Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2017-10-05

そうして対比だと、秋が言う─映画『ゴッド・ファーザー』

 だいぶ秋らしくなってきた。ムラサキシキブ(コムラサキ)の実が、緑だったのが、もう紫に変化している。まだ早いように思えるけれど、ホトトギスがもう咲いていた。それに、去年は気付かなかったのだけれど、丘陵になったところにはえるツルボの花を見た。こちらは九月ぐらいの花と記憶していた。ブラシみたいな紫のかわいらしい花たちが、地面に突き刺さったように咲いている。



 先日『ゴッドファーザー』(監督・フランシス・フォード・コッポラ)のパートI(一九七二年)とパートII(一九七四年)、二週続けてテレビで放送していたので、録画して観た。多分ノーカットだと思うのだけれど、残念ながら吹き替えだった。ちなみにわたしは普段は吹き替えとかにそれほどはこだわらない。けれども『ゴッドファーザー』はおそらく、字幕で、役者本人の声でしか、観たことがなかった。マーロン・ブランド、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ…。だから、吹き替えに違和感を覚えてしまったのだろう。
 『ゴッドファーザー』…。初めてみたのは中学生の時。リアルタイムではなかった。映画を一番観ていた頃、魅力に取りつかれた頃だ。名画座でパートIとパートIIの二本立てを観た。それぞれ三時間越えの大作なので合計六時間以上。お尻と首が痛くなったことを思い出す。それにあまりに長い時間だったから、とくにパートIIでは、途中、寝てしまっていたような気がする。それでも、ニーノ・ロータの哀愁きわまる映画音楽ともに二作とも、心に残る映画となった。やはり中学生の時、古本屋で、マリオ・プーゾの原作も買って読んだ。そして多分高校生ぐらいだ、今度は映画館ではない、ビデオを借りて、ちゃんと最後まで観たと思う。二十代の頃も観た記憶がある。それに、ずいぶん経ってから、パートIII(一九九〇年)も(そのときに、IとII)。IIIについては、観る前から、躊躇していた。ぜったい劣るから、見ないほうがいいのではと。まったくそのとおりだった。ひどいと思った。パートIIIには、がっかりした記憶しかないので、今回は触れない。けれども、『ゴッドファーザー』IとIIは、覚えているだけでも、四回は観ている作品だ。で、今回また。だが、もう十数年、観ていなかっただろう。



(▲後述のサウンド・トラック、コピーしたCD。こんなふうにCDに細工するの、けっこう趣味で…)


 で、じっくり、観ることにした。吹き替えの声が気になったけれど…。
 パートIのほうは、殆どストーリーを覚えていたのでびっくりした。このシーンのあと、こうなって、など。けれどもパートIIのほうは、観た覚えはあるのだけれど、パートIに比べると、そうした羅列、順序が希薄だった。出来がどうこう、というのではないのかもしれないが、パートIIのほうが、わたしには、やはり、ひきこまれる要素が少なかったのだろう。パートIは、マフィアのドン・ヴィト・コルレオーネ(マーロン・ブランド)を軸に、家族が描かれ、その後に三男のマイケル(アル・パシーノ)に主役は移行してゆくが、流れがすっきりしている。パートIIは、マイケルを軸に、家族が描かれ、対比して亡くなった父ヴィト・コルレオーネの若い頃(ロバート・デ・ニーロ)のエピソードが挿入されるのだが、その対比を、なのか、あるいはマイケルのおかれた状況をなのか、すこしおっくうだと思ってしまったようなのだ。
 けれども、あらためて、二部作としてみると、これはなんという対比のドラマなのかと、感慨深かった。三部までやるのは蛇足だ、もうこの二部だけで、対比は絶妙のバランスを保って、行われている。
 概ね、家族の対比。ヴィト・コルレオーネのゴッドファーザー、あるいは家族、そしてマイケル・コルレオーネのゴッドファーザー、家族。
 「ゴッドファーザー」は、マフィアのボスまたはファミリーのトップへの敬称だけれど、本来はカトリック教での洗礼の時の名付け親のことでもある。名付け親は、第二の親として、名付け子を養ってゆく。このことも、対比として、終始つかわれている。
 はじまりからして。パートIの冒頭では、ヴィト・コルレオーネのゴッドファーザーが、頼みを聞いている。パートIIの冒頭では、マイケル・コルレオーネのゴッドファーザーが、頼みを聞いているシーンではじまる。パートIのそれでは、耳を傾け、威厳がある。パートIIのそれでは、去勢をはって、威厳というよりも、威厳を作ろうとするため、どこか尊大に。
 パートIでも、ファミリー内で人は裏切りにより、亡くなってゆく。けれども、どうしてなのか、そのことによって、家族間の絆のようなものは、こわれることがほとんどないように感じられる。けれどもパートIIでは、違う。どんどん家族、ファミリーの絆がうしなわれてゆく。パートIでも兄のソニー(ジェームズ・カーン)の壮絶な死、それに加担した妹婿カルロの死、ドン・コルレオーネの若い頃からの仲間、テッシオの裏切りによる死など、こわれてゆくファミリーの姿はあった。けれども家族の絆的なものは壊れることがなかった。それはヴィトのよりどころであったから。息子であるマイケルは偉大なる父ヴィトをまねる。越えようとする。だがパートIIのほうでは妻ケイ(ダイアン・キートン)も去り、兄フレド(ジョン・カザル)も…。差し込まれる父ヴィトの若い頃のエピソードの、なんと家族愛に満ちていたか。生まれたばかりのマイケルに、愛しているという父、父の父母を殺されたことの復讐のために地元のドンを殺す、そのことすら、家族のための物語なのだった。
 パートIIのラスト近く、父のエピソード。というか、父は出ない。マイケルの若い頃だ。父のエピソードがマイケルの現在のそれに近づいた極限。パートIで殺された兄ソニーと、兄ソニーを売ったことで殺された妹の夫カルロ、パートIIで死ぬフレド、パートIでもパートIIでも忠実な義理の兄トム・ヘイゲン(ロバート・デュバル)、そしてマイケルが、父の誕生日のための祝いの席にいる。父はちょっと買い物にいっている。第二次世界大戦の頃、真珠湾攻撃の頃だ。父や兄にとっては不本意であろう、海軍志願…。そのことでソニーと言い争いになり、帰って来た父を迎えにゆかずに、一人食卓に残るマイケル。そして現在のマイケルもやはり一人だ。一人で湖を見ている。海軍に志願したというマイケルに、すごいことだとただ一人賛同したフレド、そのフレドが、いままさに裏切りによって、殺される、その時に。マイケルの一人の対比はこのラストで圧倒的だと思う。
 かつての大学生だったマイケルのそれは、暗示はしていたかもしれないが、家族の結びつき、ファミリー(コルレオーネ・ファミリーというときの裏社会のことも含めて)の結びつきは絶対だった。
 けれども、現在のマイケルのひとりは違う。ファミリーのために、家族がはなれてゆく、家族でも殺してしまう。だからこそ、ファミリー自体、その仕事内容が、ビジネス的なしがらみ、損得勘定云々ということに、変わっていったのだ、そのことがおそらく、わたしが長いこと、話しがパートIIのほうが、わかりにくいなと思ったゆえんなのだろう。家族ではなく、仕事のかけひき的な要素が随所にみられるようになってきたから。
 いいかげんなことを、思いつくままに書いているけれど、いいのだろうか。
 今回、パートIとパートIIを続けて観て、吹き替えの声が、申し訳ないが、やはりどうしても気になったので、中古で二本、結局DVDを買ってしまった。それで字幕だけで、また観てみた。懐かしい声だった。マーロン・ブランド、アル・パシーノ、ロバート・デ・ニーロ、ダイアン・キートン、ロバート・デュバル…。特にヴィトの声だ。マーロン・ブランドもロバート・デ・ニーロも、すこしくぐもっていて、声をだすことを極力しない人の、だから発したときに、力を感じさせる、重みのある声に聞こえる。
 俳優としては、アル・パシーノが当時も今も好きなのだが。あの光と影をもった強烈な眼差し。
 映画としては個人的にはパートIのほうが好きだけれど、パートIIのほうがもしかすると作品的には優れているのかもしれない。つくられてゆくファミリーと、こわれてゆくファミリー。光と影。
 ニーノ・ロータの映画音楽が好きだと先に書いた。たしかサウンド・トラックをLPレコードで買ったのではなかったか。まだどこかにあるのかしら。それともないのかしら。とりあえず、図書館で借りて、コピーした。ニーノ・ロータ。「太陽がいっぱい」も大好きだった。「ロミオとジュリエット」も。ニーノ・ロータ・ベストも予約した。こちらはわたしの前に五人ほど先約がいたので、もう少し。先約がいることがすこし嬉しくもあった。わたしのように好きな人がいるのだろうと。
 彼岸花はとっくに終わり、キンモクセイの香りが漂い始めた。あれも彼岸花のようにほぼ、毎年、同じ時期に匂いを放つように感じられる。おおむね十月一日。夏が行った。秋が言った。これを書いている十月四日は、仲秋の名月だとか。さっき、雲間からのぞく満月を見れた。わたしが毎朝出かける午前四時台の空はもうすっかり夜の暗さになってしまった。明後日ぐらいから、十六夜の月から、また、その朝の空をしばらく、明るく照らしてくれるだろう。これが秋の言葉だ。
00:00:00 - umikyon - No comments