Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2011-09-25

世界はトリックにみちている。(トリック&ユーモア展、横須賀美術館、城ケ島)



 ここを暫く更新しなかった。間を開けてしまった。忙しいとかは、あまり理由にならない。忙しくても今までは書いたから。というか、暇がないとかというのは、私のなかでは書かなかった理由にはあまりならない。他の人なら、ほんとうにそういっていい人がいるだろうけれど、私はそこまで忙しくないし、ブログを書くことを選ばなかったということは、それが第一優先ではないということでしかない。ささいな揺れがわたしのなかでおきていた。詩のこともある。これも第一優先をなにを選ぶかということだが、たしかにここを書くことによって、詩を書く時間が減るということもある。逆にここを書いたことで、詩にはずみがつくことも多々あるのだが。多分実験したくなったのだ。この雑文を書かなければどうなるだろう? だんだん、このままずるずる書かなくなってしまいそうで怖くなってきた。こういう怖さは、いつもかすかな眩暈をひきおこす。で、また再開することにした。なるべく五の日ごとに。
 「トリック&ユーモア展」(二〇一一年九月十日─十一月六日)に行った。副題は「描かれた不思議 エッシャー、マグリット、国芳から現代まで」。HPなどには「本展では、江戸時代に描かれたあそび絵、永遠に続く迷宮を思わせるM.C.エッシャーの版画、シュルレアリストたちが描いた不可思議な世界、幅広い展開を見せる現代美術の作例など、国内外を問わず約80点の作品をご紹介いたします。作品を見て笑い、だまされ、その仕掛けに驚いた時、私たちはそれまで抱いていた思い込みに気づき、ものの見方や考え方を新たにすることとなるでしょう」とある。だまし絵たちに会いにいった。あるいは海に行った。展覧会をやっている横須賀美術館は三浦半島、観音崎の景勝地にある。
 車で向かう途中(といっても私が運転しているわけではないのだが)、緑の多い、まっすぐ平坦な道路を走っていると思った。助手席から見る、とおい眼前には真夏のような空が拡がっている。空の三分の一ほど下が突然青く濃い色になった。道は下り坂になっていて、空だと思っていたら突然海がみえたのだ。海と空は近しい…、これは私にとって、殆ど永遠のイメージだが、空が海になる、夏のような秋の一日、これこそだまし絵の世界ではないか、世界はトリックにみちているのではないかと、うれしくなった。展覧会という非日常と、わたしを取り巻く世界というどちらかというと日常というものが(実はこうして海のほうへいく、というのは休日にいくわけだし、普段の日常よりは非日常に近いわけだが…)、呼び合っているようで。これらはどちらもとても近しい関係にあるのだと、背中を押してくれているようで。つまり詩と日々は近しいのだと。


 とおい眼前の海と空をみながら、このままだと海へつっこんでしまうなと思う。「あれ、海だよね?」と運転席の男に言う。車はもちろん海へ落ちなかった、車は右へまがり、今度は左側に海が拡がる。猿島という小さな無人の島も見える。ヨット、トンビ。シュノーケルをしている人、波打ち際で遊ぶ家族連れ。夏ほどは人はいないのだろうが、夏の景色がひろがる。けれども彼岸花が咲いている。コスモスもどこかで見た。夏と秋の混在。だまし絵的だ。トンビかと思ったらカモメ。烏もゆっくり飛翔している。

 横須賀美術館は道をはさんですぐ海、という場所にある。屋上には展望スペースがある。まるっきり夏だ。ほぼ開館と同時についた。じりじりと暑い。入口まで歩いたほんの少しの道のりでもう汗がふきだしてくる。
 美術館はガラスの扉。扉には額付きのコローとかの風景画っぽいビニールのシール状のものが貼られていた。受付にゆくまでの床にも無造作に円形のビニールシートでボッティチェッリなどの絵が何枚か貼られている。というか置かれている。一枚などはわざと三分の一ぐらいめくってあった。後で福田美蘭の作品だと知る。展覧会会場に入る前にもうだましが始まっているのだ。
 会場にはいってすぐM・C・エッシャーの《昼と夜》(一九三八年)。これはもう何度もここで書いている。二〇〇九年七月十五日のブログから引用する。「木版画で、田園風景を俯瞰するものだが、田んぼの上部の四角い枠線が、鳥になってゆく。さらに鳥たちは画面右上で、夜の背景に右向きの白い鳥、左上で、昼の背景に左向きの黒い鳥となっており、それぞれがあたかも夜に昼をつれてきた白い鳥、昼に夜をひきずっている黒い鳥のように見え、農地と鳥、鳥と空、そして時間までもが取替え可能なものとして、あるいは融合できうるものとしての可能性をひめて存在している。」…。そう、昼と夜は互いに接し合い、同時に空と大地も接しているのだ。なんという蜜月なのだろう。実はこの絵、とても好きで、こうしてこれを作っているパソコンの脇からすぐ見えるところに絵ハガキが飾ってある。毎日眺めているのに、はじめてとまではいわないが、ずいぶんひさしぶりにみたようで、そのこともびっくりした。肉筆ではない、木版画だというのに、実物でみるインパクトがそれほど大きかったことに。夜は昼だった。空は大地だった。そう言いたくなるほど世界は親密だった。

M・C・エッシャーの《昼と夜》

 展覧会会場にはエッシャーの絵は数多く展示されている。やはり以前も触れた、二階と三階が親密で、というか二階かと思ったら三階で、その端から、同じ階からかもしれずに流れ続ける滝を描いた《滝》(一九六一年)、白い人物の影かと思ったら黒い人物、逆もまたありで、延々と出会いつづける《めぐり合い》(一九四四年)、内側の支柱かと思ったら外側の支柱にすりかわっている《物見の塔》(一九五八年)など、以前にみた作品ばかりだったが、どれもなぜか新鮮だった。それはだまし絵的な効果のせいもあるのかもしれない。現実にたいしてのゆさぶりが、見る度に日常との向き合い方に対して何かしらを突き付けてくる…。
 けれども、多分初めて見るのだと思うのが《モザイク供奸憤豢絽渕掲、リトグラフ)。黒っぽい動物や人間と白っぽい動物や人間たち。白い象の牙の輪郭が黒い側からみると魚の尾であり、象の足は別の魚の口、その魚の背びれは鶏っぽい白い鳥の尾で、鶏の脚から口にかけての輪郭線は蛙で…。こんなふうに輪郭線は殆どが隣接するそれらと二重の輪郭をつくっていた。片側からだけからしか見ないことへの揺さぶり、というよりも、他者たちはこんなにも近いのだ、ということをまざまざと感じさせてくれた、やさしい一枚だった。それはぬくもる夢だった。私たちは輪郭線という境界はあるが、それでもこんなにも接することができるのだと。

《モザイク供

 揺さぶりにもどって、《登って降りて》(一九四七年、リトグラフ)。一階だと思ったら二階で、天井だと思ったら階下を覗きこんでいるようで。登ったと思ったら降っている、あるいはその逆で。この天井のような底のような空間を見ていたら、比喩的な意味だけでなく、実際にも眩暈がしてきた。暑さのせいもあったかもしれない。心地よくも気持ち悪い。絵に酔いながら、身体も失神しそうなぐらい眼がまわり、眼の前が暗くなりかけた。心と身体は接している。まるでその前にみた《モザイク供佞筺毀襪斑襦奸圓瓩阿蟾腓ぁ佞里茲Δ任呂覆い。

《登って降りて》

 この章はエッシャーの世界だったが、次は広重や国芳などの「日本絵画の中のあそび」。とたんに絵を見る人々がうるさくなって辟易した。れいの身体がたくさんあつまって顔になっている「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」などの絵を前にして、指をふれんばかりにしていくつ身体があるか数えている年配の人々。いつもならもっと不愉快になるのだが、国芳はまえに見たものばかりで、あまり触手が湧かなかったせいもあるかもしれない。あるいはまだ眩暈がして、調子がわるかったせいもあるかもしれない。彼ら越しにざっとながめてすぐに去ってしまったので、あまり不愉快にもおもわなかった。それどころではなかったかもしれない。息ぐるしくなってきた。汗がふきだしてくる。
 第3章はシュルレアリストを集めたもの。エルンスト、ダリ、マグリット。ルネ・マグリットは何点かあったが、こちらも眩暈のため、あまり感慨がわかなかった。或いは見たものばかりだったからかもしれない。けれどもチラシにも載っている《公園》(一九六三年)は少し心に残った、煉瓦の壁を背に帽子をかぶった黒いスーツの男がいる。いや森ごしに男はいるのかもしれない。煉瓦の壁のうしろにいるのかもしれない。森は壁なのかもしれない。男こそが壁なのかもしれない。そんな風に絵は描かれている。絵を前にしたときは、男は森を見ている、だがその男をまた森が見ている、その瞬間をあらわしているのかもしれない、とも思った。今こうして書いていると、あるいは書くためにチラシなどの絵を眺めていると、現実は堅固なものではないのだ、ゆさぶりをうけたら、非現実への深い壁のむこうに森がひらけるのだと、誘うように思えてきた。

ルネ・マグリット《公園》

 そのほかダリの《シュルレアリストの時間の目》(一九七一年)も惹かれたのだが、手元に絵がなく、図録も購入しなかったので、申し訳ないが(だれに?)、絵の細部には触れずに(大きな目があった…)、印象だけを語りたい。こんなふうに見つめれば、想像の世界はひらかれるのかもしれない、そんなことを思わせてくれる、魅惑的な眼だったから。
 あとは現代日本に移る。こちらは省略。なるほどなと思うものもあったが、ゆさぶられるものがなかったので。まだ眩暈が続いていたせいかもしれないが。
 美術館を出て、道の向こうの海に少し降りてみる。眩暈は幾分かおさまったがだるさがのこっている。小さな砂浜になっていた。シュノーケリングをしている人、泳ぐ人、砂浜で寝転ぶ人。夏だ。よせてはかえす波、砂に白い泡をたてて模様を作り続ける波、はためくレースの波。ここの海はこんなに青かっただろうか? 夏にきたことがなかったからだろうか(厳密にいえば、今だって夏ではないが)。空の青さを吸い取ったように青い海が拡がっていた。打ち寄せる波のゆらぎに、また眩暈がのっかる。眩暈をとおして波がわたしを揺らすのだ。だるさはあったが、それは概ね心地よかった。波の音がする。波の音を持ち運べるような気がした。



 この後、城ケ島に向かった。三浦半島の突端の三崎と道でつながった島だ。このことも以前、ここで書いたような気がする。夏にでかけたのは(だから夏ではない、秋だ)初めてだったのだと思う、家族づれ、水着の人々、ホテルの展望レストランや食堂の混雑、こうした光景にいちいち少し驚いた。ここに海水浴客が来るということを考えたことがなかったのだ。そして人けのない場所というのが、わたしが城ケ島に抱いていたイメージだったから、混雑というほどではなかったが、人がいたのに驚いたのだった。多分真夏だったら、それでももっと人が多いのだろう。水着の人々、磯あそびをする家族連れ、彼らは私の勝手な思い込みを揺さぶるだまし絵のようだった。それはほのかにうれしい発見だった。現実は、しばしばそんなふうに固定観念などを覆すものでもあるのだ。いいほうにもわるいほうにも。


 トンビが多い。そういえばわたしはトンビが割と好きなのかもしれない。理由は近くであまり見かけないから。わたしがみる範囲でトンビに出会えるのは、休日のほんの少しの遠出のなかでしかない。鎌倉、江の島、ここ城ケ島。以前訪れた金沢でもトンビが飛んでいた。海辺に多く生息するのかと思ったら、湖沼、川原などにもいるらしい。だがともかくわたしの住居近辺ではおめにかかったことがない。トンビは私にとってハレの日の鳥なのだ。翼を開いたまま空を滑るように飛翔するトンビの姿はうつくしい。魚の腐肉や鷹などの食い残した動物の死体をあさる。蛙や昆虫などの小動物なら生きているものも食べると、図鑑には載っている。電線にトンビが止まっていた。とおもったら、飛び立ち、旋回をはじめた。つい、トンビを目でおってしまう。やはり好きなのだ。ハレの日の、日常とせっしながら、そうでない現実の鳥だから? だが多分、毎朝出会っているサギやカルガモに対してそうであるように、毎日トンビをみたとしても、きっと好きであるだろう。詩と日々は近しいのだから、といささか強引に、とうとつにつぶやいて、今日はおしまい。

00:01:00 - umikyon - No comments