Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2012-09-25

白の鵞鳥と白い鴨≠白雁。あるいはニケの羽の瞬間、雁信

 今回はこの十日の間で、別の所で書いた文章をこちらに加筆訂正したものを転載します。別の所…内緒です。別のちいさな世界で。そこではわたしが初めて一緒に暮らすことになった猫のロロ(私が五歳の時でした)、そして十九年間一緒にいた猫のべべと一緒に暮らしています。庭があって睡蓮が咲いています。月見草、ベゴニア、ホタルブクロに似た花なども咲いています。菜園もあって。ヒガンバナはありません。けれどもうすぐ、あちこちで咲くでしょうから、よしとしましょう。













九月十七日

 TV TOKYOの「美の巨人たち」、九月十五日(土)にやっていたのを見ました。古代ギリシア彫刻の『サモトラケのニケ』(紀元前二二〇〜一八五年頃)。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/120915/index.htm
勝利の女神、羽をひろげ、すこしつきだした肢体、風をはらんだ衣服が身体にまとわりついて。頭と両腕と足の一部のない姿。
 ルーヴル美術館に本物があります。実物を見たことがありません。ルーヴル美術館認定だかのレプリカをどこかのミュージアムショップで見ただけです。けれども、これまでずっと、何故か気にかかる彫像でした。
 テレビでは、キリスト教が広まり始めたとき、異教として、それまで神殿にまつられてあった彫像の多くが、顔などを破壊されたそうで、ニケもその時におそらく…といっています。知らなかったのですが、指の一部も見つかっているそうです。
 テレビでは、頭と腕があったら、どうだったか検証していました。多分、降り立ったところなのだろうと。勝利を知らせるために、船の上に。
 参考映像として、鷲がおりたつ瞬間が映し出されました。なるほど羽をめいいっぱいひろげています。そのすぐ後にとじる羽。
 その説明も興味深かったのですが、顔と腕がないままでも、破壊されるにいたった経緯を考えると哀しいことですが、このままでも、いいと思ってしまいます。ない顔を想像する、ない手足を想像する。それこそ、想像の羽がひろがって。
 ところで女神の衣服はキトンという薄衣だそうです。これが風をはらんで、身体にはりついている、この表現が、印象派の画家たちが、瞬間を描写しようとしたことに通じるといっています。光の瞬間、風の瞬間をとらえて永遠にうつしだそうとすること。
 その時、なぜわたしが『サモトラケのニケ』に惹かれるのか、判った気がしました。わたしは瞬間を描きだす、ということに弱いのです。印象派にひかれるのも、同じ理由でしたから。
 海で、波飛沫をながめています。どの瞬間をとっても同じ姿はとりません。雲もそうです。刻々と姿を変えてゆく。わたしはこれらの瞬間を眺めるのが好きでした。今みているものは、二度とみることができないものなのだ、そう思いながらみるそれらに飽きることがありませんでした。それは常に変化するのですから、どうして飽きたりなんかできるでしょうか。この瞬間をとらえるにはどうしたらいいのだろう? そんなことを思ったものでした。

 ニケの姿もまた、まさにそんな瞬間の凝縮として、わたしに映っていたのでした。風の瞬間、ひろがった羽の瞬間、夢想の羽がはばたく瞬間。

 ところで、ニケは、ナイキ(NIKE)の元となった名前だそうです。ローマ神話では、ヴィクトーリア (Victoria)のこと。Vサインとナイキの靴とニケは密接な関わりがある、そう、冒頭でいってました。

**

九月二十一日

 いつか家鴨や鵞鳥と一緒に住んでみたいと思う。あの白さに惹かれる。けれどもそうすると庭があって、池があるところでないといけない。
 家鴨は、小さい頃、デパートかなんかの屋上で見て、愛着があって。鵞鳥は、大人になってから。動物園で鵞鳥パレードを見て。ただ園内をたくさんの鵞鳥がねりあるくだけなんですが、壮観でした。しろい羽をぱたぱたさせて、歩いたり早足になったり。子供みたいに、うっとりと後ろからついてあるいたものでした。そうするうち、自分が鵞鳥の王国へゆけるかのように。それから、すっかり鵞鳥ファンに。
 家鴨は、あと、以前住んでいた家の近くの公園の池でよくみました。鴨にまじって、一匹だけ白くて。どこか孤独な感じがした。けれども、もしかすると、わたってきたマガモとつがいになっていたのかもしれない。あるいはアイガモと。そうだといい。
 この頃は、どちらもみていません。カルガモなら、近所の川に泳いでいるのですが。
 ちなみに鵞鳥は雁(ガン)を家禽化したもの、家鴨は真鴨を家禽化したもの。昔の和歌や季語などで雁(かり)というと、ガンとカモ(特にマガモなど渡り鳥)、両方のことをさしたらしいです。カモ科の渡り鳥の総称。北から秋になると渡ってきて、春になると、また北へ還ってゆく鳥たち(カルガモは、ちなみに、渡りません)。
 初雁とか、雁来る、とか、そういったものはみたことがないですが、マガモとかが冬に、河辺を飛んでいるのはたまにみかけます。それをみるたびに、ああ、雁渡るとかって、こういうことなのかしらと、ぼんやりと思ったり。
 家鴨や鵞鳥は、できたら摺り込みさせたい。卵から孵して、わたしを最初にみさせる。親だとおもって、どこまでもついてくる。白雁ということばを想いつきました。家鴨と鵞鳥を想って。けれども鵞鳥も家鴨も殆ど飛べません。そして白雁という鳥は、別に存在するのだと知りました。日本では絶滅危惧類に指定されている、白い雁。





***

九月二三日

 家鴨と鵞鳥が好きだということ、前回、かきました。それで、なんとなく、季語や古典など見かける「雁」ということばに敏感になってしまって、みかけるたびに、しらべたりするようになりました。
 そのなかで、とくに興味をひかれたのが、雁信と雁風呂。

 「雁風呂」を初めてしったのは、二〇〇五年に「hotel.第二章 no.13」誌上で、柴田千晶さんの『雁風呂』という作品を読んだ時でした。「雁風呂」については、後で説明します。この詩作品は、現実と過去をかろうじてつなぐように現れた「拝島さん」という男と、見知らぬ町、雁風呂の風習の伝わるであろう場所を歩く。雁風呂という湯の感触が、亡父の湯灌の思い出と重なる…。それは死への祈りにみちた、圧倒的な眩暈でした。

 (これを書いてしばらくして、柴田千晶さんの新詩集『生家へ』(思潮社)が刊行されました。「雁風呂」も所収されていました。なんという偶然なのでしょう。)

 そう、「雁風呂」とはおもに青森県津軽地方で伝わる風習だそうです。まず、ウィキペディアから、転載します。

「日本に秋に飛来する雁は、 木片を口にくわえ、または足でつかんで運んでくると信じられていた。渡りの途中、海上にて水面に木片を浮かべ、その上で休息するためであるという。日本の 海岸まで来ると海上で休息する必要はなくなるため、不要となった木片はそこで一旦落とされる。そして春になると、再び落としておいた木片をくわえて海を 渡って帰っていくのだと考えられていた。旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ残っている木片があると、それは日本で死んだ雁のものであるとして、供養のために、旅人などに流木で焚いた風呂を振る舞ったという。」
 実際は、雁が木片などを持ち運ぶことはありません。前掲のウィキペディアでも、「海岸に打ち寄せられた流木、木片を見て津軽の人々が想いを馳せたとも、遠く都の人々が雁の渡りのことを考えて創造した話ともされるが、出所ははっきりしない。」とあります。
 砂浜に打ち寄せられた流木…、なにかそれだけで、遠いどこか、べつの場所からの誘いのようなものを感じます。それがさらに、雁がくわえてきたものであるとは…。さらに春がすぎて、のこった流木をみて、もう、どこか、べつの場所へゆけなくなった、雁を想う…。それは、この場にすむ、それをみている人々自身の謂でもあったのでしょうか。
 そうして供養として、流木をもやす。それを旅人にふるまう湯とする。旅人は、雁の化身でもあるようです。どこか、べつの場所へ、かれらもまた、むかうのですから。
 海岸で、やかれた流木。湯気と煙が空へのぼる。雁がわたったあの空へ。
 それは憧れや郷愁をおびて、わたしをも誘うのでした。


 そして、雁信。雁信とは、手紙のことです。中国の漢の時代、絹に書いた手紙を雁の足に結んで送った故事から。雁帛、雁書とも。
 こちらも、その故事の解説を。
「中国漢の昭帝のとき、匈奴(きょうど)は漢と和睦(わぼく)を結んだが、漢の使者蘇武(そぶ)を捕らえ、武は死んだと言い張って帰さなかった。そこで帝は、庭園で射落とした雁(ガン)の足に、武の生存を伝える手紙を収めた帛(はく)(絹布)が結んであったと詐(いつわ)って、匈奴と交渉し、ついに蘇武は帰国することができた、と伝える『漢書(かんじょ)』「蘇武伝」の故事による。」
(Yahoo! 百科事典より。http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%9B%81%E6%9B%B8/)

 この故事をしるまえに、雁信という言葉だけ、先にしりました。たしか、漢字辞典で、雁を調べていてのことでした。そのとき、なにか、投壜通信のようなニュアンスを感じたものでした。だれかしらない、どこかへ、手紙を託す…。あるいは風船の紐にむすんだ文。それもまた憧れや希望、郷愁への便りのようで。
 あるいは自分が書くものは、どこか、だれか、しらないだれかにむけて書かれた、手紙のようなものだという思いがあって。だから、余計に雁信ということばにひかれるのでした。(ちなみに雁信シリーズとして、散文を書き続けています。おもに雑誌『洪水』上で。)

 今、これを書くにあたって雁信を調べていたら、万葉集で、こんな歌をみつけました。

 春草を 馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は 宿り過ぐなり


 こんな時代から、つかわれていた、おそらく密接に、という親近感。そういえば『源氏物語』にも雲居の雁という姫が出てきたなあとか。

 ああ、それにしても、あひるやがちょうが、みたい。うちにミニチュアの家鴨&鵞鳥の置物、そして、等身大の、鵞鳥のぬいぐるみなどがあります。後者は、顔なども結構リアルです。これは首のところに棒がはいっていて、お腹で棒をいじることができます。棒をいじると、首がうごく仕組みになっているのです。横むいたり、おじぎしたり。ひさしぶりに、首を動かしてみました。
 彼岸をすぎたら、めっきり秋めいてきました。まもなく雁がわたってくる季節です。その前に、彼岸花。近々また群生をみにいってくる予定です。

****

(次の日、うちの近くの彼岸花たちはどうしているだろうと、例年咲いている場所をみてきました。花芽が出ていました。あと数日で咲くのでしょう。)

00:01:00 - umikyon - No comments

2012-09-15

空と水、温もりと淋しさ、遠さと近さ。あわいたち。(国立西洋美術館・常設展)

 前回の続き。フェルメールを観に上野の国立西洋美術館に企画展「ベルリン王立美術館展」に行った折、常設展へも行った。というか、松方コレクションが母体となった所蔵作品で構成された常設展が好きで、これまでも何度も足を運んでいるのだった。
 常設といえば、ロダンの《地獄の門》などが庭で出迎えてくれる。カフェ「すいれん」は常設の眼玉であるモネの《睡蓮》からとったもの。以前食事をしたことがある。もしかして、ここは一番好きな美術館ではないだろうか。ともかくコレクションが充実している。





松方コレクションを簡単に…。以前のここでも何度か書いているので。興味がある方は、検索などで調べて頂ければ。
 松方コレクションとは、実業家松方幸次郎氏(一八六五─一九五〇)が、主に第一次大戦中に欧州で、美術館開設目的で収集した美術品。戦争や不況の為、散逸・消失したものも多いが、内訳は、ルネサンスから二十世紀初頭に渡る絵画、彫刻、工芸、特にフランス印象派絵画とロダンの彫刻など。第二次世界大戦で、敵国人財産としてフランス政府の管理下に置かれていたが、戦後、フランス政府から日本へ約三七〇点の作品が寄贈返還された。その際に、コレクションを保存・公開する施設として誕生したのが、国立西洋美術館だった(一九五九年)。
 ちなみに、今調べていて初めて知ったのだが、散逸したものの一部には、ブリヂストン美術館、大原美術館に収蔵されているものもあるのだという。また浮世絵のコレクション約八〇〇〇点は、皇室に献上され、後に東京国立博物館に収蔵されているらしい。どれも行ったことのある、しかも好きな美術館だ。他に火災で焼失してしまったものも数多くある。ともかくなんというコレクションだったのだろう。松方氏の功績に頭をたれるばかりだ。
 国立西洋美術館・常設展示のなかには、「旧・松方コレクション」と明記されているものもある。こちらは戦前散逸したもので、後に寄贈されたり、購入したものだとか。
 ところで、国立西洋美術館は、二〇〇七年から新館の改修工事をおこなっていて、開館五十周年に合わせて、二〇〇九年六月にリニューアルオープンしている。わたしは今回、リニューアルしてから初めてきた。つまり三年以上来ていないのだ。もっと近く、たとえば去年にでも来ているような気がしているのは、それだけ愛着がある美術館だからかもしれない。二〇〇七年から二〇〇九年の間は、常設展示は本館のみでの展示だったので、それから比べると今度は新館での展示となるので、展示スペースは多くなったらしい。確か、本館のみの常設展示にはきた覚えがある。なんだか暗く、そして確かに展示数が以前より少なかった気が…。試しに自分のブログ内で検索をかけたら、二〇〇九年に来てはいたが、四月末ごろだった。つまりリニューアルの一カ月程度前…。なんだ、その時にも常設展のことを書いていたのだ、すっかり忘れていた。
 「五月まで作品保存、展示環境改善のために新館改修工事をしているとのこと、いつもより展示が少ないのが残念だったが。美術館開館当初(一九五九年)は、フランス近代美術が多い松方コレクションが母体だったため、コレクションもそれが主だったが、今はルネサンス以降の西洋美術の流れを俯瞰できるように作られているとある。」

 そう、それ以前がどうだったのか、全体の印象としては覚えていないのだけれど、ともかく企画展の後、ミュージアムショップを簡単に見て、常設展のほうへ。美術館自体の出入口付近脇。そういわれてみれば渡り廊下のようになっている。これが新館に通じているわけだ。 入口で「常設展を撮影される皆様へ」という紙を見つける。フラッシュや三脚使用、接写他、様々な禁止事項があるけれど、常設に限り、寄託作品以外は撮影がOKだということが書いてあった。今まで写真撮影が可能だったかどうか、判らないけれど、たしか以前はそうではなかったと思う。この頃、外を出る時には基本的にはデジカメを持って歩いているので、状況次第では撮ってみようかと思う。けれども、基本的に絵画を撮影するのは好きではない。観賞することに専念したいから。自分が撮る行為もその妨げになるし、自分が観ている作品に他者がカメラを向けていても気が散る。それと、どこでだったか…、絵画の写真を撮ることだけが目的のように、あちこちで、パシャパシャ音がしている、あの本末転倒な感じにうんざり…。いや、状況によってだ。撮りたくなければ撮らなければいい。
 結局、一周し、全ての作品を観終わってから、印象に残った作品だけを撮って帰った。かなり空いていたし、他の客の迷惑になることもない雰囲気だったから。
 そう、常設展はたいてい空いている。前回も、混んでいるルーヴル美術館展の時に来たのだけれど、やはり空いていた。今回のベルリン王立美術館展でも…。もっともこちらは、企画展自体が、それほどは混んでいなかったけれど…。いや、通常でいったら、混んでいるほうなのか。マウリッツハイス美術館展が混み過ぎていたから、そう思えるのかもしれない。ともかく、ゆっくりとみられる贅沢。
 新館の展示会場は、なるほどすこし明るくなったような気がする。中世末期の祭壇画やルネサンス期の美術からはじまり、ヨーロッパ、フランスの絵画作品を、時代を追って展示。他にロダンなどの近代彫刻。ティツィアーノ、ティントレット、アンソニー・ヴァン・ダイク、カルロ・ドルチ、ドラクロワ、コロー、ミレー、モロー、ロセッティ、ゴーギャン、ファンタン=ラトゥール、そして印象画の画家たち、二十世紀美術。
 久しぶりに見る絵たちに混じって、新しく収蔵したと書かれた絵もある。だが全体の印象は、なんとなく明るくはなっているが、以前のままの心地よい空間のままだ。日なたの匂いと古本屋の匂いがまざったような雰囲気。それらが匂うわけではないのだが、つつまれたときのわたしの感じ方が似ているのだった。
 モネは一コーナーつかってまとまって展示されている。わたしが行った時は十三点の展示。いつも、ちょっとしたモネ展のようだ。このブログで何回か書いているのだけれど、初めてここに来た時、モネの《睡蓮》(一九一六年)に衝撃を受けたものだった。二〇〇九年五月五日のブログから。
「ここのモネの《睡蓮》(一九一六年)に、衝撃をうけたのが、ほとんど絵画との出会いの始まりだったかもしれない。絵を通した圧倒的な共有の至福…。二十二、三歳だった。今では《睡蓮》を前にしてもそんな体験はもちろん感じられない。けれども、殆ど大切な思い出として、この絵に親密な何かを感じているので、絵を遠巻きにでも見かけると、それだけで心が穏やかに騒いでしまう。そうして、またこの池の前に立つ。そう、何も感慨がない。もっといる。離れてみる。水の揺らぎがわずかに起こった。空を映しこんだ池の波紋が震えてやってくる。ちいさなめまい。それはめまいによる共時性だった。画家だけではない、画家の絵を見ていたかつてのわたしのふるえをも含んで、その波紋は伝わってきたのだった。」
 絵画との出会いは、いや、もっと前からしている。ただ圧倒的な共時性を感じたのがそれが初めてだったということだ。画家の描いている瞬間の想いすら、絵を通して伝わってきたような感覚の渦。
 今はそうした至福の圧倒的な感覚というのは、味わうことはないけれど、他者と何かを共有するということは、わたしの言い方だと、誰かと接するということは、こうした感動からしかありえないと思っている。絵だけではない、創作全般。言葉も。だからわたしは書いているのだ。いや、花を見ている時、せせらぎを見ているとき、雲を眺める時…、こうしたものたちと接することができるのも、感動からしかない。ゆさぶられるということ、それは畏怖でもあるだろう。
 先程、写真撮影OKとあったとき、後で《睡蓮》は撮ろうと決めていた。わたしにとって記念碑的な作品だから。
 今回も、やはり、あの昔の感動が、絵からはなかなか伝わってこない。離れてみる。近くにゆく。水にまざった光、風、想い(誰の想いなのだろう?)がなかなか感じられない。頭をゆらしてみた。水がそのことによってさざ波をおこしてくれるかのように。絵からは感動はもはや起きなかったけれど、それをみて感動した、自分をまた絵を前にして、思い出すことができた。そう感じたとき、わずかに《睡蓮》の水がわたしに光を差し出してきたように感じた。



 ところでモネの連作の中で好きな作品がある。「セーヌ河の朝」(一八九六年八月〜一八九八年八月頃)の連作だ。霧の立ち込める朝。画面左手前に柳が垂れ、中央の水面に草が波に洗われ、その陰が水面に映っている。どちらがどちらだか判然としない。画面奥に木々。河というより池か湖のように拡がりをもつ水面が、やはり木々を映している。いや、水面は緑ばかりではない、空をも映している。まさに水鏡で、水面に映った木々や草、空をみていると、そちらのほうが本当の世界ではないかという美しい錯覚を抱かせてくれる。連作というのは、同じ場所で、それが薄紅の混じった、朝焼けの色が濃い時刻から、殆ど昼、あるいは午前中としか呼べない、青空の色になる時刻までを描いていることによる。私が特に好きなのは、ボストン美術館にある《セーヌ河の朝》(一八九七年)。朝焼けの色がほんのりと水面に映っている。次がひろしま美術館にあるそれ。もっと朝まだ早く、空と水面の薔薇色が多い。この連作が、国立西洋美術館にもあることは知っていたのだけれど、今まで実物に出合ったことがなかった。それが思いがけずに、この日に観れたので驚きとともにうれしくなった。こちらの《セーヌ河の朝》(一八九八年)は朝焼けの時間ではない。けれども午前ともいえない。水面をおおいつくさんばかりの緑、緑。霧のせいだろうか、風のせいだろうか、空さえも緑がかってみえ、さらに錯覚が強くなる。水と空の区別すらつきにくい。どれが空なのか、水なのか。どれが木々なのか。こちらの水に、かつて《睡蓮》で感じた接点を感じることができた。ただし、初めての時の熱情ではなく、穏やかな愛情として。



 二十世紀美術のところで、アルベール・マルケの海に出合った。私は彼の水もまた好きなのだが、ここにあることすら知らなかったので、邂逅がとてもうれしかった。
 《レ・サーブル・ドロンヌ》(一九二一年)。少し高い所からの砂浜の眺め。黒いまばらな人影、どんよりと曇った空、そしてその空を映した、薄い半透明の灰色がかった青緑の海。半透明ではあるのだけれど、なぜか海は澄んではみえない。画家の心がまざって、どんよりとした色になっている、そんな風に思えるのだった。それは曇ったさびしさではあるけれど、渾然となった豊かな海だ。ここには空と海の親しみに満ちた関係は希薄だ。画家の郷愁にみちた、ある種の暗さ、けれども温もりのある、そんな海と空が、差し出されてあるのだった。
 国立西洋美術館のHPにある解説で今知ったのだけれど、マルケは、海に近い河口の町で生まれ育ったが、少年時代、健康に恵まれなかったので、海も景色も、窓から見るものだったそうだ。すこし高いところから描いた作品たちには、少年時代の窓の外への憧れ、そした記憶が混ざっていたのかもしれない。それを描いた彼にとって、少年時代もまた、憧れをひめた距離となる。それはもはや行けない場所だから。だがこうして現わすことができる。それが淋しさであり、温もりとして、わたしにやさしくうったえてくれるのだった。
 この絵は本来の松方コレクション。元々は松方幸次郎氏本人が購入したものだった。日本に美術館を…と収集していた、彼の行為に讃嘆の念を抱くわたしは、自分の大好きな画家の作品を購入してくれていたことに、なにか親しいうれしさを感じるのだった。
 ちなみに《睡蓮》も松方氏がモネ本人から購入したものだとあった。




 出かけてから一週間ばかり経ってからこれを書いている。八月三十一日に出かけて、今日は九月九日。三十一日の朝五時前(出勤する時刻)は、まだかろうじて東の空に朝焼けが見えたが、一週間後の九月七日では、日の出の時刻も五時十七分、空は朝というよりも殆ど夜だ。けれども空が仄かに明るい。見上げると、月が。
 そういえば満月を過ぎた頃から、毎朝、月が見えている。それで気になって調べたら、十六夜以降の月は新月近くまで明け方に見えると初めて知った(月が出る時間はそれぞれ違う。明け方近くに出る月は、新月に近い、月齢二六ぐらいの細い月)。明け方ぐらいに見える月を、有明月、暁月というともあった。
 五時前の空を見ると、ほとんど夜のなか、暁月の月明かり。だが日の出前の、東の空が僅かに明かるいようでもある。暁と東雲の間、そして残月。太陽と月と、どちらの明るさなのか分からなくなる。そして、どちらともいえないあわい、夜と昼の境界の明るさに自分がいるのが、どこかうれしくなった。それは、マルケの海や、モネの水に感じた、溶け込むなにかを感じたときと同じ質のものだった。空と水、昼と夜、景とわたしたち。
 そういえば、今朝は休みだったから朝五時前の情景は知らないのだけれど(眠っていたから)、朝、ベランダの植物に水をやるとき、相変わらず暑くなりそうな天気だったけれど、確かに風に秋のようなものを感じた。夏に混じる、というよりも夏に触れる秋の風。あるいは二三日前、ヒマワリの花を取り囲むようにして、コスモスが咲いているのを見た。秋と夏のあわい。世界はあわいで満ちている。川面に空。
00:26:00 - umikyon - No comments

2012-09-05

首、耳、真珠、日射し、フェルメール。

 ようやく。耳飾り、首飾り。二つのフェルメールに会いに上野にいった。「マウリッツハイス美術館展」(東京都美術館・二〇一二年六月三十日〜九月十七日)と「ベルリン国立美術館展」(国立西洋美術館・二〇一二年六月十三日〜九月十七日)。






 早朝バイトが終わってから、一度家に戻る。汗と埃まみれなので、身体だけでもシャワーを浴びたかった。第一、服も汚れている。急いで着替えて駅へ向かう。美術館に行くために電車に乗るのはひさしぶりだ。電車に乗っているうちに、バイトから帰った後の、連続したなにか、日常的なものが、非日常的なものへ移行してゆくのがわかった。境界をわたる電車。
 上野についたのは午前十時四〇分位。《真珠の耳飾りの少女》を展示している東京都美術館のほうが、混んでいると聞いたので、そちらから。上野はひさしぶり…まだ桜が咲く前に来たきりだ。上野の公園に足を踏み入れると、炎天下の中、長蛇の列…、ツタンカーメン展らしい。どこまで続いているのかわからない。夏休み最後の八月三十一日だ。小学生らしい子供たちの姿も目立った。展覧会にいったことを夏休みの宿題などで書くのだろうか。夏休みぎりぎり、下手すると九月に入ってから宿題を提出していた自分のことを思い出す。
 東京都美術館。煉瓦色の壁についた窓の内側に展覧会のおおきなポスターが。《真珠の耳飾りの少女》が窓のむこうから、外を見つめている。ガラスに空が映っている。煉瓦の色が、同じフェルメールの街を描いた作品《デルフトの小路》を彷彿とさせる。入る前から、幸先がいい。



 美術館に入ると、入場制限で二〇分待ち。このぐらいは仕方ない。しかも外で待っているよりもずっといい。春に買った前売り券を握りしめて、列につく。たいていは二人づれ、あるいは家族できている。話し声が気にかかるが、これも仕方ない。
 さて、展覧会。「本展では、17世紀オランダ・フランドル絵画の世界的コレクションで知られるオランダ・ハーグのマウリッツハイス美術館から、名品約五〇点を選りすぐって紹介します。
 最大の注目は、世界的なフェルメール・ブームのシンボル的存在「真珠の耳飾りの少女」です。最初期の作品「ディアナとニンフたち」とあわせて、二点のフェルメールが出品されます。さらには、最晩年の「自画像」をはじめ一挙に六点が並ぶレンブラントは壮観です。そのほか、フランス・ハルス、ルーベンス、ヤン・ブリューゲル(父)ら、巨匠たちの息もつかせぬ傑作の数々を堪能する格好の機会です。」展覧会HPより。
 マウリッツハイス美術館が増改築工事のため休館するのに伴ってのことらしい。ちなみに東京都美術館は二〇一〇年から改修で休館していて、リニューアルオープン後第一弾の特別展として、今回の展覧会になったとか。
 今まで行ったフェルメール関係の展覧会、殆どがフェルメール以外は、興味がわかなかった。なので、フェルメールにたどりつくまで、心惹かれる作品に出合うことがなくても、最初から、そういうものだと思っているから、気が楽だ。考えてみれば、すこしおかしい。ほかの「○○美術館展」だと、展示作品の大多数に興が起きないとなると、結構、気になるのだけれど。
 なので展覧会のなかでの混雑、絵の前の人だかりのなか、様々な作品を人の頭ごしに眺めるだけで、十分だった。とりたててじっくりみたいと思わなかったから。けれどもレンブラント。わたしは今まで、レンブラントはそれほど興味をもっていたわけではなかったが、裸体が艶めかしく、発光するように浮かびあがる《スザンナ》(一六三六年)と、暗がりのなかで人物たちだけが光に満ちているようで、視線を集中せざるをえない《シメオンの讃歌》(一六三一年)に心が動いた。
 さてフェルメールだ、《ディアナとニンフ》(一六五五〜五六年頃)は多分どこかで見たかもしれないし、とくに惹かれなかったので(最初期の若描きだということもある)、耳飾りだ。「第四章 肖像画と「トローニー」」にあった。トローニーとは、<特定の誰かを忠実に再現した肖像画ではなく、想像で人物の上半身を自由に描いた>もののこと。耳飾りもそれにあたるという。「異国情緒がただようトルコ風のターバン(中略)、左側からの光、振り返るポーズと視線。空間造作や人物配置の一切ない、謎めいた」…(< >内は出品リストより)。青いターバンに使われたラピスラズリ、濡れた唇、黒目の光の位置のありえなさ…、絵に関しての映像、文章はみたりよんだりしていた。実際の絵に出合うのがはじめての今回、そうした知識たち、あるいは生を見るまえに複製や印刷で知っていたそれらが、実物をみるさまたげになるのではないか…そうした危惧があった。すくなくとも、はじめてみる思いがけなさはないだろう…。
 エスカレーターをあがってすぐに四章の部屋になる。その一番目に耳飾りはあるのだが、入口で、ぼうっとしていたら、一番前で見たい人のための列に気づいたら並んでしまっていた。三十分待ちだという。そのつもりはなかったのだけれど、気づいたのがしばらく経ってからで、列から離れるのも面倒だったから(蛇行しつつ、かなり人が密集していた)、そのまま並ぶことにした。前の二人づれの女がうるさい。列からも、ちょくちょく耳飾りは見えるというのに、一度もそちらを見ずに、手振り身振りで話しこんでいる。何しにきたのだろう? 三〇分、ほとんど傍にいたので、かなりうんざりしたが、いよいよ先頭へ。さすがに二人とも、絵を前にしてだまっていた。それにすぐに絵を通りすぎてどこかにいってしまったので、良かった(が、何のために並んでいたのだろう?)。さて、ゆっくり…と絵のかなり近くまで足を進めた時、係員が「一番前の列の方は、絵の前で立ち止まらないで下さい、歩きながらご鑑賞ください」と言っていた。それで、もうそのことが気になってしまって、観るどころではなくなってしまった。やっと眼前に…。思ったよりも小さい…。立ち止まってはいけない、歩かなければいけない。ここに来る直前、後ろの二列目でもかなり近く、それこそ一列目とかわらないぐらい、近くでみれることを確認したので、あきらめて通りすぎ、二列目にもぐりこむことにした。最初から並ばなければよかった…。二列目にはすぐに入れたので。しかもたちどまってみていいのだ。ともかく、《真珠の耳飾りの少女》又の名を《青いターバンの少女》、一六六五年頃。観るまでは、たぶん私は、光のあたりかたに感動するだろうと思った。実物をみると、いつも、輝きに魅了されてきたから。今回もそれは少しはあった。頭にまいたターバンから背中のほうにたれた黄色い布。たぶん、実際は位置からして、おかしいのかもしれないが、首から背中のほうで、布のひだがうっすらと光っている。その輝きに、気づいたことが、思いがけなさでもあり、心がぬくもった。そして、こちらを見るまなざしのずれ。先にも書いたが、黒目の光が両方の眼で位置が違うため、画面手前、左目のほうが、私たちにむけられ、画面奥の右目が、どちらかというと顔の正面方向に向けられてみえる。その間でたゆたって見える事が、さそいとなって謎めいているのだった。あるいはセザンヌのように、あらゆる角度からみた像を絵にもりこんでいるみたいに、少女のふりかえる動作のすべてを、一枚の絵の瞬間にもりこんであるのだろうとも思った。その瞬間には、少女の心象、それをみた画家の印象、すべてが混ざっている…。そうしてできた混成としてのトローニーではなかったか。それはモネの風景画、風や光の動きすべてを、絵にいれようとした、あの瞬間にも通じる…。と様々な連鎖がわたしのなかで起こった。けれどもいちばん、なぜか心に響いてきたのは、少女の肌の質感だった。なぜそれが印象深かったのかわからない。けれどもそれが思いがけなさだった。少女の顔の肌が輝いている、というよりも、生々しい。実物をみるまで、気づき得ない柔らかさだった。頬の膨らみから目が離せない…、そうしてずっと観ていたかったが、名残惜しくその場を去った。
 (これを書いて数日後に気づいた。トローニーとしての少女、画家の造り出した少女と実際の少女の狭間にある彼女の頬が、白く、実在だといわんばかりに肉をもっているのだと、現実なのだと輝いていることに、たぶん感動したのだ。)
 エスカレーターに乗ってから気づいたが、人混みの中に、黄色い衣裳、青いターバンを巻いたマネキンらしきものが、場外にあったようだ。見たいとも思ったが、混雑していたし、もう離れてしまったので、戻り方が少し複雑そうだったので、あきらめてミュージアムショップへ。実は前売り券はおまけ付きだったのだ。ここで引換券を渡して、青いフェルメールのスカーフ(とあるが、大判ハンカチ位の大きさだろうか)を貰う。青と白の二色で、フェルメールの全作品がプリントされている。思っていたよりもずっといいものだった。それと絵葉書を一枚、東京都美術館のほうのミュージアムショップで、フェルメールの缶バッチのガチャガチャを廻して(《絵画芸術の寓意》が出た)、国立西洋美術館へ。
 その前に、公園だ。ベンチに座って、持参してきたお握りとお茶でランチを。いつも、家の近くの公園で、こうしたことをしていたけれど、まさかこんなところで食べることになるとは。それでも木陰だ。いつもとあまり変わらない。国立西洋美術館が眼の前にあるけれど。



 国立西洋美術館については、次回書く。早速「ベルリン国立美術館展」へ。
 まず、並んでいない、入場制限がないのに驚いた。展覧会会場にはいっても、絵の前にだけ人だかりはあるけれど、かなりすいている。そしてフェルメール以外の作品はそんなに期待していなかったので、あらかじめ、展覧会概要などの説明を見てこなかったのだが…、というわけで、また概要などをHPから。
「「ベルリン国立美術館展 学べるヨーロッパ美術の四〇〇年」では、イタリア美術と、北方の美術を同時に見ることで、ヨーロッパ美術の流れを肌で感じ取ることができるような構成にしています。デッラ・ロッビアの優美な聖母とリーメンシュナイダーの素朴な木彫、フェルメールとレンブラント、ボッティチェッリの簡素にして妖艶な素描、情念ほとばしるミケランジェロの素描など、絵画、彫刻、素描など合わせて一〇七点をご覧いただきます。」
 最初が「第一章 十五世紀:宗教と日常生活」。初期ルネサンスのキリスト教美術作品たち。とくに聖母子を扱ったものに、穏やかな温もりを感じる。この頃になると、宗教的な人物が身近な存在として表されるようになったとか。デッラ・ロッビアの《聖母子》(一四九〇年頃)は、両側に円柱をつけた金の壁を模したところに、白の陶磁器で浮き彫りとなった聖母子像が。口をなかばあけ、すこしうつろな目の聖母が不安げで、けれども優しさにみちている。陶磁器の白さも、つめたいようで温もりがある。幼子イエスの純真そのものの顔。わたしはイコン的なものがすきなので、こうした展示はうれしいものだった。ほかにも、何点か。特にこのように浮き彫り作品は、あまりほかでは見たことがなかったので、興味深かった。
 そして「第三章 十六世紀・マニエリスムの身体」の、ルーカス・クラナッハ(父)の《ルクレティア》(一五三三年)。凌辱されたルクレティアが夫や父の前で、復讐をしてくれるように頼み、短剣で死を選ぶ場面が描かれている。
 彼女は裸体で、胸に細い短剣を突き立てている。マニエリスムの誇張した技法で描かれた長く伸びた肢体、ふくらみすぎた太腿が、なまめかしくもあるが、うれいをおびながらも、きりっとした意思の力を感じさせる表情、なにかそれらすべての混在が、リアルな力となって、せまってくるようだった。
 「第四章:絵画の黄金時代」にフェルメール《真珠の首飾りの少女》(一六六二〜六五年頃)がある。こちらも多少は人だかりがあるけれど、待てばすぐに最前列で見える程度の混雑でしかない。うれしいというよりも、《真珠の耳飾りの少女》と同じフェルメール作品、しかも日本初上陸だというのに、なぜこれほど空いているのか、狐につままれたような気がしながら、前へ。
 画面右寄りに、画面左の窓の近くに枠だけ見える鏡を向いた横向きの黄色い服の少女。両手で首の真珠の首飾りについたリボンを持って、鏡に映して調節している。窓や鏡と少女の間は、白い壁と下方には、テーブルや椅子。テーブル上にはタイルがたてかけられ、化粧用のブラシなどが置いてある。テーブル半分と下は、黒っぽい布、もしかすると暗緑色のそれが、陰となり、暗がりを作っている。
 鏡に映して…と書いたけれど、鏡は枠だけしか見えないので、飾りのついた窓に向かっているだけのようにも見える。窓から少女までの間、白い壁と横向きの少女の黄色い服が、外からの明かりで、うっすらと輝いてみえる。ああ、この輝きだと又想うのだった。黄色い服は毛皮がついている。毛皮と黄色い服にあたった光と、ほのかにクリームを帯びた壁の光が、了解しあっているように、穏やかな…たとえば埃の匂いがわずかにする、寒い中での、日射しの温かみが、画面からあふれだすような。横向きの少女の半ば口をあけた、夢見るような表情も印象深い。窓を見ているのではないかと思うのは、多分この表情のせいだ。あるいは鏡を見ているのは、窓の外、もしかして船に乗っているかもしれない、誰か恋人のための装いの為、そんなふうに思ってしまう表情なのだ。鏡を見る眼に、恋人が映っている…。それも外光のせいなのだった。そして首近くまであげた両手が、首飾りを持つためだとはわかっているのだけれど、なにか驚きの仕草にも見えてしまうのだった。たとえば窓(鏡)に恋人の姿を夢想し、その夢想の彼が、少女になにかしかけてきた、それに対するジェスチャー…。柔らかな布、柔らかな日差し。
 実はどちらがより感動したかといえば《真珠の耳飾りの少女》のほうだったけれども、こちらの《真珠の首飾りの少女》は、やさしい温もりに満ちていて、心になじんだ。しかし、なんと両者の題名は似ているのだろう?
 美術館を出ると、入口で年配の婦人が美術館の関係者とおぼしき人に、フェルメールの…青い布を頭に巻いた…はこちらではないんですか? と聞いている。手慣れた風にマウリッツハイス美術館展でと、東京都美術館までの道順を教えていた。幾度も聞かれているにちがいない。
 ところでわたしは、基本的に実物をみてからでないと、画集もあまり開かないし、絵ハガキやら何やらも買わない。で、今回のフェルメール、絵ハガキと缶バッジを買って帰ってきたけれど(例のおまけのスカーフももちろん)、部屋のなか、机のまわりのごちゃごちゃとした飾りの中に、《真珠の耳飾りの少女》の額縁の枠付きの小さなマグネット(五センチ×三・五センチ)と、アクリル板で挟んだやはり同じ絵のマグネット(七センチ×四・五センチ)があったのに気づいてすこしおどろく。そのほか頂きもののストラップも。前例があまりないが、それぞれ、よく見えるところに、おいてみる。そうだ、いちおう、持ってはいたのだけれど、あまり見ないようにはしていたのだ。実物を見る迄は。これからは、こうしたガラクタたち、絵ハガキたち、画集などをみて、旅行の記念のように、実物の絵を思い出すことができる…。あの肌の質感。そして《真珠の首飾りの少女》。こちらは今回初めて、絵ハガキを買ってきたので(だって日本初上陸だし)、よく見えるところに飾った。光たち。
00:00:00 - umikyon - No comments