Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-08-26

連続ということ─縄文展のことなど

 台風の前の朝、バイトに出かけようと外にでたら、あざやかな朝焼けを目にした。鮮やかというよりも、すこし怖いぐらいだった。ああ、朝焼けは天気がくずれるという、天気に関することわざがあったなあ、「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」。その言葉を体感しているようでもあった。

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 縄文展(二〇一八年七月三日─九月二日、東京国立博物館)。実はちょっと前…もう一ヶ月近く前になるかしら、出かけていたのだが、ここで書かないできていた。
 なぜなのか。自分でもなんとなくはわかるのだけれど、明確にはわからない。行ってよかったと思う。図録も買ってきた(よっぽど気に入った展覧会でなければ買わない)。
 なのに、なぜか書けないでいる。たぶん、縄文を美という観点からだけ見ていいのかしらというすこしの罪悪感のようなものを感じてしまっているからだと思う。だったら、どうみればいいのか、それも明確にはわからない。むろん、展覧会自体のコンセプトを批判するのではない。ただわたしの見方に、ぶれがあるというだけなのだ。
 一同にあつまった縄文土器や土偶、その他の出土品というか展示品というか。すごいなあと感じたし、感動したけれど、こんなふうに場所から切り離されて、それを見て、感動するだけでいいのかしらと、どこかで思ってしまう自分が、都度いたのだ。たとえば、縄文展の後に行った練馬区立石神井公園ふるさと文化館「石神井川流域の縄文文化」では、出土品に、縄文展のような華やかさはなかったけれど、まだ何かが切り離されている感じがしなく、心地よかった。おそらく、石神井という土地と、ということなのだろう。
 つまり縄文的なものたちを、美としてだけ観ることに、自分のなかで抵抗が兆してきたのだ。
 だったらどう見ればいいのか。いや、見て、それに感動していることはいい。その感動の原因を掘り下げるには、縄文の人たちの世界観を知らなければ…ということを感じているのだとも思う。
 煮炊きする土器が、なぜあんなにも装飾的なのか。土偶は、なぜあんなにもデフォルメされているのか。
 
 けれども「縄文展」で、縄文土器の違いを年代的に知ることができたのはよかった。約一万年のあいだに作られてきた土器には、時期、場所によって形や文様に違いがある。草創期〜前期(紀元前一一〇〇〇年〜紀元前三〇〇〇年)までは、概ねが、縄やへら、紐そのほかで、文様が施されていて、中期(紀元前三〇〇〇年〜二〇〇〇年)は粘土を貼り付け、鶏冠に見えたり、王冠に見えたり、様々な飾りを加えている、後期・晩期(紀元前二〇〇〇年〜前四〇〇年)は、描線で描いたり、いったん描いた縄文をすり消したりする技法が用いられている…。
 その一万年の違いが、展覧会の会場で、一同にみれたことは収穫だった。わたしは今まで、中期のもの、粘土で装飾を加えたものが好きだったし、今もそうだけれど、こうした違いを知ることで、前期のものたちも、別の視点から見ることができたことによって、土器につけられたあまたの文様たちに、なにか、惹かれるものが芽生えたのだった。
 また、《木製編籠 縄文ポシェット》(三内丸山遺跡、縄文時代中期)も、心に残った。これは小さくて(高さ約十三センチ)、ほんとうにポシェットとしかいいようがない、小さな網籠だ。針葉樹の樹皮で編んだものらしい。これに惹かれたのは、使い方などに多分、今と通じるものを感じたからだ。中にクルミの殻が入っていた。もちはこぶためという、このわかりやすさがよかった。縄文の人々が感じられるような気がしたのだ。
 わたしは美的にみることと、そうでないものの間で揺れ動いている。《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市、御殿場遺跡出土、縄文時代中期(前三〇〇〇年〜前二〇〇〇年))。底が平坦で、釣手があり、中央は穴が開いているので、灯火具として使われたという節が有力だけれど、よくわかっていないようだ。前面は釣手部分に柔和な顔が施され、真ん中に大きな穴がひとつあいていて、そこが身体のようで、土偶にも見える。だが、裏は釣手から装飾のない底部に至るまで、荒々しいような装飾、表で胴体のように見えた真ん中部分に今度は二つの穴があり、それが目のようで、中央にうねうねと走る装飾が鼻、仮面のようにも見える。また両側面は、メドウサのように蛇が何匹も生えるよう。つまり、表と裏で見え方がまったく違う。優しいもの、怖いもの。生と死、美しさと真逆なもの、これらが連続して、表裏一体で…。

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顔面取手付釣手土器

 『縄文聖地巡礼』(坂本龍一・中沢新一、(株)木楽社、二〇一〇年)に、かなり《顔面取手付釣手土器》に似た《人面香炉形土器》(曽利遺跡出土、縄文時代中期、井戸尻考古館蔵)について書かれていた。そう、別のものなのだが、「縄文展」で見たときは違いがわからなかった。てっきり同じものだとばかり思って、後で図録と『縄文聖地巡礼』を見比べて、はじめて違いに気づいたのだった。見比べると、井戸尻考古館蔵の《人面香炉形土器》のほうが、裏のほうの髪の毛のような装飾がもっと蛇らしさが増している。
 「表は火を産む女神、裏は冥界の蛇の女神(キャプション)」、「縄文の人たちは、美人を見ても、同時にその後ろに蛇を見る感覚をもっていた(中沢)」。
 それは、生と死が連続していた、という世界観にも通じるのかもしれない。同じ本から。
 「縄文中期の遺跡群を見てみると、死者と生者が入り交じる状態をつくっていますよね。村の中央には墓地があって、空間的にも死者と生者が共存しているし、一日の時間のなかでも、昼間は生者の世界だけど、夜は死者が入り込んでくる(中沢)」。
 このあと、縄文後期から、死者と生者の分離が始まり、今に至ることが、述べられている。
 「不均質だった生者の世界は均質空間になり、死者の世界も観念的になって記号化されていく(中沢)」、人間世界と自然が分離されて、その上、一部の特権的な人間が自然の力を象徴し、その力を行使するようになっていくわけです(坂本)」。
 「縄文展」にいってから時間が経っているので、脱線しつつあるが、仕方がない。今『縄文の神秘』(梅原猛、学研M文庫)を読んでいる途中。こちらにも生と死の連関についての記述がある。「縄文時代の住居にはサークル状の遺跡が多い」。そのサークルの中心には石神というか、男根のような棒が立っていて、取り囲む放射状の石の部分には、遺骸が埋められていることが多いのだとか。「少なくとも一部のストーンサークルは墓場であったと思われる。直立した性器は墓場とあまり似合わしくないが、それはおそらく現代人の感想にすぎないのであろう。原始人の世界観において、生と死は深く結びついていたのであろう。人は死ぬ。しかしそれは再び生き返る。男性性器が再生のシンボルでもあったに違いない」。
 こうした記述を書き写すうち、土偶に女性が多いこと、妊娠をあらわす正中線や、性器の穴が見えること、そして土偶が壊された状態で出土されることが多いことなど、ふっと頭によぎった。たぶん、土偶にも、再生と死が深く関わっている。出産と埋葬。
 また「縄文展」では、数々の石棒、ストーンサークルや、ウッドサークルの木柱などの展示も見ていた。ごく簡単に。そのすぐ後に、たとえば石神井公園で石棒(石神)を見たことや、こうして本のなかで、それらに触れられていることで、関心が高くなったものたち…。もっとちゃんと見ておけばよかったと思った。けれども、気づかないよりはましなのかもしれない。これから、あの石の神たちを、感じるようにできますように。
 「縄文展」には、国宝になった縄文土器、土偶六点、すべてが集結するということも、見所の一つだった。ただし《仮面の女神》と《縄文のビーナス》は七月三一日─九月二日までの展示。そうだ、わたしはおそらく夏休みに入るし、六点すべてが集結したあとは、ずいぶんと混むだろうと、わざと二つの展示がないうちに出かけたのだった。ずいぶん前に出かけた「国宝 土偶展」(東京国立博物館、二〇〇九年十二月一五日〜二〇一〇年二月二一日)はかなり混んでいたという記憶もあったから。
 展示のない国宝たちには、出会ったことがあったから。二つとも長野県の茅野市尖石縄文考古館で、見たことがあったのだ。大切な展示として、異彩を放っていた。あの思い出があるから、連れてこられての展示は、別に見なくてもいいと思ったのだった。
 とはいえ、国宝二体、見られるものなら、見たいという気持ちもあった。ただ、「縄文展」は、会期初めということもあってか、思ったよりもすいていた。そのことが《縄文のビーナス》を見なかったことへの、すこしだけ、なぐさめのようなものになっていた。
 けれども展示もないのに、素焼きの《縄文のビーナス》の貯金箱、なぜか買って帰ってしまった。本物の雲母のキラキラとした感じもなく、均等な質感に、ちがう、まがいもんだと思ったのに。わたしは、どっしりとした、妊婦を表しているのであろう、あの体型、そしておだやかな表情が、ずっと心に残っているのだ。しかも貨幣交換という概念がなかった縄文(貨幣という記号ではなく、贈与的な意味合いが多い、不均衡な交換が行われていたらしい)の土偶に、お金を入れるなんて…。すこし後ろめたいような気もしたが、お金を入れることで、ほんのすこし、力をもらいたかったのかもしれない。今、少しづつ、お金を入れている。ちゃりん。

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 生と死が連続している。いや、おそらく、さまざまなものたちが連続しているのだ。花たちが、鳥たちが、このごろ、とみに愛おしい。
 バイト先から帰る途中に、よく橋を渡る。橋の向こうは国分寺崖線がつくる崖で、湧き水が流れていたり、不動の滝があったりする。
 橋の上で、カラスの死骸を見た。ああしたものは、このごろは、すぐに片付けられてしまうものだが、なぜか、そのままになっていた。車などで轢かれつづけてしまううち、死骸と認められなくなったのかもしれない。数日、姿がわかった。潰れ具合が増して、押し花みたいになって、最後は黒い影のようになっていった。
 同じ橋の上から、数日前、カルガモの子供たちが、群れをなして泳いでゆくのを見た。親よりも、すこし小さい、だいぶ成長している。
 『縄文の神秘』に、「柱と橋はこの世とあの世の通い路か」という見出しがあった。『丹後風土記』に、天橋立は、かつては柱としてあったが、神様が眠っているうちに倒れてしまって、橋になったという記述があるそうだ。「まさに柱こそは天と地の架け橋であり、そこを通って、かつては神々と人間たちは自由に行き来していたのである」。そして、死者と生者たちも。ここでは古典芸能の能の「橋懸り」についても触れられている。「楽屋と舞台がつながれているが、あの橋懸りこそ、この世とあの世をつなぐものに他ならない」。
 この夏は暑かった。セミの声もいつもより、少なかった。わたしが住んでいるマンションの渡り廊下に、力尽きて横たわる数々の虫たち、こがねむし、セミ、たまにカブトムシたちに出会うのだが、今年はそれも例年よりも少なかったような気がする。絶対数が少なかったのだろうか。
 昨日、すきなヒグラシが、横たわっているのを見た。ほかのセミに比べて小さい。カナカナという声もあまり聞けなかったなとぼんやりと思った。

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2018-08-15

ともる小さな旅─キツネノカミソリ、三溪園

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 金曜日の朝、バイトの帰りに小さな渓谷に寄った。まもなく橋や道の補修工事が始まるので、奥まではゆけなくなる。小さな渓谷と勝手に呼んでいるが、成城三丁目緑地という。湧き水が流れる、国分寺崖線に残った小さな緑。竹林もあり、クヌギやコナラも生えているから、カブトムシやクワガタもくる。もうあの花は時期を過ぎてしまったかしら。たしか七月だったような…。実は、その花を求めて、このところ、思い出したときに、数回、といった程度で、何回か訪れていた。あまり期待はしなかった。それよりも、もうまもなくこの小径をしばらくこれなくなるのだなと、そのことを気にかけて歩いていた。そしたら、林のなかで、二本だけだが、咲いているのを見つけた。ぽうっと火の色で、ともるような小さな花、キツネノカミソリ。ヒガンバナ科なので、花が咲く頃には葉がない。一説には細い葉が狐のつかうカミソリみたいだからこの名がついたらしい。ヒガンバナ科だけれど、ヒガンバナよりも花の色が薄いし、ヒガンバナの豪勢さが少ない。もっとひっそりと咲いているイメージがある。それは林のなかで咲いているからだろうか。ここでは二本だけだったが、昔、やはり林の中で見たときは群生だった。あれは高校生の夏休み。川の近くの小さな林の中で見つけた。川は当時、汚臭を放っていたし、林のすぐ裏は、工場だった。そんな場所で、林の中だけは、美しかったのが不思議だった。そのときから、ヒガンバナのような、華やかさがなかった。華やかだけれど、色のせいか、どこか魔を感じる、あの派手さが。けれども、狐という名前がつくからか、どこかやはり、小さな魔を感じる、優しさがあった。そう、わたしはこの花が好きなのだ。ということを、夏になると思い出す。
 そんな花に、ことしも出会えた。よかった。記憶と違って、8月に咲く花だったのか。ここには、崖の上にだけれど、ヒガンバナの咲く場所もある。あと一ヶ月半ぐらいかしら。



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 次の日の土曜。珍しく、というか勤務時間調整のため早朝バイトを休んだ。あまりなじみがないが、山の日という祝日だ。もともと祝日や日曜が関係の無いバイトなので、休みの感覚がよくわからない。定休として日曜日休んでいるので、日曜だけは実感があるのだけれど。それでも子供の頃や、会社勤めの時に、あった祝日なら、まだ親しみというか、それなりに思い入れがあるのだろうが、山の日はちがう。どこか他人事だ。
 その他人事の休みの日に、朝から三溪園に行った。
 連れ合いが、まだ行ったことがないというので、車で。わたしは何回か行ったことがある。横浜からバスだった。好きな場所だった。
 三溪園は、生糸・製糸で財をなした実業家の原三溪(1868─1939年、本名・富太郎)の作った日本庭園。明治39(1906)年に外苑(後に公開される私苑は三溪の私庭)が公開、平成19(2007)年に国の名勝に指定されている。現在は京都、鎌倉、奈良などから集められた歴史的建造物と池や林など、四季折々変化が味わえる広い面積の庭園となっている。また芸術家の育成や支援も行い、自らも美術・文学・茶の湯などをたしなんでいて、それらの痕跡が園内の三溪記念館で見ることができる。
 わたしが最後に行ったのはいつだったかしら。もう十年以上前だろう。時間の感覚がわからない。十五年ぐらいになるのかしら。最初に出かけたのは、まだ二十代の頃だ。池と古い建物たち、山を登る、小さな滝と、建物たち、そのたたずまいのもたらす壮大な凝縮に惹かれたものだった。十七万五千平米という広大さだが、ゆっくり歩いても二時間強で回れる。けれども日本庭園の魔術なのか、室町時代や江戸時代の建物たちのせいなのか、もっと広く、深い場所を歩いている、時間や距離では測れない空間として、わたしを魅了したものだった。
 たしか最初にいったときは三溪記念館にはあまり興味を示さなかったと思う。記念館の中に入れなかったかもしれない。次にいったときはどうだったかしら。
 記憶がごちゃまぜになっている。二回目以降に確かに入った。原三溪の書画のほかに、彼にゆかりの画家たち、横山大観、下村観山、小茂田青樹の作品があった。そしてわたしの好きな速水御舟の作品。入ったことは入ったのだが、速水御舟の絵をここで見たかどうか定かではない。絵自体は見た記憶があるので、たとえば他の「速水御舟展」の類いで見たのかも知れない。原三溪は速水御舟の援助もしており、結婚の際の仲人も務めたとか。援助の話は知っていたが、仲人までは知らなかった。今、これを書くので調べて初めてしったことだ。やはり、記念館で見たのではなかったかもしれない。けれども、記憶のなかで、遠さのなかで、速水御舟の絵が、三渓記念館のなかで、ひっそりと精彩を放ってそこにあった。正しくない記憶なのかもしれないが、ぼんやりとした遠さのなかで、曖昧になっているのは、彼の筆致にも重なるようで、少し心地よい。それに三溪記念館からは、小さな池も見える。ひさしに池の水がきらきらと輝きながら、波紋を映している。静かな場所だ。こんなところで、見ることができたら、それにふさわしいと思った。
 実は今回は、もちろん入ったのだが、速水御舟の作品を見ることができなかった。原三溪の作品を、第一展示室で見る。やさしい筆致だと思った。実業家としての活躍からすると、すこし意外だった。やさしい、温かな筆遣いだと思った。花の下で白いウサギが座っている《白兎》(1934年)、絵はがきを入口のミュージアムショップで一枚購入した。

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 すこし先走りすぎてしまった。三溪園の入口に戻ろう。ここでは季節ごと、さまざまな行事がおこなわれている。最近までは、朝顔展、そして早朝観蓮会。どちらも終わってしまったが、まだ蓮は咲いていた。原三溪は、蓮の花を愛好していたそうだ。そういえば記念館の中でも、彼が描いた蓮の花の絵があった。泥から咲かせる花…。正門近くで、ガイドの方だろうか、入口すぐ、大池と北側の蓮池の間に道があるのだが、そこからではなく、さらに北、蓮池に沿った小さな小径からゆくと、蓮ごしに旧燈明寺の三重塔(三溪園のシンボルだとも言っていた)が見ることができますよと教えてくれた。
 今年は、例年、出かけている行田の古代蓮を見に行くことができなかったので、これはうれしかった。こちらももう観蓮会は終わっていたので、まだ花が見られるなんて、期待していなかったのだ。
 なるほど、咲いている花は少ないようだったが、見ることができてよかった。ここの蓮は、行田の蓮よりも丈が高い気がした。花たちを見上げる感じ。その見上げたさらに上、奥に、三重塔。そういえば三重塔をみると、なぜか、いいようのない、気持ちになる。景色が、古色を帯びて見える、そのことに感じ入るというか、それらがあたりと一体になって、景となっているさまに見入ってしまうというか。だから、大池からの三重塔も楽しみにしていたのだが、こんな見方ができて、幸せだと思った。泥から出て、空高くで、咲く花たち。

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 そのあとで鶴翔閣(元々原三溪が住まいとして建てた建物)を経て、三溪記念館に行ったのだった。
 内苑の奥に入ってゆく。山登りでもしているようで、流れる水、小さな滝、木々が心地よい。移築された建物たちが、なじんで見える。セミの抜け殻をあちこちで見かけた。暑い一日だ。セミもよく鳴いている。水たちが目にしみるようだ。こんなにも水を欲していたのだろうか。あちこちにトカゲ。きらきらとしている。

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 山のような道を散策しながら、知らずうちに外苑に入ったらしい。三重塔へ。この奥に展望台があったはずだが、今は閉鎖されている。あの展望台から海が見えたはずなのだが。といっても埋め立てされたあとの海だし、高速道路やコンビナート的なものが見えるばかりで、すこしかなしい気がしたのだけれど。
 三溪園創建当時は本牧海岸に面していて、もっと海が近かったのだとか。かつてみた展望台からの風景を思い起こしてみる。そのときに、いつも思ったのだ。ああ、おそらく、このあたりまで、海だったのだろうと。
 わたしは不親切な案内人だ。三溪園には貴重な建物たちがたくさんあるのに、それを紹介しないで勝手に歩いている。
 たしか、この旅(散策なのに)の最後のほうに、古民家があったなあと思い出す。旧矢箆原家住宅。白川郷にあった合掌造りの大きな民家。囲炉裏で火がくべられていた。こうすることで屋根などを乾燥させ、耐久性が高められる。だが、そうした必然だけではなく、囲炉裏の火を見ると、どこか人心地がするのは、なぜだろうか。古い、遠い記憶なのだろうか。大切な火。郷愁というよりも、もっと奥にこもった、連綿とつながる古い記憶から、輝くものたち。
 そして、このように火を使っているのに、部屋の中がそれほど熱くないのが、心地よい驚きだった。囲炉裏の周りは、もちろんそれなりに熱を帯びているが、次の間にゆくと、もう風が通って、暑さ、熱さが和らぐ。ほかの古民家でも感じたことだが、どうしてこんなに暑さが薄れるのだろう? このぬるいような、ひんやりとした感触は気持ちがよい。これなら…文明に毒されている言い方だが、扇風機だけでも、夏を乗り切れるかもしれない。そう感じた。開け放されたあちこちから、風が吹き抜けている。

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 とはいえ、山歩き的なこともしたし、身体がずいぶんと熱くなっていた。茶屋があったので、そこでかき氷を頂く。今年初めてのかき氷。鼻の奥まで、冷たさが抜ける。身体がだいぶ冷えたらしい。それからの道のりが、涼しかった。周りの温度は変わらないのだろうけれど、まるで全体的に涼しくなったみたいだ。
 だが、もうそろそろ散策も、旅も、終わりに近づいている。行きにちょっと目にした大池のあたりを巡る。わたしは実は、この大池が好きだった。三重塔も見える。舟も浮かんでいる。亀がいて、鯉がいて。今の季節だとミズカンナが咲き、ほとりにはサルスベリ。カルガモが泳いだり、ほとりで休んでいたりする。池に陽光があたって、きらきら。これらを眺めるのが、好き…というか、欲してさえいたのだった。シオカラトンボが去って行った。あの小舟はいつもあそこにあるなあ、もはやこぎ出さないのかしら。カルガモが舳先で毛繕いしている。

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 こんなふうに、小さな旅が終わった。またここに来れて、彼らと出会えてよかった。わたしのなかでも、なにかたちがきっと重なったのだろう。旅の奥で、熾火のようにともるものがある。キツネノカミソリ、ノウゼンカズラ。わたしが住んでいるマンションの敷地ではサルスベリが赤々と満開だ。
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2018-08-05

まざりあって、ほぐせないまま、名前をよぶ─サギソウ、ひまわり、朝顔

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 ここ数日のあいだで、やっとセミの声を聞いたような気がする。あるいは見かけるようになった気がする。抜け殻を見つけることもできた。化石のようにキラキラしている。
 夏になると、わたしが住んでいるマンションの通路に、よく虫が落ちているのを見かける。こんなことでしか、あえない虫たち。こんなことで、存在をしる。ということを、横たわったままの彼らを見て、前の夏もそうだったなと、思い出す。
 この夏は特に暑い。

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 バイトの途中、あるお寺の前を通ったら、サギソウが咲いていますとの貼り紙がしてあったので、のぞいてみた。白いテーブルクロスのかかった長細い机の上に、サギソウの鉢植えが並んでいる。ほぼ満開。
 シラサギが飛んでいるような姿の蘭科の植物たち。はじめてみたのは、小学生の時だった。どうしてこんな姿のものが存在するのか、そのことに驚いたような気がする。茎や葉が細いこともあり、はかなさが漂っている。羽をつけて、静かに飛ぶように咲いている。つまり、美しいということを言いたいのだけれど、それではわたしが感じた違和に似た驚きを語ることはできない。
 繊細さとか、そういったものを、子供心に感じていた。
 最初に知ったのは、おそらく、通信販売の冊子の中でだったろう。写真ですら、もはやその存在を浮きだたせて見せていた。こんなにすごい花があるんだろうか。

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 記憶がすこし違っているかもしれない。たしかわたしがねだって父に買ってもらった気がする。それは、わたしではなく、父が育てるということを前提にしての、勝手な願いだったのだが。けれども、もしかすると、父が自ら、望んで購入したものだったのかもしれない。どちらだったか。
 植物が好きだった父は、家でたくさんの植物を育てていた。特に山野草。その冊子からも、取り寄せていたけれど、道や林に生えているものたちも採ってきていた。その散策の時、あるいは植物探しのとき、父と自転車で一緒に出かけた。ついていったのか、それとも二人で遊んでいるつもりだったのか。父もまた、子守をしているつもりだったのか。それらすべてだった気がする。
 サギソウはそのなかにはもちろんいない。けれども、蘭科の植物なら、春蘭、銀蘭、金蘭…ああだめだ、なぜかカタカナのほうが合っている。シュンラン、ギンラン、キンラン…。これらはみんな林の中から連れて帰ってきたものだ。黄色いキンランに出会ったのは珍しい。ギンランばかりが咲いていたっけ。シュンランは春まだ早い頃。キンラン、ギンランはもうすこし経って、けれどもやはり春のうち。今すこし調べたら、この二つの蘭は、今は絶滅危惧粁爐吠類されているものだとか。多分サギソウも以前は湿った、あちこちで見られたものだったのだろう。あれはわたしが子供の頃ですら、栽培されていたものしか見なかったけれど、もっと以前は、湿ったところで、小さなサギたちが、羽を広げていたのだろう。
 またすこし調べたらサギソウのほうは準絶滅危惧種(NT)に分類されていた。データでみると、ギンラン、キンランのほうが個体数の減少がさらに深刻だということになる。
 ところで、わたしは洋蘭のほうはあまり好きではない。華やかすぎるし、花弁が大きすぎるのだ。せいぜいトキソウぐらいの小ささがいい。あれもサギソウみたいに鳥の名前がついているが、わたしのイメージでは、カトレアを山草にした感じ。華やかだけれど、どこか優しい。こちらは羽を広げたというより、花の色が朱鷺の翼の色に似ていることから、その名前がついたらしい。ちなみにこのトキソウも、自然に生えていたものは知らない。サギソウと同じく、通信販売の冊子で知ったものだ。
 ああ、これを書いている部屋の窓から、セミの声が聞こえる。あれはアブラゼミ。
 わたしが植物が好き、というよりも花の名前を多く知っているのは、まぎれもなく父の影響なのだが、父が育てていたからか、野山に父と遊びにいったからか、どちらであったか。たぶん両方だ。家にある植物、野山にある植物の名前を知るのが楽しかった。独りでも植物図鑑で花の名前たちを確認した。名前を知るのがうれしかった。今もおそらく新しく名前を覚えることもあるのだろうけれど、基本的にはあの頃憶えたものばかりが、名前としては、大半を占める。大人になって、ここ何年かで憶えたのは、ノハカタカラクサ、ヤブカラシ、ヤブミョウガぐらいだ。後者二つは、子供の頃から見てはいたが、名前を知らなかったもの、ノハカタカラクサは、野の墓の宝の草だと思っていたから(実は野博多唐草)…、どれも名前によって、言葉によって、背景が立ち上ってくるから。
 子供の頃に、名前を覚えておいて、よかったと思う。季節ごとに、植物たちと出会う。彼らを名前で呼ぶことができる。花たちを見かけると、心のどこかがじんとする。また季節がめぐって、彼らに会えたことに対する喜びがほとんどだと思う。この頃はとくに。そして、そこに父がよみがえってくることもすこし。
 ああ、そうだ、サギソウだ。そのお寺のサギソウは、満開だった。サギソウはたしか、栽培するのが難しい花だったはず。それをあそこまで咲かせることができるなんて。そんな驚きと、やはりあいかわらず、違和をもたらす、信じられなさの満開だなあと思ったこと、通信販売で購入した、水苔でくるまれた苗から、父も花を咲かせていたなあとか。
 わたしは目の前にあるサギソウと向き合いながら、自身の記憶などを、総動員させていた。咲いているサギソウたちには関係がないことだろう。けれども、そのサギソウに見入りながら、こんなふうに対峙している、そんなふうにしか、接することができないのでは、ともぼんやりと思った。
 サギソウを見て数日後。今度は家の近くに、ちょうど見頃だというので、ひまわり畑を見に行った。幸せなことだ。あるいは、うちのベランダで育てている朝顔。水やりのたびに、行灯から野放図に、自由に伸びようとする蔓を、行灯にそわせるのが、いつも楽しい。きかんぼうをあやすようだ。このとき、邪道というかずぼらなのかもしれないが、去年の朝顔の蔓がそのままになっているのに、新しい蔓をくぐらせ、一役買ってもらっているのも感慨深い。先日立ち読みした(失礼)園芸の本によると、朝顔は種を作るのに養分をとられるから、咲いた花は、茎ごと摘んだほうが、次の花が咲くようになるのだとか。けれども、来年もまたこの種を採取して、行灯作りにしたいから、花がらだけ摘んで、そのままにしておく。ひまわりも朝顔も、本来は、小学生の時に授業で育てたもの…というなれそめだったかもしれないが、今はこうして関係を持っている。

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 ひまわりは、満開をほんのすこし過ぎたぐらいだった。台風の影響で、だいぶ茎が倒れてしまっているのが、痛ましかったが、それでも、大きな太陽のような花を広げているのは、心がはずんだ。暑さを一身に引き受けたような、真っ黄色がやさしかった。アブたちが蜜をもとめてやってきている。
 父が亡くなってもうずいぶん経つ。写真がないので夢の中でか、自分の顔(わたしは父によく似ているらしい)にしか、父を見ることができないのだが、わたしの顔はこの頃、どうも父とはすこし離れてきてしまっているような気がする。いいとか悪いとかではなく、わたしの顔は、わたしの生き様をその顔に残してきているから、父の印象がすこしずつ薄れてきてしまっているようなのだ。
 父の写真が残ってないのはわかっているのだけれど、それでももしかして…と思って、先日、禁断の玉手箱(これについては、いつか、機会があったら、また書くかもしれない)を開けてしまったのだが、やはり入っていなかった。夢で出てくる父も、夢の中のわたしだけが、彼の顔を知っているようで、夢から覚めたわたしには、ぼんやりとした顔をしか伝えてくることがなかった。
 ところで、わたしは近眼なのだけれど、それを利用して、ある時、ちょっとだけ離れた場所の鏡の自分を、父に見立ててみようと思いついた。ぼんやりとしか顔がわからない、とくに横向きになった顔、鼻をもっと高くして、おでこを出して…、顔ももうすこし長細く…。ほんのすこしだけ父が感じられたが、それは夢の中で出会った父を覚めたわたしが思い出すのに似ていた。
 それよりも、こんなふうに植物たちと出会っているときのほうが、父を感じられるのではないのか。いや、植物たちとの出会いは、彼らとの出会いだ。父が影のように感じられるが。あるいは、わたしという存在が父の思い出なのかもしれない。ひまわりがローレン・バコールの映画のように咲いている。アサガオが蔓をのばしている。サギソウたちに感じた、うつくしい違和。
 ここにも父がすこしだけいる。鏡にうつる顔のように、覚めたわたしが思いやるように。
 今年の夏は暑い。アサガオは特に水をほしがるから、この時期は朝晩、二回水やりをしている。明日も蔓を伸ばしているかしら。いやいやをするように、行灯から離れて。この子たちは、去年入谷の朝顔市で、購入したもの。こんなふうに思い出が増えてゆく。かれらはきっと、仲良しだ。
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