Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2011-01-25

ひだのもたらす眠りを払う。(酒井抱一生誕二五〇年記念の展覧会二つ)

 先日の風邪の間、休んだり、定時に帰ったりしていたので、しわ寄せがきた。忙しくなり、ほんとうに時間がしわくちゃにひだになって、のしかかってくるようだった。ひだのあいだにはさまれ、もがくようにするのだが、ぬけだすことがなかなかできない。現実のなかでやることが多すぎた。仕事がどこまでも追ってくる。
 詩はその期間も例によって書いていた。だが、植物が養分を根から吸うように、なにか真剣なもの、美しいもの、つらぬくことば、つらぬいて、わたしのなかでひとときたゆたうものたち、そうしているうちに、養分となり、かれらとなにかと共鳴しあう、そうした外部との連絡がひだにより、ほとんどできなくなっていた。具体的には、時間が割けなかった、割けたとしても、ひだがじゃまするので、ことばたちがくもりながらわたしにやってくるのだった。そうして、根から養分を吸うことがむずかしくなると、ほぼ比例して、詩のことばがなかなかでてこないくなる。いや、そうではない、ことばがでてきたとしても、それを感じるわたしのあたま自体が、ひだの眠りにおかされ、うけとるのに膜がかかったようになってしまうのだ。だいぶかきすすめた詩がある。だがそれはどこかよそよそしい。日がたつにつれ、わたしがそのことばたちにもぐりこむことができにくくなっている…。それは他者のことばたちにざわめくことがむずかしいのと、やはり比例しているのだった。
 土曜日に何とか休みがとれた。なぜなのだろう。わたしはたぶんことばを欲しているというのに、ひだから抜け出すには、視覚的なものの助けがないとだめなのだ。つまり美術館で絵をみること。絵を前にすると、ひだはほぼいっぺんにとれてしまう。ことばたちがそうすると、おずおずと顔をのぞかせてくれる…。それはわたしにはぜったいに必要な儀式だ。
 たぶんこういうことだろう。ことばはいい意味でも悪い意味でも、わたしの日常の一部になっている。それはとうぜん時間のひだとも関係してしまっている。ことばは日常的にもつかわれているから? それもあるだろう。だがひだのなかで、そうではないことばたちと何とか対話をしようと試みる。具体的には本を読む。それはひだにのまれきってしまうことを助けてはくれる。だが、何というか、本を読むこと、詩を書くことは、ひだがあろうがなかろうが、日々おこなわれるもので、それはある意味、日常なのだ。たとえ異空間であったとしても、ひだと別個のものであったとしても、ひだと接しているものなのだ。だがわたしにとって絵はそうではない、日常と接していたとしても、絵自体はわたしのいる環境のあちこちにない。美術館に行く。その行為自体が、まずひだからのがれることなのだ。出かけるということ自体が、旅のように、異化である。それは美術館に出かけられるぐらい、仕事がおってこなくなった、ということでもあるのだが。
「笑いの効果のうちで最も目につきやすいものは、事物・言語と日常生活的文脈の間に剥離状態を起させ、それらの事物・言語を、「見なれぬもの」に転化させるという働きである」(『道化的世界』山口昌男)。
 だがおそらく、こうした「「見なれぬもの」に転化」するのが、わたしにとって絵なのだろう。それは断絶ではない、いったん保留にして、よりよくそれらをみつめ、接するための糸口をさしだしてくれるのだった。
 絵を描くのが好きな子供だったから? 子供の頃、かなり集中して描いていた。絵を描くことはわたしが世界と親密になれるたったひとつの方法だった。
 だが今は、それでもことばが世界と親密になれるたったひとつの方法なのだ。絵がさしだしてくれたひだをやぶる方法をうけとる。それからさきはことばなのだ。


《十二ケ月花鳥図(五月 菖蒲に鷭)》

 前置がながくなった。土曜日、なんとか休みがとれたのでひだをつけたまま「酒井抱一◆琳派の華」(一月二二日─三月二一日、畠山記念館)に出かけた。江戸琳派の創始者、酒井抱一(一七六一─一八二八年)、姫路藩主の弟。自身よりもおよそ百年前に活躍した尾形光琳、琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、狩野派、土佐派、伊藤若冲などの技法も取り入れ、独自の世界を確立…。どこで彼の絵を最初に見たのだろう、多分、山種美術館だと思うのだが、その時に、なにか惹かれたものがあったのだ。おおざっぱに言うとわたしは琳派自体にはあまり惹かれたことがない。それは装飾的、贅美すぎて、肌にあわないのだ。だが、酒井抱一の絵は、何枚かみただけだけれど、よくいわれているように、それよりも洒脱で、ひかえめで、軽やかなのだ。贅をしりつつ、市井のなかにいた、彼だったからかもしれない。軽やかさは、生を軽くあつかっているからではない。軽さのなかに大切な遊びがある。それはなくてはならないものだ。
 畠山記念館は、はじめていった。高輪台に近い。庭園や茶室もあり、それこそ瀟洒な美術館だったが、私立美術館ということで少々展示数が少なかった。酒井抱一の作品は、前期展の今日は八点か。そのうち六点は《十二ケ月花鳥図》の一月〜六月までの、掛軸装。これはどこかで見たことがあると思ったが、やはりそうだった。同じ絵ではないのだけれど、去年の初夏に東京国立博物館「皇室の名宝」展で、その名も《十二ケ月花鳥図》、かなり似たものを見たことがあったのだった。それでも「一月 椿・梅に鶯」と「五月 菖蒲に鷭」に心がのこった。ひだをつらぬくものがあった。一月の梅は、梅のすっくと伸びた薄茶色い幹に少し不自然なほど緑の色が置かれている。だがその緑が、枝にとまる緑色の鶯とよびあっているようで心地よい。あるいはそれは緑をひめた枝である、ということを暗示しているようだった。ここから後で葉がでるのだ。五月の菖蒲は、菖蒲とスイレン科の水生植物、黄色い花のコウホネ(河骨と書く。根茎が骨に似ているから)、そしてバンという水鳥が描かれている。だが水は書かれていない。菖蒲、コウホネ、バンの位置関係だけでそれを表している。だがわたしはそこに水を見ていた。だから最初、水が描かれていないことに気付かなかったぐらいだ。気付いたあともまだ水はそこにあった。それはわたしと画家の共同作業でわきでる水だ。画家の力ならではなのだが、水を感じるのはわたしでもあるのだから。あとで知ったが、この植物などの位置だけで遠近感などをあらわすのは、琳派の手法のひとつなのだという。そして菖蒲の長い茎と葉。灰緑の濃淡だけで描かれているが、その長さがまるで天をめざしてすっくとのびているようで、ここちよかった。それは伸びる生を想わせ、なにかすがすがしかったのだ。
 今年は酒井抱一生誕二五〇周年ということで他にも様々な展覧会が開催されるとのこと。畠山記念館の展示もその一環だったのだが、出光美術館でも『酒井抱一生誕二五〇年 琳派芸術─光悦・宗達から江戸琳派』を現在やっている(一部一月八日〜二月六日、二部二月十一日〜三月二十一日)。畠山記念美術館を出たのが午後二時前と、まだ割と早い。おまけにここで割引券をもらった。更に出光美術館は、相互乗り入れの関係で、自宅最寄り駅まで、ほぼ一本で帰れる場所にある。というわけではしごすることにする。電車のなかで割引券と一緒にもらってきたチラシをみると、「第一部では光悦・宗達から光琳の芸術を中心に展観し、第二部では、抱一の作品を中心に江戸琳派の美を堪能」とあり、今の会期は一部だ。ちょっとひるんだが、流れをつかむにはいいだろうし、これも何かの縁だと思いなおす。
 出光美術館はルオー展などで何回かいったことがある。帝国劇場のある帝劇ビルの九階、皇居のお堀に面しており、そちら側の窓辺に休憩できるスペースがあり、水と緑の景色がなかなかいい、心地の良い美術館。
 こちらのほうは、結構混んでいた。気になるほどではなかったが、何回かきたなかで一番の混みようだったので少しびっくりした。
 …展覧会自体は、やはりちょっとわたし好みではなかった。贅と趣向を凝らしてあるのだけれど、なにか生的なものを私としてはあまり感じられないのだ。だが、俵屋宗達(伝)の《月に秋草図屏風》(右隻)の金地に散らされた草花たちだけで、場所をしめすその方法に、先の抱一の手法の先駆けををみることができ、興味深かった。そしてその金地にうっすらと線をひいた…手法はわからぬが、たとえば金にひっかききずをつけてそぎとったような同色のススキに少し心が残った。それは月の光にそよぐ小さな輝きたちのようだった。

俵屋宗達(伝)《月に秋草図屏風》

 それと一部展の多分目玉であろう(チラシやチケットもこの絵だ)、尾形光琳(伝)の《紅白梅図屏風》(六曲一隻)。左端に幹のみの梅、中央に幹を中心に描かれた紅白の梅。幹の上のほうで、花枝たちが、大きく曲がり、花枝を垂らせている。このとき、白梅のほうは比較的まっすぐななめに地面にむかっているのだが、紅梅のほうはうねうねとうねっている。紅白の色ばかりではなく、枝の対比が緊張感あふれていい。そしてうねっているのは花枝ばかりではなく、大きな幹もまたうねるようなのだ。この紅と白、うねりとまっすぐは、生であると同時に意匠化されたデザインとしても、呼応しあってそこにあった。その重なる力に圧倒される。また力強い幹に比べ、梅の赤い花、白い花たちは、うってかわって繊細で優しげだ。この対比もここちよい。そうして思い出すのだ。自然界の梅もまさにこのように力強く、はかなげではなかったかと。ともかく、これだけのためでもきてよかったと思った。二部では抱一の《紅白梅図屏風》が展示されるらしい。行くつもりなのでこれも楽しみだ。

尾形光琳(伝)の《紅白梅図屏風》

 第一部に抱一作品が一点だけ展示されていた。絹本墨画淡彩の《白蓮図》。白地に大きな薄墨の蓮の葉。その葉を背景にして、白い蓮がうかびあがるように描かれている。それは白地にも関わらず、夜に輝く朧月夜のようでもある。白い蓮は上のほうに描かれてあるのだが、細い茎が下にむかって伸びている。葉のあるところは比較的はっきり見えるのだが、葉のない白い地では、茎は地にとけてしまい、ほとんどあるかなきかだ。そのまま下に伸び、今度は葉の裏に消えてゆく。茎と花のつくりだす幻想だった。

酒井抱一《白蓮図》

 会場を出て、ルオーとムンクの展示を見て、展望休憩所にゆく。かなり混んでいて、かまびすしかったので、ちらっと窓の外を見たきりだったが、冬のお堀端を見たのははじめてだったので、ちょっと意外に思った。当り前なのだが、緑が少ないのだ。窓の向こうには。堀の水だけがほぼ緑で、あとは冬枯れの枝、幹たち、茶色い塊が広がっているのだった。塊の向こうはビル群。さっきまでいた畠山記念館の庭園はおそらく冬の景観も考えてあるのだろう。常緑の木や草も多く、逆に冬にしては緑が多く、それを心地よく思っていたので、なおさら冬木立ちたちに驚いたのかもしれない。だが、堀をみると、白鳥のほか、ユリカモメ(多分)、鴨などの水鳥が多い。これも夏や春とは違う光景だ。
 電車で一本で自宅最寄り駅へ。前日までの疲れもあったのだろう、急行で二駅寝過ごしてしまった。登り電車にのるが、各駅しかなく、八駅ぐらい戻る感じだろうか。時間がもったいない、しまったと思いながら、ようやく駅につく。階段を上ってちょうど真西にあたる改札に向かおうとする。なにが起こっているかわからなかった。改札の方へ向いたとたん、密の輝き、ほぼ黄金色の光であふれ、まぶしかったのだ。あたり一面輝いている。金屏風のなかにまぎれこんだみたいだ。ススキの金。それはいままさに落ちようとする西日のはなつ光だった。くわえて改札の機械の銀色、柵の銀色、バス案内所のガラス等に光が反射して、さらにあたりに光をこぼしていたのだった。
 熱気にあたったようにぼうっと、乗り過ごしてよかったと思った。でなければこうした光景に出合えなかったのだから。西の黄金の改札を夢のようにくぐる。そのまま西の自転車置き場に向かい、まぶしさに眼をくらませながら、さらに自転車で西の富士見橋へ。ここはすぐ先に平行に伸びる不動橋とともに世田谷百景、関東の富士見百景にはいっており、富士山と丹沢の山々が晴れた日にはよく見える。このときは晴れていたがちょうど富士がみえるあたりは厚い雲がかかっていた。そして山と雲に半分ぐらいまで落ちた太陽が見える。こちらの富士見橋、そして向こうの不動橋でも、たちどまってそれを眺めている人たちが何人かいる。昇るときもそうだが、半分まで見えなくなってしまうと、もう早い。すぐに雲のなかに太陽は落ちてしまった。空はまだ明るい。かるい頭痛をそれでもうるさく思っていたのだが、気付いたらすっかりとれていたように、ひだはすっぽりととれていた。月曜からまたひだが跋扈するかもしれないが、とりあえずは。日曜日(これを書いている今日)、買い物のついでに通勤時にも通っている公園を通った。金曜日まで気付かなかったが、紅梅が咲いていた。もしかすると金曜日以前にも咲いていたのかもしれない。そんな咲き方だった。三分咲き位だったから。これもひだ越しに見ていたからだろうか。また日々と、ことばと膜なしで向き合うこと。
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2011-01-15

『別冊太陽 北斎 決定版』、熱があったので泳いでみた

 成人の日の三連休にどこか美術館でもと思っていたのだが、ひどい高熱が出てしまった。初日は元気で、夜からは一〇日締切の詩原稿をせっせと書いていた。九日の明け方、パソコンに向かいながら、少し眼と頭が痛いなと思ったが、もう出来上がり間近だったので、気にしないことにする。午前九時位だったろうか、ようやくいちおうの完了。プリントアウトし、クリアーファイルに収める。ちなみに私は昔からパソコン(というか最初はワープロ)で書いてきたが、プリントアウトは必ずしている。これは私に詩を教えてくれた人が紙で残しなさいといっていたから。それは今でも絶対なのだ。ともかく、その後でメールとファックスで原稿を送信した。その直後から悪寒とめまい、頭痛。高熱のはじまりだった。これを終えるまでもしかすると精神力で熱を出さずに保っていたのだろうか…。ちょっとえらいぞ、わたし、と馬鹿なことを思いながら、布団にはいる。
 よく高熱を出す子供だった。そのたびに学校が休めるし、寝ていられるので、熱は好きだったかもしれない。それは祭りのような感覚だ。三半規管がおかしくなるので、寝ていてもぐるぐるする。四十度を超すまではすこし苦しいのだけれど、ある地点までゆくと身体がふわっとなり、えもいわれぬ心地よさにつつまれる(これは実はかなりあぶない状態なのだそうだが)。泉鏡花の『薬草取り』に出てくる花の咲き乱れる草原のこの世とあの世をつなぐような美しさに浸されるような…。
 だが今回は残念ながら、こんな体験がほとんどできなかった。こうしたことを純粋に楽しむには雑念がはいりすぎてしまうからだ。今日はまだ約束がないからいいけれど明日は約束がある。明日までには下がるだろうか、それに次の日は仕事だ…下げなければいけない、つい寝ながらこんなことを思ってしまう。いちど体温がどんどん上昇するのがわかり、ふわっといきそうになったが、変な知恵がついてしまったから、それが楽しめなかった。このまま危険な状態に陥ってしまうのではないか…。それが不安で、草原への道が見つからないのだ。解熱剤をあわてて飲み、頭を冷やす。つまらない熱だと思う。

 高熱二日目。ほんの小一時間だけ熱が七度台まで下がったので枕元においてあった『別冊太陽 北斎 決定版』を開く。熱が出る前は、春画について何か書こうと思っていたので、春画のあたりを開いてみたが、性に関することを考えるほど力がなかった。性は肉体をともなうものだから。だるく息苦しい身体でエロティックな場面をみても何も思わないのだ、きっと。同じように布団に横たわっているのに、この違いはなんだと思う。まったく別の布団だった。春画について考えるのはあきらめ、読みさしの花鳥画、肉筆画のあたりをすこしだけ読む、見る。そうこうするうちに悪寒がまたはじまり、熱が高くなってきたので、眠ることにする。本を開く一時間ほど前、NHKで再放送していた〈北斎 幻の海 パリで発見! 伝説の傑作“千絵の海”完全復刻〉をもうろうとしながら再度見ていた。あまり感動はなかったが(これは熱のせいではない、元気なときに抱いた感想だ)、彼の波しぶき、本に戻って肉筆画の《鯉図》《流水に鴨図》の水のゆらぎが頭のどこかに残った…。
 眠ってしまった間に、二つの絵の説明を。《鯉図》(一八一三年、北斎五十四歳)は藻がすけてみえるようなくっきりとゆらぎの線がみえる水に、二匹の鯉と二匹の亀がいる。ゆらぎの線により、鯉のうろこや亀の甲羅が分断されたかのように、くっきりと見え方が変わる。影を帯び、光を帯び…、わたしたちがまるで光と影をその身にもっているかのように。ゆらぐ水に同調するかのように、鯉も身をくねらし、背びれや尾びれをひるがえしている。亀も足を奇妙なほどにまげている。水と共鳴しているようだ。そしてこの絵には、こんな言葉があった。「水のなかでうごめく鯉と亀は、現世のものとは思えないような怪奇な趣が付与されている」「写実に基づきながらも、北斎流に変容され、幻想性・超絶性を持つに至るというのが北斎の花鳥画の本質といってよいであろう」(前掲書、浅野秀剛氏)。現実に基づきながらも幻想性を持つこと。このことを覚えておくこと。

《鯉図》

 《流水に鴨図》(一八四七年、北斎八十八歳)もななめの線で流水を表現している。二羽の鴨がおり、一羽は水の上、もう一羽は半ば水に潜っており、身体半分以上は影になっている。これも水の線でくっきりとかわる。水上と水面下の世界が区切られている。だが同じ鴨なのだ。水面、水につかりきった紅葉たちが散っている。あるいはもはやしずんでゆく紅葉、色がずいぶんとあせた紅葉。これらが水の線に舞っているのが、どちらかというと灰色を基調とした画面に、鮮やかな静けさをもたらしている。水の一本の線というのは写実ではありえない。だがその境界はまさしくありうるのだ。それが幻想なのだと、後日、いつもの野川の川面をみながら、そこに泳ぐ鴨たちを眺めながら思った。この鴨の上と下の世界を同時に描くには絶対に必要な線なのだ。川面の鴨たちを見やりながら、「これは北斎の鴨なのだ」とつぶやいてみる。それはただしくはないかもしれない。だがそれでもここちよいひびきが鴨とわたしのあいだにただよった。

《流水に鴨図》 

 高熱をだして眠っているわたしに戻ろう。眠ってしまった間といったが、これらの絵をじっくりと観たのも、実際はもうすこし回復してからだ。だが水のゆらぎは熱のなかにやってきたのだ。夢を見た。
 砂浜にいたわたしは海に向かって泳ぎ出した。泳ぐのはほんとうにひさしぶりだ。殆どおよげないはずなのに足がつかなくてもこわくないのだろうかと思ったが、水の感触がここちよい。つめたくはない、なまぬるくもない。ただちょうどいい温度でちょうどいい抵抗がある。水の青さのちがいがわかる。空にむかう青の明るさ、底にゆくほど濃い色になってゆく。水の質もちがう。つめたくなり、あたたかくなる。肌がそうした感触を総出でおしえてくれるようだ。肌全体で感じている。突然浅瀬にやってきた。眼でみるより先に身体前面につく砂の感触でそれに気付いたのだ。砂がすいつく。ざりざりと肌をこする。泳ぐというよりも這うようにして砂からのがれ、水にもどろうとする。だがもうだめだ。砂も水もわたしからさってしまった。わたしは砂浜にたっているような感覚にとらわれる。じっさいは夢からめざめつつあったのだが、めざめること自体が、砂浜にたって、水がひいてゆくのをみているような感覚とかさなっていたのだ。その水がひいてゆく感覚のなかに、北斎の波、北斎の砂浜を意識した。あの水のゆらぎ、影と光に、眠る前にみた二つの肉筆画を見たのだった。そうか、あの色のちがい、あの水質、しぶき、ざりざりは、北斎の水そのものではなかったかと、目覚めた頭の中でぼんやりと思った。ふしぶしが痛い。だいぶ様子はちがってしまったが、これが現在の草原の花畑なのだ。子供時代の詩的な世界を再現するには、もはや何かを使わないといけない。これも作品はすべてプリントアウトして取っておきなさいといっていた人の言葉だ。「じゃあその世界を言葉で構築しないといけないね」だったか。回顧的になるのは、熱で昔を思い出しているからだろうか。次の日で、高熱三日目。仕事も休んでしまったが、この日はとりたてて書くことがない。夕方になり、ようやく熱が下がった。北斎を布団の中で読み終わる。それでも熱でどこかちがう世界にいっていたのかもしれない。明日からの日常がかなり重かった。だが仕方ない。鴨も潜って、上がるのだ。
 これを書いている現在、まだ頭痛が残っている。熱疲れのようなものが体を重くしている。だからまだ春画について書く気になれない。残念だ。はじめて欲情した絵だったのに。書きたかったことは、卑猥さと崇高さがこれほどまでに絡まっているものを見たのは初めてだ、というようなことなのだが…。頭痛が頭にくぐもったものをもたらしている。だが、またみだらさについておよげる時がくるかもしれない。
 今朝、また北斎の絵の夢を見た。北斎の絵葉書か何かを友人と交換している。小さな画面から力がみなぎっているのが感じられる。龍や達磨、鯉、鳥…。一枚若冲の絵もあったようだ。これは多分、本を見てまた北斎に若冲と通じるところがあるなと思ったことからだろう。夢としてはほぼそれだけなのだが、絵の力が心地よかった。絵葉書なのに、紙の質が何故か当時の紙と同じ材質のように感ぜられたのもおぼえている。厚みのある和紙だ。凛としながらどこか柔らかい。
 この感覚を抱えながら日々を生きること。そう思いながら鴨のいる野川を通りかかったのだった。「これは北斎の鴨なのだ」。まだ言葉がただよってくれている。
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2011-01-05

東京国立博物館、どこでもない場所の実在の場でふれあって







 上野の東京国立博物館へゆく。常設的な展示(平常展といっていたそうだが、今回から総合文化展としたそうだ)に新春ということで、「本館リニューアル記念特別公開」(二〇一一年一月二日〜十六日)と、室ごとの目玉的な展示を増やし、さらに「博物館に初もうで─美術のなかのうさぎと国々のお祝い切手」(一月二日から三十日)という一室を設けて、干支の兎にちなんだものなどを展示している。「月刊展覧会ガイド」(生活ガイド社)で知ったのだが、特に目当てというものははなかった。けれども何かしら出会いがあるだろうと思った。目玉といえば、雪舟《秋冬山水図》、尾形光琳《風神雷神図屏風》、狩野永徳《檜図屏風》あたりだが、あそこは縄文から明治あたりまで順序だてて展示がある。また土偶や土器に会えるだろう。北斎もあるだろう。
 正月休み最後の日、五日に出かけた。明日から日常が始まるのだが、まだ実感がわかない。わかないながら小学生の頃のように、明日からの日々が重く感じられる。冬休みや夏休みの終わりの日。
 五日ならば、もう出勤している人も多いだろうから、博物館も空いているだろうと思ったが、ほどほどに混んでいた。だが定年退職したあたりの人々、主婦と冬休みの子供たち、外国の観光客などが多く、勤め人のような人はあまりいなかった。だから普段の平日でもきっとこのぐらいはいるのだろう。
 本館二階の「美術館に初もうで」の展示室にまず入る。わたしはどうも焼き物、伊万里や、硯箱などの良さがわからない。これらの兎をみてもだから心が動かない。ならば絵ならどうかというと、ここにあるものには、ほとんど同じく動かない。すこし心配になってくる。しばらく美術館にきていなかったから、見る目がおかしくなっているのではないか…。絵からことばがきこえないのだ。
 不安になりながら、同じく二階にある「日本美術の流れ」の展示を見ることにする。この展示室は階段を真ん中にしてコの字型になっており、端の縄文時代(一室)からもう片方の端は江戸時代、浮世絵(十室)までという構成になっている。縄文に並んでいる火焔土器やみみずく形土偶を見てすこし心がうごくが、それほどでもない。この博物館は写真撮影禁止の指定がない場所以外は、フラッシュをたかなければ撮影OKであるらしい。その関係で、展示品のまわりでシャッターを押している人が多く、それがうざったい。観光地の記念撮影のように、なにか周りに、カメラに対して寛容な雰囲気があって、撮影の邪魔にならないように展示を見るのが、なにか暗黙の了解になっているのだ。土器のあたりでも一眼レフで撮影するひとの邪魔にならないように展示をみて、さってゆく。その心遣いもいやだ。ちゃんとこころゆくまで展示品をみたい。

 わたしは今では写真をブログに乗せたりしているが、基本的にカメラは苦手だ。若い頃は景色も殆どカメラにおさめたことがなかった。目の前の景色と対峙するには、カメラは邪魔だった。撮ることに懸命になってしまい、景色と距離が生まれてしまう。それよりも、景色と対峙するには、ことばにしたほうがよかった。メモでいい、ことばで景色をスケッチすること。
 今は景色との関係の記念的に撮っているかもしれない。家に帰って、写真を見る。その時の景色との対話が思い出される…。旅のお土産、自分への絵葉書のようなものだ。あるいはブログに乗せるという頭があるので、ブログを読んでくれるだれかへの絵葉書だ。あるいは撮ったものを見て、自分の眼でとらえたものと違う、その差異に対する驚きにも魅力を感じているかもしれない。それは土産から離れ、ほとんど別個に、ごくたまにだが、ほとんど作品といっていいほどにきれいにみえることがある。といってもそれは撮り手によるのではなく、景色によるのがほとんどなのだが。それはカメラを通しての、景色との対話であるかもしれない。
 ともかく、だから美術館で撮るのは抵抗がある。作品は作品として完結している。作品と向き合うのなら、カメラを通しての会話はありえないと思うのだ。あるとすれば、それは別個の作品になってしまう。作品と向き合うのなら、その完結をそのままに見つめることだ。そうするうち、完結のなかからなにかが繋がるようにかたりかけてくるものがある…。
 火焔土器のうねりは、だが心をすこし鎮めてくれた。みみずく形土偶の質感も。そこには土のはなつ何かと人の放つ何かのあわさった強い祈りがある。
 二室はゆったりとした作りの国宝室で、その時々により所蔵や寄託の国宝一点のみを展示する。心静かにじっくりと鑑賞を、というわけだ。今回は雪舟《秋冬山水図》(室町時代)。ここでも写真撮影するひとがおおい。通常の室内よりも照明を落としてあるので、フラッシュがたかれてしまうことも、さらにめざわり。
 だが秋冬二幅になった水墨画…向かって左が秋。切り立った小高い山の向こうに川があり、さらに奥に城がある…。城のむこうは空だ。その城のむこうに奥行きが感じられた。空はほとんど何も描かれていない。幻のように山の稜線が端にわずかにかすんで見える程度だ。それはわたしたちがそこに入る余地のある空白のように思えた。行間だ。絵を前にしてそこまでは思わなかったかもしれない。だが城のむこうに、絵のなかにすっとはいってゆけるような気がしたのだ。はいっていったそのさきに悠久のひろがりが感じられた。 隣は冬だ。うねうねとした小川が手前、小さな雪をかぶった山、その向こうにやはり城、城の向こうは今度は空ではなく、画面中央から垂直線が切断面のように上方に伸びている。これは中国の山水画でよく見られる、断崖の輪郭の強調であるという。きりたった雪山たち。切断面だと思った強調が、やはり穴としてわたしをいざなった。画面のなかへ、画面をとおしてわたしの内側へ。


雪舟《秋冬山水図》

 多分、雪舟といえばこれ、というほど有名なもので、私自身、教科書かなにかで何度もみたことがあるはずの絵なのに、今日実物を見て、はじめて心がさわいだ。頭のどこかで、以前、印刷物でみた絵なのだとわかっているのだが、実物からうける奥行きのあるざわめきと、それを一緒にすることがどうしてもできないのが、おかしいといえばおかしい。
 そして、感動しないのは自分に問題があったわけでも、カメラのせいでもなかったのだと、安堵する。カメラがあっても心が動くではないか、と。
 続いて三〜六室までざっと見るが、ここもとりたてては。だがもはや心配はない。きっとどこかで、なにかが、心をつないでくれるはずだ。
 七室の国宝・狩野永徳《檜図屏風》(桃山時代、一五九〇年頃)。元襖絵の図屏風で、ふんだんに使われた金箔の背景(大地と空)に、檜の大木の幹が、龍の背中のようにのけぞり、いどみかかるように、力をもって描かれている。このうねり、幹のごつごつとした表情、枝の手足のようなうごめきが、心地よいほど、圧倒的に感じられた。樹木の内側にはいってゆけるような気さえした。

狩野永徳《檜図屏風》

 そして八室、目玉の尾形光琳《風神雷神図屏風》、ここもカメラが多い。絵が大きいので、カメラ撮影のために、絵とカメラの間に空間をつくる感じで展示をみるかっこうになってしまっている。絵のすぐ近くで見るのがはばかられる雰囲気が、ここはとくにひどい。それが原因ではないだろう。ちっとも感動しなかった。よく見る絵だよなあ…それだけだった。
 だがその隣の屏風に鶏がいた。白黒が主体で、わずかに鶏冠などが赤い。点描のような石灯篭…数多の、様々な姿の鶏…。若冲だろうか。そうだ、彼だ。若冲にあえてうれしくなる。伊藤若冲《松梅群鶏図屏風》(十八世紀)。おしりをこちらにむけた鶏、灯篭のうえで地面に降りようとしている鶏、振り向く鶏、羽の生々しさ、ぎろぎろとしたはげしい眼、写実的な鶏と対照的に、ざっくりと、だが力強く墨を飛ばせるように描いた松の木と葉、若冲を見ていると、もはや絵にはいるとかではなく、鶏がわたしのなかにはいってくるようだった。鶏や松、灯篭ごと、わたしのどこかでしばし鎮座し、またしらないうちに去って行った、そんな感じがしたのだった。そこは若冲のための場所で、またいつか若冲の絵に出合ったら、その場にまたすわりにくる…。
 十室には、北斎の冨嶽三十六景の展示があることをインターネットで調べて知っていた。シリーズ全四十六枚を所蔵しているのだが、そのほぼ半分の二十二枚の展示。好きな北斎に会えるのはうれしいが、この絵たちはもう何回か観ているので、楽しみにしていたわけではなかった。だが。例によって《冨嶽三十六景 神奈川沖波裏》(通称〈大波〉)がまずトップで。家にもポスターやらが飾ってあるのに、またあの波飛沫に心が動いた。飛沫の裏の影の青さに、胸が痛んだ。波の荒々しさは大仰すぎ、意匠化されているはずなのだが、リアルを知った上のそれなので、波そのものとして、そこにあるかと思われる、いや、北斎の息のかかったどこでもない場所の実在の波なのだ…。
 そして《冨嶽三十六景 相州七里濱》。これも何度も見ているはずなのに、浜に打ち寄せる小波の静謐さにひかれた。それは〈大波〉と対照的なほど、穏やかで、ちろちろと、裳裾が風にふかれたようにうごめいている。むこうに富士。今の稲村ケ崎の辺り。わたしは湘南の穏やかな波を思い出す。江ノ電から見える穏やかな海と浜を。絵からわたしの記憶の海がやってくる。あるいは思い出すことで水を共有している…。そのことがうれしかった。
 北斎は、多分、わたしにこんなふうに、いつもなにかしらを語りかけてくれるのだ。

《冨嶽三十六景 相州七里濱》

 ここで二階の展示はほぼ終わり。後は一階の近代などや平成館の日本の考古へいったが、今回は割愛。ミュージアムショップで自分用に先の雪舟《秋冬山水図》の絵葉書と、友人への新年の挨拶用に絵葉書を何枚か。そして『別冊太陽 北斎 決定版』(平凡社)を迷った末に買う。迷ったというのは、北斎の画集は何冊か持っているから。それでも買ったのは、風景、肉筆、幻想系、美人画、春画、花鳥画、読本挿絵、主だったすべてを系統だてて紹介してあったので。出費だったが、自分へのお年玉だと思うことにした。まだ半分も読んでいないが、楽しい。機会があったらいつかここで書いてみよう。
 家の近くに帰ってきて、まだ明るい。通勤帰りと違う、はんぱな時間だ。いまの時分は、定時で上がった時点でもう暗いから。帰りの明るさに、日常でないものを感じる、イレギュラーなのだ、今日までは。崖の上から泉を見る。帰りにこんなことができるのも今日だけだ(夏になれば日が伸びるから見れるのだが)。
 明日の今頃は仕事をしているだろう。だが明日もその先もいつもこうした瞬間がわたしのなかにありつづけるのだということを、わすれないこと。家で北斎の本をひらく。ふと立ちあげてあるパソコンを見ると、スクリーンセイバーが北斎の絵になっていた。この偶然がうれしい。こうした楽しさをおぼえていること。
23:02:26 - umikyon - No comments

2011-01-01

2011年 迎春



 あけましておめでとうございます。
 今年もベランダから初日の出をとりました。
 反対側にある初富士も。
 良い一年でありますように。




11:05:37 - umikyon - No comments