Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2010-08-25

ヴィンタートゥール展、幻想と現実の陸が雨と赤ん坊によってつながる



 「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール展」(二〇一〇年八月七日─十月十一日)に行った。場所は私が住んでいる場所からほど近い世田谷美術館。砧公園のなかにあるここは森と緑にかこまれた美術館で、その環境により好きな美術館でもある。自転車でもいけるが、今回は体調があいかわらず思わしくないので、車で連れて行ってもらった。夏休み期間中は小中学生は無料というので、親子連れなどで混んでいるかと思ったが、それほどではなかった。少ないというほどではなく、ほどほどに人が多い。子供たちはうるさいかと思ったが、熱心に絵を見ながら、鉛筆で感想らしき文章を書いているのが目立つ。こうした光景はいい。理由はともあれ、絵と向き合っている。見ているこちらもこころがひきしまる。
 さて、展覧会について。世田谷美術館HPから。
「スイスの小都市ヴィンタートゥールは資産家たちが優れた美術品を集めた文化都市として美術愛好家の注目を集めてきました。その美術館はヨーロッパ近現代美術の優れたコレクションで知られますが、これまでまとめて館外で展示されることはありませんでした。本展は、この珠玉のコレクションを、国際巡回の一環として、日本で紹介するものです。ゴッホ、モネ、ルノワール、ピカソなど巨匠に混じり、当館に関係の深いアンリ・ルソーの名品、またクレー、ジャコメッティらスイスゆかりの著名作家の優品を展示。出品作品90点すべてが日本初公開となります。」
 ヴィンタートゥール美術館が、二〇〇九年から改修工事をしており、その間にコレクションが各地に回ることになったことで実現した巡回展だという。出品作家は、他にドラクロワ、コロー、ピサロ、ゴッホ、ルドン、アンカー、リーバーマン、コリント、ホードラー、ドニ、ボナール、ヴュイヤール、ヴァロットン、ブラック、レジェ、マルケ、ヴラマンク、ベックマン、カンディンスキー、ヤウレンスキー、ココシュカと、大まかにいって十九世紀から二十世紀前半のヨーロッパ美術の紹介というところか。…。
 出品作家が多いので、あまり下調べをせずにいった。こういったものは、たいてい何かしら素敵な出会いがある。そこには思いがけなさがついてまわる。展覧会のチラシには、ゴッホの絵とルソーの絵だ。それが見れるだけでも十分だった。
 出品は、フランス近代1、2(印象派前後)、ドイツとスイスの近代3、ナビ派から二十世紀へ4、スイスの具象絵画5、二十世紀(6表現主義、7キュビスム、8素朴派)の順番。1にあったモネの絵にはあまりひかれなかった。こうしたこともたまにはある。つづいて2の印象派後に、オディロン・ルドンが三枚あった。花瓶の花(《野の花》一九〇五─〇八年)に又出会ったが、前回ほどではない。隣の《アルザスまたは読書する修道僧》(一九一四年)、着色画で、赤い僧衣の修道僧が赤い本に目をおとしている。背景は、空と緑かもしれないが、花瓶の背景のように、茫漠としており、さだかではない。あるいは空と緑を含んだ何か、なのだが、この背景は、内的世界なのだと思った。ルドンのそれというより、修道僧の内面がにじみでているのだと。森と空と雲に、バラ色かもしれない、茶色や黄色かもしれない、さまざまな色がたちこめている。それは修道僧の思念と、書物のことばの放つ色たちがまざりあって、現実の空のもとで在るのだと思った。ちょうどわたしたちが本を読むときのように。本を読む、そのとき、ことばたちはからまりあいながら、現実のばしょで色を放出するのだった。

ルドン《アルザスまたは読書する修道僧》

 4に、わたしが比較的好んでいるヴラマンク、マルケ、ユトリロがあった。ヴラマンクのそれにはモネと同じように、今回はひかれなかったが、アルベール・マルケ《ラ・ヴァレンヌ=サン=ティレール》(一九一三年)。左に岸辺沿いの白い道、たっぷりの水の川に、小舟が何艘か、中洲の緑、そして空。わたしは彼のどんよりとした水が好きなのだった。曇り空よりももっと重たい水。水に風景というよりも想いが塗りこめられて見える…。今回ももったりとしていた。中洲の緑が川面に反映している。その緑の重たさと、反映していない川の重たさ、白い小舟の重たさ、これらの重たさが煙か匂いのようにわたしにやってくる。わたしの内面にもったりとした重たさをのこしていった。それはおそらくわたしのなかの重たさと響きあうのだった。

アルベール・マルケ《ラ・ヴァレンヌ=サン=ティレール》

 ユトリロは好んでいるといったが、それは十何年か前のことで、この頃はそうでもなかった。あちこちで何点か観ていたが、もはやうったえてくるものがほとんどなかったのだ。だが《ポントワーズのノートル=ダム教会》(一九一四年頃)。白い教会の壁がひさしぶりにさびしかった。いや、おおむね白い壁なのだ。それは白以外のさまざまな色、思いがこもって、そうした色をつくりあげているのだから。この絵のまえで、ユトリロを好きだったかつての自分をも思い出しているのだった。坂の上の赤い屋根の家がめずらしく明るい日差しのなかにあった、《ミミの家》が好きだった。明るさは穏やかな希望のようだった…。マルケとユトリロはすぐ近く、ほとんど隣り合っての展示だったので、会場を一通り観終わってから、この二点を観に何度か戻ってきた。どちらもぬりこめた思いだった。
 つぎは6、7、二十世紀。カンディンスキーやピカソが多いのだが、このあたりはどうも苦手だ。たいして観るものがないだろうと思っていたら、パウル・クレーがいた。《水脈占い師のいる風景》(一九二三年)。手に何か道具らしき線を持った白い鳥のような人間(占い師)、ハートのかたちの線、白い布のような線、建物、そして占い師の頭上に、うずまく青い線、中央が土星のように丸く赤くひかっている。抽象的なのだが、そしてわたしはどちらかというと抽象画は苦手なのだが、どうして彼にはひかれるのだろうか。そうどこかで思いながら、うずまく青い線を見る。これが水脈、水源なのかもしれないと思う。すると、背景の小さな粒のような玉たちが、水しぶきなのだと気づく。水脈は頭上にあるから、竜巻のようにもみえる。水蒸気が登って雨が降る、たまる。水しぶき、雨粒、水脈、竜巻…。自然の連環が絵から感じられる。水たちが息づいている。それをさがす占い師の内面をもまきこんで。この水たちに身を浸すのがここちよかった。それは内省をもふくんだ、水との関わりだった。クレーになぜひかれるのだろう、それはわからない。ただ、肌が合うのだ、としかいいようがない。あの水たち。どこか子供の描いたようなあの線たち。子供が詩人と近しいということを、クレーはいつも思い出させてくれもする。

クレー《水脈占い師のいる風景》

 いよいよ最後の章、8の二十世紀掘崛破冉匹ら新たなリアリズムへ」にお目当てのアンリ・ルソーが二点あった。ひとつめが《花束》(一九一〇年)。花束といっても、白い陶器の花瓶に入った花の絵で、構図だけいえば、ルドンの花たちに似ている。だが、まるで違うのは、ルソーの花は、ダリヤや夾竹桃、パンジーを描いているのであろうけれど、それが南国風になっていることだ。ちょうどパリの植物園や、動物園、図鑑から、異国を作り上げていったように、花瓶に生けた花たちが、花瓶からというか、絵からはみでたがって、南国を恋いうるような、そんな暑い狂おしさが感じられるのだった。ダリヤの葉が、多肉植物のように太く、ふくらんでいる。パンジーであろうそれは黒ずんで食虫植物のようだ。夾竹桃(ではないかもしれないが、それに近い花)の細い葉もやはり、シダか何かのように茂って見える。それも、ルドンのように現実から幻想へむかう入口だといえばいえるのだろうが、ルドンのそれはもっと内省的である。ルソーは内省を限りなく異国という外にはりつけているといったらいいか。花瓶の花の熱気が心地よかった。
 そしてチラシになっていた《赤ん坊のお祝い!》(一九〇三年)。まっすぐにこちらを向いて立っている白い服をきた赤ん坊。だが、赤ん坊というには顔が老生している、小太りの大人のようで、かわいいとはどうもいえない。どっちみち赤ん坊には見えない。だから「子供のお祝い」としている画集などもあるそうだ。この絵は、うちにある作品集でみたことがある。そこでは、正面から描いたときに、足がうまく描けなかったので、草むらに足を隠している例としても挙げられていた。
 だが、生ではじめてみるそれは、とても力強かった。生がみなぎってみえた。赤ん坊は向かって左手で、白い服の裾をもちあげ、そこに摘んだ花たちを置いている。それはあの花瓶の花のような異国だった。彼の描く赤ん坊も、赤ん坊であって、大人のような誰でもなさだ。つまり、赤ん坊もまた彼の筆をとおして、図鑑たちや写真、絵ハガキなどから幻想を作り出していたように、現実から幻想をつくりだしていたのだった。あるいは幻想ではない現実を。赤ん坊の力強さは、そのもうひとつの現実の持つ力強さであるかもしれない。

ルソー《赤ん坊のお祝い!》

 常設展では、企画展でルソーがあったからということで、世田谷美術館所蔵のルソー作品三点が出品されていた。《サン・ニコラ河岸から見たサン・ルイ島》《散歩》《フリュマンス・ビッシュの肖像》だ。もう五年ほど前に見たきりだったので、久しぶりの再会がうれしかった。これらへの感想は、以前書いているので、割愛する。だが、これら三点は、なぜか、どんよりと、どれもどことなく重い、そしてさびしいと思った。
 美術館では画集は買わずに絵ハガキだけ買ってでてきた。この後で近くのスーパーマーケットで夕食の食材を買う。世田谷美術館は好きなのだが、この連続にとまどったものだった。展覧会という幻想に近い現実と、夕食という日常の現実が、陸続きすぎることが。ほかのところでは、電車やバスに乗るので、なんというか、実際はたいして変わらないかもしれないが、これらのあいだに一呼吸あるのだ。だが、こうしたことは美術館とのあいだに限らず、たくさんある。こうして日記を書いたり詩を書く。その間に水を飲む。食事の支度をする。日記を書きながら洗濯機を回す。洗濯物を干したら、また机に向かう…。赤ん坊の力強さ、水脈占い師の水のなす詩的空間、いやルドンもそう。内的世界と現実の…。つまりこれらはすべて想像力のつむぐ橋なのだ。幻想と現実が陸続きであることを、わたしはもっと知った方がいい。
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2010-08-15

かわきと湿り気の狭間で共有する。 (ポーラ美術館コレクション展)


 そう、横浜美術館へ。「ポーラ美術館コレクション展 印象派とエコール・ド・パリ」(二〇一〇年七月二日─九月四日)に出かけたのだ。ポーラ美術館は箱根にある。こちらは一度行ったことがあるが、西洋絵画、日本の洋画や日本画、東洋磁器、化粧道具他も含めて九五〇〇点ものコレクションを有するというので、多分以前にみたものは、その一部であるから、新たな出会いもあるだろう、また重複しても、印象派とエコール・ド・パリだ、好きな時代だから、いいだろう、そんなことをどこかで思っていた。なにより、絵画はわたしの救いだった。彼らの息吹に触れたかった、失礼な言い方になるが、なんでもよかったのだ。熱い共鳴をひきおこしてくれるであろう、それらだったら。いや、なんでもいいといいながら、かならず取捨をおこなっているのだが、この展覧会だったら、わたしをうけいれてくれるだろう、そんな期待があった。それはかわきからたちあらわれる波紋だった。共有がひろがって、ゆらいでいる。
 みなとみらい線、みなとみらい駅で降りる。地下から登るとほんの数分歩けば美術館に着く。ビルの間に、結構ひろい、ずっと空き地のままのスペースがある。その脇の小道といったところのほぼ真正面が美術館だ。空き地の夏草、雑草たちは伸びるのが早い。丈の高い植物たちが、ねっとりとした空気のなかでちょっとした草原を作っている。だが夏の草たちはなぜいつも乾いてみえるのだろう。まわりは湿度が高く、じっとりと汗ばむばかりだが、何故か乾いてみえるのだ、それ以上に、ほこりっぽくすら感じるのはどうしてなのだろう。空き地にではなく、むこうのほうに、花壇かもしれない場所にカンナが映えている。ひまわりも見える。これらも湿度のなかでほこりっぽく乾いて見えてしまう。ねばつく暑さのなかで、かれらは内側の乾きをそうしてしずかにうったえているのかもしれないが。
 横浜美術館は、エントランスに長細い噴水がある。時間によって、よくみかけるタイプの水を噴き上げていることもあるが、まったくの霧をつくりあげているときもある。ほかにも水の出方の種類があるのかもしれないが、わたしがみたのは、行きと帰りでその二種類だった。ねっとりとした暑さのなかで、それでも水は涼を醸す。噴水をみながらベンチにすわっているカップルたち、噴水の近くであそぶ子供もいる。かわきと対照的でもある。打ち水をすこし連想した。
 さて展覧会。「印象派とエコール・ド・パリ」とあるとおり、印象派からエコール・ド・パリ、一八七〇年代から一九三〇年代(ただし藤田嗣治は一九五九年のものまであったが)までのものが、おおむね年代別に、そして画家別にまとめて展示されている。最初は「一章、印象派」。モネは七点ほどあった。一八七〇年代の比較的若い頃(モネは一八四〇年生まれ、一九二六年没)が三点、八〇年代が二点、九〇年代が一点、一九〇〇年代が一点。おおざっぱに区切ってしまうと、年を追うごとにだんだん絵が抽象的になってくる。風景であることはもちろんわかるのだが、七〇年代のはそれ以降のものよりも、もっと輪郭がはっきりしているのだ。年を経るうちに、輪郭よりもなによりも、彼は対照の時間までも描きとめることに比重を置いていったのかもしれない。ちがうかもしれない。輪郭を描いているうちに、時間は流れてしまう。あるいは光を描きたかったのかもしれない。どちらにしても輪郭よりもなにか、なのだ。
 モネはもういいと思う。もうこれまでに沢山みたではないか。けれども、モネはわたしにとって、どこか安らぎをあたえてくれる。こうした展覧会に彼の作品があると、それだけで救いになる。それはもはや多大なる感動をあたえてくれるわけではないけれど。長年の友人として、うけとめてくれる眼がある。画家の眼の選んだ絵が。《エトルタの夕焼け》(一八八五年)の海辺の情景、空と奇岩と、舟と波と浜、すべてが夕焼けに染まりつつ、互いの場所を確保している、つまり個別にありながら、色、光によって、同じ時間を共有している、そんな夕景にやはり心ひかれていた。溶け合う寸前でありながら、けれども区切りがあるということ。区切りがありながら、溶け合っていること。これはわたしたちが体験できうる、おそらく最大限の融合なのだ。緑の太鼓橋のある《睡蓮の池》(一八九九年)で、樹木と、太鼓橋と、睡蓮の葉と、池の水と、すべてが緑を共有しつつ、光をあびつつ、個々であるように。《サルーテ運河》(一九〇八年)が展覧会の中では一番晩年に近い作品だが、ここではもはや輪郭が可能なかぎり失われている。夕景だろうか、壁と橋と運河がぎりぎりそれとわかる線をもって、その内側にそれぞれいるのだが、彼らはこれ以上はもう無理だ、これ以上輪郭がなくなってしまったら、崩壊してしまう、混沌と化してしまうというほどに夕焼けに染まった時間たちを共有しあっている。そうして、このぎりぎりの感覚のモネをも、わたしは気に入っているのだ。そうではない、描くことで、この共有に参加しようとする意思に、かもしれない。
 《サン=ラザール駅の線路》(一八七七年)。駅舎の外で列車が出発しているところを描いている。輪郭がはっきりしている頃、三十代の作品ではあるが、これは例外的に(あるいは、彼の傾向が垣間見えたというべきか)、)蒸気機関車の煙や、雲、おそらく粉じん、それらすべてのなかではっきりとした形体を隠されたようになっている。煙と空の雲が握手しているようだった。黒い影、赤い旗を持った駅員も煙のようだ。彼らは絵のなかで、煙をとおして一体となっている。
 だが、会場ではそのことより、新しい都市生活、機械文明の台頭を珍しく見つめていたであろう、当時の状況だか、モネたちのまなざしに思いをはせた。ちょうど高層ビルが建ってゆくことに興奮した子供時代のわたしのように。今でいうなら、建設中のスカイツリーに対する、人々の眼に。未知のものへの期待たち。
 だが、モネはその後、うつろう時間にひかれてゆく。都市たちをほとんど描かなくなったのは、べつにそれを嫌ったわけではないのだろう。モネにとって、うつろう時間こそが、未知のものだったのだ。未知の、そして既知にしたい切望だったのだ。それは未知の共有であるかもしれない、
 展覧会には、ゴッホ、ゴーガン、セザンヌ、ルノワール、ロートレック、ユトリロ、スーティン、ピカソ、モディリアニ、ローランサン、キスリング、シャガール、フジタ、名前をあげるとそうそうたるものだが、ここにあったそれらには、とりたててひかれることがなかった。好きな画家たちもいたのだが、ああ、この筆致だなと思った程度だった。
 けれどもキース・ヴァン・ドンゲン(一八七七(オランダ)─一九六八年(モンテ・カルロ))の《アンヴァリッドへの道》(一九二二年)のだだっぴろい道、灰色の建物、灰色の空、大通りであろうはずなのに、黒塗りの車が数台、人影もまばらであるのに、眼をとめた。絵のなかで人影はほんの小さく、しかも三人だけ。灰色の道と灰色の空が大半をしめている。その絵がとてもさびしいとおもった。車には人がもちろん乗っているだろう。けれども、それはどこか人と別れた存在のようだったし、広い道に、はっきりと車とわかるのは、小さな三台だけである。道の果てに、もう数台あったが、もはやこちらは道だか車だかあまり判別がつかない。そして広さを強調するために、人も車もあるように思えてくる。少しの明かりが、闇を強調するように。それぐらい、灰色たちがのしかかってくるのだった。
 そしてオディロン・ルドン(一八四〇─一九一六年)。彼の展示は二点あった。「黒からスタートしたルドンだが、一八九〇年代になると、突如、色彩の世界を開花させる。花瓶に生けた花は、そんな画家が一九〇〇年以降に好んで取り上げたモチーフだ」(展覧会図録より)。わたしはルドンの花瓶の花たちが好きだった。それは静物画を通り越して、幻想だった。日常は幻想になるのだと、教えてくれた花たちだった。花を花瓶を描いている、それだけである、といってしまう先から、なにかがこぼれてしまう。それが幻想だった。どこが幻想なのか、わからない。いや、それは幻想と日々の間で咲く花なのだ。その境界上で。そう、わたしはルドンの花が好きだった。今回、ここにあったのは、《日本風の花瓶》(一九〇八年)。白い陶磁器の花瓶には、日本の古典芸能を絵柄にしてある。髪を振り乱し、舞う「鬼」だ。ちなみにこの花瓶の裏側には「武者」が描かれてあるらしい。他に二点、同じ花瓶のものを描いているが、ルドンはいずれも「鬼」の面を描いたとのこと。黒の時代に、目玉の異形たち、胎児のような異形たちを描いた彼らしいといえばいえるだろう。
 けれども花瓶よりも、やはり花たちにひかれた。オレンジとも茶色ともつかぬ背景に、まるで浮かび上がったかのような花瓶と花。花は特にその背景にとけてゆきそうだ。紫、青、白、オレンジ、さまざまな色の花があるというのに、背景が、茫漠とあることで、幻想への入り口を、夢の出口をかもしているからかもしれない。そう、背景こそが幻想であるのかもしれない。そこに、境界線上で咲く花たち。咲くことが現実だった。そして咲くことが幻想なのだ。いままでにわたしが見たルドンの花は、絵柄のない青い花瓶であったり、白い花瓶であったりしたが、鬼ははじめてだった。だが鬼であることで、境界がよりいっそう、際立っていたかもしれない。
 そして、今までみたルドンの花と少し違うのは、画面右手、花びらか花のような二匹の蝶の存在だった。それは花と花でないものの、やはりすれすれの何かだった。花と蝶、輪郭をうしなわずとも、こんなふうに彼らは行き来することができるのだ。そう、モネと関連づけてちらと思う。そういえば彼らは同じ年に生まれている。
 花が蝶に変化してゆく、波飛沫が鳥になってゆく(北斎《冨嶽百景》)、鳥の影が魚になってゆく(エッシャー)、キャンバスに描かれた風景が窓の外と行き来し合っている(マグリット)、わたしはこうした絵たちに弱いのだ。これらは二つの世界をつなぐ何かだ。狭間であろうとする意思だ。そしてこのはざまにたいする均衡への意思が、もとめてやまないものなのだ。それなしではおそらく生きられないほどの。気付かないうちに、だれもがそのはざまにふれているか、もとめているはずのもの。それをわたしは美というかもしれない。共有というかもしれない。あるひとは悪の果ての善であるというかもしれない。

ルドン《日本風の花瓶》

 気を抜くと、つい二つの狭間から離れてしまう。現実がのしかかってくるというとすこし違う。現実は生きにくいわけではない。わたしにとって、現実はそれほどつらいわけでもない。だが、刺さることなく、ふるえることなく、気がつくと、身体全身がぬけがらのまま重くなっている。軽さによって重くなっている、というべきか。無味乾燥のまま、心が体にひきずられてゆく。そこには醜もなく悪もないかわりに善も美もない。心がちじこまっている。そのまま消えてしまうのではないかという恐怖はあるが、その恐怖すら摩耗してゆきそうなのだ。軽さという重さがのしかかる。感触のない重さ、実体のない重さが。そして共鳴への切望。それだけが、わたしにとって、重さからかろうじて逃れられる理由だった。それなしでは彼らと震えることができないもの。まだ、狭間に立とうとする意思がある。溶ける寸前まで、という境界を求める心がある。それが美だった。
 ほとんど夜に近い、けれどもまだ昼のあかりをぎりぎり保っている、午後六時から午後七時の間。カナカナの声が日に日に響くようになった。この声をさびしいと思うようになったのはいつからだっただろう。そしてどんどん好きになっていったのは。夜と昼の間、境界で鳴り響くのにふさわしい、ほそい糸のようにのびきる声だった。夏のみせた季節の一端のふるえだった。
 これは写真でとることができない、こうした声はきっと書かなくてはいけないのだ。彼らが描いたように。声がますます激しくなってきた、すずやかに、いたましく、境界への案内をさそう声たちだった。たとえば、それがルドンの蝶と花なのだ。モネの光への渇望なのだった。
 そしてまた別の朝。ドアの外に、ミンミンゼミが仰向けに転がっていた。夏によくある光景だ。骸になっているのかと思ったが、まだ四肢がかすかに動いていた。その動きが痛かった。それはいつもの朝を、あたりの景色をいやおうなく振動させ、感触のある重みを伝えてきた。そうだ、こうしたことも共有なのだと思った。痛みをうけいれること。ふと眼をあげると、朝露だか明け方に降った雨の粒だかをたたえた青い朝顔が咲いている。足をうごかすセミもまた乾いていた。この花だけは乾いていなかった。これらをたぐらなければならないのだ。さらに歩をすすめると、花だけはかわいてみえる、さるすべり(幹はつるつるとした質感のせいか、ぬれてみえるのだ)。乾きと湿り気の間で夏が行く。
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2010-08-05

「空の色さえ」、二つにわかれても、それでも (皆川博子、ほか)

 少しばかり体調をくずしていた。創作関係にほとんど手をつけることができなかった。するとバランスがくずれてしまう。バランスというよりも、どこか心がすさんでくる。落ち着かないどころではない、このままうつろになってしまうのではないか、いや、このまま日々に流されていってしまうのではないか、そんな思いたちでいっぱいの箱になってゆく。箱は日々を流れ、ときに日々の水でみたされる。日々におぼれそうになる。体がだるい。詩集もひらく気力がない。このごろ気に入っている小説もほとんどページが進んでいない。だるさとうつろにはいった重さで、眠りにつく。
 するとなぜだろうか、とても孤独になっている自分に気づく。創作をとおして、読むことによって、共鳴するからか。いや、それとも少し違う。そして思い出すのだ。なんどこの言葉に助けられたことだろう。「なぜ私は一生よそ者なのか。ここが我が家だと思えるのは、まれに自分の言葉が話せた時だけ。自分の言葉…失われた言葉を再発見し、忘れられた言葉を沈黙から取りもどす…そんなまれな時にしか自分の足音が聞こえない…。なぜです?」(『永遠と一日』)自分の言葉が話せたときだけ、孤独ではなくなる。若い頃は、孤独な状態を、つまり詩を書いていない自分を、想像するとき、いつも奈落の底にいることを思ったものだった。それは真っ暗な蟻地獄だった。上に登ろうとしても、さらさらと砂がこぼれるばかり。誰もいない。なにも見えない。圧倒的な独りだった。それは誰と居てもそうなのだ。今は真っ暗な蟻地獄までは思わない。それだけ感受性がこすれてしまったのだ。だがその分、どこかでなにかが豊かになっている気もしている。若い頃は鳥や花をみても今ほどに心が動かなかった。そんなふうに一方が減れば、一方が増えるのだろう。今だってそうだ、詩を書く自分が減った分、なにかが増えてしまったのだ。何か、日常的なものが。それがつらいのだ。ともかく蟻地獄ほどは思わないにせよ、ただ空っぽな箱のまま、どこかに流れてゆくと、しびれた頭で感じる。誰と居ても独りなのだ。
 この頃、気に入って読んでいるのは皆川博子。とくに幻想的な短編小説がいい。詩に満ちている。最初に読んだのが『蝶』(文春文庫)だった。これは八篇からなる短編集で、詩句から触発されたものたちでできている。ポオル・フォル、横瀬夜雨、ロオド・ダンセイニ、ハインリッヒ・ハイネ、薄田泣菫など。この本が最初で良かったと思う。一番わたしとしっくりくる、彼女からわたしが受け取れる共鳴が、ここではいちばん心地よく鳴っている。もちろん、もう何冊か、これが最初でもいいという本がある。けれども彼女は時代小説やミステリーなども書いている。多分、これらだけしか知らなかったり、これらを先に読んでいたら、彼女にひかれることはなかっただろう。こうした出会いというのは結構あるものだ。その作者とわたしのあいだに響く音が、いちばんベストな状態で、鳴る、そうした本を最初に読むことが最初の出会いであるということは。そしておなじ幻想的短編集でも、悪くはないがとくに…というぐらいの本は、この作者にも、いやどの作者にもある。それを先に読んでいたらどうだったか。わからない。けれどもたいていの場合、何故だか出会いの本は、強烈で、そこから彼らをもっと知りたくなるのだった。
 『蝶』の最初は「空の色さえ」。「空の色さえ陽気です、/時は楽しい五月です。」ポオル・フォルの詩が大切な通底音となっている。現実の醜さ、つらさ、悲しみを小さい少女の頃から徐々に知っていった「わたし」は、現実と幻想と、二つに分かれて生きてゆく。現実のつらさというのは、「わたし」のそれではない、他者たちの、特に叔父と祖母、そして戦争などへのそれだ。二つに分かれた片方のわたしは創造と記憶のおりなす幻想の、それでもほとんど幸福といっていいであろう場所にいる。不幸な叔父(彼女が出会った叔父は、生者ではなく、最初から幽霊だったが)と不幸な祖母たちのいる世界。彼女たちはそこで、ほとんど了解しあっている。「もう一人のわたしは、祖母の家の二階にいる。そこには、うつろう時は存在しない。(…)叔父の歌う声はのどかで、窓の下には松葉牡丹が盛りだ。物干し竿に洗濯物をかけている祖母が、二階を見上げる。わたしは歌う。空の色さえ陽気です。誰あって、泣こうなどとは思わない。誰が死のうと殺そうと、戦があろうとなかろうと、時は楽しい五月です。海は流れる涙です……。」
 そして『骨笛』(集英社文庫)。こちらの短編集は、『蝶』ほどはひかれなかったが、同じ作者には同じ匂いがある。共鳴の道が出来ているので、そこから匂いを引き出すことができて、世界にふっとまきこまれてゆく。「夢でうるおえばうるおうほど、昼の暴力に負けない力が増すことを、泉は知っているだろうか。いまは知らなくても、いずれは、知るよ。/ 手にしたケーキの包みに、陽光が血の雫のように散る。」(『骨笛』、「夢の雫」)
 だが、いま引用してようやく気付いたが、これは二つに分かれた「わたし」の世界と通じるものではなかったか。昼と夜。現実と幻想。日常と想像(創造)。
 今読んでいるのが『愛と髑髏と』(集英社文庫)。「二つの岸を結ぶ暗い河を漕ぎ渡る舟に、自分の手でしっかり乗せてやるか、あるいは、相手の腕が抱きかかえ舟に乗せてくれるか、それ以外に、どんな確実な絆もありはしない。体(原文は身偏に區)をかわしあったところで、その感触は、やがて雑駁な日常のいとなみの中に溶けいって、あいまいになってしまうのだ。相手が誰であろうと、肉の触れあう感覚は同じようなものだし、何の繋がりも生じはしない。」(「舟唄」)。この岸は、どんなメタファーなのだろう。これを現実と幻想だと解しても、おそらくそれも含んでいる。あるいは生と死。「舟唄」の主人公の千代は、舟に乗るために、人を殺す。ウサギとあだ名をつけた浮浪者の骸を石で打ったのが最初だった。「一打ちごとに、千代は、ウサギを自分のものと感じた。一打ちごとに、自分の心がウサギの体(原文は身偏に區)に打ちこまれ、ウサギの血は千代の心にしみこんだ。/ 送り出してあげます、私の手で舟に乗せてあげます。」そして最後に、別の男に振り下ろした手。「怖ろしい淋しさのなかで、愛している、愛している、と、千代は腕を打ち下ろした。」
 この二つにわかれた、ゆえの孤独。舟に乗るために、おそらく私も作者も書いているのだ。そしてそれが共鳴なのだ。
 ちなみに皆川博子を知ったのは、日本経済新聞の本の紹介欄(六月二十七日)で『少女外道』(文藝春秋)を見たのが、きっかけだった。この本はまだ読んでいないのだが、記事には「美とグロテスクの融合」とある。「正常と異常、現世と彼岸などを自在に往還」(末国善己)とあった。最初から、この紹介から、二つの世界に引き裂かれ、往還している世界を描いているのだと、匂いをかぎとっていたのではなかったか。
 …こんなことも、こうして書いてみないとわからないのか、と思う。いや、理解は後からついてくる。こんなことも、書いてはじめて気付くのだ。彼らともきっとそうなのだ。それが蟻地獄から出るたったひとつの方法である。うつろな箱の比重を、彼らの息にほんのすこしでもするための儀式なのだ。気付くということは、世界と触れることなのだ。
 実は、今回は、横浜美術館に行ってきた、そう書こうと思ったのだった。行く直前まで、体がだるかったので、ずいぶんと迷ったのだが、行かない自分に、ひさしぶりに暗がりの蟻地獄を感じたのだ、そんなことを書こうと思っていたのだった。だるさのなかで、美術館に行かずに休日を過ごす自分を思い描く。行かないですごす自分は、圧倒的な淋しさの深みにはまって見えた。うつろな箱のままに浮かんでおり、それが奈落だった。そうしたわたしに恐怖をおぼえ、ようやく行く気になり、支度をし、出発をした。着くまでに思っていた。美術館に行くことは、これまで、そしてもはやわたしにとって、どんなにか救いであったかと。それはふたつにはがれたわたしをつないでくれるもの、共鳴による絆だった。それはうしなわれた言葉を発見することだった、絵は画家たちの言葉だから。皆川博子の『愛と髑髏と』は、向かう途中の電車でちょうど読んでいたものだった。特に「舟唄」を読んでいた。それは符牒のようだった。わたしは確実な絆を求めて絵を必要としているのだ。それは舟に乗ることだ…。そこまで電車のなかで思ったわけではなかったが、今ここで読んでいることは、繋がりがあると思っていた。今、ここで、でなくてはならない絆なのだと。そして、こうしたことをおおむね感じていたのだと、自分に告げるためにも言葉は必要なのだった。書くと見えることがある。だが、それを過信してはならない。答えがわかってしまったら、それでおしまいだということもままあるのだ。ひとはそこで探求をやめてしまうから。…この後、横浜美術館のことを続けようと思ったが、今度は不注意から片目を痛めてしまった。数日でなおると思うのだが、眼帯をしていて、これを書くのが少々やりにくい。続きは次回に。
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