Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2012-03-25

非日常と日常の間を白桃が漂う──シネマ歌舞伎『高野聖』


 あいかわらず、といっていいのか、心がだれている。沈んでいる。だがこういったことは書いてもつまらないので(読むほうも、書く方も)、ここでは(多分どこでも)書かない。

 またシネマ歌舞伎『高野聖』を観てきた。「坂東玉三郎 泉鏡花抄 三作品」、これですべてを観たことになる。もう見れないと思うとすこし淋しい。
 また、坂東玉三郎が鏡花作品、そして『高野聖』について語るシーンからはじまる。
 < 女は、僧の宗朝と女の身の上を語る親仁の二人の描いたイメージでしかない。イメージのよりあわせた真空のようなもの。
 細胞をずっとみつめていると宇宙になる、鏡花の世界というのはそういうものだと思うんです。集中してみつめるように書いていると、そこから世界が拡がる。
 『高野聖』は小説です。映画を観終わった人が、小説を読んだときの印象とおなじものを感じてくれたらと思いました。小説どおりではない。ただ読み終わった印象と舞台のそれがにているのだと。
 舞台に映像をかさねたり、よったりすることで、舞台ではできないことができました。 >
 最後のこれは、『高野聖』は前の二作のような舞台公演の収録ではなく、舞台を映画用に撮影したものに、ロケーション素材などを一部使ったことについて語っている。たとえば、映画はそうはいってもほぼ舞台が中心なのだが、宗朝が森をさまようときなどは実際の森の映像であったり、最初と最後で、読経をする僧侶たちと、宗朝の立っている姿がだぶったり、そうしたことについて語っているのだった。
 『高野聖』、私は戯曲だと思っていたが、よく考えてみれば、確か、高野聖となった、大和尚の中年の宗朝が旅先で知り合い、一緒に宿をとった男に、自身の経験を語るという趣向なので、戯曲ではないのだったなと思う。多分、このシネマ歌舞伎や、実際の歌舞伎舞台でもやっているし、あちこちで演じられている記憶があるので、『天守物語』『夜叉が池』のように戯曲だと思ってしまったのだろう。
 あらすじは、勧進の旅をする、若き僧侶、宗朝(中村獅童)が、道に迷い、山奥の孤家にたどりついき、その家の主の妖艶な美女(坂東玉三郎)に一夜の宿を乞う。家には、目もうつろで足が立たない次郎という男、そして厩の馬を売りに行くという親仁。最初は美女は拒もうとするが、気を取り直して優しくもてなす。湯の代わりに谷川で身体をあらうことを勧め、案内をしてくれる。谷川で宗朝が洗っていると、美女が自ら裸になり、身体を洗ってくれ…。宗朝は身体を固くしてやんわりとふりはらって、家に戻ると、留守を頼んでいた親仁がびっくりしている…。よく人間の姿で戻ってきたと。夜、美女が次郎にやさしく世話をしているのをみて、宗朝はほろりと涙をする。夜中、寝ていると、先に谷川でまとわりついてきた猿や蝙蝠、獣たちが集まってきているよう、女の声もする、「お客様があるじゃないか」…それは悪夢のようにもみえる。障子の影に獣たち。宗朝は必死に経をとなえる。朝になり、女と別れるが、このまま女の元で暮らそうと、道端の岩に座って考えていると、馬を売った帰りの親仁がやってきて…。
 宗朝は中村獅童。現代劇で何回か見たことがあるが、やはりとてもうまい。躊躇いや、逡巡、そして朴訥で、純な気持ちを持っている姿をよく現わしている。ところで森で迷うシーンで蛭に血を吸われるというのがあった。あれはリアルで、怖さが身に迫った。原作も、あのシーンは、怖くて、というよりも気持ちが悪くてよく覚えていた。ぬめぬめとしたものが首や足にのたうち、血を吸ってふくらんでゆく。森の中で雨のように降る蛭は牛や馬も殺すという。これが印象どおりということなのかと映画を思い出して、ふとほほえんでしまう。もっともそれだけが印象どおり、というのではなかったけれど。




 予告編でも見た、美女が宗朝の身体を洗うシーン。後で読んだ原作とは幾分違っていたが、それも裸を極力見せないためであろう。それはまったく気にならない。ともかく、水に肩まではいった宗朝の後ろから裸の美女が手で彼の身体をなでる。なでて洗う。後ろからだきつき、宗朝の肩に首をもたせかける…。そのシーンの壮絶なまでの美しさ、そして淫らさ。白い手と白い女の肩のなめらかな動き、とまどう宗朝の緊張もつたわってくる。洗い終わり、自分も身体を洗いならが女がいう。「まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落っこちたらどうしましょう、川下へ流れて出ましたら、村里の者が何といって見ましょうね」。宗朝「白桃の花だと思います」。わたしは原作のこのシーン、この白桃のくだりが好きだったと思い出す。家に帰って読みなおすと、さらにこんな箇所が、女の言葉の前にあった。「手をあげて黒髪をおさえながら腋の下を手拭でぐいと拭き、あとを両手で絞りながら立った姿、ただこれ雪のようなのをかかる霊水で清めた、こういう女の汗は薄紅になって流れよう」。ただ、読んだときの印象だと、白桃のところでは、女の美しさばかりに気をとられていたが、映像でみて、それよりも、宗朝の純粋な心根に気づかされた。正しくは、というかどれが正しい読みなのかわからないけれど、女の美しさ、そして男の心の美しさを表している、その両方を感じ取るべきなのだろうけれど。
 あとで他で玉三郎のインタビュー記事を読んだ。二人の入浴シーン、これは寄りをつかっている、映画ならではの効果だったという。舞台だと暗いし、遠くて見えにくいから。「宗朝(中村獅童)と彼に宿を貸す女(玉三郎)との岩場の湯浴みシーンは皆さんご覧になりたいでしょうし(笑)。」(映画.com(http://eiga.com/movie/57390/interview/)より)。
 ところで、このシーンを館内で見ていた時、不思議なことがあった。花の匂いがしたのだ。フリージア、ミモザ、薔薇…。白桃の匂いではなかったけれど、花の匂いがなにか映像と重なってわたしに届いたのだ。それは劇場の演出かと一瞬思ったけれど、だったら白桃の匂いとかであろう。そうではなく、タネをあかせば私がつけている香水の匂いが、自分の首筋から匂ったのだ。もっとも、なぜか普段は殆どそれを感じないのだけれど。嫌いな匂いの香水をつけると匂いが気になって仕方がないのだが、好きなそれは残念ながら、殆ど、匂いがわからなくなってしまう。ただ、白桃のシーン、そして帰り道でめずらしくその匂いがわかったのだった。
 『海神別荘』の時に、玉三郎が、最初のシーンで「鏡花は、きれいなもの、美しいものとそうでないもの、間違ったものを、きっちり分けていると思うんです。その狭間に例えば警吏とか医者とかがいる。彼がそうした人たちを好んで描いた。職人なんかもそうかもしれない。職人は芸術家に近いから」といっていたが、今回のそれにもあてはまるだろう。女が住まう世界は、一見美しそうだ。ただそれは異世界の話だ。それはおとぎ話の分け方に似て、非日常に住む者の美しさだ。つまり、女の世界、女には、美しさの裏に殆ど悪といっていい魔がひそんでいる。チラシにも<魔性と聖性の二面性を持つ女とのやりとりから、恐ろしくも美しい世界が描き出されます>とある。
 宗朝には煩悩はあった。といっても、私にはどれが煩悩なのか、わからなかったが。女と暮らしたいと思う心が煩悩だったか。愛欲の生活、という心根は殆ど感じられなかったから。とにかく煩悩し、惑うことはあったが、美しい心の持ち主だったから、魔にひきこまれずに済んだ。そしておとぎ話のように、非日常の世界から、日常の世界へと宗朝は帰ってきた。美しいものと汚いものを分けている、鏡花は、つまり日常が汚いとはいっていないのだ。「心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。」(『海神別荘』)ただ美しさがわかるものが、限られているといっているばかりなのだ。そしてその者こそ、宗朝のように、非日常の世界へゆける、あるいは日常で美を認められるのだ。
 また先にあげたインタビューに、『高野聖』は比較的鏡花の中では若い頃の作品で、晩年のそれよりも女性の輪郭が明確でない、「主人公はどうとでも想像できる女性です」とある。これは後年の『海神別荘』『天守物語』と比べてもそうだろう。後者二つは、異界はほぼ美しい、正しい世界であるが、『高野聖』は美しさと、殆どけがらわしいとすらいっていいものが、表裏一体でそこにあるから。
 それを体現した美女の玉三郎の妖艶さ、そして気高いまでの神々しさ。ところでさきほどから、何が魔の部分であるのか、書いていない。ネタバレになるからだ。それは、女の元に戻ろうかとためらう宗朝の前に現れた親仁の口から明らかにされる…。興味を持たれた方は、シネマ歌舞伎、あるいは原作を。けれども入浴シーンはその魔の部分を妖しく描いていた。そして白桃で、聖性を。誘うほどに淫らな姿と白桃のような清らかさ。

 映画をみた日は雨だった。次の日、公園をとおりかかると、紅梅の花がひときわ香りをはなっていたが、前日までの雨で花びらが大分散っていた。地面に丸く桃色の円。根元近くに立った。まだ枝には花が沢山残っているので、上も下も花が咲いているよう、匂いとともに紅梅に包まれているようだった。そうして白桃の花を思い出したのだ。匂いも花もちがうけれど、こんなふうに包まれたのではなかったかと。シネマ歌舞伎『高野聖』では、女と宗朝が別れる時に、きっぱりと(とシネマ歌舞伎、とわざわざ書くのは、小説のほうでは、きっぱりとではなく、女のほうが一緒に暮らそうとか、誘ってもいるからだ。映画のほうでは、もう二度と会えないと、淋しげではあるが、彼を突き放す)、「再びお目にはかかられまい、いささ小川の水になりとも、どこぞで白桃の花が流れるのを御覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったと思ってください」という。宗朝がたとえた白桃の花を、今度は女が使う、その、心の通い合いに、さらにひかれるのだったが、そんな花を思い出したのだ。
 公園を抜けると川沿いの散歩道に出る。川は野川だ。川のまん中あたり、向こうから白鷺が飛んできた。自転車の私とすれ違う。速度が殆ど同じだった。交差する瞬間、なにかが共鳴したように思った。あるいは共有。まるで白桃のような白鷺。振り返らずにそのまま進んだ。鷺はおそらく水辺に降りているだろう。


※『高野聖』は三月二十五日の段階でまだあちこちで上映しているが、詳細は「シネマ歌舞伎」(http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/index.html#lineup)を参照下さい。他の作品も、東京の東劇では四月十四日から追加上映されています。
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2012-03-15

海の中の、一輪の月に照らされて。『海神別荘』

 シネマ歌舞伎『海神別荘』を観た。前回の『天守物語』と同じく、また坂東玉三郎が書斎のようなところで作品について語る映像から始まる。「鏡花作品を初めてみたのが昭和三五年…」。彼はいくつなのだろう? 年齢がわからない。というか、そうしたことはどうでもよくなる。年齢を超えて生きているような、演者としての美に満ちている…。「光のなかにくすんだものがある。けれども最後はまばゆい白い光となる。鏡花の作品にはそんなイメージがありました」「鏡花は、きれいなもの、美しいものとそうでないもの、間違ったものを、きっちり分けていると思うんです。その狭間に例えば警吏とか医者とかがいる。彼がそうした人たちを好んで描いた。職人なんかもそうかもしれない。職人は芸術家に近いから」「鏡花のト書きは、鏡花の詩なんです。理想を描いている。だから全部それに従わなくてもいい。もちろん近づこうとはするのですが」「美女を演じて一番難しかったのは、俗世の虚飾から目覚める瞬間でした」「(好きなシーンは、の質問に)人間には美しさが分からない、詩人、画家だけがそれを認める、というところ」…。印象に残ったのは、こんな言葉たちだ。

 『海神別荘』、ちくま文庫の鏡花全集で読んだことがあるのだが、原作のほうはもう随分前に読んだきりのようだ。手に届くところにない。ただ波津彬子の漫画の『海神別荘』(『鏡花幻想』所収)はすぐ手元にあったので、それで慣れ親しんでいるつもりになっていた。漫画は原作を多少、端折ってはいるが、ほぼ忠実なので、なんというか、てっきり原作のほうも、すぐそばにある気がしていたのだ。なぜ、そんなことをいっているかというと、海の中の琅玕殿(ロウカンデン)の公子、チラシや宣伝でも〈海に捧げられた美女は海底で無垢な魂と出逢う〉と、無垢な魂の持主だと書かれてあるのだが、今回、シネマ歌舞伎を観て、その魂の美しさに、はじめてではないかもしれないが、新鮮な驚きがあったので、慣れ親しんだと思っていた自分に、恥じいってしまったから。公子の魂の美しさを表現するシーンは、漫画にもあったというのに、これは私の見方の問題なのだろうけれど、その大事なところを素通りしてしまっていたことに、気づかされたのだった。
 あるいはやはり、本編に先だって玉三郎が語っていたことが心に残っていたのかもしれない。公子は、人間にはわからない(詩人や芸術家だけがそれがわかる)、海の美しさ、陸の美しさ、両方ともわかっている、そんなことをいっていたと思う。そして、きれいなものといった、その美の世界に、公子がいるのだと、本編で、思い知らされたというべきか。それは台詞、つまり鏡花の原作の力でもあるが、公子を演じる市川海老蔵の、その演技の仕方にもよるのだろう。威厳がありつつ少年のような純粋さがあふれている。潔癖かつ、絶対的な審美眼があり、いさましい。かつ可愛らしい。まさに無垢な魂といっていいありさまなのだ。ひとりあそびをする子どものような澄んだ美しさが満ち溢れていた。
 対して美女である玉三郎は、さきのたとえでいうと、姿はうつくしいものであるけれど(配役名も「美女」とあるだけで名前がないし)、心根は、そうでもない。というかまだまちがえたもののほうに、ゆれている。あとほんの一歩で、うつくしいもののほうにゆく、そんなぎりぎりのところにある存在として描かれているようだ。それが最後には美に、海の世界の住人になる…。
 公子の、というよりも海の世界の住人である人たちの美しさ。美女の父親は、魚や珊瑚など海の幸と引き換えに(公子は結納といい、僧都は身代という)、美女を海に捧げる。公子のもとに腰入れしてくる美女の姿が、嫁入りというよりも、市中引き廻しの罪人の姿に似ていて、不祥ではないかと海の僧都がいい、公子は博士に調べさせる。公子には引き廻しが罪であるとは思えないのだ。「槍で囲み、旗を立て、淡く清く装った得意の人を馬に乗せて市を練って、やがて刑場に送って殺した処で、──殺されるものは平凡に疾病で死するより愉快でしょう。──それが何の刑罰になるのですか。」近松門左衛門のおさんや、井原西鶴の「好色五人女」のお七が刑場に向かう姿を博士が読む。ここでは書かないけれど、そのくだりはたしかに美しい。「分りました。それはお七と云う娘でしょう。私は大好きな女なんです。ご覧なさい。どこに当人が嘆き悲みなぞしたのですか。人に惜まれ可哀がられて、女それ自身は大満足で、自若として火に焼かれた。得意想うべしではないのですか。なぜそれが刑罰なんだね」ちなみに、お七は公子の姉である乙姫に引き取られる。その時の描写がいい。「姉上は御覧になった。鉄の鎖は手足を繋いだ、燃草は夕霞を置残してその肩を包んだ。煙は雪の振袖をふすべた。炎は緋鹿子を燃え抜いた。緋の牡丹が崩れるより、虹が燃えるより美しかった。恋の火の白熱は、凝って白玉となる、その膚を、氷った雛芥子の花に包んだ。姉の手の甘露が沖を曇らして注いだのだった。そのまま海の底へお引き取りになって、現に、姉上の宮殿に、今も十七で、紅の珊瑚の中に、結綿の花を咲かせているのではないか」



 この台詞をいう公子(市川海老蔵)の誇らしげで、夢みるような表情もよかった。結局陸のことはやはりよくわからないけれど、刑罰ではないだろうということで話はおちつく。
 漫画で読んでわからなかったのは、読むこちらが絵に頼りすぎ、台詞から言葉を想像することをおろそかにしたせいもあっただろう。ただ、今の箇所を漫画で読むと、お七のくだりはほどんど省略されている。そのかわりに、引き廻しにされた姿、姉とお七の絵がある。シネマ歌舞伎、というか舞台のほうは、当たり前かもしれないが、台詞は見事に忠実である。そしてお七のところでは、別にお七や乙姫がでてくるわけではない。公子が夢みるような表情で、それを語るのを聞くだけなので、わたしたちは彼女たちの姿を想像することができる。いわばそうすることで、わたしたちはお七や乙姫の美しさを自身のなかで感じる事が出来るのだ。
 今回、その台詞をきいていて、言葉の端々に詩的な描写がうかがわれ、それも心地よかった。…実は、最初に鏡花の原作が手元にないと書いたが、帰宅後、結局倉庫から探し出してきたのだ。
 「美女 でも、貴方、雲が見えます。雪のような、空が見えます。瑠璃色の。そして、真っ白な絹糸のような光が射します。
  女房 その雲は波、空は水。一輪の月と見えますのは、これから貴女がお出遊ばす、海の御殿でございます。」
 「公子 お前たちの化粧の泡が、波に流れて渚に散った、あの貝が宝石か。」

 ところで演出で、ふに落ちないことがいくつかあった。たとえば、先から市中引き廻しについて書いているが、それに似ていると例えられた美女の衣装は着物である。そして冒頭で、侍女たちは、「若奥様が、島田のお髪、お振袖と承りましたから、私どもは、余計その姿のお目立ち遊ばすように、皆してかように、」と(薄色の洋装したるが扉より出づ)とあるとおり、洋装であるのだが、なぜか歌舞伎のほうでは、逆になっている。つまり侍女たちが着物で、美女が洋装なのだ。かたや着物、かたやドレス、もうこれだけで、お七などの引き廻しと比べるのに、無理がでてくるのではないか。さらに引き廻しの際、馬に乗っている。原作もト書きに白馬とあるが、こちらでは白い龍に乗っている。龍は、それはそれで、海へもぐる、美しい生き物としての効果があったから、まだいいとして、着物だけはどうしても腑に落ちなかった。美女は冥土へゆくというので、寺から数珠を与えられて、身につけているが、これも洋装にだと、数珠ということが見えにくくなる(これはまがいもの、ガラス玉なので、公子がみっともないとダイヤに変えさせるのだが)。
 さらに、公子の坐る大きな珊瑚でできた椅子は白、美女のための椅子は桃色珊瑚であるのだが、歌舞伎のほうでは、青と桃色であった。海のイメージだから青にしたのかもしれないが、多分、紅白というめでたいイメージが鏡花にはあったのではないかと思って、これも首をかしげた。
 そして公子。侍女のひとりが悪魚に喰われそうになったので、助けるために鎧と龍の恐ろしげな兜をつけて、立ち向かう。そのすぐ後に美女が宮殿に到着し、武装した姿におののくのだが、舞台では、さほど鎧は怖くない。そして一番奇妙なのは兜がないこと。兜が龍になっている、顔のようなそれと感じて、一層美女は恐ろしく想うはずなのだが、つけていないので、怯えるすがたが浮いてしまっている。だいいち、珊瑚の椅子にすわった「貴女の姿は、夕日影の峰に、雪の消残ったようであろう。少しく離れた私の兜の竜頭は、城の天守の棟に飾った黄金の鯱ほどに見えようと思う」、原作のこの台詞はどうなるのだろう? 実は舞台でどう言っていたのか、覚えていないのだが。美女のところはたしかにその通りに言ったと思うのだが、公子自身のほう、兜もかぶっていない彼がどういったかを。
 けれども、伴奏のハープの演奏は、青い海をイメージした舞台によく合っていた。舞台奥にゆれる影は、悪魚を思わせ、不穏な感じがよく出ていた。
 また、観終わってしばらく海の底から出てきたような、青さ、波のちらめきを感じたものだった。余韻が心地よい。
 帰って、鏡花の本を倉庫から探してきたと書いたが、ちくま文庫の全集を結局すべて取り出して、手元に置いた。『海神別荘』は七巻のいちばん初めに載っている。おさらいするために読んでいるのだが、このまま、しばらく…せっかく最初の頁から読んでいるのだし、鏡花三昧をしようかとも思う。ともかくことばが美しいのだ。この良さは、もしかして、前に読んだときにはわからなかったのではなかったか。「海底の琅玕の宮殿に、宝蔵の珠玉金銀が、虹に透いて見えるのに、更科の秋の月、錦を染めた木曽の山々は劣りはしない。……峰には、その錦葉を織る立田姫がおいでなんだ。人間は知らんのか、知っても知らないふりをするのだろう。(中略)─陸は尊い、景色は得難い。」きりがないからやめるけれど、『海神別荘』は奥深いとしみじみおもった。海の中での豪奢な暮らしぶりを陸のものに見せびらかしたい美女に、ある事実をつげる…。美女はもはや人間の眼には、蛇としか見えないのだと。それはどういうことなのだろうか、とか。海のなかでは美女であるのに。それも人にはわからない、ということなのか。公子と美女が互いの血でもって、終生の誓いをしたときに、心が通い合った証として、美女の国の磯に、竜胆と撫子の花が咲く。「人間にそれが分るか」と公子が尋ねる。答えて博士。「心ないものには知れますまい。詩人、画家が、しかし認めますでございましょう。」

 三月一日までで仕事を辞めた。また働かなくてはいけないけれど、今月ぐらいは休憩したいと思った。振り返ると、しばらくずいぶんと忙しかったように感じる。身体的な疲れもあったが、昼と夜、現実の仕事と創作の間で、頭の切り替えができにくくなっていたのだ。けれども、長らく創作という虚業と、会社勤めという実業の二足のわらじをはいてきたので、二足はいてないとバランスがわるい。虚業だけの生活になり、集中する、ということができにくくなっている。どういうことかというと、もう仕事をやめて、そろそろ十日たっている。その開いた時間を創作や読書などにあてればいいのに、ごろごろしたり、くだらない漫画を読んだり、無駄なことにつかってしまう。下手すると、会社にいっていたとき(といっても、まだ忙しさや疲れがさほどではない時のことだけれども)よりも、虚業にあてる時間が少ないんじゃないかと思うぐらいだ。それが証拠に、この文章は本当は三月五日に間に合わせるつもりだったが、だらだらと十五日までかけてしまっている。自己嫌悪、おびただしい。
 どっちみち、実業である仕事をしないと生活ができないので、もう少ししたら、また探し始めなければいけないが、たぶん、そのほうがわたしにはいいのだ。
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