Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2015-10-25

波打ち際に鴨、横切って飛ぶ鴨 信州諏訪へ その1



 信州・諏訪に一泊で出かけてきた。きっかけは、諏訪湖のほとりにある北澤美術館でルネ・ラリック展が開催されると知ったからだった。昔から美術館の存在はしっていたし、ほかの場所にあった北澤美術館にはいったことがあり、一度ぜひ訪れてみたいと思っていた美術館だった。そこで大好きなラリックの展覧会…。
 いや、順を追って。地図をみてみると、諏訪湖の近辺(諏訪市のお隣の茅野市)で、どこかできいた名前を見つけた。尖石遺跡…。ものすごくひっかかる名前だ。インターネットで検索してみる。
 縄文文化を代表する土偶、国宝「縄文のビーナス」「仮面の女神」、これらの品が尖石縄文考古館で、ほぼ常設展示されている…。そうだ、東京国立博物館でこの土偶たちが展示されたことがあった。直近だと、去年、二〇一四年秋の「日本国宝展」。この時、時期によっては二体とも展示されていた(私は「縄文のビーナス」しか見れなかったのだけれど)。尖石遺跡は、その時に聞いた名前だった。
 前置きが長くなってしまったが、ラリックと縄文。この二つに特に惹かれて出かけることにしたのだった。それに諏訪は温泉でも知られ、諏訪大社もある。
 日曜出発の一泊のささやかな旅。朝七時前位に家を出たと思う。車だ。天気は概ね晴れ。私は昔から水辺、出かけるなら海のほうを好んでいたので、どちらかというと、山や内陸のほうは、申し訳ないが、優先順位が低かった。だが、目的地に近付くにつれ、空気のきれいさ、緑がひきしまったようなたたずまい、かりとられた後の田んぼたち、そろそろ始まりつつある紅葉、霧の出現、霧は、どんどん昇ってゆく標高により、雲との境が微妙になるだろう。その雲とも霧ともつかないものたちが、切れて、雲の多かった東京よりも晴天となる。だいぶ色づいた葉たちが出迎えてくれている。気付いたら標高は千メートルを越えていた。その間、二時間ちょっとぐらいだったろうか。この変化たちを目にして、内陸も心地よいと思った。今まで気づかなくて悪かったと思う。そして遅くとも、気付けてよかったとも。たぶん、特に植物たちがつないでくれた縁だったのだとも思った。植物たちは、日々、私の周りで、変化を教えてくれる大切なものたちだ。その彼らが、くっきりとした葉、もうおちてしまった葉、色の変わりつつある姿、様々なものをみせて、やさしく私に告げてくれるようでもあったから。





 諏訪南インターで降りて、最初に、尖石遺跡へ。まだ午前十時前だった。尖石史跡公園として、芝が植えられた大地となっている。そのたたずまいが、どことなく違った。奈良の明日香村で感じたような、埼玉の行田の古墳群で感じたような、独特の時間を内包した空気…、これらよりももっと時間的には古いけれど、そんな厳かなものの気配を感じたのだった。あちこちに木も生えている。小さなどんぐりたち、栗のイガたち、松ぼっくりも落ちて。
 八ヶ岳の山麓、標高千メートルの台地のおもに縄文中期の遺跡。尖石史跡公園は、南側の尖石遺跡、そして北側の与助尾根遺跡(隣接するこちらは平成五年に追加指定されたとある)からなっている。そして北側のほうにある、縄文考古館へ。無造作というのではないが、たくさんの土器が展示されており、ちょっとぜいたくすぎると思ってしまう。目移りしてしまい、彼らとじっくり時を過ごすことができない、というか。
 わたしはなぜ、土器に、土偶に惹かれるのだろうか。土器は装飾的なほうがより惹かれる。ここで展示されている土器も、装飾的で、土をつかった…あれは何なのだろうか。わたしは専門家ではないので、縄文の人々が何を感じていたか、わからないし、書くことはできないだろう。けれども、土と人のあいだで交わされた、黙契の力を感じた。それはおごそかで、けれども、ぬくもりがあるものだ。いのりと日々の間でおこなわれた何か…。
 そして国宝の土偶、「縄文のビーナス」(縄文時代中期、棚畑遺跡出土)と「仮面の女神」(縄文時代後期、中ツ原遺跡出土)。これらは展示室Bにある。二体だけそれぞれガラスに入って展示されていた。ほかに出土状況の解説などを模型や写真を使って行われており、展示室Bは、この二体のための部屋となっている。目移りすることなくゆっくりと…。そのせいだろうか、それだけではない気がする。「縄文のビーナス」は、小さな顔と小さな胸、そして妊婦であろう大きな腹部、どっしりとした腰と足。ほぼ茶色だが、光沢がある。
 「仮面の女神」は、逆三角形の仮面のような不思議な、これを顔といっていいのか躊躇してしまう顔、大きな腹部と大地に踏ん張っているような大きな足。黒くいぶして焼かれているらしい。
 「縄文のビーナス」は、先にも書いたけれど、何回か見ている。今回で三回目だ。はじめて見たのは、二〇〇八年。だが混んでいたからか、そのときのことは、あまり覚えがない。けれども、それとは反対に、どこかで澱のように、彼女の存在は私のなかで残って行った。数年来のつきあいといった、懐かしさも、わたしのなかでわきあがっているのがわかったから。
 対して「仮面の女神」は今回、初めて観ることができたものだった。こちらは不思議なもので、逆にてっきり一回ぐらいはどこかで観たような気がしていた。それは先にも書いたが、去年の東京国立博物館の国宝展の時に、チラシでみたことによるらしい。チラシでみただけなのに、どこかゆかしいような…。
 だがガラスケースにはいった実物を眺める。どちらも土のもつオーラが圧倒的だ。意外と光沢のある「縄文のビーナス」、黒光りする「仮面の女神」。輝きのなかに、古い記憶たちがからめとられているようだった。光のはなつものがオーラとなってわたしにやってくる。それはこの地に着いたときにかすかに感じた大地のもつ力、たたずまいをも内包した風のようなものでもあった。あるいは息吹。



 縄文体験コーナーなどがそのほか、あった。どんぐりをすりつぶす。荒い麻の服をはおる。土偶作りの体験コーナーでは、父親と息子であろうふたりが作業中だった。土をこねて。時間があれば土偶作りも体験したかったが。ゆっくりと外に出る。復元した竪穴式住居たちの周りでは紅葉した木々がよく映えていた。室内への入口は狭い。はいってみると意外と明るい。採光のための穴から、また紅葉、そして空とまぶしさ。
 史跡公園内、考古館のある地から道路を挟んで、南側へ。こちらに尖石の遺跡がある。少しだけ斜面になった場所を下に降りると、尖石の由来となった三角錐状の大きな石がある。縄文人が石器を研いだ石ともいわれているらしい。
 ほとんど石仏のようなものを感じた。だが、その前に、そこに行く途中、すこし坂になっているのだけれど、なぜか降りてゆくときに、やわらかな幸福感を感じた。まわりは木々、そして陽だまり。やさしい、おだやかな温もり。どんぐりと、松ぼっくり、おれた枝などを拾う。
 なお、今回尖石遺跡へ行くにあたり、岡山在住の今井毅さんから、貴重な資料を送って頂いた。今井さんは「縄文 海進の会」を主宰され、縄文土器の復元・製作を行われている。記して感謝を…。おだやかな温もり。





 次の目的地、諏訪大社へ。諏訪大社は上諏訪と下諏訪にそれぞれ二つずつ社がある。尖石遺跡に近いのは上諏訪にある上社本宮と前宮。まず上社本宮へ行き、そのあと門前町などが賑やかだという下諏訪の下社秋宮へ。これらも、いろいろと、感じるところがあったけれど、省略する。
 信州は蕎麦どころでもあるので、昼に蕎麦を頂き、また下諏訪でお土産として半生蕎麦を買った。こういうことは、ささいなことだけれど、旅にきたなとしみじみと思わせてくれる。地のものを頂き、そのよすがにお土産を買うということは。昼に食べた蕎麦には、ワカサギの天ぷらがついていた。諏訪湖はワカサギ釣りでも有名なところなのだ。
 上諏訪から下諏訪へ向かうとき、道が一本違っていたので、諏訪湖の近くを通っていたのだが、まだほとんど湖は見えなかった。たまに間違えではないのか、と思うぐらいに水の気配。
 諏訪のあたりはお隣の茅野市よりは幾分標高が低く、七百メートル。けれどもそれでもまだ東京に比べれば高い。あちこちの葉がもう色づいている。桜の葉。二度目の花を咲かせたように。
 もう午後をだいぶ回っていたので、下諏訪から上諏訪にある湖畔の宿へ向かう。今度は道を湖畔のほうにつけたので、やっと湖を眺めながら。
 宿は老舗旅館だ。値段は比較的安めだが、心地よい応対をしてくれてありがたかった。せちがらい話になってしまうが、手持ち不如意の関係で、自分のなかで宿泊費用はこの値段までと設定があり、その範囲内で選んだ結果、湖が見えない部屋の筈だった。だが通されたそこは、湖が見えた。二階だったから、それほど眺望は良くなかったけれど、湖だ。日がだいぶ傾いて、湖面に日の道が輝いている。湖が見えることがこれほどうれしいなら、最初から、湖側を予約しておけばよかったのに、と思ったが、いや、それは変だと考えなおす。今、ここに湖が見えているのだから、それでいいではないかと。けれども、山側や庭園側だったら、きっとさびしかったことだろうと、まだ想像してしまう。やはり今度からは絶対に、湖側、海側などを選ぼう。今回のこの宿でのことは、宿の側のご好意なのだろう、たまたまだったのだから。それにしても、どうして湖が見える部屋を用意してくれたのだろうか。わからないけれど、うれしかった。以前、伊豆のホテルで、少し似たことがあった。そこは全室オーシャンビューだったが、いったん部屋に案内されてあと、たまたま空いたというので、別の露天風呂つきの広い部屋を勧めてくれたことがあったのだ。
 宿の部屋から諏訪湖の眺めを確かめ、荷物を少し整理したのち、すこしだけ宿付近、諏訪湖のほうへ散歩に。
 そのまえに宿の庭園。鯉のいる池があり、鯉のエサを無料で傍らにおいておいてくれている。鯉にエサをやるのは久しぶりだ。よく観光地などでうっている麩ではなく、錠剤のようなエサ。遠い昔、家で鯉を飼っていたときにあげていたようなエサ。
 池に、鯉に向かって、エサを蒔くと、口をあけて寄ってくる。この姿が見たかった。愛きょうがあるようで、すこしこわい。よってきて、水も見えないぐらい密集して、開けた口たちが、穴のようで。だいぶ色づいたムラサキシキブ。
 そして、道路を隔てたところにある湖へ。すぐそこは公園になっていて、整備されている。湖面は思ったよりもにごっていたが、藻であるとか、泥であるとか、そういった類のものが長年積もって…のように感じられたので、あまり気にならない。海のように波を、とても静かだけれどうっている。鴨たちが多い。そしてトンビ。あの鳴き声、翼をひろげたまま飛んでいる姿が好きだ。基本的にトンビと出合うのは、いつも旅先でだ。それも水辺が多い。そのせいもあって好きなのだろうか。トンビはわたしにとって非日常の鳥だから。だが鴨、とくにカルガモは家の近くの公園でよく見かける、いわば日常に近い鳥だが、やはり好きだ。好きのかたちが違うのかもしれない。トンビは旅、カルガモは日常にちかしい、けれども鴨のほうがわたしの好きな水をゆく、水に浮かぶ鳥だ。わたしが好き、というのも非日常なのか。それもまた日常だ。波打ち際に鴨。
 その鴨が、なんだかよく飛んでいる。夕方近くだから、どこかへ帰るのだろうか。諏訪湖の写真を撮っていたら、偶然、鴨がよぎっていた。ねらったわけではなかった。もっとも、こんなに飛んでいるのだから、諏訪湖と空にレンズをむけていたら、もしかすると…という思いはよぎったけれど。スマホだったが、その場で調べたりはしないので、帰宅後に気付いた。うれしかった。僥倖だと思う。そしてヴィム・ヴェンダース監督の『東京画』の台詞を思い出した。小津安二郎監督へのオマージュ作品だ。
 「自分の経験と、映画でみる映像とが、こっけいなまでにずれる事を、だれでも知っている。このずれに慣れきって、映画と人生が違うのがもう当たり前なので、突然スクリーンに──何か本当のもの──何か現実のものを見ると、息をのみ身震いしてしまう。画面を横切って飛ぶ一羽の鳥、一瞬、影を落とす雲、画面の隅にいる子供の何気ないしぐさ… 今の映画では、そんな真実の一瞬──人と物がそのままの姿で現れる──そんな瞬間は、ごくまれにしか訪れない。それがあるのが小津の特に晩年の作品のすごさだ。真実の一瞬の映画──いや、一瞬だけではない。最初から最後まで真実が途切れず、人生そのものについて語り続ける映画、そこでは人、物、街、風景が、そのままの姿で自らを啓示する。今、映画はこのように、現実を表すすべを、もう持たない。」
 横切って飛ぶ一羽の鴨。映画のなかの台詞とは、ニュアンスはずれてしまうが、写真と実際にいった旅の間にすら、ずれはある。だがなぜかわからないけれど、おもいがけなかったからか、この鴨が、なにかを渡してくれたように思った。ふいうちはいつも、なにかしらの作用をする。違和が何かをまたぐのだ。
 話を鴨をみた遅い午後に戻そう。書くというのは、素敵なことだ、書いている間は、こんなふうに家と湖を、時間すら、自在にわたることができる。
 だが、その日は、もはや露天風呂に入り、おいしい食事を頂いただけなので、また省略しよう。翌日のことは、次回に。窓から見える諏訪湖は、もう真っ暗で、ほとんどそこに湖があるのかどうかもわからない。でもたまに波が感じられる。海辺のように漁火はないのだなとぼんやりとどこかで思いながら、カーテンをしめる。横切って飛ぶ一羽の鳥たち。


00:01:00 - umikyon - No comments

2015-10-15

にぎわいの静かな水面が、過去と今日を映すだろうか──モネ展《印象、日の出》



 「マルモッタン・モネ美術館所蔵・モネ展」(東京都美術館、二〇一五年九月十九日─十二月十三日)に行った。
 平日午後三時。混んでいるだろうなと思った。面倒だったので事前にインターネットなどで混雑状況をチェックしなかった。上野の森を歩く。歩きながら、チェックしないほうが、あまりに混んで、入場ができないようなことになっていたら、かえって面倒なことになるのでは、と苦笑するが、なんとなく心がおだやかだった。雨が上がったかもしれない。秋の青空。
 もう一か月前になるが、「伝説の洋画家たち─二科100年展」で来た以来だった。同じ美術館なので、道もなじみがある。まだ長そでだと昼間は汗ばむぐらいだけれど、季節はまぎれもなく変わっている。秋のお日様。だいぶ西に傾いている。ぎんなんの妙な匂い。くさったような、なつかしい…。どんぐりが落ちている。
 そう、「伝説の洋画家たち展」で、モネ展のチラシを見て、来ることに決めたのだった。モネはもう長いこと、観てきたから、食傷気味になっていたから、こないつもりだったのだが、十月十八日まで展示の《印象、日の出》が観たかったから。
 展覧会自体には、あまり、だから期待していなかった。これはわたしの勝手な感じ方だ。



 会場につくと、びっくりするぐらい空いていた。待ち時間があると思っていたのに、0分だった。入口に、「会場は混雑しています」とあっただけだった。こうなると、勝手なもので、少々さびしい。混雑していたが、見るにはちょうどいい感じの混み方だったのだけれど。
 「マルモッタン・モネ美術館には、印象派を代表する画家クロード・モネ(一八四〇─一九二六年)の、八十六歳で亡くなるまで手元に残したコレクションが所蔵されています。本展は、息子ミシェルから同美術館に遺贈されたこのモネ・コレクションを中心に、約九〇点をご紹介するものです。子供たちの成長を記録した作品や友人ルノワールによるモネ夫妻の肖像画、旅先の風景画、白内障を患いながらも描き続けた晩年の作品などを通して、モネの豊かな創作の世界に迫ります。」
 と、チラシやHPなどにある。
 モネが生涯にわたって手放さなかったということで、子どもたちや妻の絵があるのが、ほほえましいと思った(といっても、最初の妻のカミーユは若くして亡くなっているし、長男のジャン・モネは父クロード・モネよりも早く四十六歳で先立っているが)。そして、白内障を患ってからの、生前は出品されることのなかった壮絶な庭の絵、もはや睡蓮なのか、薔薇のアーチを描いたのか、わからない、力だけがみなぎる絵たちなどの展示。
 お目当ての《印象、日の出》(一八七二年)は、医師ジョルジュ・ド・ベリオ氏(一八二八─一八九四年)のコレクションによる。まだ評価の定まらない初期の印象派の作品を評価し、友人として、時には経済的な支援のために作品を購入したこともあったとか。
 九月六日のここでも少し書いたけれど、《印象、日の出》は“印象派”の名前の由来となった作品だ。歴史画などのアカデミズム、また筆跡も残さないように描く写実が主流だった当時、粗い筆致の風景として、印象を描いたに過ぎないと批評された…。
 わたしは、この絵が好きだった。基本的に実物を見たことがない絵は、態度を保留している癖があるのだけれど、この絵はその癖から除外していた。一時期、絵ハガキを額にいれて飾っていたこともある。ふるい話だ。なんとなく、ずっとそばにいてくれた、たいせつな何かのようである。飾ることもしなくなり、モネの絵自体、それほど惹かれなくなっていたというのに、どこか家族のように、思い起こすと、温かみを感じさせるなにか。
 展覧会会場では、ちょうど真ん中ぐらいで、三章と四章の間に展示があった。ここにたどりつくまでに惹かれた作品もあったが、やはり《印象、日の出》だ。
 壁にその絵だけ一枚架かっていた。絵を前にして、ロープで仕切りがしてあり、手前は歩きながらの鑑賞、後ろはじっくりみていいといった仕組みになっている。係員さんたちが、始終「立ち止まらないで下さい」と声をあげている。人はあいかわらず、それほどはいない。前での歩きながらの鑑賞のときも、数人ずつなので、混雑で前に進めずに、だから意外とゆっくり見れる、ということがない。ほとんど普通の速度で歩きながらの鑑賞になるので、せわしない。
 だが並ぶこともなかったので、せっかくだから前列で観ることにする。二度、三度、四度ぐらいだったか。後列と繰り返し、あるいは次の展示室へ移ってから、また戻ってきて。最初前列でみたときはよく判らなかったが、日の出の海と空が、印刷物をみるよりも、光ってみえた。絵具たちがきらきらしてみえたのだ。それは後列からみると、ほとんど判らなくなってしまう。何度か前列から見たあと、後列でみて、ようやく気付いたのだった。そして全体の印象として、印刷でみたよりも、画面が全体的に明るいと思った。手前中央の影になった小舟のまわりの海にうつる朝日の色、反映と波、そして朝焼けの空。円形は工場の煙突やクレーンが影になっているが、その影すら、いくぶんか華やいでみえる。解説には朝のにぎわい、活気が伝わってくる…と書かれていたが、わたしが思ったのは、そして印刷でみても、そうあったように、静けさだった。静かな一日のはじまり。だがにぎわいを描いたからこそ、静かなのだとなぜか思う。もはやどこでみても絵はきらきらしている。あたたかい日の出のぬくもりと、空から感じられる空気の冷たさ、すこしのまぶしさ。
 ここで会えたことが、どこか信じられなかった。名残惜しかったが、ようやく離れる。どんな出合いとも、離れなければならない。
 4章を過ぎ、5章の「睡蓮と花─ジヴェルニーの庭」へ。睡蓮は六点展示があるらしい。《睡蓮》(一九〇三年)が、一番最初に出てきた睡蓮。そしてオランジュリー美術館の大装飾画の準備のために描かれたのが三点(一九一六─一九年)。ジヴェルニーの庭とは、モネの自宅の庭のこと。川の水を引き、睡蓮の咲く池を作り、好きな植物たち、日本風のものなどを植えた…。柳にアイリス(アヤメといったほうがいいかもしれない)、キスゲ類、太鼓橋もある。最初の睡蓮、一九〇三年のものは、まだ穏やかだ。池だけが描かれているが、柳や空が池に映り、立体的に見えるなか、ぽつぽつと睡蓮。穏やかに見えるのは花が小さいからか、花の色が薄いからかもしれない。水も筆致がやさしいからかもしれない。
 そして三点のほうは、睡蓮の花の色も幾分濃いし、花もすこしだけ大きく、水面も波はおだやかであるのだろうけれど、なんというか筆致が荒々しい感じがした。四隅に塗り残しもある。いそいで時間を追おうとした痕跡なのかもしれない。波だか陽射しだか柳なのか、それらが混然一体となって、瞬間となっている、その姿を吸収するように描いた跡なのかもしれない。どちらがいいということではないけれど。
 三点のうちの一点は、特にこの近くにある国立西洋美術館の《睡蓮》(一九一六年)に似ていると思った。わたしがかつて魔術的な、麻薬的な出合いをした作品だ。睡蓮の池をみているわたしの眼と、画家の眼が重なり合った、圧倒的な共振を感じた、といったらいいのか。永遠の一瞬というべき、幸福だった。
 多分あの出合いがあったからこそ、わたしはモネにずっと、なんだかんだいって惹かれるのだ。それ以来、今まで、あんな出合いはもう彼の絵に対して覚えたことはないのだけれど。
 睡蓮の花自体を好きなのも、そのせいだったろうか。会う前から好きだった気もする。水辺が好きな子どもだったから、そしてモネに会う以前から、植物は好きだったから、おそらく後者だったろう。どちらにせよ、今でも睡蓮という花に会うと、どこか愛しいような郷愁を覚える。
 …といったことを、三点のうちの一点を見ながら、思っていた。これらの絵を前にして、あの圧倒的な至福を感じることはない。荒々しい狂乱、熱病的な嵐は。わたしはだんだん穏やかになっていったのだろう。乾いているのかもしれない。水は温もりとして、私に束の間、水滴を一滴二滴たらしてくれる。小さな波紋。
 展覧会会場を出る。ミュージアムショップでは、モネの画集やら展覧会図録は家にもう何冊かあるので、今回の図録は買わないでいいだろうと、絵葉書だけ買った。《印象、日の出》と《睡蓮》と。《印象、日の出》は、絵葉書を見る度、きっと、あのきらきらを思い出すことができるだろうと思ってのことだった。静かなざわめき。
 外に出ると、もうだいぶ日が傾いていた。秋の夜長だ、だんだん昼が短くなってくる。めずらしく、雲がきれいだった。モネの絵の初期の空のようだと思う。モネがあわせてくれたような空だと、心がなごむ。



 そして、上野駅までの帰り道にあるので、国立西洋美術館に寄った。ミュージアムショップや、レストラン(なんと「すいれん」という)は無料で入れるので、ミュージアムショップで、モネの《睡蓮》の絵葉書でも見て、余韻にひたろうと思ったのだ。行ってみると絵葉書どころか、複製の大きな絵もあり、眼鏡ふきもあり、睡蓮をイメージした香水や、ブローチまであり、盛りだくさんで、わくわくした。そのなかで、特に大きな複製画をみて、ああ、これだ、こうだったなとぼんやりと思う、思い出す。かつてみたそれと、今みてきたそれが、重なり合う。過去と今が。これもまた、おだやかながら、至福の刻なのだろう。秋の、しずかなにぎわい。
00:01:00 - umikyon - No comments

2015-10-05

夢の家、あの場所で

 今さっき、べべと会っていた。夢の中で。べべは二〇〇四年に亡くなった大切な猫だ。夢の中の家、場所はここに越してくる前に住んでいた赤塚のアパートに似ている。たぶん、大元はそうだ。つまり、それを元に、夢の家は作られている。
 猫のトイレがまた汚くなっていた。だいぶ変えていないから。なぜ亡くなったのに、トイレが使われるのだろうか。でも、めったには掃除しないから、あるいは掃除しにこないから、トイレが汚れるのだろうと考える。あるいはほかの猫も窓からたまにやってくるからか。ほかの、もっと前にいた猫たち。白いムーちゃん、黒いクロちゃん。それよりも、そろそろ猫のトイレ砂を買わないといけないなと思う。猫のエサもあまりない。ほかの猫もたまに遊びにきているようだから、両方とも買おうか。ところでほかの猫も、べべより後に亡くなっているが、その時、わたしと一緒に住んでいたわけではないので、いまいち亡くなった実感がないのかもしれない。あの二匹と一緒にいたのは、母や妹と一時期暮らしていた頃、母の家でだったから。二匹に対しては今でもどこかで生きているような気がしていた。いや、べべに対しても結局はそうなのだろうけれど、べべは、この夢の家の中で、特に生きているのだという思いがあった。いや、すこしちがう。べべはわたしの中で、今も生きている。わたしが思うかぎり、生きている。そのわたしの、ここは場所なのだ。そんなことを思っていた。ここに来さえすれば、いつでも彼女に会える。ここはなんという場所なのだろう。夢の家と、とりあえず呼んでおく。
 べべはかつて、チェストの上においた藤のカゴの寝床っぽい箱に寝てたり、わたしの布団の中にもぐりこんでいたりした。かつては、生きていたときは、私が帰ってくると、玄関まで出迎えてくれたものだった。もっと前、外に出していた別の家では、外で遊んでいても、わたしに気付くと、どこからか走り寄ってきたものだった。この夢の家では違う。けれども、待っていてくれたことは十分に伝わる。もっとシンプルになった箱の中で、丸まって寝ながらも、ゴロゴロと喉をならし、うれしそうだ。あるいは身体を伸ばしている、その背中をなでると、きもちよさそうな、まかせきったような感覚が伝わってくる。またなでることができた…。わたしの眠りは浅かった。うたたねだったので、なんどか目を覚ました。けれども目を瞑ると、またあの夢の家へ行くことができた。今度はペットショップにいる。イメージとしては、随分古い。ペットショップといっても、小鳥と金魚が中心の店。小学生、中学生の頃に住んでいた街の、街角に、その店はあった。けれども当時、そんな店はそこにはなかったのだけれど。ともかく、ペットショップで猫の砂と、エサを買おうとしている。エサはドライフードだ。しばらく買っていなかったから、どんなものを買っていいのか、わからなくなっている。ずいぶんと種類が出ているようだ。エサの形状をわからせるためか、試食できるような感じで、実際のエサが、トレイに入って、そのエサの袋の下にそれぞれ置かれている。食べてもいいんだろうけれど、食べる人がいるのだろうかと思う。ずいぶん一粒が大きなドライフードの塊もあった。食感を楽しむタイプだという。それよりも、やはり老猫用のものが欲しいなと物色するが、なぜか子猫と成猫用のものしか売っていない。べべのはほかの店で買おうか。あせらなくてもいい。
 また夢の家で、べべを探す。外から帰ってきて、窓から入ってきた…いや、それは今日の、べつの、何度めかに訪れた時だったか。みかけないと思ったら、布団のなかにもぐりこんでいたのかもしれない。今日はずいぶんと甘えてくれている。ひさしぶりだからだろうか。亡くなっているというのに、こんなに会えていいのだろうか。これでは亡くなっていないようではないか。これが死なら、わるくない、十分だ。そんなことを、どこかで思っている。どこか、夢の家を覗きこむような視点に近しい場所で。
 そして、今日のある時、夢の家で、べべを撫でながら、べべが気持ちよくいてくれていることを実感しながら、わたしたちは何かを共有していたのだと思う。十九年間一緒にいた、そのことだったか、その間の心たちの揺れ、接し合った時のことだったか。ともかく確かに。




 彼女が亡くなる前、私は彼女を死なせてしまったように罪悪感を感じていた。ほぼ老衰だったから、実際はわからない。どこが悪いというのではなく、微熱が続いて、食欲がなくなっていた。毎日病院に点滴や注射をうちに連れて行っていた。ご飯はほとんど、たべれなくなっていたので、スポイトで、ミルクを何時間かおきにやっていた。それが何カ月か続いて…実際は数カ月だったかもしれない。つらかったので長く感じている。一月の終わりか二月の初めから、なんとなく具合が悪くなっていった。だがその時はまだ深刻ではなかった。けれども、べべはたったひとりの大切な家族だからと、当時私はヘビースモーカーだったのだけれど、煙は老猫のべべには、悪いかもしれないと、きっぱりと禁煙することにした。二月十一日、建国記念日だ。それ以来、今日まで煙草は吸っていない…。
 すこし脱線するが、その夢の家で、煙草を吸っていた。ほんとうに吸っていたのは、バージニアスリムのメンソールだったが、それではない、それに似た、夢の家で新発売になっていた、しらない煙草だった。やはりメンソールだったが、パッケージは灰色というか銀色で、メンソールを意味するのか、グリーンのラインが入っている。わたしはそこで何本も吸っている。こんなに吸っていて、また常習にならないだろうかと不安になる。けれども、夢の家以外、ここ以外では、そういえば、吸っていないような気がするから、大丈夫かもしれないと、ぼんやりと考える。
 いや、話しをべべに戻そう。罪悪感は、たとえばスポイトでミルクをやる回数がだんだん減っていったことだったかもしれない。当時、自分で食事を摂れないようになったら、もう難しいのでは…そんなことが頭によぎっていたから。それでも生きていて欲しかったから、葛藤があった。そのあたりに対してだった。実際は、ミルクを自分が思っているよりもやっていたかもしれない。わからない。まだどこかで罪悪感を感じているから。だが、これはおそらく生きているわたしが、誰かに対して、いつも感じることなのだろう。亡くなった父に対して、やはり感じているように。
 べべは亡くなる数日前から、ずっとわたしの腕枕で、夜をすごした。その折、彼女の不安な気持ちが腕を通して伝わってきた。亡くなった日の夜も腕枕だった。わたしの腕の中で、彼女は逝った。五月二十五日、午前三時ごろだった。あの腕枕の時の彼女の気持ちが、わたしのそれが、夢の家で、思いだされた。それだけではなかった。在りし日の、すべての彼女の温もりが、あの場所に凝縮していた。撫でているときに、それらすべてが、よみがえったように思えたのだ。そうして、ちがうかもしれないけれど、やはり、わたしの自己満足であるのかもしれないけれど、わたしが罪悪感をかんじることはないのだと、べべがいってくれているような、そんな気もしたのだった。夢の家で撫でている時、べべが、心地よさげにしてくれていた、そのことが、無言でそう、語ってくれているようだったのだ。彼女とすごした時間の優しさが、充満していて。
 残念ながら、目を覚ましてしまった、夢の家から、ここに、今いる場所へ戻ってきてしまった。そのあとで、彼女の写真をみながら、これをすぐさま書いている。べべを忘れはもちろんしないが、それでも、きっと忘れてしまうことたちが多いだろう、とくにあの場所で、体験した、なにかたちの詳細は。それを、すこしでも、覚えていられるように、書きとめるのだった。シーツにこぼれおちた、猫の毛のような、きらきらとした、やさしい、いとしい、腕枕の記憶たち。
 そうして、これを書き、すこしばかり文章を直してゆくうち、あの夢の家で体験しなかった感触もまた思いだされる。たとえば、キーボードを叩いているわたしの膝の上に乗って、寝ているべべだ。膝が組めなくて、軽い猫だったが、そのうちだんだん重くなってきて、でも我慢するのが、心地よくって。彼女のほうが飽きて、べつの寝床、藤のカゴなどに飛び乗ってしまうまで…。いま、膝を組んでしまえることが、すこしばかり寂しい。
00:01:00 - umikyon - No comments