Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2010-06-25

病院坂から流れる水が穴をひろげる


 突然引用から。
 「あの人ともっと話したかったな。あの場所にもっと何度も行きたかったものだ……。すると突然、「ああ、これが縁なのだな」という思いに至ったのである。毎日一生懸命生きていてどうにもならないことを、昔から人は「縁」という言葉で表現していたのだなという考えが奥底から湧いてきたのである。いうなればこれは、「縁」という言葉を知った経験だったと思う。」(茂木健一郎、黛まどか『俳句脳』より)
 この後で、この言葉にたどりついたときのことを「目の前に新しい世界が開け、晴れ晴れとした明るい光が胸の内にさしこんできた」とあり、ここから「俳句の世界は、実はそのようなことに満ち溢れている」と、本論、俳句と脳の関係などについての文章に連なってゆくが、それはひとまずおいておく(これらも詩と重なる部分があり、興味深いのだが)。わたしが引用したのは、こうした光をもたらす、見つけた名前のような言葉について、多々覚えがあったから。それはずいぶん前だったろう。その言葉自体は残念ながら忘れているが、そのときの風は覚えている。やさしくつつみながら、どこかに押し出してくれるような風が頭にそよいだのだ。それはとても明るかった。感触でできた風景だった。あるいは風景にみちた名前だった…。
 わたしにはお気に入りの坂がある。自宅と駅を結ぶところにある坂で、名前を病院坂という。横溝正史の『病院坂の首縊りの家』のモデルの一部となった坂である。本の舞台は港区高輪で、この坂は世田谷なので、ずれがあるが、著者がこの坂の近くに住んでいたことなどから名前が使われようだ。実際のこの坂がなぜ病院坂なのか、来歴は不明だそうだ。苗園(びょうえん)があったから、戦前野戦病院があったから、結核の療養所があったから…。こうした不詳の来歴というのは、謎となって、わたしをどこかに誘う。迷路のようで、心地よい。木陰の多い実際の坂は、病院にまつわるどこか暗い響きと重なり合う。けれども、それだけがお気に入りの理由ではない。
 ここは国分寺のほうから長くのびる国分寺崖線の急斜面で、片方の脇は成城三丁目緑地という雑木林の公園になっている。崖線からは、二か所湧水が流れ、一か所のほうは貯めて池にしつらえてある。坂下から直接斜面をたどることもできる。木々に囲まれ、湧水が流れるそれは、ちょっとした山道のようで、錯覚が楽しい。そう、ここでも何回か書いているのだけれども、湧水の流れるこの緑地が好きだから、そこにある坂が好きなのだった。朝、自転車で坂を上る。かなりきつい勾配で、いつも押して登るのだ。にもかかわらず息が切れる。少々苦しいなと思いながら、坂をほぼ登り切り、緑地に入る。坂上にあたるそのあたりは長細く平たくなっている。こちらから斜面を登り降りすることもできるが、徒歩だけで自転車ではいけない。下の景色は木の柵ごしに眺めるだけだ。雑木林の斜面、竹林の多い斜面、中二階のように斜面にまた平たく、土でかためた小さな運動場。そして雑木林や竹林ごしに、街が見える。冬の晴れた日だと、街の向こうに富士山も見える。あるいは夕景ににじんだ家々たち。



 わたしは水が小さい頃から好きだ(といった話もここで書いたので、重複してしまうのだが)。だからこの緑地に湧水があると知ったのはうれしい、大切な驚きだった。通常は湧水のあるあたりは徒歩でしか行けず、おまけに夕方五時までしか入れないので、なかなか行けない。だが坂の上の緑地、柵越しに見降ろすと、一か所だけ湧き出る水、流れる水が確認できるところがある。だから日々の行き帰りに、かならず崖下を眺め、水を確認するようになった。朝、水の流れを見つめる。白くうっすらと輝いている。今の時分は日が長いので、昼のような感覚で、帰りもまだ水の流れが確認できるが、それ以外の季節だとあたりはもう夜、暗くなっているので、それはほとんどわからないかもしれない。だがどうかすると、うっすらと見えるような気がする。錯覚かもしれないが。見えなくても底を見やる。それでもあそこにたしかに水が流れているのだと思う。それだけでいい。朝も似たようなことを思う。水がそこにある。水を見ている。それだけでいいのだ、と。またはあたりは雨が降っている。傘もささずに自転車に乗っている。雨という水がまわりにあるというのに、なぜ湧水をながめるのだろう? と自問し、なんとなくおかしくなるが、それでもまた下をみやる。そこに水がある、それだけでいい。
 そう、この坂、あるいは緑地、湧水たちは大切な場所なのだ。それは日々と幻想をつなぐ橋渡しのような場所だから。


 孫引きになるが前掲の『俳句脳』に、<寺田寅彦が大正九年に「渋柿」という俳句雑誌に発表した随筆>の引用をしたい。< 日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。/このガラスは、初めから曇っていることもある。/生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。/二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。>
 この穴のひとつが病院坂の水なのだ。
 今日は書きたいことたちにまとまりがない。名前のような見出されたもの、風景に関して、坂に関して書いたものたちで、連綿とながれるひとつの水を作ろうと思っていたのだが。そしてここには、こんな文章をいれたかったのだ。
 < 坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向うに、別の遥かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。
 坂が──風景としての坂が──何故にさうした特殊な情趣をもつのだらうか。理由は何でもない。それが風景における地平線を、二段に別別に切つてるからだ。坂は、坂の下における別の世界を、それの下における世界から、二つの別な地平線で仕切つてゐる。だから我我は、坂を登ることによつて、それの眼前にひらけるであらう所の、別の地平線に属する世界を想像し、未知のものへの浪漫的なあこがれを呼び起す。>(萩原朔太郎「坂」、『猫町』所収)
 恥ずかしい限りだが『猫町』を今さら読んで、感嘆した。そしてこの個所には特に驚いた。これは、子供の私が思っていたことを言い当ててくれるものだった。つまり、この日記、冒頭の“縁”のようなもの。見出された名前のような文章だった。奥底からわきあがってきたものではなく、外部から奥底を照射してくれたという違いはあるが、その時、照らされたことにより、私たちは触れ合っていたのだ、だから明るい…。小さい私は思っていたものだ。「中学生くらいまで、坂をのぼるまでが好きだった。坂をのぼりきって見渡すと、そこには海が広がっている。あるいは知らない川が眼下を流れている。そう想像するのが好きだったのだ。」と、二〇〇九年四月十五日の日記に書いている。これもやはり病院坂についての文章だ。病院坂、緑地、湧水たち。坂を登ると、眼下に水が見えるという想像。日記の文章を続ける。「坂を脇にそれたら、それが本当になるのかもしれない。海ではないが、湧水があるのだ。」それは先の寺田寅彦の文章でいえば(これも見出された名前ではあった)、日々と想像のガラスにあいた大きな穴だった。水が穴からしみだし、互いに行き来しあっているのだ。わたしはその水を見つめ、思うだけでいい。すると、朔太郎や、日々のわたし、過去のわたし、想像するわたし、寺田寅彦や、横溝正史、それらもふくんで、水が流れ出す…。そんな水の流れる坂について書きたかったのだ。
 ところで今、去年の四月の日記の個所を探す途中、病院坂や成城三丁目緑地について、季節ごとにさまざまなものを見つけた。雪の情景、カナカナの鳴き声、かぶとむしの幼虫を育てている腐葉土のつまった箱の記述…。日々を流れる水の坂。



 坂下の湧水は、おそらく崖下からほんの少し離れたところを流れる野川にも注いでいるはずだ。私にとってこの川も日々のなかで湧水のように大切な穴となっている。この穴、この川をいったんここでせき止めて、脇道にそれたい。というか、このまとまりのない今日の文章たちに、やはり風景としていれておきたかったことをここで書いてみたいのだ。

 「ストラスブール美術館所蔵 語りかける風景─コロー、モネ、シスレーからピカソまで」(二〇一〇年五月十八日─七月十一日、Bunkamura ザ・ミュージアム)に行った。十九世紀初めから二十世紀半ばのピカソ作品までの風景画の展示。展覧会自体は、好きな画家のものもあったのだが(ヴラマンク、アルベール・マルケなど)、さほど心を動かされることがなかった。みるこちらが疲れていたのかもしれない。ガラスがくもっていたのかもしれない。あるいはモネ以前の風景はあまり惹かれたことがないとか、モネ以降でもシニャックやピカソはあまり関心をもったことがない、こうしたことたちが作用しあい、展覧会で穴を見出しにくくなっていたのかもしれない。けれどもモネの《ひなげしの咲く麦畑》(一八九〇年)。画面下半分に広がるひなげしの咲く麦畑、というよりほとんどひなげしの畑といっていいほどの、ばら色でちりばめられたそれと、画面上半分(そのうちの右三分の一位は雑木林か何か、深い緑の木々が描かれている)の、広い夕景の空の対比に惹かれた。ひなげしのばら色と夕景の空のばら色が呼び合うようにそこにあった。これはまるで海と空のようだった。水平線という境界線はあるが、それらを超えんばかりに青い色たちが呼び合っている、そうすることで可能な限り滲み、共有しあっている…。もっともこれは見るこちら側の視点なのだろうけれど。ともかく、地平線の双方の夕景とひなげし、これらに水の共鳴を見たのだった。それは彼のえがく水辺の反映にも通じる呼び合う何かだった。


 ここでせきとめていたものに帰ってくる。展覧会の翌日、通勤の帰りに野川にかかる橋を渡る。この時いつも水面を見るのが日課になっている。鯉や水鳥を見る、石や草たちのそよぎを見る…。橋の途中でそれをしようとして、中途で、つまり水面と空のまじわるあたりで目がとまってしまった。あたりは夕景で、夕焼けの空が、水面に映えているのだ。それは前日に見た《ひなげしの咲く麦畑》の色だった。ばら色の空が、水に落ちている。水はそれにこたえるように受け入れてばら色を流している…。極限で重なり合うようなばら色の光景は、穴をひろげ、自在に通り抜け、どこかに運ぶ。ちょうど、地平線が穴として広がり、そこから夕景のばら色を流してくるように。日常と想像を照らしてくれるばら色なのだ。そして、この光景は、モネの絵だけではなく、やはり以前見た、同じような風景を思い出させた。具体的には東上線沿線に住んでいたときの、車窓から見えた柳瀬川のそれだ。やはり夕方の水の反映。坂から流れる水は、こんなものたちをもひたし、まきこんで穴を行き来するのだった。

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2010-06-15

アルフォンス・ミュシャ展、両義性たちが出会っている。



 「生誕一五〇周年記念 アルフォンス・ミュシャ展」(二〇一〇年五月二二日─七月四日)に出かけてきた。場所は三鷹市美術ギャラリー。三鷹駅のすぐ近くにあるのだが、ここは家から直線距離だと近いのだが、電車だと遠回りになってしまうので、今回は車でいった。目的地近くになり、ずいぶん緑が多いところだと思っていたら、電車では何回も赴いている井の頭公園だった。三鷹駅のかなり近くなのだが(というか隣駅)、公園のほうは「吉祥寺駅」か、「井の頭公園駅」、駅名が違うし、たとえば公園に来るのなら、三鷹駅には来ないし、三鷹駅に用があるのなら、井の頭公園には行かない。それぞれその場だけで終わってしまうので、今まで気付かなかったのだ。そし公園のすぐ裏側に玉川上水が流れていることも知らなかった。細い用水路のような川だが、緑が深い。ほぼ条件反射的に想起してしまうのは、太宰治の入水した川だということ。緑の深さが、その影をおびてどことなく重い。その玉川上水が結ぶような形で、三鷹駅があった。ギャラリーはほとんど駅ビルといっていいところの5階になる。四階までは、小物屋や服屋、本屋などが立ち並ぶ。五階に行くまで、本当に展覧会がやっているのかどうか、ちょっと不安になる。おまけに多分、正統的なルートではない行き方をしてしまったらしく、四階から五階へはエスカレーターではなく、裏の階段を使っていったし、入口も非常階段のドアのようで、ますます不安はざわついた。高まったといわないのは、以前、ここにほかの展覧会の折に来たことがあるし、一階でもミュシャ展開催のポスターを見かけたから、確かにここに存在し、開催していることはわかっているから。ともかく階段をのぼりつめ、殺風景な鉄の灰色のドアを開くと、突然、美術館的な空間が広がっていた。展覧会のポスター、案内の看板、そして照明も暗い。あちらではミュージアムショップが見える。そして、ここにくるまでの不安を楽しんでいた自分に気付いた。この不安とギャップは心地よい。そういえば、車できたことにも、そうしたギャップはあった。美術館には、多くの場合、電車で行く。車で出かけるとしたら、遠いところであるとかだ。そして三鷹あたりだと、家からほぼ隣の市にあたるのだが、なにか郊外への買い物の途中で通り過ぎるところ、といった印象がある。だからこの日も、これから展覧会にいくという緊張感がなかった。ホームセンターか何かに向かうような感じで、つまり日常と地続きであった。こうしたことも新鮮だといえば新鮮だった。
 さて、アルフォンス・ミュシャ(一八六〇─一九三九年)。彼のことはここでも何度か書いている。チェコ、モラヴィア地方で生まれ、パリで雑誌の挿絵などを描き生計を立てていたが、一八九四年暮れに、サラ・ベルナール主演の劇の宣伝ポスター《ジスモンダ》をほとんど代役といった形で手掛けたことで、一躍有名ポスター画家となる。その後、「ミュシャ様式」と呼ばれる独特の流麗な線で描かれた女性像をメインに、芝居、煙草、菓子、化粧品など様々なポスターを手掛け、それが約十年続く。一九〇四年頃には、アメリカでの評判も高まり、この地を制作の拠点にする。一九一〇年、五十歳でにプラハに戻り、「スラヴ叙事詩」(歴史的壁画連作)の制作を始める。ポスターは祖国の催しに関係あるものだけ。ステンドグラスや、紙幣も手掛けている。一九三九年、プラハで死去。享年七十八歳。
 生誕百五十年記念ということでか、《ジスモンダ》以前の油彩作品から、チェコに戻ってからのものまで、回顧展的に充実している。彼が手がけた彫刻やデザインした宝飾品、そしてステンドグラスの展示もあった。
 数年前(二〇〇五年一月)に、上野の東京都美術館で開催されたミュシャ展は、入場制限が出るほど混んでいたと記憶するが、こちらは程よい。というよりも確か上野と同じぐらいの曜日と時間帯、土曜日の午後三時ぐらいだったと思うが、まるで平日ではないかと思えるぐらいにすいていた。これは珍しいことだ。ミュシャはいつでも人気があるから。 私はどうしてミュシャの絵にひかれるのだろう。へそまがりのわたしの好みの系統のなかでは、彼はすかれすぎ、人気がありすぎるので、本来ならばはずれるものだ。そして、どちらかといえば重い絵にひかれる傾向があるような気がしているのだが、ミュシャに限っては、チェコ時代の重さよりも、明るいポスター、とくにパリ時代の十年のほうが好みなのだ。
 ひとつには、これは何度もここで書いているのだが、サラ・ベルナールや、プルースト(『失われた時を求めて』の女優ラ・ヴェルマはサラがモデル)が好きだからだろう。または彼らをふくんだ世紀末にひかれるからだろう。ガレ、ラリック、モネ、フェルナン・クノップフ、クリムト、ムンク、ワイルド、ビアズリー、ユイスマンス。
 展覧会会場でも、なぜ好きなのか、小さく自問していたように思う。「第一章、パリ時代」のなかの「1 絵画とデッサン」には、おおむね初期作品が展示されている。そのうちの油彩画は、ミュシャらしい女性の線をふくんでいるが、まだしっくりこない。
 そして「2 ポスター」に移る。やはり《ジスモンダ》だ。何度も見ているはずなのに(去年の秋(二〇〇九年九月二十五日)にも書いている。世田谷美術館でのオルセー美術館展にこの絵とサラ・ベルナールの椅子などがきていたのだ)、はじめてみるように新鮮だった。ほぼ等身大のサラがすっくと立っている。棕櫚を手にかかげもち、花冠を載せ、ビザンティン風の豪奢な衣裳を着て、ビザンティン風のモザイクの四角い模様に浮かび上がる“GISMONDA”の文字。横向き、やや上の棕櫚をみつめた表情は、夢見るようであり、毅然としてもいる。実質的なデビュー作となったこの絵には、力がみなぎっている。人をひきつける衝撃がある。そして、その後のミュシャ・スタイルとよばれたもの、すべてがもうここにはそろっている。ちょうど小説家や詩人のデビュー作がその人のその後のすべての作品を内包しているように。植物を組み合わせた流麗な線で描かれた女性、やわらかな、ほとんど明るいとまでいっていいかもしれないエロティシズム、わたしの好みの言い方だと、生と性の混交、そしてエキゾチシズム(これは彼がチェコ人であることによるのだろう。たとえばこの衣裳にも現れ、ほかでもつかわれるビザンティン風のものは、彼が育った東欧では、五世紀から十五世紀に東ローマ帝国のキリスト教文化で発達したビザンティン美術の影響が強く残っていたことに由来する)。やわらかくありながら毅然としている、明るさのなかに暗さがある、そして東洋と西洋が出会っている、あるいは絵画芸術と商業美術が出会っている。というより蜜月をおくっている。彼のパリにおける十年に描かれた絵には、おそらくこれらが共通して含まれている。相反するものたちの蜜月が、画面からあふれているのだ。さきほどエキゾチシズムといったが、これには古代ギリシアと現代(世紀末当時)の出会いも含まれているだろう。アールヌーヴォーが植物や虫などに集約された自然と芸術の出会いであったことと、ミュシャの絵における様々な出会いは呼び水同士となり、燦然と輝いたのだろう。そういえばミュシャのパリの十年と、アール・ヌーヴォーの隆盛時期というのは、ほぼ重なる。

《ジスモンダ》

 展覧会会場にあったほかの作品たちに近づくようにして、これらのことを見てみる。やはりサラ・ベルナール主演の《メディア》(一八九八年)。これは古代ギリシアのエウリピデス作のギリシア悲劇。まさに古代が出会っている。そしてモザイク模様にうちだされたようなタイトル“MEDEE”。ただ、こちらはわが子を殺めたメディアが立ちつくすシーンを描いてあるので、明るさはないのだが。それでもそれが暗いばかりかというとそうではない。見開かれ、こちらをむいた王女メディアの表情は、どちらかというと舞台女優の表情である。見得を切っているというべきか。古代の王女と現代の役者、それらが絵のなかで共存している。実在と演じることが。創作と現実が。古代と現実が。

《メディア》

 また、これはミュシャにまつわるというよりもいささか個人的な趣味に走った感想なのだが、ポスターのなかでメディアが腕にしている蛇がまきついたブレスレットというのが、展示されていて、そこにくぎ付けになった(《蛇のブレスレットと指輪》(一八九九年))。《メディア》のポスターを見てサラが実際にほしがり、ミュシャ自身があらたにデザインし直したものを、当時一流の宝飾家であったフーケに作らせたものだという。蛇の体にはエメラルドと金のうろこ、そして頭部にはオパールが妖しく光っていた。くっきりとしたルビーの眼。個人的といったのは、自分もしたいと思ったのかもしれないし、オパールを使っていることで、宝飾家時代のラリックを思い出したのかもしれない。そんなことたちが興味の大部分をしめていたからだ。そして蛇はわたしにとって複雑な存在なのだ。きらいとはいえない。だがすきともいえない。そのあわいで強烈に惹かれる存在。

《蛇のブレスレットと指輪》(一八九九年) 

 ミュシャの両義的な面にもどる。《サロン・デ・サンでのミュシャ展のポスター》(一八九七年)はスラヴ風の服を着た女性の髪が植物の蔓のようではあるが、その流線が、文字たちの流線と密接な関係を作っている。サロン・デ・サンの文字、日時と場所をつげる文字、それらは互いに流れをつくることで、ともに絵画でありつづけている。商業美術が絵画でありつづけるように。あるいは文字と絵の抱擁といったことから、文学と美術の出会いということを思ってしまう。

《サロン・デ・サンでのミュシャ展のポスター》

 そしてひそかに好きだった《巻煙草用紙ジョブ》(一八九六年)。やはりモザイク模様の外枠のエキゾチシズム、顎をあげた女性の誘うような、じらすようなエロティシズム、長い髪のねじれが、こちらでは文字ではなく、煙草の煙とひびきあい、ほとんどまじりあおうとしているかに見える。そして手に持った巻煙草と煙の区別もつきがたい。植物的なものと、商品としての煙草と、女性が、とくに髪の毛が、均衡をとりあい、それが絶大な効果を生んでいる。ひそかに好きだと書いたのは、この絵もまた何回も見ているのだが、見るたびに、ああ“ジョブ”も、好きだったんだよなあと、なぜか見るたびに思い出すことになっているから。さきほどの《ジスモンダ》もそうかもしれない。これまでこの絵は、気に入ってはいたのだが、気付くと見たことをほとんど忘れている、妙な絵となっていたのだった。いや、それは見るたびに、あたらしい発見をもたらしてくれる絵ということなのかもしれない。《ジスモンダ》については、去年の秋にやはりここでちょっと触れているが、そこで触れているのは、演じることの一瞬と永遠についてである。まだ一年たっていないというのに、いまとまったくちがうことを書いている自分がおもしろい。というか、ミュシャはそうした不思議な作用をもたらしてくる、ちょっと妙な画家なのだ。それは様々な多義性をもっている、そのことによるのかもしれない。切り口がひとつではありえないということ。

《巻煙草用紙ジョブ》

 ほかに《通り過ぎる風が若さを奪い去る》(一八九九年)、若さを奪うはずの風が妙齢の女性であり、それがまた若さと奪い去られたそれの抱擁であるようだ、モエ・エ・シャンドン社のポスター、《シャンパン・ホワイト・スター》と《ドライ・アンペリアル》(一八九九年)、シャンパンの宣伝だというのに、宣伝として挙げられるのは、例の美との共存である文字と、前者は女性が手に持ったブドウの房、後者は古代の聖杯のようにみえるグラス、これらのみである。こうした商品そのものを出さない広告というのは、今からみるととても新鮮だ。《パーフェクタ自転車》(一八九七年)もそうだ。自転車の広告なのだが、それを現すのはやはり文字と、自転車のハンドルとわずかに見える前輪だけ、あとは風を感じる、流れる髪の女性ばかり。彼女はいとしそうにハンドルを抱きかかえている。

《通り過ぎる風が若さを奪い去る》

モエ・エ・シャンドン社、《シャンパン・ホワイト・スター》と《ドライ・アンペリアル》

《パーフェクタ自転車》

 わたしは彼の、特に故郷に帰ってからの作品には残念だがほとんどひかれたことがない。残念だというのは、ミュシャにとっては、おそらく故郷に帰ってからの作品のほうが、描きたかったものだったであろうからだ。商業美術ではないもの、そうした枷がなく、故郷愛であるとか、スラヴ民族の歴史や文化への系統を発揮しようと努力し、仕上げたもの、ポスターではなく(冒頭でも触れたが、これは祖国の催しに関係したものだけ)、壁画や油彩画たち。
 なぜだろうといつも思っていた。まだ思っている最中ではあるが、理由のひとつは、両義性が後期の彼からはほとんど見受けられなくなっているからだ。皮肉で悲しいことなのだが、商業美術であるポスター、カレンダーなどのほうが、自由であるからだ。限られた自由であるかもしれない。だが、こちらのほうが思いっきり羽をのばしている。想像(創造)は湯水のように湧き出るばかりで、見るわたしたちをどこか創造の可能性を秘めた世界へ導いてくれる。だが後期のそれは、美の羽がたわんでいるのだ。複雑な歴史をもつ祖国への思いが、創造をせばめている…。そしてそこには両義性が入る余地がほとんどない。
 (チェコに戻ったミュシャに対して)「故郷の美術界は意外にも冷ややかであった。当時プラハにも(…)最先端の前衛美術の波が押し寄せており、ミュシャのアール・ヌーヴォー様式など、すでに過去の美術となっていたのだ。しかも外国で名を上げたミュシャは、自国の英雄ではなく、よそ者と見られたのだった」(『週刊西洋絵画の巨匠 ミュシャ』小学館)。彼はパリでもよそ者だったはずだ、そう考えると、後期の彼の絵に惹かれない自分と、ミュシャを思う自分とのギャップに胸がいたくもなる。だが、残酷なようだが、こうしたことと描かれた作品とは一線をひいて考えなければならないのだ。それは作品とは別のことなのだ。
 チェコに戻ってからの作品群は、展覧会の最後のほうに展示してある。出口付近までそれらを一通り見てから、またパリ時代の展示を見に行く。両義性たちがとても鮮やかだ。だが、後期のそれを見てからだからかもしれない。ポスターやビスケット缶のなかにある種の悲しみを感じた。あるいは両義性というからには、楽しさと悲しみがはなから存在しているのかもしれない。別のこととして考えなければ、と思いつつ、パリ時代の彼はおそらく祖国に戻ることを考えていたはずだ、商業美術ではないものを描くことを願っていたはずだと思ってしまう。だが、とここでわたしは堂々巡りのあげく、同じ感想をもってしまう。それでもパリ時代の彼の絵にどうしようもなく惹かれてしまうのだと。彼の願いがどうであれ、商業美術のなかで彼の本領は発揮され、輝いていた。

 ここには展示がなかったが、入ってきたときに見かけたミュージアムショップで、《モナコ・モンテカルロ/P.L.M.鉄道》(一八九七年)の絵ハガキを買う。この作品もひそかに好きだったものだ。顎の下に両手を添えて、何か祈るような面持ちの女性が座る全身像。女性の周りには、ライラックやアジサイ、シクラメンの花と茎を使って車輪を作り、線路を表している。つまり鉄道のイメージを花たちが受け持っている。機械と花の出会いに惹かれる。そして、明るさのなかで、華やぎのなかで、どこか影をもつ女性に惹かれる…。影にはおそらく、わたしとミュシャのあいだの温度差も含まれるのだろう。他者との距離。それでもミュシャの絵には惹かれるのだ。これまでも、そしてこれからも。


《モナコ・モンテカルロ/P.L.M.鉄道》
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2010-06-06

「伊藤若冲、アナザーワールド」、抱き合う生と死



 「伊藤若冲 アナザーワールド」(千葉市美術館、前期五月二十二日〜六月六日、後期六月八日〜六月二十七日)に行ってきた。
 伊藤若冲(一七一六─一八〇〇年)のアナザーワールド、つまり若冲といえば《動植綵絵》のような着色画が有名であるが、実際は水墨画も多く描いてきたので、〈もしかしたら水墨画のほうが若冲の個性であるかたちの面白さは際立つかもしれません。/ 本展覧会は、若冲の水墨の作品を中心に、関連する着色の作品をも含めて構成します。加えて、河村若芝・鶴亭らの黄檗絵画の作品によってその水墨表現の前史を示し、若冲水墨画の世界に迫ります。〉(展覧会チラシ、HPより)といった趣旨の展覧会。
 千葉にくる前に静岡県立美術館で開催されていたこともあり、半年ほど前からこの展覧会のことは知っていて、楽しみにしていたものだった。
 私は若冲の何に惹かれていたのだろうか。去年「皇室の名宝─日本美の華展 第1期 永徳、若冲から大観、松園まで」(東京国立博物館)に行った折の日記を読んでみる。ここの展覧会で初めて(遅ればせに)《動植綵絵》に圧倒されたのだった。その絢爛豪華な色彩のむせかえりそうなゆさぶり、そして「実物の写生を通じて、彼は関心(イコール錯覚)こそが現実だといっていたのか」と日記に書いているように、ある意味幸福な合致─現実と錯覚─のもたらす自在さに惹かれたのだろう。現実を見ている、その眼が錯覚を含んでいたとしてもそこに抱擁がある。彼は現実にあるものを忠実に写生していたらしいのだが、それは彼が見たままか、見たいと思ったものの再現だったのかもしれない。彼の絵では、現実と錯覚がうれしげに抱擁しあっているのだ。「私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない」「詩人の直角する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ」(萩原朔太郎『猫町』)。見たものたちが、観るわたしたちを絵を通して和解させてくれている…。それだけではない。それはマグリットやエッシャーほど作為的ではないにせよ、彼らと同じような効果を生む。つまり、あり得ないものたちの出会いだ。空と水が合体するように。…たとえば《(動植綵絵)蓮池遊魚図》を思い出している。水面よりも上にのびているはずの蓮の葉と花が、水草のように底にあり、アユなどの魚が空をおよぐようにみえる。わたしたちは蓮の池のその奥に魚たちを思い浮かべる。そのとき、魚は蓮とともにわたしたちの内奥の目ではこのようにみえているのだと、若冲は教えてくれる。また蓮は画面下から両側面を通り、画面上まで伸びて、ほとんど囲むように描かれており、なにかアール・ヌーヴォー的なデザイン化された意匠のようである。

 と、アナザーワールド展のことを書かずにいるのは、なんとなく気のりがしないからだ。ひとつには、そしておそらくそれが一番の理由なのだが、若冲の別の面ということで、水墨画が多かったことによるだろう。水墨画が多いということは、なんとなくはあらかじめ知っていたのだが、「動植綵絵」のようなあざやかさ、派手さ、生のエネルギーをみることができるだろうと思っていて、あまり気にしていなかった。たとえば白黒映画の持つ力を思い浮かべていたのかもしれない。それはそこに私たちが色をのせることによって、よりあざやかになるものだと経験的に知っていた。速水御舟の描く墨一色の作品たちのあでやかさ、なまめかしいまでの筆致にすいこまれそうになった記憶もある。あるいは北斎漫画や、北斎の白黒のものにも、北斎らしさを感じて…いや、どうだろう、モノクロームの北斎展だったら、やはり少しはがっかりするかもしれない。わからない。
 アナザーワールド展では水墨画のそれたちに、個々にひかれるものは何枚かあった。だがときめくものがなかったというべきなのだろうか。鶴を描いたもの、鷹を描いたものに、「動植綵絵」を思ったが、ここに色がのっていたらどんなにかいいだろうと思ってしまう。みるわたしが載せた色ではなく、若冲自身の色が。そして、ときめいたもののひとつは《雪梅雄鶏図》。これは絹本着色一幅で、「動植綵絵」の制作が開始された一七五七年頃の作品とあったが、解説をみるまでもなく、着色されたそれはほとんど「動植綵絵」だった。少なくともわたしにはそうだった。地面と梅の幹や枝に積もった雪たち、鶏も白い羽が目につく。白さは水墨画のそれではなく、まぶしい、そしてあかるい。雪までもが生をもっているように見える。これはその隣にあった《月夜白梅図》のあまたの梅の花たちの白でもそうだ。こちらは白がつぶつぶとした花びらになっていて、はじけんばかりでむせそうになった。また《雪梅雄鶏図》にもどるが、こちらは白にも目を奪われたが、それは赤い鶏冠、そして山茶花の赤い花びらとの対比のせいもあっただろう。あるいは雪の白と鶏の白が組になっているように、鶏冠と山茶花の赤の組ができていること、これらが対になっていることで、合わせ鏡のような、赤と白の過剰をかんじたのかもしれない。そう、色的にはそこでつかわれているものは、かなり少ないのだから。そうだ、若冲は色をたくさん使っていると錯覚していたが、そうではないのだ。《月夜白梅図》も夜だから色は少ないし、「動植綵絵」も、茶系統しかつかわれていない《芦雁図》、《秋塘群雀図》などが思い出される。だが、それらもふくめて、思い浮かべるそれらはいつも色あざやかで多彩なのだ。生の過剰のはなつ色だといってもいい。
 その生なましさが、これは受け取る側の問題なのだが、水墨作品からはあまりかんじられなかったのだ。

《雪梅雄鶏図》


《月夜白梅図》

 あとは、これは隣の芝生が青い、的な発想であるのかもしれないが、わたしがでかけたのは前期期間であるのだが、どうも後期のほうが見たい作品が多いように思ったこと。前期と後期では、かなり出品作が入れ替わる。着色画に関しては、後期も前期も数的には同じぐらいだが、目玉のひとつである、《象と鯨図屏風》が後期だったこと…、いや、やはり隣の芝生かもしれない。前期には野菜たちが集まって釈迦に見立てた大根の入滅を嘆いている《果蔬涅槃図》があった。なるほどなと思ったが、圧倒的にひかれたわけではなかったから。
 わたしは若冲に生をかんじているのだろうか。だがさきほど水墨画でひかれたものがあるといった、その一点の《蓮池図》。こちらはもともと襖絵だったものを、六幅の掛軸にしたもの。むかって右の二枚に蕾や満開の蓮が描かれ、真ん中の二枚に、葉ばかりが描かれている。そして最後の二枚が、葉も花も枯れたもので、まるでゴーギャンの《我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか》が人の一生を描いているように、ここでは蓮の一生が描かれている。そこには生というよりも死が見える。そして、荒涼とした、さびしさに圧倒される。六枚とも画面の下方に描かれてあり、画面上は何もない。その白さ(実際は歳月のぬった色、つまりセピアになっているのだが)のはなつ空虚さにくぎ付けになった。襖絵であっただけに、画面も大きい。なおさら空しさのようなものがひろがっていった。それはとてもさびしい。そして痛い。かれた葉のぬるぬるとした感触がつたわってくる。あるいはそこにあるのは生をふくめた死だった。花のおちたそれは、実をつけていたのだから。


《蓮池図》

《鯉図押絵貼屏風》(部分)

 ほかには《鯉図押絵貼屏風》(一七九五)。こちらも六曲一隻と六枚だが、右から四枚までが一匹、そして後の二枚に二匹の鯉が描かれている。最初の四枚の一匹ずつの鯉は水が目立つ。あとの二枚は二匹の鯉がメイン。この最初の四枚、鯉と水を面白く思い、目をとめた。とくにその水の流れ。輪になった太い水のなかをくぐりぬけるような鯉がいる。あるいは直立してみえる鯉に布がからむようにまきつく水。これは水というよりもデザインだった。《(動植綵絵)蓮池遊魚図》の蓮の意匠に通じる。水はこんなふうに流れてもいいのだ、あるいは若冲の眼と現実のそれのあの抱擁だった、わたしはそれを感じ取っていたので、この鯉たち、というより水にひかれたのかもしれない。
 そういえばモザイクかタイル画のように小さな升目が無数に並び、その中にひとつずつ色を埋めて動物たちが集まっている図柄を浮き上がらせた《鳥獣花木図屏風》の六曲一双。こちらはわたしの好みでいう彩色、それもなんとも色彩あふれる作品だし、あまたの動物たちの表情やポーズ(真正面からえがかれた白い象、首をありえない角度でまげている豹、小さな馬たちが川をわたっている、まっすぐ上をむいた鹿のりりしさ、など)をおもしろく、そして楽しんでみたのだが、それは圧倒されるというほどではなかった。いや、微妙だ。若冲といえば「動植綵絵」とともに必ずといっていいほど画集などで紹介されるこの絵もまた、この展覧会にくるというので、それが楽しみのひとつだった。だから、ほかの心ひかれた作品たちと同じくじっくりみたし、もどってきて、またみたりもした。そうすることで、じぶんに言い聞かせていたような気もする。こんなにじっくりみているのだから、感動し、心をゆさぶっているのだと。かといって気に入らないものだったわけでももちろんない。それが微妙なのだ。ここには現実と若冲の眼の抱擁、それが若干うすくなって映ったからかもしれない。なにか作りすぎているような気がしたのかもしれない。ありえないものたちの出会いがいいとさきほど書いた、それはわたしのなかでも大切な要素なのだが、それはおもに常識をくつがえすものであってほしいのだ。集まった動物たちは、常識をくつがえすということからは若干離れてしまってみえたのかもしれない。あるいは動物を描いたピロスマニやルソー。かれらのそれはもっと孤独だ。この《鳥獣花木図屏風》のそれは孤独ではない。たくさん集まった群衆の孤独というものもあるかもしれないが、少なくともここではそうした孤独は感じられない。

《鳥獣花木図屏風》

 この日は雨だった。うちは神奈川よりの東京なので、千葉までは結構距離がある。せっかくだから、というか遠出ついでにまた海のほうにむかった。九十九里へ。砂浜にかもめの死骸が二羽、打ち上げられていた。死からはなぜ、いつも独特の気配がながれだしているのだろうか。小さい頃、魚屋のまえを通るのがこわいような魅せられるようなものであったことを思い出す。幼児の私にとって、魚屋には死がならんでいるところであったから。奥で魚をさばいているのが見える。大きなバケツに内臓を捨てている。それは恐怖というよりも圧倒的な静寂だ。崇高かつ、沈黙だ。それは黒いものであるかもしれない。この日は雨だった。景色は、海すらも灰色にくすんでいる。死んだカモメも二羽とも黒だった。若冲の《蓮池図》、生と死をどこかで思い出していた。からみつくような波があらい。そうだ、生と死もまた抱擁しているのだ。
06:58:25 - umikyon - No comments