Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2014-08-25

流れつづける川は、異国であり、ここである海のほうへ

 あるギャラリーのイベントに出かけてきた(*)。そこでは様々な手作りの本たちが展示されていた。そのなかのひとつに「川詩」という手作りの詩誌があった。わたしがでかけてきたのは、その本にまつわるトークイベント。本に関わった三人の川が、境界(川は此岸と彼岸の間を流れるものでもある)から、しぶきをあげる。その一滴が、わたしのなかに波紋をひろげた。
 そう、川についてわたしも書いてみたいと思ったのだ、わたしのなかにも、ずっと川が流れている、そう気付いた、気付かせてもらった…。

*「THE LIBRARY 2014 ─Exhibition of the Book Art─本の展覧会」八月十日 「トーク 詩と本の会」(吉田文憲さん、岸田将幸さん、菊井崇史さん)







 水が好きな子どもだった。泳ぐのが、とかではない、ただ水に惹かれる子どもだった。
 生まれたところは東京の郊外…なのか、都心部ではない、郊外ともいいきれない、中途半端な場所だ。だがもともと、その土地は水には恵まれていたのだろう。家には井戸水と水道水、両方の蛇口があった。庭には、井戸のポンプも。水しぶきが飛ぶように、話がすこし飛ぶけれど、今も毎年、正月の初詣に、その、私が生まれた場所近くの神社へゆく。ここでは手水舎の水に井戸水が今なお使われている。そのことを知った時、嬉しくなったものだった。飲むことは残念ながらできないけれど、まだ井戸水の痕跡がここには流れているのだと。
 家のすぐわきに、小さな川が流れていた。だが残念ながら、コンクリート護岸された、人工的なものだった。おまけに水質も悪い。どぶ川といった感じだ、茶色いイメージ。幼心に、その水の流れに、残念なものを感じていた。言葉にすると、もっときれいな川もあるはずなのにとか、そんなことだ。この川をどこかでかわいそうに思っていたのだと思う。
 小田急線沿線に住んでいた。川の近くに線路もあった。たまに赤い特急列車、ロマンスカーが走る。お祭り色の赤、どこか楽しいところへ運んでくれる電車として、当時の私には好ましいものとして受け止められていた。それはほんとうにわくわくを運んでくれるものだった。さらにこの電車は、海のほうにある小田原や江の島へゆくのだ。いや、ロマンスカーの運行は箱根…最近行ってきた箱根のほうがメインなのだろうけれど、ともかく箱根には申し訳ないが、わたしにはまず海へ向かう休日の電車としてのイメージが先だった。この線路の果てに海がある。それはうちの近くの小さな川の記憶と合わさって、わたしに奇妙な作用をもたらした。川のそそぐ場所としてのおおきな海が、いまだみない、あの終点のほうにある…。
 それは線路のむこうにある異国だった。あるいは故郷。この川がそそぐ場所。きたない色の川が、あそこではきれいな水になる。きれいな海になる。たとえばそんなふうに思っていたのかもしれない。
 あの頃、現実と想像、いまここにある国と異国は近かったから。それらは二つでひとつだった。茶色い川と、見たことのない海と。それは届きそうで届かない、水の流れだった。
 今住んでいるところは、その、生まれた場所から割と近いところにある。選んで住んだわけではない、奇妙な、うれしい偶然だ。けれどもここは、それよりも、都心から少し離れる感じなので、緑が、畑が、そして水が、いまだに残っている。家の前に枯れかかった小川が流れている。二百メートルも歩かずに小川の本流である野川という川に出れる。川を越してすぐの崖(国分寺崖線)からは何か所か湧水も流れている。バイト先は野川のほとりだ。よく行くスーパーは、崖の下、湧水の眼の前にある。そういった意味では、異国たちは、ここでも現実に近いのかもしれない。毎日、野川の流れを見つめている。澄んでみえる、浅い川だ。鷺をよく見かける。ごくたまにカワセミ。浅いむきだしの流れをみていると、どこかがざわつく。心地よい悲鳴が、異国へ向かう。ああ、今もきっと、それは近くにいてくれるのだ。

 気がつくと私はいつも川を探していた。
 小学校にあがる前に、生まれたところから引っ越してしまった。それは幼年の終わりと重なることもあり、どこかさびしい変わり目の記憶だ。そして引っ越した場所には川はなかった。川の痕跡があった。坂の途中に家があった。坂下に暗渠。コンクリートで蓋をされた、その下を川が流れている。そばにゆくと水音が聞こえた。緑道ではない、ただの歩道のような暗渠、川をふさいだコンクリートには、小さな長方形の穴がところどころあいていた。例えば二センチ×五センチぐらい。覗いてももちろん中は見えない。水音だけが、そこに流れているのが川なのだと伝えてくれる。わたしは寂しかった、いや、がっかりしたのか、ショックだったのか…、そうした思いたちが、暗渠を眼のまえにして、渦巻いた。おまけに暗渠に空いた小さな穴は、わたしにとってすこしの魔だった。きれいな消しゴムや、シャープペンシル、当時流行っていた小さなおもちゃ、わたしは何度、それらを、暗渠の穴にもっていかれてしまっただろう。とくに紙石鹸という、薄いオパールか真珠のような光沢をもつ、紙のように薄い石鹸が、印象的だ。なくしたものと別れを惜しむ間もなく、闇がのみこんでゆく。もはや永遠に見えなくなる別れだった。それは大切なものを瞬時に奪う何かだ。流れる音だけが、ゴオオっと遠く近くで、いつまでも聞こえている。

 家では金魚が飼われていた。もしかするとそれもまた、わたしにとって川になっていたかもしれない。あるいは貸家だったのだが、隣の家との間に、路地のような細い庭があった。雨が降ると、そこが小川のようになる。その光景を飽くことなく眺めていた。川が恋しかった。あの生まれたところにあった茶色い川を、わたしはそれでも大切に思っていたのだ。そういえば、初詣にあのあたりに今でも行くと、先ほど書いたが、灰色の川は、とうに暗渠になっている。こちらは緑道として整備されているけれど。

 小学校の三年生の時だったと思う。だれか、たぶん友達のような子だったが、わたしは学校が終わってから仲良く遊んだ子の記憶があまりない…。だれだったのだろう? ともかくクラスメイトのひとりに、家から自転車で二十分ぐらいのところに、川があると教えられた。たぶん最初は一緒に行ったのだろう。だが記憶のなかで、わたしはいつもひとりで川で遊んでいる。
 ともかく川があった。伊佐沼という沼を源流にする小さな川だ。九十川(ぐじゅうがわ)という。そのためか泥が多く、あまり水も澄んでいない。ガラスの瓶に、水をいれたことがあったが、けっこう茶色く濁っていた。けれども川だ。やっと川だ。

 ところで生まれた時、そばを流れていた川の名前を書かなかったのは、当時のわたしが、いや、殆ど今まで、その川の名前を知らなかったから。だが九十川やこれ以降出てくる川の名前は、わたしのなかで、大切に刻印されている、呼ぶと、どこか温かくなるものなので、それらの名前は書いてゆきたい。そうすると、生まれたところにあった川にも、名前で登場してもらわないと、なにか変な気も…。何だか川の名前について、歯切れが悪くなっているが、あの茶色い川の名前は、ほとんど、これを書くにあたって、検索して、探し当ててきたものなので、あの川…なにかがたくさんつまった、わたしの中の原風景的な川と、どうも結びつけることができないのだ。
 ともかく、ほんとうは北沢川という。とうとう名前を書いてしまった。けれども、やはり、名前とあの川がどうにも結びつかない。川は名前がなくとも、わたしのなかで、大切に流れていた。まるでことばをおぼえる前のように、ことばにならぬものたちのように。そうして、こんなふうに懐かしむことがあったとき、名前ではなく、名前に近しいものとして、「世田谷のあの川」「茶色い川」と呼んでいた。だがそれも、ごくまれにだ。名前がなくとも、川は奥底で、わたしにありつづけていたのだ。
 ちなみに今までにも、何回か、北沢川…という名前を探したり、実際緑道になった暗渠を歩いたときに名前を見かけたはずなのだが、わたしはその度に忘れてしまうのだった。まるで、忘れることで、茶色い世田谷のあの川が、いつまでも、わたしに流れていると、再確認するかのように。

 また水しぶきのように、あるいは川を泳ぐように、どこかへ話しが飛んでしまった。小学生だった頃にもどろう。ともかく九十川。その存在を教えられてから、しょっちゅう出かけるようになった。網で魚をとる。タナゴがいた。どこかで雷魚が釣れたと声がする。ヘラブナやフナを釣る人々、子どもたち。魚の記憶はその程度だ。あとはアメリカザリガニ、オタマジャクシ。
 春になると、その川の付近に、ツクシやセリ、ノビルなどを摘みにいった。レンゲソウの花束も持って帰ったことがある。これらは親とだ。父と母と。父とは川の源流の沼のほうにも一緒にいった。特に秋が印象的だ。ススキに寄生する、うつむいたような花にどこか惹かれるナンバンギセル、そして河原を真っ赤に染める、もう一人の立田姫のような彼岸花。
 川はそんなふうに、また私に帰ってきてくれた。それは茶色い川だった。あまりきれいではなかった。おまけに沼と、わたしがいくところの中間に、工場があり、たまに工場の排水のせいで、魚たちが死んで浮いてしまうということがあった。けれどもそれは、あの生まれたところに流れていた、現実の川と、澄んだ水、海とも近しい異国の川の中間にある川のようで、そのころのわたしには、ちょうどよかったような気がする。コンクリートのなかの茶色い川、幼少の現実として流れる川と、澄んだ水という幻想を流れる川、その中間にある川、きれいときたないの間をながれる現実として。それは過去と現在(当時のだ)をつなぐ接点の川でもあったのだ。あるいは北沢川という名前を知らなかった、生まれたところを流れていた川と、名前で呼べるはじめての川という、ふたつをつなぐ、茶色い水。

 中学、高校ぐらいまでに数回、引っ越しはしたけれど、近場での移動だったので、その川にまだ十分いける距離だった。さらにその川のそそぐもうひとつの川(新河岸川)にも近くなった。こちらは別の工業廃水のせいか生活排水のせいか、九十川とほんの数キロしか隔たっていないのに、ともかくさらに汚く、そして臭くなっていて、あまり近寄らなかったのだけど。ただ、新河岸川を見下ろす、小高い丘になった場所にはよくいった。権現山という。徳川家康が、鷹狩りにきたことに由来する名前らしい。木陰があり、人気もあまりなく、のんびり過ごすことができた。工場の裏手にあたるところにあった。工場の表は、市街地だ。街の喧騒と隔絶された、静けさに、不思議な感慨を覚えていた。ここからは、新河岸川の臭いも気にならない。夕焼けの頃、水面に、空が映ったのを見たのかどうか。権現山から見た新河岸川を思うと、いつも、夕景が思い出される。
 それとは別に、坂をのぼりきったところ…、場所は特定しない、というか、こちらも、名前を覚えていないのだ。ともかく生活の範囲が、どちらかというと盆地のようなところで事足りてしまっていて、坂をのぼることはあまりなかったけれど、たまにのぼることになったとき、わたしは夢想するのが好きだった。あの坂をのぼりきって、視界がひらけると、そこに水がある…。とおくに海がみえたり、大河がみえたり、湖が…。そんなことを思うのが、好きだった。というか、それもまた異国だった、故郷だった、ノスタルジーだった。わたしのなかの川は流れつづける。

 大人になり、都心で六年ほど暮らしたことがあった。これも、わたしが選んだ場所ではない。仕方なくだ。川はコンクリート護岸されたものしかなかった。どうしてか、この手の川は、いたましく思えてしまう。息ぐるしさを感じてしまう。流れる水は、わりと澄んでいた。だがこの川は、生活圏内からはすこし離れていたので、あまり足を運ばなかった。というよりも、この川を目指して出かけることはなかった。
 そのかわりうちからほど近いところに有栖川宮記念公園というのがあった。ここには池があり、ホタルも飼育している小さな流れがあった。わたしはここの水で、ひとごごちついた、というか、この水を当面のわたしの川にしたのだった。アイガモにまじってアヒルがいた。池で釣り糸をたれる人々。
 わたしは水だけを必要としていたのではなかった。緑もまた欲していた…と、あの場所に引っ越してきて初めて気付いた。いや、そうではない。ほとんど無自覚に、水とともに緑あるところへ、引き寄せられていったのだ。おそらくそれまでは、林や野原、植物たち、そうしたものに、なんだかんだいって、恵まれていたのだろう。あるいは父(この頃には、とうに亡くなっていた)はたくさんの植物をそだてていたから、それがわたしにとっての緑をになっていたのだった。金魚たちのすむ水槽がそうであったように。
 休みのたびに、この公園だけでなく、水のある公園へ、自転車などでほぼ毎週のように出かけていた。明治神宮(奥に清正公の井という湧水がある)、国立自然教育園(ここも池があったが、それも湧水であるらしい)、浜離宮庭園、あるいは皇居のお堀、東京タワー近くの、芝あたりの、名前のわからない公園。ここにも人工的な川が流れていた。そして家の近くではなかったが、勤め先の近くの新宿御苑(ここも湧水があったはず。渋谷川の源流らしいから)。あとは東京湾か。お台場、竹芝桟橋あたりにも、自転車で出かけた。わたしが好きだったはずの海。だが、人工の砂浜、息苦しい水。海を眺めて、わたしは強いて、なにかを感じようとしていた気がする。これが待ち焦がれていた、海なんだと。けれども、それは待ち望んでいたものではなかった。海を思い出させる何かでしかなかった。わたしが望んでいた海は、川がそそぐ、幻想の領域で、異国で、寄せては返す、澄んだ水であったのだから。
 ともかく都心で暮らした六年は、どこかわたし自身がコンクリート護岸にちかい感じがあったのだろう。息苦しかった。職場である新宿には、自転車で通った。青山墓地、神宮の森と、緑は意外と多かったが、排気ガスの量がものすごかった。鼻や気管支の調子を悪くしていた。それまでは気にしたことがなかったし、実際、そこを離れてから、ぴたりと症状がおさまったのだが。その点でも、息が苦しかったのか。いや、心も体も、息苦しかった、ということなのかもしれない。もちろん、それ以外では、楽しい思い出もあったが、水についてではないので、今回はここに書かない。

 都心暮らしの六年は、突然終止符を打つ。その後、自分がはじめて選んで居を決めた場所、板橋区の赤塚へ引っ越した。けれども、ここに棲みたい、と特に何か強い気持ちをもったものではなかった。職場のある新宿と母と妹が住む場所の中間ぐらいにあるから…、そんな理由が主だった。だが赤塚は、住む場所として、わたしにずいぶん優しかった。息つくことができたのだった。近くに光が丘公園がある。こちらは水はいまいちだったが(四角いコンクリートで固めた池と、じゃぶじゃぶ池のようなものしかなかったから)、緑があった。森があり、梅林もあり、桜も見事だった。それとわたしの住まいを挟んで反対側、高島平のほうへゆくと、荒川が流れていた。埼玉からくる新河岸川と合流する。九十川が注いでいた新河岸川だ。そして荒川もまた、私にはなじみの名前だった。わたしのなかの川たちが、こんなところにも…と再会をうれしく思ったものだった。その荒川たちよりも、家に近いところに、不動の滝があった。今では、ちいさな流れが落ちてくるだけだったが、湧水だ。この滝の近くに、赤塚溜池公園、東京大仏などがある。溜池公園には梅林もあり、隣接したところに、赤塚植物園があった。池もあり、薬用植物園もある、無料のかわいらしい植物園だ。
 なんだかいきなり、ずいぶん饒舌に固有名をあげているが、それだけこの場所たちに思い入れがあったのだろう。赤塚には十年ぐらいいたのだろうか。そこに越してきて、都会では、なるほど息苦しかったのだなと、はじめて気付いた。そしてどんなにか、水と緑を求めていたのかと。これも、気付いたわけではなかったかもしれない、ただ、息がやわらいだ。ともかくわたしは赤塚で、水と緑にくるまることができたのだった。
 赤塚に住んで、五年ぐらい経ってから、今住んでいる場所へ、週末になるとほぼ毎週通うようになっていた。その頃は、砧公園の森、そして家の近くの緑多い坂のことぐらいしかしらなかった。この坂が国分寺崖線上にあり、そこに湧水が流れていることなどは、引っ越してきてから知ったのだ。だが、ともかく坂を下りると、野川があった。野川にかかる橋を渡ると、当時の目的地、今住んでいる場所へ到着だ。
 週末、このあたりに通っていたころ、この川の存在を、羨ましく思っていたものだった。中州もある、小さな川、澄んだ水。岸には緑多い公園もある…。
 そして現在にいたるのだ。この場所を選んで越してきたわけではなかったが(結局選んで住んだのは赤塚だけだった)、期せずして、一番川の近くにいることになる。いや、生まれたところのほうが近かったか…。けれども、今の川は、両岸は護岸されているが、川が呼吸できるように、自然に近いかたちで流れている。それは、幼児の折のあの川、汚れていた川と、そして異国だった小田原や江の島の海へそそぐ幻の川、さらに九十川、それらのあいだを縫って、流れる川のような気がしてならない。汚いことで、幼児の記憶にある北沢川を担っていた九十川。そしてきれいに見えることで、海のほう、未知の幻想のほうで、清冽なしぶきをあげる、水へのあこがれ。幻想と現実、過去と現在、その狭間を流れる川として、野川はわたしに、ほとんどやさしく、その浅瀬を、澄ませて、手招きしてくれている。

 ちなみに、これを書くにあたって調べたら、うちのまわりは、区内でも、かなり湧水に恵まれている場所だと知った。三、四か所あるそれには、そうした意識もなく、全部訪れていた。そのうちの一つは赤塚のような不動の滝だ。また不動の滝だとうれしくなる。こちらも水がちょろちょろだったけれど、ともかく滝だ。幼年の川、そして赤塚の水も、そそいで、今の水が流れている。そして、さきほども触れたけれど、毎日買い物をしているスーパーの裏手に湧水がある。公園になっているので、スーパーの駐輪場に自転車を停めて、たまに散策することがある。崖に造られた小さな道をのぼる。木々の影、小さな流れに、一瞬、どこか山道にでも歩をすすめたようなすがすがしい気持ちになる。木漏れ日のきらきら。クモの巣の繊細なかがやき。竹林があり、カブトムシが生息する場でもある。バイト先から、こんもりとしたこの林が見えもして。わたしのなかの川は、今もなお、流れつづけているのだ。清濁含んで。





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2014-08-15

言葉は絵ハガキになるだろうか。そうして誰かへ差し出したい ─北斎、鈴木其一、山口華楊…

 箱根の小涌谷にある岡田美術館へ行ってきた。前日は真鶴、湯河原で少々遊び、泊ったのは湯河原の宿。朝、チェックアウトをしたあと箱根へ向かう。宿に泊まった時の情報としては箱根の入り口まで車で二十分、カーナビをセットすると小涌谷まで五十分ほど。距離的に近いことはなんとなく知っていたけれど、うねうねとした山道などだろうから、もっとかかると思っていたなと漠然と思っていた。想像と現実はいつもちがう。カーナビの示した案内では、山を通る感じだったが、ほんの少し遠回りをすると海沿いの道を少し走ってからでも行けるので、そちらを通ることにする。これは知らなかった。もう前日の真鶴で海は見おさめだと思っていたから、車窓からでも眺められることがうれしかった。打ち寄せる波。空はすこし曇っていたから、海の色はいくぶん青さを失っていた。けれどもおだやかな夏の青だ。





 箱根の温泉街の入り口的な湯本を通って、塔之沢、宮ノ下を抜ける。以前泊ったことがある宿の前を通り過ぎた。なにか妙な気がする。道はさらに山の感じ、やはり、周りに生える木の感じが、真鶴とも湯河原とも違う。箱根は何回か来ているので、それでも、どこかなじみのある緑たちだ。
 木々の間に岡田美術館の看板案内が出てきた。小涌谷まで間もなくだ。この辺りは初めて。となりの大涌谷はいったことがあった。箱根山噴火でできた爆裂火口跡。草木も育たない、荒涼とした山肌、岩の間から煙を吐き出す、異質な場所。明治までは地獄谷と呼ばれていたらしい。景色とは対照的に噴気のなかを縫うようにしてできた散策路をゆく人々はおおむねのどかだ。硫黄泉でゆでた黒い温泉卵を食べると寿命が七年伸びるとか。これも地獄とは対照的。この落差のせいか、実は意外と好きな場所なのだが、今回は訪れていない。たんに小涌谷から名前を連想しただけだ。
 小涌谷は、近くに彫刻の森美術館と、小涌園などのリゾート施設がある場所として有名なのかもしれないが、どちらにも足を運んだことがなかったから、今まで来ることがなかったのだった。緑の山道を走っていたと思ったら、いきなり到着。
 岡田美術館は二〇一三年秋に開館したので、まだ一年たってない。東洋の陶磁器が主な収蔵品だが、土偶や土器、日本画、浮世絵など、わたしの気をひくようなものもあるらしいので、ちょっと出かけてみようと思ったのだった。来ることになった理由は他にもあったけれど。たとえば近場で旅行がしたかった、とか。
 ネットで調べると、入館料が二八〇〇円と高い(なんとか安く手に入れたけれど)。それとこちらの美術館では、撮影禁止を徹底化するために、カメラやスマホ、携帯は、あらかじめロッカーに預けるとあった。入口で空港のように金属探知機を使った持ち物検査もある…。この情報を事前に知ってよかったと思った。おそらく当日知ったらいやな気持になるだろうと。ちなみに連れにこのことを言ったら「性悪説でなりたっているんだね」と返ってきた。そのとおりだ。ただ、この件に関しては、実際行ってみて、ある程度は理解できた。館内は五階建てで、展示スペースもゆったりしていて、かなり広い。だが展示室には監視スタッフがまったくいない。人を置かない代わりに、撮影などに対してのチェックがあったのだ。それならそれで仕方ないなと思う。それと同時に、行く前に思っていたよりもいやな気持にならなかったことを喜ぶ。現実と想像は違う。このずれをかみしめること。現実は思っていたよりもわるくない。
 ただ監視スタッフがいないというのは、それはそれで、少々心配だったけれど。いったのが平日、しかも月曜日だったから、人はわりと少なかったが、あちこちで、作品を前にしての私語が少々気になった。もっともあのぐらいなら注意することもなかったろうけれど、もっとうるさい人がいても、美術館側の人間はいないから、そのままになってしまうだろう…そう思ってしまって。
 さて美術館だ。この時は企画展としては「─中国人の魂─玉器の名品」と、併設の特集で「かわいい生き物たち」をやっていた。会期は二〇一四年七月三日〜九月三十日まで。
 企画展にではなく、特集と常設の一部に何か、わたしに語りかけてくれるものがあるだろうと思っていた。期待というほどではなかったが。一階と二階が、おそらく常設展示室、陶器がほとんどだったので、ここではとりたてて思ったことがない。わたしはなぜ陶器たちに何も響くものを感じないのだろう。この陶器たちから早く逃れたかった。おそらくわたしのほうが遮断しているのだろうけれど、陶器につめたい壁を感じてしまうので。おびただしい疎外感。二階に、それでも縄文式土器や土偶の展示が数点あり、ここでようやく一息ついたけれど。力強い謎たち、おそらく祈りたちであろう、土偶と土器のあげる焔のかたち。
 三階にいって、ようやく日本画の展示になった。チラシなどにある特集とは別に「夏を楽しむ」という特集で、収蔵品を特集展示している。これはうれしい。菱田春草(一八七四─一九一一年)《瀑布の図》(明治時代後期/二十世紀初頭)。ちなみにこの絵もそうだが、基本的にここで観て惹かれたものたち、今回はほとんど、手元によすがとなるもの(絵ハガキ、図録、インターネットで検索した画像など)を持つことができなかった。展覧会で見た絵の思い出だけを頼りにここで書いている。言い訳がましいが、もはや日数も経ってしまっていることもあり、多少記憶があやふやになっている。申し訳ないが、だいたいの印象だけで書く。
 ともかく《瀑布の図》のまっすぐな白い滝。その長細い静謐に、心惹かれた。前日の湯河原で見た不動の滝へのオマージュが、彼の絵へわたしを導いたのかもしれない。ちなみにこの菱田春草。この秋に東京で展覧会がある。猫の絵たちに惹かれて、実は前売りを買ってある。今まで何点か作品を見たことがあったが、まとまって見るのは初めて。そんな状況で、前売りを買ったのはいささか冒険だったのだけれど、その冒険の背中を押してくれるようなまっすぐな滝だった。秋の展覧会が楽しみだ。そんなこともざっと思った。そしてこの美術館にきて、ほとんど初めて、心に染みた作品だったから(実はなぜか二階で見た土偶や縄文式土器にはそれほど感じるものがなかったのだ)、そのことをありがたくも思った。この場所にきてからだけでなく、久しぶりに絵を見て、何か心が動いたから。もしかしてわたしはもう絵に対してどこか感じることがなくなってしまっているんじゃないか、そんなふうにすら少し思っていたので、この絵との出逢いは、やさしく景を迸らせてくれる大切なものとなった。前日の海や滝に続き、またしても水。それは夏という季節にふさわしい、水たちの手招きだった。
 ここには鈴木其一(一七九六〜一八五八年)の《雨中芍薬図》《雨中白鷺図》(ともに江戸時代後期)もあった。数年前に静嘉堂文庫美術館でやはり鈴木其一の《雨中桜花紅楓図》を観たことがあった。その雨を思い出した。それはほとんど再会の喜びだった。今回の絵は、雨にうたれる芍薬。花びらが雨にすこしかしいでいる。ほとんど耐えでもしているように、うなだれてみえた。その仕草というか姿が、わたしのなにかと共鳴した。それはわたしがかつてみた景だったかもしれない。そして白鷺。雨に耐えるように、身体をいくぶん膨らませてみえた。その膨らませ方がリアルだった。美しさという幻想をたたえながら実在していた。そうではないのかもしれない。こんな白鷺をみたことがあったような気がした。そう思ったことがリアルだった。わたしは家の近くの野川のコサギたちを思い出していた。かつてみたコサギやヘラツサギたちが、鈴木其一の絵と呼応していた。そのことがリアルなのだった。のかもしれない。冷たい、けれどもやさしい雨。
 三階には、個室のような展示室が設けられていた。これまでのオープンな展示と違って、入口が小さく、入りづらい。しかも但し書きがしてある。十八歳未満お断り、このような絵を苦手だと思う方は入らないでください云々。春画のコーナーだ。レンタルDVD店でのアダルトコーナーのようだと、ちらと思う。「特集 北斎春画の名作」とある。北斎好きの私としてはぜひ入らなければならないだろう。いそいそと入る。ちなみに入る時も出た時も、恥ずかしさがまったくなかった…というか、出た後、レンタルDVD店でのアダルトコーナーなら、仮に入ったとして、きっと恥ずかしく思っただろうなと気付いただけだ。ちなみに、どうでもいいことかもしれないけれど、こうしたコーナーに入ったことはない。喰わず嫌いかもしれないけれど、あまり興味がわかないのだ。春画展示室に入った時も、出たときもある種の後ろめたさのようなものを感じなかった理由は後で触れる。

 北斎春画の名作とあったが、四点の展示のうち、北斎のものは一点だけだ。《波千鳥》。これは主線刷りという墨線刷りに手で彩色を施した贅沢な造りだったとある。わたしは北斎の春画を観るのは、ほとんど初めてだった。《蛸と海女》は家にある画集で見たことがあったけれど、これは春画なのだろうか? といぶかしんだものだった。リアルかつひょうきんな蛸。蛸の足が女性にからみつき、すいつき…。この絵をみて性的に興奮したりするのだろうか? どうもするらしい…とは、今回これを書くにあたって、少々調べたら、そんな意見がちらほら見えたから。けれども少なくともわたしは、興奮しない、気持ち悪いとも思わない。それは蛸の一瞬をとらえた絵のようでもあった。あるいは北斎の描くお岩さん…「百物語」シリーズが、少しもこわくないように、なにかがずれているのだ。そのずれにたくさんのものたちがつまって。そこにはどこかユーモラスさも感じられる、そんなふうに《蛸と海女》も、笑いの要素が窺えて…。いや、《波千鳥》だ。はだけた着物の男女がからみあう。局部の描写はすさまじい、クローズアップされているように、実物よりも大きく描かれている。おそらくこれが春画の約束なのだろう。けれども局部を見せるためのアクロバティックな姿…。ここにデザイン性と人の出来うる体位のぎりぎりの折衷点、境界を感じて、空想と現実の境すら感じて、面白くすら思った。空想もまた、現実からかけ離れたものは、荒唐無稽ですらなくなる、嘘くさくなるから。そして、なぜか、やはり局部たち、大げさすぎて、エロスよりも先にユーモラスに感じてしまう自分もいた。それは現代のわたしがみる感覚なのかもしれない。
 あるいは男女の肌。肉筆で描かれているであろう、ほんのり桃色に染まった肌、腕や頬の肌の汗ばむような、肌の質感を美しいと思った。上気した肌たちが静かに興奮を醸している…。そして背景。白い紙…かと思ったらうっすらと波紋が描かれている。白に真珠色、同系色で、波紋がちりばめられて。それは男女の汗もまじった潮なのかもしれない。この波と肌に魅せられてしまった。そしてやはりなにを描いても北斎なのだなと嬉しくなった。彼は何を描いてもぶれない。北斎のままだ。ああ北斎展も東京で、この秋開催される。もちろん前売りはもう買ってある。楽しみだ。
 ともかく春画の小部屋を出た後、後ろめたさを感じなかったことは、このぶれなさを肌で感じたからだと、後で気づいた。たとえば純文学的な文章を長らく書いてきた人が、中間小説を書いたとする。そこに何かぶれを感じて、その作家に殆ど残念なものを感じてしまうことがある。なにか美しくないものを感じてだ。迎合とか、言葉よりももっとちがう何か…生活とか、そんなものたち、文学とあまり関係のないものたちへの志向が窺えてなのか、ともかくそんな臭いを感じて、もはや読まなくなってしまう小説家の作品がある。それとかなり似ていて、出た後も、北斎にその臭いを微塵も感じなかったことが、やはり嬉しかった。それは何を描いても、一貫して北斎だった、そのことに触れられた喜びによる。だから小部屋に入った実感がほとんどなかったのだ。恥ずかしさ云々でいったらラブホテルに入るほうがよほど恥ずかしい。
 小部屋のあと、やっと小特集「かわいい生き物たち」。円山応挙、長沢芦雪らの犬の絵にも惹かれたけれど、これは以前、どこかで彼らの作品として似たものを見たことがあった。いや、けれども大切ななにかを貰ったけれど、今回は省略する。
 そして、やはり、また北斎。《遊鯉図》(一八四二年─天保十二年)。斜めに波紋が何本か描かれている、その線に分断されて鯉。真ん中の線と線のあいだは、鯉はほとんど見えない。わずかに幻のように、レースのように、波千鳥のあの波紋のように、うろこが透けて見えるばかりだ。頭や尾の部分は分断された波の間に、比較的くっきり見える。見える、見えない、見える…。この繰り返しが波のゆらぎのように心地がよいのか…、わからない。夢の世界への誘いのように、波紋がわたしのほうにやってきた。この波のシリーズは、亀(《遊亀》)や鴨(《流水に鴨図》)でも観たことがあった。それも好きだったが、この絵はどうしてか特に惹かれた。離れがたい…そう感じた絵はそうそうない。この場に居続けたい、この絵のそばで昼も夜も…、そう思わせる鯉だった。いや、水だった。鯉のリアルさ、そして波により分断されたことで、デザイン性をもち、その両方があわさったうえでの力があったかもしれない。実在と想像の狭間の体現…。
 いったん離れ、他の作品を観てまわる。もうそれほど展示されているものはない。最後のほう、近代絵画に、お目当てのひとつだった作品があった。特集「かわいい生き物たち」が開催されると知った時、山口華楊(一八九九─一九八四年)の《狐》がそこに載っていたのだ。彼の展覧会を観に、二〇一二年の秋に、京都までいったことがある。好きな画家のひとりだ。
 遠くからでもそれとわかる。狐が一匹、わたしを待っていてくれた。幻想をみつめるためのように振り返った狐…。そうではない。ふと振り返ったその先に、絵を観るわたしたちがいる。私は狐と眼が合っているはずだ。だが狐は幻想を眺めている。そんなふうにこの世を眺めていない感じが、どこかじれったいというか、さびしい。それでも、彼はそこにいてくれた。そのことと相まって、狐にたいして、なにかしら行動を起こしたくなる…。いや、狐とともにそこにいたくなる、ただそれだけなのかもしれない。彼らのいる世界に。
 けれども、《遊鯉図》で鯉に出逢ってしまったあとだったので、実はその余韻があまりに生々しく、狐はそれこそ、狐火のように、どこかわたしのなかで、ほっこりとちいさく灯っている、そんな、申し訳ない印象になってしまったのだけれど。
 《狐》はほぼ出口に近いところにいた。ここと《遊鯉図》の間を、何度か往還する。鯉、狐、鯉、狐。ほんとうは鈴木其一や菱田春草ももう一度観たかったが、階が違ったので、やめにした。狐、鯉、狐、鯉。
 名残惜しく、そうして、彼らから離れて、五階へ。こちらは仏像などの展示だったから、申し訳ないけれど、興味のないわたしとしては、あの鯉と狐で、展示はおわりだった。五階から庭園へ行けるという。ただし庭園代金は別料金。行きたい気もあったが、さらに料金をとるというその姿勢にいささか好ましくないものを感じて、やめにする。お金の問題ではないのだけれど、その姿勢がなんとなく腑に落ちなかったので。
 美術館を出る。入るときは気に留めなかったが、駐車場へ帰る途中、美術館の東面に大壁画があり、そのすぐ前が前庭となっていて、壁にそって長方形の池がある。そして池から通路を隔てて足湯カフェ。
 前日、湯河原の不動の滝で、足湯に入った。その思い出を、もっと温めたかったので、足湯に入る。いや、箱根でも温泉的なものを味わいたかったのかもしれない。けっこうぬるい。想像と現実はここでも、どこでも違う。となりの湯河原の足湯のイメージがあったから、それと同じぐらいの湯温だと思っていたのだが、さらにぬるくて、驚く。だがこうした驚きは悪くない。じっくりと、夏の暑さのなかで、足をひたすにはちょうどいい。
 連れは、池のほうで、なにかを見ていて、しばらくこちらにこない。ようやくきたと思ったら、池の金魚を見ていたのだという。交代するような形で、池へゆく。
 なるほどたくさんの金魚。長細い池の大きさに比べて、金魚たちは小さい。だから混雑している感じはしないのだけれど、かなりの数だ。かれらの生態には不案内なのだけれど、わりとまとまって行動して見える。赤や黒い金魚たちが、あつまって模様を描くように池をしずかに泳ぐ。
 《遊鯉図》の鯉が、べつのかたちで、わたしに挨拶をしてくれている、そんな気もした。いつまでもそこにいたくなる、そんな波紋とちいさな鯉。いや、金魚。

 ああそうだ。ミュージアムショップにも寄ったのだ。けれども鈴木其一も菱田春草も、《遊鯉図》も、わたしが気に入ったものたちのよすがとなるものは、殆どおいていなかった。図録にも載っていない。絵ハガキの《狐》と円山応挙の犬くん、土偶だけ買う。一期一会をかみしめること。そうしていつまでも覚えていること。いや、覚えていてほしいのだ。いつかの自分に。
 《遊鯉図》だけは、後日、インターネットで小さな画像だったけれど、探すことができた。良かったとしみじみ思う。HDDに、画像を保存する。宝箱を開くみたいに、北斎たちがあらわれる。そのなかにあの鯉が。それをみるたびに、思い出すだろう…。その場にいたくなった、あの記憶を。そうではないのかもしれないけれど。思い出さないかもしれない。けれども、記念として、それは海でひろったガラスの破片のように、残るのだ。海のくれた小さな宝石のかがやき。

 岡田美術館を出たあとは、少し遠回りして、芦ノ湖を眺めたぐらいで、とりたてて観光をすることもなく家路に向かった、もう旅はおわりだ。芦ノ湖の波紋。ここでも水が、わたしにやさしい。岸辺に小さな海のような波頭。

 このごろ、瑣末ないろいろなことが重なり、このブログも書きにくるのが、おっくうになっていた。だが、北斎…、いやもしかすると、お土産的な絵を入手することができなかった鈴木其一と菱田春草…、彼らの絵に対してわたしが感じたことが、これを書いてほしいと願った…言い方としては妙だが、そんな気もする。言葉によって、彼らの作品との関わりを、接点を、記憶する手助けとすること。絵はがきを見て、そうするように、言葉によって、感動した思い出をひきだすこと…。実際、そうしたことは願っていた当時ほどは、うまくいかないことも、重々わかっているのだけれど。
 ともかく、それでも書くことに対して、突き動かしてくれた、あの絵たちに感謝している。絵たちをさらに後押ししてくれた、緑たち、木々たち、陽射したち、水たちに。
 まだ言葉たちは出てきづらいだろうか、いや、こうして書けることがそれでもうれしい。少しずつ。
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2014-08-05

なまえが思いをつつむだろうか、かくすのだろうか? 湯河原・箱根にて

 七月末に一泊二日の小旅行に車で出かけた。箱根にある岡田美術館に行こうと思って、湯河原へ。湯河原・箱根間は、車で二十分ぐらいだという。箱根はもう何度か泊っているので、近くの別の場所、はじめての場所へ泊ろうと、湯河原にしたのだった。それにこちらのほうが箱根よりも海に近い。わたしの好きな海に。
 まだ、どうも言葉的に調子が出ない。なにかたちが重なって、わずかばかり、負のサイクルを作ってしまっているのかもしれない。展覧会にゆかない。本もあまり読まない。言葉が、というより、心が動かない。日々のなかで、かれらと会うことが、うすれてくる…。
 だがこの負のサイクルは、ちょっとしたことで抜け出せそうな気もしている。それは言葉への勝手な想い、信頼関係からくるのかもしれない、あるいはとりまく彼らが、おおむねわたしに、まだ微笑んでくれている、そんな気がして。
 最初は真鶴へ。うちからだと湯河原の手前。真鶴半島、そして突端の真鶴岬。上から見ると岬部分が鶴の頭、半島のあたりが鶴が羽をひろげているように見えることから、真鶴の名前がついているのだとか。美しい名だと、いつからか思っていた。鶴瀬、鷺の宮、砧、笄町…関東、というか、わたしが住んだことのある場所近くで言うと、これらのような、どこか背景が気になる言葉の音をもつ地名なのだった。
 真鶴は、遠足か何かで行ったことがあったと思う。林間学校か修学旅行かもしれない。岬の突端にある真鶴ケープパレスで食事をした後、海を背景に記念写真を撮った気がする。集合写真が撮れるように、段になった長椅子があったような。
 真鶴ケープパレスは平成十六年から、ケープ真鶴となり、それまで小田急資本だったものが、町営になったという。訪れた岬には、長椅子もなかったが、見晴らしのいいそこをバックに写真をとる人々がいた。なんとなく昔と変わり、けれども今もなんとなく変わらない姿。ケープ真鶴になって、以前訪れた場所、真鶴ケープパレスがどうだったのか、ほとんど思い出せなかった。片隅で、かすかに、熾き火のように、訪れた記憶がともっていた。だが、同時にどこかで、はじめてくる場所のような心持になっていたのだった。






 ところで、わたしは残念ながら、木の名前はあまり知らない。けれども真鶴の半島、とくにケープ真鶴があるあたりの林は、内陸でみる林などとは趣きが違う木が茂っていると思った。あるいは海の気配が、木の間から、感じられるからなのか…。トンビが啼く、トンビが飛ぶ。潮の香り、海の近くの空の色。木の名前が判れば…と思う。花なら多少はわかる。花を呼ぶみたいに、木の名前たちが、わたしを取り囲んでくれたら。海に向かった斜面に、ハマユウ、ハマオモトが咲いている。白い花を海の青さに投げ出すようにして。大きな葉、大きな花が、夏の雲ともよく似合っている。名前がわかるとほっとする。彼らを呼ぶことができること、彼らが旅の中でしばし微笑んでくれること。

 海と接する岬の端、鶴の頭は、ケープ真鶴などのある丘陵地、比較的高い所から降りられるようになっている。降りたところの最突端は、水面から巨岩が三つ、せり出したような景観の三ツ石、そして岩場ばかりの海岸。
 ああそうだ、真鶴にくる前のことだ、車窓から、やはり突然海が見えたのだった。有料道路を走っていた。市街地をぬけ、緑が多くなる。その緑、小さな山たちのなか、ねむの木が、あわい桃色の花を眠りのように咲かせていた。満開で、ふわふわとして。そんな山の緑の景色が続いていた。と思ったら、市街地に出た。そしてカーナビの画面では、突然、前方が海をしめす空色になっていた。だがまだ街の景色、海は眼前に出現しない、本当に海があるのだろうか、そう少し不安を感じた瞬間、眼の前に海が。当たり前のことなのだが、見えたことに心底ほっとする。同時に、海を前にすると、ほのかな恋心でも抱いているかのような、ざわめく優しさを感じてしまう、そのことをまた思い知らされるのだった。いつもそうだったと、海をみつめながら思い出すことで、以前のわたしたちと再会をはたすみたいでもある。海に視線が釘付けになる。よせては返す、二度と同じ形を描かない波しぶき。その波の文様をいつまでも見ていたくなる。
 真鶴の磯にもどろう。鶴の頭に降りれることを知らなかったか、降りたことがなかった。だから真鶴には、今まで崖のような突端のイメージしかなかった。せりだして、海と距離があって。だから、そのイメージをこわしてくれる出逢いがうれしくもあった。突然の感じがした(だから、来る途中での、突然見えた海を思い出したのだ)。
 まだ、言葉と体験が、自分のなかで、うまくかみあってくれない、どこかたどたどしい。舌足らずで。けれども、すこしづつ、海に近づいてゆこう。
 降り切った海岸。磯というか、岩場というか。ともかく、その足元は岩でごつごつしていた。わたしはサンダルを履いていた。歩きやすいスニーカーでなかったことを少し悔やむが、仕方ない。足場を探しながら、海に近づく。夏休みだからか、人はそれなりに多い。家族連れ、バーベキューをしている人たち、あとは釣り人か。けれども、概ね静かだからか、あまり気にならない。彼らはわたしのように海をもとめてきている。そうしたことがあるからか、あるいは、夏の海の景を、それぞれ作りあげているからかもしれない。





 タイドプールにカニや小魚、ハゼ。海の近くまで、やっとくることができた。この小さな海のプールに、足をひたすことだってできる…。そうしている自分を夢想する。だいぶぬるくなったであろう、小魚のおよぐ海の水に。けれどもそれをしないのはなぜなのだろう。することとしないことの間で、想像と現実のあいだで、うちよせる波のようにとまどっていた。そのはざまで、まさに岬的なとまどいだった。階段を上って、ケープ真鶴のほうへ。ハマユウが空の雲とよく似合っている。しらない木たちの緑の息。
 もうまもなくお昼をたべてもいい時間だ。ケープ真鶴で食べようと思ったが、営業時間になってもなぜか店が開いていない。あきらめて鶴の羽のあたり、岬の北側へ向かったが、ここには駐車場が見当たらない。当日泊る予定の宿の食事は豪勢、というか量が多いということなので、昼食はざる蕎麦などで、軽くすませることにして、とりあえず湯河原へ向かう。海と離れてしまうなあと、いくぶんそのことを残念に思いながら。
 だが向かった湯河原、その観光目的は、海ではなかったが、水だった。滝だ。不動の滝。落差十五メートルほど。基本的に水が好きなわたしは、滝も驚きにみちた優しさをくれるものだ。けれどもあまり期待しないでいった。旅行ガイドにのっている落差の値などでは、実際どれぐらいなのかわからない。だがきっと小さいのだろうなと思っていた。それでもいいのだけれど、たとえば日光の華厳の滝とかよりは、有名ではないので、なにか知名度と滝の雄大さが比例でもするみたいに、滝も勝手に小さいと思っていたのかもしれない。あるいは埼玉に住んでいたころに、なじみだった黒山三滝。雄滝、女滝、天狗滝。思い入れもあり、好きな滝ではあったけれど、比較的小さいものだ。そのぐらいの大きさかなと、勝手に思っていた。不動の滝の手前に駐車場がある。車をとめて、脇道に入ると、お茶屋さんがある。そこからも見えるが、その奥にとにかく滝。まっすぐに凛とした瀑布。思っていたものと、現実はいつも違う。この違いがいいのだ。それがわくわくであり、残念であったりしても、ともかく想像と現実は違うのだ、違いがあるから、両者はバランスをとって、わたしたちに、ありつづけるのだ。不動の滝は、華厳の滝と黒山三滝の、わたしのなかではちょうど中間ぐらいの感じだった。感動が、というのではない。それはどれにも、いつも感じるもので、比べようがないから。中間というのは、実際の尺度…滝の長さに近いかもしれないが、何かがちがう。けれども、ともかく思っていたよりも落差があった。すっくと立ち上がるような立派な滝。滝壺が気高くしぶきを放っている。轟音というほどではないが、静けさにひびく音。そこから小さな流れがこちらに向かってくる。流れの脇にお茶屋さんがあった。ここで昼食…ざる蕎麦を食べることにする。時刻は一時近い。ちょうどいいだろう。量も時間も。



 このお店では、飲食した人限定で、足湯が利用できるサービスがあった。蕎麦がくるまでの間、足湯を利用することにする。せっかくの湯河原温泉だもの。さきほど磯で、不便に思ったサンダルをここでは、便利なものとして意気揚々と脱ぎ、湯に足をひたす。思ったよりもぬるい。このぐらいがちょうどいい。この思ったより…というのは、想像と現実が違うということをいつも教えてくれるものだ。こうしたときのその差は素敵だ。いつ伊豆の伊東で夏に足をいれた足湯はもっと湯が熱かった。その時の思い出によって、熱いものだと感じたのだろう。伊東の足湯…それもまたかつては現実だった。現実はわたしのなかで体験されることによって、想像に寄りそう。こうしたことでも現実と想像は接し合うのだ。滝の近くの足湯は、この先、いつかどこかで浸すことになる足湯の、想像と現実のかけはしになるだろう。
 足湯にひたってはいたが、暑さがあまり感じられない。それは水辺だからか、標高のせいか、木々のせいか、ともかく、それらすべてがあわさって、だいぶ和らいだ暑さを心地よく思う。涼しいとまではいかない、だが暑くてやりきれないというほどでもない。そんな中途な状態が気持ちよいのだった。
 お蕎麦は意外とおいしかった。食べ終えたあと、今度は足湯ではなく、川のほうへ足をつけに行く。瀬に降りれるようになっている場所が一か所だけあったのだ。
 海では夢想しただけだったのに、ここではいよいよ…。いいのだろうかと思う。だがそんな躊躇のあと、ひたした足は、ここでも、想像と違っていた。もっと冷たいと思ったのだ。その冷たさは、だが幾分拒絶のように攻撃的なものだと思っていたらしい。そうではなく、ぬるいというほどではなかったが、冷たくなかった。それはやさしさを保った冷たさだった。すこしばかり石のうえのコケで、足元がぬるぬるした。注意深くふみしめる。足から流れをかんじる。ようこそとささやくようなほどよい冷たさ。
 湯河原にはいってやはり真鶴の岬でみた木々と幾分何かが違うと思った。名前がわからないからだろうか、もやもやとした感じだが、海から離れたということが感じられる。けれども、それはたとえば埼玉の山のほうとか奥多摩のそれとも違う。どの小説だか忘れたけれど、川端康成の本のなかで、雲は県ごとに見え方が違う、わたしはその雲を全部見てみたい…そう言っていたなと思いだす。木々もおそらく場所ごとに姿を変えて密集してみえるのだ。



 この後、万葉公園によって散策し、宿へ向かう。とりたてて書くことがない。というか、例によって旅行をしてからちょっと時間が経っているので、色々なことをだいぶ忘れている。これも言葉にしなかったから、なのか。言葉で記憶しようとしなかったからか。それだけではないだろうけれど。次の日に訪れた岡田美術館のことは、記憶にとどめているから。ともかく、食事はまあまあおいしかった。お湯も源泉だということ、肌がなめらかになった気がする。宿は駅近くで、温泉街というより、完全に街中だったから窓からの景色は楽しめなかった。そのぐらいだ。その、記憶にある岡田美術館については、また次回。


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