Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2011-06-26

ラベンダーは、そういえば新しく覚えた名前だ。「あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバル」

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 ここ数年、恒例になっているわたしの年中行事の一環。ラベンダーを見に行った。ちなみに他は春は埼玉県の越生梅林、初夏は千葉木更津付近での潮干狩り、秋は埼玉県巾着田の彼岸花。それでラベンダーだが、「あやめ・ラベンダーのブルーフェスティバル」として埼玉県久喜市菖蒲町で、毎年六月初めから七月初めの期間やっているもの。今年は七月三日まで。
 家からゆくと荒川を越して戸田、さいたま市、上尾をすぎて久喜へ。さいたま市見沼区をすぎたあたりから田圃がみえはじめる。一〇歳から十八歳位まで、埼玉県の、もっと下の方だが、田圃が割と近くにあるところに住んでいた。その頃は田圃がある風景があたりまえだったので、さして感慨はなかったと思う。だが五月終わり位の水をはったばかりの頃、あたり一面、湖か池のようになるのをみるのが好きだった。夕景にそまる水面も。そして稲穂が青くのびた夏、風にそよぐそれが稲穂の波となっているのも。緑に波打って、うだるような夏の暑さのなかで、空の青さによくはえる緑の海。秋の黄金色の稲穂の波…。日々のなかでほとんど気にしないでいたと思ったが、こんなふうに思いだしてみると、そしてそれを言葉にしてみると、なにか大切なものとなっているような気もする。ちなみに今住んでいるところの近くの公園に、ちいさな田圃がある。江戸時代の用水路を復元して、田圃もまた復元したのだ。毎日そこを通っている。田圃がみれるのがそれでもうれしい。それはおそらく、かつて景色としてそばにあったものだからだと、後で思った。


 埼玉には見沼代用水という用水路が広範囲に流れている。埼玉に住んでいる小学生はたいてい、この用水路のことを習うはずだ。私もそうだったし、ネットで調べたら、今でも小学四年生の授業で習うとある。利根大堰(埼玉県行田市)を起点とし、幹線水路の総延長は約七十キロ、支線水路を含めると約百キロ、八市六町を流下し、埼玉県をほぼ南北に横断している、日本三大用水路のひとつ。わたしが出かけた範囲だと、さいたま市見沼区から久喜市菖蒲町まで用水路があった。あたりはしばらく田園風景だ。あちこちに調整池もみえる。
 見沼代用水の名前をきくのがどこか懐かしいのも、同じ理由だろう。かつてから知っていた名前だからだ。曇り空に水がどんよりと流れている。
 今年は例年よりも早い時期に出かけた。いつも会期末近くに出かけているのだが、今年は半ばに出かけた。というのも、毎年行っているのに、なかなか時期がおぼえられず、気が付くと、いつも会期末近くになっていて、あわてて出かけているというだけの話だ。今年は何故か、はじまったばかりの頃に気付いた。始まりの頃にゆくと、菖蒲は咲いているが、ラベンダーは咲いていない。終わりのほうだとラベンダーは咲いているが、菖蒲は終わっている。で、いつもラベンダーの盛りしかみていなかったのだが、半ばごろにゆくと菖蒲が終わりかけの見ごろで、ラベンダーが咲き始めの見ごろだという。それで六月中旬に出かけたのだった。


 ラベンダーは会場の菖蒲総合支所庁舎周辺の土手や小高い丘、通りや園などに咲いている。雨のせいだろうか、今年は人がすくないようだ。震災の影響もあるのだろうか。農作物や特産品、ラベンダー・グッズの販売は例年どおりだったが、人気があったウドン(カップに入っていてその場で食べるもの)の販売がなかった。食べたことがなかったが、ないと勝手なもので少しさびしい。去年の猛暑の影響で、ラベンダーが大分枯れてしまい、現在育成中とHPにあったが、見たかぎりだと、そんなに去年とかわりがなく、咲いていた。といっても時期がちがうので、まだ満開という感じでなく、色が薄かったが。そう、ラベンダーは咲き始めは紫の色が薄いのだ。花穂が開いていないからだろう。だんだん色がついてくる。それも一瞬さびしく思ったが、かえって新鮮だった。会場内の湿地に生えている菖蒲も色あざやかだったし、歩いてすぐの菖蒲城址あやめ園の菖蒲も見事だった。何かを選ぶということは別の何かを選ばなかったということ。けれども新たな何かとのつきあいもはじまるのだろう。
 ラベンダーを見て回る時、いつも思い出すことがある。ここには蜂が多い。ミツバチやクマンバチ。どうということではないのだけれど、ああ、そういえば去年も蜂がいるのを見て、そう思ったなと思い出すことが、どこかおかしく思えたのだ。そのとき私は去年の私と会っているのかもしれない。



 花の匂いは最初はそれほどでもない。というよりも思ったほどではないからなのだ。けれども土手などを歩いてラベンダーをみているうちに匂いにつつまれているのに気付く。それは市販されているものの香りよりもずっとほのかでやわらかい。あるいはそれはおそらく生に満ちた香りなのだ。蜘蛛の巣がラベンダーにかかっている。これも去年もどこかのラベンダーにかかっていたものだと思い出す。毎年、去年の私とこんなふうに再会するのだ。



 ところで、ラベンダーが咲く土手に一本だけすっくとたっている木がある。木はくわしくないので、名前がわからない。毎年見かけてゆくうちに、だんだん気になりだしたのかもしれない。すっくとのびた姿がここちよいからか。ここちよいから、名前をしりたいのだ。「森と芸術」展にいったからかもしれない。森の木々たち。この頃、あちこちに生えている木がどうも気にかかっている。あるいはそれまで名前を知らなかったから、鳥の姿もみえず、鳴き声も聞こえなかったのに、名前がわかるようになって、聞こえたり、見えたりするようになったことが、関係しているのかもしれない。鳥は、すこしだけ鳥というおおまかな名前から離れ、わたしに近づいてきた。最近だと、ハクセキレイだとばかり思っていた、川辺にいるあれは、セグロセキレイだったのだ、とか。セグロセキレイはハクセキレイよりも黒が多い。どちらも、羽ばたき、羽ばたかないを繰り返して飛ぶので、飛ぶ、落ちるを繰り返すように見える。飛びながら落ちている、落ちながら飛んでいる…。名前をしる喜びをこの頃感じている。そうだ、樹も少しだけ名前を覚えたのだった。五月下旬位に、森の性の香りと感じていた、青くさいような生々しい香り。あれはスダジイだったのだと。そしてその隣にはえて、白いサクランボみたいに二つずつたれさがった花をつける、エゴノキとか(今エゴノキは、緑のサクランボみたいに実をつけている)。ラベンダーの上に緑をしげらせる、あれは何の木なのだろう。かたちはなんとなく記憶している。ゆっくり調べよう。

 菖蒲城址あやめ園であやめを見ていたとき、白い柏葉紫陽花とあやめがどちらも満開で、花束のように感じたので、写真に撮った。そのとき、紫陽花は本当は額紫陽花が一番好きだなとぼんやり思っていた。額縁のように周辺の花びらだけが開く。日本原産で原種に近い。多分、昔、父が育てていて家の庭に咲いていたから好きなのだろう。花に関しては、そうしたものが多い。父は沢山の植物を育てていた。そう、結局私が覚えている花の名前は父が育てていたとか、父と見に行ったとかそこに帰ってしまうのだ。今だとホタルブクロ、ドクダミ、ネジバナ、ハンゲショウ、昼顔…。父が亡くなって二十年以上経つが、新たに覚えた花の名前は殆どない。これらの花の名前は別格になっている。小さい頃から慣れ親しんできた、私とともにずっと四季を重ねてきた花たちなのだ。そこには父というより、ずっとずっと昔の家族であるとかが、きっと混じってみえるのだろう。失われたものへの郷愁とか。




 それでも、この間は、トキワツユクサという名前を覚えた。別名ノハカタカラクサとあったのを、野墓宝草だと思った、木陰の湧水の出る湿地で、祈りのともし火のように白く咲いていた花たち(ここでも書いたが、野博多唐草が正しい)。花との関係も鳥によって変わりつつあるのだろうか。新しく名前をおぼえること。そうして関係をつくること。
 そういえばラベンダーは、父とは関係がない。その意味では、ラベンダーは新しく覚えた花の名前に入るだろう。だが、いつからだろう? 気が付くとなんとなくそばにいた(実際に育てているわけではないけれど)。なんとなく、夏近い頃、わたしを呼びだしてくれる、花となったのだった。

 少し前に、mixiで、阿部嘉昭さんが【水馬、または中本道代の印象】という詩を発表された。水の内外を境界として行き来する感じが、心地よいが、水馬とは阿部さんによると「「水馬」はみずすまし。別名「あめんぼう」は飴に似た匂いがするのが由来とか。それと「水辺の馬」を二重に置いた」とあった。そのことで私はこんなふうなコメントをつけた。「あめんぼう…わたしはずっと、小さい頃から、雨の棒かとおもってました。脚が棒みたいで、水面に雨滴みたいな軌跡を残すから。けれど、飴の匂いも素敵ですね。中本さん、水の精のよう。オマージュが伝わる、やはらかな詩篇でした。今のわたしにひつような水をくれるような。」その後の阿部さんのコメントも詩的だったので紹介したい。「そうか、「雨ん棒」か、良い見立てです。//水を通路とする者のこの世にたいする自在。それでも水面には雨滴状の痕をのこす。」
 このやりとりを、あやめの咲いている湿地、小さな池というか水たまりにかかった小さな板の上を歩いているときに思い出した。雨がふっている。そういえばアメンボウ、ずっと見ていなかったけれど、ここにはいるのかしら?と。雨滴が水面に小さな穴をあけている、そこここに。いてほしかった。だがいないかもしれない。…いた。小さいのが一匹。連れに、アメンボウがいるよと声をかけたら、「お、ひさしぶり。小さくて軽いから、水面が雨滴みたいにならないねえ」と、まさにわたしがそのときに思っていたことをそのまま言葉にしたようだったのでびっくりした(ちなみにこんなことはめったにない、前述のやりとりも見ていない)。ともかくアメンボウが小さいながら、すいすいと水面を移動する姿がなつかしかった。田圃や田圃の近くの小さな池などで見たのだと思う。また父もすこし絡んでくるかもしれない遠い日だ。
 それよりも大きなアメンボウが雨のなか、泳ぐのを見つけた。今度は軌跡が雨滴のようになっている。ふる雨とまざりあう。アメンボウとの関係も、ほかの名前たちをもつ何かのように、あたらしくはじまるのかもしれない。連れがまたいう。「今度は重さがあるから、雨みたいになった」。そしてまた思い出すのだ。「ルイ、これが俺たちの友情の始まりだな」“Louis, I think this is the beginning of a beautiful friendship.”、映画『カサブランカ』最後のセリフを。こうしたものも父が好きだったものだ。もうやめよう。雨が激しくなってきた。



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2011-06-15

パウル・クレー、破壊と創造、痛みと創造が、水や空を通じてとどくだろうか

 「パウル・クレー おわらないアトリエ」展にいった。東京国立近代美術館、二〇一一年五月三一日─七月三一日。
 パウル・クレー(一八七九─一九四〇年)のアトリエという、技法が探求される場に焦点をあてた展覧会だという。おわらない、というのは出来上がった作品を油彩転写というクレー独自の技法で線だけ写し取って、着色したり、出来上がった絵を切って、二枚または三枚にしたり、切って回転させたりと、できあがったという絵がそこでおわらないことを示しているかもしれない。
 完成した作品を切り取ることが、暴力的であると同時に創造的だと、会場内の説明にあり、その言葉が印象に残った。破壊から始まる創造。
 実は久しぶりの展覧会だし(そうでもないか。でも気分的にはずいぶんいっていないような気がしているのだ)、この頃のお気に入りのクレーだし、楽しみにしていた。だが、なぜかいまいちだった。思っていたよりも混んでいたからかもしれない。絵の前で会話をするカップルが多いのも耳ざわりだった。だがそれは意外に理由にあまりならないものだ。今までだって混んでいる美術展はあったし、ゆっくりみれないという不満はあったが、それでも惹かれるものたちにそうしたうるささをおしのけて、食い入るように見つめることをしてきたではなかったか。

パウル・クレー《花ひらいて》1934年

 もちろん、何枚か印象にのこったものがあったから、あとで少し触れたいが…。解説の少なさも理由だろうか。解説があったとしてもほとんど技法のことばかりだったことも? どうやって制作されたか、それはそれで大切なことなのだろうが、わたしは実は技法がどうだろうと、あまり興味がない。だがわたしは解説も今までそんなに重要視していなかったとおもっていた。そこにある絵がすべてだと。でもナチスに頽廃芸術だと評された頃や、亡命生活を余儀なくされていた頃の絵だとか、そういう解説があると、それが総てではないけれども、絵にこめられた何かの一端が垣間見れるような気がする。怒りとか哀しみとか。今あげた例は、二〇〇九年一月〜三月に開催された「二〇世紀のはじまり ピカソとクレーの生きた時代」の図録を見ながら書いている。すこし前に若桑みどりの著作のイコノロジーやイコノグラフィーについて感想を書いたことがあったが、絵と歴史との関係、主題などの知識はやはり必要なのだろう。「イメージについての知識は、創造性を増すものである」(『絵画を読む』)。もっとも技法も知識ではあるが。重要視していないと書いたが、知らずうちにそれを気にしていた節もあった。そして今回の展覧会では、それがないのが、物足りなく思って、今までいかにそれを飲み込んできたのか(気に入った作品なら特にだ)、思い知らされたのだった。
 作品について少しだけ。《北の森の神》(一九二二年)は、油彩だがパステルのように見える。□に×の輪郭がいっぱい描かれていて、それと別に垂直なまっすぐな線がひかれている。色彩は暗緑色と青、黄色、ピンク、様々な概ね明るい色。クレーの絵をこんなふうに説明しようとすると難しい。□に×は、色合いや場所によって、ほかのものにみえてくる。上のほうにあるのは色も暗緑色なので葉のようだし、下のほうにあるのは黄色や青、ピンクだったりするので、花のようにみえる。垂直な線は幹や日射し。色合いの違いは、概ね暗い森、そしてそのなかにほんの少しの日射し、あるいは夜にふりそそぐ月光の一端、そうしたものたち、あるいは木々と花たち、動物たち、森のすべてがそこに見出せるような気がした。それこそが神がやどった森なのだと。
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《北の森の神》

 《獣たちが出会う》(一九三八年)は晩年の作品。この頃、皮膚硬化症により指が動きにくくなっていたこともあってか(それ以外の理由もあるだろう)、太く濃い線で空間を分割する、あるいは輪郭を描く手法が用いられるようになる。この絵でも薄茶色っぽい色調に黒く太い線が使われている。一筆書きではないのだが、少しそれに似て、象のようなものの尾が猫っぽい顔をつくり、象の足っぽいものが象形文字かなにかのように(楔形文字や象形文字、漢字などに彼は関心を持っていた)別の足を作っており、そのすぐ隣に鳥のようなもの、顔のようなもの…、象のようなもののおなかあたりにまた別の生物…、彼らは出会っている、というよりも密接につながっているようなのだ。尾が頭と接していて、足がべつの足をつくっており、鳥の頭のようなものがまた別の鼻をつくっていて。動物迷路というのだろうか、そこここで彼らは関係しあっている。太い線は生への欲求でもあるようだった。

 そして《別れを告げて》(一九三八年)。これは二〇〇九年六月五日のここのブログ、千葉市美術館で開催されていた「パウル・クレー 東洋の夢展」についての文章でも書いているので引用する。
 「半紙に墨のような糊絵具の太い黒い線で、漫画のような、うつむいた人物が描かれている。目は丸が二つ、鼻と口は逆Tの字。顔は半円、胴体は一本の線、上の方が肩として、わずかに丸みをおびただけ。顔が若干うつむいて見えるからだろうか。丸と逆Tの字だけなのに、やはり寂しげに映ってしまう。それは白い紙に描かれた黒い線のみ、というところからもくるのかもしれない。白い紙は、顔にも、体にも、そして背景にもなる。余白、空白をたずさえて。空白であることで、拡がりをもって、あるいは単純化された線だからこそ、凝縮をもって、わたしたちに重さをつげていた、さびしいほどの別れを。だが、これもまた、題名のせいもあるのかもしれない。別れはいつだって、何事かの痛みだから。そして、ここにはクレーの晩年の作品ということもかぶさるのだった」
 今回、この展覧会にあったのは、これが元は男女並んで描かれていた作品で、そのうち男だけを切り取った作品であったからだ。「切って/分けて/貼って|切断・分離の作品」として。実は元々の姿は参考写真だけだったので、女性などのほうはあまり覚えていないのだが、切り取ったこの男だけのほうがずばぬけてインパクトがあった。それはまさしく別れだった。孤独さに耐えている力強い線だった。切り取ることで、ほんとうに何かから別れていたのだから。
 切り取ることが暴力的である、というよりも痛みであった。そして痛みと創造も裏表に存在するのだった。破壊と創造がそうであるように。

《別れを告げて》

 クレー展を後にして、所蔵作品展もみる。「近代日本の美術」ということで、日本のものばかりだろうと思っていたら、部屋に入ったとたん、アンリ・ルソーの《第二二回アンデパンダン展に参加するよう芸術家たちを導く自由の女神》(一九〇五─〇六年)があったのでおどろいた。いや正確には、入る直前、ルソーの絵、ここが所蔵しているんだよなあ、今日見れるといいな、日本の美術展だから駄目だろうなと思っていたところだったので、びっくりしたのだ。絵葉書などを買っていたり、小さめの画集で見たことがあったのだが、実物ははじめてだったのでうれしかった。一七五×一一八センチと、思っていたよりも大きい。ルソーの唯一の発表の場だったアンデパンダン展に出品されたものだが、私的ポスターとしての意味も持っていたらしい。街路樹のむこうに入口がある。木々の帽子のような葉たち、並列に並んだそれらが可愛らしい。ほんとうは向こうにゆくにしたがって小さくならねばならないはずなのだが、ほぼ均等の大きさで。雲ひとつない空にはラッパを吹く自由の女神、木々の手前に、片手に絵を携えた沢山の画家たちや、作品を運搬するための荷馬車など。彼らは展覧会へ向かっているのだ。そして中央には、獅子が座っていて、真上をみあげている。女神のほうへ。獅子が敷いた白い布には、ピサロ、スーラ、シニャック、カリエール、そして画家自身の名前が記されていたと、後で知った。そして獅子の手前近くで話し込む人物のうち一人がルソーらしいということも。
 それよりも獅子の顔だった。人間のような顔で上を見上げている、白髪のようなふさふさと立派なたてがみを持った黄金色のまぶしいほどの獅子。それは意思をもって女神を見つめているようだった。あるいは女神と暗黙の了解をアイコンタクトでしているようだった。創造への意思、というべきか。画面の三分の二ほどもある広い空で、高らかにラッパを響かせる自由の女神は、ミューズのようでもある。空から届く。そして芸術によって、空へ届く。そんな了解を、獅子のきりっとした表情はあらわしているようであった。


《第二二回アンデパンダン展に参加するよう芸術家たちを導く自由の女神》

 会場をでたのは五時すぎだったと思う。ここは皇居が近い。暗緑色に淀んだお堀に自転車が沈んでいた。タイヤがぼんやり見える。傘の柄が浮きのように浮いていた。宍道湖に行った時、やはり湖岸近く、自転車が沈んでいたことを思い出した。水はこんなふうにつながるだろう。宍道湖にそそぐ川の岸辺に大きな魚の死体がうちあげられていた。白く痛んだ腹がなまなましかった。そのとき私は思ったものだ。夕景の美しい宍道湖とともに、こうした現実も受け入れなければならないと。破壊と創造。空もまたつながるだろう。六月の夏至近い今時分、本来は一年で一番日が長いはずなのだが、梅雨の期間でもあるので、そのことを実感できることはすくない。そのことを残念そうに語っていた人がいた。日暮らしが好きな人でもあった。その人はいまはもういない。夏至近くなると、そして運よく夕景が見えると、その人のことを思い出す。家の近くで午後七時になった。うっすらと夕景がまぶしかった。高い所で、なきはじめたヒバリの声がしたように思った。女神のラッパだ。
23:18:22 - umikyon - No comments

2011-06-05

点と点を線でつなぐと季節がのびるかもしれない、まわりで、そとで



 休みだった。家にいてもごろごろしてしまうだけかもしれない。そんな時がたまにある。本もよまずにだらだらすごしてしまう日が。なにかしないといけないと思う。だが何もできない、したくない。まるで無駄に時間をすごすことで、自分をいためつけているみたいな気になっていたりもする。こんなふうに、あんたはダメな人間なんだと。もしかするとそれもまた息抜きなのかもしれないが。今日はなるべくそんな風に過ごしたくなかった。ベランダに出たら、天気がいい。藤の花の季節を教えてくれた、向かいの庭の藤は、すっかり葉が生い茂り、見事な藤の大木となっている。そうだ、葉を見に行こう。





 交通手段は自転車。家は多摩川もわりと近い。何せ家のマンションはその名も多摩堤通り沿いにある。一番近い多摩川までなら一・五キロ。そんな多摩川、下流方面に、車で通ったことがあり、気になる場所が二か所ほどあった。ひとつは二子玉川にある中洲のようなところ、兵庫島。車から見ると、そこだけこんもりと木々で覆われて小さな森になっている。まずここへ。家のすぐ近くを流れる野川はこのあたりで多摩川に合流する。このことを知識として知っていたので、多摩堤通りではなく、なるべく野川の遊歩道、岸辺沿いに自転車をすすめる。野川を下る途中でコンクリートで護岸された川が合流していた。仙川だ。野川沿いを走ったことがなかったから、合流する箇所は通ったことがなかったが、多摩堤通りも橋があって、その下を仙川が流れていたというのに、今まで川があることに気付かなかった。家の近くを流れる仙川の水はいつも少し生臭い。合流する箇所にさしかかったときも生臭い匂いがたちのぼった。仙川の水はほとんど生活排水が浄化されたものだそうだ。そのせいか、いやおそらくコンクリートで覆われているからだろう、野川はまっすぐに整備はされているが、自然に近い状態で流れているから、生活排水が流れ込んでいても臭いがほとんどわからない。それに、仙川の合流した地点を越したらすぐに臭いは消えてしまったから。コサギがそのあたりにいた。カワウがとびたった。
 川岸をゆく。いつもとおる道が左手に見え隠れする。道と岸の間に教習所がみえる。教習所の裏側といったらいいか。表はよくみかけていたが裏ははじめてだ。こんなことも妙に新鮮だった。 
 兵庫島についた。正確には兵庫島公園。ちらっとみただけなのと、名前をどこかで聞いた覚えがあったので、中洲か島だと思っていたが、実際は河川敷とほぼ陸続きになっていた。しかも野川と多摩川が合流するデルタ地帯が兵庫島だった。とはいっても以前は本当に島だったらしい。今でも島だったあたりは小高い丘になっている。そこが森のように見えたのだ。兵庫島をはさんでこちらが野川、あちらが多摩川。知識としては知っていると先に書いたが、実際にみたのははじめてだった。下流のほうをみる。多摩川と野川がまさに合流していた。川幅がひろくなっている。
 兵庫島、丘をのぼる。森だと思ったが、樹がはえているのは周りだけで真ん中は広場のようになっていた。すこしだけがっかりする。わたしはなにを求めていたのだろう?
 多摩川はわたしにとって特別な川だ。どこかで書いたかもしれないが、中学生、いや小学生の頃、新選組の土方歳三が好きだった。彼の故郷は日野で、出げいこや剣術修行などで多摩地方をよく歩いていた。本に出てくる川が浅川(多摩川の支流)と多摩川。だからなんとなく、多摩川は彼を思い出させる川となった。今でも多摩川という名前はどこかしら、懐かしいような親しみをおぼえる。
 けれども多摩川を間近に見るのはひさしぶりだった。向こう岸に、テントやキャンピングカーが見える。バーベキューもしているらしい。シートの上で花見客のようにさわぐ人々もいる。水は浅草あたりを流れる隅田川ほどではないが、にごってみえる。小石の投げ方を子供に教える若い父親。そのすぐ近くで、子供たちが四、五人。彼らはこのあたりでかくれんぼをするといっている。「いいか、川沿いはダメだからな、あんなところ(川すれすれに生えた葦の群生するあたりをさして)に隠れるのも絶対ダメだからな、あぶないから」と男の子がいっている。彼らはちゃんとルールをしっているのだ。
 兵庫島公園からもうひとつ、気になる場所へ向かう前に。というか二つ目も多摩川沿い、多摩堤通りをさらにもうすこし下流へと行く。それは大田区にあるのだが、地図で見ると、そこへ行く途中に、等々力渓谷があった。正確には等々力渓谷は私がいる場所からいうと、多摩川に直角にそそぐ谷沢川沿いにあるので、多摩川のある通り、多摩堤通りから左へ曲がる感じなのだが。
 ここも車でいったことがあるし、電車でも何回かきたことがある。だから渓谷を作る谷沢川が多摩川に注ぐことは知っていたし、世田谷にあることもしっていたのに、なんというか、実際の場所として、ぴんときていなかった。車や電車は自分で運転するのではないから、場所がうやむやになってしまう。それは点のような場だ。わたしは点から点へ移動する。だが自分で地図をみて自転車でゆくとその点と点は線によってつながるのだった。
 この発見がともかくうれしく、まず等々力渓谷へ向かうことにする。曲がる道を間違えないかすこし不安だったが(なにせつながったばかりの線だから)、多摩川に左手から注ぐ川に注意すればいいということに、川を越してから気付く。しまった、今の川が多分谷沢川だと引き返す。案の定だ。後は谷沢川沿いに進めばいい。
 すぐに等々力渓谷公園という案内が出てくる。住宅地の間を流れる川が、樹々がしげった場所を流れる川になる。渓谷の始まりだ。今さらだが渓谷とは何かちょっとわからなくなってしまい、後で調べた。渓谷とは山にはさまれた川をいうとのこと。ここは山というほどではないが、両岸が丘陵になっている。そこを流れる全長一キロほどが等々力渓谷。元は谷沢川が等々力付近の国分寺崖線を流下する際に削って形成したものらしい。川沿いを自転車を押して歩くと、右手に不動の滝が見えた。これ以降は道幅が細くなるので自転車はご遠慮くださいとあるので、滝の近くに停める。不動の滝を登ると等々力不動尊がある。滝は二体の龍の口から出ている水を指すが、それ以外にも苔むした岩壁から湧水がしみだしている。

 不動尊のほうへも昇る。上から下を見ると、川もほとんどみえない。木々ばかり、なるほどちょっとした山のようだ。カエデが多い。最近まで緑がわかわかしかったのに、もう緑が老成しているというか、落ち着いているようにみえる。だがまだ柔らかい色合いだ。これから夏になって、さらに老いてゆくだろう。そのあとで、花を咲かせたような紅葉だ。そうだった、秋にきたここの紅葉はみごたえがあったと思い出す。

 また川沿いを歩く。川はまっすぐで、岩などを模して自然らしさを出そうとしているが、コンクリートで護岸されているので少しだけ味気ない。だが道沿い、斜面からあちこち、水がわき出ている。小さな池をつくっているところもある。なぜ気付かなかったのだろう? 護岸された川をさびしく思っていた。そしてやはり仙川のように少し生臭い。渓谷だというのに。けれどもそうしたマイナス面しか見てこなかったから気付かなかったのだ。こんなにあちこちから水が湧いていたのに。それに不動の滝も湧水ではなかったか? 集めた湧水を汲める場所もあったではなかったか…。わたしは別々にみていたのだ。点しか見なかったのだ。線があったというのに。湧水は竹筒の先からこんこんと流れ続けている。その下にペットボトルを置いて汲んでいる年配の男性がいた。「煮沸してからお飲み下さい」ともある。私は今飲んでいたお茶がはいっていた五百ミリサイズのペットボトルしかもっていない。だがあとで汲んでもって帰ろう。きれいな水という面をわすれないために。


 実はあちこちの湧水に気付いたのは、その上に咲く花たちの存在のせいだ。三枚の花びらの白い小さな花たちがあちこちで群生している。その下に水が湧いていた、しみだしていたのをみてのことだった。点はまた飛び火する。この白い花はなんだろう? 白い花びらに黄色い頭のおしべが目につく。葉っぱはツユクサに似ている。花はムラサキツユクサに似ているかもしれない。多分はじめてみる花だった。多分というのは、みたことがあるのかもしれないが、名前をしらないと、それは点のまま、わたしのなかでどこかに消えてしまうから。あるいはわたしの外で、関係しないままになってしまうから。関係しないままでいるのはいやだった。名前をしりたかった。そうすれば、きっと彼らと関係がもてる、というより関係がはじまるだろう。なるほどわたしが名前を知ろうが知らなかろうが、彼らはその生を変わることなくつむぐだろう。けれどもわたしの生に、それは告げてくれるのだ、名前をしった後では。わたしをとりまく世界の季節がかわる、わたしをとりまく彼らが名前をもつことによって、世界はひろがるのだ。
 渓谷の端から端まで歩いたが、あちこちでみかける白い花の名前がわからない。写真にとる。あとで写真を基に調べようとも思う。けれどもそれよりもただ写真におさめたかったのかもしれない。川に木々が反映している。川が樹をしっている。これも写真にとった。


 渓谷の端までいって、帰路へ。自転車を置いたところへ戻る。自転車をひいて、谷沢川の下流へ向かい始めた。すぐに右手に日本庭園が出没。そういえばここに入ったことがない。せっかくだからのぞくことにする。

 小さな竹林、またもや湧水、石畳の散策路、芝生広場。休憩所をかねた畳敷きのちいさな書院造りの建物もある。部屋の中では、等々力渓谷の歴史、園内で見られる鳥や植物などを簡単に紹介している。実はここに白い花のことが書いてあった。“トキワツユクサ”別名“ノハカタカラクサ”、「湿性地などに密生して生え、五月末から夏まで白い花を咲かせる」。ここで名前がわかると思っていなかったので、おどろく。そして心のどこかでほんのすこし名前を知ってしまったことを残念に思った。もっと名前をさがして追い求めたかったのだ、名前をめぐる冒険がしたかったのだと。けれどもやはり名前がわかってうれしかった。そうか、やはりツユクサの仲間だったのかと思う。トキワツユクサ、トキワツユクサと名前をなんどもつぶやく。忘れないために。忘れなければ、白い花と関係がもてるのだ。少なくともこれから花を見る度に、名前で呼べる。あるいは点が点でなくなり、線が来年の花の季節にまでのびるかもしれない。ただ別名の“ノハカタカラクサ”がよくわからない。漢字で書くとどうなのだろう? 野墓宝草、だろうか…。そうならいいと思う。野に咲く死者を悼むための花…そんな風情だったからだろうか。群生して咲くそれが、暗がりにひっそりとともった明るさのようだったからか。

 そんなこともあって、やはり家に帰って花のことを調べてみた。南アメリカ原産の帰化植物、昭和初期に園芸種として輸入された花が野生化したのだとある。葉が常緑でツユクサに似ているから“トキワツユクサ(常盤露草)”の和名がある。そして…別名ノハカタカラクサ(野博多唐草)と呼ばれるとあった。野墓宝草ではなかった。残念に思うよりも、何故、野博多唐草なのか気になった。調べてもなかなか由来がわからない。この名前がわからない過程が冒険だった、やはり。もしかすると、こうしたわからなさを楽しむというのは、記憶にそれだけとどまることをも考えてのことなのかもしれない。辞書をひいた漢字のほうが、パソコンで入力したそれよりも、ずっと覚えていられるように。
 こちらもけれども由来がわかった。園芸種の近縁のものに縞模様の斑がはいっていて、それが博多織に似ていることから名前がついたらしい(近縁といったが、学術的には別種のようだ)。
 トキワツユクサに惹かれて脱線してしまった。等々力渓谷を出て、多摩川へ戻り、本来の二つ目の目的地に向かったが、そちらを書く気力がなくなってしまったので簡単に。向かったのは多摩川台公園。世田谷区ではなく大田区にある。新丸子橋の近く。川はずいぶんと海に近づいているので、幅が広い。ほとんど運河だ。きっと舐めると塩の味がするだろう。ここを車で通ったのはたいてい、海へ向かう時だ。多摩堤通りに沿って丘陵になっており緑が深そうだ。古墳があるという文字もみえたのでよけい気になっていたのだった。けれども古墳は立ち入ることができなかった。ほかに八個の古墳があったが、まわりよりもほんのすこし小高い丘にしかみえない。とはいっても古墳だと思うからか、あたりが静かに感じられた。


 園内にアジサイ園があった。まだ咲き始めだが、もうこの花が咲く季節になったのかと思う。
 梅雨の晴れ間。緑の中にいたから、あまり陽にあたっていないつもりだったが、そうでもなかったのか、ちょっと頭痛がする。いつからか帽子をかぶらないで太陽をあびているとこうなってしまった。これも点だ。頭痛がしたあとで線をむすぶのだ。今日は太陽が近い。日射しがまぶしい。そして頭痛。これらを結ぶこと。アジサイとトキワツユクサも線がどこかでつながった。こうして線をつなぐことでわたしのテリトリーが拡がるようでもある。今、こうして書いていてもまだ頭痛がする。まだつながっているのだった。


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