Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2017-04-05

たとえば水に映った桜が。



 桜。ソメイヨシノ。
 またその季節がはじまった。まずは、家の近所だと川添いの一本。ほかのソメイヨシノに先駆けて満開になる…。ソメイヨシノに似ているけれど、もしかすると種類がちがうのかもしれない。先日、三月の終わりに上野の森にいったが、そのときも、まだソメイヨシノが一分か二分咲きぐらいだったなかで、一本だけ、よく似た桜が、ほぼ満開で咲いていた。うろおぼえだがエドヒガンとあったと思う。ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配で生まれたというから、たぶん、ソメイヨシノに先駆けて咲いているのは、それであったと思う。
 ソメイヨシノは単一の樹のクローンから拡がった桜なので、近くにあるのであれば、ほぼ開花時期が同じだそうだ。そのことも、すこし怖いぐらいだ。すべて同じという沢山。





 桜たち。けれども、まだ、先駆けて咲くそれらだけでは信じられない。いや、開花宣言したあとでも、今年の花たちは、ゆっくりだった。寒かったからだろう。これを書いている四月三日の段階でも、まだ家の近くでは、満開とは言えなかった。東京の満開は、四月二日だったそうなのだけれど。
 クローンでも、違うのだろうか。今年はいつになく、そんなことを思う。満開といっていた四月二日、すこしだけ近所の桜をみたが、まだほとんど咲いていない…と思ったが、それでも少し咲いているところもあった。陽射しの量とか、そんな違いなのだろう。けれども、今年はいつにもまして、その差が多いような気がしたのだった。そして三日の月曜、晴れていたので、午後になって、桜を見に行った。いつもの桜だ。コンクリート護岸された、すこしドブの臭いがする川沿い、仙川の桜並木へ。
 そこへゆく前にも、桜をみたが、まだ五分咲きぐらいだったとおもう。だから、わたしとしては前夜祭的な意識があった。満開の前の、狂騒前の、ぎりぎりの狂想。満開前の、待ち望む気持ち、すこし物足りない気持ち、けれども、散ってゆく、終わりに向かう花よりも、まだ、淋しさがなくて、華やぎがあって。
 おなじ桜のはずなのに。この橋からみるそれは、まだ四分咲きぐらいだろうか。見た眼には三分咲き位に見える。けれども、数十メートル咲きの橋近くの桜は八分咲きぐらい、ほぼ満開のあのざわめきを宿している。陽射しのせいだからか。今年の桜はゆっくりと花開く。ゆっくりだからこそ、違いが目立つのかもしれない。けれども、クローンたちに、差が生じているのだと、考えるのは楽しい。勝手な夢想なのだけれど。彼らは個々、ちがう花にゆっくりとなってゆくのだ。



 四日の火曜。また仙川に桜をみにゆく。一日でだいぶ咲いたようだ。けれどもまだ満開ではない。早いところで八分か九分咲きぐらい。まだつぼみのめだつ五分咲きぐらいのところもある。
 だが、四日のほうが、桜に浸かっているかんじがあった。酔ったような、すこしぼうっとしたような、むせるような。花にかこまれて。そうだ、この感じだ。
 今年は、すこしだけ、例年とかわったことをしてみた。いつもは自転車でずっと、仙川をいったりきたりしているのだけれど、自転車を近くの駐輪場において、歩いてまわってみた。ゆっくりとまわる感じ。写真を撮るのにはこのほうがいい。けれども、慣れのせいなのか。じつは自転車をとりに、というか、帰るつもりで自転車置き場にいってから、またもういちど桜をみにきて、やはり、こちらのほうがしっくりするなと思った。いや、両方経験したらいいのだろう。自転車のスピード(桜を眺めている人も歩いているし、そんなに出しているわけではないのだけれど)、この速度が、開花してからすぐに散ってしまう桜にあっているような気がした。早いことは早いが、車ほどではない速さ。だって、昨日と比べても、まだ満開にはなっていないもの。それと高さ。身長よりもほんの少しだけ高いところからみる景色がまた別の桜の側面をみるようだった。だからどちらも経験してよかったと思った。
 四日は、三時間ぐらい桜をみて回っていた。家の近所なのに、旅行をしているのだと思った。非日常だから、そうなのだろう。仙川、そして野川沿いの公園の桜、お寺の桜。
 ところで仙川でも野川でも、桜は水に枝を伸ばしていた。水に向かう桜。自分が水が好きだから、桜もそうなのかと勝手に思っていた。いや、それとは少し違う。自分が水を求めているので、枝を水に向けるその姿を、いとしく思っていたというべきか。



 桜が水に向かう。水辺に植わった桜は、ほぼ一様に。だから河の両岸に植わった桜たちは美しくみえたものだった。桜たちが天に咲き、地という水にも、映った姿で、その花を倍にふやして、橋からみれば、四方、天地左右、前も後ろも、すべてが桜につつまれる。だからこその狂騒だった。もう少し仙川を上流のほうへいっても、いったん桜がとだえるけれど、また桜だらけの公園にゆける。ただ、今年はもう、この狂乱、この桜につつまれただけでも、いいような気がしたので、ゆかなかった。
 水に向かう桜。これは陽射しを求めてなのだそうだ。明るさを求めて。そのことでもまた、わたしは勝手なことを思ってしまう。たとえば水に映る月にひかれる自分と、その姿を重ねてしまうのだ。水に映る月にひかれる者は古来から多い。この場合は水に映る太陽のほうが近いのかもしれないけれど。手に届きそうで届かないものたち、幻影たち。けれども、たとえば桜は、おそらく水に映った光によって、何かを実際に受け取っているのだろう。そして水に映った桜によって、わたしもまた。それが届いた、ということになるのかもしれない。
 四日の夜にこれを書いていたが、零時を回って、今は五日。午後から仕事があるので、五日の午前中に、少しだけ仙川の桜を見ることができるだろう。おそらくそれが最後だ。どんな出逢い、逢瀬になるだろう。



01:14:48 - umikyon - No comments