Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2017-06-28

ラベンダー色に継がれて




 今年も。ほぼ毎年のように出かけているのだけれど、埼玉県久喜市にラベンダーを見に行ってきた。久喜市菖蒲総合支所、役所付近にある。このあたりは市町村合併前は菖蒲町といったので、その名残が役所に、いや、久喜市菖蒲地区などの地名に残っている。
 そう、久喜市にはもうしわけないのだけれど、菖蒲町にラベンダーを見に行く、そういったほうが、なんとなく花たちにかこまれるようで、ここちよかったのだけれど。
 ラベンダーを…といっているが、この時期、いちおう祭りが開かれているのだ。「アヤメ・ラベンダーのブルーフェスティバル」(第二十三回)。二〇一七年の今年は六月四日〜六月二十五日まで。出店もあり、毎年にぎわっているが、今年は晴れていたからだろうか。例年よりも人が多かったと思う。そうだ、いつも梅雨の時期だから、あまり天気がよくなかったような気もする。今年は暑かった。



 二〇一四年に、ラベンダーたちの大部分が咲いている箇所が、調整池の拡張工事の関係で、なくなってしまった。代替地に、あらたに植わったラベンダーたち。まだ、株の大きさはかつでほどではなく、たよりなげではあるが、きれいに花を咲かせている。去年はどうだったのだろう。おぼえていない。いや、なんとなくそのことを思い出すと心がざわつく…。なんだかんだいってショックだったのだろう。まだ育成中で、おそらく咲いてもいなかったのではなかったか。それが、今年は少なくとも咲いている。こうしてあと何年かしたら、また新たに名所を彩るようにしてくれるのだろう。つがれてゆくこと。
 そのことにすこし心がなごんだ。そして前からあるラベンダー花壇へ。みわたすかぎりのラベンダー…というほどではないが、後ろの景色が田んぼなので、なんとなく借景のように、花が拡がってみえる。香りがひっそりと拡がっているのも、そのことを助けている。もっとも出店されたお店で売られているラベンダーのポプリとか、そうしたものの匂いもまじっているのかもしれないが、それはそれで。それもあわせての祭りだから。



 なくなったのはラベンダーばかりではない。調整池とラベンダーの間が湿地だったのだが、かつてはそこに菖蒲が植わっていた。板で道を作ってあるけるようになっていて、小さな池にはアメンボもいた。それらがまったくなくなってしまっていた。今は空地のようになっていて、名前をしらないオレンジ色の花が咲いている。去年もおそらくそうだったはずだが、なぜ気付かなかったのだろう。覆いかなにかしてあったのかもしれない。
 わたしは、基本的に花は好きで、名前も多く知っているほうだが、このオレンジの花は…、なんというか、あまり調べたくない。その花たちに罪はないのだけれど。そうはいっても、たぶん、ルドベキア。栽培種なのに野生化している、わりとよくみる花。

 早朝バイトから帰ってきて、食事を摂らずにきたので、出店でお弁当を買って食べた。ベンチにすわって。その時に、眼前に広がる景色をみて、気付いたのだった。あのあたりは菖蒲の花が…。手前には小さい株だけれど、咲いてくれているラベンダーたちの堤。もらったチラシには新ラベンダー堤とある。こうした変化もまた、体験してゆくこと、それが毎年ここに来ているということなのだろう。



 食事がすんでから、ラベンダーアイスを買って(少しラベンダー色、すこしラベンダーの香り)、ラベンダーをみてまわった。
 今年はラベンダーの蜜を吸うハナアブが多い。わたしは最初、ミツバチかと思ったが、実は虻。せわしなくラベンダーの花穂のまわりで動いているのが、どこか愛らしい。そのかわり、蝶があまりいないような気がした。ハナアブたちを見るのも、なんだかラベンダーとセットになって、風物詩的なものになっている。



 駐車場のむこうにもラベンダー花壇。ここも比較的あたらしいはずだ。苗たちの大きさがそういっている。あと何年かしたら、いや、年々、見ごたえのあるものになってゆくのだろう。ラベンダーは丈夫といえば丈夫だが、高温多湿には弱いため、関東で育てるには苦労があるにちがいない。それでも咲いてくれていることに、人の手がかかっていることに、温もりを覚えた。変わってゆくことがある。それは哀しいこともあるけれど、新たな出逢いでもあるだろう。そして変わらないこともあるのだった。



 駐車場の向こうのラベンダー花壇で、はじめてみるトンボをみた。最初、黒アゲハかと思った。黒い羽のトンボ。家に帰って調べてみると、どうもチョウトンボというらしい。あまりにぴったりすぎて、逆に拍子抜けするが、名前がわかって良かった。蝶のような大きな羽。羽の先が透明なところも、オニキスかなにかの宝石をおもわせ、目を引いた。今度から、あったら名前で呼べる。



 ここから数キロ離れたところに、菖蒲公園があると今更知った。昭和沼という、工業用水をたたえた沼を囲って整備された公園。ボート遊びや釣り、バーベキューなども楽しめるとか。工場にかこまれた、不思議な空間だった。すこしの森。この日は暑かったが、木々の中にはいると、それでも涼しい。木々をぬけると、比較的大きな沼だ。三十分間隔で沼の中央で噴水が吹きあがる。ちょうどあと五分で定時だったので、見学する。水の花火のようだと思う。





 家に帰って数日後。家のまわりの空地で、ルドベキアの花を見る。おそらくここ数年ずっとこの花も咲いていた筈だ。ほとんど雑草と化して。気付かなかった。そしてこの花になかばやつあたりをしてしまう。あの菖蒲の植わった湿地に、この花があることが、なんとなくショックだったので。あの菖蒲のかわりに、オレンジの生命力の強い花が跋扈している…。その様子に、今はもうない菖蒲たちを想ってしまうから。いや、ルドベキアにわるいではないか。けれども、もともとこの花の系統は好きではないのだ。コスモスとかのたぐいも。
 紫陽花が見事な色で咲いている。ホタルブクロはもう終わりだろう。こうしてつがれ、移ってゆく。まもなく梅雨もあけるだろう。


00:27:18 - umikyon - No comments

2017-06-05

あまのりょういきにて

 今日は早朝バイトの帰りに、その近くを通る用事があったので、自転車で湧水のある場所へ行ってみた。久しぶりだ。国分寺崖線。多摩川が長い時間をかけて削り取ってきた段丘で、斜面からは湧水が多くでており、緑も多く残されている。
 前に比べると水が少なくなったような気がするが、どうなのだろう。ホタル観賞のためのマナー等が書いてある看板が掲げられていた。ホタルが見れるのだろうか。この湧水の池のまわりには、入ることはできない。金網越しに見るだけだ。家に帰ってすこし調べたら、六月にゲンジホタルが見れるのだとか。
 道をはさんで、お不動さんがある。ここも湧水だという水が流れている。日本の名水とかに、いちおう名前が連なっているのだが、水を採ったりはできそうにない。けれども、このあたりは、ホタルが出るあの湧水の池と、かつてはこんもりとした、緑の繋がりが、水の連なりがあったのだろう。
 真夏に向けて、ますますうっそうと深まってゆく緑。けれどもなんとなく静けさを感じる。あの古墳や神域などで感じる厳粛さをたたえたような。ウグイスが鳴いた。そして多分カワセミの声も。ここは野川が近いのだけれど、たぶんその野川で巣をつくっているのだろう。それもふくめた静かな時間。

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 家に帰ってきて、午後に、また別の仕事へ。マンションの駐輪場の一角は、ちょっと前からドクダミ畑になっている。咲き始めの頃に写真を撮ろうと思っていたのだけれど、なんとなく撮らないままきて、今日、思い出して撮ったら、はやくも、もう枯れている花が。ドクダミはもっと、開花期が長いと思っていたからすこしショックだった。花の見ごろというのはあるのだ。
 その花を摘もうとは思わない。摘むとかなり臭いにおいがする。子どもの頃、草むしりをしていたのか、それとも、あいらしい白い花の様子にひかれて、摘みたくなったのか、おぼえていないけれど、ともかく、臭いに辟易した記憶がある。洗ってもなかなかとれなかった。けれども、やはり花は今でも、清楚なような優しさがあると思う。だから子どものわたしもきっと、摘みたくなったのだと、思っておこう。

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 中西進著『日本人の愛したことば』が面白かったので、引き続き同じ作者のもので『ひらがなで読めばわかる日本語』をゆっくり読んでいる。「死ぬ」と「しなゆ」(萎れる)がほとんど同じ言葉で、それよりも進んだ状態が「かれる」。これの古語は「かる」で、「枯る」「離る」。水分が亡くなり、魂がはなれた状態が、死だということ。
 「ひ」から出たことばとして、日、火。そして「ひじり」。漢字では「聖」だけれど、本来は「日知り」であったとか。太陽のでる「ひがし」もひに向かうからできた言葉だとか、霊魂も「ひ」といったとか、そこから「ひつぎ」という言葉が…。
 いちいち、たちどまってしまう。そして「かがやく」。「本来、「かがやく」は、「かげ」や「かげる」と同じ語に根ざしたことば」だという。かがやくは、明滅する。あかるくなったりくらくなったり。「このように、光と影が一対のものであることを古代人はよく認識し、そこから「かがやく」「かげ」ということばを生み出していったのです」。
 光と影のちかしさ。
 そして、今日は、「あめ」について読んだ。「天」「雨」「海」、もとはみんなおなじだったとか。「あめ」もしくは「あま」。海女というのもその名残。「古代の人は天も雨も、そして海までも全部、一つのものだと考えていましたが、「あめ」が示す原初のものは「天」だったのではないかと思います」。この「宇宙水」的な概念は、世界各国に見られたらしく、それにもひかれた。水のように青い高いところから、ときたま水がこぼれてくる。そうだ、天は水でできているのだ…。とふっと、思ってみたくなる。
 「空」は、天とはちがい、虚という意味だとあった。「頭上に広がる茫漠たる空間。(中略)自然に湧き上がる畏れ。そのような古代人の思いが「そら」ということばを生みました」。空耳、空言なども同類だという。
 「天の磐船」という言葉、というか乗り物がある。神様が乗る船だ。以前からなんとなく気にかかっていた言葉だった。この「あめ」を読んで、なにかがつながった。水の世界を行き来するから、船だったのだ。この本にも書いてあった。「(高天原という)「あめ」にいる神々は、どうやって地上に降りてくるかというと、「あめ(天)のいはふね(磐船)」に乗ってやって来ます。「いは」とは、石や岩という意味ではなく、立派な、頑丈なという意味。このように、乗り物が堅牢で立派な「あめのふね」であるのも、天が水域だからこそです」。
 勝手な連想をしてしまう。クフ王の太陽の船。エジプトのギザで発掘されたそれの、レプリカをどこかで見たことがある。その意味は議論がされているらしいが、王の魂を運ぶためという説もあるそうだ。どこに運ぶのか、やはり天に運ぶのではないだろうか。だから船なのでは…とちらっと思う。

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 バイトの途中で、ヒルガオが咲いているのを見かけた。もうそんな時期になったのか。ところでわたしはアサガオは、青が好きなのだが、それは桃色系は、このヒルガオの色だと思っているからではなかったか…と思ったりも。ヒルガオは子どもの頃から、なぜか親しみを覚えている花のひとつ。おおむねの夏、いつも、わたしの傍に、咲いていたような気がする。かわいた場所で。
 午後のバイトの終わりも、また別の湧水の近くだった。国分寺崖線沿いではあるのだけれど。後ろ髪ひかれながらも、今日は訪れなかった。野川にかかる橋を渡る。鴨が飛行していた。水をゆく鳥というイメージがあるので、飛んでいる鴨をみると、いつもすこし驚いてしまう。まるで天の鳥…。水をゆく鳥。とすこし無理やりつなげて、今日はこの辺で。

23:52:05 - umikyon - No comments