Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2012-08-25

妖精の通り道、川の雲、森の海








(写真は、家のすぐ近くの、ひまわり畑で。)





   今回も、あまり書くことがない。ここ一カ月位のツィッターなどでの呟き、ちいさな感
  想、メモから。
 
七月二十二日
家のマンションはペット禁止だが(残念)、隣の家は猫屋敷。家の自転車置き場で、毎年夏位に、春に生まれたらしい猫を見かける。今年は三匹の茶トラ、母猫もまだ幼さが残る去年の子。近づくと逃げてしまうが、見かけると嬉しい。何かいいことありそうだ。

七月二十四日
先日名前を教えて貰ったヤブカラシ。今日は空き地で見た。一面びっしり、ヤブカラシの花園。黄アゲハと黒アゲハがまるでつがいのようにオレンジの粒々の花の上をひらひら飛び回っている。互いに交信しあうみたいに、小さな荒れ地の何かに名残を惜しむみたいに。魂の象徴といわれるのがわかる気がした。

七月二十五日
青筋揚羽の鮮やかな青が肩近くを過ぎ去…、違う、翡翠だ。鳴きながら小川近くを飛翔し、崖の森へ。近くにゆくと又鮮烈な色彩が逃げ…暫くはその繰り返し。色と鳴き声が飛ぶのを追う、逃げる。追いかける瞬間が違和だった。その日、いつもの川でも青い飛翔をまた見る。チーチー、青く後を引く挨拶だ。

七月二十七日
この頃好きな黄昏時には家にいる事が多い(代りに朝焼け時に外にいる)。黄昏の空は窓からでも見れるが、黄昏時によく鳴き声を聞くヒグラシの声は、この夏は聞くことができないかも…と残念に思っていたら、今日、部屋に鳴き声が飛び込んできた。嬉しく心が痛む。寂しさを穿ってどこまでも響く鳴き声。

七月二十八日
名前を知ると存在するようになる。そしてヤブカラシ。この植物だけは名前が長いことわからないままだったが、ずっと中学生位から気になっていた、存在していた。けれども名前を知った途端にあちこちで姿を見るように。うちのマンション下にも生えていたと判明。名前を知ると関係がやはり変わるのだ。

七月三十日
また灯に誘われて死ぬ虫たちの夏がやってきた。カナブン、蝉、稀にカブトムシ。彼らの死によって、その存在を知る夏が。仰向けに脚をばたつかせているカナブン。ひっくり返したら生きてくれるだろうか? いや動かなくなった。だが翌朝、どこにも姿がない。ないことで生としての存在を教えてくれて。

八月一日
ドアへ続く渡り廊下の入口に小さな植え込み。そこに紙製の立て札が。「妖精が通ります」。アオスジアゲハが黒地に鮮やかなエメラルドグリーンの羽根をせわしげに羽ばたかせてやってきた。尾長がギャッと小さな悲鳴のような鳴き声をあげた。青灰色の長い尾。きっと青い羽根の妖精の通り道なのだろう。

八月二日
アブラゼミとミンミンゼミの声がだいぶ賑やかになってきた。朝五時のうっすらと朝焼けが残る空で聞く。あるいは午後の日射しの中で聞く。どちらがそれらしいのだろう? イメージとしては後者だ。汗と日射しが肌のうえで暑い混交をとげている、そこにさらに混じる夏の音。

八月四日
満月を明け方の西の空に見た。月の明るさと朝の空の明るさが重なりあい、ヴェールのような温もりを放っていた。次の日の早い夜。窓から見える東の方角、首都高付近の灯がやけに明るく空を照らしている。違う、十六夜の月の光だ。雲の白さと形が見えるほどだ。夜と重なる、やはり温もりが明るかった。

八月六日
夕立めいた雨の一日。いいこと。朝顔が遅い午後まで咲いてくれていること。明け方や日没によく聞くヒグラシが、真昼でもカナカナカナと淋しく大好きな声で鳴いてくれること。水たまりがあちこちで池をつくること。困ったこともあるけれど相殺以上で、いい雨だった。スコールのように西の空が明るい。

八月九日
朝五時前。日が短くなってくる。だんだん夜っぽくなってきた。まだほの暗い。少し前まで殆んど朝としか呼べなかったのに。暗さが残る林の中で、蜩の声が聞こえるようになる。泣きたいような温もりのある声。蜩は私の中では黄昏の子だ。ますます夜明けが黄昏のように感じられて。

八月十日
早朝バイト。無口な、殆ど接触のない契約社員のAさんが小説を書いていると、他の人から聞いた。とたんに親近感。まだAさんとはその事について喋ってない。多分喋らないだろう。けれど夢想する。Aさんと言葉の付近で語り合うことを。〈私も…詩を書いているんです〉。何だかドキドキする。

八月十一日
お盆位から鳴き声を聞くツクツクホーシは私の中では秋の使者。そして夏の終りは8月31日。学校嫌いだった私の夏休み最終日。長い休みの記憶も手伝って今でも夏が好きなのかも。夏休み後半だと告げるツクツクホーシを聞くと悲しくなった筈だが、鳴き声がどこかユーモラスで救われていたと思い出す。

八月十三日
アブラゼミとミンミンゼミの声が今を盛りと賑やかに聞こえる。朝五時の薄暗い林の中、蜩もたまに混じって。或いは真昼の日射しの中で木々をふるわせんばかりの鳴き声を聞く。どちらがそれらしいだろう。イメージとしては後者。汗と日射しが肌の上で暑い混交をとげている、そこにさらに混じる晩夏の音。

八月十四日
午前五時。東の空が赤く明るい。たなびく紫の雲、金の帯。方向を間違えた夕焼けの色だと思ったが、明るさが違う。始まる明るさと終わりゆく明るさ。夕焼はだからどこか淋しいが、朝焼けはどこかまがまがしい。川面に映る赤紫。西からの光でないことが違和だ、だが楽しい。雨がぽつぽつ降ってきた。

八月十六日
午前5時。昨日の朝焼けは優しい色だった。赤さが肌色を彷彿とさせる。薄く青い空が頬を染めたみたいだ。川面に映った空は何故かうっすらと銀色。保護色のような、影絵のような鯉が泳ぐ。川はいつも空を映し、溶け込ませて流れているのだなと思う。その夕方。朝焼けとよく似た空が最後に頬を染めた。


八月十七日
妖精の通り道。仕事中に、このあいだ発見したものです。多分私たちおのおのが、そこを行く、妖精族の彼らを見ることが出来る、思い描くことができるのだと。心がやさしく浮かぶような気がしました。

八月十九日
ベランダから花火大会。ひと時明るい夜。遅れる音。大きな金色の尾を引く花火にやはり惹かれる。半円ずつ色の違う花火の下で別の花火が滝のように。星やハートの形。物語があるのだろうと思う。花火の形そのままの煙が雲にだんだん混じってゆくのを、後から上がった花火が照らしだして。

八月十九日
ダンセイニ『妖精族のむすめ』では付けられた名前と魂を持たなくなることで、風に名前をつけ、鳥の歌を聞き、讃美歌が天に昇るのを見ることができる妖精に戻る。だが風に名前をつけるように、彼らの名前を知ったことで、長らくの関係に変化が訪れることも。

八月二十日
ダンセイニ多分読めないだろうに持って歩いて仕事散歩(チラシ投函)してきました。完全に夏の空。はっきりとした積乱雲と肌に照りつける太陽。アキノキリンソウ(花は黄色、キリンみたいに背が高い)、萩、朝顔、赤トンボ、ヒマワリ。夏と秋の重なって。本は100円マックランチの時に読めましたよ。

八月二十日
ラヴクラフト、アーサー・マッケン、ブラックウッド、フィオナ・マクラウド、そしてダンセイニ。名前を呟くと、古書店のあの独特の匂いと、未知と既知の間に存在する扉が開かれたような、優しい美しい幻想が浮かび上がります。大切な宝石たち。

八月二十一日
二週間ぶりに「妖精が通ります」の立て札のある所へ。もうないかもしれない。妖精が通る道だもの、見えなくなったとしても不思議はない。ここだったっけ、いえ、あそこ、あった! ん?裏返しになっていたのでそっと戻した。彼らのいたずらかもしれない。

八月二十二日
今日も晴れ。明日も晴れ。天気予報の晴れマークがヒマワリに見えてきた。

八月二十三日
文字通りの残暑。ベランダですら鉢植えの植物たちの草いきれが感じられそうだった。あえぐような息づかい。水を何度も彼らにのませる。朝顔が照りつける日差しの凄さの為、朝9時半からもうしぼんでいた。明け方顔とよぶぞ、こら。よしよし、きつかったんだね。ホトトギスの葉の毛羽立つ温もり。

八月二十四日
小さな公園の林に入るだけで少し涼しい。池にそそぐ小さな川に木々と空、雲が映る。特に川の雲に見とれてしまう。川の中に空がある、と呟く。川と空はこんなにも近しい、と言ってみる。見られたことは私にとっては在るものだ。川に雲が流れてゆく。それは幻想ではないのだと力を貰う。雲をわかつ鯉。

八月二十五日
初めて踏み入れた崖の森。ゆっくり木の階段を降りる。まだ咲かないホトトギスの葉、終わってしまった半化粧。中腹のベンチでおにぎりランチ。ダンセイニを開く。ユリノキと竹。風が吹いて、頁の上に波紋のような影が流れた。あるいは大きな泡の影。私の腕や足にも。森の海だ。





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2012-08-19

林の風を含んだ名が妖精だ

 ずっと名前がわからなかった植物があった。蔓性で、7月〜8月頃に、額紫陽花の花びらがない部分だけ、みたいな花をつける。ただし、色はオレンジ色。葉っぱもガマズミやアジサイのそれに似ている。花が咲いているのをみたので、写真に撮った。それを、ツィッターで流したら、すぐに教えて下さった方が何人か。嬉しい。
 よく一緒に生えていたヘクソカズラやヨウシュヤマゴボウは知っていたのに、なぜかこの蔓性のオレンジ色のつぶつぶとした花だけは、もう長いこと、名前を知らずに過ごしてしまっていたのだった。
 知った名前はヤブカラシ。または貧乏葛。藪をからすほどの繁殖力、だから、貧乏をしている家でも育つ? ちょっとかわいそうな名前だが、思い出の中のヘクソカズラといいコンビの名前ではないか。




 ともあれヤブカラシ。名前を知ると、何か、近づけたような気がする。この花は特に。はじめて見た、というか、意識的に見るようになったのは、小学生の高学年から中学生にかけての頃だ。当時、自転車でよく遊びに出かけていた林の入口付近に生えていた。暑い夏の盛りだ。林には、植物をみにいっていたと思う。林に入ると、すこしだけ、空気がかわる。てりつく暑さの、さすような日射しをさえぎり、緑たちは、ひんやりとした、風でとりまいてくれる。その林の真ん中には、なぜか日が射していた。まわりは密集した木々が沢山で、暗いほどなのに、その真ん中だけは明るいのだ。伐採のせいなのか、たまたまなのか、覚えていないのだが、ともかく、その林の真ん中の明るさも好きだった。日射しにうがたれた、あつい穴。
 春はシュンラン、キンラン、ギンラン、イチヤクソウ…。めずらしい花の宝庫だった。夏は…あまりおぼえていない。ただすずしさがやさしかった。秋はアキノキリンソウ、フジバカマ、ツリガネニンジン、ミズヒキ、キンミズヒキ。ただしこれも林の縁。もうすこし秋も深まるとガマズミの実。
 ああ、夏は、だからヤブカラシだ。ヘクソカズラとヨウシュヤマゴボウとともに。林の縁、というより向かう途中の荒れ地に生えていた。
 だが、なぜかヤブカラシだけは、ずっと名前がわからなかった。わからないのに、どうしてか気になる植物だった。
 毎年、どこかしらでそれを見る。名前がわからない。もどかしく思う。だがそのうち、季節が変わる。変わると勝手なもので忘れてしまう。そのくりかえしだった。
 ここ数年、名前を知ることの喜びをかみしめるようになってきた。名前がわかると、すくなくとも、名前をよべるようになる。そうすると、あいさつができる。みるたびに名前をつぶやく。彼らと接することができたような気がする。
 そして、総じて、名前を知るまではあまり存在を認識していなかった、いや、ほとんど気づきもしなかった、というものが多いのに対して、このヤブカラシは違うのだった。名前は知らないながら、ずっとわたしの喉元にひっかかった骨のような存在になっていたのだ。 それは名前をしることでどうなっただろうか。どうなるのだろうか。そのすぐ後、ちがう家の庭で、また発見した。ヤブカラシ。ヤブカラシだ。もう名前で呼べる。それはどこかようやく再会したような感触だった。
 それから、ある時は空き地で見た。フェンスを覆うようにうねっている姿もみた。早朝バイトをしている倉庫の片隅にも。川岸で、はげたペンキ、割れてなくなってしまった窓、住む人がいない家の庭で、精力的にオレンジの星つぶをまきちらしているヤブカラシ、きりがない、ヤブカラシの行進だ。なんと私がすむマンション、自転車置き場近くでもその姿があった。さすがにびっくりした。毎日、自転車をとめている。春には土筆、タンポポ、そして初夏にはドクダミが生えるおなじみの場所だ。そして気づいた。やはり、ヤブカラシですら、名前を知るまでは、ある程度は存在していなかったのだと。ただ、他の名前をしらなかったものとは違い、林の思い出が、ある程度、名前の役割をになってくれていたようだ。だから、みかけるたびに、気にかかっていた。それは名前を呼ぶことに少し似ていた。けれども、林の思い出は、名前ではない。だから、ヤブカラシという名前を知るまでは、半ばしかその存在を見ることができなかったのだろう。
 これからは違う。林の思い出をもヤブカラシという名前が包み込み、私に挨拶をかわしてくれるのだ。ヘクソカズラ、ヨウシュヤマゴボウ。ヤブカラシ。ベランダにミズヒキ。
 すこし訳があって、ダンセイニの『妖精族のむすめ』(荒俣宏・ちくま文庫)を読みなおした。ちなみに、最初にこちらで読んでしまったからか、河出書房文庫の訳は、まったく受け付けない。残念だ。ダンセイニの本邦初訳のものもあるというのに。なんだか安っぽいファンタジーを読んでいるような気がしてしまうのだ。荒俣宏の訳がいい。詩に満ちている。閑話休題。
 妖精族のむすめである彼女は、魂がない。ある時、沼で踊っているときに、讃美歌をきき、魂をもちたいと願う。人間になること。ほかの妖精たちが、魂をこしらえてやる。露を含んだ蜘蛛の巣に「灰色の靄をひとかけら」、「今度はそのうえに、金色の水どりが沼をわたりあるくとき翼につけて運ぶ荒野の旋律を包み込んだ。ついでに、わが物顔の北風に急かされて葦が歌わせられた悲歌を加え)、妖精族の彼らの記憶、「水のなかからすくい上げた三つ四つばかりの星影」「恋人たちの囁き声」「数えても数えても数えたりない鳥たちの歌」などを包み込んで。
 そして人間になった。人間になると、名前をつけられる。最初はメアリ・ジェイン・ラッシュ、次にマリア・ルシアーノ。
 ストーリーは読んでもらいたいので、詳細ははぶくけれど、彼女は、結局、彼女はまた妖精に戻ることになる。彼女は妖精に戻るために、自分の魂を、魂を持っていない金持ちの貴婦人に差し出す(貧乏人は魂を持っているから)。「さあ、もらってください。そうすれば美しいものをすべて愛するようになりますわ。四方に吹く風にもひとつひとつ名前をつけて呼ぶようになります。朝早いうちから声をあげる鳥の歌を知ることにもなるんです。自由を奪われたわたしには要らないものです。」
 貴婦人に魂をあげた瞬間から、彼女は名前をもたなくなる。それはつけられた名前だった。彼女が候補にあげた名前は、すべて却下されたから。「藺草の歌」「恐ろしい北風」「水の中の星」…。名前と魂をもつことは、彼女にとって、自由でないということだった。そして、名前を持たなくなることによって、魂をもたなくなることによって、ほかのすべてのものたちに名前をつけて踊りはしゃぐ、妖精という存在になるのだった。
 彼らは自ら名づけることよって、とりかこむ全てのものと接しているのだという、蜜月。
 ヤブカラシがまた咲いているのを見かける。つけられた名前ではあるだろうけれど(きっと不本意だろう、別名も貧乏葛だ)、それでも妖精を見つけたようで、見かけるたび、名前を呼ぶたびに、魂がふるえるのだった。林たちのやさしい触れかた。接するということ。
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2012-08-05

おおむねの優しさ、すこしの痛み(アール・デコ 光のエレガンス展)

 思いがけず、一日だけ、昼の時間ができたので(配るはずのチラシが届かなかったのだ)、「アール・デコ 光のエレガンス」(二〇一二年七月七日─九月二十三日・パナソニック汐留ミュージアム)を観にゆくことにした。
 まず朝の仕事から帰って。すぐに出かける準備をした。いつも昼にどこか公園で食べているおにぎり…作ったけれど、今日は家で食べた。電車にのって、それからどこかで食べるのはどうかと思ったので。炎天下を何時間も外にいるわけではないので、日焼け対策もそこまで気にしないでいい。半そでで出かける。
 川の流れがやさしい。景色がいつもよりおだやかだ。崖の上の林の緑がとくにやわらかい色をはなっている。今は休みの時間だからだと思う。ルリマツリ、そろそろおわりかけのアガパンサス、あちこちで朝顔。そうだ、田んぼもだいぶ稲が丈をのばしていた。まだ地面に水は張られているけれど、時間によっては、かわいて、土が割れている。ミンミンゼミ、アブラゼミ。
 景色たちがやさしいのは、仕事でまわっているのではないからなのだが、実はいつもだって、やさしいのだ。わたしがそれになかば気づかないだけで。というか、以前の新宿での仕事だと、日常と非日常的なものが、くっきりと分かれていたから、休みの日に新宿にゆくのが、けっこう苦痛だった。日常が景色を覆っていた。新宿御苑や、大好きな桜の巨木があるにも関わらず、だいいち、小さい頃からの思い出の土地だったにも関わらずだ、職場と思い出の場所を一緒にしてはいけないと思ったものだった。大切な思い出が、日常に埋もれてしまうから。
 だがチラシ配りとかだと、そこまでやはり日常的要素が強くないのだ。どこか境界があいまいだから、日常が景色を覆うことがない。それらは共存している。ただその度合いが濃くなったり薄まったりするだけなのだ…とぼんやりと思いながら駅へ。いや、実際は帰りにも思ったのだけれど。
 電車もめっきり乗らなくなったから、すこし緊張する。緊張するといえば、展覧会。前回いったとき、まったく感動しなかったので(どの展覧会か、ここで書くのも憚られる…七月十五日のこのブログで触れているそれだ)、今回ももしかして…と思ってしまう。おそるおそるチケットをみる。チラシにもなっているラリックのガラス作品、常夜灯の《インコ》。これをみただけでも、なにか心がおちつく気がする。だいじょうぶ、心配しないで、とガラスが語りかけてくれるような気がする。若冲の繊細な筆づかいを、ガラス作品にしたような、インコの羽根のリアリティ。


 さて、展覧会。最初は「第一章 カラフル」で、パン・ド・ヴェールという技法で作られた、おもにランプ作品の展示。この技法は元々は古代メソポタミアの技法で、粘土等で作品原形の塑像を造り、さらに石膏等でこれから鋳型を造って、この鋳型に、色ガラスの粉に糊を混ぜたものを詰めて焼成するというもの。ここではガブリエル・アルジィ=ルソー(一八八五─一九五三年)の作品がメインだ。
 一瞥しただけだと、ガレに色づかいが似ている。入ってすぐがガブリエル・アルジィ=ルソーのパフューム・ランプ《花籠》(一九二三年)。全体的に丸い形で、下のほうが籠になっている。あとは黄色と赤のひなぎくっぽい花がぼってりと丸いかたちの上に何輪かおかれている感じ。多分はじめてみる名前だったが、第一印象というか、どこかひかれるものがあった。じつはこの作品自体は、それほどではなかったのだけれど、印象がともかくよかったのだ。中央のテーブルに彼の作品がいくつか並べられ、それぞれ光を放っている。パフューム・ランプとは、てっぺんに少し窪みがあって、そこにオイルや練り香をおいて、電球の熱で香りを拡散させるもの。あとでラリックのパフューム・ランプ《バラ》(一九二一年)の展示もあったが、香りを広げる、人工の花たちに、あの、公園などで見たやわらかな緑たち、やさしい景色たちと似通ったものを感じた。けれども人工であるということは、それよりもさらに人間の手がかかっているということだ。どちらがいいということではもちろんない。たとえば月明かりと、街の灯、とくに家の窓からもれる灯の違いだ。月明かりもやさしいが、どこか神々しさを感じる。家の灯には温もりを感じる。そんな人の営みのもたらすやさしさを、感じたのだった。

ガブリエル・アルジィ=ルソー《花籠》

 そういえば、美術館はパナソニック本社ビルの中だった。さすがパナソニック、会場内の照明、展示作品の見せ方を計算しつくしているようで、あちこちに細かな配慮が感じられた。作品の放つ光が丁度よく輝くほどの会場内の暗さ。けれども暗すぎるということがない。
 そう、基本的に展示作品にはランプが多いからか、全体的に照明が暗い。おまけに壁は黒だ。ランプたちがその明かりがついたところを一番よく見せてくれている。そして、べつの展示作品を覆うガラスに、この中央のテーブルにおかれたランプたちが映っていた。黒い壁が夜の海のようで、その海の上を常夜灯たちが浮かんでいるようにみえる。海にうかぶ灯、たとえば灯籠流しのような。あるいは宇宙に咲く花のようだと思った。でなかったら、森に生える不思議なきのこ…それらすべてを具現して、空間をたゆたっているように感じられた。いや、わたしがその灯のなかでただよっていたのだ。
 このゆらめく灯たち、ほとんどがガブリエル・アルジィ=ルソーの作品だ。《スポットライトを浴びるバレリーナ》(常夜灯、一九二八年)の影絵が、ラリックの女性よりも、こういってよければ雑にみえるが、それがどこか温かい。これはもしかすると技法のせいなのかもしれないけれど。パン・ド・ヴェールは、あまり細かい細工ができないのかもしれない。ともかく《仮面》(常夜灯、一九二三年)。黒っぽい仮面はひょうたんのようであり、不気味な笑顔を浮かべている。怖さと笑いを兼ね備えているのだが、どこかやさしい顔で、明かりが人肌のように思えてくるのだった。そして《蝶》(パフューム・ランプ、一九二四年)。円形のうすい桃色というか藤色の地に臙脂の蝶。羽根がぼってりとした質感をもっている。それは薄い羽根をもつリアルな蝶とは遠い存在だ。けれどもなぜかやはりやさしい。そぼくな羽ばたきをもつ蝶だった。
 中央のテーブルだけでなく、ほかにも《ガゼル》(ランプ)、《雪中のオオカミ》(花器)、《草むらのリス》(花器)など、十七点の展示があった。《樹木》(ランプ、一九二六年)は、支柱部分を幹に見立て、シェードが葉になって、一本の木になっていた。やわらかな生命力。どれもおおざっぱというか、線があらいというか。だがそれが落ち着くのだ。名前が丁度ガブリエル・アルジィ=ルソーと、ルソーがつくので、アンリ・ルソーをも想起した。なにか稚拙さがただよう。どこかに違和がある。それがおおむね淋しかったりやさしかったり。


ガブリエル・アルジィ=ルソー《仮面》


ガブリエル・アルジィ=ルソー《蝶》

 好きなラリックは後半にあるらしい…というか、後半にあるのだけれど、のっけから新しい出逢い、ガブリエル・アルジィ=ルソーに惹かれた自分がうれしかった。美をみつめることに対して、自身が疑っていたから。冷静に考えてみたら、なにを馬鹿な…ではあるのだけれど、一抹の不安がそれでもここにくるまで、まとわりついていたので。

 モーリス・マリノはフォーヴィスムの画家で、ガラス素材に魅せられたという。《脚付杯》(一九二〇─三〇年代)は、厚みのあるガラスに気泡がたくさん。海の泡のようだった。ガラスの生がとじこめられているようだった。そのほか、アルベール・シェレのアラバスターの《テーブルランプ》。まるで和紙から漏れる光のように、雪花石膏を透してもれる光がやわらかだった。
 チラシなどの展覧会のタイトル、サブ・フレーズには「ルネ・ラリック、ドームを中心に」とあったが、ドームはそれほど数がない。ドームといえば景色を絵付けした作品が多いイメージなのだが、展覧会ではそれがなかったと思う。《テーブル・ランプ》(一九三〇年頃)は、白濁したすりガラスがきのこ状になっている。雨が流れるようにほそい線が印象的だ。家の中から雨を感じるような心地がした。明かりが温かで。


モーリス・マリノ《脚付杯》


ドーム《テーブル・ランプ》

 そしておまちかねのラリック。ランプ、食器、豪華客船ノルマンディー号のテーブル・ランプと食器、そしてカー・マスコットまで。
 わたしは特に彼の女性や妖精をかたどったもの、オパールの輝きを放つオパールセント・グラスなどが好きなのだが、今回はオパールセント・グラスは、《オラン》(花瓶、一九二七年)だけだった。底にゆくほどすぼまった大きなグラスのようなガラスに葉のかたちが全面に、そして丸くふくらんだダリアがところどころ。ダリアの花びらをもった円形の浮き彫に、オパールの輝きがみる角度によって、色を変える。まるで何色ものダリヤがそこに凝縮してあるように。まるい玉のかがやきにどこかなつかしいような気持ちをかんじるのは、オパールがどこか人肌=肌色をおもわせるからかもしれない。このオパールの色に会えただけでもうれしい。


ルネ・ラリック《オラン》

 《三羽の孔雀》(テーブル・センターピース、一九二〇年)。羽根をとじた三羽の孔雀が、長細い半円のガラスに浮き彫りになっている。ただしこれは鋳型に溶けたガラスを流し込んでからプレスしているのだが。先の《インコ》のインコ部分もそうだ。孔雀たちは底に埋め込まれた明かりで、ぼうっと白い姿を浮かび上がらせる。とくに閉じた羽根部分のレースのような繊細さにひかれた。そしてかさなりあった三羽の奥行きというか、ふくらんだ身体に。展覧会のキャプションにもあったが、ガラスの厚さは二センチしかないそうだ。なのにそこに立体的な孔雀がたしかに白く、月明かりにでもてらされたように、モノクロームのあわい光のなかにまぎれもなく立っている…。若冲の《鸚鵡》をも想起した。レースのように透け、そして繊細に丹念に描きこまれた羽根…。


ルネ・ラリック《三羽の孔雀》

 食器もあったが、食器は今のラリック社の製品にも通じる、無機質なもので、私的にはあまり好みではない。けれどもこっそりグラスのステム(脚)部分に女性の肢体がいたりする。彼女たちがアトラスみたいに本体を支えているのだ。ちなみに、この食器たち、なぜか《トウキョウ》《ニッポン》という名前がついているものもある。

 というわけで、とてもここちよい時間をすごすことのできた展覧会だった。やわらかい明かりの、ぬくもり。手元不如意なのでカタログが買えなかったのが心残りだったが。ガブリエル・アルジィ=ルソーを知ったこと、ラリックにまた再会したこと。そして展覧会拒否病ではなかったことが判明したこと? 

 展覧会にいってから数日たった今。すこし気づいたことがある。ルネ・ラリック。私は彼の作品がとても好きだ。見るたびになにか大切なものを受け取っている。けれどたとえば今回の展覧会では、彼にかぎっていえば、実はものすごく感動した、という作品はなかったのだ。それでもしみとおるような、やさしさに似た何かを、発見にたいする感嘆を、意志に対する信頼のようなもの、そんな何かたちを展示作品からまぎれもなく受取っていた。
 とうとう名前を出してしまうが、その前にいったバーン=ジョーンズ展とはそこが違うのだ。ラリック作品のなかでは、私にとっては、特にすきな(たとえばオパールセント・グラスの女性、香水瓶などだ)作品の展示がなかったにもかかわらず、そして感動がすくなかったにもかかわらず、大切なぬくもりをくれたこと、だ。
 前々回のブログでふれたルドン展だって、いや、クレー展だって、展示作品には、感動しないものもかなりある。けれども、それらからも、ぜったいに何か、作者特有の何かを感じ、共時性のようなものを感じ、大切なものをうけとっていたのだ。それはわたしが好んでいる作者、すべてにほとんど共通している。本(小説、詩)だってそうだ。気にいった作者の作品は、あまり感じることのない作品であろうと、彼のエキスのようなものを感じることができるから、何かしら受取ることが…。
 なにをいいたいのかというと、バーン=ジョーンズ展に展示されていた作品には、そうしたものがまったく感じられなかったということだ。それはわかりあえない決別だった。ぬくもりを共有できないということだった。それがどうしてかは分からないけれど(共有できたと思った作品も、以前にはあったから)、ほかの好きだという作者たちのそれ、あまり感動しなかった作品とは、違いが歴然としているということだけはわかったのだった。
 携帯電話の待ち受けが、長らくバーン=ジョーンズの絵だったのだが、ルネ・マグリット《光の王国》に変えてしまった。
 空は昼なのに、家と湖面は夜。昼と夜が同時にある、たそがれのような瞬間。わたしはこの絵をみたとき、真底ふるえた。こんな詩を書いてゆこうと思ったものだった。境界にありつづけること。その気持ちを開く度に感じようと思ったのかもしれない。そうではないかもしれない、けれども、どこか安心感がある。安心感のなかにはっと目がさめるような針がある。痛みかもしれない、淋しさやほのぐらいものかもしれない。ラリックのミニチュア香水瓶、わたしの机に飾っているそれのように。そしてすこしの優しさたち。
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