Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2014-04-15

日々の裏側で。たとえば、虫のように花びらが口を襲う、詩的な出会いだ。──「絶対のメチエ─名作の条件」



 狂熱の桜の頃に。急ぐような花たちに巻き込まれるかたちで、急いで三つ、展覧会に出かけた、一つは、「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義一八六〇─一九〇〇」(三菱一号館美術館、五月六日まで)。ちなみにこちらは実は「ラファエル前派展」(森アーツセンターギャラリー、四月六日まで)のチケットとペアで去年の暮れに買っていたもの。こちらの展覧会は、三月、まだ桜が咲く前、ぎりぎりに実は出かけている。ともかく三つのうち、二つはこの二館共通展のものということだ。行く前からなぜかあまり触手が動かされなかった。もしかするとチケットを買ったときから…。ならなぜ買ったんだ? と自分でも思うのだけれど、好きだったころの余韻、今はたぶんもう、興味が薄れている、けれども好きだった昔に敬意を表して、そんな思いからチケットを買ったような気がする。購入したときに、こう思ったことを覚えている。「買えば、多少無理してでも出かけるだろう。」つまり、それはもはや多少の無理をしないと出かけることがない、ということだ。過去の自分から現在の自分へ、プレゼントするようなかたちで購入したペアチケット、ということだ。
 実際、二館とも、なにかしら理由をつけて出かけた…、なにかの展覧会と抱き合わせ、なにかの催しで近くに来たので…、そんなふうにしか、ゆけない展覧会というのは、やはり悲しい。
 それは興味の残滓ともいうべきもので満ちていた。もしかすると昔、若い頃に興趣を覚えたものだけにわたしは反応するようになってしまっているのではないか…。新しいものを排除するように? 展覧会に出品されていた多くの作品をまえにして、ペアチケットを買った二館とも、そんな疑念に囚われながら、観ていたと思う。
 廻りながら、ここにはない別の画家たち、過去というほど過去ではない、ある時、わたしのなかでは最近出逢うことができた、大切な画家たちを想起していた。いや、北斎はそれでいえば若いころではない、比較的最近知って、好きになった…、ピロスマニもそうではないか、酒井抱一だって、○○だって…彼らを列挙し、わたしの新参者排除論を脇にそらせようとしながら、今、ここで、展覧会会場で作品を眺めるのだった。そこまでして? そこまで思わないと、絵にむきあえないのか?



 それと、展覧会の内容とはあまり関係ないのかもしれないが、この二つの美術館、わたしにはどうも肌が合わないような気がしてしまう。特に六本木ヒルズにある「ラファエル前派展」が開催された美術館、以前から苦手なのだ。商業主義が見え隠れしているというか。チケットがまず悲しい。どれにいってもかわりばえしない森ビルのイラストだ。興味がなかったから半券もどこかにやってしまって手元にないので、詳細は不明だし、調べて語りたくもない。せめ今回ならロセッティ、目玉の展示をチケットに使ってほしかった。
 対して、三菱一号記念美術館は…、建物自体は古いレンガを残して素敵なのだが、やはりこちらも苦手だ。建物がではない、美術館のコンセプトが放つ雰囲気が、というべきか。ミュージアムショップもなにもかも、肌に合わない。
 あまり興をひかれなかった展覧会を、この美術館でたまたま見たからだろうか? それもあるかもしれないが、やはり違うような気がする。それは飛鳥山公園でかんじたような疎外感のようなものなのかもしれない。混んでいるから、というわけではないのだが。好きな美術館は、国立西洋美術館、Bunkamura、山種美術館、出光美術館、あとなんだろう? 大原美術館、千葉市美術館、思いつくのはこんなところ、あときっと何個かある。ああ、箱根のラリック美術館は別格で好きだ。これらは混んでいようがいまいが好きなのだ。

 「ラファエル前派展」のことは省略する。気に入った作品もあったが、それは前にBunkamuraかどこかで見た作品ばかりだったし。けれども、後者、今日の順番でいうと二つ目、満開の桜の頃に出かけた、「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義一八六〇─一九〇〇」展では、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー(一八三四─一九〇三年)の作品などに心ひかれた。ああ、彼もわたしにとっては新しい画家ではなかったか。ひかれたことにほっとする。今まで名前を聞いたことがあるぐらいだったから。《ノクターン:黒と金─輪転花火》(一八七五年)と、エッチング作品何点か。前者の夜の海の静けさ。静寂のなかで閃光を放つ花火のけざやかさ。少しだけ家に帰って調べたら、今年の暮れ、二〇一四年十二月から、横浜美術館で回顧展が開かれるらしい(九月から京都国立近代美術館で、その後巡回展として)。開催される前に知れて良かったとしみじみ思う。
 その展覧会概要のHPにホイッスラーの言葉として、「美の物語は、パルテノンの大理石が刻まれ、北斎が、扇の富士山の麓に鳥の刺繍をした時にすでに完成している」というのがあった。北斎などの日本の画家に影響も受けたらしい。そしてモネに影響を与えたらしい。わたしの共鳴の輪がひろがる。みんな好きな画家ばかりだから。

 そして三つめ、長い前置きになった。実は最後に出かけたこの展覧会のことが書きたかったのだ。詩人の池田康さんに「絶対のメチエ─名作の条件」(一月二十五日─四月二十日、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション)を勧められたので、「ザ・ビューティフル」、三菱一号館記念美術館を出た足で出かけてきた。水天宮前駅か、人形町駅。三菱…のある二重橋前駅(他にも最寄駅はある)から地下鉄で割とすぐだ。
 出品作家が、「ヴォルス、エゴン・シーレ、オディロン・ルドン、加納光於、川田喜久治、北川健次、駒井哲郎、斉藤義重、ジャン・フォートリエ、ジョルジュ・ルオー、デイヴィド・ホックニー、ドナルド・サルタン、長谷川潔、浜口陽三、フリードリヒ・メクセペル」。
 池田さんから、チラシを頂いていた。何人か心惹かれる作家が掲載されていたので、出かけたのだった。





 「時代の淘汰を超えて、なおもイメージの強い鮮度を放つ名作の数々。それらの名作と称される作品群を見ていくと、そこには共通して、確かな技術に支えられたメチエの宿りと、その核ともいえるマチエールの豊かな肌合いが見てとれます。しかし美術の分野に限らず、例えば音楽・写真・文学などに目を向けると、そこにも各々のマチエールというものが確かに存在する事に気付かされます。
 斯うして見ると、マチエールという言葉には、〈作品の表象に現れる物質感〉という単なる意味を超えて、実は〈芸術とは何か〉〈作品とそれを見る人との交感とは何か〉という根源にもつながる、興味深い、ミステリアスな思索の〈鍵〉さえも孕んでいるように思われます。本展は、銅版画の名作を中心として、シルクスクリーン、写真等におけるクオリティーの高い作品を併せて展示しながら、メチエとは何か、マチエールとは何かという問題に迫ります。」(チラシ、展覧会HPなどから)。
 そして。「メチエとは、フランス語で、「経験によって培われた熟練の技」転じて「画家や文筆家がもつ、独自の表現技巧や流儀」を意味するようになりました。」(展覧会カタログより)とある。

 ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションは、浜口陽三(一九〇九─二〇〇〇年)の作品を収蔵、展示する美術館として、一九九八年にオープン。彼がヤマサ醤油十代目社長儀兵衛の三男だったことから、ヤマサ醤油が開設したとHPなどにあった。美術館…というか画廊のような感じ。手前にはティールームも併設されている。一階と地下二階が展示室。平日の午後。観客がほとんどいない。この静謐さにほっとする。ちなみに美術館になる前はヤマサ醤油の倉庫として使われていたらしいのだが、その面影がまったくなくて、不思議な気がした。カフェがよく似合う空間だ。ヤマサ醤油は実は好んで使っている醤油なのだけれど。
 最初にひかれたのがヴォルス(一九一三─一九五一、ドイツ)の《耳》(ルネ・ド・ソリエ『ナチュレール』の挿画、一九五四年、ドライポイント)だった。縦長の画面いっぱいに、線でひっかいたようなぞんざいな、片方だけの耳。上のほうには毛のようなものが生えている。耳というより、巻貝の殻のような気が一瞬した。そこに耳をあてると何かが聞こえてくる…。いや耳だから聞くのだ。音を感じる、音を聞く、そんな行為たちが誘いとして、耳の穴からあふれだしてくるようだった。そう、今度は耳のなぜかやわらかそうな穴に、視線が向かった。音を見つめるわたしの目。
 彼の作品では、地階にあったサルトルの『食糧』の挿画(本も展示されていた)の《ヌードの花》(一九四九年、ドライポイント)も心ひかれた。やはり画面いっぱいにひろがる線でひっかいたものたちのあつまりである花びら(のようなもの)と、真ん中にめしべ。花粉がつくところがすぼまって、受粉すると種になる部分、子房が女の腹のように膨らんで。わたしがみた感じではおしべは分からなかった。だが“ヌードの花”とあるように、なにかとてもエロティックだ。生と性が渾然一体となって、ほんらいの“せい”の姿をさらけだし、むきだしにしている。そんなふうに、とりつかれるようにみてしまう。
 展示作品の順番に戻ろう。つぎに惹かれたのがデイヴィット・ホックニー(一九三七─ 、イギリス)の《煮え立つ鍋》(『6つのグリム童話』より「めっけ鳥」の挿絵、一九六九年、エッチング)だ。
 暗いテーブルのようなところに、鍋というか円筒形のなにかに沸騰したお湯。表面が泡でぷつぷつしている。泡が胞子か精子のように尾をひいてみえ、それ自体が生きているよう。鍋というのはわたしにとって日常の象徴のようなものだ。というか台所というのは。だからそれらで詩を書いたことがないし、たぶんこれからも難しいだろう。だがそんな私に、鍋から非日常を見せてくれる大切な絵となった。こんなところに異界がひそんでいる。それは鍋からまるで天へのぼろうとする気泡たちの唄だった。
 次はジャン・フォートリエ(一八九八─一九六四、フランス)の《夢》(一九四七年、エッチング、ヘリオグラフ)。空のようなところに、火だか人の手だか海藻だか、なんだかそのようなものが浮かんでいる。作者がなにを描いたのかわからない。けれどもそれでもいいのかもしれない、そんなわたしたちにゆだねるものを感じた。
 夢で、あんなもやもやしたもの、火や手や藻であるかもしれない、もしかして魂の顕現であるかもしれない、あんなかたちを、わたしはみたことがあったかもしれない、そう思うことが、作者との共鳴なのではなかったか…。そんなことを思ったりする。《夢》なのだから、そんな夢想も受け入れてくれるのではないか。そう考え、勝手にひとり温かくなって。
 そうして、なんとなく頭が詩に近づいてくるのがわかった。通常絵を見ているとき、詩的散文的というか、うまくいえないのだが、まだ感想だか感動に文章が残っている感じなのだが、ここでは文章が攪拌され、言葉がぷつぷつと、まさに《煮え立つ鍋》や《夢》のように不思議な形態でもって、花開いて…それはまさに《ヌードの花》だ、わたしを一足飛びに詩の空間につれてってくれたような、奇妙な、うつくしい幻想が、ひらかれるのだった。これはとてもうれしい、しんじられないような体験、恩寵のような出来事だった。
 わたしはそうした恩寵に値しない…そんな風にこのごろ思っていたから。そう、なんだか、散文的なこと、日常に関わりすぎていたような気がする。それはわたしにとって堕落にひとしい。
 詩的な空間…そう気付いて、さらに館内をすすむ。もはや胎内めぐりのよう。長谷川潔(一八九一─一九八〇年)は、観たいと思っていた画家だ。二点出品されていたが、特に《花(切子ガラスに挿したアネモネと草花)》(一九四四─四五年、アクアチント)。特に似ているわけではないのだが、ルドンの花を描いた絵を想起した。日常にある花、あるいは本来そこにあるだけで本当は非日常であるはずの花を、さらに幻想へ高めた花として描いた画家の力、そこに共通項を見出したのかもしれない。アネモネたちはおおむねやわらかい、やさしい。そして切子細工の精密、角ばった美しさ、さらに花瓶の下にひかれたもの、壁面というか背景を覆うものが緻密な、けれども丸みをおびたレース。この硬さと柔らかさたちの織りなす、めくるめく螺旋的な世界の凝縮に心ひかれたのだった。
 あるいは、浜口陽三…。まとまってではなく、他の画家たちの間に、差し込まれるように、あちこちに展示がある。出品は一番多く十四点。とくに気になったのは《くるみ》(一九五九年、メゾチント)だった。ちなみに、ほかの作品たちも《西瓜》《緑のさくらんぼ》《朝食》《アスパラガス》など、食材をつかったものが多かった。それらもやはりわたしにとって、日常──なぜか食べるという行為は、花よりも俗世間的な印象がある──を描いているのだったが、それもまた《煮え立つ鍋》のように、なにかを静かに飛び越えて、開こうとしてくれる誘いとして、暗い色彩のなかでたたずんでみえるのだった。だが、ともかく《くるみ》だ。暗い画面に、ちいさなくるみがひとつだけ、宙にうかんだように、満月の月のようにそこにあった。だが、くるみはぶつぶつが目立つ。なめらかな幻想を奏でたいと思いつつ、ぶつぶつとした肌であることによって、現実にとらわれている…そんなふうに自分をそこに重ねてしまいたくなるのだった。あるいはなめらかさとぶつぶつの間で。背景の黒の繊細な暗さ、緻密さであふれた黒の技法への、誘い。だが月のように浮かぶぶつぶつ。それでも幻想に足を踏み入れている、とでもいうふうに。それは共鳴ということなのかもしれない。いや、展示作品を見ているときは、やはりそこまでは思わなかった。ただ、詩的な何か、ぽっかりと暗さの果てに、暗いまま浮かぶ、それでも静かなともしびのような、ぶつぶつのくるみにやすらぎのようなものを感じただけだった。
 そして、これも見たいと思っていた駒井哲郎(一九二〇─一九七六年)。《束の間の幻影》(一九五一年、サンドペーパーによるエッチング ※一部ルーレット)。円筒や、直方体、台形のなにかたちが、たくさん、暗い宙に浮かんでいる。いや、暗さのなかで、どこか明るい、光のなかで。おおむね角ばっているのだけれど、なにか印象としてやわらかい。それが不思議だった。形たちが浮かんでいる、あるいは沈もうとしている。そのどこに惹かれたのかわからない。だが題名…《束の間の幻影》だということが、心に響いていた。まさに、これこそが幻影なのだと、いやおうなく、しみいるように頷いて。
 駒井哲郎では、もう一つ、これも少し離れて、地階での展示だったのだけれど《La conception du fruit(果実の受胎)》(一九五九年、サンドペーパーによるエッチング、ドライポイント)。こちらも、あの《ヌードの花》のようななまめかしさを感じた。なんの果実だかわからない、黒っぽい丸みをおびたおおむねふたつのもの。そのなかに受精、もしくは受胎がある、らしい。果実は果実という枠から逃れ、逃れることで、すべての受胎を体現しているようだった。植物と生物の混交、あるいは蜜月。あたまのなかで詩的なものがざわめいている。聖と俗、なまなましさと崇高、二律背反たちが、むすんだ手のぬくもりたち。
 ここでは、ともかく息がつけた。というより深呼吸に満ちていた。以前から知っているとか知らないとか、そんな区分もどうでもよくなる。呼吸にくるまるようにして、詩たちが響いていた、それはわたしの、ではなく、おおむね彼らの息吹だったが、わたしはそれに、めずらしくヒナ鳥のようにくるまれ、彼らのふところで安らぐのだった。

 他にも何点かあったのだけれど…ゴヤ、ルオー、エゴン・シーレ、ああ、やはりルドンだ。彼だけ最後に触れたい。オディロン・ルドン(一八四〇─一九一六年)、これももちろん観たいと思っていた、大切な画家だ。二点出品があった。《賭博師(石版画集『夢のなかで』V)》(一八七九年、リトグラフ)の、巨大なサイコロを肩に乗せ、運ぶ人間と、樹木を描いた作品──そのまさに夢の暗示のような世界にも心惹かれたのだけれど、特に《光の横顔》(一八八六年、リトグラフ)。暗い背景に伏し目がちな女性の横顔。彼女の横顔、そしてヴェールに当たる光が、静かに神々しかった。それは版画ならではの光と影の物語だった。女性のうつむき加減の、その視線の果てが、光と影の淡いの拮抗のなかで、漂っている…だから見開いた目ではなく、閉じそうなぐらいに、伏し目がちであるのだと、思いたくなったり。それは光と影のあいだを見るにふさわしい真摯な眼だ。
 ほんとうは版画…技法について、もっと語らなければいけないのだろう。おおむねの黒と白、そしてメチエとマチエールについて? 
 だがメチエとマチエール、それらがおりなす、作者独自の狭間たち、おおむね光と影の、それが、詩的共鳴の調べとなって、ひらいた眼から、静かに奏でてゆく、そんな言葉でしか、つまり、硬質な、息吹たちの言葉、彼らの真摯な無言の息づかいからしか、言葉を発することができない、そんな風に勝手に思ってしまったりして、自分の力のなさを、あやういところで肯定したくなったり。
 だが、ほんとうに、このときのわたしの感触が詩的だったのだ。技法的なことは、ともかく、散文的として、わたしのなかでほとんどすり抜けてしまったのだ、画肌にふれた、そこでひりひりとする温もりと接することができた、それだけで十分だったのだ。ちょうど、小説世界も好きだけれど、自分ではまずそれが書けないことと根を同じくしている。小説を書くには、背景描写や設定もいろいろと書かないといけない。だが詩はもっとダイレクトに書ける(ような気がしている)…。その直接性が、展覧会の会場からあふれ出していた。その感想をこうして書きにくる私には、直接性を語るだけで、せいいっぱいなのだ。
 そうして。そのすぐ前に観ていた展覧会の記憶、三菱のそれも、もっと前のも、ほどんどすりぬけていた。だがホイッスラーだけは…やはり黒と白が基調だったからか、あるいはエッチング作品にも惹かれたからか、ともかく彼だけは勝手にこちらに組み入れたいほど、同質の詩的経験として、心に残っていたが。
 光と影の狭間、日常と非日常の狭間、聖と俗の…、詩と詩にかかわらないいっさいのものたちの、拮抗…。
 実は、この日、さらに用事があった。とても日常的な用事だ。だがそれもまた楽しいものだった。ともかく、日常、非日常、日常を、めまぐるしく、往還した、光と影の一日だった。このことを、いつか詩のことばでたぐること。
 これを書いている今、桜は狂熱の花びらを散らし、静かな終わりをひらこうとしている。それは葉の季節への橋渡しである、始まりの時の序曲でもあるだろう。終わりと始まり。だが今年もまたともかく桜の時は終わったのだ。花びらが、口に偶然一枚、入った。虫のように。わたしはつい吐き出してしまう。あるいは夜。どこからか花びらが降ってきた。白く、風に舞いながら、花の雪、ひとひら、ふたひらとして。それは幻想のように、親しげでありながら、異質だった。この感覚と、大事に接すること。世界は新緑に満ちようとしている。

00:01:00 - umikyon - No comments

2014-04-05

狂熱の孤独、という挟まれた桜

 そして、また、桜だ。しんじられないぐらいに急いで咲く。心の準備云々ではない。そうしてもたもたしている私を、むりやり狂騒にひきずりこむ。というよりも世界を狂騒の非日常に変えてしまう。一変する、桜色の渦。
 春をいっきょにつれてきて、静かに笑うようにひとしきり咲く。



 王子に所用があったのでバイトが休みの月曜、三月三十一日に出かけた。ついでに桜の名所の飛鳥山公園、そしてすぐ近くの音無川親水公園へ。以前、どちらも訪れたことがある。たぶん桜の時期だったろう。だがなぜかあまり記憶になかった…。でかけてみて理由がわかった。疎外感があったからだ。何に対してなのだろう? 山をのぼる小さなロープウェイもあった。これは以前からあっただろうか? 長蛇の列だ。すどおりして飛鳥山の山とよばれる桜が咲く一帯へ。提灯が桜のまわりにはりめぐらされている。そしておおむね静かではあったけれど、人たち。シートをひいたものたち、そして見物するために散歩する人々。平日だったから年配の人たち、学生、母子連れ、たちであっただろう。彼らのほとんどはなんとなくそこがホームグランドであったような気がした。わたしはそうではない。わからない。おなじ桜の名所で、混雑しているところでも、千鳥ケ淵のそれなら、わたしは疎外感は感じないだろうから。
 ひととおり廻ったあと、ほぼ感慨なく、またホームグランドである東宝、仙川沿いの桜を眺めに帰る。
 ほっとする。こちらも人は多いけれど、もしかしてシートをひいて…という行為にとくにひっかかりを感じるのかもしれない。仙川あたりでは、そんなスペースがないから、人々はただ桜を愛でるだけだ。写真をとり、きれいねえとため息をつく。それはまさにわたしに近しい行為だ。だから疎外感を感じないのかもしれない。



 たぶん、この日がいちばんの盛りなのだろう。まだ咲きはじめたなあと思って、三日もたっていない。ほんとうに急いで咲く花だ、生き急ぐのか、死に急ぐのか…。咲き始めの頃のわたしの逡巡をほとんどうつくしく壊してくれて。
 静かな笑いが、川面に反射する。川面へ手をのばそうとして咲く桜。その枝は川に到達することがない。だが、姿だけは。そしてさらに。散った花びらは川面にしずかに到達するだろう。
 まだ花びらはほとんど散っていない。
 そして翌日、四月一日は、美術館へ出かけてきた。その時も駅に向かう途中と帰りに仙川の桜をみたが、この日は、桜に関しては、急いでみてしまったので、残念ながらとりたてて感慨は…。というか、もう思いだせないでいる。まるで美術館にいったことが悪いみたいな不思議な罪悪感にかられていたことは覚えている。美術館に行かずに、桜をあちこちまわってそちらを堪能するべきではなかったか…。彼らとはすぐに会えなくなってしまうのだから…。だが美術展のほうも、事情は似ていた。来週はいけるかわからない。で、美術館に二ついった。そのうちのひとつのことは、また後日。
 四月二日の水曜日。つぎの木曜日が天気が悪くなるというので、木曜日にしようと思っていた外回り仕事をしつつ、というかする前と、終わったあと、また仙川沿いへ。仕事のほうがついでだった。すこし風邪気味だったこともあって身体がおもかったが、桜目当てに出かけたのだ。



 仙川沿いの…すっかり、この桜がメインになっている。どぶの臭いももはや気にならない。慣れてしまったのか。満開…いや、たった一日で姿が変わる。もう桜が散り始めていた。ほんとうに生き急ぐ…。世界はまだ異次元だ。異次元のデカダンスだ。桜が咲くことで、見慣れた風景を、あっというまに生と死のゆきかう混交の場へ突入させる。いや、それらの本来の姿をむきだしにするだけなのかもしれない。異次元は日常の鏡なのだ。しずかな狂熱の姿、としての満開。ケを噴出させるハレ。そしてそれはまた日常にもどるだろう。だが、それはもはや同じ日常ではない気がする。
 桜の花びらはもう散っている。たぶん、これから数日は、散りゆく花を見て回るのだろう。
 あしたから天気が悪くなるそうだ。ますます花を散らすだろうから、追い求めて、桜の狂熱にのみこまれるようにして、なにかに追われる心地がして、いや、たぶん桜に追われて、この日も見て回った。まだ散り始めだ。はらはら、少し。散った花びらたちが川面にながれる、地面にわずかにへばりつく。上で咲いて、中間で花びらが少し舞って、そして下の水面や地面に花びらが散って。一面を桜だらけにしていた。まだ上の桜が散り始めなので、おおむね満開といっていい。対して、中間と下方の桜は花びらたちがまだ少しなので咲き始めといっていい。だが川面にいたっては、川面に映る桜もあるので、花びらと合わせて五分咲きぐらいの感じか。



 桜がさったあとと、まえではそれでも世界がすこしかわるだろう。狂熱のなかで、静かに予感をかみしめた。この日常をともす桜の色に、酔いしれること。

 四月二日から五日間、東宝あたりは桜のライトアップがはじまる。まさに祭りとして、桜がともって。

00:01:00 - umikyon - No comments