Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2013-05-25

場に咲く花を言葉が縁だ─『異界を旅する能』『求塚』他









 この頃、日本的なもののほうへ気持ちが傾いている、と前回書いた。理由はいくつかあるかもしれないが、ぱっと思いつくのは北斎だ。北斎によって、浮世絵のよさを知った。触れられることができた。それまではどうも浮世絵は苦手だった。いいと思えなかったのだ。もっとも今も、浮世絵に関しては北斎以外のものにはあまり触手がうごかないけれど。
 そして若冲、酒井抱一など、江戸の画家たちの絵にもひかれるようになった…。
 そう、たとえば江戸時代。わたしは江戸時代には、それほど思い入れがなかった。なんとなく、身近な感じがあったからだと思う。日常では決してなかったが、日常的なもの。たとえば、わたしが子どもの時は、今よりももっとテレビで時代劇を放映していた。子供むけの番組でも、忍者ものとか多かったと思う。あるいは単に江戸(=東京)とよばれる場所に住んでいるからかもしれない。どこかでずっと、江戸的なものは、わたしの中で、日常と呼ばれるものを色濃く反映する言葉として、残っていったのだ。けっしてわたしがからみとられてしまわないように、のけておく日常、そちらに区分してしまったのが江戸という言葉だった。対になった非日常のほう、その対の均衡を保とうと(気をぬくと、それはすぐにバランスをくずしてしまうから)、日常の側にくくりつけていたのが、ちょんまげであり、高島田であり、サムライであった。
 わたしは知らなかっただけなのだ。浮世絵や、歌舞伎、浮世草紙、浄瑠璃…。江戸の人々の日常と密接につながった非日常たちに。かんざし、港外、根付…。そこには、わたしが求めていた、非日常の花が咲いていただろうに、ずっとないものだとおもって通り過ぎていたので、見えなかったのだ。
 ほかにも理由はあるかもしれないけれど。戦後だいぶたってからの生まれだから、それほどは顕著ではなかったけれど、まだ、どこかで古い日本的なものから目をそむけるという風潮も周りにはあったのではなかったか。日本ではなく、特にアメリカ的なもの、おおざっぱにいえば戦勝国的なニュアンスを含んだ外国のものがいいのだと。
 そういえば北斎も、多分、再び脚光をあびたのは、外国に認められたからでなかったか。…ちなみに、今それをすこしインターネットで検索して調べたら、やはり最初は十九世紀後半、日本の焼き物を輸出する際の詰めものにされていた『北斎漫画』をきっかけに、北斎はヨーロッパで評価されるようになったとあった。それ以後、肉筆画、浮世絵が、大量に輸出され、おそらく絶賛され…。フランスでは伝記本も十九世紀末にはもう出ていたらしい。ともかくそのことで、逆輸入されるように、日本で再評価されていった、そんな面もあったのだ。一九九八年にアメリカの『ライフ』誌が企画した「この一〇〇〇年間に偉大な業績をあげた世界の人物一〇〇人」で、日本人で唯一選ばれたのが北斎であるし。当時、日本でもニュースになったと記憶しているけれど、別に感慨はなかった。けれども、それからだいぶ経って。わたし自身、北斎好きになったきっかけは、パウル・クレーの展覧会で見た『北斎漫画』だった。クレーが模写したというそれ、そしてその美術館の常設展示にあった、北斎の浮世絵…。つまり逆輸入的な、誘いだった。

 話を戻すと、この頃、絵画などを見るのにも、江戸時代に限らず、日本的なもののほうに心ひかれるようになっている。新鮮である。わたしはそうか、今まで、外国に異国、異界、非日常を感じてきたのだと、ふと思い至る。エキゾチック。異国情緒。それこそが、日常に対となる均衡をになうものだった。最初は映画だった。父が古い時代のフランスやハリウッド映画を好きなこともあって、一九三〇年代から五〇年代、せいぜい七〇年代までのそれ…。おもに中学生の時だった、けれど二十代前半まで、むさぼるように映画を見たものだった。そしてその原作となった小説を読むことからはじまって、翻訳小説へ…。あるいは映画『モンパルナスの灯』のモディリアニ、いや、映画そのものが、非日常だったから、それに近しいものたちは、すべて、非日常だった。
 そういえば映画も、北斎と同じように、小津安二郎監督『東京物語』のオマージュである、ヴィム・ヴェンダース監督『東京画』を見たのがきっかけで、小津にはまったことがあった。

 本題…。だったのだろうか。実はすこし前にいった「かわいい江戸絵画展」、府中市美術館のミュージアム・ショップで『異界を旅する能』(安田登、ちくま文庫)を見つけた。「異界」という言葉にまず惹かれた。ちょうど展覧会という異界から出てきたばかりだったし、そこでこうした題名に出会うということは、非日常からの啓示か符牒のようだった。
 これはワキ方の能楽師である著者がワキから見た能世界を綴った能案内、紹介、入門書といっていいかもしれないが、異界という非日常をワキ的に生きることで、わたしたちも出没させようという、異界への誘いとしても読める(私はそう読んだ)。
 わたしは恥ずかしながら能をほとんど知らないできた。能は概ね、現在能と夢幻能にわかれるそうだ。現在能は、歴史的な人物等の時間に沿った物語、そして夢幻能は神や亡霊、鬼の話、こちらが特に異界的。夢幻能の典型的なものを書いてみる。ワキ(多くは僧等の旅人)が、ある場(名跡、歌に詠まれた場所が多い)で、シテである女性に出会う。シテとワキはその土地にまつわる物語などをするうち、いつしかシテが、その話の中で語られた人物になってゆく。次に登場したときは、女性は本来の姿(亡霊など)として、物語を語り、舞を舞う…。
 この設定に、昔話のある型、見知らぬ館という中間地点で、非日常の喩である美女と日常の喩である村人がひととき出会うというそれを思い浮かべてしまうが、つまりシテは非日常そのもので、ワキは日常の縁(脇)にいるものなのだ。ワキはシテが登場すると、殆ど舞台の脇に座ったままで、何もしない存在と化す。このことから脇役と関連づけられてしまうことも多いが、そうではない。本来「脇」は〈古語で言えば〈分く〉というのが原義だ。(中略)ワキとは「分ける」人であり、そして「分からせる」人なのだ〉、とある。分からせるとは、通常なら通り過ぎてしまうような「場」を、非日常の場として、わたしたちに分からせてくれる存在という意味、そして「分ける」とは、多くはシテの残痕の、ぐちゃぐちゃになった思いを、解きほぐし、「分け」、再統合する、ということだ。
 ワキは多くは「諸国一見の僧」等、名前を持たない、無名の存在である。そのワキがどうして、「場」に出会う旅、異界をめぐることができるのか…、そのことについて語られてゆく。詳しくはぜひ本書を読んでもらいたいのだれど、この異界というのは非日常、ハレとケの「晴れ」の時間だ。日常ばかりになってしまうと、〈日常の「褻(ケ)」と浮遊の「離れ(ガレ)」で「穢れ」となる。そんな穢れを祓うのが、「晴れ」の日だ。「祓う」と「晴れ」は同源の言葉だろう〉と語られ、「晴れ」という非日常と出会うことの大切さに言及されている。昔なら盆(先祖の霊と出会う時間)、暮れ、正月、お祭り…そして、「場」だ。この場は、もしかして通り過ぎてしまうかもしれないところだ。能でも、舞台となる場は、村の人たちにとっては、何も起こらない。けれども縁を行く彼だけが、亡霊と出会う場となる、〈そのような「場」に出会える人こそが能のワキである〉のだった。
 ワキがどうして出会えるのか。日常と非日常を、此岸と彼岸をつなぐ存在であるのか。それは彼が自らを主張しない、無力な無名の存在(殆ど透明な存在)であるから、そして旅をするものであるからだとある。この旅というのが、歌にかかわってくる。場の多くが名所旧跡で、「歌枕」と呼ばれる場所だということ。昔、歌枕を通る時、旅人は歌を詠まなければならなかった。鎮魂のためでもあるが、そこが「聖地」でもあったからだ。
 …わたしはこの本を、ワキという存在を、詩人に引き寄せて読んでいる、そして紹介している。彼の旅は深淵を覗いた者のそれであり、境界を行くもののそれである。自分を無用の存在とすることで、ワキという縁、つなぐものとして在ることができる…。詩人との共通点は、この無が、詩の言葉とかかわっているからでもある。詩の言葉は自分を主張することがないから。そして歌の存在だ。能舞台は〈懸詞を多用した独特の文体で観客を非現実の世界に引き込んでいく〉。〈掛詞による無限連鎖文章作法〉が主語を変化させ、過去の時間を存在させる。例えばワキの僧に出会ったのは、土地の娘だった筈なのに、いつしか歌枕ゆかりの過去の亡霊となっているといったことだ。〈掛詞が繋ぐのは、前と後の語だが、これはいわばこの世とあの世、日常世界と異界とを結ぶ働きであると言っていい〉。掛詞の例も詳しくあげたいが、こうした散文で書くと、凝縮である掛詞から沢山の事が出てくるから、結構な分量になってしまうので、それは避けたい。〈能の文章は現代語に訳されることを拒否する。現代語は論理的に書かれるから〉とあるのも、そうしたことと関連している。あるいは詩が、それでもやはり凝縮の空間を作り上げることばたちであることとも。詩の言葉を散文に訳すことができないことと同じように。
 けれども何とか端折ってみる。能『定家』。式子内親王の歌を元歌とした「玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば、/忍ぶることの弱るなる、/心の秋の花薄、穂に出で初にし契りとて、/またかれがれの仲となりて、昔は物を思はざりし」…。「心の秋」が「心の飽き」にかかり、「かれがれの」が「枯れ枯れの」「離れ離れの」とかかる。そればかりではない、「秋」や「薄」が、別の和歌を喚起させ、ほんの数行で、舞台を重層的に作り上げてゆく。掛詞や縁語を多用した「歌語」は元々言葉に備わっている含蓄を、さらに拡大させ、〈記紀歌謡から万葉、古今、新古今を経て今に連なる連綿たる歌の歴史的記憶をその胎内に内在させ、ポンと歌の中に投げ込むだけで、その歴史的記憶を一瞬にして、今ここに開花させる力を持つ〉。
 本書後半では、ワキ的に異界を現出させた者として、松尾芭蕉、夏目漱石(主に『草枕』)を例に挙げ、わたしたちが異界に行くために、旅に出ること、旅の途中で、句や歌(詩)を読むことなどを勧めてもいる。旅は名所を巡るものとあるが、本来それは、異界と日々の縁ならば、どこにでもあるものだと思う。花一輪思わず咲いた場所、そこが場としてざわめくはずだと。縁は、あちこちで亀裂のように誘っていると思うのだ。

 この本を読んでいる途中、NHKで『古典芸能への招待 能「求塚」〜観世流』をやっていたので、録画して観た。安田登氏は、宝生流なので、観世流とは流派は違うのだが、丁度よかった。TVでは一年に数回、やるかやらないからしいから。こんな風に重なることがあるのだと思う。
 言葉がわからないのでは…との不安が実はあった。だから「求塚」のあらすじをあらかじめ調べたりしていた。やはり旅の僧であるワキが、生田の求塚に来て、由来を尋ねる。村娘が語り、その村娘が菟名日処女(ウナイオトメ)になる…。二人から求婚され、あの鴛鴦に矢を射て、当たった方を選ぶといったが、両方の矢が鴛鴦に当たってしまう。選べないと川に身を投げ自殺し、二人もまた互いに殺し合い、三人が地獄に落ちる。二人に地獄でも責められる娘。鴛鴦も地獄で化鳥となって、娘の頭をつつきにくる。この演目には殆ど救いがない。たいていの能では、ワキである僧に語ることで、浄化され、亡霊であるシテは消えてゆくのだそうだが、地獄にいるまま、終わる。僅かに僧に弔いをしてもらい、少しの休息を得ただけだ。
 言葉の問題は何とかなった。というか、おそらく含蓄的なこと、歌から歌への連想など広がりについては多分わからないことが沢山あったのだろうが、おおよその意味はわかった。演目に字幕がついていたことも助けになった。字幕がついていなかったら、謡としての言葉を聞いただけでは、なかなかわかりづらかっただろう。そう、それでも、わからない言葉は実際あったけれど、たぶんそれでもいいのだとも思った。思ったよりも敷居が低いのだ。気がつくと、違和感なく舞台の異界に入り込んでいた。最初に、無名の旅僧が現れる。雪まだ残る中、若菜を摘む土地の乙女たち。冷たい辛い仕事であるようだが、描写がとてもしみいるようだ。描写の美しさというか、響きに、つい辛いということを忘れてしまう。そして乙女たちの一人が、生田の求塚のいわれを語るうち、その当人となって…。これが異界へはいるための言葉なのだと、ほとんど聞き惚れながら…悲惨な状況ではあるのだが、聞いていた。次に求塚から出てきたとき、地獄の描写がウナイオトメにより、おどろおどろしく語られるが、シテは静かに舞うだけだ。それがまた観るわたしたちに想像させ、陰惨な世界を醸しだす。その時にシテが着ている衣装は白地に美しい鴛鴦。化鳥となったそれがあるのも効果的だった。
 夫婦仲のよいとされる鴛鴦と、夫婦にならなかったウナイオトメの対比、そして生田川に身をなげて死ぬという対比…。
 「住みわびつ、わが身捨ててん津の国の、生田の川は名のみなりけりと、」

 自宅からの最寄り駅は二つあるのだけれど、久しぶりに急行が止まる方の駅に行くことがあったので、駅ビルの中の本屋に入った。『異界を旅する能』を読んだことがきっかけで、『おくのほそ道』を読み始めている。今までなぜか触手がのびなかったというのに、げんきんなものだ。その関連で、なにか次に読むように、古典文学を文庫で…と思って寄ったのだけれど、結局『英訳付き 伝承折り紙帖』(池田書店)という本を買うだけになってしまった。頁から切り離してつかえる折り紙と、やっこや手裏剣、舟など、子供の頃に折って、折り方を忘れてしまっていたもの、思い出したかったものの折り方が掲載されていたので。そして折り紙なのだが、文様に解説がそれぞれついていたのも、面白そうだった。見本帖のようだ…頁を開く。「雲立涌」「藤花」「子持吉原」「大納言」そして「観世波」…。観世家が装束に用いたものからきた文様だという。流れる水のゆらぎがあらわされている。観世流の「求塚」を想起しつつ、こうしてわたしのなかで、掛詞のように、なにかがつながって、連想のように広がってゆくのかとも思った。
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2013-05-15

二重性をさしだす、おおむね優しい…クリムト展(宇都宮)

 この頃、どうも日本的なものに回顧している、そんな風に感じている。そのことについて、詳細は多分次回書くと思う(このごろ、どうもここがさぼりがちになってしまっているので、確約できないのだ)。それもあって、どうも西洋の絵であるとか、いまいち触手がのびなくなっていた。行こうと思っていたのに、結局フランシス・ベーコンも行かなかったし。
 日本的なもの、というのは、あまりにも身の回りに近すぎて、ながらくそんな風に感じていたからなのだけれど。

 去年から、二〇一三年に開催される展覧会、みたいな記事で、クリムト展をやるのは知っていた。愛知県美術館、長崎県美術館、宇都宮美術館へ巡回。そういえば、宇都宮にもう来ているんじゃないかしら。調べたら、四月二十一日〜六月二日まで、もう開催されていた。「クリムト 黄金の騎士をめぐる物語」展。ほんの少し迷った。上述の気持ち、そして実は最近、ミュシャ展にいってきたのだけれど、すこしも感動しなかったので…(あれは、どうも商業的戦略が前面に押し出されているようで、それにうんざりして、というのもあったようだけれど)、でも行くことにした。
 ちなみに、宇都宮は、うちから結構遠い。だから行くことを選ぶということは、普通の展覧会よりも強い意志を持つということだ。そして、この意志を後押ししたのは、迷ったにしても、どこかで予感というか、クリムトにたいして信頼していたという気持ちだったのだろう…と後で思った。





 展覧会概要を、宇都宮美術館HPやチラシから。
〈ウィーンの世紀末芸術を代表する画家、グスタフ・クリムト(一八六二─一九一八)。その甘美で装飾的なスタイルは、今なお多くの人々を魅了し続けています。その一方でクリムトは、当時のウィーンの旧弊な美術界に立ち向かい、自ら結成の中心となった「ウィーン分離派」のメンバーとともに、自由で新しい芸術の創出に尽力しました。本展のタイトルにもなっている「黄金の騎士」は、「理想を求めて闘うクリムト自身」を象徴するイメージとして知られており、また、多くの謎を秘めた作品でもあります。今回は、この「黄金の騎士」にまつわる物語をひもときながら、国内外のコレクションから精選された油彩、デッサン、版画、ポスター、書籍、雑誌、家具、美術工芸品、ジュエリー、写真などによって、クリムト芸術と世紀末ウィーンの諸相を紹介します。〉
 当日は早朝バイトをしてから出かけたので、出発時にはまだ頭の切り替えがうまくできていなかった。車で出かけたのだけれど、まるで車で買い物に出かけるみたいな頭だった。ちなみにこの頃、バイトで疲れていて、そんな頭のときが多い。本末転倒だと思う。なにが本末転倒なのかわからないけれど、そう思う。わたしは非日常のために生きているのだ。日常に傾きすぎてはいけない。
 天気は雨。これで晴れていたら、もうすこし、心が文字通り晴れ、晴れと褻の、ハレの方へむかっただろう。(ちなみに、ハレとケの“ハレ”には払うという意味も含まれているそうだ)。非日常のほうへ。
 ぼうっと、車窓からの風景を眺めている。フロントガラスに当たった雨粒が、下から上へ、登ってくる。考えてみれば当たり前のことなのだが、雨滴といえば、上から下に落ちてくるというイメージが強いから、すこし不思議だ。下から上へ登る雨滴が、まるで生き物のように思えてくる。ワイパーが振り子のようにうごき、雨滴をリセットする。
 窓の外の緑が、埼玉を越したあたりから、目立つようになる。田んぼも水を張っている。場所によっては、もう稲が植わっていた。田んぼ池たちの季節の到来だ。そうして少しづつ、変化に気づかないぐらい、あたりの木々の、緑の色がかわっていただろう。宇都宮美術館がある辺りでは、たぶん、標高的にも、それほど差はなかった。それでも、まだ季節がほんのすこしだけ、わたしが住んでいる辺りよりも、春をたもっているようだった。初夏のそれではなく、春の緑(これはそのあとに訪れた日光と比較してだ。日光ではおわりかけであったけれど、桜がまだ咲いていたから)。
 さて展覧会。最初は初期のデッサンや、古典派的な風景画、人物像など。後年の作品の強さは感じられないけれど、なんとなく惹かれる。バラを描いた花の秀作に、あでやかさをみてとる。
 アカデミスム、旧体制に決別する目的で立ち上げた「オーストリア造形芸術家協会(ウィーン分離派)」(一八九七年)の展覧会ポスター。ウィーン分離派は、イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の流れも汲んでいる。生活に、芸術を、だ。この一回目の展覧会のポスター、《第1回ウィーン分離派展ポスター》(一八九八年)は、好きな絵のひとつだ。以前、ここでもふれたことがある(二〇一〇年九月五日)。だから簡単にしかふれないが、画面上四分の一に、がミノタウロスを退治するテセウス、真ん中が空白、画面右端にそれを見守る、横向きのパラス・アテナ。画面下端にレタリング。ミノタウロスが旧体制の喩らしいが、そうしたことよりも(それは、もはや時代が下ってしまった現代では、事件としては見えにくい情報だ、というかそれがなくても、この絵はわたしたちに語りかけてくるものだから)、余白の使い方、その緊張感にひかれたものだった。贅沢な余白。ぎりぎりの余白。そしてパラス・アテナ。りりしいと同時にクリムトの描く女性、なまめかしさが混在している。



 展覧会会場には、実物大写真パネルの展示が何点かあった。
 ウィーン分離派結成前、ウィーン大学大講堂の天井画を依頼され(一八九四年)、描いた《哲学》《医学》《法学》(発表は一九〇〇年〜一九〇三年)。オリジナルは一九四五年に焼失してしまったそうで、白黒だった。女性の裸体表現に当時は厳しい批判にさらされたそうだ。だが特に《医学》。美しい女性たちのからまりあう、藻のようなながれに、死神がいる。あるいは死が、一人の女をだきすくめている。生と死、絢爛さと闇の渾然一体となった描写に圧倒される。それは原寸大だからというのもあった。そして白黒だからというのもあった。或いは失われたものへの寂しさも。白黒だからこそ、モノクロ映画のように、わたしに想像させてくれる…。いや、やはり作品自体が、感動を誘ったのだ。ちなみに《医学》に描かれている女性の一人、下のほうで壺を掲げた女性、彼女を原型にしたハンコを持っている。ずいぶん昔に、池袋のセゾン美術館だったかのミュージアム・ショップだったか、アール・ヴィヴィアンで買ったもの。これのおかげで、なんとなく《医学》には特に愛着がある。生活と美が、ということも混じっているのか。



 白黒だから…と書いたが、そうでなくとも、やはり惹かれたかもしれない。パネル展示では、第十四回分離派展(一九〇二年)に合わせて制作、展示された《べートーベン・フリーズ》や、ストックレー邸の装飾(一九〇八─一一年)の下絵パネル(《ストックレー・フリーズ》)は金がふんだんに使われている、カラーのものだったけれど、やはり興味深く圧倒された。どちらも、なんとなくではあるけれど、実物をほうふつとさせるのだ。後者の、とくに、《接吻》(一九〇七─〇八年、ウィーン、ベルヴェデーレ宮)の男性の衣装を思わせる、四角い金たちの組み合わせ、矩形の放つ、抽象性の高い、迷路のような鮮やかさを放つ一枚に惹かれる。ちなみに前者は分離派館に、後者はストックレー邸に、現在もなお、あるそうだ。 



 そして《黄金の騎士》(一九〇二年)。《べートーベン・フリーズ》に、実は黄金の騎士が描かれている。芸術を擁護する、孤高の騎士といったところか…展覧会会場にあった「観賞ガイド」には、〈「交響曲第9番」に基づく壁画《べートーベン・フリーズ》を手がけ、ここに初めて、浮き世とは距離を置き、自らの理念を追求する存在として、「黄金の騎士」が登場します〉とある。さらに、今回出品の目玉となっている、愛知県美術館所蔵の《黄金の騎士》のほうは、その一年後に描かれたものなので、関連性が指摘されている。
 黒い、ぼってりとした馬。背景は遠近感のない、森、であろう、緑と白っぽい花たちのもたらす、むせそうな渦。黒い丸みをおびた馬にまたがる、直立不動のような金色の騎士。乗っているというより、立っている姿を真横から見たようだ。黒と丸みをおびた馬と、金色と直線的な騎士の対比も効果的だ。光と闇のようでもある。けれども闇色の馬のほうが、柔らかい筆致なのだ。森の行く手、足元には小さな金色の蛇。
 騎士の顔は見えない。兜のような帽子ですっぽりと覆われている。
 最初の印象はしずかだった。穏やかに、やわらかい印象の森をとおって、音もほとんど立てずに近づいてくる騎士。感動がしずかにやってくる。それは、一目みたときでは、印象にのこらないと錯覚するほどに、かそけき気配だった。けれども絵の前からなかなか離れられない。後をひく。あの《接吻》のような派手さはない。それは彼にしては珍しく男性を描いているからかもしれない。わからないけれど、じわじわと金色のもつ鮮やかさが浸透してくるように、わたしにやってきた。彼は孤高かもしれないが、なぜか温かく感じた。馬や背景の森が、暗い色遣いにも関わらず、優しい筆致だからかもしれない。いや、騎士というのは、本来、強く温かいものなのではなかったか。そんなことを、直立した姿勢が、人を寄せ付けないような強さ、あるいは孤独をたたえているが、金という鎧のいでたちが、それでも太陽の光を想起させる、温かな色合いをそなえている、二つたちの対比が、考えさせてもくれたのだった。それにしても、光と闇、冷たさと優しさ、なんという二重たちなのだろう。金属とぬくもり、という金色の多用、ということもあるだろうか。暗い森、明るい騎士、丸みを帯びた馬、直線的な騎士。たたみこまれ、たたみこまれ、重層的な森を、《黄金の騎士》は、行くのだ。



 最初はかそけき…といえば、風景画《アッター湖畔》(一九〇〇年、レオポルド美術館所蔵)もそうだった。四角く、切り取ったような、ほとんど湖面ばかり。向こうにわずかに灰色の空、そして山影が見える…。けれどもほとんどが灰色の湖にエメラルドグリーンのざざなみばかり。さきの《黄金の騎士》の森がそうであったように、どこか遠近感が希薄だ。それもまた装飾的だといっていいのかもしれない。
 そう、こちらも最初は、ちいさなさざなみだった。通り過ぎてしまうには、けれども後ろ髪をひかれてしまう、水だった。目がさざなみに気がつくとひきつけられてしまう。そのとき、とてもおだやかだったけれど、あの、恍惚とした、異界がしょうじた。波につつまれるような、けれどもその波が、羽毛かなにかのようなやさしさをかねそなえ、同時にやはり清冽なつめたさをうねらせて…。こうしたえもいえぬ感覚をもたらしてくれたのはひさしぶりだ。といっても、それもまた、圧倒的な感動というのではなく、やはりおおむね静謐なのだ。それらが同時に存在して、わたしにやってきた、というか。
 この二重性たち。



 《赤子(揺りかご)》(一九一七─一八年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)。日本初公開だという。金色の多用をやめた、けれども暗い色彩たちが鮮やかさを放っている、晩年のもの。赤子がおおむね青黒っぽい、けれども青とよべないさまざまな色たちで彩られた布だか衣服だかにほとんどおおわれ、頭部だけを画面上のほうに覗かせている。わたしは、最初、これをみて連想したのが、同じクリムトの絵の《死と生》(一九一一─一五年、レオポルド美術館)だった。その色調が似ているのだ。暗いような、けれどもあかるい色たち、《死と生》のほうは、死神と、まどろむ老若男女という対比はあるが、《赤子(揺りかご)》には、それがない。だが、わたしが想起したのは、暗さが死で、赤子が生であったように思えたからかもしれない。あるいはそれらは生まれた時から密着してあるのだと。



 今回、ここにきて、わたしはなんとクリムトが好きだったのだろうと、あらためて実感することができたように思う。彼はしずかにわたしのそばにいてくれた。それはもう若いころからずっと。今回は二重性にひかれたけれど、たぶんその都度、彼はわたしに何かしらをかたりかけてきてくれるのだ。

 そういえばここ、宇都宮美術館には、ルネ・マグリットの《大家族》がある。たしか美術館を開館するにあたって、何億だったか、ともかく高額で購入したと、ニュースになったものだ(後で調べたら一九九六年に購入している)。
 彼もまた、わたしに親しい、いつもなにかしらをくれる画家だ。それはきびしい視線であっても、くれるということで、いつもやさしい。《黄金の騎士》がおおむね温かなように。
 《大家族》は、灰色の海、灰色の空に、大きな、鳩のような鳥。鳥はまわりの荒れた天気と対比的に、晴れ間、晴天の影絵のようである。つまり曇天の空に、鳥の形にうかびあがった晴れ間がある、両立しているのだ。これもまた二重性ではないか。



 美術館をでたのが、もうおそい午後だった。雨がはげしい。中禅寺湖と華厳の滝だけみにゆく。中禅寺湖は、雨と靄で、ほとんど見えない。滝は…天気とほとんど関係ないかのように、はっきりと落ちていた。晴れていても、曇っていても。二重性をつなぐ、流れとして、のように。いや、やはり雨の中、あたりはくすんでみえた、はっきりとしたものが薄れていた、なのに滝だけははっきりとしてみえたのだ。静けさと滝のおちるはげしい音が両立してあるように。雨のほうは、すこし小降りになっている。

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