Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2016-02-25

現世も夜の夢もまこと…、想うことたちが往還するのか

 前回の日記で、愛猫べべの夢のことを書いた。あまり彼女と夢で逢わないような気がする、いやインフルエンザのときに逢っていたような気もすると。
 彼女がいなくなったのが二〇〇四年だからもう十二年になる。けれどもそんなに経っているように思えない。私が彼女のことを想っているからだろう。彼女は想う限り、わたしのそばにいてくれている。
 前回の日記を書き終えて、寝床に入った。その晩に、べべの夢を見た。わたしは普段ロフトベッドに寝ている。これを書いているパソコンはベッドの下にあるので、梯子をつかって上にあがれば寝れる。そう考えると、行動としても、書くという行為と夢、眠りはとぎれることなく繋がっているということになる。これに気付くと、なんだか楽しい。夢や眠りは、もともと書く行為にちかしいから。江戸川乱歩の言葉を思い出す。「現世は夢、夜の夢こそまこと」。彼は夢見がちな幻想にふける子どもだったという。書いたものの世界、想像世界こそがまこと…、わたしは彼のこの言葉が好きだ、喉にひっかかった骨のように大事に想っているが、けれども、それだけがまこと、だとは思っていない。現世も夢ならば、夜の夢とつながっている。どちらもまことなのだ。
 そんなことを考えつつ、ネットで何気に夢にまつわる歌を検索したら、こんな作品に出逢う。

 古今和歌集 巻第十六 哀傷歌 紀友則 作品八三三

 藤原敏行朝臣の身まかりける時に、
 よみてかの家に遣はしける

 寝ても見ゆ寝でも見えけり大方は
 うつせみの世ぞ夢にはありける

 寝ても、寝なくとも、亡くなったあの方の姿が見えます。およそ現世のほうこそ、夢なのでしょう。
 これも、やはり夢と現世はつながっている、ということを教えてくれるような気がしてしまう。どちらも夢だからこそ、亡くなったものたちと会うことができるのだ。
 もっともやはり、この歌も、わたしが感じていることを代弁してくれている、というわけではないのだが。
 「空蝉」(殻から抜け出て飛んで行った蝉という魂とも取れる)という「世」にかかる枕詞を使っていることで、あの世に行った者の方こそが実体で、残された自分たちの方が夢なのではないか、というニュアンスも込めてあるらしいから。
 あるいは、こんな歌。

 うたゝねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき

 (古今和歌集 巻第十二・恋二・小野小町「夢の歌三首連作その二 題知らず」 作品五五三)

 というか、元々この歌は知っていたので、それの正確な出典を知りたくてネットで調べていたら、先の紀友則の歌に出逢った、というほうが正しいかもしれない。わたしは亡くなった父やべべの夢をよく見る。その度に、どこかでこの歌が、頭に響いていたのだった。厳密には、この歌の意味も、わたしのなかで、おそらくわたし流に解釈して、温めなおすうち、どこかなにかがずれてしまっているに違いない。たとえば、この歌の「恋しき」というのとはちがう。けれど、大切な、やはり愛しい、彼らと、夢で逢えることが、それでもうれしいのだ。



 ああそうだ、べべの夢を見た。そのことが書きたかったのだ。
 ロフトベッドで寝ていたら、はしごを駆け昇ったのか、ジャンプしたのか、べべがドスンとわたしの顔近くに突如現れた。昔もそうだった。そんなふうに突如現れるか、もしくは最初からベッドに寝ていて。わたしたちはよく一緒に眠ったものだった。足元にいたり、腕まくらをしたり。わたしのお腹の上で眠ったり(これは少し重いのだが)。そうして夢の中で、なつかしいなと思いながら、腕まくらで眠っているべべの感触を確かめた。わたしは夢だとなかば知っていた。けれども、ひさしぶりにべべにご飯をあげて、トイレの世話をしなければいけないと思った。それをしたら、目が覚めてしまって、べべはどこかに消えてしまうかもしれないけれど、お腹もすいているだろう、トイレも汚いのはいやだろう、そう思って、ベッドの上にべべを置いて、ご飯やトイレの様子を見に行く。もう長いことドライフードも買っていない、けれども台所にはまだドライフードが残っていた。きっと湿気ているだろう、賞味期限も切れているかもしれない、大丈夫だろうか。トイレは…、猫砂を変えたおぼえがなかったが、比較的きれいだった。ああ、もう、彼女はトイレとか、もうしないのかもしれない。あるいはほとんど必要がないのかもしれない。それがかつてと今のちがうところなのだ、わたしはそんなふうに思いながら、ご飯とトイレのチェックをしていた。かつて、生きていた頃と、今とは、そんなことが違うのだ、そこまでは言いたくなかった、それを飲み込むことがどこか哀しかった。わたしは世話がしたいのだ。それもふくめて、彼女と一緒にいたいのだ。
 トイレとご飯のチェックをしてから、おそるおそるロフトベッドに戻った。べべはベッドにいるだろうか。そうではない。べべは今、夢のなかでご飯をたべているはずだから、もう起きている私には戻ってこないのではないか、そんなことを思ったと思う。そう、夢を見ている筈なのに、わたしは目を覚ましているつもりだった。実際、いつものベッドのなかで、目をあけていたような感覚があった。もう目を覚ましてしまった。べべにもう今夜は逢えないのではないか…。
 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
(古今和歌集 巻第十二・恋二・小野小町「夢の歌三首連作その一 題知らず」作品五五二)
 知っていたのに、目を覚ましてしまった。だってご飯を食べないとお腹が空くじゃないか、トイレだって汚いのはいやだろう…。脈絡がとおっていないようだが、夢のなかでは筋が通っていた。ベッドから降りて、ご飯やトイレなどの日常的な行為をする。そのことは通常なら、夢から覚めることだから。
 ほんとうにいつもみたいに、現実のなかでベッドの中でのように目を瞑っていた。するとまたべべがどしんとやってきた。震動として、そう感じただけで音はしない。静かに枕元にきてくれたのだ。わたしはおそるおそる目をあけた。ほんとうにどれが夢なのかわからなかった。そこにはべべがいた。私の顔近くに彼女がいた。頭をなでた。そのまま背中もなでることができた。べべは現実にもいてくれた。これでは本当に今も生きているのと変わらないじゃないか、こんなことがあっていいのだろうか。目を明けても、夢から覚めても、彼女がいる…。いやこんな僥倖は続かないだろう。だからこそ、夢なのだ。まことなのだ。
 わたしは夢のなかでまた目をとじた。べべは見えなかったが(だって目を瞑ったんだもの)、まだ気配が感じられた。少し移動して、今度は足元にいるようだ。足をのばせない、なつかしい重み。わたしはそんなふうに今度はほんとうに眠りについた。そんな気がした。いつもの、いや、かつてべべが生きていたときのように。穏やかな眠りだった。おそらく目をさましたら、今度はリアリティがあるという意味では、べべはいないのだろう。それもどこかで知っていたけれど、概ねやさしい眠りだった。それでもわたしに彼女はいる。わたしのなかで、こんなふうに彼女は生きていてくれる。たまに温かみのある身体をたずさえて。ご飯もたべ、トイレもしにきてくれるのだ。
 そんなふうに思ったかどうか。今度は朝、本当に目を覚ました。枕元にかざってあるべべの写真を見つめた。彼女のぬくもりがつたわってくるようで、それがうれしい。

 その数日後。今度は亡くなった父の夢を見た。厚みのあるバインダー。展覧会情報が書いてある冊子、薄い週刊美術雑誌などが沢山挟まっている。その中に、チケットが一枚、入っていた。家にいるわたしはそのチケットが必要なイベントに出かける準備をしていた。最初、バインダーをそのまま持ってゆこうとしたのだが、重たいなと思って、チケットがはさまっている冊子だけをバインダーから外した。けれどもどうした拍子か、ほかのバインダーだったか書類の束に消えてしまった。たしかその冊子だけ、横向きに挟んでわかりやすいようにしていたはずなのに。このチケットがないと出かけることができない。チケットはなんだったのか、たぶん詩の集まりだ。展覧会ではなかったはず。あるいはその両方があわさったもの。現実的には、チケットといえば、美術関係の展覧会のそれしかないのだが、ある詩関係のパーティに出るかどうか、金銭的なことがあって、考え中で、そのことが頭にあったからだと思う。
 もう何年も会っていない妹が出てきて、チケットを探してくれているが、やはりない。けれども手伝ってくれたお礼にと、ほかのバインダーをもってきて、これ、○○ちゃんが好きなものたちが載っているから…と渡す。ふるい雑誌からひきはがしたものたちが挟んである。
 父がここに出てきて、いっしょにチケットを探してくれる。夢に出てくる父はいつも病み上がりだ。父はわたしが探したはずのところから、チケットを見つけてくれた。さすがだと思う。これで行ける…。その後も続きがあったが覚えていない。
 目が覚めて、しばらくあれが父だとは気付かなかった。というか、当たり前のように父が傍にいたので、ずっと一緒に暮らしていたような感じがして、違和感がなかったのだ。夢に出てくる父は、たいてい、退院したばかりで、ずいぶん長いこと会っていなかった、そんな登場の仕方だった。今回の父はなるほど病み上がりではあったけれど、ずっと病み上がりのまま、わたしと暮らしていたような、そんな感じがした。あるいは、それが心のなかで、父を思っている、ということなのか。父に会いたいな、父としゃべりたいなと、現実のなかで思っている。そうした思いのため、父と日々、過ごしているような錯覚を夢のなかでおぼえたのかもしれない。なんだか禅問答のようだが、ともかく、夢でいいから父に会いたいなと思っていたわりには、父と会ったという感慨がなかったのだった。
 すこしだけ暖かくなってきた。だいぶ沈丁花のつぼみも膨らんできた。猫やなぎだと思っていた、あれは木蓮だったらしい。銀の毛につつまれていたので、勘違いしてしまったのだ。そういえば蕾の付きかたが随分違っていたのに。勘違いがわかって、うれしかった。べべのような毛につつまれた、あれは木蓮。日をあびて。その木蓮の毛につつまれた蕾も膨らんだような気がする。木瓜や梅はだいぶあちこちで咲いている。いつもなぜか一本だけ、数日早く咲くソメイヨシノの木の近くに、満開の梅を見かけた。川のほとりで、桜のように幾分、川に身をのりだして咲いている。かすかな甘い香り。もうすぐ、たくさんの花たちの季節がやってくるだろう。そしたら気持ちもうわむくだろうか。

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2016-02-15

重なった思い出が軽く、明日に押し出してゆく─日本画の革新者たち展、横浜そごう

 年が明けて間がないのに、もうここを空けてしまった。いいわけをするとインフルエンザにかかっていたので。
 高熱が四日ぐらい続いた。わたしは子どもの頃、よく扁桃腺を腫らして高熱を出していた。あの頃もしんどかったはずなのに、思い出としてながめると、楽しいものになっているのはどうしてなのだろう。苦しい、つばを飲みこむのも苦痛だったことも覚えている。だが、学校を休んで寝ているのは楽しかった。おかしくなった三半規管のせいでトイレに起きるとぐるぐる世界がまわっている。身体が熱いのに寒い、吐く息が荒い。めずらしくしんどいなと思ったその先に、ものすごい至福の情景に包まれたことがある。ふわふわとして、見渡す限りの花畑にいて。熱は四十二度にもなっていたのだろう。あとから考えるとちょっと危ない状況だったのかもしれない。
 扁桃腺をはらしているとき、食べ物はほとんど喉を通らなかったが、そんなときにたべるヨーグルトはそれでもごちそうでおいしかった記憶がある。熱があるときにしか食べれないぜいたく品だったから、わたしにとってはハレのものだったのだろう。学校は休みだ。ずっと休みがつづけばいい。
 そんなことを思い出していたかどうか。今回、喉をいためたわけではないけれど、食欲がなかったが、ヨーグルトだけはおいしく頂いた。熱の記憶が身体のなかで重なってゆく。
 高熱が続いたあとだからか、熱がさがっても数日身体がふらついた。体力がおちていたのだろう。またすぐに風邪をひいた。けれども、インフルエンザで5日ぐらいバイトを休んでいたので、もう休みづらく、なんとか出勤していたから、よけい治るのに時間がかかった。結局インフルエンザとあわせると半月ぐらい調子がわるかった。今日になり、ようやくここに書きに来ている。
 その間、風邪のときに、少々しんどかったが、展覧会にいってきた。ちょっと前に格安で手に入れたチケットがあったのだが、会期終了がせまっていたので。横浜のそごう美術館で開かれている「日本画の革新者たち(福井県立美術館所蔵)展」(二〇一六年一月十六日─二月十六日)。






 ここは横浜駅のそごうデパートの中にある。はじめて訪れたのはずいぶん前だ。なんの展覧会だったかも覚えていない。ビアズリーとかだったかもしれない。二十代のとき、多分埼玉からいったのだろう。今はずいぶん埼玉と横浜は近くなったけれど、あの頃は電車もなくてけっこう遠かった。横浜そごうの近くに中華街などへいく水上バスが出ていて、それにも何回か乗った記憶がある。そごうから中華街、山下公園へ。小さな船旅が楽しかった記憶。
 今住んでいる場所は横浜へ行くのはかなり近い。家から数キロ離れた二子玉川駅を利用すれば三十分ほどで横浜へ出れる。その二子玉川駅で、自由が丘方面へ下るのだけれど、昇りの電車が埼玉の川越行きだったので、よけい、かつて埼玉から横浜方面へ出かけた昔を思い出したのだ。なにも昔が良かったとかいうことではなく、こんなふうに昔たちがわたしに増えていっているなと思ったのだ。それが年を重ねてゆくということなのかもしれない。昔たちが重なって今があるのだとぼんやりと思う。
 微熱が出ていたので、電車のなかでは殆ど寝ていた。自由が丘駅で東横線に乗り換え、横浜駅まで。そごうはほとんど駅と直結しているので、迷わずに行ける。方向音痴の私が安心して出かけることのできる数少ない場所だ。水上バスがまだあるなあと、それだけ確かめる。体調があまりよくないこともあり、水上バスに乗ることは考えていなかった。わたしの好きな海の近くにいるというのに。せめてあとでそごうの屋上へ行くか。たしか海が見えたはず。
 さて、展覧会。
 チラシや紹介のHPなどから。
 「そごう美術館は新たな取り組みとして、日本各地の美術館の名品を紹介するシリーズをスタートします。その第一弾となるのが福井県立美術館の所蔵品展です。一九七七(昭和五十二)年に開館した福井県立美術館は、福井藩士を父に持ち、横浜に生まれ育った岡倉天心ゆかりの初期院展作品を主に、福井県に関連する作家作品など貴重なコレクションの数々を所蔵しています。
 本展では同館所蔵作品から、「日本画の革新者たち」をテーマとし、明治期の美術界を牽引した天心率いる日本美術院の作家たち、横山大観、菱田春草、下村観山、木村武山らの屏風を中心とした名品の数々、戦後日本画の新たなる表現に挑戦した横山操、加山又造、三上誠などの作品、さらに江戸時代初期に福井の地で多くの代表作を手掛けた、奇想の絵師として人気を集める岩佐又兵衛の逸品など約六〇点を展覧いたします。」 
 実はあまり期待していなかった。けれどもHPにあった出品目録をみると菱田春草のほかに速水御舟、奥村土牛など、わたしが好きな画家の作品があった。それでゆくことにしたのだ。
 実は、出かけてから、これを書くまで、日数が経っているので、あまり覚えていない。というか、たしかに期待していなかったのがあたっており、感動したという作品が少なかったのだ。けれどもなんとなく出かけてよかったという妙ななつかしいような、人なつっこいような穏やかな記憶が残っている…。
 菱田春草(一八七四─一九一一年)の作品は、どれも菱田春草展(二〇一四年九月二三日〜十一月三日、東京国立近代美術館)で観た記憶がある。《温麗・躑躅双鳩》(一九〇一年)、そして《海辺朝陽》(一九〇六年)。これは岡倉天心に連れられ、ヨーロッパで展覧会をした後の作品だそうで、どこかホイッスラー風の海が温かく淋しい。朦朧体とよばれた作風のなかで、くすんだ色がなくなり、透明度をよりました作品だそうだ。そして目玉の《落葉》(一九〇九〜一九一〇年)。これは菱田春草展では、それほど感動した覚えがないのだけれど(あるいはあそこはほかに興味をひくものが多すぎたからかもしれない)、今回は特に心に残った。落葉が降り積もった地面は後ろにゆくにつれ、背景にとけてゆく。木々は多くは輪郭がなく幹だけ。その幹もまた後ろのほうでは、霧のなかの風景のように薄くなっている。アクセントのように二本の木だけがくっきりと葉が丹念に描きこまれている。一本は柏であろう。虫の喰った葉、やぶれた葉までが美しい。写実と装飾性の融合。そして背景のほう、落葉や薄くなってゆく木のほうへ、霧のむこうへ、おそらく幻想のほうへ、みているうちにひきこまれそうになる。それが心地よかった。
 岡倉天心の生没年は一八六三年─一九一三年。十一歳年下の菱田春草は尊敬する師である岡倉天心よりも二年早く没している。そのことに改めて気づく。三十五歳という若さで亡くなった彼を、やはり大切に思っていたであろう岡倉天心はどんなに哀しんだことだろう。
 そして、出口近くで、岩佐又兵衛の展示。絵に関してはとりたてて思うことはなかったけれど、略歴を見てすこし驚いた。天正六(一五七八)年─慶安三(一六五〇)年。織田信長に反旗を翻した荒木村重の子どもだという。もともと歴史は好きだったので、荒木村重の名前にはなじみがあった。その子ども、荒木一族が殆ど殺されたなかで、数少ない生き残りである人(当時二歳だった)の絵を、こんな風に見れることに感慨があった。それは物語世界に生きる、いにしえの人の生きた証だった。物語のなかで、歴史のなかで、彼は確かに生きている。けれども、さらに重層的に、彼はわたしに、生きた人物として何かをつきつけてくるのだった。
 展覧会会場を出る。六階だった。美術工芸品や食器などの売り場でもあるから、ラリック社のガラス製品が売っているコーナーに足をむける。ルネ・ラリック(一八六〇─一九四五年)のデザインを踏襲した現代のガラス製品たち。香水瓶、グラス、花瓶。現在ポシェ社の傘下だというがよくわからない。ラリックが生きた時代のガラスたちに思いを馳せる。彼の何かが今も生きている、そう思ったかどうか。
 それからエレベーターに乗り、屋上へ。中途の階にいると、なかなかエレベーターは来ないものだが、すぐにきたので、そのことに驚く。四時ぐらいだったろうか。殆ど誰もいない。子ども広場や自販機があるコーナー、岡本太郎のオブジェなどもあったが、閑散としていて、それらを楽しむ雰囲気はなかった。だがたしか、かつて来た時もそうだったと思いだす。おまけに以前きたときは雨だった。よけいにさびしく、だいいち屋上からみえる海も、あのときは雨のなかで灰色だったではないか。
 海はどこに見えるのだろう。屋上は意外と広い、ともかく縁をめざす。ようやくあった。ガラスの塀ごしに海が見える。出かけた日は曇り空だったが、この時は、すこしだけ晴れ間が見えている。以前みた、灰色の海、灰色の空を思っていたので、それでも青い海、まだ夕焼けは始まっていないが、そろそろ暮れに近い鮮やかな概ねの青い空と明るい雲、水上バスが割ってつくる水尾のしぶきなどに、うれしい驚きを感じる。思い出が今に重なってゆく。そうして重層的になってゆく。それが今を生きるということなのだろうか。あるいは過去を生きるということなのか。あるいはもし明日があるなら、明日のわたしを生きることになるのだろう。



 次の日(明日、と書いて、これもまた変だけれど)、家の近くのお宅の窓辺に、わたしと二十年近い時を過ごした愛猫べべにそっくりな猫が座っているのを見た。べべのような模様。べべはこんな風にわたしに生きている。そして今日、また別の家の庭で、梅が咲いているなとぼんやり眺めていたら、ヤツデの花が咲いている…というのか、実になってゆく途中なのを見た。ヤツデは近頃、あまり見かけない植物だ。けれどもわたしが子どもの頃、家に生えていたので、見かけるたびに、子どもの時分のこと、おおむね亡くなった父親のことを思い出す。父は植物を多く育てていたから、植物たちに個々に父との思い出はあるのだが、特にヤツデは、父が育てていた頃以降、あまり見かけることがないからか、父と直結した思い出となっている。
 そういえば、この頃、父の夢もべべの夢もあまり見ないなと思う。あるいは見ているのに覚えていないのだろうか。いや、べべの夢はインフルエンザの時にみたと思いだす。過去たちが積み重なり、彼らがわたしにやってくる。それは死者だけでないのだろうけれど、思い出すのは死者ばかりだ。思い出たちは重くない、おおむね軽く、わたしもまただんだん軽くなってゆくようだ、そう、病み上がりの幾分重い身体をひきずるようにしながら、思っている。
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