Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-05-30

均衡のなかで、声、聞けますように

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 またここを少しあけてしまった。きっかけは何だったのだろう。今回は、ここだけでなく、ほとんど文章を書くこともしなかったので、この間に、だんだん、元気がなくなっていった気がする。いや、そうではない、たしか、最初は風邪か何かにかかっていたからだ。そのうち、すこし日常のほうでの環境の変化に、心がすこし対応しきれなくなり…。
 悪循環だ。まだ最初の頃は、鳥たちの声、咲いた花たちのささやきが聞こえてくるようだった。すくなくとも5月半ばぐらいまでは。
 道ばたで、コバンソウの花がたわわになっているのを見つけた。古墳のところで見て思いにふけった、あのコバンソウが、別の場所に生えていた。週一回のバイトの時に、そこを通る。古墳にいったのが一ヶ月半ぐらい前だったかしら。そのすぐ後に見つけたときは、うれしかった。それが、一週間ごとに、少しずつ、緑だったコバンたちが、黄色く色を変化させてゆく。たわわにみのった稲穂のようだ。ほんとうに小判の色になって。その変化をしばらくは楽しんでいた。けれどもたとえば、昨日、通りかかったとき、そのコバンソウの姿に、ほとんど心が動かされることがなくなっているのに気づいて、さびしく思った。それもぼんやりとだ。それも、こうして何かを書かなくなったからだ。書くことで、わたしはバランスをとってきたのだ。それだけではない、書くことで、彼らと対話してきたのだ。その声が聞こえない…。

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 書くだけではなく、本もあまり読めていなかった。つまり言葉たちと離れた生活をしていったのだ。もう体調はだいぶよくなっていった。だが、言葉たちとふれあわないできたせいなのか、だんだん、心が沈んでいった。日常だけで生きている感じ。非日常がないので、足元がおぼつかない。
 ただ、この期間、締め切りがある原稿、仕事が少しだけあった。けれども、これはいつもの非日常的な文章のほうではなく、調べ物をして、それを文に起こす、インタビューをまとめるなど、日常に近いほうでの仕事だったので、書くには書いたが、何かが違った。そこにはわたしが書く、わたしの言葉というのが、かなり薄い。それでも、締め切りのある文章を書くことができて、文章を書く機会があって、よかったのかもしれないけれど。
 ちなみに、この仕事、ある地域のタウン誌的なものに載せるものなのだけれど、それに携わりたいと思ったきっかけは、書くことで、社会と関わりが持てているという実感が持てるのではないかと思ったから。その土地の出来事、その土地の歴史、そこに携わっている人との関わりによって、そして誌面を作るほかの編集スタッフさんたちとの関わりによって。社会、あるいは、場所。それはわたしには必要だったし、今も必要だと思っている。
 ただ、その性格上、いつも書いているものとは、すこし毛色が違う。わたしがいつも書いているものが、非日常に近いとすれば、タウン誌のための文章は、日常に近い。通常なら、それでバランスをとっていたのだけれど、このときは違った。書くことで、日常にまた均衡がとれなくなり、そのことで、足元がおぼつかなくなった感じ、あいかわらず、おそらく境界上にいたのかもしれないけれど、
 そして、どうしたのだったかしら。
 詩人の集まりがあった。その会場に赴くことに罪悪感を感じた。もはや書いていないのに、という。だから、へまもやったけれど、彼らと接することができて、それでもよかった。それだけが理由ではないけれど、こうして、一歩、非日常に足を踏み入れようと、書くことをする後押しにはなったから。
 まず一歩。

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 もうだいぶ前になってしまう。5月のゴールデンウィーク中に、神代植物公園に出かけた。連休中ということもあって、混んでいたけれど、ああいうところはそれほど、混雑が気にならない。多くの人は静かだし、たぶん緑たちが、彼らをおおってしまうから。わたしたちは、森のなかに入ってゆく、緑に包まれる。
 なので、バラ園のような開放的なところでは、人の多さが目立ったような気がする。ただ目立ったというだけで、どうということではないのだけれど。
 まだバラ園は見頃ではなかったようだが、かなりいろんな種類のバラが咲いていたっけ。

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 ほかの植物たちはどうだったかしら。ちょうど、緑が新緑のやさしい色合いから、深い緑に変化しつつある、そんな頃だった。バラでいうと、つぼみからひらきかけの、いちばん美しくみえる、にぎわいの絶頂。晴れていたこともあり、葉の緑、木々の緑たちが、きらきら輝いて、それが眼にしみた記憶がある。こんなに緑が響いたことがあったかしら。たしか、そう思ったはず。そう、書くことで思い出す。こうして、少しずつ、何かたちがまた、戻ってきてくれるのだろうか。
 そういえば、赤い、小さな実をつける木があった。ウグイズカグラとあった。なんとなく、赤い実といえば、秋のような気がしているので、新鮮だった。またひとつ、名前が覚えられてよかったと思ったっけ。あとで、というか、今、これを書くために、ウグイスカグラを調べてみた。花は、見たことがあった。よく見かけるものだった。名前と花が一致した。これからは、花を見かけたら、ああ、ウグイスが鳴く頃に咲く、ウグイスカグラだなと、思えるかもしれない。それが、彼らを聞く、ということなのだろう。

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 アジサイが咲き始めた。ホタルブクロが多分見頃。コバンソウは、もはや黄金のまま、今年の花を終えている。
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2018-05-05

多摩川(玉川)とニセアカシア

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 つまらない事情で、朝の小一時間ほど、時間を潰さなくてはならなくなったので、ある平日、先日すこし見た、狛江の多摩川にでも行くことにした。バイト先からおそらく自転車で15分ほど。
 お花見の時期、桜並木が見事なところ。六郷さくら通りというらしい。その多摩川沿い、西河原公園のあたりへ。
 じつは車でよく通ってはいたところなのだが、わたしが運転しているわけではない、助手席で車窓ごしにながめていたところなので、道が少し不安だった。たぶん、この道…。もう緑の木になった、桜が見えた、新緑の桜並木が見えた。そうだ、ここだ。前回、見かけたお稲荷さん、古墳もある。
 もう道がわかったので、西河原公園が見えたらすぐに、その緑のなかへ入ることにした。木々と池。わたしはやはり水がすきなのだなと思う。そしてこの木々のすぐ隣が、多摩川だ…。

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 そして、木々が切れたところに多摩川の土手。河川敷まではゆけないけれど、ゆけるぎりぎりのところまで行ってみることにする。
 この日は晴れていたので、空は青い。けれども、前日、雨が降っていたので、水は若干濁っているようだ。
 実はここに来る途中、日が沈むほう、高架下の道のむこうに、富士山が見えていた。わたしは方向音痴なので、何回も通っているのに、普段、向かっているのが西だとあまり意識したことがない。富士山がこの道の向こうにあることも、見えることも知らなかった。春にしてはくっきりと富士山は見えていた。けれども、一瞬だ。道はまっすぐに感じられたが、曲がっていたのかもしれない。すぐに見えなくなった。けれども幸先がいいと思った。
 多摩川を見ながら、土手を少し歩く。やはり西の方角、上流に向かって。こちらは、この間来たときは、西日でまぶしかったところだ。西日のなかで、中州が広がっていた。島のような緑。中州のほうを、もう少し近くから見てみたかったのだ。そのときに、ふと、そういえば、西だよなと思った。さっきみた富士山は見えるかしら…。日が沈むあたりを探す。あるいは対岸を探した。対岸を探したのは、葛飾北斎の《冨嶽三十六景 武州玉川》を思い出したから。けれども、これらはほんの一瞬の心の中の動きだったから、それらがイメージとして、絡まって、わたしにあの方角を見ろとしむけた、というほうが近い。さきほど、くっきりと見えた富士がそこにあった。まるで《冨嶽三十六景 武州玉川》のような。

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 わたしは実際にどこを描いたとか、あまり意識したことがないのだけれど、すこし気になった。北斎の絵は、渡し船があるけれど、なんとなく、対岸の右よりにある富士の位置は、今、見ている富士と方向的に似ているのではないかしらと。以前、この辺りだったかもしれないと聞いたことがあったような気もしてきた。違っているかもしれない。けれども、同じ玉川(多摩川)の向こうに、同じ富士山を見ている。時を隔てて、北斎と。そう思うのは、心地よかった。流れる水は違うけれども。
 後で調べたのだけれど、《冨嶽三十六景 武州玉川》の実際の地は、府中、調布、大田区と諸説あるようだ。わたしがみたのは狛江市だけれど、限りなく調布に近いところ。あながち、大きく違ってはなさそうだ。

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 富士と多摩川、そして中州。それらをぼんやりと見て、ゆっくりと帰り支度をする。桜の木の隣に、白い藤に似た花をつける木があった。葉もマメ科のようだ。満開だ。白い花たちがブドウのように垂れ下がっている。クマバチという、大きな蜂も飛んでいる。満開というのは、なにかしら、心がひかれるものだ。けれども、名前がわからなかった。スマホで検索してみる。マメ科、白い花。ニセアカシアだとわかる。

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 ずいぶん以前、「ニセアカシアの花が満開です」と、やはり川の土手に咲いているのを、手紙に書いてくれた人があったことを思い出した。
 ニセアカシアって、どんな花なのかしら。ほのかな恋心とともに、そう思ったこと、など、遠い気持ちで。ああ、この花のことなのか…。満開の、白い花たちを見れてよかった。名前がわかってよかった。あの手紙とともに、これからは、ニセアカシアという名前が、なにかたちとなって、わたしのなかで、しまわれるだろう。
 ちなみに、クマバチ。後日知ったのだが、藤の花と特に密接な関係をもつ蜂らしい。似ているニセアカシアの近くにいたのをうなずく。こんなふうに、彼らが、関係している。その糸が、連なっているのが、なんだかうれしい。
 それらを、後にして、もうほんとうに家の近く。公園に鯉のぼりが泳いでいた。かつてあった田園風景を再現した公園で、水を張った田んぼに、鯉が映っているのが、なんだか鯉が泳ぐようで。ここにはかつて、実際に用水があったのだが、それが、さっきまでいた西河原公園あたりから、水を引いていたそうだ。六郷用水、または次太夫堀。今は野川から水を引いているので、厳密には、ちがうかもしれないが、ここでも、多摩川(玉川)に思いをはせてみるのだった。
 この近くでもニセアカシアの花が咲いているのを見つけた。多摩川が作った国分寺崖線、崖の上で。連なって。満開で。

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18:25:30 - umikyon - No comments