Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2016-10-25

はざまに海はあるのだろう─北斎漫画展(茅ヶ崎市美術館)

 何かないだろうか。カタログをめくるように。ウインドーショッピングをするみたいに。オークションサイトで展覧会のチケットを探していた。展覧会情報が掲載されたサイトもあるのだが、たとえばデパートでの展覧会などは、載っていないことがあるので、
それを補てんする意味もある。先月に行った「ガレとドーム」展は、実はそこで知り、券を入手した。ちなみに大きな展覧会などは、概して前売りと値段がほとんど変わらないことが多いので、券を購入することはほとんどない。
 何かないだろうか…。探すのは楽しいといえば楽しい。いいのがあると思って、券の詳細情報を開くと、関西だったり九州だったり。そんなことも含めて楽しい。けれどもやはり、思いがけず、ゆけそうな展覧会に出逢ったときのおどろき、嬉しさはひとしおだ。
 そんななかで、「北斎漫画展 画は伝神の具也」(茅ヶ崎市美術館、二〇一六年九月十一日─十一月六日)を知った。数カ月前に、太田記念美術館で似たような展覧会に行ったではないか…。そうも思ったけれど、気付いたら入札し、落札していた。茅ヶ崎市ということで、海が近くにあるのでは、そう思ってのことだった。たとえば横須賀美術館を思い浮かべる。海に面して…。
 電車でも行けるところにあるようだったが、車で連れてってもらった。土曜日。朝は仕事だが、次の日曜は休み。半ドン、休日前の一日に。
 茅ヶ崎ということで、昼ごはんに魚料理でも食べようと思ったが、いろいろあってあてがはずれた。候補をピックアップしたのだけれど、食べ放題だったり、見つからなかったり。そして、美術館にゆく前の道は、地図上では、海の近く、海に面した道はこれしかないのだが、防風林なのだろうか、木々にはばまれ、海がほとんど見えない。防風林がとぎれる、人が通るための小道のむこうに、ようやく海が見えるだけ。
 仕方なく、昼(海も)はあきらめ、美術館にまず向かうことにした。時間は午後二時ぐらいだったか。美術館のなかにカフェスペースがあった。かわいらしいランチがあったので、そこでまず腹ごしらえをすることにした。和食なのだけれど、きれいな擦りガラスの箱に入っている。テーブルにはガーベラと一緒にワレモコウの花。早朝バイトは基本、肉体労働なので、ランチのご飯はすこし少なかったけれど、悪くなかった。二階だったが、そこから見えるのは、海ではなかったが、茅ヶ崎市美術館の庭園。木々がみえる。紅葉の頃は、もっと鮮やかだろう。悪くなかった。
 お腹がひと段落したところで、展覧会へ。入口でチラシとリストを貰う。チラシやHPから。





 「「画狂人」と自称した江戸の浮世絵師・葛飾北斎(一七六〇─一八四九)の生涯はまさに創作の連続でした。狩野派や唐絵など伝統的な絵画様式を学ぶ一方、西洋絵画からも刺激を受けて自らの芸術の糧として吸収し、市販品である錦絵では役者絵、美人画を手がけ、花鳥画や「冨嶽三十六景」に代表される名所絵など新たなジャンルを開拓しました。また、一点物の肉筆画や、一部の好事家向けの摺物などにも優れた作品を残し、曲亭馬琴らの読み本の挿絵、数多くの門人のために描いた絵手本も充実しています。
 森羅万象を描いたと言われる北斎の画業の中でも「北斎漫画」の存在は特に際立っています。「北斎漫画」は一八一四(文化十一)年名古屋の版元永楽屋東四郎(東壁堂)から出版され、高い人気に支えられながら一八七八(明治十一)年までの長きにわたり全十五編が刊行されました。活き活きとした人物表現、ユーモアに満ちた内容、独自の視点に基づいた構図など「北斎漫画」の魅力は当時のヨーロッパにも伝わり、彼の地のジャポニスム・ブームの起因のひとつとなりました。
 本展では、世界一の質と量を誇ると評価される「北斎漫画」コレクター・浦上満氏のコレクションを収蔵する公益財団法人山形美術館から作品をお借りし、現代の絵画にも通じる「北斎漫画」の魅力を紹介いたします。あわせてジャポニスムの影響を受けたヨーロッパのガラス工芸品(ポーラ美術館所蔵)も展示し、北斎の画業を多角的に検証する機会といたします。」
 太田記念美術館「北斎漫画〜森羅万象のスケッチ」(二〇一六年七月一日─七月二十八日)のことを書いたときに、「北斎漫画」については簡単に触れているし、この紹介文でも書かれているので、多くは語らない。だが、今回、あらためて教えられたのだけれど、全十五編のうち、十三篇(嘉永二(一八四九)年)までが北斎存命中に刊行され、十四篇(刊行年不詳)は北斎の遺稿をかき集めての刊行、十五篇(明治十一(一八七八)年)では遺稿のほか、他書からの転載、さらに他の絵師が北斎風に描いたものなどが載っているのだとか。
 先を急ぎ過ぎたようだ。展覧会入口へ戻ろう。
 はいってすぐに、なんとなく心がさわぐのが感じられた。実は「北斎漫画」、好きなのだが、肉筆画や浮世絵に感じるような、衝撃的な出逢いはないだろうと思っている。それがわかっているから、今回も一瞬、来るのをためらったのが、それでも北斎作品に出逢えるのがやはりうれしい。
 それは画集や複製に感動的な出逢いを感じないことに少し似ているだろう。それを感じるのは、生の作品にだけ…。だから画集や複製などは、生の作品に出逢ったときの感動のよすがにするために手もとに置いている。頁をひらく。作品との邂逅の時間を想う。
 『北斎漫画』も、わたしのなかでは、どちらかというと、そんな画集的なニュアンスがあった。実際、絵手本、画集、スケッチ集、当時もそんな要素があったのだろう。
 だが、入ってすぐ、まず、古くなった紙の色合いに、時を隔ててあることに対する畏敬の念のようなものを感じた。それがここにあることを喜ぶ自分がいた。そうしてかつての絵本たちをこうして見れることを。『北斎漫画』は刊行順に展示されていた。初篇(文化十一(一八一四)年)から。よく判らないけれど、刷りの状態が、以前みたものたちよりも、総じていいような気がする。古びた紙のなかで、線がくっきりと目立つような気がした。
 ここに至るまでの年月を想いながら、当時をも感じること。北斎の描いたものたちが、静かに、おだやかに、そして真摯に、問いかけてくる、それがやさしかった。鳥、動物、植物、市井の人々、風景。
 なるほど、衝撃的な、ということではないけれど、満ちてゆくような、やさしいものを感じている自分がいた。会場が静かだったこともうれしかった。そういえば、このコレクションは、うちにある青幻舎から出ている『北斎漫画』(一〜三巻)の文庫本の底本も提供しているそうだ。うちには二巻と三巻しかないけれど。それでも、なぜか図録を買ってしまった。文庫よりもすこし大きなサイズで、余韻を楽しみたかったから。
 何点か、個々に気にいった作品があった。四篇(文化十三(一八一六)年)の「満月」、木の幹のあいだから大きな月がしずかに輝く。明るさがつたわってくるようだ。おだやかに夜を、けれども、くっきりと照らして。
 十三篇の「虎の水浴び」は、滝に身体を浸し、気持ちよさげにしている虎。ほとんど猫のような表情で、愛らしくさえある。ちなみに十四篇に「猫」として、鼠を加えている三毛猫の絵もあったが、こちらのほうが不気味で怖い。そして十三篇に戻って「走る虎」。この絵はわたしの好きな肉筆画の《雪中虎図》(一八四九年)に似ている。「走る虎」とあるけれど、風のなか、モミジたちが舞う秋の空を、飛ぶみたいだ。書かれた時期も《雪中虎図》と、おそらくそれほど隔たっていないだろう。けれども《雪中虎図》のほうが、もっと虎の肢体が全体的に上向きで、毛が柔らかい感じ、そして雪のなかを、夢見るように飛んでいるように見える。そして雪は降っているのだけれど、風はあまり感じられない。「走る虎」のほうは、走っているから風が感じられるのかもしれないが、まだ現実に近い気がする。現実に風をうけて走っている、あるいは浮かんでいる。現世に近いというべきか。《雪中虎図》のほうは、亡くなる三カ月前の作品だということがわかっているからか、どこか、もっとあの世的なものに近いような静けさがあるように感じてしまうのかもしれない。だが、どちらも飛ぶ虎だ。わたしのすきな北斎の虎だ。ここで「走る虎」に会えてよかったと思う。
 ほかにも鷹や波に会えたことがうれしかった。波が感じられたことが。二篇(文化十二(一八一五)年)の「夢を食う獏」のイノシシのような姿。この獏は、実際の獏ではなく、中国由来の空想上の動物。ただ、「悪い夢を食べてくれる」というのは、日本に伝わってからのことらしい。夢を食べてくれるからこそ、すこし勇ましい感じ。それは空想であると同時に現実味を帯びた姿としてそこにあった。
 空想や想像、そういえば虎も北斎はおそらくその姿を見たことがなかった筈。そんな連想は、あの場で感じたか、あとで思ったのか…、象の姿にも、結びついた。八篇(文化十四(一八一七)年)の「群盲象を撫でる」と、十三篇の「象の手入れ」。少し調べたが、実物を見たことはないようだ。けれども他の動物たちの描写、図などを参考に描いたであろう象は、皺がよったところといい、長く伸びた鼻といい、本物の象らしいところがあるが、大きすぎる体や蹄のある足などから、どちらかというと空想上の動物なのではと思わせるところと、混在している。けれども、その筆力のせいなのか、それでもやはりリアルなのだ。おそろしげであると同時に、どこか淋しいような表情とともに。とくに十三篇のほうの「象の手入れ」の象が、静かで哀しい。哀しいといってもそれは、殆ど気配にすぎないのだけれど。その気配が、やさしいのだった。
 空想や想像上といえば、十四篇「飛び上がらんとする獅子」も心に残った。狛犬のような獅子がやはり北斎の「走る虎」のように横向きで、今にも飛ぼうとしている。それはちょっと猫が獲物をねらう風でもある。飛ぶことと飛びあがろうとすること、空想と現実、それらの狭間にある獅子。
 こんな狭間に詩はあるのでは…。最近、参加した詩誌へのアンケート欄に、詩の原点について聞かれる項があった。この獅子や虎、獏を想起したりする。こんなふうに、なにかたちは狭間でつながっているのかもしれない。
 ふるびた茶色いシミもみられるいとしい和紙のぬくもりを感じながら、美術館を後にした。
 帰りは、また海を求めて。車で、しばらく家とは反対方向になる道を走ってもらったが、防風林ばかりで海は見えない。この緑の向こうに海はあるのだが。あきらめてUターンし、ほんとうに帰路へ。海は、さきほど、展覧会で、『北斎漫画』のなかで、見ることができたから、いいか。そう思う心が穏やかだった。
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2016-10-10

川の水が滲みてゆきますように

 もうひとつ、展覧会に出かけていた。でも半月以上時間がたっていること、最近いったエッシャーやガレとドーム展よりも前に訪れたのだが、それらよりも印象がうすかったこともあり、なんだか、もう書く気がなくなってしまった。それでも行ってすぐだったら何か書けたような気がする。ほとんどがわたしの怠慢のせいだ。
 
 このごろ、うちの裏の道をとおって、早朝バイトから帰ってくる。そして特にうちの近くになると、その道と平行に走っている、もう一本、家からは離れた道を通るようにしている。どちらも細い道なのだが、その間に、小さな小川が流れていて、それをみるためだ。家の近くの道からは、段差があったり、小川と道の手前に家があったりで、見えないから。
 見えないのだが、うちのベランダ下の細い道の向こう、あの家の奥に小川がある、そう思うとなんだかうれしい。





 ベランダの真下には、道をはさんで、小さな公園が見える。この公園は数年前に出来た。コンクリートなどが敷き詰められており、すこし味気ないような気もするが、公園があるのはそれでもなんとなく楽しい。初夏には、見事な藤が咲く。もうそろそろ終わってしまうが、この季節だと公園が出来たときに植えられたであろう金木犀。あと何年かしたら、もうすこし大きくなるのだろう。そうしたら、もっと香りが楽しめるだろうか。
 公園には、人工の湧水池がある。もともと、本当に湧いていたらしい。今も地下水位があがると水がたまると説明がある。どうも先の小川とも関連があるらしい。小川もまた、よく涸れているのだけど、最近は雨がおおかったせいか、また川として流れている。この小川に水が流れていると、公園の泉も水がたまっていることが多い。どちらも地下水位と関係しているということなのか。
 その小川、春から夏のあいだは、みごとに涸れていた。いや、冬もそうだった。小川というより草のはえた道だった。わたしはすっかり、川だということを忘れていた。立て札などもあるのだが、もはや字が読めない。川の遺構だと思ってすらいた。かつて川だったもの…。
 公園の泉のほうは、ほぼ毎日のように様子を見ていた。今日もカラ、今日もカラ。けれども、この夏の終わりからの雨の多さのせいか、泉に水が湧きはじめた。水たまりと違って、単純に雨が池に降ったから、溜まったというのではなさそうなのだが、詳しくはわからない。けれどもともかく泉というか、池らしくなっている。
 小川との関連はそれでも経験的に知っていたので、泉の水があるのを見て、様子を見ることにした。うちの前の小道から一本だけ向こうの小さな道。小川は公園の中で暗渠になる。公園の下を流れている。だから公園から出ると、一瞬だけ復活する。コンクリートの溝のなかにそれでもきれいな水が見え、また地下に潜る。ただそのすぐ先に、一級河川(野川)がながれているので、おそらくそこに合流しているのだろう。
 早朝バイトからの帰り、毎日、小川の様子を見ていると書いた。わたしはほんとうに水が好きなんだなとしみじみ思う。小さい頃から、川や海が好きだった。
 この小川、清水川という名前がある。立て札からは名前がわからなかった。泉の由来の方に名前があった。ともかく名前を知って、うれしく思う。水は意外なほどきれいだ。湧水由来だからだろうか。



 隣町からながれているらしい。先日、この小川の名前のついた公園を隣町でみつけた。まるっきりの暗渠、緑道のような公園だった。けれど、この下に、家の近くの川とおなじ流れがあるんだろうなと感慨にふけった。そういえばわたしが生まれそだった家の近くにも川が流れていたが、今は暗渠になっている。そのことを思い出しもした。
 緑道は中州のようだった。いっそ、この暗渠をたどって、家に帰ろうかと思ったが、公園が尽きたあたりから、すぐに道が判らなくなり、断念した。二股に分かれた、どちらの道の下にも、川が流れているようで。
 かわりに、家の近くで、暗渠だったところから、小川が現れる場所だけは確かめた。噴水のように、四つ辻から、温泉か何かのように、突然、水がごぼごぼと噴き出して登場する。家の前の公園までの距離は二百メートルほどでしかない。今、地図で調べたけれど、川としての表示もない。ただうちの前の道と一本向こうの道のあいだには、家が立ち並んでいるだけ。



 こんなに澄んだ水が流れているというのに。白粉花がそろそろ花の時期を終えつつある、彼岸花ももう終わり。それらとともに流れる水、僥倖のように、まぼろしのように、けれどもたしかに流れる水があるというのに。
 わたしは、ほとんど夢みるように、誘われるように、毎朝、というより毎午前中、川を見ている。長い雨がすこしだけひと段落したからか、水量が幾分減っている。泉もまた、水位が低くなっている。また幻の川になってしまうのだろうか。おそらく、冬までには。だが、さっき眺めた地図によると、隣町の公園とうちの近く迄の間に、明らかに清水川だと思われる水の流れ、水色の小さな蛇のようなしるしがあった。さらに道を数本、遠い、思いがけない場所だった。というより、訪れたことのない…。どうしてこんなにわくわくするのだろう。近々行ってみようと思う。そう思うだけで、心がさわぐ。わたしのなかの水が、波紋を起こす、ゆらぎとなる。どうして、こんなに水が好きなのだろう。



 次の日、バイトの帰りに地図にあった川らしき場所を探した。その前に神社や古墳の跡を通った。神社の緑はどうしてこんなに静かなのだろう。通り過ぎただけだが、空気が違う。凛としている。古墳はこのあたりをおさめた豪族のものらしい。六世紀ぐらいだろうか。こちらも小高い小さな林といった趣きだが、別の神社と隣接しているからか、やはり空気が違う。最近は雨が多かった。雨がなくとも曇りばかりの天気だったが、この日は晴れている。けれども陽射しの勢いが真夏ほどではない。暑いが焼けつくようではない。そのことにほっとしつつも、淋しかった。こんなふうに秋はくるのだ。古墳のへりに生えていた彼岸花もその花を終えていた。
 さて、目当ての地図に載っていた川だが、こちらはコンクリートで三方を覆われた小さなものだった。そして意外だったが涸れていた。地図に載っている方が涸れているのが皮肉だと思う。もしかすると清水川ではないのかもしれない。涸れているから、そう思っただけではない。近くではあるのだが、道を数本隔てているので、暗渠でつながっているとはどうも思えなかったのだ。このあたりはいろいろな小さな流れ、用水路などがあったらしいから、別の流れなのかもしれない。たとえば、この近くの次大夫堀公園の堀などもそうだ。こちらは流れを復元して、公園内を流れている。
 涸れた川を確かめてのち、またいつもの清水川へ。今日もまだ水があった。立て札に何て書いてあるのか、知りたいと思ったが、消えてしまっていて、やはりわからない。また少し水位が下がっている気がする。泉もそうだった。
 それを残念に思いながら、それでも流れる水、そこにある水を見つめている自分が、どこか旅先にいるような心持になっているのが妙だった。妙であると同時にしっくりした。愛しむような気持ちは、水に対してだったが、その愛しさが湧きあがってくるその心持が、旅先でのようだということか。こうした心持が、日常的な行動のなかにあるのが妙だと思ったのかもしれない。バイトの帰りに。その妙さを、さして驚きもしなかった。それも妙だったが。おおむね静かで。明日もたぶん、神社の森を見て、清水川の流れを確かめるのだろう。日常と非日常のあいだを流れる…といったら、あたりまえすぎるだろうか。

 これを書くために、泉の脇に置かれた説明文を読んだ。〈この場所は府中崖線の崖下にあたり、湧水がしみ出る場所でした。近年の都市化に伴い、水量は少なくなってきましたが、今でも地下水位が高くなると湧水を見ることができます。この公園の湧水地は地域に利用されていた記憶を再現し、地域の特徴を伝えるため湧水地として整備しました〉。
 ごめんなさい、あまり詳しく書きたくないので、引用はこのあたりにする。ただこの川の水源地のことが載っていたので、そのことを書きたかったのだ。やはり隣町、この川の名前のついた公園があるといったが、その隣町のお寺にある池だそうだ。このお寺の池、最近川と関係なく見にいっていた。あの池が…と少し驚く。水が水を呼ぶのだろうか。やはり旅先のような気持ちと、お寺に隣接した場所だからか、囲む木々に森閑としたものを感じながら。そのときの想いが、あの川や古墳を前にした思いたちと重なる。こうして場所たちもわたしのなかで重なってゆくのだろう。水がしみてゆくように。


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