Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2010-02-25

見えない雪のネックレス、昼の星、『縄文物語』


 また時間が停滞している感覚があった。いや、滞っているのに現実の時間はすぎてしまっている。なにかが置き忘れられている。そのことで置き去りになっている。そんな感覚、あるいは堕落。
 このところ、また現実がのしかかっていたことに気付く。詩の時間、詩的な時間がほとんどとれなかった。そればかりではない。詩的なものに対して、他人事のような遠さをも感じてしまっていた。だれかの作品をよむ。ことばがまったく遠いのだ。自分でなにかを書く。それすら他人事のことばだった。こうしたことはかなりこたえた。このまま詩的なことからはなれてしまうのではないだろうか。どうしてなのだろうか? そのときにはじめて、現実が侵食していることに気付いた。
 現実というのは、芸術にかかわること以外のすべてのものだ。わたしはこれらをかなりわけてきていた。それらは相互に浸透しあい、行き来するものだろうが、それは区分があってのことだ。この区分をたいせつに取り扱ってきた。そうしないと、呼吸ができなくなってしまうから。
 だが、このところこの区分がほとんど取り払われていた。だからだ。なにかが置き去りになっている。なにかから離れてしまっている。
 具体的には、仕事を家に持って帰ってやっていたことによる、ただそれだけなのだが、そのことが心にのしかかってきていたのだ。空気がすこしづつうすくなってゆく。気がついたら息ができなくなっていた。
 東京に二度目の雪の降った朝。歩きづらいな、電車も遅れるだろう、つまり、総じて面倒だなと思う。これはわたしの考える現実の範疇の感想だ。現実はつまらないものではないが、雪道に合った靴を用意したり、電車の遅れを見越したり、なにかと対処せねばならないことではある。雪をたのしく思う気持ち、美しく思う気持ちは、現実から詩的な領域に向かうものだ。このとき、面倒だなと思う気持ちがほとんどだったので、そのことをさびしく思った。遠さのなかで愕然とした。詩的なものがどんどんはなれていくようだったから。
 だが、もともと雪を含んだ冬という季節自体が苦手なので、雪への感じ方だけで判断してはいけないのかもしれない。草や花にわくわくすることはある。だが草や花がほとんど眠ってしまっている季節は昔からかじかみながら素通りしてきたのだ。
 駅に向かう途中に急なのぼり坂がある。横に長く伸びた崖に縦に切り通された坂で、片方の脇は成城三丁目緑地という公園になっている。崖の下に湧水、湧水を集めた池、そして崖の中腹の一角に竹林、くぬぎの生える森、崖の中腹と上に平たい広場。ここも、駅に向かうとき、必ず通るので、きつい坂が面倒なところ。雪の例でいうと、坂が苦しいのは現実で、坂の脇の緑地は、詩的な領域に入る。けれども、春の桜、あまりにも伸びるのが早い筍、そして湧き水、カブトムシの保護、冬でも常緑樹やジャノヒゲなどの下草が緑をたたえていることを教えてくれたことなど、そちらの思い出のほうが多いので(ここでも、何回も書いている)、坂をそれほどいやだと思ったことがないし、わたしのなかではやはり詩的なものたちではある。
 それでも、この頃はこの坂、そして緑地に対して、さして感慨を覚えていなかった。坂からほんの少し遠回りして、緑地の公園をつっきる。崖の上から竹林越しに下の湧水を見つめる。冬は水量が少ないのだろうか。水の流れがほとんど見えない。春、夏、秋は、小川のように見えたのだが。それでも水の存在を確認し、安心してそこから立ち去る。だが、それもだんだん義務のようになっていった。つまり、水を確認するのが習慣の一部に組み込まれていた。習慣はおおむね現実である。信号を守る、改札で定期を見せる、こうしたこととあまり代わりがない。そのこともどこか置き去りを思い出させ、さびしくなる。
 そう、十八日、面倒だと思った、この冬二度目の雪の日の朝だった。緑地までまだ少しある、通りを歩いている。ふと前方を見ると小高い山の林のように見える。粉雪が舞っている、緑地ではすっかり雪化粧した木々たちが、樹氷におおわれているかのように見えた。ぼんやりと、これは非日常的な風景だと思う。感慨はあまりなかった。だがきつい坂をのぼる、息が上がる、その時もまわりを見渡した。粉をかぶった白い木々。山のなかに心がのぼり、まぎれてゆく。現実と詩的な領域が互いの場所に戻り、違いをみせながら、相互に行き来しあいだしていた。ほんのすこしづつではあったが。
 坂をのぼりきって、公園に足をすすめる。ほんの少し前から降りだしたせいか、公園内には足跡がほとんど見当たらない。あまり積もってはいないが、辺りに小さな銀世界が拡がっている。この場所は、半月ほど前、やはり雪が降った、その翌日の二月二日だったか、雪だるまがつくってあったのを見て、おもわず足を止めたところでもあった。雪だるまはわくわくだ。そして溶けることで、さめる夢のようにどこかかなしい。
 あの雪だるまも、見た次の日の朝にはもう消えていなくなっていた。二度目の雪、木々にうっすらと化粧した雪たち、足跡のない雪の地面も、おそらく今朝だけのものだろう。眼前の景色は、置き去りになった感覚がまだしつこく呪縛している身には、まだ近しいものではなかったが、それでも遠さから歩をすすめさせてくれるものだった。電車の時間が気にかかったが、それよりも今のほうが大切だと思った。枝を装う雪たち、だれも踏んでいない雪たち。粉雪の舞う空はどんよりと見事なまでに曇っているのに、一面の白さですこしだけまぶしい。いつか出かけた冬の木曽の景色を思い出す。そして宮沢賢治の『雪わたり』も思い出した。連想ゲームのように雪たちは何かを思い出させてくれた。詩の領域たちは、こんな風にさまざまなものを数珠つなぎにしてくれるのだ。そうしてできたネックレスを、だれかが首にそっとかけてくれる。夢がさめるまでの間。



 宗左近『縄文物語』(新潮社)を読み始めている。先日でかけた「国宝 土偶展」で、縄文に惹かれたからだ。こちらもやはり現実がのしかかってきていて、あまり読み進められていないのだが、とても大切なことが書いてある。
 「夢、それは何でしょうか。無意識の沼のなかから咲き出る、動く花です。/ 人間の意識の奥には、人類発生以来の、いや、場合によって人類発生以前の、長くて広い体験の澱が淀んでいる。(中略)宇宙発生以前からの、無からの、遥かな記憶が、宿っている。だが、目覚めているときの人間は、めったにそれに気付かない。けれども、眠りのなかで、出会うことがある。それが夢です。(中略)/ こういう夢が、眠りのそとに出て、形をもつことがある。それが、芸術です。縄文の作品はそのひとつです。」
 この夢が、わたしのいう詩的な領域のことであったのだと痛感する。こんな文章に出合うと、首にさげた夢からの贈り物のネックレスの存在が浮上してくるのだ。それは普段は消えてしまったかのようなのだが、なんらかの拍子に、ふっと浮かび上がる。見えないものだけれど、すこしづつ玉をふやしながら、ありつづけるのだと、ふえた玉のやさしさで、首に軽やかな重さでなでてくれる。
 これを書く前、実は詩を書こうとしていた。他人事だと先に書いた。そう、詩のことばは上滑りで、夢をまったく含んでいなかった。あるいはそのときに気付いたのだ、首にネックレスをしていなかったことに。置き忘れていたのは、ネックレスだったのだ。置き忘れていたことで、夢に置き去りにされていたのだった。ネックレスは自在に行き来するための鍵なのかもしれない。それは首に始終かかっている。ただ感じられるか、感じられないかの違いだけなのだ。首にかかったネックレスを感じるには、現実にひらいた夢の穴に心をひらかなければならない。動く花を感じるには、今のわたしの場合、詩でなくてもいい、詩的なものになんとしてでも触れなければならないのだ。たとえば、こうして文章を書くこと、景色に感謝すること。そういえばやはりここ半月ぐらい、美術展に出かけていない。展覧会は、わたしに夢を思い出させてくれる。もちろん展覧会でなくてもいいのだが。だが、ネックレスはたえず首にかけていなければならないのだ。それがみえなくとも。
 「目に見える具象に捉われてはならない。(中略)そのため、縄文人は目に見えない具象に、具象の奥にある存在に、目をむけた、たとえば昼の空の星に……。」(『縄文物語』)
 「青いお空の底ふかく、/海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、/昼のお星は眼にみえぬ。/ 見えぬけれどもあるんだよ、/ 見えぬものでもあるんだよ。」(金子みすゞ「星とたんぽぽ」)
。」
 あの雪の朝の景色は、あの朝だけのものだった。帰りに通ったら雪の跡すらまったく残っていなかった。いつもの冬の林が広がる緑地だった。だが、それでもたしかに雪は、昼の星のようにあったのだ。夢から咲いた花として降っていたのだ。
「この感動は、お伝えしにくい。詩のようなものにして申し上げるよりほかない。」『縄文物語』では、この言葉のとおり、感動を伝えるために、自身の詩や他者(石原八束)の俳句を土器の写真に添えている。「沖に立つ海市の蒼く炎えにけり」。そのあとの宗左近の文章。「海市とは蜃気楼。これは、やがて消えます。夢でしょうか。しかし、縄文の土器を含めての文化は、たとえ地上から消えてもなお、数千年たった大地の底から、また出現してくるのです。」
 ここでいう大地もやはり夢なのだ。太古からの記憶を眠った土から、土器という芸術があらわれる。昼の星はそんなふうに、それでも眼にすることができるのだ。夢のネックレスは、そんなふうに…。
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2010-02-10

「葛飾北斎 冨嶽三十六景」展、わた雲をとぎ汁がつらぬき、共に時間を…


 「葛飾北斎 冨嶽三十六景」展(二〇一〇年二月六日〜二月十四日、大田区立龍子記念館)に行ってきた。館の創設者である川端龍子旧蔵の全四十六景からなる館蔵品で、四年ぶりの特別展となるとのこと。
 記念館は、JR大森駅からバスか都営浅草線西馬込駅下車徒歩二十分、家からだと、電車に乗っている時間もけっこう長い(一時間半ぐらい)。車のほうが近いだろうとのことで連れの運転する車で行くことにする。助手席に乗り、カーナビを見ると、大田区は家のとなりの区で、記念館までは直線距離にして丁度十キロぐらい。近いことに驚くと同時に、電車での距離と、実際の距離のずれが奇妙だった。ずれの真ん中で軽いめまいをおこしそうであった。車を運転しないわたしにとって、どちらが本当の距離なのか。
 空がよく晴れていた。わた雲がもくもくとしたかたまりをあちこちに投げ出してる。夏のようだと思った。冬に夏の雲が見れるのだろうか。あとで調べたら、わた雲の正式名称は積雲で、日中、暖められた空気が上昇することよって成長する。夕方にはたいてい消えてしまうが、大きく成長すると夏によく見られる積乱雲となって、雷や夕立になるというから、あながちこれはまちがった印象ではなかったようだ。ただし空の色はもちろん冬のつめたさのなかで、はっきりとした色をはなっていたのだが。夏のそれは、どんなに晴れていても、暑さのなか、もうすこしあいまいさが残るから。
 家からは多摩川を下ってゆく感じで出かける。通りも多摩堤通りだ。これは何度かここで書いたが、《冨嶽三十六景 武州玉川》と同じ川だ(こちらはもう少し上流のほうだが)。“玉川”を脇にみながら、北斎の展覧会に行く。コサギが川に足を入れて立っている。風がすこしあるので、水がけばだつようにうねっている。北斎の波だ。展覧会に行くのにふさわしい行き方だと思った。現実が絵の世界と分断されずに連なっている。

〈武州玉川〉

 《冨嶽三十六景》は、天保二年〜四年(一八三一─三三年)に逐次版行された、北斎(一七六〇─一八四九年)およそ七〇歳代の作品。三十六景といいながら四十六枚あるのは、三十六枚を出したのち、好評のため十枚追加したから。最初の三十六枚は表富士、後の十枚は裏富士と呼ばれる。わたしは去年の春に北斎を見て、好きになった新参者で、展覧会としてまとまった形で《冨嶽三十六景》を見るのは初めてだった。去年、秋に国立博物館で『冨嶽三十六景』全四十六枚入った絵ハガキを買ってはいたのだが、こちらは主に実際に展覧会で観た作品に限って眺めていた。あとはいつか実物にあたってからのお楽しみに、あるいは実物をしのぶよすがとして観ようと大切に思っていた。和紙でできた瀟洒な箱に収められているので、文字通り宝物としてしまっていたのだった。だから今回のような機会がくることを心待ちにしていた。けれども遠くない将来、宝の箱の“冨嶽”たちが実際の絵と手をつなぎあう日が来るだろうとの予感があった。いや、予感というほどではない。この一年足らずの間で、北斎展としてまとまった形では今回がはじめてではあるが、浮世絵展などでかなりの北斎作品に出会うことが出来た。気にしていれば、おそらく北斎作品とは出会う機会が多いのだと、経験が予感めいて告げてくれていたのだ。
 会場にはいってすぐ日本地図のパネルが架かっており、冨嶽四十六枚が描かれたであろう場所に丸い印と番号がふってあった。番号はそれぞれ絵の通し番号に対応する。不明も十枚ほどあるが、多い順に東京(十八枚)、神奈川(七枚)、静岡と山梨が六枚、愛知と千葉が二枚、後は一枚ずつで長野(諏訪湖)、茨城(上州牛堀)。
 絵は書物や資料のように、長細いガラスケースに並べられており、私たちは下を覗き込んで観ることになる。一枚を覆いかぶさる形になるので、一枚につきほぼ一人しか見れず、それほど混んでいるわけではないのに、渋滞していた。通し番号がふってあるので最初は順番に並んでみていたが、冨嶽たちはたしか番号はなかったはずと思いなおし、裏富士をぬかして(これらはやはり最後に観たかった)、空いているところから観てゆくことにする。

 おなじみの絵たちだ。たとえば、丸くかかった橋の下から富士をのぞかせた〈深川万年橋下〉、大きな樽の枠の向こうに小さな富士が見える〈尾州不二見原〉、巨大な材木を支える二本の支柱の間から富士をのぞかせている〈遠江山中〉、米穀を運ぶ五大力船の帆の間から見える富士の〈上総ノ海路〉、細長いいくつもの材木が、直線として林立する向こうに、唯一の曲線として見える富士の〈本所立川〉、画面中央に巨木のやはりまっすぐな幹、その向こうに曲線の富士がある〈甲州三嶌越〉こうしたアングルに凝った絵、デザイン性に富んだ絵をみるとわくわくする。それは入念に考えつくされた遊び心だからか。それだけではない。わたしたちがふだんみているはずの光景が、こんなふうにほとんど幻想にちかいものになってしまうということにも驚いているのかもしれない。それは現実をとびこえた創造でもある。創造は想像をも含んでいる。

〈深川万年橋下〉

〈遠江山中〉

〈上総ノ海路〉

 〈凱風快晴〉と〈山下白雨〉が並んでいる。夏から秋の早朝の一瞬、富士は赤く染まるのだという。瞬間の静謐。おだやかな空にはいわし雲がしずかにある。それが前者だ。後者も富士は赤い。だが山頂は快晴、山腹は夏の積雲(積乱雲になりかけの)、そして山麓では稲光。瞬間の各様相が閉じ込められた激しさ、そしてやはり富士の静謐。富士はその色を変える。雪も被る。だがそこに永遠にあり続けるのだという確信にみちた存在に見える。いや、そこまでは絵を前にして思わなかった。ただ、赤い富士、そして雲の形の違いに眼をうばわれ、泣きそうになった。そして〈山下白雨〉の雲は、来る途中で見た雲のかたちに似ていた。そのことに感謝したくなる。

〈凱風快晴〉

〈山下白雨〉

 不動の富士、静謐な富士を表しているといえば、蛇行する道を三人の武士たちが風を切って疾走する馬に乗っていて、袂や裾、馬の尾にはらんだ風と静かな富士の〈隅田川関屋の里〉、そしてやはり蛇行する道で、今度は馬の起す風ではなく、強い風そのもののなかで、笠を抑え、前かがみに歩行する人々、笠や懐紙、葉が舞っている、そうした動きがリアルに感じられる、むこうにしろっぽい、幻のような富士、動かないことで神秘さをましているかのような富士の〈駿州江尻〉。だがこれらは神秘や静謐を表しているだけではない、絵に風や動きを通して時間の流れをすら閉じ込めているのだ。それはわたしたちに観ることを通じて、時間をふきこんできてくれる。あるいはわたしたちはこうして同じ時間を共有することができるのだ。

〈隅田川関屋の里〉

〈駿州江尻〉

 共有…。このことをここで気づかせてくれたのは、実はこれらの絵ではなく、〈上州牛堀〉だった。草原のようにすら見える霞ヶ浦だという葦のしげった水面に大きな苫舟。屋根に藁がかかっている。舟のむこうに雪のずいぶんかかった富士。舟から米のとぎ汁をこぼしている。まっすぐに落ちる水、かすかな水しぶき、そして落ちる音に驚いてとびたつ二羽の鷺。画面がほとんど藍色でまとめられているからだろうか、藍と白さがめだち、そのことがどこかさびしい。だがわたしが最初にひかれたのは、米のとぎ汁のおりなす直線だった。水がほんとうにこぼれてみえた。こぼれてみえることによって、水がわたしがこぼしたことのあるとぎ汁と重なったのだ。米がこぼれないように釜につっこまれた手をとおして、冷たさややってきた。冬の冷たい朝の時間だ。そそぎこむとぎ汁によって、時間たちが行き来しあいはじめたのだった。北斎とわたしと。
 もう一枚、裏富士のほうで、時間の共有を特に感じたものが、〈甲州伊沢暁〉だった。早朝の伊沢の宿を俯瞰している。手前に朝日にうっすらと明るみをおびはじめた宿場、特に屋根。その下を出発する旅人、駕籠、馬など、宿場の賑わいが見える。中央(山麓)に雲のような朝もやがたなびき、その上に富士がはじまりをそびえている。先の三十六枚が藍の輪郭線なのだが、追加の十枚は黒い輪郭線なのだという。つまりこの絵もそうなのだが、黒がほとんど茶色のように見え、そのことがとくに朝の赤いような色彩によく合っている。だが、それよりもなにより、時間がわたしにやってきたのは、最初は屋根の明るさを通してだった。東雲ごしに明るみをましてゆく屋根が、わたしにも照っていたのだ。つぎに宿場のにぎわいが聞こえてきた。臨場感が、創造され、想像するのだ。
 最後に展覧されていたのは、〈諸人登山〉。これは順番がついていないといわれながら、あちこちで最後の作品として掲げられている。わたしの宝箱でもそうだ。なぜなら、この一枚は富士山容を描いたものではなく、唯一富士登山を描いたものだからである。ごつごつとした岩肌たち、金剛杖を使い、登る人、下山する人たち。これが四十六枚目ではないかもしれないが、最後として配するにふさわしいと思った。この一枚により、富士の全容に近いなにか、多面体をかぎりなく球体にちかづけたようななにかを、《冨嶽三十六景》に付与しているように思えたのだ。ごつごつとした岩から霧がたなびいている。空は薄い空気のようにほとんど白い。上部にひとすじのベロ藍。

〈諸人登山〉

 帰りはまた多摩川沿い。今度は登ってゆく。空のわた雲はまだ明るい。〈山下白雨〉だ。多摩川にコサギが見えた。とぎ汁に驚く鷺のとびたつ姿、〈上州牛堀〉。そして家につくだろう。家のベランダからは冬になると、晴れていればほぼ山の向こうに富士が頭だけ抜きん出て見えるのだ。たとえば〈下目黒〉の土坡や丘のむこうに頭をだしている富士に少しだけ似ている。ちなみに大雑把にいえばうちは〈武州玉川〉と〈下目黒〉の間ぐらいのところにある。うちから富士が見えるのはいい。前からそう思っていたが、《冨嶽三十六景》に出会って、ますますそう思った。富士を通して、北斎と時間を共有することができるから。

〈下目黒〉

 そして、時間は前後してしまうが、うちの宝箱の絵葉書たちをそっと眺めた。今日みてきたものたちを手に取る。それ以前は、それらに関してはほぼ見つめることを封印していたので、その意味では絵とのあいだに距離があった。だが実物と対峙してのち、見つめると、まるで新たな名前を得たかのように、宝箱のなかで、近しいものとしてその存在を変えてゆく。変わったなかで時間が流れる。幾重にも時間はたなびいているのだ、あの雲たちのように。



展覧会HP
http://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi/latest-exhibition/post-104.html

(今日触れる展覧会が十四日までなので、期間中にと、今回は十五日分を十日にアップしました。次回更新は二月二十五日の予定です。)
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2010-02-05

(国宝 土偶展) おや? 閉じた目のひろがり



 前回に続き招待券が手に入ったので(ありがたいことだ、だがもう当分こんなことはない)、「国宝 土偶展」(東京国立博物館、二〇〇九年十二月十五日〜二〇一〇年二月二十一日)に出かけてきた。
 解説から。「“ひとがた”をした素焼きの土製品「土偶」の発生は、縄文時代草創期(約一三、〇〇〇年前)にまでさかのぼります。伸びやかに両手を上げるもの、出産間近の女性の姿を表すもの、極端に強調された大きな顔面のものなど、多様な姿かたちをする土偶は「祈りの造形」とも称され、縄文時代の人々の精神世界や信仰のあり方を具現化した芸術品として、世界的に高い評価を得ています。」これはイギリスで昨年秋に開催された「THE POWER OF DOGUの帰国記念展で、国宝三件と重要文化財二十三、重要美術品二件を含む全六七件で構成されます。縄文時代早期から弥生時代中期にわたる日本の代表的な土偶とその関連資料を一堂に集め、土偶の発生・盛行・衰退の過程と、その個性豊かな造形美に迫ります。」
 これまで日本で発掘された土偶は一万八千点、展覧会に出品されているものは六十七点(但し、このほかの常設に何点かあった)、展覧会の中では一番古いものが九千年前、新しいものが二千四百年前。
 わたしはこれまで縄文式土器、土偶、古墳時代の埴輪なども含めて、ほとんど興味を持ったことがなかった。見てもよさがわからなかった。今回も招待券が手に入らなければまず行かなかった。招待券があったところで、行くかどうかかなり微妙なところだったが、一緒に出かけた連れが興味を持っていたのと、場所が先日(といってももう昨年秋だが)「皇室の名宝展」で訪れた東京国立博物館だったことなどで、行く気になったのだった。ここの収蔵品は常設では置けないぐらいに数が多いらしいのだが、前回行ったときは北斎が何点かあった。きっと今回も何かしらあるだろうと思ってのことだった。
 会場はとても混んでいた。人だかりが夥しく、じっくり見るにはかなり厳しい。展示物の最前列にくるのも一苦労だが、たどりついても後の人に場所を空けなければならない、というかそうした流れがあり、じっくり見るのに苦労する。会場に入ってすぐ、あまりの人の多さに驚いてしまった。以前どこかで観た縄文関係の展覧はゆったりと見れたし、第一、当の国立博物館には、時代ごとに順を追って分けられて展示したおり、その考古のコーナーには土偶や土器の展示もあるのだが、前回行った折はガラガラだったし、実はこの後でも行ったのだが、今回も閑散としていた。そんな空き加減を、人の多さの前で頭の中で並べ立て、比べて辟易してしまい、ますます見ようという気がうせてしまった。適当に見てまわろうか、いや、せっかく来たのだからと、更に軽い葛藤があったが、総じてやはり最初はそんなに力を入れて見ていなかった。だが、多分《十文字土偶》(重文、縄文時代中期(前三〇〇〇〜前二〇〇〇年)、青森県青森市三内丸山遺跡出土、青森県教育庁文化財保護課蔵)の平べったい十字の上、てっぺんの口を洞のようにあけた顔におやと思ったのかもしれない。洞は叫びを秘めた祈りのようだ。そして十字の横枠の手、下の体に網目が刻まれた、衣服のような意匠に引かれたのかもしれない。中央部分には、胸であろう突起、そして下腹部である、下の十字のほうにも突起がある。こちらはおそらくへそなのだろう。三つ目のほうは、突起ではなく、穴が開いている、つまり女性器を表していることもある。土偶はほとんどが女性を表しており、そのことから安産、再生、生産、獲物(を獲るだけでなく、後期には大地母神神話と繋がるような、豊穣の意味も込められていたらしい)への祈願など、祭祀につかわれたとか、ほとんどが一部わざと壊された形で出土されていたり、実際その部分だけ壊れやすく作っていたりしているので、身代わりに使われていたものだとか、諸説あるとのこと。わたしは考古学はまったく門外漢なので、勝手なことを思ってしまうが、壊すためにあるものが、丁寧に、大事に作られてあることに感嘆した。特に十文字土偶は、その平べったさや形状から、流し雛を想起して、親しみをおぼえた。もちろん身代わりという言葉もそれらを結ぶ手助けになったが、その親しみとはつながりを感じたことによる。今ではほぼ祭りとなってしまっているが、流し雛は現在も各地で行われている。そのことに、《十文字土偶》との細い糸、共有を見出せそうだったから。だが、この親しみは、どこかしら悲しい。負のイメージは今では殆どないが、まだどこかにそれがからみついて離れないようなのだ。流し雛は、元々厄災を背負わされるために、身代わりとして流されるために美しく作られてあったのだ。手をぬかずに懸命に作られているのは、祈りの深さかもしれないが、滅びを背負った彼らはとてもいたましく、無言の叫びを背負っているように感じられる。《十文字土偶》の口の穴、両眼の穴、これらの穴がふかく静かに身代わりを語っているように感じたのだろうか。

《十文字土偶》

 いや、人だかりの十文字土偶と対峙するなかで、最初からそんなことを思ったわけではない。会場では先も書いたように、おやっと思っただけだった。次に《ハート形土偶》(重文、縄文時代後期(前二〇〇〇〜前一〇〇〇年)、群馬県東吾妻町郷原出土、個人蔵)、顔がハートで、眼が二重丸、鼻がやけにリアル、その顔の輪郭がクレーの絵のようだと思う(ここでまた親しみを持つ、こんなふうに自分の知ったなにかを思い出し、連想し、親しみの糸を結ぶことで、自分に近しい網目を広げてゆくのだ)。そしてTの字の両腕と逆Uの字を組み合わせた足、そこにほどこされた渦巻きや、縞模様の線も眼をひく。それらの模様は緻密で、美を追求する作業だった。Tの字の棒にあたるところの上部に胸を表す小さな二つの突起と正中線。正中線すら、縞模様と関連した意匠のようだ。そして棒の胴体にそっと盛り上がる二つの小さな胸とともに、それらはなにか約束の範囲内での自由として、定型からくりひろげられる美を想わせるのだった。いや、実はこの作品のレプリカは我が家にある。おかしなものだ、今までそれを見ても特になんとも思わなかったのに、突然こんなことを? まるで絵ハガキや画集でしか見ていなかった作品のようだ。実物を観て、それまでと態度を豹変させてしまう。家にある《ハート型土偶》は、こののち写真や絵ハガキのように、大事な思い出をしのぶ縁となるだろう(模様に関しては、実はレプリカを眺めながら、これを書いた)。

《ハート型土偶》

 《縄文のビーナス》(国宝、縄文時代中期(前三〇〇〇〜前二〇〇〇年)、長野県茅野市棚畑遺跡出土、長野・茅野市教育委員会蔵)の、ぼってりとした腹、洋ナシ型の安産型なのであろう、腰から太ももにかけたラインに安心感のようなものを感じる。まさに多産や豊穣を連想させるものだが、どこかしらほっとする優しさでもある。それは懐かしいような出会いだった。人ごみのなかで、ふっと親しみを感じてゆきすぎる。

《縄文のビーナス》

 形は全く違うが、《合掌土偶》(国宝、縄文時代後期(前二〇〇〇〜前一〇〇〇年)、青森県八戸市風張1遺跡出土、青森・八戸市蔵)も、座り込んで、胸の前で合掌しているのだが、当時のお産の様子を表していると説もあるらしく、やはり豊穣と多産を想起させもしたが、全身に模様が施され、特に顔にまで波型模様の頬、小さな穴のあいた口唇などがあるのに驚いたが、そこから崇高なまでに美がたちあがり、沸き立ちしてくることに、素直にひたった。それは祈りのなにかの一端をこうしたものを通じてかいまみることへの崇敬に似た思いでもあった。彼女にこちらこそ合掌したくなったのだった。

《合掌土偶》

 だが実は、これらはこのすぐ後で見た《中空土偶》(縄文時代後期(前二〇〇〇〜前一〇〇〇年)、北海道函館市著保内野遺跡出土、北海道・函館市教育委員会蔵)を見たあとに、もういちど戻って後の感想だ。《十文字土偶》でおやと思い、《中空土偶》で決定的なおや?になったのだ。中空土偶とは、中が空洞なことによる。両腕は破壊されているが、すっくとたちあがった立像で、《合掌土偶》の足や首のあたりに似たような網目や縞の模様も繊細で美しいのだが、そのすっくとたちあがった姿、幾分横に傾きつつ、少し上向いた顔にひかれたのだった。上向いたことで、意志力のようなものを感じ取ったのかもしれない。また、小さな模様のような二つの突起(定型の自由)、正中線と小さな突起のへそにより、女性だとわかるが、足はズボンをはいているようでもあり、りりしいほど男性的で、何かその真摯かつ崇高な姿に、性を超えた姿、あるいは共鳴をも感じたのだった。土偶は人間、もしくは精霊をあらわしているともいうから、その意味では性別の差があまりない精霊に近いかもしれない。だが、凛とした姿は、まさしく人間の意志のあらわれであった。この上向きの顔、模様の織り成す力に魅了され、人ごみをかきわけ、最初におやと思った地点まで戻り、今述べたような土偶たちについて、感想をもったのだった。

《中空土偶》

 そうしてみると、ふしぎなもので、あのゴーグルをかけたような眼(から名前がつけられた)、宇宙人のような姿の《遮光器土偶》(縄文時代晩期(前一〇〇〇〜前四〇〇年)、青森県つがる市亀ヶ岡遺跡出土、東京国立博物館蔵)、教科書やら何やらで、誰もが見たことがあるだろう、土偶の代名詞とも呼ばれるそれ、やはりそれまでどうとも思わなかったのに、俄然ひかれてしまったのだ。実は《中空土偶》より前に展示されていたのだが、ほかと違い、おやとも思わなかった。ただ通り過ぎてしまったのだが、《中空土偶》の後で、ほかのおや?土偶たちを観にいくなかで、ふっと目をひいたのが《遮光器土偶》だったのだ。眼鏡というよりもさらに大きな楕円に引かれた線により、目をとじて見える、そのとじた目が、すべてを見つめた後のように見えてきてしまった。小さな手と反比例して、腰のあたりから大きくなってゆく下半身、そのデフォルメにどっしりとしたものへの憧憬と希求を感じ、よく目にしてきたはずなのに、今まですこしも見ていなかったのだと痛感する。王冠のような帽子をかぶってみえる、複雑に髪を結われているのであろう頭、そして全身に施された模様は、この展示のなかでも、特に秀逸で、縞模様に加えて鱗や花のアラベスクといった感じの左右対称で、すぐれてデザイン性に富んでいる。なぜ今まで気づかなかったのだろうか。ちなみにこれも中空に作られている。土偶は土を焼いて作るのだが、その際にひび割れなどを起さないためだという。だが中空により、《中空土偶》がやさしく教えてくれたのだ、こちらもどうか観てほしいといざなってくれたような気がしてくるのだった。

《遮光器土偶》

 会場を出て、別室の土偶たちの展示を見る。こちらは先にも書いたように信じられないぐらいに空いている。彼らもまたわたしに、おや?を通り越して、みなぎる力をつたえてきてくれた。秋にきたときも、おそらくそこにいたはずなのに。わたしはこうしてたくさんのものを見ないで過ごしてきてしまっただろう。実はこの展覧会でも、猫のような土偶が展示されているコーナーは、あまりにも人がおおかったせいか、最初のほうの展示だったからか、素通りというよりも、見た記憶すらなく、会場を出てから、チラシやパンフなどでその存在を知って、しまったと思ったぐらいだった。閉じてみえる、あるいは洞のようにみえる目の土偶が、わたしの閉じた目を幾分かひらいてくれた。彼らの閉じた目は、おそらく宇宙的に広がっているのだが。通りすぎることは多い、だがそれでもおや? 気づくこともあるだろう。気づかないよりはましなのだ。
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