Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2014-10-25

小骨が、たそがれのなかで、影をのばす。(ヘルンさんへ)

 前回(十月十五日)も少し触れたけれど、図書館で『小泉八雲集』(上田和夫訳、新潮文庫)を借りた。これは小泉八雲の著作から数編ずつ収めた、作品集。怪談や日本に関する印象記、考察文などが収められており、彼を知るための足がかり、入口的な書物となっている。
 中学生の時、英語の教科書に、「むじな」が出てきた。顔をつるりと撫でると、のっぺらぼうの顔が…というあれだ。作者は明治の頃に日本に帰化したラフカディオ・ハーン=小泉八雲…、一八五〇年─一九〇四年。その話が特に面白かったわけではないのに、なぜかずっとどこかにひっかかる名前となった。実際『小泉八雲集』には、『怪談』から収録されたものとして「雪おんな」や「ろくろ首」などと並んで「むじな」も載っていたけれど、さして感慨はなかった。
 彼が一年八カ月住んだ松江…出雲(後述するけれど、八雲という名前は、この地に由来している)に、彼のこととは関係なく、行ったことがある。小泉八雲記念館は通りすぎただけだったけれど、堀を周遊できる小さな遊覧船から、建物を見た。たしか、なぜか、どこかのお土産屋さんで、彼の栞か何かを買った記憶がある。
 話は飛ぶけれど、現在小泉八雲著『神々の国の首都』(平川祐弘訳・講談社学術文庫)を読んでいて、松江や宍道湖の描写を読み、たいていは失われた時代のことではあるのだけれど、夕陽のにじんだような美しさ、宍道湖に浮かぶ小さな島の逸話などを見て、かつてわたしが訪れた時の記憶を呼び覚ます…。呼び覚ましてくれるのも、心地よい。こんなふうにも、彼と語ることができるのだと思う。
 いや、『小泉八雲集』近辺に戻ろう。あるいはその前に。
 出雲…神無月に、神在月の地のことを書くのも奇妙な縁を勝手に感じてしまうが…、その松江に行ったのがもう十何年前だ。その時も、とくに、彼がどうと思ったわけではない。だが、ともかく彼のことは小さな骨だった。心のどこかに、喉にささった魚の骨のような、存在。
 その骨をすこしだけ意識させてくれたのが、やはり数年前…、と思ったら二〇〇七年だった、ともかく『言霊と他界』(川村湊、講談社学術文庫)で、異邦人としての彼の存在を知った。だが、まだ彼の著作自体には触れてはいない。
 『言霊と他界』で、小泉八雲は、特に「八雲の耳」という文章で語られていた。母国語は英語だけれど、二歳で離ればなれになった母の言葉はギリシャ語…、その母の言葉を母国語とは違う、「母語」として、筆者は語っている。「「人間の口から出る最もやさしい甘え言葉」(註・ハーン自身が、クリ―オールの言葉語る婦人の話として、子どもをあやす黒人の乳母について語った言葉)であったはずの母の言葉は、彼にとって懐かしいながらも、どこか異国語の不思議な響きを孕んでいたものとして、耳に残っていたのではないだろうか。」
 その異国語への耳の傾け方が、最初は西インド諸島などへのクリ―オール文化へ向けられたものであった。その後、日本へ。一八九〇年(明治二十三年)、三十九歳の時だった。彼の複雑な出生。ギリシャ、アイルランド、アラブの血の混じった、こか蝙蝠的な(もちろん好意的な意味で、わたしはそう言っている。なにせ自身の最新詩集の題名が『かわほりさん』(“かわほり”は蝙蝠の古名)だ)、異国を内に保ちづづけた人物…。その彼の耳が、日本語を聞くとき、そうした幼年を含んでもいたのではないかと語られていたと、何となく記憶していた。
 そう、何となく。今のこの文章は、七年前に読んだ本を探してきて、手元に開いているから、はっきりと書けているにすぎない。
 ちなみに松江では、ヘルンさんと親しみをこめて呼ばれている。これは松江に来た時、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを気に入っていたことから来たらしい。そして日本名である八雲は、「出雲」の枕詞「八雲立つ」から八雲とつけたらしい。あまり丈夫ではなかった彼は、出雲の国、松江に永住しようと思っていたのに、健康上の理由で一年八カ月しかいることができなかった。もしかすると、そのことも八雲を日本名にした理由のひとつなのかもしれない。名前に出雲を感じたかった…。そして、八雲は「ハーン」とも読める。ただ、このことについては、本人には、その意識がなかったと、のちに教え子が文章を寄せているので、偶然だったのかもしれない。けれども、この偶然は、言葉たちがこっそり、彼の名前として、響き合い、呼び合ったようにも思えるのだった。偶然のなかで、必然のように響き合って。



 どうしてか、話しが飛ぶ…、これはわたしのこのごろの注意力散漫から来るのかもしれない。ごめんなさい。だが、いいわけがましく、「小泉八雲」という彼の名前もまた、“小泉”は彼の妻の苗字だし、なにかたちがたくさんつまった名前だと感じたのかもしれない、と言ってみる。あるいはラフカディオ・ハーンという名前とふたつの名前をもつことに、彼の境界性を感じているのだと。
 この七年前に、『言霊と他界』を読んだ時、わたしの中で、心の喉にひっかかっていた骨は、すこしだけ姿を現した。けれども、まだ小泉八雲自身の書いた書物を読んでいなかったから、また骨のまま、あらかた記憶に沈んでいったのだった。けれども、その時、いつか読もう…と二冊ばかり本を買っていた。今読んでいる『神々の国の首都』は、その時に買った本のひとつだ。
 そして、とうとう、先日、図書館で見つけた『小泉八雲集』によって、つまり、彼自身の著書を読むことで、ようやく小骨は、浮き上がってきたのだ。なぜずっとひっかかっていたのか、そのわけがわかったのだった。おおまかにいえば、そこには、『言霊と他界』で論じられたような、彼の詩的に研ぎ澄まされた耳を如実に示す、八雲自身の美しい言葉があった、そのことで、小骨たちが、名前をもって浮かび上がってきた、ということかもしれない。
 「門付け」(『心』より)の歌う、意味のほとんどわからない歌(声)に感動する自身について、彼はこう語っている。「おそらくこの歌い手の声のなかに、一民族の経験の総体よりもさらに大きな何ものかに──人類の生命のようにひろい、また善悪の知識のように古い何ものかに、うったえることのできる力があったのであろう。」
 そして、そのことから、彼は二十五年前、ロンドンで聞いた見知らぬ一人の少女の「グッドナイト」という言葉…、その声について、忘れられないと、続けて語る。
 「こんなふうに、たった一度しか耳にしない声に魅せられるのは、それがこの世のものではないからである。それは、無数の忘却の淵にある生のものだ。(中略)愛情から出た言葉には、全人類、幾百億の声に共通するやさしい音色がある。受け継がれた記憶によって、生れたばかりの赤ん坊でも、こうした愛撫の調子の意味はわかるのである。同情、悲哀、憐憫の調子をわれわれが知っているのも、疑いもなく、遺伝によるものである。だからこそ、極東のこの町の、一人の盲女の歌が、一西洋人のこころに、個人的存在よりもっと深い感情を(中略)よみがえらせるのであろう。死者は、まったく死ぬことはない。(中略)ごくまれに、彼らの過去を呼びもどす何ものかの声のこだまによって、目ざめるのである。」
 そう、それは八雲自身の、言葉だった。七年どころか、数十年を経て、わたしははじめて、八雲という小骨の正体の一部を、知らせてくれる言葉(=文章)だった。この耳は、たとえば「草ひばり」という、虫について寄せられた美しい文章でも、顕著だ。
 籠の中で美しく鳴く草ひばり、「もちろん、歌など、教わりはしない。それは、有機的な記憶──夜ごと、露に濡れた丘の草葉のかげから、その魂が声を張り上げてうたうとき、いく千万もの同胞の、深い、おぼろげな記憶なのである。(中略)したがって、こいつのあくがれは、無意識のうちに、昔にむかっているのである。これは、過去の朽ちたものにむかって叫んでいる──沈黙と神々とにむかって、過ぎた時のふたたび返ってくることを呼びかけているのである。」
 これらの言葉によって、開かれた心は、彼の明治初期の日本を眺める目、聞く耳の詩的な発見にやさしい驚きを感じるのだった。
 門付け、紙と木でできた家、下駄の音、物売りの声、微笑み、心中、お地蔵さんと地獄絵図…。新鮮な面持ちで、過ぎ去った昔の日本を見つめるわたしがいる。それは彼が描きだしてくれたから、でもある。あるいはもはや失われた世界でもあるから、かもしれないけれど。
 思うに、わたしが彼を小骨としてずっと食い込ませていたのは、相反する二つの理由からだったと思う。ひとつは、彼の異人性にひかれたから。けれどもこれはわたしの驕りというか、島国根性の悪しき典型でもあるのだが、どこかで、日本のことなど彼には判らないだろうという意識があったのだと思う。あるいはジャポニズム的なものの見方への偏見…。
 惹かれつつ、どこかで敬遠していた、それが長らく小骨にしたままだったのだと思う。なんという長い年月だったのだろう。相反しながら、けれども、彼は小骨として、存在してくれていた。
 『小泉八雲集』を読んで、思ったのは、彼が異国人、つまり境界をゆくものとして、日本を見て、暮らしたこと。それは日常にありながら非日常をみる、そうした態度にもつうじるのではないか、つまり創作…、日常と文学とのあわいにも言えるのではなかったかということだった。
 もっとも、今回読んでも、やはり「むじな」的な、昔話の類に、興味を持てなかった、ということもあったので、彼の著作に長らく触れなかったのは、そのせいもあったのかもしれない。どちらにせよ、中学生の時に端を発しているのだけれど。
 「むじな」や「雪おんな」は、伝聞をほぼそのまま収録しただけのような形で、八雲自身の言葉が希薄だ。同じく伝聞の要素があるだろう、心中を扱った「赤い婚礼」(『東の国より』から)には、ほとんど小説を読むように、心をひらいた。そこには彼の創作が、随所にちりばめてあったから。子どもの頃の二人の会話、そして二人を引き裂く、心中の原因を作った継母の、片手落ちではけっしてない、優れた描写。継母は悪人ではないのだ。長所のめだつ人間なのだ。ただ、心中する二人と、わかり合うことが決してできないという価値観をもつだけの…(それは決定的ではあったが)。

 わたしは、小泉八雲を、クセニティスだと、ふといってみる。ギリシャ語で、「どこにいてもよそもの」。彼にギリシャの血が流れているのは、偶然だ。わたしはギリシャ人である、先年亡くなったテオ・アンゲロプロス監督『永遠と一日』を思い出していっているのだ。大好きな映画。
 ストリート・チルドレンである少年が、死期の迫った詩人と出逢う。そして少年が詩人に言葉を教える。
 「クセニティス」「クセニティス、亡命者か?」「どこにいても、よそ者」。

 なんとなく、クセニティスのことを、今更ながら、インターネットで検索してみた。テオ・アンゲロプロスのインタビュー時の言葉がヒットした。
「私は《死》についての映画を作るつもりはありませんでした。生きること人生についての映画を作りたいと思ったんです。そして《死》は《生》の一部です。一つの段階にすぎません。(中略)ストリート・チルドレンなんですけど、この映画の中に出てくる《クセニティス》という言葉がこの子供たちを定義しています。それは、どこにいてもよそ者である亡命者ということです。亡命という言葉には二つの意味があります。内的な亡命と外的な亡命です。作家の方は実際に他の国に亡命しているわけではありませんが、実存的な意味での亡命者です。これはたとえば、カミュが『異邦人』の登場人物の中で描いたような内的な亡命です。そして子供の方は実際に外国に難民としている外的な亡命です。このように二人の亡命者が同じ都市の中で出会い、言葉を交します。そして一つの人生が終わり、一つの人生が始まるのです。」
(『永遠と一日』記者会見レポート http://www.werde.com/movie/interview/eoniotita.html)

 わたしはかれらに郷愁をおぼえる。内的な亡命者に。それはわたしがかつて肌でかんじた、なにかからの疎外…だったかもしれない。肌というか、他者たちを前にすると、空気全体で、わたしは跳ね返されるような気がしたものだった。磁石の反発の感触だと、ずっと思っていた。いまもあの感触の記憶はある。だがさすがに、感触を今なお感じているとはいえない。感触として受け取ってない、というだけかもしれないし(そうしたことは、おそらく慣れてしまうから…。たとえば匂い(臭い)のなかにいると、それに、いつか鼻が慣れてしまうように)、しらないうちに、よそものでなくなった…のかもしれない。いや、そうでないことを望む。なぜなら、わたしにとって、書いていることが、よそものの証しだから。
 あるいは、このごろ、じつはだれもがよそものなのではないかと思いはじめている、そうしたこともあるのかもしれない。だれもが、しらないうちに、コウモリになっている。だれもが、だれもに対して他者なのだ。そして、だれもが、しらないうちに、死者たちと触れ合っている。のかもしれない。

 「白い提灯がともっているあの灰色の墓石の下で、幾百年もの長い間眠り続けている人たち、(中略)そうした古い古い時代の人たちも、こうした光景を眺めたことがあるに違いない。いや、それどころではない、今、現に若い娘たちが捲き上げているこの埃は、かつてこの世にあった人たちだった。」(『神々の国の首都』)、そう、盆踊りをみて、聞いて、小泉八雲は考える。寝床で、さらに考える。寝床という、目覚めと眠りの狭間の場で。
 「私にはそれが、私一個の生命より無限に古いもののような気がする─(中略)あまねき太陽のもと、生とし生ける万物の喜びや悲しみに共鳴音を発するもののような気がする。また私は思うのだった──今宵のあの歌は、自然のもっとも古い歌とおのずからにして調和を保っている。さびしい野辺の歌、あの美しい大地の声を形成する夏虫の嫋嫋たる音楽と、知らず識らずの中に血脈を通わせている。そこにこそあの歌の深い秘密がひそんでいるのではなかろうか」(前掲書より)

 このごろ、わたしは淋しくなくなってきている。ようやくだ。いままでも、一人遊びがすきな子どもをどこかにひきずってきていたけれど、どこかに、いくばくかの淋しさがまじっていた。だが、それがほとんどなくなってきている。理由はきっと、色々あるにちがいない。だれもが、だれもに対して他者なのだ、と感じるようになってきたこともあるだろう。だが、こうした、たとえば歌を聴くことによる、彼らとの語らいに気付いた、ということもあったのでは、とふと思ったりする。
 彼らはそうして、もはや、わたしのそばにいつもいてくれる。たとえば、草花や、空のかたちをとる。雲や月。あるいはすれ違った猫。わたしは彼らに、亡くなった大切な猫の面影を見る。おちているドングリたちの秋の便り、刈り取られた稲穂のどこか祭りが終わった後のような寂寥。彼らとは、いったい誰たちなのだろう。亡くなった人たちであり、草花自身の姿だ。彼らはそこここにいる。十月もおわりになり、蝉の声はまったくもうしない、秋の虫の声すら、まばらだ。小泉八雲なら、おそらく、もっとこうした、聞こえるものたちに、訪れを感じるのかもしれない。
 今朝、内容は殆ど忘れてしまったけれど、黄昏色の夢を見た。四角く区切った箱のなかで、蚕が絹を吐いている、その小さな矩形が、綿のような絹で満ちてゆく、その絹のひとつひとつが、夕景色にハーモニーを奏でていた。その矩形の立役者が、小泉八雲だった…。彼の助力があったからこそ、こうした格子状の夕景を見ることができた…、二重写し、影という言葉も、夢のどこかに転がっていた。宍道湖の夕景が、ふと浮かぶ。そして街の夕焼け。小骨がすっくとたちあがり、長い影をのばしている。


11:18:43 - umikyon - No comments

2014-10-15

一期一会を教えてくれた、でも、どこでだって、形を変えて、また会える。─北斎展

 とある平日、お待ちかねだった「北斎 ボストン美術館 浮世絵名品展」(二〇一四年九月十三日─十一月九日、上野の森美術館)に行ってきた。土日はかなり混雑するというので…。美術館のある上野へ向かう。早朝バイトした後、家で早い昼食を食べてすぐ出かけたので、眠かった。電車の中でうとうとする。上野駅とアナウンスがあり、なかば寝ぼけながら、電車を降りる。寝ぼけ眼に飛び込んできたのは、ホームに設置されたパネル広告…二つの展覧会のものだった。菱田春草展と北斎展。《黒き猫》と、主に(というのは、他の絵も配されていたから)《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》。先週出かけてきた展覧会と今から行く展覧会…。この二つが何かをゆさぶるように現れたので、『うわっ』と、思わず声に出して驚いた。そばにいた見知らぬ女性が、その声に驚き、あたりを見回していたほどだ。私の行動がそれらの絵に具現化されてでもいるみたいで、それが眠い頭にとても心地よかったのだった。観てきた展覧会と観に行く展覧会。猫と波。観てきた展覧会と観に行く展覧会。猫と波。



 さて、上野は東京都美術館、国立西洋美術館、国立博物館ばかり。上野の森美術館は殆どきたことがない。もしかするとはじめてかもしれない。通りかかったことはあるけれど。美術館については、特に感想がない。森の入り口にあるので、あまり周りの緑を感じることができない…。そのぐらいか。ツタンカーメン展とか、そんなものを去年だかやっていて、長蛇の列をなしていた、その横を通り過ぎて、国立西洋美術館か、東京都美術館に出かけた記憶もよぎった。
 そんな、あまり記憶に残らない美術館…申し訳ないけれど。そこでの北斎…、大好きな北斎…、もしかすると日本で限定すれば、一番好きな画家かもしれない、そんな彼の…、だったが、正直、展覧会としてはいまいちだった。
 いや、ほとんどわたしの側の問題なのだ。いくら好きでも、冨嶽三六景、諸国瀧廻りなどは、もう何回も見ているものだ。そこが浮世絵だ。肉筆画と違う。何枚も同じものがあるということは、ここでいえば、ボストン美術館所蔵のものでなくとも、それらを観ることができるということだから。それでもなるほど、たしかにこの展覧会で見た浮世絵たちは、刷りの状態がいいものばかり…だと思ったけれど。いや、同じものを観ることになるのは解っていた。



 回顧展っぽい展示の仕方なので、葛飾北斎(一七六〇─一八四九年)の、初期から晩年までの紹介をしているのだが、やはりわたしはどうしても、晩年のものが圧倒的に好きなので、それも原因かもしれない。本当なら、若い頃…といっても四十代とか五十代とかのものが多かったが、ともかくそうした頃の作品の中から、晩年の彼の筆致を見出し、感嘆するべきなのだろうけれど、どの北斎の展覧会でも、そうしたことが殆ど起きないのだった。だからそれもおそらく想定内だった。多分そうだろうなと思っていたので、それが原因でもない。原因の小さな一端は担っていたかもしれないけれど。
 もしかすると、単純に…、平日にも関わらず、混雑していたから、そのことが原因の最大要素かもしれない。美術館の外にまで長蛇の列…ということはなかったが、館内はかなり混んでいた。浮世絵は概ね小さい。おおざっぱに言うとB4とA3の間ぐらいではないか。それをひとの頭ごしに見るのは、結構疲れる。並べば、間近で見れるのだが、人たちに気おされてしまって、そうした気が起きない。ああ、若い頃のだし、人物だし(わたしは人物を描いたものが苦手だ。浮世絵は特に。北斎のものでも晩年の肉筆なら、別なのだが)、まあいいか、特に列に入らなくても…と、頭ごしに、なんとなく観て、なんとなくだいぶ来てしまう。具体的には百四十点以上の展示とある、そのうちの五十点ほどまで、章でいうと一章から五章半ばまで。その通り過ぎたもののなかには、冨嶽三十六景もあった。人の頭ごしに、見て…。あれはどこだったか。静かにゆっくりと眺めることのできた《冨嶽三六景 凱風快晴》(一八三一年頃)、通称赤富士は、何度めかに観たものだったけれど、わたしに語りかけてきてくれるものだった…。だが、この同じ赤富士はよそよそしい。雲の間からわずかにみえる富士山の姿よりももっと。それは他人の、他者のための富士のようだった。
 それでも「諸国瀧廻り」(一八三三年頃)シリーズで、ようやく足を留めてみようかと思う。これらも何回か観たものだが、なんとなくそんな気になったのだ。《諸国瀧廻り 和州吉野義経馬洗滝》の蛇行する滝、途中で馬を洗っているのだが、そこに至るまでの大きな流れ、そして洗っている馬の足もとの、浜のような水紋の表れかた、またすこし下に下って、最後に岩にくだける波しぶき、ひとつの絵のなかで、三つ以上の水のうごきが見れて、水たちが凝縮しているように感じられた。



 《諸国瀧廻り 木曽海道小野ノ瀑布》の、縦長の画面のほぼ上下大部分を使ってのまっすぐな流れ、蛇行とは対照的ともいえる、あまりのまっすぐさに、釘付けになってしまう緊張感…、ああ、この高さが描きたかったのだろうなと、見入ってしまう。
 さらに《諸国瀧廻り 東海道坂ノ下清滝くわんおん》、これは今掲げた二つの絵とは、水の量が圧倒的に違う。というか、少なすぎるのだ、小さな、滝とはよべないのではないかというほどの、ほそい水の線が、岩肌を伝ってながれてゆく…。岩肌で分かれ、また分かれ、しずかな模様を描いてゆく…。これらを観て、ああ、こうした水たちの動きの違い、それらを描きたかったのだなと、しみじみ思う。そう思うことで、ようやく、なにかたちと近づけたような気がした。ようやく北斎展の世界に足を踏み入れることができた、というか。
 だが、実は、こうしたなりゆきは意外ではなかった。わたしの北斎によせる信頼は絶大なのだ。展覧会のどこかで、きっとこうなるだろう…とはわかっていたようだったのだ。もちろん、同時に、失望したままにならなくて良かったなとも思ったけれど。そこには直観的な信頼が勝っていたのだ。

 これ以降は、年齢的にも北斎七十歳代以降の作品ということもあり、あるいは滝の水によって、顔を洗ったとでもいうのか、何か水を受け取ったとでもいうのか、北斎の作品たちがすっとわたしにやってきてくれた。相変わらず混んではいたが、何故だろう? たいていひどく混むのは入口付近で、その後は少しだけ、混雑が緩和されるということが多い。みんな混んでいることに少し飽きてしまうのだろうか。ともかく、第一章の頃よりも、それでも隙間が見えるようになってきた。それもあって、絵を観るために並んでいる列にすっと潜りこむ。
 第六章は「華麗な花鳥版画」。やはり冨嶽三十六景や瀧廻りとほぼ同時代の、一八三四年頃のものたち。ここにチラシなどでも紹介されていた《芥子》、風になびくそれがある。最近…いつだったのか、ずいぶん前のような気がしていたのだが、六月十五日のここでちょっと採り上げていた…好きな《芥子》があった。風を感じるこの絵が、昔から好きだったのだ。
 会えた嬉しさはあったけれど、今回はそれほど、感動はなかった。いや、あったのだけれど、もうずいぶん前から、《芥子》もまたあの“赤富士”たちのように、わたしのなかで大切な作品のひとつになっていたので、今回は、脇にいってもらっていたのだ。親しい友人に甘えるように。彼は放っておいても大丈夫だから。そうして、その間、あらたな客だか知人たちと接するのだった。彼らと親しくなるために。
 《桔梗にとんぼ》(一八三四─四四年)。こちらも《芥子》ほどではないが、すこしの風に桔梗がたなびき、花の表、裏が、蕾のそれとともに、さらにもはや終わろうとしている花びらとともに、描かれている。ここには花のほとんどすべてが描かれてある。つぼみ、開花、終わり、そして静寂と動き。凝縮のなか、一匹のトンボ。赤とんぼかもしれない、胴体が赤い。桔梗に降りたとうとしている、その羽が、わずかに欠けている…。羽がやぶけているのだ。そのことで生がリアルなものとなっていた。枯れかかった桔梗がそうであるように。ここには生と生の終わり、それらが描かれることで、生の一瞬を閉じ込めてあるのだった。



 そして《文鳥 辛夷花》(一八三四年頃)と《鵤 白粉花》(一八三四年頃)。この二つの鳥は、文鳥とイカルと、種類は違うけれど、殆ど同じように見える。というか、わたしの好きな北斎が描いた鷹…それとも、どこか似て見えるので、もちろん描き分けとかの問題ではない。そこに描かれた生が似ている、あるいは、どれを描いても北斎という作者が顔を出すのだ…、そういった意味で似て見えるのだが、彼ら、文鳥とイカルたちが、生き生きと、そしてどこか、ユーモラスに首をかしげた横顔、その目の愛嬌のある大きさが、花たちの幾分デザイン化された、有り方と、対照的な動として、均衡を保っているのが、心に何かを訴えてきた。そうして、このデザイン化と、眼前のもの、森羅万象をそのまま描くということと、矛盾することなく、画のなかで、蜜月を送っているのは、ほかの北斎の作品ともとても共通していると…、今更ながら思うのだ。あの「諸国瀧廻り」の滝たち、「冨嶽三十六景」の、あの富士たち。
 ちなみに、鷹は次の第八章「為一期その他の作品」にいた。《桜に鷹》(一八三四年頃)。こちらは東京国立博物館でも観たことがある。それよりも刷りの状態が良かったように思えたけれど。ともかく、だからこの鷹くんには、今回は脇にいてもらおう。そして《桜に鷹》の近くに《牧馬》(一八三四年)、《滝に鯉》(一八三四年)もいたのだけれど、こちらも割愛させてもらう。愛らしい、北斎独自の愛嬌のある動物たちだったけれど。とくに《滝に鯉》…。鷹が好きなように、彼の鯉も…、この夏、岡田美術館で《遊鯉図》に会ったときの印象はまだ、というか大切な思い出として、わたしに残っている…。その鯉の眷属にまた会えた喜びがあったのだが。それとは構図は違うけれど、デザイン化された水、滝と、リアルな鯉の組み合わせは、北斎の生がふつふつと感じられ…、ああ、結局、鯉のことも書いてしまっている。いつか観た北斎の絵たちが、こんなふうに、今みている絵のなかで、わたしに語りかけてくれているので、つい。
 ところで、この八章にあった、「百物語」シリーズ…、怪談をする夜会の題名がついている、この絵は、おそらく百枚刊行するつもりだったのだろうけれど、五枚までしか刊行されていない。このシリーズも好きな作品。たしか北斎を知ったわりと最初の頃に興味をもった作品だ。そのあたりのことも、以前書いているから、ほとんど省略するけれど、《百物語 こはだこへいじ》。これだけ少しふれたい。そして、これも生で観るのは二回目で、一回目の時にかなり詳しく書いているので、引用する。
 「そして“こはだ小平二”だ。小幡小平次は、妻と不義密通した相手に沼で殺され、怨霊となって二人を執り殺した。絵では蚊帳の上部に小平二が骨になった手をかけ、上目づかいで、うらめしやといっている感じ。蚊帳や周りはおおむね緑と黒で、手をかけた蚊帳の縁が赤い。これは半ば骸骨になりつつある顔が、おおむね赤なので、絶妙のバランスだと思う。緑、そして黒の蚊帳が、顔の赤と接点を持っているゆえの縁の赤。そして顔が赤というのは、皮膚があちこちめくれ、たれさがり、筋肉の赤い筋が見えている、眼も血走っているから。リアルに腐りつつある半ば白骨化した顔…。文章にしてしまうと、かなり凄惨な感じだろうが、こちらもやはりどこかおかしい。怨念をもって現れているはずなのに、怖いというよりも、ひょうきんな感じのほうが強いのだ。それは眼がたれているからかもしれない。あるいは怖さと笑いというのが、実は近しいということなのか…。」(二〇一〇年十月十五日)
 奇しくもちょうど四年前の今頃だった。この時は、そう、リアルさはもちろん感じていたけれど、おかしさのほうが勝っていたような気がする。だが今回は…。おそらく刷りの状態がこちらのほう、ボストン美術館所蔵のもののほうが、良かったからだろう。筋肉に浮かぶ赤く細く描きこまれた線、そして頭部に生え残った毛の逆立つ一本一本の鮮明さに、思わず寒気がした。絵をみてこんな風にぞっとしたのは初めてだった。血走った眼はあいかわらずどこかおかしみを湛えていたけれど、その血走り方が、怖かった。実は近しいどころではない、おかしみと恐怖は表裏一体であるということを、如実に伝えているのだった。
 第八章は摺物と稀覯本だった。また興味が薄れ…と思ったら、後で調べたら一七九八年〜一八一三年、一番後でも一八二五年の作品たち、つまり若い頃のものだった。それでも、もはや素通りすることなく、いちおう観てまわったけれど。
 そして第九章、これが最終章。「肉筆画と版下絵・父娘の作品」。一番最後にあるのが、北斎の娘、応為(お栄)の《三曲合奏図》だった。多分生で彼女の作品を観るのは初めてだ。なるほど北斎と似ているけれど、もっと女性が柔らかい、生々しい。すぐれた作品だとは思ったけれど、単に私が人物画を好まないせいなのか、それだけだった。心が揺さぶられた、というところまでは…。
 北斎の肉筆画《柳に烏図》(一八四一年)。また風だ。風になびく柳。柳は風を描くのによく似合う植物だ。あの繊細な細長い、小さな葉たちは。その近くを十四羽の烏が飛ぶ。落ちるように飛んでいる。踊るように飛んでいる。あるいは昇るために飛んでいる。口をあけた姿が、どこか鷹や文鳥たちを思わせるが、眼が黒い身体に溶け込んでいる、同じ色合いなので、少し印象が違う。飛ぶ姿、落ちる姿、まっすぐに進む姿、身体をひねる姿、それらさまざまな仕草を、滝という水のさまざまを描いたように描きたかったのではなかったか…。そんな風に感じた。あるいはここでもまた、表裏一体を、飛ぶ姿、落ちる姿に、わたしは見出していたのかもしれない。
 ほかの浮世絵に対しては、またどこか、これほど摺りの状態が良くないかもしれないけれど、またいつか観ることができるだろう…。わたしはそう思っていたようだった。そう、この肉筆画を前にして思った。この絵は、おそらくボストン美術館にゆかないと観れないから。たぶん実物を生で見るのは、これが最初で最後だ。けれどもほかの浮世絵たちとの出会いもまた一期一会なのだと思い至った。ボストン美術館所蔵のもの、だからというだけではない。厳密にいって、浮世絵もまた、一枚一枚違う。保存状態のことなどもあるだろう。初版であるとか、何版か重ねてあるとか。それだけではない、観る私もその都度、また変わるから。《百物語 こはだ小平二》を観た四年前のわたしと今回のわたしが違っているように。こうして観ていること自体、雲を見ているように、またとない機会なのだ。
 そんなことを考えながら、後ろ髪を惹かれたけれど、会場を出た。電車の中で、図書館で借りている『小泉八雲集』(上田和夫訳・新潮文庫)を読む(この本は、後日、結局購入した)。
 焼津の盆過ぎの荒れた海。「白波がしだいに高まってくる。その動きに、わたしはすっかり心を奪われてしまった。そうした動きの、なんとすばらしい複雑さ──が、また、なんと永遠に新鮮なことであろうか! その五分を、誰がじゅうぶんに描きうるだろうか。二つの波が、まったく同じように砕けるのを見た人間が、かつてこの世にあっただろうか。」(「焼津にて」)
 これは海を、雲を前にして、わたしが思ったことでもあった。同じように砕ける波はなるほど見れない。けれども、同じように考える人に会うことはできる。あるいはそう思ったかもしれない。けれども、この時は、こんな一期一会もあるのだと、符牒のようで、嬉しかった。わたしに語りかけてくれるようで。特に波といえば、やはり、《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》の、あの波のうねり、波しぶきを、どうしても、思い出さずにはいられない、そんなことも重なって。
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2014-10-05

彼の齢死なずして、猫に招かれて。(菱田春草展)

 土曜日に菱田春草展(二〇一四年九月二三日〜十一月三日(前期・九月二三日〜十月十三日、後期・十月十五日〜十一月三日)、東京国立近代美術館)にいってきた。
 確か北斎展(混雑しているというので、まだいっていない。平日に行くつもり)の前売りチケットをインターネットで入手しようと探していたとき、前売り券として“猫ペアチケット”という言葉を見つけたことがきっかけだった。どこかで見たことのある、柳の幹のうえに座ってこちらをみている凛とした《黒き猫》(一九一〇年)。ペアチケットは二枚とも違う絵柄らしく、あとの一枚は別の絵だとか。ネットで予約してコンビニで発券した。その段階では、データとして印字されているだけなので、券がどういうものなのかわからない。前回出かけたどこかの展覧会では、結局、この印字された券がチケットになっており、きれいな半券が手にはいらなかった…。今回は会場で半券と交換しますと書いてあったから、そのことについてはうれいはなかったけれども。
 いや、それよりも、ペアチケットを買った段階では、菱田春草のこと、それほど知ってはいなかった。どこかの展覧会で、数点みたきり。個人の展覧会にその程度で見に行くことを決めるのは、今の金欠気味のわたしには冒険だ。けれども猫が好きだからか、つい買ってしまった。いや、後付けになるかもしれないが、なんとなく予感があったのか…。
 チケットを購入したあと、夏に箱根の岡田美術館で菱田春草の《瀑布の図》を見た。そのときのことは八月十五日のここで書いているけれども、滝のまっすぐさ、細長い静謐に惹かれた。そして菱田春草展のチケットをもはや手にいれてあることを、喜んだものだった。
 そして、当日。《瀑布の図》を観た折の心の動きを、ほとんど忘れていた。チケットを買ったときの予感に似たひそかな興奮も、ほとんど覚えていなかった。そんな軽い、何も考えていない頭で展覧会に出かけた。美術館が混むことの多い土曜日だけれど、北斎展よりもおそらく混んでいないだろう、バイトから帰ってきて、疲れていたが、家にいたらごろごろしているだけで終わってしまうだろう…、それぐらいなら、そんなことも思っていた。つまりどこかが疲れていたのか、なにか大切なことをほとんどわすれながら、展覧会に出かけたような感じだった。期待せず…だった。わからない、子どもの頃からの悪い癖が出たのかもしれない。期待しないこと。そうすれば失望しないですむ。





 さて展覧会。入口でチケットを猫に変えてもらう。二枚のチケットを併せて、ちょうどハガキの大きさで、真ん中でミシン線がついていて、切って別々にすることもできる。それぞれに猫の絵。黒猫の《黒き猫》と白猫の《春日》(一九〇二年)だ。黒いほうは後期のみ展示。二枚セットでちょうど黒と白、黒猫のいる柏の秋と白猫のいる梅の春で、対比も素敵なので、切るにしのびなく、絵ハガキとして、とっておくことにすぐさま決める。



 チラシなどから。
 「菱田春草(一八七四─一九一一)は日本近代で最も魅力的な画家の一人です。春草は草創期の東京美術学校を卒業後、岡倉覚三(天心)の日本美術院創立に参加、いわゆる「朦朧体(もうろうたい)」の試みや、晩年の装飾的な画風によって、それまでの「日本画」を色彩の絵画へと変貌させました。生誕百四十年を記念して開催する本展では、《落葉(おちば)》連作五点すべてに加え、《黒き猫》をはじめとするさまざまな“猫作品”や、新出作品等を含む百点を超える作品を、最新の研究成果とともにご紹介します。」
 生誕百四十年の回顧展として開かれた展覧会は、一章から四章まであり、基本的に年を追って展示されていた。第一章「日本画家へ:「考え」を描く」は東京美術学校へ入学した十六歳の作品にはじまり、卒業制作などが並ぶ。若描きで、とくに惹かれたというものはなかったけれど、《水鏡》(一八九七年)という作品で、美しい天女を映す水鏡が沼のように濁っていて、さらにほとりにさく紫陽花が花の終わりを思わせるくすみ方で。それで「天女衰装」を表し、「考えを画く」ことを意識したとあるのが、なるほどなと思った。考えを描くことが成功しているかどうかはわからないけれど、絵に対する強烈な意志を感じ、そこにほのかな共感を感じたのだった。
 二章「「朦朧体」へ:空気や光線を描く 一八九八─一九〇二年」。岡倉天心を中心とする日本美術院創立に参加した菱田春草は、横山大観とともに、新しい表現方法に挑戦した。それが黒の輪郭線を描かずに、空刷毛で色を暈し重ねたりした、いわゆる「朦朧体」だったとある。それによって空気や光線を描こうとした…。
 空気や光を…というところに、印象派的なものを感じた。そして、当時の批評家たちに、嘲笑をふくんだ言葉として「朦朧体」と呼ばれたとあることも、出たときに評価されなかった「印象派」との類似を思った。年代的な系列からすこし離れてしまうが、菱田春草が横山大観とともに一九〇三年にアメリカ・ヨーロッパに外遊したとき、思いがけず向こうで評価されたのは、彼らがそうした、どちらかといえば内的な共通点を感じたからではなかったか。絵が似ているというわけではない。だいいち日本画と油絵という違いもある。それらの壁をとおりこして、光や影が、画面のうえで、たたずんでいるのだ、ながれをとどめて、そこにあるのだ。
 ということは、つまり、印象派にひかれるわたしもまた、特に菱田春草のそれには…。そう、風景たちにひかれる自分がいた。ただ、二章ではなく(二章にあった作品たちにも、もちろん惹かれるものはあったけれども)、とくに次の三章「色彩研究へ:配色をくみたてる 一九〇三─一九〇八年」にあった作品に集中して。三章は、前述の外遊後、正反対の色たちを置くなどの補色の配置と筆触の強調による、色彩研究の時期、ということだったが、こちらでも「朦朧体」で描かれた作品は多かった。それらが、響くものが、静かに、けれども、たくさんあって、共鳴が鳴り響いて、やまないのだった。静かなにぎやかさ。そこには光にあふれた景があった。影をともなった景色があった。なつかしいような痛みをもった、共鳴がふるえる。
 《夕陽》(一九〇三年)の静かな海と空。長細い画面の四分の三近くが空。あとが平たんな岩場、ねそべるような優しさをもった岩場のある静かな海。空も劇的な夕焼けではない、ただぼんやりと、そっと色を変えているだけ。その下にある海もまた、そんな空の色合いをうなずくように、わずかに夕景に染まっている。ちらほらと、鳥のような白い帆の舟たち。鳥のよう、といったのは、菱田春草の作品には渡り鳥やねぐらに帰る鳥たちなのだろうか、あるいは獲物を探しているのか、ともかく空に点在しているそれが、多くみられるから(《曙》《夕の森》《春丘》《五月》)。そのことで、変化が生まれる。静のなかに動がわずかに感じられる。さざなみのような、かそけき動き。
 ああ、鳥そして海で、とくに立ち止まったのが《月下波》(一九〇七年)だった。やはり縦長の紙に…月が出ているから夜なのだろうか。けれども空はおおむねセピア色だ、そこを雁のような鳥たちの群れがわたってゆく。それで静謐がわずかに破られる。そしてこちらはさらに画面下にある海でも、今度はもっと動きがある、波しぶきがたっている、蒼に白の、動きがある。とはいっても、それは荒れ狂う波ではなく、比較的穏やかな海ではあるのだけれども。この絵の時間はいつなのだろう。満月の月があるから夜なのだろう。けれども青い海、どちらつかずのセピアの空。朦朧体と称されたその手法が、光と影、そしておそらく風をも描くことに成功したように、そして菱田春草が、考えのかたまりをいれることにそうとはしらずに成功していたように、そこでは、やはり現実、そして幻想が、同時に住まう環境をもつくりあげていたように思えるのだ。昼であり、夜である、そんな矛盾が、払拭され、しずかに夜が月光の下、輝いている。それは晴れであり曇りでもあるかもしれない。すべてを混沌ではなく、まきこんで静かにうかぶ夜の明るさ。
 《海辺月夜》(一九〇七年)、《月下雁》(一九〇七年)など、月を描いた作品も多かった。月の輪郭線は書かれていない。ただ色がまわりと変わっている円形たち。そうしてわたしはどこかでこの月をみたことがあったと、ぼんやりと思う。それがなんであったのか、感覚としては覚えているのだけれど、家に帰ってくるまで、わからない。いや、正確には、家に帰ってきて、パソコンに向かい、菱田春草について以前書いたことを検索して、はじめて思い出したのだ。山種美術館でみた《月四題》だった。四枚セットで、一枚づつ春夏秋冬の月が描かれている…。やはり輪郭線のない月に幻想を感じていたというのに。いや、その感じだけが、もう再会していた。わたしはそれをおくればせに知るのだった。


《月下波》1907年

 ほかの朦朧とした風景たちにも触れたいが、きりがないので、残念ながら省略する。このあたりでは、《月下雁》についてのべてみる。こちらはむら雲のかかった満月の晩、三羽の雁がわたってゆく姿。この雁たちは、めずらしく、点点と描かれた姿ではなく、はっきりとしている。余白というか、空の割合がほとんどだけれども、形がはっきりと見えるぐらいには大きい。輪郭線も描かれているようだ。いや空が薄い淡い色なのにたいして、濃い色の雁たちだからそう見えるのかもしれないけれど。だが羽などもしっかり描きこまれており、飛び方もリアルだ。なにか空、月の感じは、朦朧体に近いのだけれども、雁はそうではない、あの猫たちの絵が多く描かれた時代、四章への過渡期のようにも思えた。それはあとで触れるが、雁のなににひかれたのだろう。しばらく絵のまえから離れられなかった。後ろ髪のひかれかたがやさしかった。くぎづけになる、というほどではない、ただわずかばかりの心残りが…。そんなよわい力の後ろ髪だ。でもどこか懐かしい、ぬくもり。たぶん、それだけ書けば、ほとんど、《月下雁》について、わたしが感じたこと、だいたい表しているにちがいない。なぜかわからないけれども、やさしい力のはばたき。



 この《月下雁》が一九〇七年に描かれたとあり、次の章、最終章でもある四章は「「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない 一九〇八─一九一一年」となっていて、時系列でいうと、四章よりも一年前でしかない。だから猫たちと共通点がみられるのだろうか。
 だがこの四章にある作品たちは、もはや「朦朧体」的なものが、ほとんど見られなくなっている。ぼかしは部分的になり、菱田春草の言葉によると、装飾的になった分、距離が犠牲にされた遠近感、ということになるらしい。何も描かない背景により、対称性を増していったともある。
 実はこの四章の目玉のひとつである《落葉》(一九〇九年)には、あまり惹かれなかったのだが、この絵での距離は、後ろの幹が薄くぼんやり(まるで朦朧体のよう)、前のそれがはっきりと描かれていることで、遠近感を出している。地面は落葉が降り積もっているけれど、まばらで、それ以外は何も描かれていない。それが対照的、ということなのだろう。
 そして、最後近くに、猫たちがいる。猫たちを集めたので、若干年代がとんでいる。一番早い時期のは《白き猫》(一九〇一年)。こちらは前期のみの展示。そして《黒き猫》が後期展示…、前期と後期という対照性のなかに、白猫、黒猫という対照性も組み込まれているわけだ。
 ところで、わたしが前期展に来たのは、後期展で展示される《黒き猫》はもちろんみたかったけれど、ちょっと勘違いしていて、前期のほうが、それ以外の猫作品が多くみられる…と思ってしまったからだ。《黒き猫》っぽい《柿に猫》(一九一〇年)や《黒猫》(一九一〇年)、さらに屏風絵の《黒き猫》(一九一〇年)、これらは九月二十三日から十一月三日まで展示されているのだが、わたしはそれを、前期のみと勘違いしてしまったのだった。これらは前期でも後期でも、会期中なら観れるのに。
 でも勘違いして、前期に来れてよかったと思う。実はまたネット・オークションで同じ展覧会のチケットを一枚買った。十五日からはじまる後期展に行こうと思って。勘違いしていなければ、はじめから後期だけしかいかなかっただろう。そして前期でしか見られない何点かを見逃してしまうところだった。
 いや、猫だ。四章だ、ともかく猫にもどろう。
 前期のみの《白き猫》の理知的な、夢見るような顔の猫も良かったけれど、似たような猫…。猫ペアチケットになっている、白い身体、しっぽ半分と、おでこあたりに円形の黒、《春日》(一九〇二年)のそれが特に響いた。白梅の下、身体を丸めて座っている猫。ほとんど眠りそうなほど、眼を細めている。そのことで春の温かさを感じさえする。そして白梅の白が、背景に透けそうで、さらに猫の白も、背景に殆ど透けそうで、そのことで猫と梅が互いに呼び合い、均衡を図っているようなのだ。あるいは春という日を、梅と猫が感受している…、その究極の謂いであるような、春を感じたのだった。

 そして《黒猫》(一九一〇年)。黒き猫ではなく、黒猫。柿の実がなった柿の木(枝だけだが)の下で、黒猫が、今度はちょっと警戒するような感じで前方を見ている。わたしたちと眼はあわない。その距離感が、わたしの身のまわりにいる猫っぽくて、親近感がわく。わたしのみた猫たちを思い浮かべることができるという意味で。展覧会のどこかの絵のキャプションで、黒というのは平面的になる、アクセントになる、といった意味のことが書かれていたと記憶する。その平面的な色の猫が、写実的に描かれてある、その対比が面白いと思った。それは薄く描かれた柿、柿の葉、枝たちの写実と、好対照をなしている。



 ここまで書いて…展覧会に行った後に注文した『週刊アーティストジャパン 31 菱田春草』(デアゴスティーニ、二〇〇七年)が届いた。同時に、ネット・オークションで注文した菱田春草展のチケットも。この偶然が楽しい。何か菱田春草から、特別の便りをいただいたようで。
 展覧会図録にも、『週刊アーティストジャパン』にも菱田春草の琳派研究のことが触れられていた。先に触れた猫と木など、植物と動物を配するのは琳派の常套手段であるそうだ、そして特に『週刊アーティストジャパン』では、「自然の本質を表すには暗示的な方法がよいとし、そのためには色彩のもつ心理的、感情的な効果がきわめて重要であると力説する。(中略)彼らは光琳を「色的印象派」とよび、彼ら(横山大観、菱田春草)の目指す色彩理論の先駆と位置づけているのである」とあること、「具体的な対象としては、宗達や光琳よりもむしろ、酒井抱一や鈴木其一ら江戸後期の琳派系作家でその作品との近似性が指摘されている」とあったことが眼につき、なるほどと思った。
会場で琳派的なものといったら、ほんの数点、たとえば菱田春草が右隻、横山大観が左隻を描き、一双とした屏風作品《秋草》(一九〇二年)が、銀箔が背景なこともあり、酒井抱一の《秋草図屏風》(キャプションにも類似について書かれていたが)を想起したぐらいだった。そしてこの《秋草》にだけ関していえば、酒井抱一のもののほうが、風や水を感じて好きなので、素通りとまでは行かなくても、あまり感慨もなくすぎてしまったものだったのだが、ともかく私もどちらかといえば、酒井抱一や鈴木其一の絵に惹かれるので、そうしたものに傾く傾向、そのかたまりに共通点があるのかもしれないと、親近感を抱いたのだった。
 さらに『週刊アーティストジャパン』では、春草の画号が、「身近な花鳥的自然風景」から採られたのでは、とあることが興味深かった。ちなみにここで、本来は本名を載せるべきなのだろうけれど、わたし自身が本名を記されることを好まないので、掲げない。
 ともかく、わたしも周りにある花や水たちに大切なものを頂いているが、彼の絵から、特に雲や鳥から、それを感じた、そのことも含めて、命名された名前が、咲くようにわたしに見え始めたのだった。あるいは見過ごしてしまいそうな空を、暈した筆が丹念にわたしたちにさしだしてくれている。それは雲や大気であると同時に、菱田春草の息吹で作られた幻想だ。わたしたちはその渾然一体となった見えないもの(絵という見えるもののなかで、これをいうのはおかしいだろうか?)を受け取るのだ。受け取ったなかでこそ、いや、花や空が、やさしく、近づいてくれるのかもしれない。


 菱田春草が一九〇七年、失明の可能性もある、重い眼病を患い、半年の療養を余儀なくされたこと、そしていったん癒えたが、その後も小康と悪化を繰り返していたこと、一九一一年八月下旬についに失明し、九月十六日、三十七歳の誕生日(九月二十一日)の目前、三十六歳で没してしまったことも、書くべきだろうか。網膜炎に腎臓炎を併発したものだったらしい。わたしは作者の実生活にあまり興味がない。だが、それとこれとは少し違うだろう、という気もする。彼の早すぎる晩年の、絵たちに、その力には、おそらくそうしたものたちが魂魄のなかに、混じりこんでいるだろうから。それも含めて作品なのだ、そして、作品にどこか落とした影、それだけで、十分だと思うからこそ、彼らの実生活はいいと思ってしまうのだ。だが、だからこそ、やはり彼の死は早すぎる。

 昔読んだ…、塚本邦雄の歌で、うろ覚えの記憶では、キリストの年をとうに越してしまった…といった意のものを、うろ覚えのまま、かたまりとして温めていて、誰かの亡くなった年齢を越える度に、うろ覚えの歌を浮上させていたものだった。梶井基次郎、中原中也、宮沢賢治、カフカ、速水御舟…、その度に、ああ、彼の年を越してしまった…という想いとともに、塚本邦雄のことを思い出すのだ。この彼らは基本的にわたしに大切なものを作品によってか、演技によってか、くれた人々だ。作品によって、生を語りかけてくれた人々。マリリン・モンロー、ジェラール・フィリップ。
 だが、菱田春草…彼はなんというか、知ったと思ったら、とうにわたしの今の年齢よりも前になくなっていた…。彼のなくなった年齢を過ぎる実感もなく。うまくいえないが、彼の夭折、というよりも三十六歳という年齢を、惜しむ間もなく、知り合ったときに(というのは、この展覧会ではじめて顔見知り程度から大切な友人となったから)すでに、もう年下だった、そのことも含めてさびしく思うのだ。早すぎる彼の死を、わたしの年齢、同じ三十六歳のときに重ねることで、彼ともっと近づきたかった…。おそらくそんな気持ちがわき起こってきたのだ。うろ覚えの塚本邦雄の歌を思い出しつつ、逝ってしまった彼らの年齢を過ぎるとき、わたしはひそかに、悼みの儀式をしていたのかもしれない。その行為が菱田春草には、もはやできなかった…。

 ちなみにこの塚本邦雄の歌…長らくうろ覚えだったのだけれど、つい先日、判明した(どうやら、二つの歌を頭のなかでひとつにしてしまっていたらしい)。

「キリストの齢死なずしてあかときを水飲むと此のあはき楽慾」
「イエスは三十四にて果てにき乾葡萄噛みつつ苦くおもふその年歯」

  (塚本邦雄『装飾楽句』より)


 展覧会を見終わり、常設などを見て回る。展示作品として、のように窓からの景色を眺められるスペースがあった。窓が額縁だ。お堀と木々と空、そして東京タワーが見えた。ああ、菱田春草の描いたものたちが、ここで息づいていると、ぼんやりと思った。
 そして、自宅最寄駅に帰ってきたとき。もはや夕闇がはじまろうとする、曇り空だった。だが、まるで菱田春草が、わたしに語りかけてくれるような、そんな暈したような空たちで、優しかった。わたしはいつも、こんな美しいものを見ているのだ、そう教えてくれるようで。

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