Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2017-11-26

日々のかたわらでー考古資料展(玉川大学教育博物館)

 このごろ、美術などの展覧会への興味が薄れている気がする。それがいいことなのか、わるいことなのか。実は前売りを買ってある展覧会があるのだけれど、まだ出かけていない。電車に乗るのが、駅まで行くのですら、おっくうだと思ってしまう。ほかに、身体がつかれているから、○○をやらないといけないとか、行かないでいる理由を自分で探しているのは、もはや興味がないからだろう。こんなとき、なぜ言い訳の理由を考えてしまうのか、ふと自問してしまう。わたしはだれに弁解しようとしているのだろう。たぶん自分だ。そのことも知っているので、言い訳を考えているのがすこし変だといつも思う。
 展覧会へあまり行かなくなったことは、画家たちへの愛が薄れているからということではない。たんにわたしのなかで、美しいものへの希求の対象が、移ってきたのかもしれない。
 わたしの好む言葉でいうと、非日常への欲求が、身近なところに向けられてきた、ということ。展覧会は、まさに非日常だった。なにせ美術館、美の館なのだから。それは、境界的にいえば、くっきりと線引きされた、その意味ではわかりやすい世間と切り離された場所だ。わたしは長らく、そこまでゆかないと、非日常をさがせなかったのかもしれないし、あるいは明確な線引きが必要だったのかもしれない。ここから一歩入れば、あなたの大好きで、あなたがいるべき場所である、あなたとほんとうは、ともにある非日常的世界がくりひろげられているのだと、太鼓判がほしかったのかもしれない。
 だが、ほんとうは、非日常は、わたしとともに、常にあるのだ。美術館に収められた、あるいは企画展で展示されている作品を造った作家たちにも、日常と非日常があるように。彼らが日常に接しながら作品を造りあげていったように。
 数カ月前の長雨の影響から水量を増していた川や湧水が、また元の水嵩に戻ってきている、いや、冬場の少ない水量に近くなってきている、そんな川を眺めるのが、心にしみる。
 すんでゆく冷たい空気のなか、十一月になり、うちのあたりからも、また遠い富士の山が見えるようになった。春から夏にかけては、ほとんど見えないのだが。それを西の方角、早くなった日没の頃、夕焼けの空のもとで、見るのが、どこかせつない。
 ヤツデのしろい、つぶつぶとした花に触る。それがなぜかうれしい。子供の頃、家にあったものなので、なつかしさを感じているのかもしれない。晩秋の今、花のすくない季節に、咲くことに、感謝しているのかもしれない、それらが重なって、重なって、うれしさ、幸福感に拍車をかけているのだろうか。
 桜は、春に花を、秋に葉を紅葉させ、春と秋、二度咲いているようだと、この間書いた。その秋の満開の葉たちは、春の花よりも、期間が長い。二週間ほど前に満開の葉だと思ったのが、まだ持ちこたえている。まだ紅葉。ぎりぎりだけれど。このあと、まもなく葉は散ってしまうのだろう。けれども、あまりに咲く時期の短い花だからこそ、葉たちはながくその姿を保っているのかしらと、つい思ってしまう。一度目は、春の咲くそれは短い、だからこそ二度目、秋の満開は、と。
 今のわたしは、こうしたことたちに、どこか、美しさをいただいている気がしている。それも、展覧会にゆくことに興をうしないつつある理由でもあるだろう。けれども、そこにはわたしの怠惰な気持ちも混じっているのだが。面倒だとか、そうした気持ちを奮い立たせなければ、美しいものへ、出逢うことが出来ない、という面も確かにあるのだから。





 では、なにか、今見れる展覧会で、行きたいようなものはないかしら。ネットで検索する。これは少し便利だと思う。デパートで行う展覧会などは載っていなかったりすることが多いが、かなりの美術館のスケジュールが判るようになっているサイトがある。前売りを買っているもののほかに、二つあった。ひとつは、ルネ・ラリックだ。「ルネ・ラリックの香水瓶」というものが、渋谷の松濤美術館で開催されるとあった(二〇一七年十二月十二日〜二〇一八年一月二十八日)。ラリックは、随分前から好きな作家だ。わたしのなかでは創成期に近い。だからだろうか。おおざっぱにいえば、彼もまた日常のなかに非日常を現出させた、というより、それらが共存していることを、華麗に表現してくれた、最初の作家だったから、ということかもしれない。皿、花瓶、香水瓶、カーマスコット、シャンデリア、アクセサリー。これらは美しいけれど、美術品ではないから。それはまさに日用品と美術品の蜜月の場に置かれた大切な作品たちだ。だからこそ、今のわたしにも、彼の展覧会なら、行きたい、と思わせてくれるのだろう。
 もうひとつは、「二〇一七年度企画展 考古資料展―玉川学園考古学研究会の軌跡―」(二〇一七年十月十六日〜十二月十七日)、玉川大学教育博物館のものだ。
 こちらは、実は知ってすぐの土曜日に、出かけてきた。このフットワークの軽さはなんなのだろう。もっともつれあいに車で連れていってもらったのだけれど。
 玉川大学教育博物館は、これで三回目。前の二回は電車で行ったが、どちらもイコン画に関するものだった。「玉川学園創立八十五周年記念特別展 東と西のキリスト教美術 ─イコン・西洋絵画コレクションから」(二〇一四年)、「イコン−聖像画の世界展」(二〇〇九年)。イコン画への愛着も、ラリックを好きになった頃と、ほぼ同じぐらいだろう、なぜかイコン画の、平面的な、素朴な筆遣いに、特に聖母マリアの慈愛に満ちた表情、しぐさなどに昔から心惹かれるのだった。これもまた、勝手に共通点をみだそうとすれば、日常と非日常のつながり、祈りと日々的なものに、触れられた、その狭間にイコン画があると、感じたからだろうか。
 そして、今回の「考古資料展」だ。展覧会のチラシには、深鉢の縄文土器の写真が掲載されている。
 HPやチラシには、「玉川学園が所在する町田市域は、一九六〇年代からベッドタウン化が始まり、それに伴い都心の大学が主体となって遺跡調査も行われるようになりました。(中略)玉川学園考古学研究会では、縄文時代中期の集落・後期の墓域・晩期の環状積石(ストーンサークル)である田端(たばた)遺跡(東京都指定史跡)(一九六八─六九年調査)や、土器捨て場からユニークな形状をしたものを含め多数の土器が発見された御嶽堂(みたけどう)遺跡(一九六九─七〇年調査)など、重要な遺跡の発掘調査を立て続けに手掛けていきました。
この度、当時の関係者の協力を得て、田端・御嶽堂両遺跡の調査資料について、改めて整理を行い発掘調査報告書を刊行することができました。これを記念して、両遺跡の出土品の公開を中心に、調査を担当した考古学研究会の活動の軌跡をたどり、さらに玉川学園における考古学研究の歩みや、研究会を生み出した自由研究での取り組みを紹介いたします。」
 とある。
 二〇一四年の展覧会の時に、常設展示で、これらの一部をみて、驚いたことがあった。こんな身近にあることへの、嬉しい驚き。あるいはイコン画を見に来ていたのに、思いがけず出逢えたことへの喜び。
 わたしは学術的なことはほとんど知らない、ただ、無責任に縄文土器や土偶に惹かれているだけにすぎない。土器ならば、たぶん縄文時代中期、五五〇〇年〜四五〇〇年前のものあたり。
 チラシにあった縄文土器も、中期のものだ。中期だとわかったからではないが、その紋様、形状に、心がざわついた。それで今回も行くことにしたのだった。
 正確には、御嶽堂遺跡出土深鉢(縄文時代中期・新道式)とある。
 新道式とは、知らなくて、後で調べたのだけれど、「あらみちしき」と読む。器壁が後期のものに比べると厚手で、三角押文と三角区画を特徴とする。先日出かけた加曽利貝塚の加曽利式が中期後半で、新道式は中期のなかでも前半なので、その前のもの。
 火焔形土器も中期のものだが、あちらはもっと、美しさがあふれ、どこか完成した作品のように感じられる。対して、ここで見たものは、もうすこし、親しみやすい。文様などは、ひとつの土器のなかに、いろいろと形がちがっていて、それが散漫になることなく、まとまった美しさをかもしていたけれど、どこか素朴な、土の気配と人の温もりのようなものが感じられた。これはこちらの勝手な感想である。わたしの心のもちようのせいだろう。だが、こうした土器が、いまのわたしには必要だった。こんなものたちと出逢えることが心にさわるように、やさしかった。
 イコン画とラリックと縄文土器。これらに共通点があるような気がした。どれも日常に密接につながった美という点で。だからというわけではないだろうが、玉川大学教育博物館で、イコン画と考古資料展を開催しているのも、どこか象徴的だと思ってしまったり。縄文土器は、調理用に使われたと思われるが、祭祀にも使われていたようだ。日常がもっと、非日常と接していたのだと、つい思ってしまう。祈りと呪術的な行為と生活が、密接につながっていたのではなかったかと。わたしがこれらに惹かれるのは、だからなのだろう。美と生活。ことばが日常と美のなかで発せられること。
 縄文土器を見ることができ、それを思い出す術として、チラシをもらったので、それだけで満足して、企画展の図録は購入しなかった。帰り道、正門付近で、噴水のある池を見た。行きにも通ったのだが、この時も不思議に思った。前回、二回きているとき、見なかったものだ。水が好きなわたしが、見落とすはずがない。方向音痴だったり、道をおぼえるのが苦手なので、たしかなことは言えないが、どうも前回と来方が違うようだ。おそらく前は正門からはいってこなかったのだ。だから気付かなかったのだ。ともあれ、またここで、あらたなことがわかってよかった。池は玉川池というらしい。噴水があがっていたが、元々ここにあった池で、鶴見川の水源地のひとつとなっている。池と噴水、これもまた生活と美の融合ではなかったかと、逆光のなかで、かがやく水をみながら、ぼんやり思う。

21:36:35 - umikyon - No comments

2017-11-15

冷たい水が、温かい。ショベルカーとダンス



 昨日、家の近くの川岸を歩いていた。仕事中だった。わたしの片側、左側で、空気がゆれたような気がした。少しの得体のしれなさが、不安というよりも、謎めいて、めまいすれすれのなにかをもたらした。ほんの数秒。そして、左側で、ゴゴゴというちいさな音。砂利道をゆくショベルカー、だいぶ傾いた午後の陽射しのなか、そのショベルカーの影が、わたしにかぶさってきたというか、よぎったのだった。これらがわかった、というよりもいちどきにわたしにはいってきて、それから、理解したのも、やはり刹那だった。ショベルカーの影が動いたのか、わたしが動いたのか。また理解したからか、しないときだったか、なにかにくるまれたような気がした。日向であるとか、影であるとか、そうしたものたち。そのすぐ後、こんどはショベルカーの影だと完全にわかったときだ、こんどはまるでショベルカーの影とダンスでもしているみたいだと思った。影がわたしの左側にいてくれて、わたしをリードしてくれて。この想像もやはり一瞬だ。空気がゆらいでから、合計しても何秒にもならないだろう。けれども時間が長かった。そしてとても、久しぶりに幸せだと思った。めずらしく、メモをとった。
「刹那のゆらぎ。ショベルカーの影、かぶさって、日なたでダンスしているみたいだと思った。そのとき久しぶりに満ちていた」。

 八月から十月の間、雨が多かったと思う。職場的な環境が変化したこともあり、また長雨のために、すこし心が塞いでいた。天気が悪いと心のなかに雲がうまれたようになる。自然によって生かされているのだなとぼんやりと思う。
 その長雨が止んで、家の近くの崖の湧水たち。気付いてみると、水量が増していた。雨が止んでまもない頃は、湧水が道に流れ出すほどだった。この場所は、どんなときでも水が涸れることがなく、大好きな場所なのだが、さらに水量が豊かになっていて、それがうれしかった。



 このことに気付いたのは、十月の終わりだったろう。今は、だいぶ落ち着いている。もう道に水が流れだしてはいない。秋のおわり、ヒヨドリがギイギイ鳴くなか、葉やドングリが落ちている。冬でも青い葉をつけるジャノヒゲたちのなかを、湧水が流れる。住宅地のなかで、崖だから、緑が残った。ありがたいことだ。木々と水。一歩離れると、道があり、マンションがあり、スーパーがある。この異空間がどんなにか、好きだったか。水量が多くなった水に、誘われるように思い起こされるのだった。
 さらに、家の近所。以前にも書いたけれど、こちらは、ほんとうに、もう家のすぐ目と鼻の先。こんな長雨の後にだけ、現れる小川と、それに由来した湧水池がある。家の窓から、池のほうは、水は見えないけれど、池を覆っている草などは見えるぐらい。そちらもこの頃は水が流れ、そして池(正確には泉かもしれない)に水が湛えられてあるのがうれしい。



 わたしはなぜこんなに水が好きなのか。ごく幼年の頃、おぼえているかぎりでは、三歳ぐらいから、水に惹かれていた。家の近くには、今では暗渠となってしまった、コンクリートで護岸された小さな川があるだけで、海も遠かった。なのになぜなのだろう。羊水の記憶? まさか。ありえない話ではないけれど。
 生まれて六歳ぐらいまでいたのは世田谷だった。今住んでいるのもそうだが、こちらはうれしい偶然で、生まれたところに戻ってきた感じ。
 生地のほうは、わたし個人の感覚としては水に恵まれているとはいえなかったが(ドブ川しかなかったから)、当時は井戸水があった。蛇口から、井戸水と水道水、両方が蛇口から流れていたし、表には、手押し式のポンプがあった。今もあのあたりの神社などでは、井戸水が使われていたと記憶する。そして、今住んでいる場所付近は、先に書いたがまだ湧水が何か所かある。井戸も、あちこちにあの、なつかしい手押しポンプがある。使われていないものも多そうだが、そのなかで、ある時、新しいものを見つけてみとれていたら、「このあいだ、掘ったんですよ、検査してもらってないんで、飲めないんですけどね」と、水を出してくれたことがあった。
 なぜ、水に惹かれるのだろう。今住んでいるところは、あの幻の川以外に、野川という川が近くに流れている。自然と共存するよう、ぎりぎりの護岸対策が施されているので、風情がある。あまりに日々、慣れ親しんでいるので、幻惑される、ということはないけれど、たまに、ふっと、なんて恵まれているのだろうと思うことがある。川の近くにいることが。
 ショベルカーとダンスしたのも、その野川の岸辺だった。今、東名ジャンクション、東京外かく環状道路の工事中で、ショベルカーもその作業で使われていたものだ。徐々に川の岸辺の空がせまくなって、なにかロボットみたいな巨大な建物が姿をみせはじめた。川岸も景色が変わってゆく。あのあたりは、緑が深い、こんもりした森になっていたのだが。

 桜が、紅葉して色づいてきた。桜は二度花を咲かせるのだと、この時期になるといつも思う。満開に近い紅葉した桜。春の満開した桜の姿が重なる。



 なぜか、久世光彦の本にまた戻ってきてしまう。たしか違う作者の本を読んでいた筈なのだが。そうだ、書くもののために、資料的に夏目漱石や澁澤龍彦を再読していたのだ。澁澤のほうは、家のどこかにあるはずなのだが、見当たらなかったので、ネットで中古で買った。そのときについでに久世光彦のエッセイも買ったのだ。それがきっかけだった。さらに単行本を、図書館で借りた。『泰西からの手紙』(文藝春秋)。泰西絵画とそれにまつわる作者のエッセイ。ここでは、詩や小説についての言及も多い。なぜ久世光彦の文章に惹かれるのだろう。おそらく郷愁のようなものが関係している。彼の文章は懐かしい。
「五歳の私の記憶は、誰にも侵されない私だけの幻であり、人がすべてを奪われた後にも、たった一つ見ることができるのは、その人の《幻》である」
「色使いは《嘘のように》鮮明な原色だった。それが私たちに遠い遥かな《泰西》を想わせたに違いない。遠すぎるということが《幻》ならば、美し過ぎることもまた《幻》だったのである」
 「こうした絵をぼんやり眺めていると、《美しい》ということが、何かとても簡単なことのように思えてくる。水は冷たいとか、ほんとうの空は青いとか、人はいつかいなくなるとか──そんな五歳の子供でも知っているような、わかり易くて大らかなものに違いないのだ」
 ならば、わたしのまわりの、これらも、まぼろしであり、美しいものなのだ。水がながれ、紅葉した葉がおちて。

(結局『泰西からの手紙』は、家の住人になってもらうことにした。数日前、ネットで注文した。)

01:00:16 - umikyon - No comments

2017-11-05

イボキサゴ。名前が過去たちを繋ぐ。(加曽利貝塚 縄文秋まつり)

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 ひと月ここをあけてしまった。ちょうどこの期間、締切のある原稿を書くことがたて続けにあった。たぶん、ほとんどそれが主な原因なのだが、なにか、書かなかったことに罪悪感のようなものが生じ始めてきた。これからは、なるべく、空けることがないようにしよう。
 ふとしたきっかけで、千葉で縄文祭りが開催されると知った。調べてみると、加曽利貝塚公園内で十一月三日〜五日にかけて行われるらしい。三日の文化の日に出かけてきた。 正確には縄文秋まつり。
 加曽利貝塚は、千葉市にある世界でも最大規模の貝塚で、標式遺跡としても知られる。公園内は、直径一三〇メートルの環になった北貝塚(一九七一年国史跡認定)と、長径約一七〇メートルの馬蹄形をした南貝塚(一九七七年国史跡認定)からなり、史跡公園として整備・保存されている。また今年二〇一七年に、国の特別史跡に指定されたそうだ。縄文式土器などを見ていると、加曽利E式、加曽利B式というものよくみるが、その指標となっている土器が出土されている。
 ちなみに加曽利E式は、北貝塚のE地点出土のもので、縄文中期後半(約五〇〇〇年前)、口が大きく内弯する、深鉢形が主体。加曽利B式は南貝塚B地点出土のもので、縄文後期後半(約三五〇〇年前)、側面が丸みをおびたり、浅鉢になったり、用途によって器形に違いが見られるようになっている。
 と、もっともらしく書いているけれど、はずかしながら、加曽利E式、B式という言葉は聞いたことがあったが、この貝塚のことは、知らなかった。いって、はじめてわかったこと。
 すこし先走りすぎた。
 十一月三日文化の日。連日お祭りは朝十時からだという。だが、車で行く関係で、その時間について、駐車できるか、不安だった。公園内の加曽利貝塚博物館の開館が九時からだというので、それにあわせるように、早めに家を出た。めずらしく早朝バイトは休んで。
 レインボーブリッジなどを通ってきたので、海が見えた。海を見るのは久しぶり。おおむねの晴れもうれしかった。このごろ、天気がわるかったから。

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 祝日の朝だったからか、道は若干混んでいたが、九時二十分ぐらいには、目的地についたと思う。車も停めることができた。
 思っていたよりも広くて、すこし驚く。一面の森というか、木々が目立つ里山風景。駐車場近くの正門から、博物館にかけて、お祭りの屋台テントが連なっていたが、まだ準備中。むかって南の南貝塚の方に復元集落や、古民家がある。お祭りはおもにこれらの場所で行われる。
 最初に博物館へ。急いでみてまわったので、あまり感想が書けない。だが出土した土器のかけらたちにさわれることに驚いた。土器にさわるのははじめてだ。おもっていたよりも感動はなかった。だが懐かしかった。この懐かしさから、おそらく徐々になにかがわたしに生じるのだろう。ざらざらとする土というか、堅い感触。わたしはしばらくそれでも指でもてあそぶようにして、その場にいた学芸員さんの話をききながら、そこにいた。そう、学芸員さんがなぜか急に現れ、色々解説してくれだしたのだ。この辺ではとれなかったヒスイや黒曜石の出土が、各地方との交易を示唆しているなど。東京湾の海流は、三浦半島から時計周りに千葉へ海岸沿いに流れているので、砂がはこばれ、富津あたりが遠浅になったとか。そのなかで、イボキサゴという貝の話が出てきた。直径一センチから二センチほどの小さな巻貝。加曽利貝塚でも大量に出土されているので、博物館内にも展示されている。加曽利貝塚は今もそうだが当時も海から五キロは離れているそうだ。そんなところで、なぜイボキサゴが大量に出土されたのか? 縄文人はイボキサゴをどうしていたのか? 諸説あるそうだが、塩分や甘味などを添加するのが難しかった当時、うまみダシ的に使っていたのではないか、と語っていた。そういえば、宍道湖にいったとき、蜆たちが、ダシとして、売られていたっけ。詳細はわからないが、素人ながら、そのうまみダシ説がしっくりするような気がした。
 イボキサゴは、今では東京湾では水質汚染などで、かなり減ってしまっているそうだが、干潟よりももうすこし深いところ、木更津の盤洲干潟などでは、採れるらしい。江戸時代は、この貝でおはじきをしていた…。
 ところで、なぜ、わたしがこれほどイボキサゴにくらいついているのかといえば、ここで見るのがはじめてではないから、それどころか、知らずに食べていたこともあるからだ。
 じつは、この千葉の遠浅、富津あたりで、何回か、潮干狩りをしたことがある。そのときにアサリにまじって、ごくまれにイボキサゴを採ったことがあったのだった。きれいな小さな巻貝だなと思ったが、当時、名前を知らなかった。知らないながら、美しさに惹かれて、採ってきたものだった。そうして帰宅後、アサリと一緒に調理して頂いた。つまようじなどでほじくりださないといけないが、小さいけれど、濃厚な海の味がした。そして、貝殻は干して取っておいた。今も飾ってある。だが、名前をしらなかった。それが、わかった。イボキサゴ。名前がわかるということは、わたしにとって、特別な作用をする。もう、これからは名前で呼べる。それはわたしとちいさな巻貝をつなぐ糸のようになる。糸がもっと具体性を帯びる。これからはイボキサゴといえば、縄文人が食した食べ物であると同時に、潮干狩りで大切に思っていた貝として、思い出すだろう。名前はこんなにも、わたしのまわりを、きらきらとして見せてくれる。
 また話が飛んでしまうが、復元集落のあたりで、イボキサゴを使ったアクセサリー作り体験のコーナーがあったり、販売をしていた。体験はおもに子どもむけのようだったから、恥ずかしくて参加しなかったが、記念にアクセサリーを買った。
 それと、この日は、祭りの会場、古民家のうらあたりで、縄文式土器で調理したイボキサゴスープの無料配布があった。十二時からだったので、ちょっと時間調整して、並んで頂いた。正直、味はいまいちだったが(これは作り手の問題だと思う…ごめんなさい)、食べれてよかった。さらに、イボキサゴを炒ったものを食べることができたが、こちらはおいしかった。
 イボキサゴが出てきたので、ちょっと興奮して、時系列をみだしてしまった。博物館で学芸員さんのお話しを聞いたあと、お祭り会場へ。十時から、復元集落のほうで縄文式土器で作ったゆで卵のふるまいがあったので、そちらへ。
 復元された竪穴式住居が点在している。火起こし体験、弓矢体験、縄文服の試着、例のイボキサゴのアクセサリー作りなども行われ、賑わっている。子どもが多いのが何よりだ。
 復元住居が点在している原っぱのまわりは森になっている。ドングリのできるクヌギやコナラ、マテバシイ、スダジイなど、縄文時代に生えていた木を選んで植えているようだ。後で博物館で頂いた資料をみると野草の類も豊富らしい。アマドコロ、ヒトリシズカ、オトギリソウ、クララ、リンドウ、ニオイタチツボスミレ…。森には、季節柄、ドングリの類が沢山落ちている。また、復元住居のなかで、炒ったドングリを食べさせて頂いた。おいしい木の実、ナッツの類だった。
 ところで、こうした遺跡公園というのは、独特のたたずまいがある。どこか神聖な雰囲気なのだ。植わっている木たちのせいか、それともきっと他の理由なのだが、古代からの風のようなものが感じられる。この地で、かつて彼らが生きていた。たとえばどこかの古墳にいったときの、静けさ、あるいは奈良の明日香、それとも違う。けれども、なにか共通した、時を温存した空気のようなものが、あたりから拡がっている。とくに加曽利貝塚公園で、似ている雰囲気として思い浮かべたのは、長野県の尖石遺跡だった。今から約五千年前から三千年前に栄えた遺跡で、国宝になった土偶「縄文のビーナス」「仮面の女神」が出土されたところ。おごそかで、森が神秘にみちていた。とはいえ、近寄りがたい雰囲気というのは、すこしちがう。神秘をたたえつつ、どこか人をよせつける、人懐こさがあるというか、やさしさが感じられる。そんな時の累積で、独特の雰囲気をかもしている、それらの気配、匂いのようなものが、この加曽利貝塚と通じるような気がしたのだった。そういえばここでは、原っぱになっているところで、レジャーシートを敷いて、ピクニック的なことをしている家族があった。おだやかで、連綿と。

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 十時からのゆで卵のふるまい。こちらも何とか頂けた。縄文時代は鶏はいなかったので、雰囲気だけ…。だが、不思議と懐かしい味がした。
 さらに北貝塚のほうで、断面を見れる施設、住居跡が見れる施設があったので観覧した。断面には、またイボキサゴたち。
 こんなふうに、復元住居、博物館、古民家のあたりで遊んでから、屋台ブースにいったので、けっこう品物が売り切れてしまっていた。気付いたら午後一時近い。四時間近くいたことになる。名残惜しかったが、お腹もすいてきたので、帰ることにした。おみやげは貝塚博物館のパンフレット群、そしてイボキサゴのアクセサリー、何の木だろうか。ドングリのなる木のコースター、おちていたドングリ、取ってきた数枚の写真。いや、イボキサゴと言う名前、加曽利式、加曽利貝塚という名前たち、盛りだくさんだ。

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08:55:13 - umikyon - No comments