Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2016-11-25

泥のうえにあざやかさが息づく秋だ ─円山応挙



 まだ本調子ではないのだけれど、心に泥のようなものがたまってゆくようで、それを掬いとるために、視覚的にうつくしいものをみにゆきたいと思った。書物は泥がへってからしか、心にひびいてこない。あのうつくしい、なれしたしんだ世界から、ずいぶんはなれてしまっている気がする。泥たちが重い。それはかわいた泥だ。辺りを覆ってもいる。わたしは泥ごしに世界と対峙する。
 だが、そう言い切ってしまうと、泥がかわいそうだ、とも思う。泥によって植物は根を張ることができるのだ。そして泥の下で、死者は眠る。焼き物もまた泥から生まれるのではなかったか。

 何を書いているのだろう。ともかく、このままではあまりよくないなと、重い腰をあげて、美術館にでかけてきた。近場といえば近場。けれども自宅最寄駅へすら、この頃は足を向けることがなかったから、電車に乗ることが、しんどく感じられた。その行為が、おっくうで、電車に乗っている自分を思い浮かべることが、なんというか、遠かった。よく駅にゆき、電車に乗る元気があったなあと、ぼんやりと思ったり。
 出かけてしまえば、なんていうことはないのだけれど。



 この展覧会はどうやって知ったのだろう。覚えていない。ふっと降りてきたような気がする。まさか、だけれど。美術館でチラシか何かでみたのでもない。ネットで検索したおぼえもない。ただ、気付いたら、それ目当てでオークションサイトでチケットを探していた。あいにく値段が殆ど当日券と変わらないようなチケットしかなかったので買わなかったが(ちなみに、それは落札されたらしい。送料も考えると、どうして売れるのか解らない)。
 ただこの頃、体があまり動かないので、前もって券を買っておくのはいいなと思ったのだ。券が手もとにあれば、行かなければ無駄になるからと、行くために背中をおしてくれるものとなる。
 そうこうしているうち、家のちかくでも、葉が色づいてきたのに気付く。黄色や赤、そして落葉のうえをかさかさと歩く感じ。外に咲く花たちはすくなくなってしまった。そんななかで、ふと思い出したのだ。ああ、あそこの美術館は庭園がきれいだったなと。今なら紅葉が楽しめるだろう。げんきんなもので、それが券のような後押しとなった。いや、券以上に、やさしい手となったのだった。





 美術館は根津美術館、展覧会は「円山応挙─「写生」を超えて」(二〇一六年十一月三日─十二月十八日)。
 〈 円山応挙(一七三三〜九五)は、「写生」にもとづく新しい画風によって、日本の絵画史に革命を起こした画家です。そんな応挙の「写生画」は、超絶的かつ多彩なテクニックによって支えられています。しかし近年、写生ないし写生画という言葉だけではとらえきれない応挙の多面性、作品世界のバックグラウンドが指摘されることも多くなっています。
 本展は、応挙の生涯を代表する作品の数々を、根津美術館の展示空間の中であらためて見つめ直そうとするものです。あわせて、さまざまな可能性を秘めた若き日の作品、絵画学習の痕跡を濃厚にとどめた作品、そして鑑賞性にも優れた写生図をご覧いただきます。「写生」を大切にしながらも、それを超えて応挙が目指したものは何だったのかを探ります。」
 円山応挙。彼をしったのは、たとえば府中市美術館などでみた犬の絵や虎の絵でだ。ほかでも見て、それがわたしの中で積み重なって、知らないうちに好きな画家のひとりとなっていった。
 彼の時代背景や、当時の「写生」がどうであったか、円山応挙にとってそれがどういうものだったのか、実はよくわかっていない。知識としては、展覧会会場で説明されていたので、いちおうの理解はできたのだが、実感として伝わってこないのだ。もっと調べなければならないのだろうが、この実感の希薄さもまた、絵自体とそれをみるわたしたちの歳月の隔たりなんだろうと思う。いわく、伝統的な文人画家たちには、「形似」を求める「写生」は、図であり、絵(画)ではないと批判されていたこと、京の人々からは受け入れられていたこと、そして「気韻生動の如きは、写形純熟ののち自然に意会すべし」と円山応挙自身が言っていたこと。時代が実証を重んじ、科学的な視覚の在り方に敏感になっていたという背景…。応挙が写生を前面におしだしてきたことは画期的ではあったが、宮廷画家としての側面があったことから、旧態前の世界にも足をひたしていた、しがらみのなかでの新しさであったこと…。
 めずらしく、絵についての個々の感想をまえに、あれこれ書いてしまっている。そう、絵を前にしても、これらの当時の背景は、今のわたしにはぼんやりとしかわからなかった。ただ、「気韻生動」(*)的なものは、作品から、感じることができたと思う。

(*)「気韻生動」は、中国絵画の理想を表した言葉。《古画品録》序の六法の第1にあげられ,対象の生命,性格が画面にいきいきと表現されること。時代により多少変化し,北宋の郭若虚によって,気韻は題材の如何にかかわらず,作家の人格が画面に反映するものであると規定され,これが文人画の主張の中核となって,明清時代まで受け継がれた。(百科事典マイペディアの解説より)

 作品をみてゆく。まずチラシにもなった《藤花図屏風》(六曲一双 安永五年(一七七六) 根津美術館蔵)。金地に描かれた藤。花房は緻密に描かれているけれど、葉や幹や枝は付立てという、輪郭線のない技法で描かれ、濃淡で影や立体感を現している。たしかキャプションには、いまの金とむかしの金は意味合いが違うとあったように思う。薄暗がりのなかで幽玄にひっそりと輝く金、朝日をあびて輝く金、曇り空でにぶい光を放つ金。金は電灯やネオンのない時代、もっと繊細なものだったと。うろおぼえで、もしかすると勝手なことを書いているかもしれないが。
 ともかくそんな金地が、陽射しのように感じられた。そして写実的な写生ということからすると、藤の花房の描き方は納得できたが、枝や葉については、そうでないような気がした。輪郭線のない、濃淡であらわされた曲がった幹。だが、それが不思議と生き生きとして見えたのだ。そういえば、写実的だという藤もまた、実際の花よりも長細く描かれているが、そのことは気にならない。逆に画面にぎりぎりの均衡の効果を与えているようだった。陽射しのなかの満開の藤。



 《雪中水禽図》(一幅 絹本着色 安永六年(一七七七)個人蔵)。雪の積もる水辺に降り立つ鴨、岸に休む鴛鴦、水に浮かぶ鴨、氷の上で眠る鴨、水中に頭を潜らせる鴨など。墨でえがかれているであろう松や岸、そして水にうっすらと張った氷たちが、なぜかその薄さのせいか、あるいは色合いのせいか、木々と土と水が、連続して感じられた。対比的に色鮮やかな鴨たち。鴨のあいらしさ、愛しさ。けれどもこれは写生ではないだろう。個々の鴨たちは写生かもしれない。だがこんなにひとところに鴨たちはなかなか集まらないだろう。そうも思うが、絵画的な写実として、心にしみた。氷のわれそうなはかなさとともに。



 写生といえば、《写生図巻》《写生図帖》《写生雑録帖》等、実物写生を清書したものの展示があったが、特にそのなかでも《写生図巻》(二巻 紙本着色 写生年/明和七年─安永元年(一七七〇─一七七二) 株式会社千總蔵)が鮮やかだった。紅葉したさまざまの葉、枯れた葉と鮮やかな実のサンザシ、ヤブコウジ、盛りの花のシュウカイドウ、《雪中水禽図》で観たような鴨、この会場にあった《木賊兎図》のような兎たち、これらが生き生きとそこに息づいてみえたのが、驚きだった。こんなに賑やかに生を感じさせる写生があるなんて。



 たとえば、こうしたことが〈気韻生動〉なのかしらと、ぼんやりと思う。あるいは《龍門図》(三幅 絹本着色 寛政五年(一七九三) 京都国立博物館蔵)。
 三枚の鯉の絵、左右二枚は波紋をたてて泳ぐ鯉だが、真ん中の一枚は、滝を現す縦の直線のあいだを楕円の、まるで動きのないような鯉がおり、それが滝登りをあらわしている。そのほとんど静なような描写で、滝が落ち、そして鯉が登るという、動をあらわしている、その均衡にひかれた。そして真ん中のそれはとくに写生ではない。というか、写生や〈気韻生動〉というのは、対象と作者の生が出逢ってはじめてなりたつことなのではないかと言ってみたくなる。その出逢いの場で、対象にどちらかというと、傾倒しているのが左右の鯉の図、そして作者の個性が色濃く現れているのが、真ん中の滝登りではなかったかと。三幅で、ひとつの広大な宇宙をつくっているようでもある。



 ほかにも、何点かひかれた作品があったけれど、省略する。ところで美術館内で展覧会会場を移動するとき、大きな窓ガラスから見えた庭園は、まさに紅葉の見ごろだった。日が暮れるのが早くなってきたから、とりあえずミュージアムショップにゆく前に、庭へ。水辺に鴨、そして鯉。苔むした岩にかざられたように落ちている葉、真っ赤なモミジたち。足にかさと音をたてる葉。写真をとる人たちの静けさ。水がながれる音。円山応挙の描いた世界たちと、つながっているようで、不思議な気がした。わたしはどこにいるのだろうか。これもまた展覧会の一部のような気がしたし、これがわたしの写生なのかもしれないとも思った。こうして景たちを感じること、そして感じたことを、言葉にすることが。そこには応挙を感じることも含まれていただろう。それが彼の絵とわたしの間を隔てる時間を、またぐことになるだろう。
 ミュージアムショップに寄ったが、図録は心惹かれたが、手元不如意だったから、購入しなかった。一通り見渡してから、外に出るともはや夕闇。庭園ではまだ昼の気配が残っていたというのに。そして外はさんざめくような都会の街だった。差異に慣れないような心持で駅に向かう。だんだんこうした賑やかさから心が離れてしまっているようだ。これが最後と色づく葉、ギイギイと無くオナガやヒヨドリ。今はこうした賑やかさのほうがいい。泥のうえにあざやかな落葉のかさかさと。



23:37:49 - umikyon - No comments

2016-11-05

いったりきたり。帰ってはここにいる

 また少し、甲状腺の調子が悪い。まあ、それはおいておこう。
 久世光彦(一九三五─二〇〇六年)は『一九三四年冬─乱歩』で初めて知った。文庫版が出た時に、書評か何かで知ったのが最初だと思う。だから、演出家として有名な方だが、私のなかでは小説家。その後に読んだ『聖なる春』『はやく昔になればいい』は、大好きな本だ。
 彼のエッセイ『ニホンゴキトク』(講談社文庫)を最近読んだ。失われてゆく言葉たち(すがれる、花柳病、時分、にび色)を静かに送る、昔は良かったと振り返るわけではない。幾分それも混じっているだろうけれど。寂しげだが、淡々と、遠巻きに供養をこめて眺めている。
 この本を読んで気付いたことがある。最近、BSなどの再放送で、時代劇をみることを好んでいる。真剣にではない、息抜きに、ひとりで食べる食事時に、BGMのようにみたり。「水戸黄門」「必殺仕事人」「伝七捕物帳」「江戸を斬る」「暴れん坊将軍」など。江戸時代は、もはや私にとって、非現実だからかもしれない。そう思っていた。そう、現代のドラマは、何となく疲れてしまう。見る気になれない。もともとテレビ自体、ほとんど見なかったということもあるだろう。現代のドラマは日常の延長だから、あえて見たくない…そう思っていたが、それだけではなかったのだ。
 今まで、時代劇も興味なかったのだが、なぜか、この頃、見るようになったのは、ひとつには、北斎や若冲、酒井抱一などの江戸期のすぐれた画家というか、絵師だろうか、そうした絵にふれて、江戸をもっと知りたくなったということもあったろう。それにもともと歴史は好きだった。子どものときは、歴史は文字通り、人の歴史で、真実の時を教えてくれるものと信じていた。偉人伝などが好きだった。その逆に、小説などの物語は、おとぎばなし、まやかしなのだとすら思っていた。
 今は、ほぼ逆だろう。物語、非現実にこそ、真実がある…。ほぼそう思っている。
 けれども、そんなかつて、歴史が好きだった頃に、また帰っているのではないか、そんな気もしていた。べつに時代劇は歴史ではないけれど。あえて言うなら、歴史的に一応実在の人物たちが出ていること、あるいは当時の風俗を再現したこと、そこに歴史を見ているのかもしれないし、絵空事的な一話完結の毎回のお話しに、物語を、つまり歴史と物語の折衷、合体の可能性を感じようとしているのかもしれない。日常と非日常の接点の可能性を、時代劇にみようと思っていたのではなかったか。
 いや、そこまでの意識があっただろうか。わからない。けれども、失われていた何かたちの匂いをかごうとして、ということもあったのではなかったか、『ニホンゴキトク』を読んで、そんなことを想った。
「《言葉》には匂いがある。温度がある。その組合せで、また新しくゆかしい匂いが生まれる。喋る言葉もそうだし、書く言葉だってそうだ。日本語の良さは、一つにそこにある」(『ニホンゴキトク』)。
 どこかで、書いたことがある。或いは、自分の中で、自明なことなので、今更なのだけれど、そうなのだ、わたしは、小学生ぐらいのときは、一人遊びが好きな歴史好きの少女だったのだ。あの頃、偉人伝ばかり読んでいた。物語は読まなかった。歴史は人々の生きた証、偉人伝は現実の話、対して小説は架空の想像の話、現実の本当の話ではないと思っていたから。わたしは歴史の中に、人々を、実は非現実を探していたのかもしれない。
 中学生の時、図書室で、いつもの偉人伝的なものとして、書名だけで寺山修司の『さかさま世界史偉人伝』『さかさま世界史怪物伝』(角川文庫)を借りた。コロンブスは他人の故郷を喪失させた人物、イソップは人生を軽蔑する嘘つき、サド、ネロ、ヴィヨン……。その文章、言葉たちは衝撃だった。わたしの中の歴史が壊れた。では本当とは何なのか。そこまで思ったかどうか。だが少なくとも、この二冊の本の言葉は確かだった。或いは今まで信じていたものが違うのなら、物語世界(空想世界)に何かがあるかもと感じたのかもしれない。特に衝撃をうけた言葉がある。わけもわからず、まるで詩のように。それはこんな言葉だ。
 「だが、わしは燃えさかる炎の上で、こうも叫ばなかっただろうか? 『罪によりわが身を貶めよ、肉を試み、堕落により汝の誇りを克服せよ』と」
 これは、ラスプーチンが焚き火を囲んで、娘たちと酒池肉林的な宴を催しているとの非難を受けての言葉だ。衝撃のなかで、わからないながら、ここまで深く降りてゆかなければならないのだと強く感じた。それは魔的な転換の言葉だった。現実から想像へ。
 今はまた、そんな少女と今の間を、行ったり来たりしているような気もする。気持ち的に。或いは現実と想像の間を、行ったり来たり。



 そうこうするうち、きょうは、わたしの誕生日。ヴィヴィアン・リーと同じ日に生まれた、ということが少しの自慢。映画も好きだった。『哀愁』(監督マーヴィン・ルロイ、出演ヴィヴィアン・リー、ロバート・テーラー、一九四〇年アメリカ)。かなしいメロドラマ。なのに、あんなに美しいのはなぜなのだろう。そして、あんなふうには絶対ならないと思った。境遇がではない。ヴィヴィアン・リー演じる主人公の踊り子は、第一次大戦中、病気の友人のために、夜の女になった(これも古いいいまわしだけれど)。戦後、再会した恋人に、その過去を恥じて……。いや、わたしは嘘をついてでも生きつづけるだろうと、中学生のときに泣きながら思った。あれもわたしの決意だった。なんの決意だったのか。そして、その決意は、いまはどうなっているのだろう?
 病気のせいなのかもしれない。ひとりでいる時間が多くなった。出かけるのがかなりおっくうで。だるさのなかで、どこか、昔のようだなと思う。一人で、結構満ち足りていた。といっても、孤独ではない。これも子どもの時にすきだった童話『はなのすきなうし』のひとりだ。ひとりで、花といることを好む牛。けれども、そこには、それを見守る愛情深い、なにかたちがある…。花だったり、母だったり。わたしのひとりは、あの牛のひとりだ。それがすべてでないとしりながら、いったりきたり。
00:19:51 - umikyon - No comments