Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2014-06-05

風さん、七変化。そしてロロへ

 前回、風さんについて書いた。続きを書く。
 わたしは、ひとりで遊ぶ子どもだった。幼年からずっと、小学校にあがるまでは、それで満ち足りていた。わたしはおそらく家の金銭的な理由から、幼稚園にいかなかった。今でもそのことを、よかったとつくづく思う。おそらくそのことで、社会的な何かが育まれなかったかもしれない。だが代わりに一人の自由さを存分に享受できたから。それは空想に満ちた時間だった。言葉とのモノたちとの出あい、鏡像段階の剥離、それらをじっくりかみしめることができた。そして言葉がモノたちと結びつかないころの、おそらく代用品としてのハミング(その時々の心の動きをあらわすさまざまなメロディがあった)、たとえば口のなかにひろがる酸っぱいような感触がもたらす感情、あたりの雰囲気のもたらす気配たちのパレード。わたしは今でも、その頃の記憶がある。
 それは現実との蜜月だった。わたしの遊び相手は、電球や、ぬいぐるみ、日差しや、葉っぱ、花たち、鏡、石、ままごとの玩具、そしてクロ猫のロロだった。彼らと言葉にならない言葉をかわす。あとは絵を描いたり、ガラクタをつくったりもしていた。多分、彼らと、近づくための行為だ(今、書いている詩が、おそらくそうであるように)。父がやさしそうに、いとおしそうにわたしを見つめている。その範囲で、彼らがわたしと遊んでくれていた。




 小学校に入って、はじめて、他者たち、社会を体験する。それは慣れない世界だった、充足の時間はおわった。幼稚園で集団という社会について学習をしなかったわたしは、当然、いじめられた。まあ、それはどうでもいい。学校から帰ってきたわたしにできた友達が、風さんだった。できたというより、わたしが作りあげたのかもしれないけれど。
 彼は透明人間だ。透明なのだけれど、なんとなく、かたまりとして、姿があった。闇のなかで、かすかに人のかたちだけがわかる、そんな姿として、昼も夜も、わたしのそばにいてくれた。空中でバク転をしてくれる。電車に乗っているときも、車窓の外で、景色とたわむれ、そのあとで、わたしのそばにきて、外の世界のことを教えてくれたりした。わたしは彼と無言でことばを交わすのだ。彼はとてもやさしかった。風のことばで、いろいろなことを囁いてくれた。陽だまりのこと、花のこと、虫のこと。石のこと。
 風さんは、黒猫のロロとかけっこをしたり、ロロと一緒に寝ころんだりもしていた。わたしたちは三人で遊ぶのだった。ロロが塀の上を歩く。わたしもそのすぐ下を歩く。風さんは、ロロと一緒に塀の上を歩いたり、宙に浮かんだり。それが散歩だった。
 散歩の目的地は原っぱだった。へびいちごがたくさん、赤い宝石のように実っていたり、秋近くはアケビがなっていたりした。アケビはあとで採って、持って帰った。「ここらへんにまだなっているところがあるんだなあ」、父が珍しそうに、うれしそうに言っていたと思いだす。季節があちこち前後してしまうが、カタツムリがたくさん葉っぱのうえにいる原っぱで、つまり、始終三人で、無言で、寝そべったりしていた。わたしたちは、木漏れ日のふりそそぐ、緑と青の景の下で、充足していた。
 ロロはわたしが五歳のときに、子猫として、やってきてくれた。シャムの血がはいっていたらしい。だからなのだろう、すらっとしていた。毛並みの美しい、凛とした顔立ちの猫だった。たまに、外でロロをみた、誰かが、黒猫だ、縁起が悪い、と心無いことばをかけた。わたしは心の中でそっと反抗していた。反抗といっても、くだらない、ばかげている、たぶんそんなもやもやを感じるだけだった。ばかだなあ、こんなに幸せを運んでくれているのにと。今思い出しても、はなからそれらの人(おおむねわたしと同年代の子供だ)に、分かってもらおうとしていなかったことに驚く。あるひとたちとは、なるほど、わかりあえることがないことがあるのだ。
 ロロは、わたしが十歳の時に亡くなった。夜7時ぐらいだったか。いつも、その時間は外で遊んでいたから、いないことが当たり前になっていた。家から二軒先ぐらいでお肉屋さんを営んでいるおばさん(名前は覚えていない…同級生の男の子のサダちゃんのお母さん)が、玄関先に突然現れる。「黒猫が…」と言っている。母が急いで外に出る。わたしもわけもわからず、外に出た。まがまがしいものを感じたのではない、なにかが起こったと思ったが、それは冒険への期待だった。なんだなんだ? わたしにとって学校以外のそれは、期待に満ちた世界だったから。たしか土曜日。あしたは学校が休みだ、学校にいかなくてすむ前日、だから当然、その時間は、楽しいはずものだったのだ。
 だが、夜のなか、道に横たわっていたのは、ロロだった。タクシーに轢かれたのだと、あつまってきていた、誰かがが教えてくれた。首の骨を折っていたらしい。眠っているだけのような、ほんとうにきれいな姿だった。
 それは、わたしがはじめて体験する死だっただけではなく、なにかの終わりだった。あるいは始まりだったのかもしれない。それまで、夜は、いくぶんかは怖いものではあったが、おおむね優しいものだった、夜は夢や眠り、想像をかきたてる世界だったし、たとえ怖さが、潜んでいたとしても、灯りがやさしく照らしてくれるものだったから。父がわたしを慈しんで、見守ってくれていたように。だが夜はやはり奪うものだったのだ。そのことを、またつきつけてくるのだった。
 また…というのは、わたしが五歳ぐらいだったか。母が出奔したことがあった。夜だった。わたしと父とロロとが、家に残された。出奔したとかはもちろん、子どもの私にはわからない。だが妙な雰囲気が夜にたちこめていた。映像としては、夜の繁華街、雑踏が思い描かれた。迷路のように謎めいて、ネオンたちがちらめいていた。ネオンのなかに母が消えた、そんな印象だったのか。ともかく、母の出奔が、ほころびをもたらしたのだ。あるいは、灯りのぬくもりだけではふせぎようのない闇があるのだと、街がほのめかしていたようだった。

 母は、その時はわりとすぐに戻ってきた。「あなたがいるから、もどってきたのよ」と、わたしを抱きしめて泣いていた。子ども心に、ちょっと違和感があった。今、その違和感の一部を翻訳すると、「恩着せがましいなあ」という言葉がでてくる。ほかにもきっと想いはあっただろうけれど、よくわからない。いや、当時感じた違和感は覚えているのだけれど、それをあらわす言葉が、いまだにみつからないのだ。だが、わたしなら、きっと、ひとのせいにはしない。それが違和感のもう何割かを含んでいる。
 ちなみに、母は数年後、こんどは本当に出て行ってしまったが、それらは別の話だ。

 ともかく、夜はなにかを飲みこんでしまうものだという、恐怖を感じつつも、それでも夜を好む自分もいたのだった。小学校にあがってからは、特に。なぜなら昼間というのは、学校にいっている時間で、夜は学校のない、自分だけの時間だったから。

 ああ、風さんの話をしようと思ったのだ。でももう少し。たぶん、ロロが眠るように横たわっていた、その夜、土曜日の晩、父と母と私の三人で、ロロを埋葬した。借家だったのに、庭に埋めた。そのときのことを思うと、なぜか、狐火のようなものを思い描く。そんなことはなかったのだが、夜のなかで、松明の行列があったように感じるのだ。それはロロがわたしとともにあった、かつての夜たちの灯が、彼(言い忘れていたが、ロロは牡だ)を送ってくれていたからかもしれない。

 風さんは、いつからいたのだろう。そして、いついなくなったのだろう。子どもの頃の一年、二年は、とてつもなく長い。おそらく風さんは小学校に上がってから、わたしのもとに現れてくれた。それまでは、風さんがいなくても、いや、具現化しなくても、満ち足りていたから、彼の助けがいらなかったのだと思う。
 そしておそらく、いなくなったのは…決別したのは、ロロが亡くなってからだと思う。だから小学四年生位か。ロロの死が関係しているとは、当時は思わなかった。だが、彼の死によって、夜以外にも、なにかしら、均衡がうしなわれてしまったのだ。たとえば、三人で遊んだ均衡。ロロという幻想…(幻想ではない、たしかにいたが、子どものわたしにとって、彼は、日常以外、社会以外、学校以外に属する、大切なものだったから、幻想に組み入れたくなるのだ)が、わたしから去ってしまった、なら、もしかすると、風さんも…。
 いさかいの原因は覚えていない。きっかけは夫婦喧嘩のようなささいなものだったのだと思う。ともかく、わたしは、ある日、風さんにひどい言葉をなげかけてしまった。「学校の宿題の答えも教えてくれない、あんたなんか、ほんとうはいないんじゃないか」。それは黙契をやぶることだった。いちばんいってはいけない言葉だった。風さんは、さびしそうに、わたしを見つめ、最後にこういった。「ぼくはいるよ。でも、きみがそう思うんなら…」。そうして姿を消した。ずっと。
 そう思っていたけれど、何十年ぶりかで…、書くことで思い出したのか、あるいは、最近、ブログで書いたことに、感想を送って下さった方があって…。その方が、さらに気付かせてくれたのか、おそらく、そうしたことがからまって。ともかく、風さんは、姿を消したわけではないということに、ようやく気付いた、気付かせてもらったのだった。
 あんなにひどいことをいってしまったのに、彼はわたしのそばにずっといてくれたのだ。なにも語らず。子どもの頃のそれとは、若干対象を変えていたかもしれない(だからずっと気付かなかった)、つまり具現化せず、季節ごとの花たち、気配、日差し、月明かり、鳥の鳴き声、水の音、彼らの息遣いに同調して、わたしにそっと、ずっと語りかけてくれていた、それが風さんだった、それもまた風さんだったのだ。

 「私は…形あるもの/ではなかった」「ただずっと/この家の…庭の/闇に棲んでいて(中略)」「この家の気が/明るく華やいで/いれば」「庭の隅に/突然咲く/名もない花に/なったり」「出所の/わからない物音や/咲いていないはずの/花の香りも/私だった/かもしれない」(波津彬子『幽霊宿の主人 冥境青譚抄』より「夜の聲」)。
 たとえば、そんなふうに、わたしのまわりに、ずっと風さんはいてくれた。
 だが、このお話しの「形あるもの/ではなかった」モノは、女の嫉妬にとりこまれ、魔になってしまう。女の悪の部分に同調し、禍々しいモノになる、それを哀しんでいる。最後に、それをわかってくれる主人公、人でないものたちの声を聞くことのできる青年によって、魔以前の、おそらく、もとの存在に帰ってゆくが。
 均衡。闇にとりこまれないこと。けれども闇をみつめること。
 
 梨木香歩を読んでいる。たぶんわたしにしみこむだろう…そうした予感のあった『家守綺譚』は、自分でもびっくりするほど、わたしにあっていた。それは狭間の物語だった。今でもない、過去でもない、そして生者と死者、人間的なものと、そうでないもの…生あるものたち、植物、そして幻想に住まうものたちとの、狭間での、大切な出逢いたち。たぶん、この本によっても、風さんをまた、身近に…いてくれたのだということを気付かせてくれる何かがあったのだと思う。
 同じ作者の『f植物園の巣穴』を読む、読み終わった。こちらも狭間だ。過去と現在、植物とわたしたち、現実と非日常。巣穴を通じて、日常と非日常が、生と死が、接し合う。
 それは幻想世界でのことかもしれない。だが、現在と過去の出逢い、生者と死者が出逢う、そこだけが、詩的現実としてリアリティを持つのだと、風のことば、夜の言葉でかれらは教えてくれるようだ。
 主人公が穴におちたことでからみあったモノたち、生じたモノたちの連関、それは『不思議の国のアリス』的なのかもしれないが、とてつもなく日本的に美しい。さまざまな、かそけき、息遣いとして、大切ななにかを、言葉以外のものを通じて教えてくれている…。
 
 日本経済新聞、二〇一四年五月二十九日の文化欄、「植物幻想 十選」、仏文学者 巖谷國士氏の、葛飾北斎《芥子》についての文章が…また北斎だ。大好きな大切な…についての言葉が、今回も私に境界をそよがせてくれた。
 「西欧では長く静物画(原語では「死んだ自然」(ナチュール・モルト)の題材だった花を、こちらは「生きた自然」ととらえ、「動」物画にしている。(中略)花も鳥も虫も獣も人も、等しく自然に属するという感覚があったのだろう。」
 北斎の《芥子》は、風にそよいでいる。モネが光や時間を絵にそそぎこもうとしたように、北斎のそれもまた、風を、花のある瞬間にそそぎいれ、時間をあらわそうとしている…、そうではないかもしれない、ただリアルさを追求した故だったのかもしれない。芥子の花のリアル。風にそよぎ、まもなく花を散らすだろう、その瞬間の永遠。
 風のかんじられる、この絵が、わたしはやはり大好きなのだった。はじめて出逢ったのはいつだったか。だがそれをみたとき、とくに風さんを感じたわけではなかった(だってつい最近だもの。風さんがまた大手をふってやってきてくれるようになったのは)。そう、こう書いていて、名前が共通していると、気付いただけだ。でも、ここにもたしかに、彼はいてくれたのだった。風のことばで、わたしに語りかけてくれていたのだ。絵からそよぐ、気配として。ちょうど『家守綺譚』の主人公が、彼をとりまく、花たち、動物たち、死者である友人たちが、狭間で、わたしに、大切ななにかを、さしだそうとしてくれているように。
 死者たちのことば、モノたちの…。



 今日、夢で、父とロロとべべ(十九年一緒に暮らした猫)に会った。父に関しては、入れ子細工だ、夢の中で、「きょう、病みあがりの父の夢を見た」と、昔のわたしの住んでいた家、その時は一階に個室があったので、玄関脇をぬけ、窓をたたくことも可能だった…。その窓に、顔をだした男(たぶん、誰かたちが多少、合体した、合成人間…。だがおおむね今の男だ)に、わたしは告げた。そう告げることで、夢でみたことを忘れないようにしようと思った。覚えていること。

 実際、その窓から、べべはいつも出入りしていた。だからその夢のなかでも、久しぶりに、あたりまえのように、彼女(ロロとちがって、べべは牝なのだ)は、すっと、入ってきた。ああ、これで、ロロとべべ、二匹とも、そろったなと思う。だがロロは、ほかの部屋で寝ている。二匹が出逢うことは、ない。あるいは、二人とも、もはや出逢っているのかもしれない、わたしのなかで、幻想のなかで。かれらはわたしの大切なパートナーだったから。
 現実。道ばたなどで、猫に会う。かれらはたいてい、逃げてしまう。ごめんね、おどかすつもりはなかったんだ。
 現実。坂道。自転車で下る。ぐんぐん出るスピードが怖くて、ついブレーキをかけつつ、下ってしまう。それでも風が感じられて。昼顔のあわいピンク色が、どくだみの花たばのような白たちが、道端に、色彩を鮮やかに浮き立たせている。満開の(ああ、きれいだなと摘んだ記憶…、手にしばらくかなりきびしい臭いが残った、今となっては楽しい記憶もまた、浮かび上がって)。彼らは、現実のあちこちで、姿をかえて、いてくれる。
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