Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2017-03-20

善と悪のあわいで、さくことがにぎわって。(越生梅林、オリエント急行殺人事件)



 前回、ここを書いてから、どんな春を感じただろうか。ちいさい春はたくさんあった。メジロの声をきいたこと。タンポポを見たこと、雪柳が滝のように咲いていたこと。そして大きな春というわけではないけれど、毎年のようにいっている越生の梅林に梅をみにいった。六分咲きくらいだろうか。このぐらいがちょうどいい。満開すぎの、かれた花がちらほらみえるのは、どこかさびしい。春休みがまだもうすこしあるかのような。まだ学校にいかなくていい、もう少し休みにくるまっていられる。そんなことに少し似て。
 啓蟄もとっくにすぎて、もう春を感じていいころだ。だが寒さのせいか、まだいまいち実感できていない。このもやもやもまた。そんななかでみた梅たちは、したしげで、けれどもやはりうつくしかった。それをみているわたしが、まえにもみたなあと思うことで、かつてのわたしを二重に映す。それが梅との再会であり、かつてのわたしとの再会でもあった。
 梅の足もとに福寿草が咲いている。そうだ、お正月に縁起物として売られているこの花は、実は今頃が見ごろなのだ、そう、いつも思い出させてくれる、春のやさしい黄色だった。ヒメオドリコソウが咲き、オオイヌノフグリが空色の小さな花をつけて。
 うねうねと無骨な幹と繊細な白い花たち。桜よりも先に春をしずかにつたえてくれる花たち。ひくい枝が空とわたしたちの橋渡しをしてくれるような満開。みあげれば、雲よりも近い白さがある。
 でかけた日は晴れていた。あたたかくちょうどよい日だった。梅干しを買う。これもきたとき恒例になっている。家で梅干しを頂くたびに、思い出す、というほどでもないけれど。こんなことも非日常が日常と接している、ということなのだろう。







 『オリエント急行殺人事件』(アガサ・クリスティ原作、一九七四年)を観た。好きな映画だった。はじめてみたのはテレビでだった。たぶん日曜洋画劇場とかだとおもう。わたしは中学生だった。映画の魅力にとりつかれていた頃だ。出演者のイングリット・バーグマン、『カサブランカ』(一九四二年)や、もっと年代が下っても『追想』(一九五六年)でみたよりも、だいぶ年齢が上になっていたのを、すこし悲しく思った記憶があった。リアルタイムでみているわけではなかった、私にとってのリアルな時間は、『カサブランカ』、『誰が為に鐘は鳴る』(一九四三年)、『ガス燈』(一九四四年)などのバーグマンだった。それが先だったから。同じく出演者のジャクリーン・ビセットは、テレビの『チャーリーズ・エンジェル』が先だった。その他、ショーン・コネリー、ローレン・バコール、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、マイケル・ヨーク……、きいたことのある懐かしい人たちばかり。
 いや、大好きな映画だったが、この映画について語ろうと思ったわけではない。なぜなら語ろうとすれば、ストーリーに触れなければいけないから。それではなにかが損なわれてしまう。ネタバレてきなことをしたくないのだ。だから映画の周辺で。そう、観ていて、もう数十年ぶりに観たのだけれど、泣いたシーンが、中学生のときとまったく同じ個所だったことに、どこか喜びのようなものを感じたのだ。「彼らは事件さえなかったら、義理の親子としてここにいたはずだ…」たとえばそんなようなことを心のなかでつぶやく。それは中学の時も、今もおなじ言葉だった。呪文のように、その言葉が涙をさそったのだった。
 ところで、オリエント急行。箱根のラリック美術館にそのサロンカーが、カフェとして展示されている。ラリックが室内装飾を担当しているからだ。わたしはまだ外からしかみたことがないのだけれど、ガラスパネルだけは、別の場所、ラリック展か何かで展示しているのをみたことがある。浮き彫りになった葡萄と裸体の女神たち。明るい、みずみずしい、生の謳歌。ラリックを好きになったのは、中学生よりももっと後だったから、はじめて映画をみたときは、装飾のことなどは、豪華だなあ、繊細だなあ、ぐらいは思ったかもしれないけれど、割と流していたと思う。
 いま少し調べたら、映画で使われた客車の中は、撮影用に独自に作ったものなのだとか。だが、今回『オリエント急行殺人事件』を観ていたら、おそらく複製なのだろうけれど、ラリックの装飾パネルが映っていて、おもわずみとれてしまった。これが今と中学生の時と、違う点だと思った。これが時間が経っているということなのだろう、と。けれどもこの違い、悪くはなかった。

 ここまで書いて、すこし風邪などでここを離れていた。その間に考えたこと。『オリエント急行殺人事件』が、中学生のわたしに魅力的だったのは、たぶん、善と悪に完全な区切りがないということを教えてくれたからではなかったか。犯人は殺人を犯したということで悪なのかもしれないが、彼らは善でもあった。また殺された被害者はどちらかというと悪であった。だからといって殺されていいのかという観点に立つと善でもあるかもしれない。いわば被害者という善。事件を解決するポアロも、謎解きで突き止めた答えだけが彼にとっての善で、ほかはその次なのが、粋だった(このあたりのニュアンスは映画をみていないとわかりづらいかもしれないが、ネタバレをしたくないので…すみません)。
 中学生のわたしは、もっと世界は勧善懲悪的に成り立っていると思っていた。もっと単純に、善と悪はわかたれているのだと。それを哀しみをつたえてくれることで壊してくれたのが、『オリエント急行殺人事件』だったのだろう。

 すこし離れていたあいだに、だいぶ春らしくなってきた。陽射しがちがう。まだ寒いけれど、陽だまりがどこかやさしい。スミレ、ハナニラ、ムラサキダイコン、ヒヤシンス、ユキヤナギたちも咲いている。あの芽鱗たち、猫の毛みたいなふくらみたちも、その皮を割り、咲きだした。モクレン、コブシたち。それにも思わず手をのばし、ふれて。
 このところ、『日本人の愛したことば』(中西進)を読んでいる。図書館で借りたのだが、手もとに置きたくなって、今、注文中。そこに、こんなことばがあった。
〈幸せは昔、「さきわい」といいました。体の中に花が咲くということです。〉春にどこか心がさわぐのは、こんなことでもあったかと思う。


00:01:00 - umikyon - No comments