Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2010-11-25

山口華楊《幻化》、偶然は幸先のいい、幻への誘いだ



 新宿の損保ジャパン東郷青児美術館の所蔵作品展にいってきた。期間は十一月二〇日〜十二月二十六日。
 美術館のHP(http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/index.html)から抜粋する。
 「当美術館は、一九七六年年に当時の安田火災(現・損保ジャパン)本社ビルの四二階にオープンいたしました。当初、東郷青児の寄贈による約四五〇点から出発したコレクションは、現在六五〇点を越えています。今回の所蔵作品展では、東郷青児をはじめ、収集のひとつの頂点というべきゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルノワール、ルオーはもちろん、山口華楊、東山魁夷、平山郁夫らの繊細な日本画もご紹介いたします。さらに、アメリカの素朴派グランマ・モーゼスの心暖まる風景画も、四季折々を一堂にそろえます。」
 例のゴッホの《ひまわり》のある美術館。バブル時の一九八七年に当時五八億円で落札されたことで話題になった。ちなみに、その頃に高額で落札された美術品は、ほとんど日本に残っていないと以前NHKのテレビで見たことがある。残っていないどころか、海外で行方不明になっている作品もある。ともかく残っているのは《ひまわり》だけであると。このエピソードを知って、ありがたいことだと美術館に感謝というか親愛の情をおぼえたものだった。
 ここには何回かきている。とくに二〇〇八年は三回。ヴラマンクと、ジオット、前回バーン=ジョーンズで書いた丸紅コレクションだ。
 そのたびに常設展示されている《ひまわり》(一八八九年)を見る。別室になっており、セザンヌ、ゴーギャンの作品と三点並んでいる。
 見るたびに、花瓶いっぱいに君臨しているひまわりの花の質感に圧倒される。今回もそうだった。花びらの一枚一枚が絵具でもりあがり、あたかも花びらをそこにはりつけたようなのだ。いや、花がそこで咲いているようなのだ。そこで、絵のなかで生まれ、育ち、摘み取られ、摘み取られたにも関わらず永遠の命を持って、花びらをふるわせて咲いている…。そうして黄色い花に黄色い背景、おいてあるテーブルも黄色。黄色いなにかぎりぎりの力たちが、つつむというよりもいどみかかるように、みるわたしを離さない、くぎづけにしてしまうのだった。


 だがこれは会場のほぼ出口付近にあるものだ。話を展覧会に戻す。実は今回の展覧会では個人的には印象に残るものがかなり少なかった。ルオーは好きなのだが、わたしは特に彼の厚塗りの油彩に惹かれており、今回はモノクロの版画の展示なので、もうひとつ絵と対話することができなかった。ピカソ、東郷青児、平山郁夫、東山魁夷も岸田劉生にも荻須高徳にも触手が動かない。ただそれでも、この中で何人か、あるいは殆ど、一見してああ、彼だなとわかる個性には感じるものがあったが、それだけだ。その個性に出合ってうれしくなる類のものではない。たとえばルノワール。彼もそれほど好きではないが、それでも出会うとあの独特の肌の質感、くずれそうなたわわな肉の女たちを見ると、うれしいような親しみの感情が起きる。今回は《浴女》と《帽子の娘》の二点の展示。腐肉のようだと当時批評された青みがかりさえする肌の生々しさにであうとそれでもやはりほっとするのだった。
 そして、めずらしく不快になった絵もあった。ほぼ最後のほうの展示の、グランマ・モーゼス(一八六〇─一九六一年)。彼女は独学で、絵の教育を受けていないのでアメリカの素朴派と呼ばれているとのこと。六〇歳近くで初めて絵筆をとり、八〇歳位から亡くなるまで画家として…(展覧会で見た紹介を思い出して書いているのでうろおぼえだ)。まず素朴派というその呼び名にひっかかった。同じ素朴派といわれるピロスマニやアンリ・ルソーは孤独を知っている画家だ。そしてわたしは孤独であることを知っているものからにしか芸術はうまれないと思っている。孤独を知るとは、べつに個絶して生きているということではない、誰と居ても人は孤独なのだと気づいているという話だ。だが彼女の絵は孤独を知らないものに映った。ひとびとの笑いさざめく姿をうわべだけ描いている…、ともかくピロスマニやアンリ・ルソーとひとまとめにされることに腹が立つのだと思った。そうでなければ素通りすればいいことだ(実際、以前はこの絵を見てもそうだった)。その表現は、たしかにルソーやピロスマニと、独学ということでなのだが、似て見えることがある。それに気付いたから気にかかるのかもしれない。
 これは偏見、偏重がまじっているだろう。単に好みの問題かもしれない、そして克服しないといけないことなのかもしれない。だが、わたしはこうした怒りをまじえた批評が苦手だ。どこからどこまでが批評なのか、どこからどこまでが主観なのか、からまった糸に立ち往生してしまう。その間に美しいものがはねてゆく。そう、わたしは腹立たしさを糧にして、美を追求できないのだ。
 ともかく会場では、灰色のもやのような気持(これを書いている今も会場での感じ方が立ちもどってくる…そうだ、こうした感触だけではなく、こんな風に書くことで、いつも自分から離れてしまった体験をもういちど生きるために書いているという面もあるのだと、ふっと気付く…)を振り払おうと、この展覧会でいちばん気に入った二点の絵に戻ったのだった。
 それは日本画のコーナー、三点のうちの二点だ。
 一枚はチラシや券にもなっている山口華楊《幻化》(一九七九年)。緑の背景というかみわたすかぎりの緑の草原を二匹の狐がはねている。草たちが近くにあるのに遠いように感じられる。草たちが雨か霧にけぶるように、かすむように描かれているからだ。それは夢幻の空間といってもいい。狐たちは草をはねていると書いたが、はねた姿でただよっているようにみえる。“幻化”の名前のように、それは幻の世界とわたしたちのいる世界をつなぐなにかだった。狐のただよう一瞬が、わたしをただよわせるのだった。遠くて近い草むらが、幻が遠くて近いものだと告げてくる…。狐は無表情というよりもいくぶんか顔をしかめてみえる。それはどこか思索しているようにも感じられる。二匹いるが、彼らは別個の狐であり、孤独を知っているものとしてそれぞれうかんでいるのだった。尻尾と腹がいくぶんか白い。その白さが、草むらに咲く白い小さな花と呼応している。それは白さというよりも、ぼんやりとではあるが輝くようで、それが誘いの灯のようであった、あるいは魂のようであった。魂が手招きしているのだ。
 もう一枚は奥村土牛《朝顔》(一九三五年)。割と好きな土牛(つちうし君と勝手に呼んでいる)にここで会えるとは思わなかった。これはうれしい驚きだった。九本の交差した長い竹に長い蔓をのばした朝顔たち。葉がメインに描かれているようで、朝顔も小さい。そしてあまり咲いていない。彼は生を描いていると彼自身いっているが、朝顔の生がここでも葉からみなぎってみえた。葉からは生を、そしてすくない花からは色彩がほとばしるようだった。
 この二枚の絵の前に何度立ちもどってきたことだろう。そうして思い出すのだ。この展覧会に来たことの一因には、チラシや案内で見た《幻化》になんとなくひかれていたこともあったのではなかったかと。


 ミュージアムショップを覗いたが、山口華楊関連の書籍はない。だがこの二枚の絵葉書があったのでそれのみ購入し、家で彼のことをネットで調べてみる。
 「山口華楊(やまぐち かよう)明治三二年〜昭和五九年(一八九九─一九八四) 。京都市に生まれる。本名米次郎。明治四五年(一九一二)西村五雲に師事。(…)一時竹内栖鳳の竹杖会にも参加した。(…)昭和十三年(一九三八)晨鳥社を再結成し、主宰した。昭和四年(一九二九)より同二四年(一九四九)まで京都市立美術工芸学校・同絵画専門学校の教員をつとめた。昭和四六年(一九七一)日本芸術院会員、同五五年(一九八〇)文化功労者となり、同五六年(一九八一)に文化勲章を受章(…)。」 (京都市立芸術大学芸術資料館、 http://w3.kcua.ac.jp/muse/data/biog/yamaguchikayou.htmlより)
 そして花鳥画、ことに動物画を得意とした写生風写実の画風、ということになる。だが、これだけではよくわからない。わたしはたぶんもっと絵が見たいのだ。それが画家をしることにつながるのだから。
 画集などはないか調べてみたが、あまり出ていないようだ。あっても少々値がはる。去年、松伯美術館で展覧会をやっていたようだが、図録が何故か手に入らない。図録で手に入りやすいものは一九八七年と一九八〇年の回顧展。このうち一九八〇年のほうは比較的安価で入門編としては手ごろかと思い、その日の夜にネットで注文した。『山口華楊回顧展』(一九八〇年、京都市美術館、朝日新聞社)。
 次の日の今日、それを開いている…。次の日である。ネットで注文したのは真夜中だったのに。それはこういうことだ。注文したあとで気づいたのだが、家からずいぶんと近いところにある本屋さんだった。これなら直接買いにいってもいいなと思いつつ、眠りについたのだが、次の日の朝、当の本屋さんから電話がかかってきたのだった。住所が近いようなので、他に配送のついでに届けに参りますと。こうして頼んで八時間後には手元に届いたのだ。こうした偶然は幸先がよいものに思えた。同時に、直接買いにいったわけでもないのに、こうして手元にすぐにあることが、不思議でもあった。まるで美術館で買って、次の日の朝、画集を開いているようではないか。
 ちなみに画集の表紙はなんとわたしが特別な感情を抱いている、トレードマークでもある豹だ。これもうれしい偶然だ。幸先がいい。《仔豹》(一九七五年)。二頭の子供の豹(だが体つきはだいぶ大人に近くしなやかに長く伸びつつある)が、地面に身体を寝かせているが、一頭が後ろ脚を画面左上に、もう片方が後ろ脚を右下に向けつつ、頭だけを互いに近づけている。左上に足がある方が、もう一頭の前足を甘噛みしている。甘噛みされた方は、噛んでいる方の首に手をのせつつ、どちらかというとこちらを見ている。どちらかというとというのは、画面の外に眼はいっているが、それがわたしたちと視線を結ばせないからだ。その表情は幼いながらも威嚇のそれである。みえない何かと戦うような強い意思がかいまみられる。そういえば甘噛みしている方は横顔なのだが、こちらも戦うための準備をしているような表情だった。仕草は互いにじゃれあっているようなのだが、それをほとんど感じさせない。あるいはじゃれあうなかで、彼らはおのおの豹になりつつあるのだ。


 図録は実際の絵がかなり想像できるものだった。ページをめくると広がり、というか奥行きが感じられる。入口にたったようなある種のすがすがしさが感じられたのだった。だが他の絵についてはやはり実際の絵を見てから書きたいと思う。回顧展があればうれしいが、東京だと、東京国立近代美術館、山種美術館他で所蔵しているので、そのうち観ることがあるかもしれない。こんなに幸先のよい偶然が重なったのだ、きっとまた偶然彼の絵に出合えることがあるだろう。
 画集のなかのことばをあげておく。文は京都市美術館の学芸員とある。「写生の精神を受け継ぎ、動物を主たる題材に独自の芸術を確立した。(…)華楊氏のは静かなる持続のなかの生命である。(…)華楊氏は小さな表情に人間に通ずる感情を表わした。(…)華楊氏は自在なる写生で知的な構成のなかに遊んでいる。持続のなかの生命が感情の表現を伴っているとは、氏の芸術が生あるもののもつ限りない表情の変化に魅かれ、そこに主題を置いていることを意味する」。
 感情を表していることが、もしかするとニコ・ピロスマニの描く動物たちの感情にみちた表情とどこかで交接しあって、わたしにささやいてくるのかもしれないとちらと思う。
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2010-11-15

バーン=ジョーンズ、遠くて近しいともし火


 海が見たくなったので展覧会に出かけてきた。そう、ゴッホ展にいったときにそのチラシを目にしたのだった。興味はあるのだけれど、少し遠いから多分行かないだろう…けれどもその表面の絵はそれだけでとてもきれいだった。だからもらってきておいた展覧会のチラシ…。
 また昼間の仕事が、やめてくれというぐらいに忙しくなっていた。頭がもうろうとする。昼が夜を侵食する。昼こそが闇のようで、それが混沌としてのしかかり、どこかへ連れてゆこうとするのだ。終電で帰ってきて、わたしにとっての昼間である創作へむかう。いや、昼というよりもともし火であるだろう。夜がのみつくそうとしているのに小さな灯りでもってあらがうのだ。けれどもことばはほとんどでてこない…(だがまだたっていられる。ことばはわたしからたぶんはなれていないでいてくれている)。そんなときに、もってかえってきていた例のチラシをなにげなく見てみた。灯りを向けて、特に裏の地図を。地図は白と群青の二分割になっている。美術館は白地の端、群青すれすれにあった。白は陸地、群青は海。つまり海に面しているのだ。
 横須賀美術館。横須賀市にあるが、米軍基地やドブ板通りがある横須賀からは七キロぐらい三浦半島を南下する感じで離れていて、景勝地である観音崎にある。さらに下ると以前、京急でたまに訪れていた三崎、そしてそこから道で繋がった小さな島、城ケ島…。目の前に海の気配がひろがった。灯火に海の香りがまとわりついた。あるいは波の音。マッチ売りの物語のようだ。また闇がひろがる。火を灯さなければならない。ともかくなんとしても行こうと思った。
 こんな風に書くと、展覧会は二の次のようになってしまうだろう。それはかわいそうだ。展覧会と海が明るさのために手招きしていたのだ。それは二つながらにして灯台のような救いだった。
 展覧会は「ラファエル前派からウイリアム・モリスへ」(二〇一〇年十月三十日〜十二月二十六日)。わたしはこの近辺のことを、おおざっぱにしか知らずにいた。ラファエル前派にはダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ミレイがいて、ウイリアム・モリスは生活と美術の融合を掲げたアーツ・アンド・クラフツ運動を提唱、タペストリー、壁紙、ステンドグラスなど工芸品を扱うモリス商会を設立…。だが二つの違い、あるいは接点をこれまであまり意識したことがなかった。というよりもひとまとめにしていた。少し長くなるが、このあたりのことを挨拶などから抜き出し、まとめてみよう。


 「産業革命によって急激な近代化を遂げた十九世紀半ばのイギリスでは、物質的な充足の一方で都市や労働の変化が起こり、人々は精神的な豊かさが失われていることへの不安を抱きはじめました。こうした社会に警鐘を鳴らしたのが、批評家ラスキンです。彼はまた、形骸化した当時の芸術を憂い、芸術家と職人とが分離しておらず、人々が日常の労働の中に創造の喜びを見出していた「中世」を理想に掲げました。
 ラファエル前派は、ラスキンの思想に支えられ、芸術の改革を目指して結成されます。」(展覧会図録より)。つまり、十六世紀のラファエル以前の芸術。彼らはまた、ラスキンの「自然をあるがままに再現する」といった思想の共鳴から、自然に忠実な絵画を志しながら、聖書や古代神話、中世の物語に画想を得て制作を進めてゆく。一八四八年に結成された当時のメンバーはウイリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ。後にウイリアム・モリス、エドワード・コリー・バーン=ジョーンズらが集いはじめた。ラファエル前派としては一八五三年ぐらいに一応の解散をみるが、ラスキンを尊敬していたモリスやバーン=ジョーンズを中心に運動は引き継がれてゆく。モリスの主導するアーツ・アンド・クラフト運動は芸術と生活の一体を主張していたが、その思想はラスキンに負うところが大きい。
 この流れは、初期にくらべ、次第に象徴、装飾性を強め、ベルギーやフランスの象徴派、世紀末芸術、アール・ヌーヴォーに影響を与えていった。
 …時間軸としては、わたしの好きな世紀末よりもほんのわずか前の世代になる。そして生活と芸術の一体化を目指したというモリスにはとても惹かれる。モリス商会での装飾工芸品の数々、装飾された書籍、壁紙、タイル、タペストリー、ステンドグラスたちは、生活と芸術の境で均衡をとりつつもろく輝いている(ちなみにモリスがデザインしたものも数多いが、展覧会ではバーン=ジョーンズ作のものも多かった)。そう、モリス商会の壁紙のデザインから起こしたコースター、ハンカチ、眼鏡ふきなどを持っている。ステンドグラスの複製もある。自然の植物たちの生が、まさに生気をもって、うねうねとのびてゆく。植物の生が、わたしたちの生と出会おうとしているようだ。…そう、わたし自身が日々と美のはざまでゆれているので、こうした動きについ反応してしまうのだ。闇にともった永遠の灯りとして、かれらの動きはとてもやさしい。
 そう、特に当初のつもりでは、ウイリアム・モリスにひかれて海辺の美術館に来たのだった。海はわたしにとって非日常だ。市街地をぬけると突然海岸沿いの道が現れた。リゾートホテルがある。東京湾だというのに、とても青い波をたてて海がはねるようにそこにあるのも意外だった。この意外性は、日常よりもどちらかというと非日常に親しいものだ。リゾートホテルの真向かいに美術館はあった。景色になじみすぎて、通り過ぎてしまったぐらいだった(或いは、展覧会の宣伝、看板などが一切なかったので、ともいえるが)。その景色は装飾され、日々のなかで燦然ときらめいていた。
 展覧会は先のかいつまんだ流れに出てきた画家たちのほか、何名かの作品で構成されていたが、多かったのはハント、ロセッテイ、モリス、バーン=ジョーンズだった。ロセッテイの絵にも懐かしいような感触が起こったが、彼を集めたコーナーの次の展示(出品リストをみると、実際には次に移る前にほかにも何人かの画家たちの作品があったらしいのだが覚えていない)、バーン=ジョーンズ。
 《ルネ王のハネムーン:絵画》(一八六一年)は、どういう設定なのか知らないが、王は絵を描くのに専念しており、妃は王の後ろからその絵を眺めている。そこには少しもハネムーンらしさがない。そこには芸術に対する憧れはあったが、どこかさびしさがあふれていた。孤独な炎がたゆたっていた。次に《モーガン・ル・フェイ》(一八六二年)。彼女はアーサー王の異父姉で、黒魔術の使い手だそうだ。絵のなかで、夜に近い夕暮れのなか、空と緑が濃い青、ほとんど黒にちかい色になっているそのなかで、これもほとんど黒髪に近い彼女が薬草を集めている様子が描かれている。片手で壺を小脇に抱え、もう片方の手で取った薬草を口に近付けている。壺の近くにできたセピア色の服のヒダが目につく。ヒダの影になった部分が。その表情にひかれた。焦点があっていないかにみえる、どこをみているのかわからない表情。それは見ないことで見ているのだという印象をあたえる目だった。「バーン=ジョーンズに妄想はない。なぜなら妄想は現実の人生から生まれるものだからである。そして彼にあったのは別の人生、つまり“芸術”の人生であった」(ティモシー・ヒルトン『ラファエル前派の夢』、白水社)。そう、芸術といっていいのか、どこかそのほうを見ている。だが、とてつもなくさびしい表情なのだった。《プシュケを救い出すクピド》(一八六七年)は、数々の苦難を乗り越えたプシュケ(魂)を、クピド(キューピッド、エロス)が救い出すシーン。緑の服をきた座っているプシュケを、赤っぽい服、そして赤い羽根のクピドがかがんで、抱きかかえる格好。やはり服のひだが風をはらみ、時間をはらんで、美しいが、プシュケの表情に驚かされる。焦点のあっていない、恋人の手により救い出されたというのに、とてつもなく憂いをふくんだ表情に。
 そういえば、チラシの絵もバーン=ジョーンズだ。《花環》(一八六六年)は赤い服を着た女性の後ろ姿。横向きの顔が見える。両手は薔薇が絡んだポールに置かれている。チラシはちなみにその絵の壁紙的に、モリスの《壁紙のためのデザイン:ジャスミン》(一八七二年)が配置されている。薄い白っぽい色彩で、ふたつは呼応しあい、家のように、わたしたちを手招いている。生活が美と手を取り合っている場として。

《モーガン・ル・フェイ》

《プシュケを救い出すクピド》

 だからさびしいのだろうか。ちがうかもしれない。それは先にも書いたがもろい均衡だ。あるいは届きそうで届かない夢だからかもしれない。バーン=ジョーンズの描くかれらは、とてもさびしい。そしてさびしいと感じるのは、とても気に入ったということなのだ。さびしさがなつかしい。なつかしいというのは、人肌がなつかしいというのに似ている。
 サー・エドワード・コーリー・バーン=ジョーンズ(Sir Edward Coley Burne-Jones, 一八三三─一八九八)、バーミンガムで生まれる。サーは、画業の功績によりナイトの称号を得たことから。大学在学中にウイリアム・モリスと出会い、生涯親交を結ぶ。二十四歳でロセッテイと出会い、彼の影響を受けたが、ラスキンらとのイタリア旅行を契機に独自の作品を作り上げてゆく。その幼年は孤独で貧しいものだった。最初、聖職者になろうとしていたが、モリスに出合ったことで画家になることに。モリスの死後(一八九六年)、そのショックから身体を壊し、二年後に死去…と言われている。かいつまんだ紹介はこんなものだ。こうした紹介はいつもあまり意味がないように感じられる。だが、知りたい。彼の絵にひかれたわけがしりたい、彼の絵に近づきたいから、かもしれない。だがこうしたことからは、ほとんど絵にちかづけない。創作と日常がつながりつつ裂け目があるから。出典は定かではないのだが、インターネット上の紹介で、彼の言葉としてこんなものを見つけた。「絵は美しく、ロマンティックな夢。それはかつて輝いたどの光よりも素敵な光の中にあって、誰も何処だか分からない記憶にもない土地で繰り広げられる、一度も存在したこともないし、これからもありえないような、ただの願望のようなものだ」(http://island.geocities.jp/hisui_watanabe/art/artist/burne_jones/burne_jones.html)。願望だからこそ、さびしいのだと、このことばに出合ったときにふっと思った。
 モリス商会での仕事、タイル、ステンドグラス、タペストリーも展示されていた。《ステンド・グラス:ラケル》(デザイン一八七八年、制作一九〇九年)、ステンドグラスは明るいのに暗かった。青い服を着たラケル、その焦点のさだまらない顔、その暗さたちにくぎ付けになった。灯火は明るくも暗いのだ。《タペストリー:東方三博士の礼拝》(人物がバーン=ジョーンズ、花や地面がジョン・ヘンリー・ダール、デザイン一八八七年、制作一八九〇─一九〇七年、出展作品は一九〇〇年から一九〇二年頃)は、約二五一×三二七センチと巨大だ。イエスの出生を祝う絵だが、博士も天使もマリアもさびしい。暗い森のなかで、頭をたれている博士たちの、赤い服のヒダたちが、また彼らしさを伝えてくれる。そう、焦点のあわないさびしい表情、そして服のヒダたちが、わたしにからみついてやまないのだ。巨大さが絢爛豪華となってさびしさを増長させる。このタペストリーがある生活というのが、一瞬想像できた。とてつもない美と生活の融合だった。それはだが、限りなく融合をもとめた願望だった。それらは接しつつ、離れているのだ。
 《宵の星》(一八八〇年頃)は、目をとじた女神の上半身のみ。髪が服のヒダのように流れている。風がある。とじた眼がルドンの絵のように、とじたことにより、開いている(《眼をとじて》一八九〇年)。あるいはフェルナン・クノップフの《グレゴワール・ル・ロワとともに─私の心は昔に泣く》(一八八九年)の閉じた眼の女性が鏡にうつる自分に口づけをする絵を思い出した。そういえば、バーン=ジョーンズの女性たちは、どこかクノップフの女性と近しいところがある。おそらくそのさびしい表情のせいだろう。バーン=ジョーンズの絵が、象徴派につながっていくのが、感触としてわかる気がした。ちなみにあのヒダたちも、アール・ヌーヴォーにつがれていったらしい。

《タペストリー:東方三博士の礼拝》

 そう、この展覧会はわたしのなかではほぼバーン=ジョーンズ一色になってしまった。そして思い出すのだ、わたしがいままで見た彼の作品はおそらく二点しかない。丸紅コレクションの《夜明け(羽毛のような雲あるいは湖と空あるいは農園)》(制作年不詳)、そして、郡山市立美術館所蔵の《フローラ》(一八六八─八四年)。この二つは、はじめてみたとき、とてつもなく、わたしにうったえてきた作品だったと。前者の空は、《モーガン・ル・フェイ》の夕闇に近い空ととても近しかった。《フローラ》の金粉のような種をまく女神の赤っぽい服の色、波のようにうねるヒダは、《花環》や《プシュケを救い出すクピド》のクピドの服と同じ色で、同じヒダだった。その焦点のあわない、うつろな目も、ここに展示されている女性たちとおなじ眼であった。どこでもない、けれどもどこにもありうる場にひらかれた眼たち。灯火を欲する眼たち。
 このあと、城ケ島へ足をのばした。十年ぶり以上だと思うが、あまり変わっていなかった。もしかすると海自体はきれいになっていたかもしれない。同じ神奈川だというのに、江の島などにくらべて、人が少ない。大丈夫かと心配になるほど。砂浜がほとんどなく、岩礁、海食崖がめだつ。岩場が多いので、水が澄んでみえた。馬の背の洞門という、波の浸食で出来た穴が、モネの《エトルタの断崖》(一八八三年)を思い出させる。


▲下: モネ《エトルタの断崖》

 こんなふうに、思い出すことで、あのさびしい灯火にちかづけるのかもしれない。ここを訪れた後、また忙しかったり、そのせいで体調をくずしたりして、また闇がのしかかってきそうになった。灯火がさびしくともっていた。特にバーン=ジョーンズの絵がさびしくかがやいていた。そんななかで、先ほどの言葉、「一度も存在したことのない、ただの願望」のような場所…とほぼ近しい、こんな言葉を思い出した。「単に目を閉じてしかるべき夢に出会いさえすれば行ける、そう考えるのは甘すぎるだろうか? 答えはわからない。でもそう考えれば慰められた。さっきかつての友と過ごした時間が慰めになったのと同じだ──あのなかの何ひとつ現実には起きはしなかったし、あのなかの何ひとつ今後も起きなくても。」(ポール・オースター『ティンブクトゥ』、柴田元幸訳、新潮社)。暗がりのなかで、明るさを探そうとすれば、おそらくともし火に出会うことができるのだ。
 そうしてふと思い出すのだった。今回は、その前に出かけたゴッホ展での、絵に近付けない、あの遠さはなかった。よかった、まだ明るさを探すことができるのだ、とほっとしたことを。それはまだ創作することができるのだ、ということに近しい。閉じた眼のなかで、焦点のあわなさのなかで、明るさめがけて、像をむすぶことが出来たのだ。ともし火は人肌のように遠くて近いのだった。
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2010-11-05

『オラクル・ナイト』、「ゴッホ展」、想像もまた現実だ。言葉が現実であるように。

 「ゴッホ展」(国立新美術館、二〇一〇年十月一日─十二月二〇日)に行った。
 フィンセント・ファン・ゴッホ(一八五三─一八九〇年)、今年で没後百二十年ということで、ゴッホの世界的コレクションを有するファン・ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館所蔵作品、ほかにゴッホに手ほどきをした人物、ゴッホが影響をうけた画家たち、あわせて一二三点の展示。
 その前日、一冊の本を読み終えた。ポール・オースター『オラクル・ナイト』(新潮社)。物語内物語の宝庫といった作品。主人公のシドニー・オアは病み上がりの小説家である。彼は自分の現在の状況(妻や友人のこと)を書きつつ、小説の構想を描いてゆく。ほんのささいな偶然から死を免れた男が、そのことにより失踪する。生まれ変わったのだ。男は編集者で、失踪する直前、原稿を受け取る。それが『オラクル・ナイト』(神託の夜)だ。その本のあらすじもさらに、ここで描かれてゆく。映画の脚本の構想をと、ウェルズの『タイムマシン』を下敷きにした脚色のあらすじもやはりここで描かれる。物語のなかに物語がある。さらに物語、という入れ子細工。これだけでもめくるめく冒険だが、さらに自分の状況を描いているときに、註にも似て、小さな活字で物語がかたられる。たとえば本文のなかで、ジョンという年長の友人(小説家であり、もともとは妻の父の友人であった)について記述があると、ちいさく数字がつけられて、離れたところに、小さな活字で「ジョンは五十六歳だった。たしかに若くはないかもしれないが…」と始まる。それは本文のなかで語られてもいいような内容なのだが、理由はあとでわかるが、端的にいえば、本文が現実で、註のような小さなそれらの断片は、主人公が描いた小説なのだ。
 そして小説の中の『オラクル・ナイト』、『タイムマシン』、註、小説本文(という現実)、失踪した男を主人公にした物語、これらがすべて絡み合い、関係しあっているのだ。それはことばによって、関係がうまれた、といってもいいものだ。小説中の『オラクル・ナイト』は、未来があらかじめわかってしまうことに絶望して自殺してしまう男の物語だった。『タイムマシン』もまた未来が関係するだろう。そして…、小説の終盤でジョンがいう。この言葉にひかれた。「「思いは現実なんだ」とジョンは言った。「言葉は現実なんだ。人間に属するものすべてが現実であって、私たちは時に物語が起きる前からそれがわかっていたりする。かならずしもその自覚はなくてもね。人は現在に生きているが、未来はあらゆる瞬間、人のなかにあるんだ。書くということも実はそういうことかもしれないよ。過去の出来事を記録するのではなく、未来に物事を起こらせることなのかもしれない」」
  さきに本文が現実で、といったが、実際は本文は主人公が二十年以上経ってから書いたものという設定だ。そして註の一番最初にも「1 あの朝から二十年が経ち」…とはじまるので、少しばかり設定がずれてしまうかもしれない。だが言葉が現実ならば、やはり本文は現実である。そして実際、本文のなかで、自分についての物語を書いている。あらすじとして、自分と妻のことを書いてゆく。想像することで、現実に近づくために。それは言葉と真っ向からむきあってはじめてできる行為なのだ。
 そしてここで、この本自体が『オラクル・ナイト』であることの意味がわかる。未来が言葉によって関係してくるのだ。それは絶望にちかしいこともある。だがそれでもまっこうからむきあった真摯な言葉は現実になりうる、ということはそれでも書いてゆくことへの希望となる。物語内物語の『オラクル・ナイト』の主人公レミュエル・フラッグは未来を映像として見てしまうことに耐えきれず自殺したが、『オラクル・ナイト』の主人公シドニー・オアは二十年たった現在も言葉をつむいでいるのだ。言葉を信じて。
 シドニー・オアは危機的状況のなかで思う。「間違った言葉を口にして、呪いをかけてしまってはいけない。ひとつでも疑念を表明したり、否定的な思いを発したりしてはならない。(…)たとえ私には何の影響力もなくても、そんなことを許すつもりはなかった」

 ゴッホ展のことを書こうと思っていたのだ。だが書こうとしたら、「間違った言葉を口にして」…が思い出されてしまった。わたしは魔術的なことをいっているのではない。だが言葉をあつかうものとして、自分のはなつ言葉に対して責任をもちたいといっているのだ。ということもある。つまり、なんといっていいのか、期待が大きかったのかもしれない。いや、期待していたわけではなかったはずだが、どこかでたのむところがあったのだろう。最近みたオルセー美術館展の《星降る夜》の衝撃が埋み火のようにずっとあたまのどこかでほんのり明るく、それこそ星たちのようにともっていた。国立西洋美術館所蔵の《ばら》も思い出される。厚塗りで荒々しいのだが、やさしさと静けさをたたえた花だった。
 あるいはわたしがこの頃、昼の仕事に追われていて、頭の切り替えがうまく働かなかったのかもしれない。いや、それにしては『オラクル・ナイト』には心が動いている…そう、先ほどから逡巡しているのは、じつはそれほど感動できなかったのだ。個々、気に入った作品は何点かあった。どれも絵具がこれでもかとつかってある厚塗りの作品たちだった。
 二点ばかりその気に入った作品についてここに書いてみよう。なにかがはじまるかもしれない。関係ができるかもしれない。《ヒバリの飛び立つ麦畑》(一八八七年)。ゴッホのパリ時代の作品だという。パリにでてきて印象派の画家たちや、ロートレック、ベルナールなどと出会い、自らの絵に彼らの技法を取り入れ、模索していた頃。絵は印象派風かもしれない。画面は三分割され、下方に黄金色の草、中央に緑をおおくふくんだ麦畑、そして上が空。草のつぶつぶとした流れ、麦のやはりつぶつぶとした流れ、無数のちぎれ雲たちの流れ、それらが均衡をたもっている。あたりまえなのだが同じ風をうけている。同じリズムをもっている。そこに一羽のヒバリ。空に一点穿たれた影のような、小さな穴、麦すれすれに飛翔する小さなヒバリ。それは均衡をぎりぎりで破っている、いない、ぎりぎりのなにかだった。息がつまる、解放の瞬間だった。印象派、というよりもほとんどモネにちかい色彩だが、もっと厚塗り、それだけで窒息しそうなぐらいの、絵具たちは重いといっていいほどなのだが、やはり、風になびくそれらは明るい軽さでもあり、その点でも、均衡をたもっている。重さと軽さ…。

《ヒバリの飛び立つ麦畑》

 今、目の前にこの絵のポストカードが飾ってあり、それをちらちら見ながらこれを書いている。そうして、ポストカードを入口にして、実際に会場で観た《ヒバリの飛び立つ麦畑》の厚塗りの世界に潜りこんでゆく(そう、わたしは感動の思い出、スーヴェニールとしてこれらの愛すべきガラクタを買ってくるのだ)。すると、おそらく実際に会場で観たときの印象よりも、この絵への印象というか、愛着というか、なにかおおむね温かいものが、伝わってくる感じがする。第一印象よりも、ずっと惹かれていた感じがするのだ。それはわたしが気付かなかっただけで、あるいは頭の切り替えがいまいち働かなかったので感動を感受するのに、うまく作用しなかっただけで、どこかではそれをちゃんと受け取っていた、といった感じだ。どこか、魂のある部分では。だからこそ、この絵(そしてもう一枚)は、ひととおり会場内を観終わったあとも、戻って何回か観たのではなかったか…。そしてわたしは思うのだ、これはだが、言葉のせいなのだ、と。「思いは現実なんだ」「言葉は現実なんだ」言葉によって、現実が引き出されたのか、あるいは言葉により、現実がそれ以上に、見えているのか、わからない、おそらく両方なのだろうけれど。
 もう一枚は、《緑の葡萄畑》(一九八八年)、南仏、アルルで描かれた作品。パリ時代の後、日本の浮世絵の明るい光を彼はこの地に求めてきたのだ。この絵は、ゴーギャンを待っていた頃に書かれたものだという。それはともかく、画面の下から中央半分をしめる葡萄畑。ごつごつとした幹のうねりが根っこのように大地と連携している。厚塗りの緑、暗緑色の葉、葡萄の実だか枯葉だかわからない黄色いつぶつぶ、画面の上三分の一は絵筆の痕がはなはだしい空。明るい光をもとめて…。だが画面はどちらかというと、暗いかもしれない。それは明るすぎる光のもたらす影なのか。ただただ、葡萄の圧倒的な生命力を感じる。根をはってうねうねと伸びる幹たち、はいつくばるような葉たちに。
 展覧会図録は購入しなかったのだが、ぴあMOOKの公式ガイドブックを買った。コンパクトで図録のほぼ半額と安価なので、ちょうどいい。そこにこの絵が掲載されており、下に『ゴッホの手紙』(岩波書店)からの引用が掲載されている。「想像力だけが─変りやすく稲妻のように速い─現実をただ一瞥しただけで自然をもっと厳しいものにし、また安らかなものにもできるのだ。(ベルナール宛/一八八八年四月)」。《緑の葡萄畑》は、厳しさと安らかさがやはり共存し、均衡をたもってみえたが。
 想像力とは、画家にとっては絵筆にダイレクトにひびく力だ。そしてそれは言葉に…。
《緑の葡萄畑》

 《アルルの寝室》(一八八八年)を会場内に再現していた。絵という現実が、わたしたちのいる会場という現実にむけて作用したのだ。椅子、ベッド、小テーブル、青いドア、青い壁、壁にかけられた様々な絵…。こちらも絵はゴーギャンを待ちながら書かれたものだ。会場に展示されているもののほかに二枚ほど同じ構図の絵があり、オルセー美術館所蔵のそれを以前見たことがある。こちらはとても絵が小さいが厚塗りで、好きな作品だった。今回のそれはもっと大きいが(これがオリジナル)、やはり厚塗りで、希望のようなものが感じられる。
 けれども、会場内の部屋は一生懸命に作っているのだろうけれど、どこか空々しく映った。想像だけが、現実をもっとあからさまに見せてくれるから、かもしれない、言葉が現実、をあからさまにみせもし、呪うこともあるように。そこには住む人の想像が、言葉が、夢がかんじられない。生活臭がまったくないから、かもしれない。だがそんなことをいっては酷だろう。絵の遠近法は実物とはずいぶん違うらしい。それを再現するのは一苦労だろう。絵の遠近法は想像力により、変わってしまうものだから。けれども、だからこそ、想像力、なのだ。それこそがその画家独自、唯一たらしめるのだ。
 以前見た小さな《アルルの寝室》は、サン・レミの療養院で描いたものだという。この会場にあるそれが入院中に水害の被害にあい、ダメージをうけているということで、自身で二枚コピーを作ったのだが、そのうちの一点だったのだ(もう一枚はシカゴ美術館にある)。実は、この小さなオルセー美術館蔵のほうが衝撃だった。響くものがあった。それはゴッホの想像がこちらのほうがより多く入っていたからかもしれない。

《アルルの寝室》
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