Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2012-02-26

生死を賭けた冒険をするために

今回は、尻切れトンボな文章たちを。次回からは通常にもどります。読んでくださる方、ごめんなさい。

●2月22日(水)
ツィッターで私の過去の呟きをリツィートして下さる方がいる。何だか分身が旅先から、いつか見た夢の中から言葉を発しているみたいだ。彼女は私から離れ、彼らと挨拶を交わし、私にも挨拶をしてくれる。もうすぐ終わるけど忙殺で日常に頭までどっぶりと浸かった私に、彼女は彼のおかげで非日常の風を送ってくれるのだ。

●2月17日〜25日

 2月17日、シネマ歌舞伎『天守物語』を観に行った。坂東玉三郎が最初に重厚な書斎のなかでスーツを着ている。すっと位置を変えるためだけに歩く。歩く姿がとてもうつくしい。力がはいらない。境目をあるくように軽やかで、姿勢がすずやかだ。そして泉鏡花の、この作品について語る。最初に見た時はおそらく五歳以下なのだろう。暗くてうつくしいと、映像的に思ったそうだ。それは大人になり、物語性があるものとして見れるようになっても、最初にみたイメージをうらぎらなかったといっている。
 そして印象深かったのは、こんなことだ。
 『天守物語』には、最初のほうで侍女たちが天守から釣りをするシーンがある。魚を釣っているのではない。白露をえさに秋草の花たちを釣り上げるのである。まずこれを変だと思わずに受け入れる事ができないと、鏡花の世界にはいってゆけない、ここで見る者を鏡花世界は選んでいるのだと、そんなことを言っていた。まるで美への入り口への番人のような侍女たちの花釣り。
 わたしは最初のこのシーンがとても好きだった。戯曲として読んだ初めての時、なんて美しい逸話なのだろうと思った。そしてうまくいえないが、これはありえない話かもしれないが、真の話なのだと思った。
 そういえば、『天守物語』のなかには、よく考えればおかしなところがあるだろう。生首をもってきているのに、どうして、まだその首の主は、あと数分で死ぬにしても、まだ生きて魚を食べているのだろう。それはちらっと思ったが、べつに気にならない。
 こうしたことをうけいれること。
 うまくいえないが、これは詩にちかい話だ。そしておそらく詩が抱える問題でもあるだろう。現実的な整合性がない。だが詩的整合性にあふれている。
 そうして、山田の案山子から借りてきた蓑をはおる富姫の姿は、「人間の眼には、羽衣を被た鶴に見える」。戦で後ろのほうで小さくなっていたであろう何代か前の城主の由緒ある兜よりも、白い美しい鷹のほうを「姫路の富」だという…。この基準の潔さに惹かれる。
 シネマ歌舞伎、本作のほうも、美しいしきたりだった。暗くあでやかで。

●2月23日(木)
先日BSたまたまつけたら「レインマン」が。好きな映画だった。途中からだったけどやっぱり良い。最後のロード・ムーヴィー的な映像。兄がレインマン、弟がメインマン(親友)。レインマンは兄レイモンドの“レイ”でもある。音たちが響きあうことで世界が拡がる。なんだ詩の話じゃないか。

●2月25日(土)
  今週は、とても、昼間の仕事が忙しかった。
  ふしぎなことに、現実にどっぷりつかっていて、
  こんなふうに、あたまがつかれて、家に帰ってきて、 
  詩とかなにか、美というか、非日常というか、想像とか、
  そうしたいつものわたしのほんとうの大切なものたちに
  むかわないといけないのに、とてもむかう気がおきない…。
  やっとの週末、家では、ネットでくだらないもの、検索したり、買ったり
  (ウィンドーショッピング?)
  漫画よんだり、せっかくの時間をむだにして…。
  むだにした不毛な時間で、ゆっくり頭をやすめているのかもしれないが。
  そんなことせずに、さっさと、詩の場所へゆけばいいのに。
  ゆけないのです。なんでだろう。
  詩の場所は、逃げ場ではないから、かもしれない。
  そこにむかうのも、エネルギーがとてもいる。
  不毛だと思う無駄な時間のなかでゆっくりと現実のつかれ、
  現実にまみれたものへむかっている頭のはたらきが、
  発酵し、ちからをたくわえていっているのかもしれない。
  けれど、この罪悪感はなんだろう?
  罪悪感が、たまって、そうして、もしかしたら
  詩にむかってなにかをおしあげてくれている?

ツィッターをすこしだけ見た。
エンデのつぶやき。
「ポエジーとつきあうことは、良家の子女が日曜の昼下がりにするお遊びではありません。なぐさめや楽しみの源泉ではなく、生死を賭けた冒険なのです。『だれでもない庭』」

●2月26日
シネマ歌舞伎は『海神別荘』『高野聖』もチケットを買った。冒険のために。ルドン展のもだいぶ前からあって、まだ見ていない。来週末から現実はすこしだけ息をつく。さっき、書きかけの詩をみた。こんなこと思うのはあほみたいだが、いいことばたちだった。この子たちと、今日はこれから、むきあいたい。むきあおう。来週末過ぎたら、海にもいこう。ここから一本で海にゆけるのだ。終点には春の波。
14:18:22 - umikyon - No comments

2012-02-15

孤独でない場所

ちょっと原稿で、書いたことから…。派生して、離れて、あまり離れずに。

詩を書かない自分を想像してみる。
奈落の底や、蟻地獄に落ちた自分の姿が浮かび上がる。
それはもうずっと、詩を書き始めてから
変わらない映像、というか感覚。
それは圧倒的な孤独だ。
以前は、この穴に落ちた感触がリアルで恐ろしかった。
今は、だいぶ薄れている。
それは、古い映画を観るような郷愁がそこに混ざっているからなのだろうと、
原稿を書いているときは思った。今までずっと慣れ親しんだ映像だから。
確かにそういった面もあるだろう。
けれども、
もしかすると詩を書かない自分がもはや考えられない、ということも
含んでいるのではないのか、とはたと思った。
だから、詩を書かない自分を想像しにくくなってきたのではなかったか。
それでも、わたしは想像する。
圧倒的な奈落、蟻地獄、もがいても外にでれない。蟻地獄すらいない。
ひとりだ。

「わたしは書きたいから書くのではない。習慣によって書くのでも、意思によって書くのでも、仕事だから書くのでもない。わたしは生き延びるために書いてきた。口を閉ざして語ることのできる唯一の方法だから書いてきたのだ。無言で語ること、黙して語ること、失われた言葉を待ち受けること、読むこと、書くこと、それらはみな同じことだ。なぜなら、自己喪失とは避難所だから。」(パスカル・キニャール『舌の先まで出かかった名前』)

わたしはこの言葉をわたしのなかで発酵させ、ずっと、そばにいてもらっている。
わたしもまた生き延びるために書いているから。
それは繋がりをもとめてのことだとずっと思ってきた。
他者との。
接点。

他者との接点をもとめてるなら、もっとわかりやすい詩をかいたほうが…。
あほなことをいわれたことまでおもいだしてしまった。
閑話休題。

わたしは蟻地獄に陥らないために書いてきたのだ。
生き延びるため、それはつまり、書いているときは孤独ではないからだ。

「なぜ私は一生よそ者なのか。ここが我が家だと思えるのは、まれに自分の言葉が話せた時だけ」。
またこの言葉を引用する。『永遠と一日』、テオ・アンゲロプロス…、
亡くなってしまった…。

惹かれたのは、そうなのだ、そこにこそ接点があったからなのだと。

今朝、電車の中で、ちょうど私が生れたあたりの駅のプラットフォームを車窓から眺めながら、こんなことを思った。
昔、なにかが突然、ひらめくようにわかったときのうれしさがあった。それは概ね、街をあるいていて、たとば、こんなふうに電車に乗っていて、突然。すべてがみとおせたのではないかというほどの感動がおしよせてくることがあった。
おおむね、18歳ぐらいのときが最初だったと思う。
なんどか、そんな幸福感がどこかにつれてゆくような
感動の瞬間がおとずれたことがある。
  今は、街にいるとき、あの圧倒的な感動はない。
  せいぜい、こんなふうに電車のなかでぼんやり、ここちよく、思い到るばかりだ。
  あるいは、たいていは、書いていて、書くことで、ひらめくように、なにかが…
  たいてい書いているものと関連があることが、すこしだけわかる。
  あたりがすこしあかるくなる。それはささやかかもしれないが、
  おだやかで、たいせつななにかだ。
  圧倒的な熱情的な恋人たちが、いたわりあう温もりのかわきを
  ただよわせる二人に変化したように。

あるいは書くことで再会する、といったこと。
本について書く。絵について書く。あなたについて書く。
そうすると、また会えるのだ。印象に残ったこと、感動したことが
また帰ってくる。

原稿で書いたのは、蟻地獄の箇所、あたり。
すこしだけ、書くことで、またどこかへいったのだった。
原稿から離れて。
たくさんは離れずに。

書くこと…。こうして文を書くことと、詩を書くことが
じつはここではごっちゃになっている。
離れてはいるが、離れてないものとして、
ゆるしてください。

ああそうだ、孤独でない場所、というのは、
書くことでまたあなたと会えるからでもあったのだ。
21:56:47 - umikyon - No comments

2012-02-05

正しい名だけが、想像する(エンデ、山種美術館)

 ツイッターでミヒャエル・エンデや寺山修司、梶井基次郎、パウル・ツェラン、宮沢賢治、ランボーが呟いている…。各人の作品から、ボットという機能で自動的に機械が呟いているらしいのだけれど、まるで本人がふっとつぶやいてくれているようで、すこし楽しい、うれしい。
 ミヒャエル・エンデの呟き。〈どの人間にも遊びたい子どもが潜んでいる 『エンデのメモ箱』〉〈ポエジーとは人間の創造力だ。常に新しく、自己を世界の中で、世界を自己の中で経験し、再認する能力である。だからこそ、どのポエジーもその本質において、”擬人観的”なのだ。そうでなければ、それはポエジーではない。そして、まさにこの理由において、ポエジーは子どもらしさと同族なのである。〉
 エンデは元々、割と好きな作家なので、机の近く、お気に入りの作家のコーナーに彼の本がしまってある。ツィッターで彼がつぶやいているのをみて、つい『はてしない物語』(岩波書店)を再読しはじめた。映画『ネバー・エンディング・ストーリー』の原作本でもある(ただ知らなかったが、筋やキャストのことでエンデと映画製作側で裁判沙汰にまでなったものだそうだ)。
 読んでみると、細かいところは殆ど忘れていたことに気づく。はじめて読んだ…とまではいかないが。
 まだ途中だけれど、やはり大切ななにかが芯としてある。そのまわりをたくさんの想像がまわっているのだ。空想はつかいかたをまちがえると偽りになってしまう、虚無から偽りが発生し、現実世界を侵食する、それと同時に想像の世界(ファンタジーエン)の虚無もますます拡がる…。それを救うには、現実世界(人間の世界)の住人が、ファンタジーエンを統治する女王(幼な心の君…この呼び名も意味深である。「ポエジーは子供らしさと同族なのである」から)に正しい新しい名前をつけることだけである…。
 〈ポエジーとつきあうことは、(中略)なぐさめや楽しみの源泉ではなく、生死を賭けた冒険なのです。『だれでもない庭』〉。想像世界と現実世界は密接につながっているのだから、そこでは真摯に冒険をのぞむべきだ。
 映画と原作者との確執の原因は、主に想像世界が安易な逃げ場のように使われたことによるらしい(それだけではなかったけれど)。
 私は映画は一作目しか見ていないけれど、物語の中の人物である病身の女王、幼な心の君に、それをまさに読んでいる少年が名前をつけることで、物語世界が虚無の世界から救われる、そのシーンにとても魅了されたことを覚えている。現実と想像世界はこんなにも近しいのだと。

 先日、山種美術館の「ザ・ベスト・オブ・山種コレクション[後期] 戦前から戦後へ」(二〇一二年一月三日〜二月五日)に出かけた。前期展のほうも観ていて、十一月二十五日のここで書いている。…二か月位しか経ってないのに、何を見たか、何を書いたか殆ど忘れてしまっていた。話は飛んでしまうけれど、後期をあらかた観終わって、ミュージアムショップを覗いた時、好きな作品のグッズが目立つような場所に置かれていたのだが、それが前期展に出展されているから、そのような場所にあるのだということに全く気付かなかった。これを書いている今、調べたことでようやく思い出したのだった。
 後期展。もう会期終了間近だったこと、あるいは時間帯も遅い午後だったせいか。前期展の時よりも随分混んでいた。混んでいるのはまだしも、絵の前で能書きをたれる人たちはどうも…。静かにみてほしい。それでも混んでいることをどこかで喜ぶ気持ちもあった。こんなふうに絵を見に来ることは、いいことなのだ。美がわたしたちと関わりをもっているということは。ある一枚の絵の前で口をあけて、目をみひらいている女性がいた。夢見るような表情だった。



 その絵というのは速水御舟《翠苔緑芝》(一九二八年)。前にここで、速水御舟展か何かで見たことがあったのだが、それほど印象に残らなかったような気がする。四曲一双の屏風。琳派的な構成で、地が金である。右隻に、琵琶の木などの生えるこんもりとした苔の上に、右方向に頭がきた、横向きに丸く座った猫、右下につつじ、左隻に小山のようになった紫陽花、その左下の苔のうえに二羽のうさぎ。一羽は草をはみ、一羽は右をむきながら耳をふせてねそべっている。猫も頭が右方向にあり、つまり左隻と逆にあるのだが、顔を左にむけているので、うさぎと猫はもしかすると目をあわせているのかもしれない。紫陽花が間にあるので、わからないけれど、なんとなく目で左と右を繋いでいるような気がするのだ。どちらも小さく描かれている。空間、金のおびただしさに、ちいさな気配となって、それがまたそこにひきつけられてしまうのだった。ちょうど人の眼にくぎづけになってしまうように。
 黒い猫の毛がやわらかそうだ。というよりも両足をおりまげてすわったその身体つきがやさしい弾力をもって感じられる。うさぎもそうだ。ねそべったうさぎ、耳をぴんとたてて草をくわえたうさぎ、ともにしろいやわらかさとしなやかさをかんじる。それはおそらくあたたかいものなのだ。翠の苔のひんやりとしたイメージと対になって、わたしたちにせまってくる。雨あがりのような質感をたたえた紫陽花、堅そうな琵琶の実。
 そう、この絵に、以前はそれほどひかれたおぼえがなかったのだが、今回はおもわず何回も観に戻ってきた。その何度目かの時に、前述の女性を見たのだった。彼女もひかれているのだろう。そう思ってうれしくなったのだった。



 これは第一展示室。それよりも小さな第二展示室には、入り口とミュージアムショップがある通りを通らなければいけない。なにかが分断されるようで、いつも奇妙だ。ミュージアムショップを第二展示室といれかえれば、そんな分断がなくなるので、いいのかもしれないが、そうすると奥まった場所にショップがくることになるので、商売としてはよくないのかもしれない。と、わたしもここで分断するように書いている。第一展示室に戻ろう。ここではあと一枚だけ、簡単に。上村松篁《白孔雀》(一九七三)。横長、金のまじった地、画面上に黄色いハイビスカス。その下に尾がとても長い白孔雀。顔も冠もとても小さい、尾が羽根ペンのようだ。全体に白さが輝いている。銀かなにかがまじっているのかもしれない。それは夢のような白だ。夢幻を実体化したらこのような色彩になったのではなかったか、といった白なのだ。



 実は第一室には、奥村土牛など、以前みて心に残った作品もあったのだが、今回はなぜか響くものがなかった。人が多かったせいかもしれない。
 分断されるなと思いながら…それが嫌なら出入り口の細い通路だけを通ればいいのだが、それもさびしい…刹那、楽しい逡巡をして後、ミュージアムショップへ。《白孔雀》の絵葉書があった。後で買おうと思う。御舟作品は、実はほとんど絵葉書類ならもっているのだ。それに《翠苔緑芝》、長細い絵葉書で折り目がついていて、ミニ屏風みたいになるもの、猫のいるほうの右隻のマグネット、猫がアップリケみたいに刺繍された苔色のタオルハンカチなどがうちにある…。思い浮かべ、この絵は以前はそれほど好きじゃなかったのではなかったかと苦笑する。後で家に帰ったら、さらに猫のあたりをメインにした絵葉書などもあった。
 第二室は「山種美術館と速水御舟」として、彼の作品が七点、そして弟子であり親戚でもあるという吉田善彦の作品《尾瀬三趣のうち 池塘の晝》(一九七四年)。これはほ一面が緑で、その濃淡で木々と尾瀬の水を現わしていて、モネの絵を想起させた。けれどもこの作品は、実は出口にある、最後の作品。速水御舟は…。そういえば書き忘れていたが、わたしは彼の絵が好きなのだ。一八九四─一九三五年。〈東京浅草に生まれる。従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作「炎舞」のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、「名樹散椿」(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。一九三五年(昭和十年)三月二十日、腸チフスにより急逝。四十歳没。〉(ウィキペディアより)
 速水御舟、最初は《春昼》(一九二四)。藁ぶき屋根の家が大きく描かれている。入口の戸があいており、屋根の縁と戸口あたりに小さな山鳩。それだけなのだが、屋根がうっすらとひかって、春のあたたかさにぼんやりとかすんでいるようだ。やさしい感じがただよい、ひだまりがつたわってくる。
 そして隣に《百舌巣》(一九二五年)。これは絵葉書でみて、実物が見たかった作品。丸い巣の右上に百舌が二羽ちょこんとのっかり、二羽とも右をみている。目がこわいぐらいだ。比べて巣には真白い羽根や茶色い羽根がまだらに落ちているか、のっかっていて、それがやわらかさをかもしている。こわさとやさしさが共存し、緊張感を高めている。



 そして《紅梅・白梅》(一九二九年)。双幅の掛軸で、向かって右がごつごつとした枝(古木である)の紅梅で、画面下にある。なにか大地と連結したものを感じる。左が白梅、画の中よりの左端から枝がすっくとのび、薄茶色の地に、消え入らんばかりに白い花が咲いている。画面右、枝にかこまれるように、きれそうなぐらい、ほそい三日月。出光美術館所蔵の酒井抱一《紅白梅図屏風》も構図などはちがうけれど、やはり紅梅がごつごつとした老木で、白梅がすっとのびた若い木だった。なにかきまりごとがあるのだろうか。白梅のほうはどちらも夢幻に近いようだ。御舟のそれは、細長い画面の上へむかってのびた白梅が、よりいっそう空をめざしているように思う。細い、きれそうなぐらいな月と、ほそくのびた枝が、呼び合うように夢だった。その呼び合いは、共鳴しつつ、空にむかう。紅梅の地底からの響きをたずさえて。それはこじつけであるだろうか。紅梅が現実で、白梅が想像世界で…。そうではないかもしれない。そして、酒井抱一の時も白梅にひかれたものだったが、速水御舟のもやはり、白梅にすいこまれそうになる。それが想像世界にちかしいから? いや、実際の梅でも白梅が好きだからでもあるだろう。白のほうがやさしい感じがするからかもしれない。そういえば、もうすぐ、わたしが生れたあたりの公園では梅まつりが開催される。春のなかで梅自身がわたしが白梅に惹かれる理由をおしえてくれるかもしれない。



 第二展示室には蛾が火の上で舞う《炎舞》もあったが、前にも書いたし、今日はそれほどひかれなかったので(それでもあの焔の明るさ、ぱちぱちとはぜる音がきこえてきそうな鮮やかさにはやはり目をうばわれたが)、このぐらいにしておく。
 第二室も観終わり、すべて一応見たことになるので、またミュージアムショップにゆく。絵葉書を数枚買い、《翠苔緑芝》の猫のハンコを買ってしまった。無駄遣いだよなあ、馬鹿だなあと思いつつ。手紙やなにかに押すことを夢想して。それも偽りではない想像に近しいのでは…と、こじつけのように『はてしない物語』を思い出したり。
 〈「正しい名だけが、すべての生きものや事がらをほんとうのものにすることができるのです。」幼なごころの君はいった。「誤った名は、すべてをほんとうでないものにしてしまいます。それこそ虚偽の仕業なのです。」〉(『はてしない物語』)。
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