Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2012-11-25

境に流れる川を渡る風としての景(琳派芸術II)

 金曜日は早朝の仕事だけで、後は休みのことが多い。なので出かけることにした。天気は晴れ。いつも通っている道なのに、景色たちがとてもやさしい。休みだという意識、そして晴れているせいもあるだろう。このごろ、特に天気に心が左右されている。曇りだとすこし沈んでしまう。雨だともっとだ。暗くなってくる。晴れていると心が温まる。日射量によって、確かにそうしたことが起こるそうだ。その話をはじめてきいたとき、わたしは植物みたいだと思ったものだった。光を必要として。けれども、壁とか道路とか、地面でもそうだ。曇り空はすこしつめたい。雨はぬれて、もっとつめたい。そして晴れたときの温もり。そしてそれらを感じるのが顕著になったのは、秋が深まってきたからなのだ。色づきはじめた木々に、日が射す。ちらちらと明るいのが優しい。



 この日の午前中は雲ひとつない空だった。崖の上から富士山がくっきりと見えた。雲がないことが静かだと思う。雲がしゃべるわけではないのに。そして耳をすますと、ヒヨドリ、そして尾長の、ぎゃっと小さな叫ぶような声、足元の葉を踏む、乾いた音。音で満ちているというのに、やはり景は静かだった。葉が一枚また落ちた。くっきりとした富士山の静けさを写真に撮っていると、知らない年配の男性が、「今日は一段と富士山がきれいに見えますね」と声をかけてきてくれた。穏やかで静かな秋の空の下で。



 駅についた。電車に乗るのは久しぶり。この頃、通勤に電車をつかってないので(主に自転車だけ)、電車に乗る=非日常になっている。だからか、そのこと自体がなんだか嬉しい。あと一本電車を待てば、直通で目的地までゆけるので、すわったままでいられる。そして一本待っても遅刻するわけではない。こうした選択ができるのも休日ならではで心がはずむ。
 けれども電車の中は、けっこう人の話し声が気になるのだと、乗ってから気づく。さきほどまで味わっていた静けさと対比してしまうので、余計かもしれない。電車にたいしては心がしぼんだ。きにしないようにしながら読書を。けど早朝バイトしてきたからか、あるいは電車のゆれが心地よいのか、気づいたら目的地近くまで寝てしまっていた。日比谷駅下車。
 ほぼビル直結のところの地下出口からついてしまった。ほぼ、というのは同じビルなのだけれど、そこにゆくにはいったん外に出ないといけないから。皇居や日比谷公園あたりもきっと葉が色づいているはずだ、けど、あとでいい。そう思いながら、目的地へ。出光美術館だ。
 二〇一二年十月二十六日─十二月十六日、「琳派芸術供廖H術館HPから。
「酒井抱一は、京の光悦・宗達・光琳らに継承された優美な琳派芸術を、江戸の地に再興した“江戸琳派”の祖として知られます。昨年、抱一生誕二五〇年を記念した当館での展覧会は、東日本大震災により途中閉幕となりました。本展は、ご期待くださった多くの方々に、あらためて琳派芸術をご鑑賞いただく機会となります。展示構成・テーマに新たな話題を加えながら、酒井抱一(一七六一〜一八二八)とその高弟・鈴木其一(一七九六〜一八五八)を中心とした江戸琳派の粋美をご紹介します。」
 (昨年の展覧会については、二〇一一年二月十五日のここのブログで書いています。興味のある方は、こちらを読んで頂けるとありがたいです。(http://www.haizara.net/~shimirin/nuc/OoazaHyo.php?query=%CE%D6%C7%C9%B7%DD%BD%D1&dummyInput=%A4%A2%A4%A4%A4%A6%A4%A8%A4%AA%C8%FD%C9%FD&amount=0&blogid=3))



 そうなのだ、去年の「琳派芸術」に来ていたのだった。かなり出品されるものが重複するのではと、来ようかどうか少し迷ったのだけれど、チラシなどを飾る《紅白梅図屏風》に圧倒された記憶が蘇ってきた。それにテーマや展示物を変えて、去年来た人でも楽しめる構成になっているとあったので、来ることにしたのだった。
 はいってすぐが「I 金と銀の世界」で、抱一の敬愛した光琳へのオマージュにみちた作品による、金と銀。金は《八ツ橋図屏風》や《風神雷神図屏風》。銀が《夏秋草図屏風草稿》(草稿なので銀はつかっていないが)、そして《紅白梅図屏風》だ。
 その前に《夏秋草図屏風草稿》を。こちらは、ここでももう何回か引用している、二〇一二年三月二十五日放送(二〇一一年九月十八日のアンコール放送)、NHKの日曜美術館〈雨の夏草、風の秋草〜坂東玉三郎、酒井抱一を読む〉で、坂東玉三郎氏が語っていた絵の草稿だ。
 <沢山の修業をした中で無心になって、音楽でも絵でも、書いたときには宇宙から波がもらえて、非常に自然の草花のバランスと同じ作品ができるって、考えているんです。
 ですから自然を何度みてもあきないし、深いし、なぐさめられるじゃないですか。>
 草稿だから実際には、違う作品ではあるのだけれど。ともかく、美術館にくる途中で見た、出逢った静かな秋たちと、この絵が、わたしのなかで、彼のことばによってかさなりあった。静かな風が絵から感じられる。とくに左隻。はげしい風にふかれ、葛やススキなどの秋の草花たちが、曲がることで、たえながらそよいでいる。曲がり方に風を感じた。そして前回、多分気づかなかったか、意識しなかったのだけれど、草の上の空(実際は銀の空)に舞う、蔦かなにかの葉、数枚。瞬間の凝縮として、わたしにやってくる風を、舞い散る葉たちが、手渡してくれたようだった。ところで《夏秋草図屏風》は尾形光琳の《風神雷神図屏風》(こちらの展覧会にある酒井抱一のそれは、尾形光琳や俵屋宗達の描いたものへの、オマージュをこめた模写作品である)の裏絵であったらしい。金の裏が銀。金の空に、銀の地。この絵と同じ側の左隻には風神。風神が空で、表面でおこした風が、地上に、裏に届いた(ちなみに雷神の裏にあたる右隻では、雨で水嵩をました水の流れがある)。ふたつたちのつながり、あるいはつながろうとする意志に、壮大なめまいを感じる。それはまた去年のわたしと、今のわたしとを対比させ、むすびつける力でもあった。
 《紅白梅図屏風》は、今回はあまり心にふるえなかった。あんなに去年ははげしく私にやってきたのに。この感覚は、国立西洋美術館、松方コレクションのモネの《睡蓮》を二度目、三度目にみたときのそれと似ている。はじめてみたときの圧倒的な感動。そしてそれ以降の、衝撃波というべき感動の渦のやってこなさ。けれどもそっと、そのしめったような感触だけひろう。それをひろってよすがにする。かつての絵を前にしたときの感動の印象が、力なくではあるけれど、それによってやってきてくれる…ちいさな、たいせつな水、一滴。それは波をおぼえているぬけがらのようなしたたりだった。それはもう、見る度に何度も。そうして好きな作品は、心に水をためてゆくのだった。
 《紅白梅図屏風》。それでもみていると、やはり月光にひたされた水がやってくる。左隻の白梅の天上をあらわすようなほのかさ、枝の繊細さ。右隻の紅梅の、ごつごつとおれまがり、実際に折れてなくなってさえいる枝の、地上をあらわす感じ。紅は血の色でもあるのだろうかと思った。これらは地上にふさわしい。そしてそれでもやはり白梅の月を思わせる白さにひかれはするのだった。銀にひかる背景のなかで。銀は夜をてらす月光だ。



 抱一と夜。「蕎蓮〜隹嵜泙療租」にあった《十二カ月花鳥図貼付図屏風》。これは元は一月から十二月まで一枚一枚あったものを六カ月ずつ、屏風として貼り付けたもの。この十二カ月のものは、江戸時代の当時も人気だったらしく、何作かヴァリエーションがあり、私も割と好きな作品群だ。今回は特にその中の、八月。桔梗やススキの背景に満月がうかびあがり、それが草花をてらしているのだと、そっと明るい。ススキのたわんだ茎に秋の虫。家に帰って、その虫が馬追いだとわかる。スイッチョンと鳴く。虫の姿が、やはり凝縮というか、動きをわたしにさしだしてくれた。秋の虫たちの声が静かに聞こえる。そう、無音という意味ではなく、秋の気配として、静かさを絵から差し出してくれるのだった。
 そういえば、そのとなりにあった七月、夏はヒマワリがメインだった。外来植物だったろうそれがあるのに、すこしおどろく。太陽にむかって花をかたむけた大きなヒマワリ。こちらには描いてはいなかったが、絵を見ていたら、空耳のように蝉の声がきこえてきた。けれどもやはり静かで。たぶんわたしは通常の自然たちがたてる音(嵐や雷なら、ちがうだろう)を、うるさいと思ったことがないのだろう。すさまじい蝉時雨すら。そしてたぶん、鳥の声、波の音、川や滝の音なども。それらは耳にやさしいものたちなのだ。抱一の絵はしずかに、わたしに景を、景にまつわる音や光を、そっと教えてくれるのだった。





 夜といえば、「絃蓮’倬漾Φ|痢Π如廖ここでは俳諧にも親しみ、機知と洒脱に富んだ抱一や、その弟子たち、江戸琳派の絵師たちのまなざしについてスポットをあてている。そして夜。「明るい陽光よりも、闇を照らす繊細な光の表現に傾倒する画題が多いことも、江戸琳派の絵師たちの独特の眼差しを物語っています。」(『琳派芸術供拆冊子より)。
 抱一《月夜楓図》。墨一色で描かれている。楓の木、幹と枝と葉のあいだに満月。雲か霞か霧なのか、枝の上のほうはなにかがたなびいている。楓の葉は墨の濃淡で紅葉をあらわしているらしい。裏側になったり、真っ赤に色づいたり。モノクロームというのは、わたしたちに色を想像させることで、ひきつけてくれる。絵に参加させてくれるのだ。たなびくものたちのむこうに、月の光がかんじられもして。



 ここでは最初の解説にあるように、抱一の弟子にあたる鈴木其一の作品も多く見られる。彼についても、この頃ちょっと気にかかっているのだけれど。
 闇については、鈴木其一《暁桜・夜桜図》、双幅。「暁桜」のほうは、朝焼けの空、薄紅色にそまったそれに、まだ夜霧が夜の影のようにただよっている背景に、白い桜が浮かび上がっている。白さがまるでそれ自体で発光しているかのように。そして、けれども「夜桜」。さきほどの夜霧が、もっと画に濃密に流れている。つまり夜が支配している。薄明かりは形はみえないけれど月光だろう。桜はもはや影でしかない。そう、桜は発光してなどいなかったのだと教えてくれる。夜の影としてくっきりとうかびあがる桜。桜は夜や朝を映す鏡のようなのだ。夜と朝の対比、それをむすぶような、境界としての桜。桜としての形が、夜と朝をつないであるかのようで。
 絃呂砲△辰燭笋呂蠡彊譴痢埓稈翆歿濔禽図》(双幅)も対比にひかれた。竹のほうは、竹の葉に積もった雪が、重みでどっさりと下に落ちている。驚いたように二羽の雀が飛び立って。対して梅のほうは、数も二羽に対して、一羽の雀。うっすらと、けれども枝にも花にも全体的に雪を被った(としかいえない)梅。その花枝にとまる雀。いわば動と静。あるいは竹の緑と梅の薄紅を、雪と雀が境界上でつなぐような。


鈴木其一《暁桜・夜桜図》


鈴木其一《雪中竹梅小禽図》

 境界といえば、「江蓮(一門下の逸材」。こちらは鈴木其一に焦点をあてているのだが、そのうちの《四季花木図屏風》(六曲一双)。右隻は春と夏、梅の木に牡丹や蒲公英などの花。左隻は秋と冬、紅葉した楓の木に桔梗や水仙。そして季節をわけるのは右隻と左隻という空間的なものばかりではない。右の左端と左の右端に、季節をわけるかのように川が流れている。あちらとこちら。川をへだてて季節が変わっているのだ。彼岸と此岸をも想起してしまう。川が季節を区切っているのが、なぜかリアルに感じられた。たぶんわたしの中でも、春と夏、そして秋と冬はセットになっているからだ。春と夏はつづいている。そして秋は冬にむかう季節として、こちらもまたつづいている。冬は眠りの季節、夜だ。春は目覚めの朝、起きて活動する真昼が夏。そして紅葉の秋は夕暮れだ、眠りに近づく時間。そうして太陽がおちて、夜がまたはじまる。くりかえし。つまり、朝と夜がちがうように、春夏と、秋冬はくぎりがある。それを静かに後押しするのが《四季花木図屏風》の青い川だった。
 けれども、家に帰って酒井抱一関係の絵を見ていたら、同じく、季節を区切って流れる川、といった構図の作品があった。《四季花図屏風》(一八一六年、六曲一双、陽明文庫)。といっても其一作品と構図はだいぶ違うし、抱一には鷺(春夏)や雉(秋冬)までいるが、左隻の右端に川が流れ、春夏と秋冬を区切っている。こちらはすこしだけ川がほそい。かそけき感じ。どういう経緯なのかわからないけれど、やはり川は境界にふさわしいのだ。



 展覧会会場で、『絵本詞の花』というものを見た。これは喜多川歌麿が絵を描き、それに宿屋飯盛が選んだ狂歌が添えられている絵双紙。当時の江戸市井の四季の風俗を描いたものだという。吉原の待合い茶屋の二階からの花見の模様。とはいっても、男も女もほとんどが花などみていないようにみえる。お酒をのんだり、会話したりに興じているふうだ(現代もそうだろうけれど)。そのなかで、ひとりだけ、背中をむけて外を、花を見ているのであろう男がいる。片手に重心をおいて、もう片方の手を立てた膝にのせて。しゃれたかんじだ。彼が酒井抱一だという。そして抱一が詠んだ狂歌が。
 「ほれもせす ほれられもせす よし原に 酔て くるわの花の下かげ」(尻焼猿人)
 「花の下」というのは、「鼻の下を伸ばす」「鼻の下が長い」とかの意味もかけているらしい。けれども、粋だと思う。ふっとわたしもこうだったのではないかと夢想したくなった。今までわたしは惚れたこともなく、惚れられたこともなかったのではなかったか、喧騒のなかにあっても、色恋の最中にあっても、じつは花ばかりみていたのではなかったか。まるで映画館で、映画をみて、その主人公になったかのように、そんなふうに思って見たのだった。花たちが、しずかにたちあらわれてくるようで。

 展覧会会場を出て、展望室へ。美術館は九階にあるので、皇居やお堀、日比谷公園がよく見える。銀杏がだいぶ色づいている。そしてたぶんゆりかもめだと思う、鳥が濠をおよぐ、というより浮かぶ姿、窓の外を斜めに横切る姿。静かな秋の風景だった。静かな秋の花のような紅葉だった。今までみていた絵たちとそれは、川で隔てられずに、続きものとして、そこにあった。あるいは川をわたる風として景があった。



 出光美術館を出てお濠端を少し歩く。展望室から見ていたよりも、木々がまばらな感じがする。まとまってみえたそれはおもにお濠の向こう、皇居側にあるからだろう。車が通っているのに、やはり静かだと思う。流れのない、よどんだ緑の水に、大きな鯉がたまにみえる。やはりゆりかもめだった。とんできて、着水する。濠の水はよどんでいる。このよどみに違和感があるのは、家の近くの川、あさいけれど澄んでみえるそれを毎日見ているからだと気づく。川のちらめき。



 道路の反対側は日比谷公園。せっかくだからこちらにもゆこう。絵をみにきたことと草花や鳥をみにきたこととの境がますますなくなる。道端にねこじゃらしの小さな群生。「ねこじゃらしの《夏秋草図屏風》だ」とおもって微笑む。そうして奇しくも、日比谷公園内の池におちた楓の葉。《月夜楓図》を思い出したのはもちろんだけれど、《夏秋草図屏風》の風にまう蔦をもおもった。舞い散る葉が、あたかも絵からぬけでたような感触。きっとあちこちに、こうしたものたちは、いつも息づいているのだ。



 家にかえってきたとき、もう夕焼け…、富士山がみえる方角、裾野近くに、今しも太陽が沈む…。ほんの一分ほど、目をはなし、さて写真を撮ろうとしたら、もう陽が落ちてしまっていた。一期一会。かれらのバランスは絶妙だ。くっきりと見える富士山が、秋と冬をむすびつけている、だけでなく、夏と秋をよりそわせているのかもしれなかった。それは昼と夜のまじりあった時刻だから。境目がどこか希薄になってゆく。わたしは秋がながらく苦手だった。だがここ数年、春に花が咲くように、秋に葉が咲いている、そんなもののように、感じるようになってきた。そしてそれらはいちいち、胸をくるしくする。さいごのちらめきのなかに、葉がいちまい、おちてゆく。


13:27:57 - umikyon - No comments

2012-11-05

日々と旅、旅の日々。(九月二十四日〜十一月二日の呟きなどから)

 ここをちょっと空けてしまった。すみません。言い訳をすると、おもに散文の原稿を書いていたので…。そしてさらにごめんなさい。今回は、またツィッターなどでのつぶやきを載せて、いつもの文章の代わりにします。この一カ月半ぐらいのもの(九月二十四日〜十一月二日)。この間に季節がずいぶん変わってしまって。







***



●九月二十四日

雨が降ったせいか少し暑さが和らいだ。バッタが細い小さな葉のように飛ぶ。遠くで小さな蝉の声、あるいは地面を弱々しく動く蝉。凍らせた飲み物の溶け方が遅い。一口飲む。もう紫式部が色づきはじめている。今日はサングラスがいらない。それでも私は夏が好きなのだ。過ごしやすいことがどこか淋しい。


●九月二十五日

昨日、若葉色の飛蝗をみた。今日は枯葉のように茶色い飛蝗。季節がその分進んだみたいだ。真昼は暑いが空気に力がない。暑さ寒さも彼岸迄。という訳で彼岸花を探す。花芽のある茎があちこち。緑の蝋燭のよう、花芽部分がうっすら赤い。地獄花、幽霊花、可哀想な名前の大好きな花の季節がもうすぐだ。


●九月二十六日

外を歩く仕事。景色に慣れてきたと思ったら、思いがけない場所、あちこちで彼岸花の出現。あの子たちは花のついた茎を突然地面から顔出すから。ミズヒキの群生にも出合った。赤のつぶつぶとした花束。子供の頃、林の縁に咲いているのよく見たっけ。季節の中、景色は日々新しい。慣れる事がないのだ。


●九月二十七日

言葉にする事で何かが生れる。今日見つけたもの。陶製のカボチャトレイの上に団栗と松笠、ハロウィンのリース、赤いミズヒキと黄色のキンミズヒキ。ドライフラワー化しつつあるネコジャラシ、紅白揃ったマンジュシャゲ他、他。言葉にするとそれらとの邂逅がとても貴重だったように思えてくる。嬉しい。


●十月一日

七月から、朝五時出勤なので、
家を出るのは四時四十分ぐらい。
家から自転車で五分位なので、通勤時間が殆どかからないのはいい。
その時間は、もう今はほとんど夜。
夜勤に出かけているような気持ちになる。
七月、八月は、朝だった。つまり空が完全に明るい。
九月になって、だんだんと、東の空に、まず朝焼けのオレンジ色、
サーモンピンクがうっすらと眼につくように。
そのうち、だんだん東以外の空が暗くなりはじめ、
朝焼けの色がより目立つように。
それもどんどん地平線の端に沈み、空の暗さが増してきて…。
この頃は、もうほとんど夜。
けれども、どことなく、地平線のあたりがほの白い。

朝の景色を見るようになって、しったことがすこしある。
まず、よくいわれる、朝焼けは天気が悪くなる、というのは、
一概には言えないということ。
太陽が顔を出したのち、雲塊の陰に当たる部分が
青みを帯びてどことなく くらい感じがする朝焼けは雨、
太陽が出る前から、東の空が濃いピンクからオレンジ 色に焼け、
太陽が顔を見せる頃には、黄色を帯び、さらに白っぽい空に
変化するときは、概ね好天なんだとか。

次に、朝の微妙な呼び方の違い。
日の出が、太陽の上縁が地平線にくる瞬間。
明け方は、日の出よりも前に、空に薄明かりが射し始め、星が見える暗さが残る時。
夜明けが、日の出前で も十分に空が明るい段階。
東雲(しののめ)は、日本の古語で、夜明け前に茜色にそまる空のこと、
また東の空にたなびく雲”のことだとか。
また、本来は夜半すぎから夜が明けるまでの間を
「暁」「東雲」「曙」、
空がほのかに明るくなった頃を「朝朗(朝ぼらけ)」と細かく分けていたとか。

そして、月。十五夜を過ぎ、十六夜から、新月に近い月齢二六の有明月
までは、明け方に、だいたい西の空に見えるということ。
月も太陽と同じく東から西へ移動するから(というか地球が回ってるから
そう見える)、明け方、しずむ前にまだ月が見えているということなのだと。

なんだか調べると、それらとすこしだけ近づけたような気になる。
名前をしったときのように。

今朝十月一日は、朝四時四〇分に、大きく明るい月が見えた。
十六夜だから、また見え始めるようになったのだ。
九月三十日が十五夜お月様(実際の月齢は十五ではなく、今回は十四点幾つ)
十月一日が十六夜。朝五時の月齢はおそらく十五ジャスト位だから、
ほぼ満月、まんまるのお月さま。
朝焼けは、しばらく、来年まで見ることができないけれど、
月はおそらく、一カ月のうち、半分ぐらいはずっと見えるのだろう。
そのことに、ほっとする。
そんなことを感じながら、
月明かりで明るい空を見ながら、自転車をこいだ。

夜勤に出かけているような気がする、といったけれど、
「朝一番早いのは、パン屋のおじさん♪」という歌のとおり、
パン屋さんや、牛乳屋さん、豆腐屋さんは、きっと開いてる。
新聞販売所も。コンビニに、その日の商品を配達しにきたトラックを見る。
やっぱり朝なんだなと、川をわたって、職場へむかった。


●十月五日

気分が重い。言葉が出ない。余計に気分が重くなる。更に言葉が出なくなる、すると景たち街の言葉もわからなくなり…。曇り空は余計に。気持ちと雨もよいの空が混ざりあうみたいだ。崖の坂を登る。木々も曇り空の元では秋の装いを増したように暗い…。よし、言葉が少し出てきた。明日は別の日。


●十月八日

今朝は下弦の月。早朝五時、ほぼ中天に半月。暗がりに明るさが嬉しい。早朝バイトから帰った午前十時。西の空に少しくずれた半月型の雲。そのすぐ上にまだ下弦の月が見える。二つの月だ。崩れてしまった月の雲は、地面に落ちて、また空に戻ってきたから。想像することで感触がふんわりとやってくる。


●十月八日

というすいぶんをはじいて、すすったこえがのどをうるおす、という。なんというあわいなのだろう。のむことがのまれ、ひとつぶのすいてきが、やぶれ、やぶれてわたしにとどく。あなたのなかで、どんなにかおいしくなりたかったよ。ごくごくと、ふるえるすいしつのやさしくって。(おいしい水を3) #pw10

●十月九日

あまいみずの、こっちだよ。はっこうする、あれは、おいしいいのちです。にがい水なら、わたしをさそう。ちいさなしじまが、いっせんひいて、きれつのなかで。かれをどちらによんだのか。ほ、ほたるは水だけのんで、みえなくなった。ゆめでのみましょ、あっちにこい。(おいしい水を4) #pw10


●十月八日

久しぶりの夜の外出(早朝五時出勤なので基本、日が暮れる前に家にいる)。新作DVDレンタル返却の為。両脇が林になった崖の坂を登る。夜だから見えないけれど下には湧水を集めた池。虫のすだく声がおびただしい。ひんやりとした秋の夜の空気。新鮮だからかわくわく。だが暗さが少し怖い位だ。


●十月八日

『ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』 観ました。
ヴィム・ヴェンダース監督が好きで、映画館でみようかと
思ってたんだけど、結局見そびれてしまっていたもの。
世界的に有名なドイツの舞踏家ピナ・バウシュ(二〇〇九年他界)
のドキュメンタリー。
踊りはすばらしかったけれど、
ヴェンダース・フアンとしては少々ものたりないかな。
ヴェンダースらしさが感じられなかった。
同じドキュメンタリーなら、
ライ・クーダーとキューバの老ミュージシャンたちの
それ、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』のほうが、
ヴェンダースらしさがでてた。
あのガラクタちっくなものへの視線、色たちへの傾倒、
使い方とか。
それは仕方ないのかな。もともとライ・クーダーの
音楽は、ヴェンダースの映画の中で、つかってきたものだし。
踊りというもうそれだけで確立しているものに、
ヴェンダース的なものを、取り入れるというのは、
難しいのだろう。
ただ、『ピナ・バウシュ 踊り続ける命』、始まりとラスト、
が関係しあっている、円環をなしている、というのは、
映画の手法としては、よくあることなのだけど、印象的だった。
最初と最後は共通した踊り。
春、丈の短い茎の動き、夏、丈が伸びてきて、太陽が照ってる動き、
秋が落ち葉、冬が、寒そうにこごえる動き、という四季の踊りで。
団員全員で。列をなして踊る。
最初はピナがいる。
最後はいない。
四季がめぐって、
ピナが、踊りを通して、彼らのなかに、
そしてそれをみるわたしたちのなかに生きつづける。
けれども、やはりピナはそれでも旅立ってしまってもいる。
その両方をあらわすような、そんな最初と最後が響き合っていて。

(これを書いたあと、友人から、ピナの死で、ヴェンダースは映画撮影を中止しようとしていたこと、そして本作は本来撮りたかったものと大分違ってしまったことなどを教えてもらった。)


●十月九日

久しぶりに龍神様の所へ。違うのかもしれないけど、不動の滝があって、湧水がでる口が龍になってるのでそう呼んでる。湧水の出る崖にシュウカイドウが咲いていた。桃色の花を、しずくをしたたらせたみたいに、頭をたれてつけている。龍の水と桃色の水。夏よりも穏やかな日射し。景色は日々新しい。




●十月九日

みず、きりさいて。したたりがちしぶきをちかづけて、だからほとばしりが、うみにとける? すするように、おいかけたい。いつかのちしおがうずまいていた、とどかない、おいしいですか。ふねをさがし、みおをかさねてついやすこと。のまれてはもどる。みず、さけんで。(おいしい水を5) #pw10


●十月十日

曇り空。お寺の境内に白い彼岸花が数十本列をなして。もう花も終わり。花弁がしおれ、垂れ下がっているのが白い骨のよう、赤い彼岸花よりもこちらのほうが幽霊のようだ。手をだらんと下げて、幽霊が沢山。彼岸花の縁起の良くない別名達が可哀想だと思ってるくせに、こんな想像をする自分がおかしい。


●十月十日

旧いうたが焦がれていた。あなたのまちで、たどりつき、メロディ、なんと小骨のような。わたしを眠る。しずかに眠る。ささった歌詞が声をうたった。きれつのなかからこぼれるものよ。たずねるなら、きっと。あたらしいうたがもたげていた。どんなにかあなたを起きて。(ねてもさめても1) #pw10


●十月十日

今日の昼間は少し汗ばむ位。穏やかな陽射し。五月位の陽気と、今日を初夏だと思おうとしてみる。どうしても駄目。春と変わらず鳴くヒヨドリの声を、秋を切り裂くような音だと感じるみたいに? 雲が違うから、落ち葉を見るから? 色づいた紫式部、咲き始めのホトトギス。それら全てが秋だと告げて。


●十月十二日〜十月二十一日

今朝は有明の月。夜のような朝五時前の東の空が少しだけ明るいのは、太陽ではなく、細い月のせい。月齢16から新月までは朝五時位に月が見えること、東から西へ、季節によって見える位置と時間が違うこと。ようやく少し判ってきた。朝、月が見えると嬉しいから。好きな相手のことは知りたくなるのだ。

波がほとばしり、ちらめいていた、というお祭りがあとをたたない。ぱだんぱだんと眠るのだ、ちいさなうらをかえしてみる、日々がくらく、まぶしくって、ことばの奥ですすってみるの。とおいためいきが、にぎわいだ。起きあがって、うちよせて、祭囃子はこわれない。(ねてもさめても3) #pw10

こぼれた関係が、しじまを透明にこだましていた。ふたしかな音色がしずくをひもとき、別の、大切なかんたいになる。そんなふうな月夜でした。まがりくねった青空です。ぐらすのなかで声をみつめる。せつななら、きっとしせんがふれましょうね。とおいかんぱいをのみほす感触が、てわたされるように、あなたにかたむく、はんきょうでしたよ。(おいしい水を6)#pw10

今日出合ったモノ(のうち、秋っぽいもの)。道端に転がるドングリ、落ち葉を掃く人たち。塀から、静かな滝のようにしだれて咲く萩の花。大きな松ぼっくり。突然むせんばかりの金木犀の香り、と思ったらようやく金木犀の本体に。まだ香りにしか会っていなかったから。イワシ雲の泳ぐ高い空。

今日出合ったモノ(秋っぽいもの以外)。デコイのような鴨(というのは本末転倒?鴨に似せて作ったのがデコイだから)。触らせてくれるキジトラ斑猫には兄弟だか子どもが近くに何匹か。そっくりで同じ大きさで(彼らは触らせてくれなかったが)。ギャー、ギョーっ、小さな悲鳴のように鳴く尾長。

おびただしい金木犀の香り。咲き始め時、最初はかそけき匂いが、風に運ばれてベランダにやってきていただけで、花の場所はわからなかった。今はあちこちで金木犀の本体と香りが結びついて。だからだ、秋の日射し、風のように色はわからない筈なのに橙色だと思ったのは。行く先々でむせそうな穏やかさ。


●十月二十二日

長らく秋は終りに向かうようで好きではなかったのに、段々しみてくるようになってきた。すがれた葉や落ち葉にまじって咲く様々な花、鮮明な空、色づきはじめた実や葉。黄ばんだ陽光。日射しは透明な筈なのに、どこか黄色が混じってみえる。黄昏色なのかもしれない、黄色く終章を迎える前の祭りの色。


●十月二十三日

ワインの話1 実は以前、ワイン道楽をしていた時期がある。主に白だけど(赤は皮の成分の何かが身体に合わなかったらしい)。一週間に一本の贅沢。ワインはラベル記載の地域が狭まるごとに高くなる。国→○○地方→○○村→畑といった具合。特級畑は値段的に無理なので主に村レベルのを。

ワインの話2 かつての一週間に一度の贅沢。今週はシャサーニュ村、来週はムルソー村(カミュの小説の主人公みたいな名前)、シャブリ地区、マコン地区。地図を広げて、村に出かけてる気になって。シェリー酒も好きだった。おもにティオ・ペペ、こちらはスペインのワイン系のお酒。そしてグラッパ。

ワインの話3 グラッパはワイン道楽をやめて後、ご馳走になって知った。先日近所の酒屋で発見、つい買ってしまう。ワインの搾りかすを蒸留させたイタリアのお酒。ブランデーの一種だけどウオッカにブドウの香りと仄かな甘みを足したよう。口にバッカスの精が遊ぶ感じ。芳醇な花が拡がる。度数高し。


●十月二十四日

昨日の雨。雨は日射しが感じられないから元気が出ない。小降りになった時に外へ。向うに少しの晴れ間、古い西欧の風景画のようにドラマチックな空だ(当時は室内で描いていた)。金木犀の花びらが落ちて敷きつめられた中を水溜りが小川のように流れている。小さなオレンジ色の竜田川だ。今日は晴れ。



うちのマンションの下の駐輪場で。以前見かけた虎猫のお母さん。近づくと鳴くので、指を出したら臭いを嗅いで後、また少し離れてニャアと鳴いた。触らせてくれないかなとドキドキしてたら、繁みにいた蟷螂をすかさず口に咥えて塀の向うへ。呼ぶようにアオンと鳴く。多分仔猫達に狩りを教えるのだ。


●十月二十五日

外を回る仕事。今日は何に出逢えるだろうか?そう思うと心が温もる。未明は雨、朝は曇り、日中は晴れと、三つの天気に逢った。暑い頃より過ごしやすいのか猫たちあちこち。勝手に十一月の花だと思ってたツワブキ。狂い咲きなのかもしれないけど秋になじんだツツジの濃桃の花。明日もきっと出逢いが。

公園の田んぼは稲刈りがとうに終わっているのだけれど、落ち穂がまだたくさんあるのだと、鳥たちが連日教えてくれてる。鴨、ハクセキレイ、雀、鳩たちが田んぼに群がり啄ばんでる。自転車でその脇を通るといっせいに飛びたってしまい、すまなく思うが、羽ばたく姿が静止画のように目にやきついて。



朝五時前出勤…朝といっても今時分は真夜中みたいだ。金星が明るい。月はまだ。あれは満月が欠けた十六夜過ぎからでないと見えない。新聞屋さんや搬入のトラックに親近感。暗い川面にコサギが立っていた。多分寝ているのではないと思う。そこだけ白くほの光るように、すっくと。美しい力をもらう。


●十月三十日

家一軒分の空き地にススキが沢山。陽光を浴びて輝く。コの字になった三方が民家、壁。箱根の仙石原を重ねる。近くの知らない家の庭にフジバカマ、ホトトギス、ミズヒキの寄せ植え鉢、小さな植物園。旅先にいるみたいだ。旅=概ねの非日常が町で日常と不明瞭な関係を作っている。日々の旅、旅の日々。



明け方に見える月は十六夜から有明月位迄、そう覚えたので、満月の今朝、西にまん丸の月が見えたのに驚く。うっすら雲がかかっている。月明かりの作る暈が、子供が描く太陽の光のように、漫画のフキダシの強調のように見えるのが楽しい。同時に午前四時四十分はもう朝ではないのだと思う。夜中の満月。


●十月三十一日

河原に一眼レフを向けている初老の男性、何回か見かける。何を撮ってるのか聞いてみたいといつも思いながら通りすぎていた。前は多分コサギ、カルガモ。今日は?自転車のブレーキ音のような鳴声。翡翠だ。私もカメラを向けた。途端に向うから話しかけてきてくれた。縄張りの事など。嬉しく少し温もって。

夢を見た。ハロウィンのカボチャの顔を怖いものにすること。二人の人物が集まったのか、怖い顔にするために作業をしていたのか…。善と悪とかの話だと思う。恐怖でも安堵でもない、どっちつかずの顔にしかならない。どちらにも行けない。一人は去った。もう一人はその場で途方にくれる、それは多分私だ。


●十一月一日

あちこちでホトトギスの花を見かける。葉や花の外側に毛があるから?鳥の名前のせい?いや秋の空気のせい?ともかくずっと乾いた花のように思っていた。そっと触ってみる。しっとりとしていて驚いた。これも小さい頃に覚えた花。来年からこの濡れたような優しい手触りも思い出に積み重なるのだろう。



●十一月二日

葉緑素と血液の分子構造が酷似していると、松岡正剛『花鳥風月の科学』で知った。植物と近しいことが嬉しい。だから懐かしいほどに彼らが優しくそよぐのだろうか。海が血液と成分が似ていると知って、身体の底で海鳴がするのを感じた時を思い出す。柿があちこちの庭で日射しのように色づいて。
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