Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2012-01-25

祖母の命日の翌朝、亡父が訪ねてきてくれた

一月二十日は父方の祖母の命日だった。
祖母は私が小学生の頃に亡くなった。
偶然だが、今住んでいる場所からバスですぐの所に伯母と従妹と一緒に住んでいた。
病院からの電話を父がとる。〈今亡くなった〉と力なく呟く。
その瞬間、玄関のドアが開いたような気がした。祖母が帰ってきたのではないか、
そう思いたい自分がいたのだ。

祖母の命日だったからか。翌朝また亡父の夢を見た。
また、というのは亡くなって二十年はたっているが、いまだにたまに
夢にでてきてくれるから。
その日は、父が遠いところから訪ねてきてくれたのだが、
わたしは出かけていたらしい。
あやうくすれちがいで去ってしまうところを、裸足でおいかけている。
線路の踏み切りの手前でやっとつかまえた。抱きしめる。
ぬくもりがなつかしい。
父は実際の身長は一七二センチぐらいだったが、
たぶんわたしが小さい頃の印象のままなのだろう、
それよりもずいぶん背が高かった。
駅まで一緒に歩いた。
クレジットカードをポケットにいれていたら、
空を飛んでいるときに、おとしてしまったと笑う。
ぽかんとしていたら、冗談だと微笑んでいる。
改札の脇のパン屋のワゴンに菓子パンが売られている。
砂糖がかかったパン、ピーナッツクリームパン、
ああ、父がすきそうなパンばかりだなと思う。
そうして父と一緒にくらしたいなと考える。
けれども父の家には、わたしが住む場所がない。
そうか、父と暮らすと詩を書く場所がないのか…と思う。
父は改札をとおって去っていった。

今、これを書いていて、父が住んでいる家は、死の家なのだろうと思う。
わたしはまだそこにゆくことができない。
けれども多分、想っていれば、また逢いにきてくれるのだ。

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2012-01-15

書くことで、あなたたちと再会する、何度も(フェルメールからのラブレター展

 正月に生まれた家の跡を見に行ってから、その頃のこと、概ね六歳位までのことがしきりと思い出されるようになった。たとえば電車の中で。大切にしていた赤いバニティ・バッグを置き忘れてきてしまったこと。鹿の絵が書いてあった。或いは熱でもあったのだろうか。具合がわるかったのだが、立っていた。母に手を繋がれていた。前で坐っていた若いサラリーマン風の男性が、そのわたしに席をゆずってくれ、うれしかったこと。庭でおままごとをしていて、うっかりその日の新聞を部屋にしてしまい(敷物にしたということ)、ボロボロにしてしまって、あとで父が読みずらそうにそれを読んでいたこと。怒られた記憶はなかった。けれども罪悪感のようなものが残った…。
 渋谷駅にいった。ハチ公口前に、二〇〇六年から古い電車が静態保存されている。東急5000系、渋谷─桜木町間を一九七〇年位まで走った電車だそうだ。初めてみたとき、てっきり玉電かと思った。〈玉川線(たまがわせん)は、東京都渋谷区の渋谷駅と、世田谷区の二子玉川園駅(現二子玉川駅)、および途中の世田谷区の三軒茶屋駅と下高井戸駅を結んでいた、東京急行電鉄(東急)の鉄道路線(軌道線)である。通称「玉電」「玉川電車」。〉(ウィキペディアより)。鉄道ファンならずとも、5000系と玉電では、大きさも形状も全然ちがうのだから、なにを馬鹿な…と言われそうだが、同じく緑色の車両、そして渋谷駅にあったことで想起したのだった。わたしはこの玉電が路面電車だったころを覚えている。親戚の家にゆくときに使ったと思っていたが、どうも違うようだ。時間的なずれがあるのだ。親戚の家には玉電が廃止になってのち、渋谷からバスで行っていたようなので。ともかく、わたしのかつての家の最寄り駅は玉電だと山下駅、小田急線だと豪徳寺駅になる。おそらく渋谷に買い物に出かけるときに玉電をつかっていたのだろう。山下駅から三軒茶屋へ、そこから渋谷へ。現在の東急百貨店東横店の二階に乗り入れていたというから(JR山手線では、現在でもそのあたりに続く改札が「玉川口」となっている)、東急で買い物をしていたのだろう。東横のれん街ということばの響きがとてもなつかしい…。
 ちがうのだ、昔がたりをするつもりではなかった。ハチ公前の古い電車をみると、もう玉電の渋谷をすぐさま想起してしまうように回路ができてしまっている。それはほとんどいつもなのだが、その日は、玉電幻想をいつもより若干長く引きずりながら、東急本店のほうへ。109を通りながら、ふと思う。初詣の折に生まれた家の跡地を見たから、その当時のことがしきりに思い出されるのではない、思い出すのは、それを文章にしたからなのだと。
 わたしは事情たちがつみかさなった結果、アルバムであるとか、写真のたぐいをもっていない。小さい頃の自分はおろか、亡くなった父親の顔写真もない。遺影はほとんど没交渉になっている親戚の家にあるかもしれない。
 そのことを残念に思う気持ちはあるが、もともと写真に自分の顔をとることもあまりしないので、写真にたいして、それほど執着していない。どこかで思い出は写真には残らない、という思いがあるからだ。思い出は、写真よりも、こうして書いたほうが残るのだと。だから、そのことをさほど、残念には…、いや、けれどもこう書いている今、写真を撮ってくれた人の思いを考えると、やはりその写真が見たい、残っていてほしかったとも想いだされ…。
 なにを逡巡しているのだろう? 109の前では、そんなことは思っていなかった。書くことで二度生きれるのではないかと、思ったのだ。そのことについて書くことで、彼らと再会できるのだと、だからわたしは書いているのではなかったか…、それは自身の過去のことばかりではない、彼らとよりよく出会うために、わたしは書いてきたのではなかったかと、そんなことを思いながら、東急本店にむかっていたのだった。あるいはこんなことも思っていた。わたしの顔は、なくなった父によく似ている。不思議なことだが、父が亡くなった直後から数年は、特に驚くほどそっくりだった。多分そういうことはあるのだろう。プルーストの『失われた時を求めて』で、主人公の祖母が亡くなった時、その娘である母が祖母そっくりの顔になったと書いてあった。亡き人の印象のようなものが、わたしたちにその人のヴェールをかけ、浸透していったのだ。彼らは、きっとわたしたちに残ってくれるのだ。それは少しづつ、わたしたちのなかで消化されるのか、彼ら自身としては薄れてしまうだろう。けれどもきっとありつづけるのだ。そう、今は父がなくなってからかなり年月がたってしまったから、乗り移ったほどではないだろうけれど、今でも顔だちは似ているのだから、父に逢いたければ鏡をみればいいのだ。もっとも父はわたしより彫りが深くもっとハンサムだったけれど。
 書くことで、彼らと再会するのだ…、それはもういちど、絵をみることでもあった。という想いをいだきながら、東急本店、というよりも横のBunkamuraザ・ミュージアムへ。「フェルメールからのラブレター展」(二〇一一年十二月二十三日─二〇一二年三月十四日)へ来たのだった。
 金曜日の夜だった。Bunkamuraのほうの入り口にはいる。すぐ花屋(フラワーショップ プレジュール)がある。フェルメール展に出品されているフェルメール作品にちなんで、青(フェルメールブルー、ラピスラズリの色だ)、黄色(《手紙を書く女》の女性の服の色)、そして赤(《手紙を書く女と召使》にあるテーブルクロスの色だろうか、わからない)、三色のブリザードフラワーが売られている。小さな手紙も花のなかにまじっていた。展覧会にゆく前に、みるだけで、心の準備ができるような、心地よさをもらった。そして生花たちは、十二月のポインセチア、シクラメンなどが姿を消し、福寿草、梅など、正月にちなんだものが名残のようにぽつり。メインはもう春だ。チューリップ、フリージア、菜の花。やわらかい色遣いが目にやさしい。
 地下におりて、展覧会へ。HPから。「オランダ黄金期の巨匠、ヨハネス・フェルメール。精緻な空間構成と独特な光の質感をあわせもつ作品群は、今なお人々を魅了してやみません。現存する三〇数点のフェルメール作品のなかでも、日常生活に密やかなドラマをもたらす手紙のテーマは、重要な位置を占めています。本展は日本初公開となる《手紙を読む青衣の女》をはじめ、《手紙を書く女》、《手紙を書く女と召使い》の三作品が一堂に会するまたとない機会です。さらに、同時代に描かれた、人々の絆をテーマにした秀作も併せて紹介し、人物のしぐさや表情、感情の動きに注目することで、十七世紀オランダ社会における様々なコミュニケーションのあり方を展観していきます。」
 夜七時位にいったのだが(金曜、土曜は午後九時まで開館している)、フェルメールでこんなにすいているのは初めて、というぐらいに人が少なかったのでゆっくり見れた(たいてい金曜の夜というのは、どんなに昼間、混んでいる展覧会でも空いているのです)。 一室、二室は、同時代の画家たちの作品。ごめんなさい、フェルメールの展覧会では、いつもそうなのだが、触手が動かないので、三室へ。ここは会場の中央にあたり、ぜいたくに空間をつかってある。フェルメールの三作品が、仕切りの壁、三面をつかって展示してあるのみ。中央は椅子というか背もたれのないソファーがおいてある。
 最初は《手紙を書く女》(一六六五年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)。青い布がかかった机、そこで手紙を書く手をとめて、こちらを見つめる若い女性。貂の毛皮で縁取りされた黄色い上着、髪の毛のリボン、真珠の耳飾り。ひろいおでこに光があたり、黄色い上着、手前の左腕の明るさととともに、彼女の存在自体が輝いてみえる。壁にかかった静物画は、ヴィオラ・ダ・ガンバが描かれてあるそうで(ちょっと判別がつきにくいのだが)、この楽器で、美と愛と調和を象徴しているという。
 顔にあたった光の明るさのせいだったろうか、こちらを振り向いた、優しさとか信頼をふくんだ目のせいだろうか、懐かしい(これは人肌が懐かしいという意味に近い)ような、やさしさにふれたような気がした。フェルメールの光は、なぜいつもわたしを惹きつけるのだろうか。それが温もりでもあったからだろうか…。思いがけず、涙が出そうになった。理知的な、はにかむような表情の少女の明るさからは、愛情がこぼれている。フェルメールの光から、わたしはおそらく、いつも、美とか愛とかをかんじているのだろう。その概ねの温かさを。


 次の壁には修復され、色が鮮やかによみがえったという《手紙を読む青衣の女》(一六六三─六四年頃、アムステルダム国立美術館)。これについては隣の室でビデオ上映やパネルで修正前と修正後について説明があったが、特に修復で、ラピスラズリ、青い衣の鮮やかさと、明るさ、壁にかかった地図がより鮮明になったとのこと。横向きに手紙を読む女。顔のむいた側に、光があたり、描かれてはいないが、そちらに窓があるのがわかる。両腕を身体に引き寄せ、力を入れている仕草によって、感動の表現が静かになされている。壁の地図は恋人の不在をあらわしているという。海外、たとえばアジアとかで働いているのかもしれない。説明によると、オランダの船の男たちとの間で、交わされる手紙は、長らくつくことがなく、安否を伝えるそれは重要な役割を果たしていたとあった。明かりのもとで手紙をよむ、やはり明るさ、感動がしずかに伝わってくる。青い衣の静謐な美しさとともに。けれども個人的には、先にみた《手紙を書く女》のほうが好みがあった。なぜとはうまくいえないのだけれど。


 最後の壁には、《手紙を書く女と召使い》(一六七〇年頃、アイルランド・ナショナル・ギャラリー)。これは多分、観たことがある。画面右に、白い服の、羽根ペンで手紙を書く女性、赤いテーブルクロス、左に窓の外を眺めながら、手紙が書きあがるのを待つ召使。後ろの壁には、《モーセの発見》が描かれていて、心を鎮めるたとえ、とされているという。床には、書き損じなのか、丸めて投げ捨てられた手紙と、赤い封蝋。紙は当時高価なもので、封筒を使わず、便箋を三つ折にして封蝋しただけだったというから、紙を無駄にするこれは尋常ではない感情の高ぶりを表しているらしい。そしてモーセの絵があるので、解説によれば「恋人との和解を求める女性の心理と結びつけて解される」らしい。
 だが、私はこうした解説は二の次でいい。やはり窓からあふれる光。光にてらされた手紙を書く女性の、一心不乱な様子、白い服の光にみちた感触からこぼれる愛のイメージとか、光のなかで窓のほうをみあげる召使の女性の外が気にかかる様子とか、そうしたものに生き生きとしたものを感じる。特に召使の女性の表情。前の二作は、音が感じられなかったのだが(それがいいとか悪いとかではない、ただただ静謐のなかの一瞬といった無言だったのだ)、彼女の気をとられたような表情から、街の喧騒がきこえてくるようだった。物売りの声とか、馬のひづめの音とか、船が着いたかなにかのざわめきとか。


 フェルメールの光にわたしがこうまでひかれるのは、それが様々なもの、たいせつな喩をあびせているからだろう…。と、こうして書くことで気づいた。書くことでもういちど見るからだ。
 次の室へ、そして出口付近まで一応観終わってから、何度もこのフェルメールの室へ戻ってきた。最初に書いたとおり、こんなにゆっくり、眼の前で味わえるフェルメールは初めてだった。名残惜しかったが、ミュージアムショップのほうへ。フェルメール全作品の複製が売られている。全作品がみれて得したような気がした。けれども明るさがやはり違うと言えば違うのだけれど。これらフェルメール展関連のそれとは違う、けれども展覧会会場内で店を構えているミュージアムショップにも足をすすめる。ここの雰囲気が昔から好きなのだ。エジプトのツタンカーメンやバティストの置物、ミュシャやモリスのグッズ、洋書、美術書、ステーショナリー、トランプ、アクセサリー、様々な美しいオブジェ、ガラクタたち。
 会場を出て、カフェテラスをはさんで向かいにある、ブックショップ・ナディッフモダンへ。洋書や美術書、ステーショナリー、古書、輸入版CD、北斎の和とじ本や、エロティックな詩集など、こちらもいるだけでも、楽しい、わくわくするスペースだ。そうして私は思い出す、この感触は、池袋西武にかつてあったアール・ヴィヴィアンの雰囲気だと。そこにはじめておとずれたのは十代だった。私は、大人の世界に足を踏み入れたような気がしたものだった。わけもわからず、ルネッサンス期の俗謡のCDやアフリカ音楽のCDなどを買ったと思う。もしかすると、クノップフの画集もここで買ったかもしれない。いつぐらいになくなったのか定かではないが、九十年代中ごろだという。けれども、ナディッフモダンでその雰囲気を味わえてうれしくなった。こういう美への入り口を提供してくれる貴重な場所は絶対になくなってはいけない。敬愛する、阿部嘉昭さんの著書が売られていた(『少女機械考』)。手にとってしばらく眺めてのち、心地よい空気を感じながら外にでた…。
 今、これを書くにあたってふとインターネットで調べたら、ナディッフモダンの母体はアール・ヴィヴィアンであったとのこと。わたしはずっと、そうとはしらずに何年も、再会していたのだ。
 書くことで、こうした再会もあるのだろうか。それはあなたに、あるいはいつかのわたしに手紙をかくことではなかったか。過去ばかりではなく、未来の、それを読むだれかへ。明るさが青い印象とともに、ふきこんできた。
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2012-01-05

たまには生まれた場所を訪ねてはじめよう

 わたしは世田谷の豪徳寺で生まれました。小学校にあがるぐらいまで住んでいました。平屋でしたがアパートです。庭がひろかったことをおぼえています。
 けれども父は亡くなっており、母に聞いても、場所をまったく覚えていないといいます。ですから、何となく、それが具体的にどこにあったのか、知ることをずっとあきらめていました。
 周りのことは、これだけは覚えていました。今は緑道になっているのですが、当時は川が近くにながれていたこと。その川岸をとおって駅にむかったこと。
 ここ三年位で、また世田谷、同じ小田急線沿線にすむようになりました。成城学園前です、こちらも実はなつかしい地名なのです。成城学園前行きのバスの途中に、祖母と伯母が住むマンションがありましたから。
 成城学園前駅から、新宿方面に各駅停車でむかう途中のことです。二年ぐらい前でしょうか。豪徳寺駅の看板で、幼稚園の名前を見ました。それはとても聞き覚えがある、なつかしい名前でした。創立年も書いてあったのですが、わたしが生れるずっと前です。そうなのでした、わたしはこの幼稚園のすぐ近くに住んでいたのです。もしかして、行く筈だった幼稚園です。けれども、おそらく貧乏だったからでしょう。いかずじまいの幼稚園でした。幼稚園にいかなかったこと、今でも、とてもよかったと思っています。ひとりで遊べましたから。すきなだけ想像ができました。もっともそのせいか、すこし学校にそぐわない子になったかもしれませんが…。
 ともかく、これをたどれば、家がわかるかもしれないと思いました。けれどもたどることなく、数年がたちました。どこかで謎のままにしておきたかったのかもしれません。知ることで想像がすぼまると思っている? けれども、もしかすると、まだ未定なのですが、近々、あるいは数年で、世田谷から離れてしまうことになるかもしれません。そんな状況が、この謎のままにしておくという状況を、変えた方がいい、と思うようにもっていったのでしょう。そして丁度、最近、『小田急沿線 自然ふれあい歩道』という小田急電鉄が作成した無料マップを駅でみかけました。なにげに開きます。豪徳寺駅コース…。それをみていたら、とたんにわたしが住んでいた場所がわかってしまったのです。川岸(北沢川)にそって歩いたのち左にまがる、幼稚園のむかい…。わかった時、謎がとかれてしまったというなにか喪失感もありましたが、同時にあたらしい記憶の獲得として、うるものもあり、ほっとしたようなうれしさもこみあげてきたものでした。そして後者のほうが、大きかったのです。知ることはやはり喜びでした。
 ここ数年、毎年、正月は豪徳寺駅から降りた世田谷八幡宮に初詣に出かけています。その折に出かけることにしました。
 ところで、世田谷八幡宮もまた子どもの頃の記憶にあるところです。というよりも、数年前、そうとは知らずに訪れて、境内にある土俵を見て、思い出したのでした。この土俵では江戸三相撲の一つとされる奉納相撲が行われていたのだといいます。わたしはこの奉納相撲を小さい頃にみたことがありました。お祭りのにぎわいがあたりをつつんでいました。周りには屋台が出ていました。縁日です。和紙でできた小さな唐傘のおもちゃを買ってもらいました。舞妓さんのような女性が書かれていました…。そんな記憶が、この土俵とつながったのです。場所が記憶をひきだしてくれたことのです。そうかここだったのか…、びっくりしました。そしてそれはデジャヴにも似ていました。小さいわたしがいた場所なのですから、あたりまえなのですが、今いるここは、どこかでみたことがある、と過去のそれと今のそれが二重になっていったのでした。
 後日調べたのですが、いまでも近くの大学の相撲部により、毎年秋の例祭、九月十五日になると奉納相撲が行われているというので、わたしがみたのも、おそらくそれなのでしょう。
 そして二〇一二年の正月です。元旦です。家の近くの氷川神社でお参りをしてのち、電車に乗って豪徳寺駅、そして世田谷八幡宮へ。
 境内はお参りをする列で混んでいました。というよりも敷地内に入るまえから長い列ができています。やっと土俵の横にまで列がきました。右手にあるそれを横目でちらっと眺めました。子供二人と父親が相撲をとっています。子供の背丈は父親の腰ぐらいでしょうか。身体をかがめているので太ももあたりに一人づつ腕をまきつけ、押していました。
 並んだ列の左手に手水舎があります。ここの神社の手水舎の水は井戸水だということ、これは数年前に境内に書いてあったので知ったのですが、その時に、わたしが子供の頃、家の水が井戸水と水道水、ふたつの蛇口があり、庭には井戸があったことを思い出したものでした。今では、飲み水には適していないということでしたが、それでもまだこのあたりには井戸水があるのだと、うれしくなったものでした。そんなことを思い出しながら、龍の口から水をもらい、手や口をきよめて、また列にもどります。土俵のほうをみるともう誰もいませんでした。
 そしてやっとお参りの順番がきました。願いは…、いうとかなわなくなるでしょうか。いえ、そんなことはないでしょう。いつも何個か願うのですが、そのなかのひとつはいつも、詩が書けますように、です。詩をこの一年間、書き続けられますように。ほかは秘密です。
 お参りをしたのち、すぐ隣の豪徳寺(ほんとうにお寺のほうです、まねき猫で有名でもあります)にも寄りたかったのですが、もう暗くなってきてしまったので、そのまま当初の目的どおり、かつての家のあたりへ。
 いったん豪徳寺駅、世田谷線の山下駅あたりに戻ります。そしてかつての川、緑道へ。といっても山下駅をすぎたあたりからちょうど車道のようになってしまっていて、そうと知っていないとわかりません。そういえばここは以前、知らずにふつうの道なのだと思って通ったこともありました。
 この日、この下が北沢川なのかと、当時を思い出そうとするのですが、なかなか、記憶と重なりません。まわりも瀟洒なマンションがたちならんでいて、景色がまるっきりかわっていることもあるでしょう。たしかアパートやこじんまりした民家ばかりだったような気がするのですが…。そしてそこには汚れた川。茶色でしたか、灰色でしたか。コンクリートで護岸された、汚い川でした。そうして? わたしをこの川の橋のたもとでひろってきたのだと、父は笑いながらいったものでした。わたしがかなしげになるのをほほえましくおもっているのがよくわかりました。わたしはもちろん、どこかでそれがうそだとしっていたのです。しったうえで、それでもかなしくなる、それを父がすぐさまいやしてくれる…。この遊びは何回もくりかえされました。たいせつな遊びです。
 この川の道、というか緑道から、もうまもなく左に曲がろうというとき、一緒にいた連れが、道の右側をさし、ここにあったアパート(やはりきれいなマンションになっていたのですが)に学生の頃に住んでいたといいだしました。びっくりしました。今からめざす家とおそらく二百メートルも離れていません。彼が住んでいたのは、わたしが離れてから五年後ぐらいでしたし、その頃はもう川は暗渠になっていたということでしたが。家からみて、ちょうど向こう岸に住んでいたのでした。
 その彼のアパート跡をみて、もうすこしだけまっすぐ歩きます。公園があります。ここの公園の桜がきれいだったといいます。わたしは覚えていないのですが、なるほどりっぱな桜の樹がありました。
 公園までゆくとゆきすぎなので、もどって公園の手前で、すぐ左の小道にはいります。高架下をくぐります。当時高架下だったかどうかはおぼえていません。もしかするとちがったような気がします。線路に沢山の土筆が生えていたのをなんとなく記憶していますから。くぐるとすぐに幼稚園がありました。たぶんここです。まちがいありません。そしてこの向かい側に、家があったのです。今、そこにあったのは、なんと変電所でした。高い塀でかこまれているので、なかの様子はまったくわかりません。けれどもかなりの確率でここなのです。記憶からでしょうか、わたしのなかのというより、場所のなにかがそうだといっているのです。幼稚園もおそらく随分姿をかえているのでしょうけれど。変電所の塀のむこうに、大きな木が見えました。当時、緑が多かった記憶があります。この木はしっている木かもしれないと思いました。わかりません。
 帰りはちがうルートで豪徳寺、山下あたりに戻ります。お寺の脇をとおります。ちなみに幼稚園はこのお寺の系列です。この道沿いに、もしかすると、かつてよくかかっていた診療所があったような気がしたので。すこし行くと両側が墓地になりました。そうか、だからこの道はあまりとおった記憶がなかったのだ…となんとなく思い出します。いつも川のほうから駅にいっていたのは、そういうことだったのかと合点がいったような気がしたのです。けれどもこのほうは記憶が不確かです。なにせ、墓をとおった記憶がほとんどないのですから。
 診療所はみあたりませんでした。やさしい先生でした。けれども、当時いっていたであろう銭湯は発見しました。まだ富士山の絵は書いてあるのでしょうか。
 この日はひさしぶりに歩きました。ここちよい疲れでした。年初めに、生まれた場所を訪ねる、というのは、もしかすると悪くないかもしれません。
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2012-01-01

謹賀新年



あけましておめでとうございます。
毎年ベランダから初日の出と西の富士を拝むのですが、
今年は雲が多く富士はみれませんでした。
東の空、日の出の6時50分、
太陽は雲に隠れています。
数分、十分経過しても、見えそうで見えない…。
最初、そのことを残念に思ったのですが、
ゆっくりと形を変える朝焼けの雲、
椋鳥の群れが飛んでゆく、ヒヨドリが鳴いている、
太陽の出現をいまかいまかと焦がれる、
この期待感が心地よく、どきどき、
楽しいのだと思いなおします。
日の出から三十分ぐらいかけてようやく太陽を拝めました。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。








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