Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-06-30

ラベンダーの重なり─嵐山町千年の苑

null

null

null

 新聞で、埼玉の嵐山町に、来年(2019年)6月にラベンダー園ができると目にした。その日のうち、今年の6月16日から7月1日の期間、プレオープンとして園内一般開放、さらに6月23日(土)、24日(日)、お披露目をかねてラベンダー祭りを行うというので、土曜日に出かけてきた。
 ラベンダーを見に行くといえば、いつもなら久喜市菖蒲町のラベンダーだ。ほぼ毎年出かけていて、実は今年もそろそろそちらに行こうと思っていたのだが、つい、嵐山のほうに惹かれてしまったのだった。
 目新しさということもあるけれど、それよりも、ラベンダー園がなかなか広いようなので、それが心をくすぐった。嵐山町のHPなどによると、来年の完成時には約8ヘクタールで植え付け面積は日本最大級、現時点でも約6ヘクタール、約4万本の植え付けがされていて、関東最大級になっているとある。
 正式名称は、嵐山町千年の苑(ラベンダー園)。ところで、嵐山町。わたしは小学生にあがる頃から高校生ぐらいまで埼玉に住んでいたのだけれど、埼玉のなかでも下のほう、川越近辺だったからか、埼玉のほぼ真ん中にある嵐山町には、あまりぴんとこない。住んでいたところから離れていても、秩父や越生、行田など、遠足や林間学校、小旅行などで訪れた場所なら、なんとなくなじみがあるように感じられるが、嵐山町はなぜかこれまで、訪れたことがなかったのだ。それもあって、行きたいと思ったのかもしれない。
 嵐山町千年の苑。近くというか、隣接しているのは嵐山渓谷バーベキュー場。こちらは槻川沿いだが、すぐ下流で都幾川と合流する。この槻川と都幾川に挟まれたV字のなかにラベンダー園がある。
 ちなみにわたしは川好き、というか水に独特のシンパシーを感じる。この都幾川は名前だけは知っていたが、多分来るのは初めて。清流ということはなんとなく知っていた。今回、都幾川のほうは、ラベンダー園からあまり見ることができなかったが(しなかったのかもしれない)、槻川のほうは、バーベキュー場に足を伸ばして、見ることができた。梅雨の最中で、濁っているかと思ったが、思いがけず澄んでいて、うれしかった。同じ埼玉の、日高市の巾着田、彼岸花たちが咲く高麗川、あるいは越生市の越生梅林がある越辺川などを思い出す。どれも水が澄んで見える。槻川という初めての名前の川が、澄んだ水によって、わたしのなかの記憶の埼玉の川と結びつく。

null

 と、ラベンダーからすこし離れているし、時系列からも飛んでしまった。
 車で出かけた。というか、つれていってもらう。高速道路(関越自動車道)を降りてしばらくすると、向こうにラベンダーの紫色が拡がっているのが見えた。なるほど面積が大きい。それだけで心がさわいだ。ただ、駐車場に車を止めるのにかなり列ができているので、すこし驚く。駐車スペースは300台ということで心配になったが、渋滞は細い道などのせいだったらしい。列の割にスムーズに車はうごき、停めることができた。
 新聞やテレビなどで採り上げられたからか、思ったよりも人が多かった。けれども、どちらかというと、それは喜ばしいことだ。それにいつも思うのだが、花を見に来る人たちは基本的に静かだ。花を愛でている、写真に収める人たちが多いので、混雑はあまり気にならない。人々は広い敷地内、ラベンダーたちのなかで、別の花のように、あちこちにいた。
 ラベンダーたちといえば、なるほどたくさんだ。アブや蝶たちも、花が多いからだろう、たくさん集まっている。ラベンダーといえば美瑛、というあのラベンダーと比べてどうなのかしら。北海道は行ったことがないので、遠い北のラベンダーを想う、重ねてみる。天気は曇り。今日は蒸し暑くはないけれど、こちらのほうが湿気が多いのだろう。久喜市菖蒲町のラベンダーとも比べてしまう。あちらは周りにすぐ田んぼがあったっけ。ただ、こちらのほうが面積が広いので、ラベンダーの匂いが拡がっている。むせそう、というのとは違う。やさしく、あの独特の香りがあたりになじむようにして拡がっている。空気のなかで、とけこみながら、包み込むように、そこはかとない、やさしい匂いだ。

null

null

null

 プレオープンということで、まだ育ちきっていない、若い、こぢんまりとした株のラベンダーたちの植わった畑もあった。土に置かれたマリモの群れのようで、かわいらしい。その緑の小さな丸みのなかに、花穂をつけているものもあちこち見られた。こんなに小さいのに、花をつけるのだと、やわかなか驚きが、温かい。
 摘み取り体験もできるようだったが、なんとなくラベンダーの芽を摘むということが、怖かったので、遠巻きに見た。来年の花のために、これは採らないようにという説明が聞こえてくる。摘み取り受付がなぜか長蛇の列だった。そこから少し離れた時、「あれは何の列なんだろう? 食べ物かな」、家族連れが不思議そうにしているので、珍しく口を開き、「ラベンダーの摘み取り体験受付だそうですよ」と言ってみた。旦那さんであろう人は、「じゃあ、並ばないでいいや」と言っていたが、小さな娘さんが「ええ、摘みたい」と小さな声で主張した。母親が「ありがとうございます、ラベンダー摘むの、どうしようかしらねえ」とその場にいた、わたしを含めたものたちに言った。ただ、それだけなのだが、なにか心がほんの少しだけ、ぬくもった。
 わたしと連れは、ひととおりラベンダーたちを眺めたあと、特設テントで売られている農産物、食べ物、物産などを見て、軽くそこで食事をした。
 プレオープンだったからか、食べ物も、物産なども、まだあまり充実していなかったような気がするが、仕方ないだろう。
 そうして隣接の嵐山渓谷バーベキュー場などにいって、そろそろ帰ることにした。時間は二時過ぎ。行きとすこし違う道を使っての岐路だった。嵐山町の中をぬける。緑が多い。木々が多いといったらいいか。平地なのに山間に来たようだ。この感覚も、初めてきた、新鮮さがあった。ほかの、訪れたことがある埼玉とは、ちょっと違う。この違いが感じられるのが、どこかうれしい。まだまだ知っているようで知らない土地があるのだ。そして、子供の頃、埼玉に住んでいた頃は、とくにどうと思わなかったが、埼玉は、いい場所だなあと、このごろ、改めて思うことが多くなった。一概には言えないが、緑が多いし、都心にも近い。小さな見所がたくさんある。わたしが住んでいたあたりも、小江戸川越があったっけ。
 ラベンダー園にいたときもすこし雨に降られたが、車に乗って帰る途中、けっこう雨が降ってきた。ラベンダー園にいるときは、なんとか天気が保ってくれてよかった。日高町、越辺川、鎌北湖、入間川、なつかしい名前を車窓に眺める。来年は、久喜市菖蒲町のラベンダー、この千年の苑、どちらにゆくことになるだろうか。雨脚が強くなった。

null
01:28:26 - umikyon - No comments

2018-06-20

紫陽花の誘い─郷土の森あじさいまつり

null

null

 どこかで、あじさいがみたいと思っていた。近所で、あちこちで見かけるアジサイを、名所のようなところでなくともいい、すこしだけ、まとまって咲いているのを見たいと思った。
 そんなとき、府中であじさい祭りがあると知った。「郷土の森 あじさいまつり」(二〇一八年五月二六日〜七月八日)。うちから車で割と近くなので、土曜日に出かけてきた。出かけるのもひさしぶりだ。場所は正確には府中郷土の森博物館。森全体が博物館になっているフィールドミュージアム。本館として、企画展や常設展、プラネタリウムのある建物ももちろんあるので、最近まで博物館とは、そこのことだけだと思っていた。けれども、移築復元された建物群、森というか、園の植物たち、すべてを含んで、博物館というのは、心地よい。ここには村野四郎記念館もある。

null

 駐車場から、博物館入口にゆくまでの間に、物産館がある。そこをのぞくのも結構楽しい。観光に来た、というのとはすこし違う。旅と日常の境界線で売られているものたち。府中育ちの野菜もあり、府中ならではのものもあり。あじさい祭りにちなんだものもあった。アジサイの和菓子、アジサイを模した金平糖がかわいい。府中の森で採れた梅干しも販売されている。これは、前に梅祭りで来たときに買ったことがあった。
 そして、森へ。博物館へ。正直、あまり期待していなかった。これはわたしの側の問題で、このごろ、心がすこしばかり、下向いていたから。たぶん、それではいけないと思って、出かけることにしたのだろうけれど、アジサイを見て、自分が心をふるわせることができるとは、思っていなかったのだ。それでも、見に行きたいなあと、どこかでぼんやりと思っていた。そんなはざまに、わたしはいた。
 本館を通り過ぎ、復元建物たちが見える。建物の横で、もうアジサイたち。どこかでふわっとなった。心のなかの扉がすこしだけひらいて、そこから、なにかたちが、ふわっと、出ていった。それがアジサイたちに向かって。何をいっているのか。自分でもわからないが、アジサイたちが、わたしに開いてくれたと感じた。アジサイたち、小径沿いのたくさんの、咲きそろった花たちを、見つめる。そのとき、ひさしぶりに、つつみこまれるような、やさしさを感じることができた。すこしむせそうな、花たちとの逢瀬。

null

null

 天気は、曇り、ときどき少しの雨。散策するのにも、アジサイを見るのにも、ちょうどいい、そんな気候。アジサイは晴れた日差しがさんさんと降り注ぐなかで咲いているのを見るよりも、雨に濡れた花を見る方が、なんとなくしっくりする。こちらの勝手な思い入れなのだろうけれど。あるいは曇り空の下で、あざやかな色の花を見る、イメージ。
 郷土の森のなかで、アジサイたちは、思ったよりもあちこちに咲いていた。アジサイに囲まれている気分になったというよりも、森の緑のなか、アジサイを通じて、季節と向き合っている、そんな気がしたのかもしれない。アジサイの向こうに、たとえば梅林があった。今はもう梅の実も収穫され、葉を茂らせた木々となっている。そして蝋梅。以前梅祭りで訪れたときに、蝋のような花びらに惹かれたものだったが、それがなんと実をつけていた。季節が変わっている。彼らの時間が、別に過ごしてきた、別の人生が、一瞬だが感じられた。
 ネムノキも花を咲かせていた。多分、もう盛りは過ぎていたのかもしれない。けれども見ることができて、よかった。なんとなく子供の頃から好きなのだ。夜になると葉をとじて眠る、その姿がいとしいと思った。仲間にオジギソウがある。マメ科ネムノキ亜科。こちらは夜になると葉を閉じるだけでなく、葉に触るだけで葉を閉じてしまう。生き物のようで、好きな植物だった。葉に触って、眠らせることを繰り返したので、父に叱られた記憶がある。かわいそうだからと。そう、これも子供の頃の記憶。わたしの時間は、父と植物とともにあった、過去に、依存しているところがある。止まっているとまではいわないけれど。ネムノキがオジギソウの仲間だと知ったのは、あの頃だ。オジギソウは近頃、あまり見かけなくなったが、ネムノキは、どこかで、たまに、たとえば、こんなふうに。その度に、あの、父とともに、オジギソウを、すこしだけ思い出すのだった。

null

 そういえば、アジサイもまた、そんな思い出があるかもしれない。父はガクアジサイを育てていた。ガクアジサイは、額紫陽花と書く。中央の小さな花、つぶつぶとしたものを装飾花が額が囲むようにして咲く。日本古来のもので原種に近い。ちなみに普通にアジサイと呼ばれるものは、ホンアジサイと称されていて、西洋で品種改良した、つぶつぶの中央がない、装飾花だけのもの。本来はあのつぶつぶとした中央がおしべやめしべを有した花なので、それをほとんど持たないアジサイは株分けや挿し木などで増やすのだとか。
 うちには、ガクアジサイがあった。だから、だろうか、あのつぶつぶとした花を持つ、その姿に今も惹かれる。色は青か紫。もちろん、通常のアジサイ、ホンアジサイにも、心を寄せるのだけれど、家にかってあった、というだけで、ガクアジサイにいっそう思い入れを感じてしまうのだった。
 けれども、ここ、府中の森で、アジサイたちを見て、その区分が、ごちゃまぜになって、それがうれしかった。ガクアジサイもホンアジサイも、咲いている、ほぼ満開、かれらの姿が見れてよかった。彼らに包まれるような感じが、また味わえてよかった。ふわっとした、曇り空のしたの、やさしい時間。わたしはまた、彼らのもとに帰ってくることができたのだろうか。

null

null

 睡蓮の池があった。復元した水車小屋、田んぼなども。何かが帰ってきてくれたようで、彼らが優しかった。
 本館にも足を踏み入れる。常設展の、特に縄文時代の土器たちが見たかった。武蔵台遺跡の土器と石器、清水が丘遺跡の縄文中期の土器、本宿町遺跡の土偶。縄文土器、土偶たちに会うのもひさしぶりだと思った。また、わたしに、やさしい時間をくれた。そうだ、家にも土器のかけらがあるんだっけ。また触ってみたくなった。
 本館のミュージアムショップで、珪化木の化石を見た。植物の化石だとか。いつか買ってみよう。『府中市郷土の森博物館 常設展ガイドブック』という冊子を買った。
 また、彼らと出会うことができるのだろうか。すこしずつ。彼らがではない、わたしが心を。アジサイたちが、満開だった。

null

null
00:01:00 - umikyon - No comments