Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2015-12-25

湧水が洗ってくれただろうか


 やはり、十二月はバイトが忙しかった、いや、今もつづいているから、忙しいというべきか。ともかく、けっこう疲れている。家に帰ってくるとほとんど何もせずに寝てしまう。
 疲れとともに、日常が浸食してくる。頭のなかまで。頭が日常に侵されていると、発想が散文的になってくる。と、自分ではこうした状態の時、いつも感じるのだけれど、ニュアンスが伝わるだろうか。非日常的な考え方がうかばなくなり、日常のうらにあるものを感じ取る力が希薄になってしまう。それはわたしにとって、非日常が詩で、日常が散文ということなのかもしれない。日常=散文が頭を埋め尽くす…のか。いや、というほどの言葉もない。散文的な文章すら、存在しないのだ。ほとんどなにも考えずに、忙殺された、そこは空虚だ。
 本もほとんど読んでいない、美術館もまったくでかけていない。テレビもニュースなどを食事時に少しみる程度…。
 ただこの期間、バイトの帰りや、買い物の後、湧水のある公園に何回か出かけている。もうひとつ、なじみの湧水をもつ緑地があるが、そこよりもほんの少しだけ距離が離れている。どちらも国分寺崖線上にあるのだけれど。公園は家と逆方向になる。家─バイト先─買い物をするスーパーA─そのスーパーの裏手の湧水のある緑地─もうひとつのスーパーB─湧水をもつ公園、位置的には、直線ではないけれど、こんな感じか。家から最後の公園まで、まっすぐいけば自転車で十分ぐらい、せまい範囲だ。わたしの生活圏はこんなものなのだ。駅すら、めったにいかない。
 ともかく、湧水をためた池のある公園へ。心がそれを求めているというか、静かな衝動にかられてというか。それは強い意志ではない。ぼんやりとした気持ちのなか、気がつくと足がそこに向かっている。うつくしいものがみたいとか、非日常を感じたい、とか、そうしたことなのかもしれないが、そこにむかうわたしは、そこまでの考えはない。ただ頭のなかに澄んだ池が浮かぶのみだ。



 けれども、頭が散文的だからか、あるいは冬だからか、その場所にいっても、なにかしみじみとしたものを味わう、ということにはほとんどならないのだが。
 通常なら、うつくしいものたちがわたしに語りかけてきてくれる、その声なき声が、景色からしみだしてくるのを、わたしはほんのすこしだけ、うけとり、そのことにより、みちて、ひたされ、ほとんど至福すらかんじるのだが、そうしたことが起きないのだ。
 そう、花のない季節だからかもしれない。たいていは季節ごと、咲く植物たちがまず突破口をひらいてくれるから。けれども、まわりに生えている木々は色とりどりに紅葉している。こうしてみると十二月というのは、冬ではなく秋のようだとぼんやりと思う。晩秋のある日。なら、わたしのなかでは冬は一月なのだろう。大寒もあるし。
 湧水池は崖の下にある。崖の上までは数多の、様々な木。たしか山桜もあったはずだ。ちょっとした林になっていて、山道のような傾斜、コンクリートなのだが石垣があるためか、あたりによくなじんだ斜路が上にむかって伸びている。
 あの斜路を登りきるとなにがあるのだろうか。答えは知っているのだが、いつもそんなふうに思ってしまう。崖をのぼるとそこにはなにが拡がっているのだろう。わたしのなかではいつも海がみえるイメージだ。坂をのぼる。その向こうにはきっと海が。海なし県で育ったわたしの、それは夢の光景だったから。特に小学生の時だ。坂の上に、わたしは遠くでもいい、海が見える見晴らしを期待していたものだった。見通しがきかない、坂をみるといつもそれを思い出してしまう。なつかしさがどこかうれしい。
 そう、あの坂を登ったら、何があるかわたしは知っている。だから登らない。現実逃避だろうか。すこしちがうと思う。坂に期待するほのかな気持ちは本当だ。それをそのまま宝物のように心にしまうことがあってもいいじゃないか。自分にいいわけするように、小川を経て、池へ。



 池には最近まで、枯れ葉や落葉たちが水面を覆っていたが、掃除されたのだろう。ほぼ一掃されている。鯉が一匹、ゆうゆうと泳いでいる。暖かい時期にはもう数匹いたように思うが、どこにいったのか。みえないだけでどこか小川のほうに、草や岩の陰にいるのだろうか。冬眠中なのかもしれない。冬眠といっても、どこかの陰や底のほうで、ほとんど動かないで越冬しているだけなのだけれど。泳いでいる鯉もどこかにいって見えなくなってしまった。今日はそういえば一番の冷え込みの日だった。晩秋ではない、やはり冬なのだ。



 池はまた小さな川になり、排水溝のような場所を最後に、地上で見えるという意味では一端水の流れが中断される。だから散歩もいつもは池まで、いっても小川どまりだった。けれども、以前、その中断された向こうで、なぜかカワセミの声を聞いたことがあったことを思い出す。声を頼りに進んでみたら、カワセミの姿を見たことを思い出し、この日はぼんやりとさらに奥へいってみた。相変わらず忙しい日常だったが、身体がすこし慣れたのかもしれない、あるいはその日はたまたま人出が多かったので、いつもより身体を動かすことが少なかったからかもしれない。疲れかたがまだましだった。いや、この日は金曜日だった。たいてい美術館に行くのは金曜日だった。金曜日は昼の別の仕事も休みで、土曜日はまた早朝バイトなのだけれど、次の日曜が休みなので、なんとなく金曜日というのは、飛び地した休みの感覚がある。そのせいか、休みは非日常だ。そう、それは金曜日だった。疲れていようがなんだろうが、わたしは非日常を求めていたのだ。どっぷりつかった日常から、けだるい身体と心で、ぬけようとしたのだ。
 また突然のように崖下に小さな川が。ああ、そうだったなと思い出す。この小川の近くをカワセミがいたのだ。さきほどまでは崖下の細い道を挟んで、児童遊園などもあったから、昼でもほのぐらい山のイメージだったが、こちらは小さな川のすぐ近くに、それらの水が最終的に流れ込むだろう、仙川が流れている。その向こうに住宅地。視界がひらけて、明るい感じ。ほんの少しだけ、百メートルにもならないのではないか、離れただけでこんなにも景色が違う。ただ仙川は、コンクリートで護岸されていて、わたしとしてはすこし淋しい川なのだけれど。
 けれども崖下の小さな川には、ほんとうに久しぶりに来た。カワセミを見に来て以来だから、数年ぶりではなかったか。空がうつって水がずいぶん青い。学校帰りの高校生たちが、さらに向こうに笑いながら進んでいった。こちらでは小さな女の子たちが二人、小川のほとりで遊んでいる。もしかするとザリガニを釣ろうとしているのかもしれない。空はこんなに青かったのかと、水を見て思う。いや、気付かされた。崖下にムラサキシキブの紫の実。枯れて乾ききった枝に、ドライフラワーのようにつぶつぶと付いている。そしてあれはもしかするとカラスウリだろうか。つるになって、まわりに生えている木にからみつきながら、赤い実を小さな提灯のようにたらしている。こちらはカワセミよりも、もっともっと久しぶりに見た。中学生の時以来かもしれない。数年ではなく、数十年。



 書いたから散文的な頭が詩にすこし近づいたのか…。いや、やはり水や鯉、カラスウリたちが、わたしに囁いてくれたことが原因なのか。あの場では、よくわからなかった。うけとるわたしが散文的だったから。いや、彼らはいつも、そこにいる。そこで、変化し、かれらの時を生きている。そうして接してくれるのはいつも変わらない。それはわたしの側の問題なのだろう。ともかく、すこしだけ、日常から這い出てくることができたような気もする。言葉が、彼らとの邂逅を詩的なものだったのだと教えてくれたのだろう、多分。ちがうかもしれないけれど、崖の下から斜路を見上げる、あの気持ちのままで、今はいることができたらいい。そうすることが必要なのだ。
 そういえばこの日の夕方。家に帰ってのち、郵便物だけ受け取りに、外に出た。富士山のある西の方角で、まさに太陽が沈んでいるのに遭遇した。スマホを持っていたので何枚か写真に撮った。あまり写りはよくなかったのでここにはあげないけれど。見たときより、富士山は小さすぎる。もっと富士山は大きかったから。
 だが、撮った写真を外付けハードディスクに保存した際、確認していたら、去年のちょうど同じ時期、十二月にも、似たような写真を撮っていることがわかった。渡り廊下からの夕景と富士。去年も今の時期なら疲れてもうろうとしていたはず。おなじようにうつくしいものを求めていたのだなと、去年のわたしに力をもらった。あれやこれやで、少しは詩的な頭になっただろうか。明日からまたバイトだ。ゆっくりと、せわしなく今年もまもなく閉じようとしている。
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2015-12-15

ピロスマニに会いにゆく、ゆきたかった、ゆけるだろうか その2 (公開講座「グルジアの画家ピロスマニ」)

 バイトが一年で一番忙しい時期になってしまった。早朝というより深夜、いつもより一時間早い午前三時三十分に家を出る。いつもなら金星と木星が東の空に見えているのだけれど、時間が早いのでもはや木星しか見えない。さびしく思うが、それに感じ入る余裕がない。月と火星と木星と金星が朝五時ぐらいにはまた近づくというが、その時間は室内で働いているので見えないだろう。
 今日は朝、もう明るくなってから、月を見た。昼の月。
 「私は朝の太陽が好きだ 月の光は悲しすぎて…だめだ 私には彼らは理解できん 言葉が通じないんだ」。これはDVD『ピロスマニ』の台詞。
 私はこの言葉が好きだった。言葉が通じないから彼は描いているのだ。それはこんな姿勢にも通じるだろう。
 「わたしは生き延びるために書いてきた。口を閉ざして語ることのできる唯一の方法だから書いてきたのだ。無言で語ること、黙して語ること、失われた言葉を待ち受けること、読むこと、書くこと、それらはみな同じことだ。なぜなら、自己喪失とは避難所だから」(パスカル・キニャール『舌の先まで出かかった言葉』青土社・高橋啓訳)。

 『放浪の画家ピロスマニ』を岩波ホールで観た時、映画公開記念の公開講座が十一月二十八日に開かれると記載されたチラシを見つけた。講師は絵本作家で岩波ホールに勤務されている、はらだ たけひで氏。一九七八年の映画公開にも携わっておられ、ピロスマニに関する著書もいくつか書かれている。ピロスマニとグルジア(ジョージア)に取りつかれた三十七年…とは本人談。
 そう、たしか岩波ホールで映画を見る前だ。プログラムを先に買ったように、チラシを見て、すぐに電話予約を入れた。わたしはピロスマニの絵に会いたかった、読むように観たかったのだ。やはり、現実に見れない絵のよすがを求めたのだった。
 はらだ氏の書いた『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』(冨山房インターナショナル)、『放浪の聖画家ピロスマニ』(集英社新書ヴィジュアル版)は実は持っている。それと、プログラムを携えて、講座を聞きに行く。詩人以外の講座を聞くのは初めてかもしれない。つい、誰か知り合いに合わないだろうかと思ってしまい、あたりを見回したが、誰もいない。それがどうということはないのだけれど、なにか妙な気がする。年配の人が多いようだ。定年されているとか、そんな世代の方々。あとはおそらく映画好きの青年と見受けられる方がちらほら。





 講義の時間は一時間半。現在、政治的な背景からジョージアと呼ぶようになっているが、グルジアという言葉に親しんできたので、ここではグルジアと呼ぶと、前置きがあり、最初はグルジアという国の話しだった。映像をまじえて。ロシアとの関係、ヨーロッパとアジアの狭間、シェンゲラヤ監督は「グルジアを知ることはピロスマニを知ること」と言ったという。また現在、グルジアでは「グルジア人の数だけピロスマニがいる」と言われているという。不明な点が多いこと、そして紙幣などにも使われ、制服にもワンポイントとして用いられるなど、人々の日常に浸透していることにもよる。

 次に、ピロスマニの生涯の簡単な説明。そのあとで絵の解説。会場には、ピロスマニの絵のA4かもう少し大きなサイズのパネルが沢山飾ってあり、それらについて、プロジェクターに写したりしながら、説明や感想が語られる。
 ピロスマニは黒いキャンバスに絵を描くことが多かった。以前はその理由として値段が安いこと、そして背景を描かなくていいから、早く仕上がるから、などと言われていたようだが、最近は白いキャンバスに比べて高価だったことが判っているそうだ。黒い色に、乗せた白いものが光る。日常とは違う光。早く描けるという側面もあったが、人物を描くとき、目や鼻、眉毛などはその黒を生かしているので、かなり繊細な作業をしていることもあったらしい。
 ピロスマニの絵は、その平面性から、グルジア正教のイコンにも比べられることが多いという。実際、私もなんとなくイコンを想い浮かべることがある。やさしい哀しみにみちた表情、暗さと明るさがまじりあったあの表情に。
 はらだ氏は、そうした聖とグルジアの俗な部分を混ぜ合わせていたのではという。人々の生活の中に永遠を見ていた…。
 絵具は外国製で実は高価なものだった。私はここでも北斎を思い出してしまう。ほとんどその日ぐらしで、金にこだわらず高価な絵の具、北斎ならベロ藍と呼ばれる外国製の高価な絵の具だ。もっとも状況的に大分違うかもしれない。北斎は片づけるのが面倒だから引っ越しをしたらしいが、日々の食べ物やお酒、そして絵具の代金と引き換えに絵を描いていて回ったピロスマニは片づけるほどの荷物もなかったのではないか。
 話がそれた。ピロスマニはけれども、絵具の種類はあまり多く使わなかった。多くて十一色、通常は一色〜五色。色に対して独自の哲学があったのではと。色はものそのものにそなわっている本質を現している…。牛乳は白、葉は緑。
 ピロスマニの動物は、おだやかで優しい眼をしている、そしてどこか哀しい。そしてピロスマニの絵は黒が多いから、通常なら暗く冷たい絵になるのだが、暗さのなかに温もりがあり、やはり優しいものとなる。あるいは、そのどちらも持っている。たぶん、色々なところで、二つたちが混ざっているのだろう。聖と俗、冷たいと温かい、孤独と他者たち(彼は孤高の人であったが、彼を取り囲む人々と、絵を描くことで接していた、周囲に受け入れられていた)。二つたちは続く。祭りを描いた絵に、おいはぎにあう男がいる。私はこうした二つたちの出逢いに弱いのだ。
 はらだ氏は、グルジアという国もまた、生きる喜びと苦しみが背中合わせである、複雑な歴史的背景などに触れ、だからピロスマニはグルジアで愛されているのではと語っていた。この時に、先に触れたシェンゲラヤ監督の言葉が思い出された。「グルジアを知ることはピロスマニを知ること」。
 時間いっぱいになってしまい、一時間半の後で、ピロスマニ紹介する十五分ほどのDVDの上映。なぜかDVDの曲がヤン・ティルセン(映画『アメリ』の曲が有名かもしれない)だったことが不思議だった。一時期好きでよく聞いていたのだが、なにか関わりがあるのか。単に雰囲気が合っているからか。
 講座が終わったあと、はらだ氏に挨拶をしにいった。少し恥ずかしかったのだが、ぜひ言葉を交わしたかったのだ。実は、以前『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』の書評を図書新聞に書いたことがあるので、そのことに触れて、名刺交換させて頂いた。サインもしてもらった。ピロスマニらしき人物がペンを高い位置で持って、そらにわたしの名前を書いてくれているような…。
 ピロスマニの絵について、言葉を聞き、またその言葉を私が書きとめ、自身の言葉でも考える、そうしたこと、つまり言葉たちのおかげで、映画を観た後よりも、ピロスマニの絵に出合えたような、そんな疑似体験を味わえることができた。想像していたことといつも違う。やはりそんな思いがけなさが現実の良さなのだ。言葉によってピロスマニにまた出逢えたことがうれしかった。
 …と感じたのは、講座が開かれた新宿西口の高層ビルを出た後だ。着いたときはまだ明るかったが、出たらあたりは暗かった。クリスマス近いので、あちこちイルミネーションがきらきらしている。鹿のかたちのイルミネーションに、ピロスマニの描いた鹿を想起する。まるで映画を観たあとのようだ。映画館から出ると、なんだかあたりが映画の雰囲気をひきずっている、自分が映画の誰かになっているような、あの現実にまだうまく着地しきれていない感じ。駅地下の花屋さんを覗く。新宿駅にくると見るのが癖になっているのだ。鉢カバーで、トナカイや白鳥の形をしたものたちを見る。ピロスマニの絵のようだと思ってしまう。やさしい穏やかな瞳。言葉によってピロスマニが…、そう思ったのは、それらを通じてだった。
 言葉がまた私に少し開いてくれた。





 今回は最後に「図書新聞」に掲載した書評を転載する。すみません。疲れ夥しく…。

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「図書新聞」二〇一二年二月四日号(三〇四八号)より

二元論の境界で響く詩的ポリフォニー
孤高の画家ピロスマニが現在にもたらすもの

海埜今日子

はらだたけひで著『放浪の画家 ニコ・ピロスマニ』11・7・6刊、A5判一七三頁・本体二二〇〇円・冨山房インターナショナル

 グルジアの画家ニコ・ピロスマニ(一八六二─一九一八年)は日々の食事や絵具代と引き換えに店に飾る絵等(集団肖像画、動物等)を描き、孤独と貧困のうちに亡くなったが、現在、祖国では国民的画家である。本書はそのピロスマニへのオマージュに満ちた評伝だが、そうした枠に捉われない、詩的ポリフォニーに満ちた書物となっている。彼に魅せられた著者は、自身が訪れた現在のグルジアとその歴史、彼と関わりのあった人々、詩人、画家、なかったが詩的接点のある言葉たちの引用(サン=テクジュペリ、原民喜等)、映画『ピロスマニ』、彼の絵の紹介、彼の一生などを綴っている。グルジアには独特の合唱、多声音楽(ポリフォニー)の文化があるそうだ。重なり、ハーモニーが生れる。ピロスマニと著者、数多の人、現在と過去…、本書はそうしたハーモニーに満ちた一冊でもある。或いはカラー図版や随所に見られる図版により、それは視覚的ポリフォニーをも造り上げているといっていい。
 日本でピロスマニといえば、絵画では一九七七年の「素朴な画家たち展」での数点の紹介、一九八六年の個展、二〇〇八─九年の「青春のロシア・アヴァンギャルド展」(Bunkamuraザ・ミュージアム他)での十点の展示、その頃に画集が文遊社から出ている事ぐらいだ。著者は七七年の展覧会で初めてピロスマニという「旅まわりの画家」を知り、翌七八年、グルジア映画『ピロスマニ』の上映に携わる。爾来、彼は様々な意味で、ピロスマニを求めて旅をするようになるが、それはどこかピロスマニの流離とも重なる。描くことが日々の糧である、芸術が日常と密接に絡み合う画家の姿と、著者が『日本グルジア友の会』を設立し、グルジアの複雑な歴史、そして現在をも本書などで紹介し、現実と芸術(或いは空想)との接点をたえず織り込んでいるその姿が二重写しになるのだった。
 ピロスマニは、平面的な絵、稚拙といわれる表現から、素朴派と称されることもあるが、独学の彼はどこにも所属したことはない。又、家族を持たず、放浪をしていたこと、不器用な生き方からも、彼は孤独であったといえるが、頁をめくると、そんな孤独さと、人との関わりあいも表裏一体をなしていることもわかる。彼は描くことで彼らと結びついていた、そしてそんな彼を彼らは概ね「大きな家族的意識」のようなもので見つめ、繋がっていたのだと。
 孤独でありながら繋がっていること、それは彼の絵画観における二元論とも関係している。白が神聖、黒が反対の…。「すべてのものには、相反する二つの面がある」。私は二〇〇八年にピロスマニを初めて知った。優しさと悲しさ、強さと弱さ、寂しさと愛に満ちた、その絵に訳も分からず惹かれた。それは二元論の究極の出会いだった。彼は中央の美術協会で「みんなが集える大きな木の家を建てましょう。そこでお茶を飲みながら、絵や芸術のことを語りあうのです」と言ったという。協会では盲信として理解されなかったが、独りでありながら同時に集う、それも二元論であり、一貫した絵に関わる意志ではなかったか。現実と非現実が関わり合うように、彼の絵の中でも、境界における出会いとして、孤独と集いはいつも同時に存在していた。それは私たちにも響く、境界のポリフォニーだ。著者には『大きな木の家』という絵本がある。境界は、ピロスマニと著者を繋ぐ、大切な二元論となって、本書の中で、そこから、静かにどこまでも響きつづける。(詩人)

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2015-12-05

ピロスマニに会いにゆく、ゆきたかった、ゆけるだろうか その1 『放浪の画家ピロスマニ』



 大切な友人から、ピロスマニの映画のチラシを送って頂いた。『放浪の画家ピロスマニ』(岩波ホール、二〇一五年十一月二十一日─十二月十八日)。
 わたしがピロスマニの絵が好きだと知っているから、わざわざ送ってくれたのだ。出かけることにする。
 もう何度か書いているけれど、二〇〇八年に「青春のロシア・アヴァンギャルド展」(渋谷・Bunkamura ザ・ミュージアム)でニコ・ピロスマニの絵を観てから、彼は私にとって大切な画家となっていたから。だから『ピロスマニ』のDVDは何度か観ていた。これも元はその友人が手配してくれたものだったが。そんな経験は初めてだった。DVDで観たものを劇場で観るということは。初めてこの映画を観たのは二〇〇九年のことだ。その時の感動はとてつもないものだったから。話は前後してしまうが、映画館でも、着いてすぐにパンフレットを買った。普段は、基本的に映画を観たあとで、欲しいようだったら買う。いや、今回はもう以前に観ているから、やはり映画の後で買った、ということなのか。というよりも、ピロスマニに関するものなら、なんでも欲しいから求めた、というほうがしっくりする。二〇〇八年、二〇〇九年(巡回展で埼玉県立近代美術館に来た時にまた観たのだ)以来、彼の絵を観ていないから。



 岩波ホールは神保町にある。神保町駅の改札をくぐるとき、北斎も好きだが、たぶんこんなふうに出かけたりはしないだろうと思った(実際、北斎の娘の映画『百日紅』はまだ観ていない)。それは好きの度合いが違うからではない。北斎の絵は、なんだかんだいって、観る機会が結構ある。だがピロスマニの絵は、多くの、殆どの絵を所蔵する、彼の祖国グルジア(現在はジョージアという呼び方がいいようだ、以下なるべくジョージアとする)に行かないと観ることができない(私が初めて観た彼の絵は、モスクワ市立近代美術館のコレクションだったが)。そして後で聞いた話しだが、しばらくジョージア国外から彼の絵が貸し出されることはないらしい。つまり、日本でピロスマニの絵を観る機会は今の時点ではないこと。北斎とはそこが違うのだ。絵が見れないから、絵の周辺によすがをしのぶのだ。
 神保町駅に来るのも久しぶりだ。よく古本屋をまわったものだ。その意味でも懐かしい場所。そして久しぶりの映画館。岩波ホールは来たことがあったような気がするが、どうだったのだろう。映画館というものに来たのは五、六年ぶりかもしれない。チラシが沢山おいてあって。中学生の頃、特に映画が好きでよく名画座に来ていたときのことを思い出す。だがどこかよそよそしい。わたしは映画から離れすぎていたのだ。ピロスマニの映画のチラシだけもらう。
 一九七八年に岩波ホールでロシア語プリント版が上映されたが、今回はグルジア語のオリジナル版のデジタルリマスター版での再上映となる。その関係で、邦題も『ピロスマニ』から『放浪の画家ピロスマニ』に変わっている。
 HPから。
 「映画「放浪の画家ピロスマニ」はグルジア(ジョージア)の独学の天才画家ニコ・ピロスマニ(一八六八─一九一八)の半生を描いた作品である。近年、ピロスマニは貧しい絵描きと女優の哀しい恋を歌った「百万本のバラ」のモデルとしても知られている。名匠ギオルギ・シェンゲラヤ監督は、名も知れず清冽に生きたピロスマニの魂を、憧れにも似た情熱で描くとともに、グルジアの風土や民族の心を見事に映像化した。(中略)
 ピロスマニの本名はニコロズ・ピロスマナシュヴィリ。十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、カフカス(コーカサス)山脈の南にある国グルジアで、パンや葡萄酒と引き換えに店に飾る絵や看板を描き、貧しく孤独のうちに亡くなった。放浪の画家、孤高の画家と呼ばれ、絵は人物、動物、暮らし、風景などをテーマに、グルジアの風土に育まれた世界を独特の素朴な筆致で描いたもので、その数は一〇〇〇点から二〇〇〇点と言われている。
 死後に高く評価され、現在はグルジア人の魂を象徴する存在として人々に愛されている。収集された二〇〇点余りが国立美術館に大切に保存、展示されている。世界中で展覧会が開かれているが、日本でも一九八六年に大々的な展覧会が催され、二〇〇八年の「青春のロシア・アヴァンギャルド展」でも作品が展示されて話題となった。(中略)
 ピロスマニを演じたのは、本作の美術も担当したアヴタンディル・ヴァラジ(一九二六─一九七七)」(後略)。
 映画については、どこかでやはり何度か書いている…。つまり、書いた時は感動していた。だから、また何か…私は何を求めて映画を見に行ったのだろうか。私が変わったのか? つまり、思ったよりも感動がなかったのだ。これは私のせいであり、映画の素晴らしさに異論はない。映画館での鑑賞ではなく、DVDではあったが、何回も観たから、感動がなかったにすぎないのだろう。あるいは私は映画館という特別な状態──暗闇で、映像と対峙する独特な出合いの場──に、期待しすぎていたのかもしれない。期待したことは、いつもほとんど裏切られる。だから私は期待しない子どもだった。あるいは想像のほうが楽しい。だが、だからこそ、裏切られるからこそ、思いがけなさもあるのだけれど。
 いや、私は単にピロスマニの絵が観たかっただけなのだと思い知らされた。生で、あの質感を感じたかったのだと。
 そうして思い至る。北斎に繋がる映画『百日紅』を観に行かなかった理由を。わたしは原作の杉浦日向子の漫画は持っている。漫画の世界だけでいいと思ったことも理由だが、それよりもアニメということで、北斎の絵がそこにあったとしても、北斎の絵そのものではないだろう、それが理由だったことを。つまり、わたしは彼の絵が観たかったのだ。
 『放浪の画家ピロスマニ』、映画の中に章のはじまりとして、区切りとして、酒場で、彼の絵を知らないであろう観客に対しても親切なぐらい、そして映像自体も、まるでピロスマニの絵の再現のような美しい画に満ちている。だがそれを再認識するだけで、わたしの何か、彼の絵を観たいという欲求は、埋まることがない。
 それでも映画を観に行って良かったのだけれど。グルジア語版になったことも、言葉は判らないが、印象が変わった。より、作り手の想いが伝わるような響きがあった。あるいはピロスマニが話した言葉と同じ言語ということで、ピロスマニのいた世界がよりリアルに伝わってくるだろう。それに、暗い色調の多い彼の絵、酒場という暗がりに架かった彼の絵ということを思い出すと、映画館という暗がりで、彼にまつわる作品を見ることは、それだけでも彼の絵に繋がることのようにも思えてくるのだった。もうひとつ理由がある。それは次回書く。(そろそろ年末…ごめんなさい、日常が忙しなくなってきており、その関係で)

 以前、二〇〇九年頃に書いた散文をここに提示して、今回はお茶を濁します。


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「hotel 第2章」no22(二〇〇九年七月)より。

ざわめく美6
絵ということばが人間をざわめく─ピロスマニ
海埜今日子

 画家ニコ・ピロスマニ(一八六二─一九一八年)はグルジア東部の農村出身で、八歳で首都トビリシに出た後、独学で絵を始める。一杯のワインや食事、絵具代とひきかえに動物、集団肖像画などを描いて回り、孤独と貧困のうちに亡くなる。平面的な絵、稚拙といわれる表現から、プリミティヴ派と称されるが、独学の彼はどこにも所属したことはない。今ではグルジアの国民的画家である…。私は二〇〇八年の夏「青春のロシア・アヴァンギャルド展」で、はじめてピロスマニを知り、一目で好きになってしまった。《小熊をつれた母白熊》《雌鹿》《ひよこを連れた雌鳥と雄鶏》《ロバにまたがる町の人》…特に動物たちに心を奪われた。その姿の平べったさは、グルジア正教のイコン画の影響もあるというが、イコンの慈悲に満ちた眼差しなども、多分その動物たちの眼には投影している。彼はまた、白と黒を多用する。白は無垢なものや愛の謂だそうだ。白熊、白い泉から水を飲む鹿、白い腹を持つ驢馬、彼らはたとえようもなく優しげな魂を混ぜた筆で作られている。そして黒を力強いもの、戦争、畏怖として捉えていた、或いは影。黒に描くと早く乾くという理由もあったらしいが、
 何故ピロスマニの絵に惹かれるのかわからない。彼は動物に自分を投影しているという。ピカソは作品に芸術家の人間を見るという。彼の動物たちに私は彼を見ているのだろうか、そうして魂が知らずとざわめいたのだろうか。
 映画『ピロスマニ』を観た。彼が描いたのであろう羊や馬など動物たちの映像と《小鹿》《驢馬に乗った少年》、テーブルに座って乾杯する人物たちと《酒宴》、そして何度も出てくる屹立した孤高の姿の《キリン》…。映像(それ自体も絵をあきらかにイメージしている)にピロスマニの絵が挟まれ、交錯し、ぶれる。彼を敬愛するゲオルギー・シェンゲラーヤ監督の賛美と独創性が伝わる。美術がピロスマニ役であるアフタンジル・ワラジなのだが、彼が画家、デザイナーでもあるというのも、この混淆に拍車をかけている。誰が描き、誰が見た風景なのか…。その混交は現実と絵画、現実と映像の関係をも貫き、私たちに提示される。
 ピロスマニは「“伯爵”の異名をとる誇り高き男」、妥協を許さない純粋な男として描かれている。映像としては、彼の多用するそれとも重なり、白と黒は効果的に使われている。例えば姉夫婦が小麦をずるく売ろうとするのを知って憤る彼は白い服を着ていた。先の、乾杯して去る時には黒い服。恋心を抱いた歌手は白い服、彼が一時営んでいた食料品店の外壁には《白牛》《黒牛》の二枚の絵…。
 ピロスマニは沢山の風俗画的集団肖像画も描いている。だが人々の間にいながら独りだ。グルジアではまっすぐ人の眼を見て喋るというが、彼の肖像画の人々はてんでばらばらな方を向いている。「世の中に歩調を合わせるんだ。うまく折り合いをつけるのさ」と友人がいう。「わかってはいるが おれにはそれができん 人生がおれを飲み損なって のどに引っ掛けてしまったのさ」。放浪しながら絵を描き、そこにいながら独りで、家も家族も持たずに眠る画家。彼には《白豚と子豚》《鹿たち》《子連れの母熊》等、動物の家族を描いた絵も多い。動物と二重写しであるというピロスマニは、そこに我が家、家族を見ていたようにも思う。彼は八歳で両親を亡くしている。
 とはいえ他者とは、距離を取りつつも愛情を持って接している。酒場で一緒に飲まないかと誘われる。「わしらも人間だ 独りじゃつらかろう」。彼は立ち上がり、「あなたがたのために」と恭しく乾杯して去る。或いは派手な赤い服を着た夜の世界の女性が、「久しぶりね」という。「忙しくて…」それだけだが、表情から馴れ合いが滲んでいた。
 ピロスマニの独りはこんな場所でもそうだ。後にロシア画壇に認められ、サロンで(彼はあきらかに浮いている)一言求められて。「そう皆さん 町の真ん中に 大きな木の家を建てましょう 集まってサモワールを囲み 茶を飲み 芸術を語りましょう」。彼は彼らをそれでも欲しているのだ。茶を飲みながら芸術を語りたいのだ。絵を描くことで日々の糧を得る。日常生活と芸術が彼においては区別がない。そして描くことで彼らと接する。どうしてもよそものとして、一線を引いてしまいながらも。「彼はあらゆる意味で周縁性を選びとった画家であったということができる。(…)彼は、自らにとって親しい空間から自らを疎外することによって、自らを外部性によって補強していったと言える」(画集『ニコ・ピロスマニ』文遊社、山口昌男)。
 映画ではこの後、画壇等で稚拙な表現だと酷評を浴び、失意のうちに復活祭の頃に死んでゆく(《天使の舞う復活祭の祭壇と子羊》など、彼は復活祭をモティーフにした絵も沢山描いている)。黒い馬車で白い彼が運ばれる。その少し前に、穴倉のような場所いる彼を探し、訪ねてきた画家(最初に彼を見出したフランス人)へのことばが心に響いた。「お互い画家として 好きな絵を描くだけ なぜ足を引っ張り合うのか 私は朝の太陽が好きだ 月の光は悲しすぎて… だめだ 私には彼らは理解できん 言葉が通じないんだ」。ピロスマニにとって、ことばは絵ではないから。
 描くことがことばだというこの態度、日々と描くことの密接な関わり、独り…、私はこれらを含めてピロスマニに、その絵に惹かれているが、では去年の夏、はじめて彼の絵を見たときにすでに? わからない、そして芸術に人間を見ることのきりがなさ。早くに両親を亡くした彼が、家族と過ごした時間を、幼年に追い求めたことはなかったか。稚拙といわれる表現には、追憶に満ちた憧憬も含まれていなかったか。映画では、両親から葡萄ジュースをもらう子どもの彼と、和解した姉夫婦(たった一人の身内)と葡萄酒を飲む現在の彼が交錯する。「もはや子供でなくなったとしたら、すでに死んでいるのです」。私はブランクーシのこのことばも彼の彫刻も好きだ。幼年は新鮮な驚きに満ちた美の謂でもある。きりがない。絵から人間が、白い祈りとして流れ出す、とてつもなくざわめく魂、その共振。
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