Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2013-10-25

よしあしのはざまを、月のうかんだ水が流れる─仙僂帆気寮こε

 『仙僂帆気寮こε検戞塀亳美術館、二〇一三年九月二十一日─十一月四日)に行ってきた。
 HP、チラシなどから。
「仙僉憤貅係沺雑^貳三七)は、軽妙洒脱な筆致で描いた書画によって庶民を教化し、“博多の仙僂気鵝匹畔蕕錣譴森掌融代後期の禅僧です。 これまでにも、悠々自適の晩年を作画と趣味に生きた江戸時代の代表的な文化人としての仙兪や、禅画に表されたユーモアとその裏に潜む教えと教訓の世界に焦点をあてて、作品を読み解いてきました。
 今回は、日本に伝わった禅の教えが広く一般に浸透していった近世に、臨済禅をひろめることに邁進した仙僂了僂鬚佞衒屬蠅泙后F辰法中国伝来の禅の精神を再解釈してわかりやすく説きほぐし、さらに、その教えを庶民に広めるにあたって、自らの得意とする画を活用して数多くの作品を残した仙僂伝えようとした禅とはどのようなものだったのか。仙僂料飢茲寮こΔ鮑0貪抔つめ直してみたいと思います。」





 以前何回か出光美術館に行ったとき、ミュージアムショップの絵ハガキなどで、仙僂粒┐聾たことがあったが、絵ハガキだし、それほど注意ぶかくみたわけではなかった(絵ハガキは、展覧会で見て、気に入ってから、じっくりみるものだ)。けれども、すこしだけ、心の片隅に、残っていた。なにか、ちいさなやわらかいかたまりが。ちなみに出光美術館は、出光興産ならびに美術館創設者、出光佐三氏の集めた仙僖灰譽ションが約千点にのぼるという。
 そのやわらかなかたまりが、わたしのなかではじけたのが、「かわいい江戸絵画展」(平成二十五年三月九日─五月六日、府中市美術館)で、はじめて仙僂虜酩覆亮楕を目にしたときだった。
 そのときは、禅画としてとりあげられていたわけではないので、入口として門戸が開かれていたと思う。「かわいい」くくりに入った作品だったので、意味をあまり気にせず、ただ描かれた絵そのものを受け止めてもいいような気がしたから。
 その絵はやさしくなつかしいものだった。稚拙とさえ呼んでしまいそうな、だがそれがきっと幼年につうじる、つきぬけるようなおおらかな筆づかいの“とら”や“ねこ”…。
 と含みがある書き方をしているのは、「仙僂帆気寮こΑ彭犬任蓮展覧会名からも推察されたのだが、禅の知識が不可欠なような気がして、敷居が高く思えたから。
 これはわたしの怠慢なのだろうけれど、絵とそこに書かれた言葉、それらを合わせてメッセージを受け取るということが、あまり得意ではない。これは絵ばかりでなく、たとえば詩などに絵がつけられたもの、特定の絵に対するオマージュである詩なども、どちらかというと苦手だ。
 絵なら絵だけで想像をおよいでほしい、言葉なら言葉だけで。特に後者は、その絵をしらないと、詩のもつ世界が広がらないような気がして、好きではない。
 だが禅画…。仙僂倭義里覆里世ら、それをとりあげないと彼を体験したことにきっとならないのだ。あるいは当時の人々のように感じる…ことはきっとできないが、そんなふうに思いをはせることは。
 と、展覧会会場で、絵とそこに書かれた言葉、そこに読み解かなければならない禅の思想…それらを思い、見ながら、敷居の高さに戸惑った。「〜しなければならない」のではないのかもしれない、もっと自由に眺めてもいいのかもしれない。気さく絵とことばを書いてくれた仙僂覆蕁△發靴して、そんなふうに背中をおしてくれるかもしれない。けれども、どうにも萎縮してしまう。そんな小さな葛藤をいだきながら、展覧会の特に最初のほうをまわった。「一・仙冦伝」「二・仙冏如崛亀/沺α鳥嫂沺κ画」集成─仙僂帆気寮こΑ廖
 ちなみにチラシやチケット、図版カタログなどに使われている絵は、この二章にあった。いかつい丸顔の僧に首ねっこをつかまれているとら柄の猫のもの。《南泉斬猫画讃》という。
 この絵の全体をみると、さらに僧は右手に刃物をもっていた。下方にさらに二人の僧。これは、二人の首席僧が、迷い猫のことでもめていて─猫における仏性のことなど─、間に入った南泉普願が、らちが明かないので、猫を切り捨てたという逸話によるものだそうだ。
 図録には「ただし、この逸話が我執への囚われと親切ゆえの殺生という過ちに満ちていることから、「老師も含め、すべてを切り捨てよ」という意表を突く解釈を仙僂呂弔渦辰┐討い襦廚箸△襦
 正直、「かわいい江戸絵画展」で見た絵との、あまりの違いにショックをうけた。あちらでは竹にじゃれる虎の《竹虎図》、袋をかぶっている猫を子供がはやしたてる《猫に紙袋図》、そんな絵が印象的だったのだ。
 ショックだったのは、そんな殺生の絵が図版やチラシなどに使われていることもあった。それも刃物は見えない、ただ南泉老師のおこった顔と、つままれた猫だけなので、ともするとかわいいとすら見えてしまう…。いや、後だしジャンケンのようだが、実はチラシで最初に見て、かわいいとは思わなかった。それは老師の怖いような顔のせいもあっただろうけれど、猫の表情が、どことなくかわいさとは離れてみえたからなのだ。おびえているとまではいかない。稚拙とさえみえるのびのびとした筆致はいつものとおりだ。だがかつてみた虎たちのような柔らかさがない。背景をしってみると、それは猫のおびえだったのかもしれないと合点がゆくようでもあるのだけれど…、そういいきれない、なにか負のイメージが猫から漂っているのだ。
 ショックはわたしの見方の甘さを思い知らされたことにもよるだろう。だが仙僂蓮猫を切り捨てたことを決して肯定していない。それならいっそ、その場にいた全員を切り捨てるべきだといっている。そのことを…なんといっていいのか、わたしは教義はわからないが、けれどもどちらかといえば肯定したい。そんな風には思った。

 ともかくここには、手放しで、すっと入ってゆけるような絵がほとんどない。その奥にあるだろう、禅の思想が、絵ばかりではなく、言葉とともに、書(描)かれた作品が殆どだ。だから言葉を読む。そして言葉と絵と合わせて眺める。この行為のなかで、禅の知識がないと…と始終針をつきたてられるようで、なんとなくしり込みしてしまう。

 だから言葉がすくないもの…、《狗子画讃》のやわらかい、やさしい犬の子の表情─言葉は“きゃんきゃん”のみ─に出会うとほっとしたりする。だがこれも「趙州犬子」の物語に基づいたものだという。子犬にも仏性はあるか?ない、そしてある。無と有を超えて、云々。犬はよくみると、木杭に紐でつながれている。これも迷いのさなかにあるわたしたちの象徴であるという…。

 どこか、見る目が、宙ぶらりんになってゆく。親しめない、入ってゆけない、入ってゆきたい…。かつての彼らとの隔たりを感じる疎外感。

 だが、なのか。そうはいっても言葉にひかれたものもあった。蘆を題材にした三枚の絵だ。蘆は、“よし”とも“あし”とも読む。つまり善し悪し、善と悪だ。ここで取り上げられているのを見るまでそのことに気付かなかった。だがわたしはこうした言葉に弱いのだ。ひとつのものが対照的な二つの名前を持つということ。両者がそこでわかちがたくついていること。それは詩的な誘いをわたしに示すものとなる。

 まず一枚は、《頭骨画讃》。地面に落ちているどくろの眼窩や鼻から蘆が伸びている。「よしあしハ/目口鼻から/出るものか」。
 教えとしては、善悪は相対的なものだから、右往左往せずに、正しく物事を判断せよ…ということになるらしいが、蘆という字と、絵でもって、善悪のはざまにある存在として、人間が描かれていることに、興味を覚えたのだった。それはどくろであることによって、生と死のはざまをもそこに提示している。というよりも、死を抱えて生きるということか。



 二枚目は《夕納涼画賛》。足元に川が流れている。縁台の上でほぼ裸で座っている恰幅のいい男。丸顔(というより丸い円)で右手をあごのしたに添えている。口はすこしへの字、目は筆でつけたシミのよう。とっくりとおちょこが足元に見える。後ろに草が茂っている。これが蘆なのだが。「よしあしの/中にこそあれ/夕納涼」。夏の水辺に蘆が生えている。ただそれだけなのだが、また“よしあし”だ。男の顔も例によっておおざっぱなのだが、そこには思案しているような表情がみてとれる。よしあしという娑婆でする夕涼み…と解説にはあったが、夕涼みということで、夕方をもそこにひきこんで考えたくなった。夜と昼の間だ。そう考えると、いっそう狭間的なものが色濃く漂ってくるのだった。
 蘆の最後は題名も《蘆画賛》。墨で蘆っぽい線を描き、さらに下に水っぽい流れの線を描いただけ…といえるやはり、おおざっぱな線からなる絵なのだが、「よしあしの/中を流れて/清水哉」。よしあしの中で、清い流れのような精神…ということをいっているとある。善悪の彼岸ということを思う。蘆たちは折れ、流れに覆いかぶさるようだ。これに関してはもはや蘆という字うんぬんよりも、なぜかこの折れまがった茎や葉の姿に、心ひかれた。善悪をこえて、というよりも、それらをもったものとしての、どこかしら寂寥とした姿に。折れた姿により感じた痛み。だが水は流れ続けている。



 わたしは仙僂寮犬た時代の人々、彼らと受け止め方が違うだろう。まず描かれた絵の示され方が違うのだから。こんなふうに展覧会にあるものを眺める、といった見方を当時していたわけではない。乞われれば、描いた絵をおしげもなく人にあげたという仙僉そして蘆に関する、こうした二面性に反応する仕方もきっと違うはずだ。だが、それでもこんな風にしか、彼の絵と向き合うことはできないのではないか、とこの蘆の絵によって、少しだけ力をもらうことができた。北斎の絵だって、江戸の当時の人たちが眺めていたようには決して見ていないはずだ。それでも、どうしたってひかれる。たとえばそんなことなのだ。いや、彼らが、ではないのかもしれない。それは画家への共感ということなのかもしれないが。時代を超えて、わたしは画家たちに共鳴している。その共鳴の間に、垣根があるかないか…、仙僂里海療戸会で、疎外感を感じたのは、彼らと同じように、ではなく、彼らに対して、仙僂、さしだした絵に対して、わたしが受け取ってよいのだろうか…そうした逡巡があったのではなかったか。それは彼らとではなく、わたしと眼前にある絵、仙僂里修譴箸隆屬力辰覆里世辰拭

 ともかく蘆三作を観てから、すこし心が落ち着いた。居心地の悪さが軽減したのだ。《鹿寿老画賛》は、大きな長い頭をした寿老人が鹿の上に乗っている。どちらも穏やかなやさしい顔だ。「長生ハ志かと請合/福の神」。これに関してはあまり言葉は気にならなかった。「長生きはしかと請け合った」と長寿の神、寿老人が言う…。気にならなかったのは、言葉と絵がともにおおらかに生を請け負ってみえたからかもしれない。いや、ぬくもりを感じたのだ。それは最近みた、寅にのっかった《豊干禅師図》に感じたものと同質のものだった。



 そして《双鶴画賛》。二羽の鶴が墨で、太くざっくりと描かれている。一羽がくちばしをあけて、頭を上向きに、啼いている感じ。目は丸ではなく閉じているような短い線。もう一羽は地面を向いている。後頭部とくちばしが見えるのみで目などはみえない。賛は「鶴ハ千年/亀ハ萬年/我れハ天年」。天から授かった命、天寿に感謝しているとある。そうした解釈、心が絵に表れているのだろうか。かもしれない。だが、鶴たちののびやかな、姿がやさしかった。ほとんど幸せそうだといってもいい姿が心に届いたのだ。あるいはそれが生への賛歌なのかもしれない。ちなみにこの絵は、当時病床にあった出光佐三氏の最後の蒐集作品であるという。そして最初の蒐集は《指月布袋画賛》だとあった。今回出品されている。けれども、こちらは既視感があったので「かわいい江戸絵画展」で観たのだと思っていたが、実は初めて触れる作品だった。布袋さまが月がある方角を指さして、子供がはしゃいでいる。二人とも満面の笑顔。歩きながらのようだ。布袋様を《あくび布袋図》で、子供を《猫に紙袋図》でそれぞれ観ていたから既視感があったのかもしれない。賛は「を月様/幾ツ/十三七ツ」。指が経典で、指のさす方向にあるはるか彼方の月は悟り…そんな禅的な要素を含んでいるとあるが(学問だけでは悟ることができない、など)、そのことで距離を感じることがなぜかない。



 わたしとあなた…。かれらとかれ。距離を感じないことを仙僂亘召鵑任い燭もしれない、とも漠然と思う。禅でなくとも、学問だけでは、生きた知識にはならないのだ、とも思う。そして、とびっきりの二人の笑顔がみちてくる。それだけで十分だとも思う。なぜなら、その笑顔こそが、実践へのきっかけなのではなかったか。歩きながら。指さすほうに月は見えない。

 出光美術館は、休憩スペースも心地よい。ソファーがあり、お茶や水などの飲料も無料で頂けることも、うれしいが、窓からの眺望も格別だ。九階から皇居のお堀、そしてすっかり夏の勢いをなくしつつある秋の葉、ぎりぎりの緑たち(それはもうすぐ紅葉するか散ってしまうだろう)、水鳥たち、街路樹で区切られた道を走る車。わたしにとって、東京といわれて想起するイメージのひとつがこうしたお堀のある風景だなと、ぼんやり思う。
 休憩スペースで、展覧会図録を買おうか買わまいか、考える。買うほどは…というのが最初の正直な気持ちだった。けれども心に触れた作品はハガキなどでは買えない…。それに仙僂虜酩塀古なものも売っていないようだ…。悩んだすえ、結局買うことにした。ミュージアムショップへ。

 そう、今これを書いているときと、美術館にいたときでは、温度差がある。距離感を、美術館にいたときのほうが感じていたのだ。蘆ですこしだけ縮まったとはいえ。今も多少は、それはあるけれど、それはたぶん美術館にいたときのことを、まるで追体験するかのように、順序だてて思い出していったからだ、とくに距離感を感じていたときの記憶がくっついてなかなか離れなくなってしまっている。けれども、そうしたことも含め、こうして書くことで、それでも、距離は、美術館で、あの蘆の作品たちを観たときよりも、縮まったように思うのだ。それは書くことがもたらす、いつものやさしさだ。奥底で、月がぽっかり浮かんでいる。それは水面に映った月かもしれない。
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2013-10-15

幻想と現実の狭間で、きれいはきたない─猿島

 埼玉の巾着田…行ったのが土曜日だった。翌日の日曜。男が仕事で横須賀に行くというので、ついてゆくことにした。二時に着けばいいというので、それよりも早く行って横須賀で食事をとることに。よこすかポートマーケット。実は以前行こうとしていてゆけなくなった旅行では、そこで食事をとることになっていた。横須賀の漁業組合直営店、漁師直営の店、地場産野菜、地元牧場など、地産地消にこだわった店が入っている。飲食店もはいっているのでそこで……選んだものが悪かったのか、食事はいまいちだったが。
 ついて行ったのは、海が見たかったから。最初の予定では、男が仕事をしている間、二時から約三時間の間で、横須賀美術館でもいって、その足で観音崎あたりでも散策しようと思っていた。両方とも海のすぐ近くだったから。
 だがポートマーケット。ここは横須賀の観光のための案内所も併設されていて、そこに猿島への乗船チケットの販売もされていた。すぐ隣には猿島アンテナショップ。猿島の写真が飾られており、猿島ビールなどグッズも売られている。







 横須賀の三笠桟橋から約二キロ。東京湾に浮かぶ無人の自然島。今ではわりとメジャーになっていると思うのだけれど、以前はそうではなかったと記憶している。わたしが十九歳ぐらいだったか。その頃に付き合っていた男が、猿島で、オカリナの演奏を聴いたという話をしてくれたことがあった。小さな演奏会。洞窟のようなところで、ギャラリーもほんのひとにぎりで、不思議な空間だった…たしかそんな話だった。要塞跡のある、無人の島、うっそうとしげる緑、洞窟。そこにひびきわたる土の清冽な響き…。わたしのなかで猿島はそんなものたちでいっぱいの半ば幻想的な島となっていった。たしか当時は一日一往復ぐらいしか船が出ていなかったと思う。東京湾なのに、きれいな小さな浜。そこはずっと行きたいと思っていた場所だったが、なぜか今までゆけずにいたところだった。実は最近ゆけなくなった旅行というのも、ここのことだった。八月末に猿島のレストハウスで火災があり、一か月ぐらい島へ渡れなくなっていたのだ。その猿島への船のチケットがここで買える…。パンフレットもあったので貰って急いで開く。ポートマーケットは三笠記念公園に隣接しているのだが、猿島へゆく船の発着所は、まさにその公園の端、地図をみるとポートマーケットからすぐ近くだ。往復一二〇〇円。横須賀美術館は実は特に行きたかったわけではないので、猿島に渡ることにした。三月から十一月末までは、だいたい朝八時三十分から、夕方四時三十分まで、一時間に一本づつ船が出ている。一時半の船に乗ることにした。チケットを買うと、船着き場までここから徒歩二分ぐらいだという。こんなに近くだったのだ。
 船が出るまでまだ時間があった。発着所を越えて、すぐの三笠公園のほうへ、男とゆく。ここには戦艦三笠が岸壁に保存されている。水が思っていたよりも澄んでいる。小さな小さな岩場が岸壁が途切れたところにあった。打ち寄せる波が透明だ。小さな魚の姿も見える。横浜でも、そういえば思ったよりも水がきれいで驚いたことがあったっけ。だがそれは東京湾にしては、という前提がつくのだけれど。



 野外劇場があり、ベンチャーズの曲が演奏されていた。
 戦艦三笠は、海に錨をおろしてそこに保存されている氷川丸と違って、下甲板が完全にコンクリートや砂で固められて、海底に固定されている。後で調べたらワシントン軍縮条約でそう取り決めがあったらしい。けれども岸壁と船の間に埋められたコンクリートを見て、船としては、少々痛ましい気がした。氷川丸ももはや出航することはないけれど、まだその姿だけをみると、出航への道は完全には閉ざされていない。希望のようなものがみえる。だが三笠はそうではない。戦艦だから仕方がないといえば仕方がないのだが、船として見ると、その姿にやはり、寂しさを覚えてしまうのだ。
 男と別れて、一人船着き場へ。あとで知ったのだが、猿島航路が再開されたのはほんの二日前だったようだ。こんな風に偶然の巡り合わせがあるのだ。
 今にして思えば渡航が再開されて初めての週末だったからだろうか。船は比較的混んでいた。港から二キロ弱だから、三笠発着所からでも、すぐ向こうにあるのが見える。約十分の船旅。船に乗るのも久しぶりだ。揺れるのが心地よい。二階のデッキにゆく。前のほうは混んでいたので、出航してから、脇で立って海面を、島を、あたりを眺める。船の作る水尾や、船のたてる波しぶきをみるのが昔から好きなのだ。
 昔よりもずいぶん、波飛沫の色がきれいになったと思う。猿島や横須賀で船に乗ったことはないけれど、伊豆七島へゆくときに、このあたりの海を何度か通ったことがある。その頃、白い飛沫の縁に黄土色が混じっていたのを覚えている。東京湾を過ぎ、相模湾、相模灘に出たどこからか、その飛沫の縁は、澄んだエメラルドグリーンに変わる…。わたしはその色をみて、ほっとしたものだった。黄土色のそれをみると、海が苦しんでいるような気持ちになったものだったから。
 今、猿島へゆく船のだす飛沫の色は、当時に比べれば、たしかに…。それもさきほどの東京湾にしたらば、という前提とかかわってくる。飛沫の縁には、黄土色はまじっていないように思える。だがほんのわずかに黄色さが混じっている。あのエメラルドグリーンの色がそこにはない。このエメラルドグリーンのほうは、数年前に伊豆のどこかの海で、また見た覚えがある(たとえば堂ケ島とか、城ケ崎あたりだ)。ああ、この色だと思った記憶がある。この色は、ずっとそこにあってくれたのだ…。猿島へ向かう海は、そのわたしのなかでの、きれいな水の象徴である、あの色ではない。そしてここ三浦半島の南限である城ケ島あたりへも数年前にいっているけれど、やはりもっと、横須賀あたりよりも海の水がきれいだった覚えがある。城ケ島までいけば、相模灘に接しているからか。横須賀─猿島あたりは、東京湾にしたらきれいだ。けれどもわり近く、直線でいけば二十キロも離れていない城ケ島あたりの海よりも…。すこしの痛み。彼らはまだ傷ついているのだ。さきほど三笠のあたりでは、きれいだと思った水だったが。あれは横浜港を想起させたからだ。だが船でゆく猿島は、自然島だし、水がきれいだということをどこかで読んだか聞いたことがあった。わたしは期待しすぎていたのだろう。加えて幻想の思い出も混じっている。あるいは、同じ島ということで、伊豆の熱海からほど近い、初島的なものを、そこに投影していたのかもしれない。こちらは二回ほど行ったことがあるが、周りの水はあのエメラルドグリーンの縁を持っていたから。
 黄土色とエメラルドグリーンの間の色を、波飛沫はたてていた。それはぎりぎりの何かだった。きれいはきたない。きたないはきれい。そんな『マクベス』の魔女のセリフがよぎる。



 けれども同時に。船の中だったか、降りてからだったか。「年たけて またこゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」をもじって、「年たけて 今こゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の猿島」と、心にうかべるのだった。とうとう、今、猿島に…。
 船着き場からすぐのところが、砂浜になっている。売店などもある。ちなみにあとで知ったのだが、売店に並んでレストハウスがあったらしいのだが、そこが全焼したのだという。現在は更地になっている。トイレも使えなくなっていて、仮設トイレのみの使用。
 まず、砂浜ですこし遊ぶ。砂は細かい。灰色の砂だが、きらきらと光っている。砂鉄を含んでいるらしい。こまかいちいさな明るさが、やさしい。それは日差しの、夏よりも幾分弱まった明るさ、それでもまだ十分に暑いとすらいえる、そんな日差しとよく似あっていた。
 砂に打ち寄せる波、波。船の上では、「きれいはきたない」だと思っていた水だったが、こうしてみると、意外ときれいに見えるので、すこし驚く。どちらが本当なのだろう。どっちもたぶんそうなのだ。砂によせる波が澄んでみえた。砂をまきこんでなお。砂と波の文様の数々に、しばらく見ほれる。そして波音。波音とセットになっているのだ。そんな当たり前のことを、思いながら、波音を聞いていた。波を見つめながら。



 このままここでずっと過ごしてしまいそうだ。ポートマーケットでもらった小さなパンフには島内を一周して、かかる時間はおよそ六十分とあった。現在二時位。遅くとも三時四十五分の船に乗って帰らなければ。だからまずは島内散策だ。名残惜しいが浜から離れる。
 浜からすぐ裏が切り通しになっている。蔦がからまる要塞跡の壁。レンガがやさしい色合いをかもしているが、要塞跡、兵舎や弾薬庫の跡だと案内に書いてあるからか、どこか怖い感じがする。実際は使われることがなかったらしいのだが。
 それでも初めての場所だ。しかも来たかった場所。おそらくギャップはあっただろう。たぶん思っていたのはもっと幻想的な島だったはずだ。けれども初めて見る景たち、ということがそのギャップを相殺していた。つまり景の違いにがっかりするということがなかった。切り通しを洞窟のようだと思う。道には真上からの明りしかなく、ほのぐらいからだ。さらにゆくとレンガ造りのトンネルもある。たとえばこうした場所でオカリナ演奏があったのだろうかと思う。音の反響を夢想する。






 船には結構な人が乗っていたはずだが、島内では、思ったほど気にならない。彼らはどこにいったのだろう。海釣りをしている人が多い。あとはわたしのように散策。途中の広場、そして岩場の平たくなったところなどで、どこかで買ってきたらしい弁当を食べている人たちも見受けられる。
 トンビの声、そして空にその姿が。この鳥を見ると海にいるのだなと実感する。以前、金沢にいったときは市内でトンビが見られたのだけれど、うちのあたりだと、海辺でしかお目にかかったことがない。江の島、鎌倉、伊豆…。被害もあるのだろうけれど、わたしにとってはトンビは、海を思わせる、どこか懐かしい鳥なのだ。
 島はいびつな長方形が南北に延びたよう。南の桟橋のあたりの角から、長方形の真ん中あたりにある道をまっすぐに進む。このあたりにレンガ造りの兵舎やトンネルがあるのだ。北側の最後は道がTの字に分かれる。二辺の角に、それぞれ磯がある感じだ。どちらの磯も手前が広場になっているが、階段がついていて、降りられる。東がオイモノ鼻という。薄茶色の足場のよい岩たちだが、配置が複雑だ。釣りをする人、お弁当を食べる人、磯遊びをする子供。ぼんやり座っている人。彼らはおおむね静かに海を感じている。磯の水を眺める。飛沫は澄んでいるか、白い。だがやはり…と先程感じた、波飛沫と同じものを感じる。もちろんそれよりは、きれいにみえるのだけれど。期待しすぎていたのだ。それとは別に江の島のようだなとも思う。江の島の磯のあたりが、眼前の薄茶色の岩たちに、重なる。



 西は海蝕洞による洞窟のある磯で、ヨネノ根というらしい。日蓮上人にちなんだ日蓮洞窟もある(一二五三年、日蓮上人が房総から鎌倉へ渡る途中、嵐にあい、猿の助けで、この島に上陸できたことから、猿島という名になったとある)。立ち入り禁止になっているが、中はのぞける。ここは縄文時代の土器も発掘されているのだとか。こちらの磯には、人が殆どいない。息をつく。この洞窟とは別に、小さな断崖に、小さな洞門があり、崖にあいた窓のようで、向こうの海が見えるところもあった。小さなエトルタの断崖…。モネの絵を思い出してひとり笑う。



 これでほぼ島はめぐったことになる。復路だ。木々の合間から、海が見える。砂浜は桟橋の近くだけで、基本的に岸壁となっているので、海は下のほうに見える感じだ。アップダウンがあるが、木々がやさしい息を吐いてくれているので、登る道も心地よい。広場のようなところで、彼岸花を見つける。かたまって少しだけ。昨日の彼岸花が会いにきてくれたようだと思ったりする。
 砂浜付近までまた帰ってきた。船が出るまであと四十分ほどある。売店でチューハイを買って砂浜で飲む。休日のぜいたく。
 船がでるまでまた砂浜ですごすことにした。午後三時ぐらい。空はまだ昼間の明るさだが、太陽はだいぶ西にかたむいている。西の海に、太陽のつけた道ができている。あかるいちらめきが、水平線と浜をむすぶ。日差しがまぶしくて、どう写っているのか、まったくわからないまま、カメラで何枚か写真を撮る。西側は打ち寄せる波が銀色で幾分夕方めいている。東はまだ昼間。黄昏と昼間のあわい、という時間もあるのだ。流木や貝、角の取れたガラス片などをほんの少しだけ拾う。海のおみやげ。
 乗船のため桟橋へ。またどこからともなく船に乗る人々が集まってきた。崖の中腹にウミウがいた。彫刻のように胸をつきだした姿勢のままうごかない。桟橋の下の浜に打ち寄せる海は、それでもきれいなように見えた。





 十分の船旅後、また三笠発着所へ。じつはこのあたり、軍艦なども多く停留しており、軍港クルーズもちかくで行われているのだが、興味がないので、横目にすぎる。時刻は四時近い。あと一時間ぐらい時間がある。
 最寄駅は京浜急行の汐入か横須賀中央だが、JRの横須賀駅のほうにゆきたいので、歩くことにする。二キロ強といったところだろう。
 うわさに聞いたが、歩くのははじめての、どぶ板通りを通ってみる。戦後は駐留軍相手の飲食店が多かったそうだが、今はそれに加えてスカジャンや、ネイビーグッズなどを売っている店も。さして感慨はない。この頃、街はどうも苦手なのだ。どぶ板通りを端から端まで歩いて(といっても距離は短いのだが)、また海をめざす。やっぱり海だ。海に面した公園へ。ヴェルニー公園という。フランス式庭園で、薔薇園もある。あとひと月ほどで薔薇まつりが開催されるらしいが、まだ咲いていない。海をみながらのんびり歩く。だいぶ日が傾いてきた。海の色が夜に近付く。ゴミとクラゲが浮遊している。さきほどまでいた猿島の風景との差がありすぎて、違和感がある。こちらはやはり東京湾といった感じがする。もっとも猿島からもこのあたりは見えたのだが。そういえば猿島にいるとき、ベンチャーズの演奏がまた聞こえた。風にのって、三笠公園から聞こえてきたのだろう。二キロしか離れていないのに、この距離感はなんだろう。近いようで遠いのだ。風にのって聞こえてくる音も、偶然といった風で、またすぐ聞こえなくなっていた。島は整備されてはいたが、それでもやはり自然的なものが感じられたし、水はそれでもきれいだったのだ。
 そうこうするうち、男から電話があり、公園に面した道で、車に乗る。あたりは夕方というより、夜に傾いている。横須賀あたりは意外に起伏がはげしい。太陽は山の向こうに隠れていて見えない。だが、まもなく日が落ちるのだろう。初めての、そして昔から来たかった…これてよかったと思う。もう海は見えない。

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2013-10-05

今年も会えてよかった、ありがとう  彼岸花、巾着田



 九月末の土曜日。埼玉県日高市、巾着田にいってきた。彼岸花をみに。毎年いっている。ゆくまでの道も同じルート、車でゆく。助手席だから、具体的な地図は頭に入っていないが、あちこちの景色は記憶がある。見覚えのあるそれらに、なんとなくほっとする。旧街道のような道の両側には、松や雑木が生えている。道端には彼岸花がちらほら生えていて、これからゆく巾着田の彼岸花のバロメーターにしている。今年は…満開だ。いくぶん盛りを過ぎているぐらい。小さな梅林、「つぼ猫」と看板のあるレストラン…。あと巾着田まで十キロぐらいになると、看板がみえてくる。「曼珠沙華まつり 巾着田まであと○○キロ…」…。
 HPなどをみると、前日の二七日の時点で満開、見ごろとなっていた。だが、毎年いっているから、なんとなく、おそらく、もうさかりをすぎているだろうと思ったものだ。
 それより前の、土曜日、先週だと、まだ三分から五分咲きぐらいだった。そのような花の時分にやはり、いったことがあったが、それはそれで、まばらに咲いているのが、すこし淋しい気もして、おそらくすこし盛りはすぎているぐらいかもしれないが…と、次週のこの日にいったのだ。けれども、ほんとうは、ゆけるのなら、先週と今週の間、火曜日ぐらいにゆけたらよかったのだ。


 巾着田に到着。予備知識があったから、がっかりはしなかったが、案の定、けっこうおわった花が目についた。最初は真っ赤だった花が、なんとなく白みをおびてくる。つぎに黒く枯れる。そんな花もあった。だが、立て看板には「最盛期を迎えました」とある。見頃と言われれば、たしかに満開、見頃の花のほうが、圧倒的に多い。今日きてよかったのだ。





 だが桜とちがって、彼岸花は、さかりのすぎた花たちが目に着いてしまう。写真にとっても、白っぽい花びらから輝きがうせているのが気になってしまう。そう、桜はそのままの色で、散ってゆく。だいぶ散って葉桜がめだつまでは、桜はその状態を、悲しげに維持している。だが、彼岸花は…。いや、これで今年はよかったのだ。それでも来ることができたのだから。まだぎりぎり満開だ。そう、やはり、今年も、真っ赤、真っ赤、うんざりするほどの、赤のしきつめられた色彩にめまいがしそうになった。どこかへ、すいこまれてしまうような、そこには、おびえに似た幸福感も混じっている。



 巾着田の由来は、高麗川が巾着のようにUの字に蛇行しているから。その袋の内側、袋の下のほうにたまるように、彼岸花は群生している。五百万本だそうだ。花の歓待。彼岸花の群生地にロープでくぎられたほそい道がある。そこを観光客たちはゆっくり歩く。写真を撮る。おおむね彼らは静かだ。静かに赤を歩く。向こうのほうにも彼らがいる。だが静かだから、まるでまわりの木々のようだ。木と人と彼岸花、そして川の水と、空と、そうしたものたちで景色をつくりあげている。歓待。
 高麗川のほとり、河原で、昼ごはんをたべる。これもいつものことだ。川で漁をしている男性がいる。この人も毎年おなじみだ。網をなげる。かかった魚を水槽にいれる。水槽には、獲れる魚の写真と名前が。カワムツ、アユ、ヤマメ、ドジョウ…。声をかけるときさくに応じてくれるようだ。しらない婦人が彼に声をかけて、一緒に写真を撮っていた。川の水は澄んでいる。この川で遊ぶのを目的に来るだけでも、心地よいものだろう…そう思うのだけれど、なぜか、自分はその気にならない。自分の中では、彼岸花と高麗川はセットになっているからだろう。
 巾着田の彼岸花群生地(彼岸花と書いているが、ほんとうは祭りの名称としては、縁起のよい名前である、別名、曼珠沙華が採用されている)は、日高市が主催しているものだが、袋のさらに内側から上部にかけて、市とは無関係の私的な馬の牧場がある。だからパンフレットなどには、個人の敷地です。立ち入り禁止、などとあるが、実際は、子供のポニーへの乗馬、馬たちへの人参のえさやり体験などをさせてくれていて、そうした意味では立ち入ることができる。柵ごしにだが、馬にもさわれる。
 これらもわたしの中では彼岸花とセットになっているものだ。そして水車、コスモス畑、ツリガネニンジン。
 そして。今年突然できたわけではなかったろうに、池があるのに気付いた。ハスの葉が目立つ。そしてその近くにもうひとつ、さらに池が。こちらはスイレンの葉がうかんでいる。どちらも花期はおわっていたが、その姿をほうふつとさせていた。なぜ今まで気付かなかったのだろう。おそらくいつもと今年は車をとめる場所が少々違っていたから、その関係で、ちがう道を通ったからだろう。巾着の中なのに。池はまわりのほんの少し高い丈の芦やススキに隠れて、見えなかったのだと多分思う。
 初めてだったからか(新しいものへの新鮮な驚き)、池の水がわたしにはっと大切なしぶきを送ってくれた。空が水に映っている。





 家に帰ってきて、次の日。ふと家の裏の道沿いに畑があるのだけれど、その畑の縁にシロバナヒガンバナと赤い彼岸花が咲いているのを見つけた。畑は道路よりほんの少し下にあって、ヒガンバナたちはのぞきこまないと見えないようになっている。だから今まで気付かなかったのだが、どうしてのぞきこんだのだろう? ああ、そうだった。そのあたりに人なつこい猫がいることがあるので、それをさがそうと思ったのだ。猫はいなかったが、ヒガンバナがいた。巾着田からついてきてくれたような感じがした。今年もありがとう。来年もできたら。うちの近くのあちこちの彼岸花たちは、もうおわっているものが多い、これから、葉をまっすぐのばして、冬の季節を青い葉たちで、すごすのだ。



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