどこかで灯った明かりのなかで。それは消えずに残っていた。わたしが気づかなかったか忘れていただけなのだ。そして明かりを継ぎ足して、きっとわたしのなかの遠さをも照らしていたのだ。だからこそ彼の遠さが懐かしかったのかもしれかなった。


《セノオ楽譜「宵待草」》(一九一八(大正七)年)
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2010-01-15

イコン、人のあいだで、こころをうつもの



 「イコン−聖像画の世界展」(二〇〇九年十一月二日─二〇一〇年一月二十九日、玉川大学教育博物館)に出かけてきた。会場は私が利用している小田急線「玉川学園前」駅にあるので、昨年から沿線上の駅の何箇所かのポスターでみかけ、ぜひ行きたく思っていた。だが博物館は大学の構内にあるので、授業のある平日、しかも九時から五時までしか開館していない。ほとんど無理だとあきらめていたのだが、いろいろあって暮れにまた失業したので、いけるようになった。失業してすぐに行こうと思ったのだが、十二月十七日から一月十一日まで休み。それで来るのに一月半ばまでかかってしまったのだった。
 イコンというのは、展覧会HPから抜粋すると、「ギリシア語のエイコン(肖像・似像)を語源とし、特に東方正教会で発達した聖像画のことをさします。ビザンティン美術の一流として発達したイコンは、八世紀のイコノクラスム(聖像破壊)の受難を経たのち、11世紀頃からのイコン崇拝の高まりとともに、ロシアやそのほかの東方正教会圏に広まりました。正教会の信仰において、イコンは欠くことのできない存在で、聖堂内の聖障壁(イコノスタシス)のおかれる大形のものから、家庭内で拝す比較的小形のものがあります。主題には、イエス、聖母、聖人、説話などの場面があり、一般的にはテンペラ技法を用いて木の板に描かれています。」とあるもので、アイコンの語源でもある。
 私は昔からなぜかイコンが好きだ。母子像に特に惹かれる。丁度、ポスターになっていたのが、《フェドロフスカヤの聖母》(ロシア・イコン、十九世紀)で、それだった(聖母子といいたいところだが、正教では聖母という言い方をしないらしいので避けている。こちらでは生神女マリヤ。だが、どうも言い方は信者でない限り、寛容らしい)。絵については後ほど説明するが、ともかくそれには、わたしをやさしく誘うようなまなざしがあった。ポスターの黒い地の中央に、金地のイコンが、影から放たれる柔らかな光となって、わたしにたゆたってきたのだった。
 今日はどうしたのだろう、筆の進め方が思わしくない。順を追うことができない。あちこちに飛びながら、進めていくことしかできなさそうだ。わかりにくいかもしれないが、ご容赦願いたい。そんな日もあるのだろう。
 わたしは正教の信者でもキリスト教の信者でもない。だからこれらの違いや位置づけが今もどうもわからないのだが、はじめてみたイコンは、ロシアやギリシャのそれではなく、イタリアのものだった。それもヴァティカン美術館展のミュージアムグッズコーナーでのことなのだが、展覧会はもちろん、ミュージアムグッズを売っていたのも正教ではないはずだったが、ともかくイコンが売られていたのだ。イコンには、ほとんど作者の名前がない(中にはタルコフスキーの映画にもなった、十五世紀のアンドレ・ルブリョフなどのイコン画家もいるが)。そして売られていたものも、テンペラなどで描かれたものではもちろんなく、木に張った印刷物にニスを塗った、廉価版といったもの。だが、特にマリアの表情に惹かれ、イコンや、カード状のものを数点買った。平成五年のことだ。
 今も、部屋の中で、眼に見えるところにひとつイコンを飾ってある。平べったい顔に、優しげな眼。
 絵画として見ていると一言でいってしまえばいいのか。では絵画にわたしは何を見ているのか。さきにイコンの説明で、八世紀の聖像破壊とあったのは、偶像崇拝に関わることだったらしい。モーセの十戒の「偶像を崇めてはならない」にイコンは抵触するのではないかと。簡単に結論づけてしまうと、イコンそのものを崇拝するのではなく、イコンを通じて神を崇拝するということで、この点は回避され、現在に至っている。又、神を描いていいのかという問題もあったが、こちらも、神の子であるイエス・キリストが現われたということで(イエスを見ることはできたのだから)、描出不可能性が神の側から破られていると、擁護されているらしい。
 前者をかみくだいたことばとして、正教会のHPにあったのだが、愛する人の写真に似ているという。「人は写真を愛するのではなく、写真に写っている彼女もしくは彼を愛します。」
 これはよくわかる。けれども、わたしは絵画ならば、絵画そのものをおそらく愛するだろう。とはいっても、それだけではないはずだ。絵画に含まれるのは、作者の念、作者の行為も反映されているはずだ。時代もあるかもしれない。多分それらもろともを含めて、そこにある絵画に惹かれる。人の手によるということで、私がずっとかかずらっている、他者と接すること、そうしたものを感じてもいるだろう。私は美を通じて、他者と関係したいのだから。それは美だけではない、言葉をつうじて、ということでもある。
 イコンを絵として眺めながら、そこにこめられた崇敬の美しさに敬意を表しているということもあるかもしれない。間違えた解釈かもしれないが、イコンを通して、人の善意を感じ取っている面が多いかもしれない。それほどに描かれたマリアは優しい。



 ポスターになっている、《フェドロフスカヤの聖母》は、右手で幼子イエスを抱き、頬を重ねているマリアである。二人からは金色の後光が射している。イエスはマリアを見つめているが、首を傾けた彼女は正面でもない、つまりイコンを見るわたしたちでもない、幼子ですらない、どこでもないところを見ている。これはつまりどちらにも属している眼差しではなかったか。展覧会会場に、カトリックと正教会でマリアが特に敬われているのは、神ではない、人間だが神の子を産んだ存在、つまり人間でいながら神に一番近しい存在だからだと説明があった。それは神と人間をつなぐものである。橋渡しとしての存在で、神よりも身近な存在だ。諸聖人が敬われるのも、同じ理由だろう。人間として私たちに近しい、つなぐものだ。会場には、諸聖人を描いたイコンもかなりあった。龍を退治した聖ゲオルギウスとか、聖サンタクロースのモデルともいわれる聖ニコラウスとか。
 わたしはつなぐものという存在には惹かれる。それは他者との間にももちろん置かれるべきものであろうから。あるいはわたしと木々と。そしてそのつなぎ目に、わたし自身はことばを置いている。画家が絵を置いているかもしれないように。
 ところで、聖母子(先に正教では使わないと書いたが、展覧会図録などには使われているので、便宜上使うことにする)を描いたイコンのことだが、描き方はおおまかにわけて三種類ある。正面を向いて玉座に座ったニコポイア型、左手で幼子キリストを抱き(キリストは聖書を持っている)、右手を胸に置いたホディギトリア型、そして《フェオドロスカヤの聖母》のように、頬ずりしているもので、基本的にキリストの手は聖母のマントと首をつかんでいる。これをエレウーサ型といい、語源的にはギリシア語のエレオス「同情、あわれみ」から来たもの。聖母がきたるべきキリストの受難を思い、愛撫しているらしく、十一世紀にビザンティン美術として成立、のちのロシアに渡り、エレウーサは「ウミレニエ」(感動するもの、人の心を打つもの)として、ロシア聖母像を代表する形式となり、子供の守護神として広く崇敬されているらしい。
 最後のエレウーサ型の説明を多くとったのは、わたし自身、ひかれるものが、この型のものばかりだったからだ。家にあるイコンもそうだ。ここには宗派をとわない愛情がある。というよりもこの型のものがいちばん、人の愛情に偏っているように感じられる。感動するもの、人の心を打つもの…それはほとんど芸術である。人が仏像に感じる慈愛にも通じるだろう。
会場に、《最後の審判》(ロシア・イコン、十八世紀)があった。上に神やエルサレム、その下にマリアと審判者たち、だんだん降りていって審判の用意、審判され、罰を受けている罪人たちとなる。その周縁に「教義上必要なテキスト」が配されてあるのだが、これは「主題をイメージとロゴス(言葉)で理解させるための意図である」らしい(「 」内はカタログより)。


 そういえば、一枚の絵が十八場面に分かれ、その生涯を表わした《聖女バルバラとその生涯》(ロシア・イコン、パレフ派、十八世紀)なども、場面ごとに説明文が記されていた。これらでは、絵と言葉が親密だということ、ともに手をとりあって眼前にあることに、美の可能性を感じるとともに、絵巻物や絵本を想起した。文字と絵は互いに助け合いながら、ひとつの世界を差し出しているのだ。ふっと詩のことばと音、声をも想起した。これらが重なりあって…。つなぐためにあるのかもしれない、ふと思う。
 家に帰って、ヴァティカン展で買ったカードたちをかなり苦労して探し出した。もう十年以上お眼にかかってなかったものだ。よくあったものだ。ほかの展覧会の絵ハガキもかなり混ざっていて、クノップフが数枚、見つかったのがうれしかった。あと、CDのおまけについていたホログラムのステッカー(見る角度により、顔が立体的に変わってゆく)のスティーヴィー・ニックス(フリートウッドマックのヴォーカル)、クリスマスカード、愛すべきガラクタたち。それはともかく、ヴァティカン展のイコンのカードたちはほとんどイコン画家の名前が書いていなかったが、一枚、アンドレ・ルブリョフのものがあったのでびっくりした。《大天使ミカエル》、十五世紀とある。伏し目がちに横を向いた天使の淋しげな顔。名前がわかるとなにか、近づいたような気がいつもしてしまう。そして家に飾ってあるイコンたち。こちらも「エレウーサ型」というのだと、名前(厳密にいえば名前ではないが)がわかったことがうれしかった。なにかがどこかでつながってゆく。

「イコン−聖像画の世界展」HP
http://www.tamagawa.jp/research/museum/info.html

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2010-01-09

ことばのスケッチ


 新年そうそう、ここに書くのが遅れてしまった。いいわけをすると詩集の発送作業でごたごたしていたのと、詩を書いていたから。日常で忙しいときは、ここがよりどころとなる。ここで書く文章をつかみどころとして、日常に流されないようにする。そうしてはじめて詩に向かう力を得るのだ。ここでの文章たちは日々と詩の橋渡しをしてくれる。
 だが今は日常に流されそうになることがそんなにはない。やっかいごとはあるが時間は多少ある。そうなると勝手なもので、よりどころはあまり必要としなくなる。クッションがなくとも、詩に向かえるのだ。だからここに書く時間を詩にあてていた。おまけに詩に向かっているとき、さらに勝手なもので、日記に文章を書いてしまうと、そこで満足してしまい、終わってしまうこともあるのだよな、などと思ったりしてしまう。ここを書く集中力を詩にむけたい、とか。
「またはしょもつには数体の信仰があった。ひだまりによせて、鼻唄まじりにひびをやぶいて。」(メモ)
 だが、書かないとやはり落ち着かない。以前よく旅行に出かけた。その時に風景や街の印象や、思ったことなどを絵を描くようにノートにせっせとスケッチした。こちらでは真夏にふさわしい花が南のほうでは十月に咲いている。かわいた土ぼこり、じっとりと汗。澄んだ湖に、白い腹を浮かべた大きな魚の死を見つけた。目をそらしてはいけない…。ほんとうにスケッチだった。そうするとその土地がすこしだけ何かをひらいてくれたような気がしたものだった。それ以前は、旅に出かけても落ち着かなかった。なぜ来たのか、そしてなぜ他の人たちが観光を楽しんでいるのかわからなかった。軽い疎外感があったのだ。
 今はさすがにそんな疎外感までは感じないが、書かないでいると、景色たちとのふれあいは薄いままなような気がする。そう思っているのはもちろんわたしだけで、かれらはそうは思ってないのだが。けれどもやはりここに書かないと、浅いつきあいのままで通り過ぎてしまうような気がするのだ。たとえば前回書いた、人工池に集うカルガモたち。日々、なるべくそこを通るようにしているのだが、それもなんとなくになってしまっていた。感慨がわかない。そのことに気づいてはいたが、どうするでもなかった。そして、カルガモ池を過ぎ去るとき、もう去年になってしまうのだが、十日ほどまえにたしかなにか写真を撮ったと、まるで遠い記憶のように思い出す。カルガモたちの後に、なにか撮ったような気がする。だが文章として書いていないからだろうか。そのまままた忘れてしまい、通り過ぎ、日常の用事にまぎれていったのだった。
 それが昨日の日中だった。用事をすませ、夕方近くに駅まで戻ってきた。駐輪場から人通りの少ない裏道に回る。この辺りは少しだけ高台になっている。道の向こうの歩道から、人々が携帯電話でしきりに写真を撮っている。その姿を見るのと、写真に収めているであろう景色を見るのが同時だった。多分、普段なら、景色をまず先に見ていただろうに。ともかく歩道から向こうは、長方形に長く伸びたレンタル菜園になっていて、その向こうにもさえぎる高い建物もほとんどないので、長細くではあるがわりと遠くまで視界が開けている。向こうの空が夕焼けに染まり、箱根の山々の稜線が濃い空色に映っている。その山の向こうに首ひとつだけ抜きん出た富士が見える。赤富士(《冨嶽三十六景 凱風快晴》)があると、ふと思う。もっとも北斎のそれは明け方の富士だったけれど。実際、向こうに見える富士は赤く染まってはいなかった。まわりの空が、雲が赤くたなびいていたのだ。富士のほうは藍色に近いのだが、やはり空色といいたい。それは空を含んで、暗さを増してゆくのだから。暗い空色の富士は、空の橙色により、橙色に焼けた空を含んで、空色度を増している。明るさをひめた暗さだった。日なたと日陰の合唱だった。数分間、持って十分の祭典だった。携帯で写真を撮っていたバイクにまたがった若い男性が年配の人物にしゃべっている。「じつは、いま富士山から帰ってきたんです」。そして疎外感について思いもはせる。こうして景色を見ているわたしたちは、それでもなにかを…。すくなくともこの時間は共有しているはずなのだと。わたしも彼らのように写真を撮る。菜園のほうからも、写真を撮っている人たち。


 家に帰って、写真を整理した。そのときはじめて暮れに撮った写真に出くわす。同時に、何に心惹かれたのかを思い出した。書かなかったから、忘れていたのだ。
 それはスーパーの近く、崖に沿った緑地から湧き出る湧水の写真だった。ここは日中は道が閉鎖されていることもあり、あまり通ることがない。久しぶりだった。おそらく夏以来だ。冬になり、夏よりも幾分か水の量が減っているようにも感じられた。だが小さな川となってどこかへ(恐らく近くの野川へ)流れてゆく。水は清冽だった。だがそのことよりも、夏に来たきりなのに、水のまわりの印象がほとんど変わらないことに驚き、惹かれたの。それは水辺に茂る下草が常緑の植物、おそらくジャノヒゲとかリュウノヒゲだったので、あたりまえだが青々とした草をぬらして流れているからなのだった。日差しがまぶしい。さすがに暑さはないし、下草の緑の下には落ち葉も点在する。そして下草からすこし眼をはなして見上げると、枯木立も目立つので、夏と見まごう、というほどではないが、なにか早春の林のなかにまぎれこんだようだったのだ。ではここはほぼ一年中、常春の景なのではなかったか。日溜りがちろちろと輝く。水が光る。写真に撮ったのはそれらだった。そして写真に収めた理由の大部分はこうして後で文章に書くためだった。このところ書いていなかった、だから写真の存在自体を忘れていたのだ。やはり書くことはスケッチであり、スナップ写真なのだ。スケッチすることで、扉からなにかを感じ取るためなのだ。


 こうして湧水の緑について思い出すと、そこに寄せて、その時に頭に浮かんだいくつかのことの断片も少し拾うことができる。そのときわたしはこうも思ったはずだ。冬に葉が枯れてさびしくなってしまう、そうした狭い常識でおわりにして、わたしはそれ以上の景色を見ていなかったのだ。冬でもこんなに緑がまぶしいのだということにどうして気づかなかったのか。ヤツデ、松、家に咲いているローズマリーの白い花、そして葉、花の後に地中から飛び出してきた彼岸花の葉たち。それは富士といえば白い雪をかぶった姿しか思わなかった江戸の昔のひとたちのようだ。北斎はその常識というおわりをやぶり、気づいたのだ、おわりからはじめたのだ。富士を赤く描く赤富士も画期的なことだったらしい。そして《冨嶽三十六景 甲州三坂水面》。ここでは、夏の、雪をかむっていない薄い橙色の富士が書かれているのだが、河口湖だという湖畔に映る富士には雪がかむっているし、色も青い。夏と冬の混在、マグリットの昼と夜の混在、《光の帝国》のようだが、これは富士といえば雪をかむっているものという、当時の常識を湖畔に描かないと、富士だと認識されなかったから、苦渋の策としてそれぞれ季節の富士を描いたという説もあるそうだが。写真をとおしてなにかに向かうこと。
 …いや、雪をかむっていない富士については、時間にずれがある。その日思ったことではない。今、あの夕焼けの富士、赤富士を重ね、連想から取り寄せてつなげたものだ。だがこんなふうに景色たちのまわりをことばでスケッチすることで、やはり彼らはやさしくなってくれるのだ。あるいは写真がことばを思い起こさせてくれるように、この日記が詩に向かわせてくれることもあるはずだ。もちろん、勝手なことを…と前置きしたような弊害、たとえば写真を撮ることで景色を自分の眼で見る時間がうばわれ、じっくり見れないとか、ここに書いてしまうことで、完了してしまい、詩にたどりつけない、という弊害もあるだろうが。日なたと影だ。だがおおむね明るい。というわけで彼らと接するために、やはり今年も書いていこうと思う。

《冨嶽三十六景 甲州三坂水面》
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